第76話 領主館での最後の夜
「それじゃこれで。王都に来たらモンド商会だよ?」
「わかったってば。それもう何回も聞いたから」
私とブリーチさんはベオファウムに入ってすぐの広場でそんなやりとりをしている。
でもこれ今朝目が覚めてからもう十回はしている。
いい加減忘れたくとも忘れられなくなった。
そして何度も振り返りながら「モンド商会だからね!」「モンド商会だよ!」と言い続けるので私も呆れて背を向けると急いで領主館に向かった。
「随分ギリギリだったな」
「ちゃんと出発までには戻ってきましたし、普通なら村で一泊してもこの日程ですよ」
「無論知っている」
相変わらず机の向こうから意地の悪い笑顔で私に話し掛けてくる領主様。
この人のこの態度は嫌いじゃないけど、たまに本気でイラっとする。
「それでリードの準備は大丈夫なんですか?」
「あぁ、明日の出発までもう何もすることはないはずだ。せいぜい緊張していたらそれをほぐしてやるくらいなものだろう」
あのリードが緊張?
…する、ね。
間違いなく。
あれでなかなか繊細だったりするんだよねぇ。剣さえ振れればいいみたいなところがあるくせに、私を婚約者にするのを諦めていないところなんかはなかなか諦めの悪いところもある。
「一応私は彼の家庭教師兼護衛兼従者なので様子を見てきます」
「あぁ。それとセシルも明日出発なのだから準備をしておくように」
「私の準備はいつでも出来てますから」
腰ベルトの中にほぼ全ての荷物が入ってる私にとって準備なんてあってないようなものだ。
私は領主様の執務室を出るとそのままリードの私室へ向かった。リードの部屋は執務室から出てすぐにあり、私の気配察知は彼が部屋にいることを感じ取っている。
コンコンコン ガチャッ
ノックをして返事がする前にドアを開けた。
その様子に椅子に座って外を眺めていたリードが驚いた顔を向けてきたが私は気にせずそのまま部屋の中にズカズカと入り込んだ。
「ただいまリード。明日はいよいよ出発だね」
「…セシル…部屋に入るときはノックして返事を聞いてから開けるものだぞ」
「柄にもなく緊張してるみたいだからびっくりさせてあげようと思ってね」
「なっ…?!…いや、そうなのだろうな。僕は家族から離れて暮らすなどしたことがない。セシルと冒険者として野宿をしながら魔物の討伐をしたときは平気だったのだがな」
自嘲気味な笑みを浮かべる彼は思ったよりも重症のようだ。
まだ家を出てもいないのにホームシックになっているようなものだろうか。なかなか可愛いところもある…けど、よく考えたらリードだってまだ十歳の子どもなんだし無理もない。
少しすっきり…もとい甘えさせてあげるとしよう。
「リード」
「なん…っ?!」
椅子に座ったままこちらを見ていなかったリードを正面から優しく抱き締めた。
別に彼が愛しかったわけじゃない。
私が寂しかったわけでもない。
そこにあるのはただの打算で貴族院に入っても頑張ってほしいという私の勝手な思いから。
しいて言うなら、そのアンニュイで不安に揺れる瞳がオパールのようにキラキラして見えたから。本物のオパールならすぐにでも取り出して私のものにするのに、それは彼が持っているからとても綺麗に見える。
宝石みたいに綺麗なのに、私が手にすることでその煌めきが失われてしまうのは残念で仕方ない。
「大丈夫だよ。貴族院に行っても私がいる。冒険者をしているときと同じ。必ず私がいる」
「セ、シル…?」
これ以上は彼の心臓も頭もおかしくなってしまいそうなので、私はそっとリードの体を離れた。
離れる瞬間、名残惜しそうにリードの喉から「あ」という声とも息とも取れないようなものが漏れたけど、今はまだ私を好きにできる力のないリードは私になされるがままだった。
「さ、それじゃ明日には出発なんだし、領主館にいる使用人のみんなに声掛けてこよ?」
「…あぁ、そうだな、そうしようか」
不器用に微笑むとリードは立ち上がり、開け放っていた窓を閉じた。
そのまま翻って入り口のドアへ進むと私の方へと振り返る。
「ありがとうセシル。これからもよろしく頼む」
「どういたしまして。じゃあまずはナージュさんのとこから行こうか」
私はリードと一緒に部屋を出ると領主館のみんな一人一人へ挨拶へ向かうのだった。
ちなみに最後に挨拶に行ったのが領主様で私は扉の外で待たされていた。
「せめて在学中にセシルの気を引くくらいのことはしてみせてくれるのだろうな」
「セシルの気を引くのは仮に第一夫人の座を設けても難しいと思います。一体何になら興味を引いてくれるのか…」
「それを探るのもお前のやることの一つだろう。5年あると思わないことだ。セシルの価値に気付いた他の貴族や王族にも目を付けられる可能性があるのだからな」
「わかっています。それに僕は父様のようにただセシルの能力が欲しいためだけに手に入れたいわけじゃない」
「あーあー…そういうあまーい話は当人同士でだけでやってくれ。それとくれぐれもセシル本人には気取られることのないようにな」
「はい、心得ています。では明日は早朝より出発になりますのでこれで」
「あぁ、そうだ。もう一つ。その話とは別に貴族院の生活も楽しんでこい。以上だ」
それだけ話すとリードも執務室を出るために踵を返してドアへ向かい、私がいる廊下へ出ようとしていた。
中の会話は本来なら聞こえないはずなんだけど知覚限界を使っていたので丸々聞こえてしまった。ちゃんと話せるかなぁ?と気にしてスキルを使ってみればこんなことを話していたわけだ。
二人とも貴族なんだしいろいろ悪だくみの一つや二つあってもおかしくはない。おかしくはないけど、内容が私のことだけにあまりいい気持ちのするものじゃない。
出てきたリードは「待たせたな」と軽く言って私を伴い外へ向かった。
歩いてる間も私はさっきの会話のことを考えていた。
興味を引くことの一つは間違いなく宝石類なんだけど、個人で所有できる程度の物にあまり関心はない。いやないわけではないけどそれで私の行動を縛る理由にはならない。それなら自分でいろいろ探しに行った方が面白そうだしね。
じゃあ人かというと、そうでもない。
リードは確かに生徒だし友だちだ。この領内には両親もディックもいる。ユーニャやキャリー達、この屋敷にもファムさんがいるし、ギルドの人達だって大切だ。
彼等を守るために戦えと言われればその通りにするけど、多分領主様が言っていたのはそういうことでもないだろう。
多分私個人としての全てを手に入れておきたい、とかそういうことかな?
ちょっと面倒なことになってきたかもしれないなぁ…。
外に出た私達は訓練場で木剣を構えて向かい合っている。
いや、いた。既に立っているのは私だけでリードは剣を杖に膝をついている。その周りには同じ様な格好の騎士たちもいて、まるで戦の女神が崇拝されているような絵に見えなくもない。
私は崇拝なんてされたくないけどさ。
ただ考え事をしていたら何となく手加減の程度を誤ってしまっていたようだ。全員ほぼ立てないくらいにボロボロになっている。
あちゃぁ…ちょっとやりすぎちゃった。でも考え事してて手加減忘れたとも言えないし、ここはごり押しで通してしまおうか。
「リード、まだまだ私に一撃も入れられないね。それじゃ私を婚約者になんて夢のまた夢だよ」
「はぁはぁ…くそ…。まだだ…まだ諦めたわけじゃない。僕はいつか必ず…」
「ふふ、じゃあそれを楽しみにしてるね。明日は朝早いから今日はここまでにしよう」
なんとかリードを煽って、手加減の程度を誤ったことを有耶無耶にできた私は木剣をいつもの樽に挿すと自室へ戻ることにした。後ろからリードが騎士達に向かって檄を飛ばしていたが私はそのまま振り返ることなく歩き続けた。
「はぁ…もう明日なのですね」
「ファムさん、私もリードと一緒に長い休みには戻ってくるから」
我慢できるとは言っていてもやっぱり私と一緒に入るお風呂の快適さを知ったファムさんにとっては残念なことこの上ないとのこと。
「今日でしばらく入り納めなんだし一緒に入ろ?」
「もちろんです!しっかり堪能しておきますから!」
そんなに力強く言わなくてもいいと思うんだけど…。
力説するファムさんにちょっと引きながら私も着替えを用意した。ちなみに未だに胸の下着は着けてない。全く膨らんでくる気配がない。触ると少し痛みがあるのでもう少しだと思うんだけどなぁ。
「セシル様はまたそんなに胸を気にされて…。まだまだそのままで良いと思うのですが」
「むー…それはね、胸の大きい人の言い分だよっ。私は大きくなりたいんだよーーーー」
八つ当たりでもなく心無い言葉を発したファムさんに襲いかかって胸を一頻り揉むと私達は二人で浴場へ向かった。
私もファムさんにはここに来てからとてもお世話になったのでいつもよりもサービスしてしまった。
浴場を綺麗にして、お湯も熱めに、体はもちろん私が洗ってあげる。無論さっき散々揉んだ胸を再び徹底的に揉んで洗って綺麗にすることは言うまでもない。
「ちょ、セ、セシル様?やっ…ん、そんな…優しくされたら…ぁぁっ…」
と、少ししたら艶っぽい声がかなり出ていたけど聞こえない振りをしておいた。
シャンプーする直前に何やら体が痙攣していたような気もするけど彼女の名誉のためにそのことには触れないでおこう。
シャンプーしている間のファムさんは恍惚としていて、コンディショナーをして頭をパックしたときには他の人にはお見せできないアヘ顔になっていたなんて口が裂けても言えない。
「うふ…ふふ…私幸せですぅ…」
聞かなかったことにしよう…。
お風呂から出た私達は最後だからと一緒のベッドで眠ることにした。優しいファムさんの胸に抱かれて窒息しそうになったけど穏やかな気持ちで領主館での最後の夜を終えることができたのだった。
今日もありがとうございました。




