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 いきる

作者: 藤村綾

 うっすらと寒さが増すころに伴って右の乳首の先端に違和感を抱えていた。

 違和感はいつしか痛みに変化を遂げはじめていて、あ、いよいよ病院にかも。と、わりと冷静に考えるようになった。

 乳腺炎かもしれないし、ホルモンバランスの崩れかもしれないし、はたまた最悪の事態ならば『乳がん』かもしれない。

『乳がん』は触診で大体わかるとてもわかりやすいガン。魔の臓器である膵臓などに比べたら完治するのも容易なものらしい。そのわりには存外お亡くなりになる有名人もいるし、だから決して容易なんかではない。本当は。

 うーん。確かに乳首を中心にしこりがあるような気がしてならないし、気のせいか右の乳だけ重たいような気がする。

 そのこと彼に告げると

「え、病院にいかないと」

 すでに決まっているみたいな台詞を口にし

「無理しないでね」

 そう付け足して、髪の毛を撫ぜた。ううん、平気だよ。あたしはチクっとする痛みを抑えつつ笑顔でこたえる。

 彼は普段でも優しいのでこうゆうことをいわれてもあまり感慨がない上嘘くさく聞こえてしまう。

 優しいだけじゃいけない。強い男になれ。と、ゆうのをなにかの本で見たことがある。けれど、と、思う。

 優しさも強さの一部なのではないのか。と。

 ガンだったらどうしょう。と、顔が青冷めてしまうことなどはない。来るべきときが来た、そうゆう運命だったときっと腹を括る。

 あたしは昔から『死』と『生』はいつも隣り合わせだと思い生きてきた節がある。

 三十代の後半になってからは余計に『死』を意識しながら日々生きているのだしで。


「明日ね、上の子どもにあいに行ってくるの」

「え? 帰ってくるの?」

「そう、半年ぶりくらいかなぁ」

「そっか、よろしくいっといて」

 うん、あたしはうなずいてから彼を背にして布団を被った。狭い布団なので寒くなってきたこの時期は布団の取り合い合戦なので最近は毛布だけ別で使っている。寒いのにあたしたちは未だに裸で眠る。時折肌に触れる彼の体温はやがてあたしの体内にとりこまれ彼の温かさを奪ってゆく。

「ユキオンナ」

 毎年そんなあだ名がつく。女はね冷え性なの。でもさ、あまりにも冷たくないか? 足先。末端に血が行き渡ってないの。なにそれ。だって。養命酒飲めよ。え? だってあれお酒じゃない。あたし下戸なの知ってるでしょ? 炭酸で割ればうまいんじゃねーの。あ、そっか。そうかもねぇ。

 そんなこんなとつぶやきあってあたしたちは眠る。

 彼はあたしを抱きしめる。乳房をそうっと撫ぜて。痛くない? うん。大丈夫よ。

「おやすみ」

 胸が痛いのにその奥の方の胸も痛い。

 こんな風に優しく愛されていることにひどく怯えている。愛されるとゆう奇跡はきっといつかは奇跡ではなくなるし、永遠ではないことも知っている。永遠に愛されないことも知っている。永遠などないのだから。

 『死』と『愛』の間で揺れ動くあたしの感情は凪の海の上にいるボートに浮かんでいるようでそれでいていつ嵐が来てもおかしくはない状態にいる。

 毎夜毎夜眠るのが怖い。

 いつ、彼の気が変わるのかとか、会社で事故にあって指を落とすのではないのだろうか。

 そんなことを眠る前に考える。そうしていつの間にか睡眠薬がうまく効いてきてがおそろしいところに呆気なく連れてゆく。


_________


「おっす」

 息子と駅前の喫茶店で待ち合わせをしていたら、背後から声をかけられた。

「わ、おどろいた」

「てゆうかちっとも、おどろいてねーし」

 息子はケラケラと笑う。自分の産んだ子どもなのに、十九才とゆう年齢の息子はひどく大人びて見える。

「どう? 最近は」

 あたしが訊こうとしたことを先に訊かれてしまい

「まーまー」

 適当にそう応えた。まーまー、かっ。息子は、まーまー、ねぇ。と、何度か繰り返す。

「そっちはどうなのかな?」

「俺? まーまー」

 そっか。あたしはクスクスと笑う。息子もまた同じように笑った。

 あたしは息子が高校二年生のときに娘が高校一年生のときに離婚をした。

 親権は別れた旦那が持ちあたしは一人になった。月に一度の面会以外子どもたちとの接触は許されなかった。

 けれど今は娘も息子と一緒に都会に出て働いている。

「まおは? 元気なの?」

「あいつ? まーまー。仕事がさ、忙しいじゃん、まお。俺がさ、飯作ってるよ」

 へー、りょうまくん、お兄さんじゃん。えらいねー。りょうまは、へへへ。と鼻をこする。まあな、と、付け足して。

「二人ともかなりの都会っ子になったんだね」

 田舎に育った子どもたち。複雑な家庭で育った子どもたち。あたしのわがままで離婚をした。彼らは決して母親であるあたしを許さないだろう。けれどりょうまはたまにあたしのことを気にかけて電話を寄越す。

「まだ、付きってんの? なおとさんと」

 喫茶店に入り、ホットココアとりょうまはカフェモカを注文したあとで訊いてきた。

 ガラス張りのおもてに目を向ける。行き交う人々は肩をすくめ寒そうに歩いている。冬の行進が聞こえるようだ。

 あたしは首を横にふって運ばれてきたきたホットココアに目を落とす。

 わ、ものすごいクリームの量! あたしはまるで子どものように大仰に振る舞う。

「スッゲーじゃん。俺もココアにすればよかった」

「え? ちょっと飲むぅ?」

 うん。りょうまは遠慮がちに上に乗っている生クリームを口に入れた。

「あっ、じいさんになってる」

 あはは。あたしは笑いながらスマホをりょうまの前にかかげパシャパシャとシャッターを押した。

「わわ、撮ったなぁ」

 生クリームのヒゲの写真はとてもうまく撮れていた。あたしたちは久しぶりにあい、久しぶりに笑った。

「あのさ」

「うん」

 りょうまが真剣な顔をしてとうとつに切り出す。

「俺とさ、まおがいつかわからないけれどさ、結婚するまではさ、死なないでよ……」

「え?」



____________


 帰りの電車の中でさっきりょうまが冗談交じりにゆった言葉が脳裏をかすめる。

『死なないでよ』

 今日のあたしは至極元気だったし乳頭の痛みについても話した記憶などさらさらない。

 たまにしか会わないけれどそのたまにでも決して口にしたことのない『死なないでよ』はいやに即物的にあたしの脳内に侵食した。

 死んだらりょうまやまおは悲しむのだろうか。育児放棄をした母親を恨んではいないのだろうか。まおに関してはあたしのことをかなり恨んでいて口など一切聞いてもらえずそれでいてお金も受けとらず、かといってグレるのではなく、かなり優秀な高校に進学をし何個も資格を取得して今は税理士事務所で働いている。

 母親のようになりたくない。彼女はお兄ちゃんであるりょうまにずっといっていたらしく、じゃあ、都会に来いよ、と、なって高卒で税理士事務所の面接に受かった。おめでとう。とだけメールを送ったら、数日してから、ありがとう。と、だけ短く単語が並んでいた。時間差があったのはきっとりょうまに返事くらいはしろよ、と、そそのかされたのだろう。あー、めんどくさー。めんどくさそうにメールを打つまおの顔がありありと浮かんで笑えるところだったけれど同時に悲しくもなった。

 母親がよその男と同棲をしているとゆうことはきっと知っている。まおはこの先もきっとあたしも彼も認めないだろうなぁ。と、思う。

『次は終点……』

 車内のアナウンスではっと目がさめる。かなりの間この世にいなかったようだ。一個前の駅で降りなくてはならなかった。

 ゲゲッ。

 来てしまった道は決して戻ってはくれない。規則正しい線路の上を走っている電車はその典型的な例。

 仕方がない。あたしは終点で降りて彼にメールをする。

【終点まで来ちゃって。お迎えに来れるかな】

 まだ夕方の六時過ぎ。さすがに夕方は冷え込む。羽織っているカーディガンの袖を伸ばして手の先まで隠す。いくらか寒さが緩和したように思うもまさに気のせいだ。

【わかったよ。まだ酒飲んでないから】

【ありがとう。待ってる】

 こうゆうことがたまにあるので彼は一応飲まずに待っていたのか、昼間に飲んで今はお酒が抜けているのかそれはわからない。けれど、待っていてくれる人がいるとゆうことが今はとてもすくいだった。心が氷のように冷え切っている。養命酒でも飲んで溶かさないとどうにかなってしまいそうだった。誰しも皆一人だし孤独の荒波を抱えて生きている。それでも。あたしはやるせない気持ちで彼の車を待つ。すっかり暗くなった空はカラッと澄んでいて半分になったお月さまが雲のあいさからひょっこりと顔をだしている。

「ひょっこりさん……」

 両手を口の前に持ってきて息を吹きかける。少しだけ白い息が見え外気の気温の低さを顕著にさせた。


「どうだった?」

 彼は十分と待たずに来てくれて開口一番にそう訊いてきた。車内はまだ暖房があまり効いていない。本当に直ぐにやってきたんだなぁとゆう感覚がくすぐったい。

「どうだったって」

 てー。のあたりは語尾をさげたのは意図的ではない。

 けれど彼はそれ以上りょうまに会ってきたことに深く追求をしてこなかった。

「まーまー」

 えっ? 彼が惚けた声を出す。それから、あはは、と笑った。あたしも同じように笑う。

「ねえ」

「ん?」

「あのね、大漁の豚骨ラーメンが食べたい」

 いいねー。彼は大仰に同意を示す。

 本当はあまり空腹は感じてなかったけれど今夜はどうしても彼と大漁で背脂たっぷりの豚骨ラーメンを一緒に肩を並べて啜らなくてはならない衝動に駆られた。

 りょうまやまおのことに対しあまり気を使ってもらいたくないし、彼の前では母親ではなくて一人の女だとして見てもらいたい。あたしのエゴかもしれないけれどあたしのバックグラウンドは彼と一緒にいる間だけは彼だけのものでありたい。

 大漁は食券を購入し空いたカウンターに座ってから目の前にいる定員に食券を渡す。なので厨房が丸見えだし定員の態度や仕事のやる気なども見えてしまう。以前やる気のない定員のあからさまな態度に彼が『あいつやる気ねーな』とあたしの耳元でささやきともいえない声で口にしたことがある。多分聞こえていただろう言葉などは無視をしてその定員は自分のやる気なさを最後まで貫いた。

 キョロキョロと店内を見回す。

 あのやる気のない定員の姿がない。辞めたのだろうか。辞めさせられたのか。わからないけれど、目の前のコトン。コトン。と、いい音をしてなった丼を目の前にしてあたしと彼は箸を『パキン』と鳴らして割り、背脂たっぷりの豚骨ラーメンの海の中に箸を突っ込んだ。熱々の白い液体。この白濁した液体の中で溺れたいと思う。必死に泳ぎ、疲れたら煮込み卵の上で休憩をする。シナチクの上で寝転ぶのもいい。ナルトを見すぎて目を回しつつ、太麺を咥えつつお腹いっぱいになるまで永遠と泳ぎ続ける。

「うまいなぁ」

 ズズズー。とラーメンを啜る音が隣から力強く聞こえる。その吸引力を半分分けて欲しいと思いつつあたしも必死で太麺を啜る。この時間がいつまでも続きますように。

 大漁に来るたびにそう思う。こんなにたくさんこの人が好きなのに。あたしはどうしてこんなにいつも物悲しいのだろう。

 豚骨ラーメンは本当に美味しいし身体も温まったし彼が隣にいる。

「お腹がいっぱい」

 胸だっていっぱいいっぱいだった。

「お、なにぃ。汁まで飲んだんだ。珍しい」

「ふふん。すごい?」

 あたしは鼻白む。彼はすごいなぁ、と感心をし、またすごいなぁともう一度いった。

「そんな腹減っていたならさ、ブラックカレーも頼めばよかったかな」

 カレー? いやいや、そんなに食べれないし。あたしは、また今度食べよう。といってから笑う。

 彼もそうしようと同意して笑った。

 会計は先払いなので「ごちそうさまぁ」と、声をかけてお店から出る。ラーメンのせいか身体が火照っていた。まあるいお月さまが宙に浮いていてまるでうどん屋とかにあるまあるい照明器具のように見える。

「タバコ吸ってくる」

 店先の灰皿を見つけ彼はタバコをポケットから取り出して灰皿の方に移動をした。

 やることがないのでスマホに目を落とす。

 りょうまからLINEがきていた。

【今さっきついたよー。またね。顔色が悪かったみたいだから身体きーつけてね】

 のあとに、なにかよくわからない動物のスタンプが添えてあって、そのイラストにおやすみーと、書いてある。

 明日、病院に行こうかな。会社休んで。

 彼にも心配かけたくもないし、死ぬのは勝手じゃあないことを痛感する。あたしが死んだら確実に二人は泣く人がいる。りょうまとまお。まおはきっと、意地悪をいってごめん、といって泣きじゃくるに違いない。本当は優しい子なのだ。まおがもう少し大人になってからきちんとあって話もしたいし、彼との関係においてもきちんとしなくてはならない。まだ、死ねない。まだ、死ねないのだ。

「行くよ」

 ぼんやりとしていたら彼の声がしてもう車に乗っていた。


「そういえば明日さ、出張で朝の4時起きなんだ」

 車を走らせたタイミングで彼が口を開く。あ、いってなかったけれどさぁ、と前置きをして。この人はその日にならないと予定をいわない。なのでもう慣れている。

「へー。そうなんだ」

 そんなこと気にしてないですよー、的な感じでこたえると

「東京と群馬」

「ふーん。そうなんだ」

 東京に出張にいくたびに『東京バナナ』を買ってくるのでどうしていつも同じなのかな。バナナって。と、質問を試みたことろ返ってきた返答に妙に納得をした。

「だってさどこにでも売ってるし。いつも喜んで食べるだろう? 好きなんだなって思って」

 いや、いや。好きでも嫌いでもないし結果食べる人はあたしだけだし。本当はもう飽きているのね。

 と、いえたらどんなによいだろう。彼は天然なので絶対に気がついてない。この前買ってきた『東京バナナ』が冷凍されていることを。

「おみやげ、」

 は、要らないから。と、おみあげ、までいいかけたら

「東京バナナ?」

 と、先に遮られてしまい、あ、っと、まあ、うん。と、頷いてしまった。

「本当に好きだね」

「まーまーね」

 ふふふ。あたしは含み笑いを浮かべる。朝の4時起きか。きっとうちに帰ったら缶ビールを1本とハイボールを1本飲んですぐにお布団に潜るに違いない。そうしてあたしの身体をまた触って背中を撫ぜて髪の毛を梳いてから耳たぶを甘噛みしベビのように絡みついて抱き枕代わりにするだろう。

 おもての景色は目まぐるしくくるくるとその景色を変える。夜の車内にいると今からどこかに遊びに行きたくなる衝動に駆られる。高速に乗って見知らぬ土地にいって。そうしてしばらくそこに住んで飽きたらまたよその土地にいって。

 けれど、あたしと彼、いや、世間一般の人たちはそんなことはまずもって出来ないし、そんな願望はあるけれど決して実践などは不可能なのだ。

 世の中では誰しもが規則正く生きている。逸脱することを恐れている。右を向けば右に。左を向けば左に。同じように振舞っていればなんとうなく生きていけるのだから。

「明日、」

「え?」

 あと、2分でうちに到着するタイミングで彼が口だけ動かす。

「必ず乳がん検診にいってきてね。俺、かなり心配してる」

 うん。あたしは本当に久しぶりにかわいい声でうなずいた。

 今頃になってノイズがあっただろうAMラジオが流れてきてぎょっとした。

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