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メンデルと飛行機雲

 足元の更に底では、今頃松ちゃんがメンデルの遺伝の3法則なんかを説明している筈だ。「優性の法則」と「分離の法則」と、あと1つは……何だっけ?


 それにしても、僕らの欠課は疾うにバレているだろう。でもまさか、2人して屋上にいるとは、誰も想像できまい。そう思うと、小気味良く感じてニヤけそうになる。


「あたし、転校するんだ」


 呑気な沈黙を破ったのは、櫻井だった。


「え? あ、だから『最後』って」


「そ。今日が最終日。本当は家で引っ越しの準備しなきゃなんないんだけど、我が儘言って登校納めさせて貰ったの」


 思わずガン見した。そんな不躾な視線を、彼女は涼しい顔で受け流し、正面を眺めたまま答えた。世間話か、他人事のように。


「登校納めって……休めるのに、わざわざ学校来たかった訳?」


「うん。中学時代、猛勉強して、やっと入った高校だから」


 凛とした横顔に、怯む自分がいる。確かに僕もキツい受験勉強を経て、ここにいる。でもそれは、ここが良かった訳でも、ここしかなかった訳でもない。


「……櫻井、勉強好きなのか?」


「好きだよ。あんたは、榎元?」


 てらいなく即答する彼女が眩しい。そして、探るように横から覗き込む眼差しが――後ろめたい。


「あんま好きじゃない。でも仕方ないから、赤点(あか)貰わない程度にやるけど」


「仕方ないんだ?」


 頼むから、真っ直ぐに見ないで欲しい。薄汚れた馬脚が飛び出すから。


「だって、進学して、就職して、稼いで、生きていかなきゃなんないだろ」


 追及の視線を避けるように、宙に浮いた爪先を見た。打算的な進学理由。それでも僕には、大義名分だ。


「そっか。でもそれ、つまんないね」


 否定されていないのに、胸が詰まる。『つまんない』――投げ遣りな僕の生き方を見抜かれた気分だ。


「じゃ、櫻井は? 好きな勉強して、何になりたいんだよ?」


 話の矛先を変えたかったというのもあるけれど、純粋に知りたかった。

 志望校含めた進路選択まで、もう2ヶ月もない。将来の姿(ビジョン)を決めている者にも、朧気ながら掴み掛けている者にも、まだ五里霧中の僕みたいな者にも、高2の夏が来る。


「まだ分かんない。でも、知識が増えると、世界が広がるよ。選択肢が増えるじゃない」


 どこかでホッとしている自分がいた。学年を独走している彼女のことだ。てっきり進路も、その先の職業までも固まっていると思っていたから。


「うちの親、離婚するの。あたし、ママの実家に行くんだけど……とんでもなく辺鄙な田舎なんだよね」


 言葉を探していると、再び櫻井が沈黙を潰した。

 サバサバと語るけど、それには反って虚勢の匂いがした。


「転校先の高校って、地元就職が90%みたいな所らしくて……参っちゃう」


 自嘲気味の苦笑い。そんな顔、彼女に似合わないと思った。


 どうしようもなく憤りが込み上げた。

 勉強が好きだと、選択肢が増えるからと――彼女は、こんなに前向きなのに。これまでの努力が無駄になりそうな環境に、いきなり放り込まれるなんて。それも、親の勝手な都合で。


「何だよ、それ。お前、勿体ないだろ」


「……ありがとう」


 声を張り上げた僕を驚いたように見ていたが、櫻井は(まなじり)を下げた。微かに頬を染めて。


屋上(ここ)、いいね。もっと早く来れば良かったなあ」


 ぎこちない笑顔を誤魔化すように、彼女はフウッと背中を反らした。髪がサラリと後ろに流れる。


「あ、飛行機雲」


 釣られて瞳を向けると、正面のポプラの梢から、一筋、白い道が伸びてきた。先導する機体は見えないけれど、太く確かな飛行機雲が、大空を分けていく。

 互いに無言のまま、顔を上げ首を伸ばして、給水塔の向こうに引かれていく(ライン)を追いかけた。


 暫く止まっていた飛行機雲は――やがて、ゆっくりと滲み出すと、薄く溶けて、元の空に同化した。

 僕らの上には、変わらずに水色の空間が広がっている。


「決めた。あたし、留学する」


「――え」


 櫻井は、飛行機雲の消えた上空に瞳を向けたまま、唐突に宣言した。


「もっと広い場所を見てみたくなっちゃった」


 コンクリートの僅かな隙間から伸びた若木のように、彼女のしなやかで強靭な精神(こころ)は、どんな環境に置かれても、多分折れることなどないのだろう。


「ね、あんたは? 榎元?」


「僕?」


「まだこれからじゃない。選択肢、広げないの?」


 踏ん切りを着けた後の櫻井は、清々しい眼差しで僕を捉えている。


 胸の奥から暗い色をした雲が沸き立つのを感じた。僕の底に押さえつけてきた汚れた澱を、無性に吐き出してしまいたい衝動に駆られる。


「櫻井、僕が昼休みに教室にいないって言ったろ」


 表情を見られたくなくて、僕は俯いた。


「昼休みは、貴重な睡眠時間なんだよ。夜、居酒屋でバイトしてるから」


 隣で小さく息を飲む気配がした。

 うちの高校はバイト禁止じゃない。けれど、それはコンビニや新聞配達なんかに限られていて、夜7時以降のバイトは禁止だ。ましてや、アルコールを提供する店でのバイトなんて、もしバレれば一発停学だ。


「うち、母子家庭なんだ。母さん、毎日残業でさ。生きてくのは辛い、厳しい、って口癖みたいに言ってんだ」


 誰にも――中学時代のクラスメートにさえ、(うち)の事情は口にしたことがない。母子家庭を何とも思わないが、家計の貧しさは、恥ずかしいと思う。それでも、苦労を見ているから、母さんを責めるつもりはない。


「来年は弟も高校進学だし、それまでは仕方ないんだよな」


 居酒屋のバイトを選んだのは僕自身だから、泣き言は言わない。けれど、ゴミ捨てに出た店の裏口で、酔ったオヤジに抱きつかれたり、身体を触られたことは一度や二度じゃない。

 生きていくのは、確かに厳しくて辛い。いつからか、僕は「仕方ない」が口癖になっていた。


「大学行って、もっと稼げるバイトして、とにかく就職する。それくらいしか考えられない」


「……ごめん。あたし、無神経なこと言って」


 櫻井は謝罪したが、同情は口にしなかった。だからだろうか――胸一杯に膨れた憤りが醜い八つ当たりに変わることなく、スウッと萎んでいくのを感じた。


「いいよ。確かに、つまんない生き方なんだ」


「だけどね、榎元。まだ、何が起こるか分からないよ?」


 投げ遣りな返事に被せるように、櫻井は少し早口で反論してきた。


「ホントのこと言うと、あたしね、今日ここに来るまで、自暴自棄になってたんだ。ママへの当て付けに、飛び降りちゃおうかなんて考えてた」


「まさか」


 妙に明るい声で、あっさりと物騒なことを言うものだから、つい顔を彼女に向けてしまった。


「本当だよ」


 櫻井は真顔だった。

 両親の離婚と転校――僕が想像した、その何倍も何十倍も、彼女は傷つき絶望していたのだろうか。多分。だって、彼女は入学以来学年一位なんだ。いくら楽しくたって、たゆまぬ努力を積み重ねてきた筈だ。


「青空に飛行機雲が現れたり、いつもは接点のないあんたと話したり、教科書に載ってない思いがけないことって、まだまだあるんだよねぇ」


 自ら神妙に頷いてみせると、次の瞬間、彼女は瑞々しく笑顔を迸らせた。


「榎元。一生懸命生きることと、つまんない生き方をするのは、きっと別だよ」


 そうか――メンデルの遺伝の法則――3つ目は、「独立の法則」だ。

 エンドウ豆の実の色と表皮のシワのように、複数の遺伝的な特徴は、連動せずそれぞれ独立に遺伝し発現するのだ。


「……あ……はは、そうか――独立の法則なんだ……」


 眼から鱗状態の僕は、不意に込み上げてきた笑いを抑えられなかった。


「は? 独立の法則って、メンデルの? あれ、遺伝の話じゃない。何言ってるの」


 彼女の眉間が怪訝に曇る。それでも、僕の笑いは止まらない。


「はは……そうなんだ……何言ってんだろうな……あはは」


 とにかく生きていく。それは、生きていけさえすれば良くて、どうせつまらない日々を耐えていかなきゃならないのだと、勝手に思い込んでいた。もしかすると、いつも疲れた顔をしている母さんを見て、自然と自分自身で刷り込んできた自縛だったのかもしれない。

 鎖なんて、最初からなかったに違いないのに。


「櫻井、ありがとう」


 馬鹿笑いが収まると、呆れたように僕を眺めていた彼女は、更に呆気に取られた顔付きになった。


「やっぱ、あんたって変人」


「あー、否定できない」


 ちょっと間が空いて、どちらともなくクスクスと忍び笑いが漏れだした。そして、本格的にもう一度、今度は2人して笑った。目尻から涙を流しながら。


 5時限目の終鈴が重なって、空へ消えた。



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