『雪は何でも知っている』
この場所を離れると決めたときに始めに浮かんだのは、若い時分を共にすごした友人たちであった。今は亡き者も、行方知れずの者もいる。そしてこれから、自分もその一人になろうとしている。善くしてくれた隣人たちにも申し訳ないが、事情を鑑みれば何も言わずに去る他ない。
だが、不義理を謝りたい相手もいた。
託されてから自分の手には負えず、ひとに任せてしまっている少女だ。
まずは預けた相手を訪ねたが、留守だった。朝から子供と出かけていったと隣人が教えてくれたから、町へ出て、その姿を探した。
ただ、離れてその顔を見るだけで、ただそれだけでよかった。
一目見て、目に焼き付ければ、もう思い残すことはないと思ったのだ。
見つけたと思ったら、目があった。
こちらも、見つかってしまった。
とたんに明るく笑う少女に、何も言えることはなかった。
少女は彼女の連れに許しを得ると、こちらへ駆けてきた。
駆けつけた少女を受け止めて、その重みでよろける。
「ひさしぶりだねっ」
思っていたよりも重い。
成長していることを実感する。
「いい子してたよっ」
嬉しそうな少女から顔を上げれば、少女と連れ立っていた預かり主が、穏やかな表情でこちらを見ていた。何か訳でも知っているような風で、優しく頷く。
「おうち帰るのっ?」
近況を上機嫌で教えてくれていた少女に目を戻すと、その笑みの中に、喜びの中に、不安も、見取ってしまった。
しばらくの間一緒に住めないと、彼女にはそれだけを伝えてある。問題が解決さえすれば、また、共にすごすことができると。その時がくれば迎えにくるから、それまでいい子にしているようにと、言ってきかせた。
「おむかえきたの?」
余計に、本当のことは言えなくなった。
「もうちょっと、待ってて」
本当に、あと少しだから。
それが本当であればいいと、自分に言い聞かせるように繰り返す。
「それまで、いい子にできるかい?」
少女は大きく頷く。
これが偽りだと、気付いていたかもしれない。
「時間は、ありますか」
少女を預かっている彼との間には、これといった接点はなかった。それが偶然により、今のような関係になっている。少女を預ける理由について、また、自分の素性についても、なにも詮索しようとはしない。それがありがたくもあり、また不気味でもあった。
今も、訪ねてきた理由を訊かない。
預かり主の声は、不思議とよく耳に届く。
本当はこのときでさえ隙をみて抜けてきたのであったが、少しだけ。と応えた。
「この子とすごしてやってください」
きっと、知っているのだ。いかなる方法でかはわからないが、自分の事情を、これは知っている。
だが。
それが自分に許されるのか。
少女は、友人の子だった。
彼女を産んだとき、母親は死んだ。今は亡き友人は一人で彼女を育てようとしたが間もなく、自分も事故により後を追うこととなった。死の間際、偶然そこに居合わせた自分に娘を託して。
「カゾクなのですから。」
カゾク。
こんな自分が。
この子と。
信じて笑ってくれる少女を、欺いている自分が。
預かり主は少女に何事か伝えると、手を振りあって、離れていった。
引き留める間もなく、人混みに紛れ、すぐに姿を見失ってしまう。
「……どこか、行きたいところとか、あるかい?」
ようやっと、その言葉を絞り出す。少女はしばらくうなった後、手を取って駆け出そうとした。
「いこ!」
ついて行かれないのは、心境的に体が重いからだ。
「ゆっくり……一緒に歩いていこうな」
──*──*──
町の中を、並んで歩いた。
何を話すでも、何を見るでもなく、冷たい湿った風に吹かれて、ぶらついた。日陰にはまだ、小さく雪が残っている。
「ねぇ、わたし……」
一度だけ、少女が何か言いかけて、先には何も続かなかった。
先を尋ねるのも違う気がして、曖昧に頷くだけしかしてやれなかった。その先に何が続くのか、知ることはもうできない。
そして、時限が迫っていた。一時だけ抜けるつもりが、長いこと戻っていない。
どう別れを切り出すかと思案を始めたときに丁度、預かり主が姿を見せた。
「時間は、大丈夫ですか?」
少女はそこで駄々をこねたりしない。それが無駄だと思っているのか、そもその考えに至らないのか。
「もうしばらく、この子を頼みます」
預かり主は、やんわりと頷いた。少女も、別れの言葉を口にする。
「またね、ぱぱ」
──*──*──
父と信じた男と別れ、その姿を見失う前に、少女は願った。
伝え忘れていたことがある、と。
今日でなければだめなのだ、と。
「少しでいいのっ!」
ここで追わなければもう会えなくなるだろうことを感じたのか。
少女から何かを求めるのは初めてだった。
自分が代わりに伝えようと預かり主が言っても、自分で直接でないといけないのだと、頑なだった。
少女と連れだって、男の後を追う。
町からは外れた道を歩き、途中何度も近道のために畦を抜け、男は急いでいた。だから木々の生い茂っている丘を越えたときには、ついに見失った。男がどこに住んでいる誰なのか、預かり主は何も知らなかった。だから足跡を頼りに闇雲に進んでも、たどり着けそうにない。
このまま意地を通すか。
何か適当なことを言って、少女に諦めさせるか。
「 お願い。」
そう小さく言う少女の必死な願いを、叶えてやりたかった。
無理を悟ったか、目の端にはキラリ光るものがある。
安心させてやりたくて、頷いて、日陰でまだ雪をかぶっている手近な植物に触れた。とたん、その手が届くだけの範囲に雪解けが訪れる。その下から、若い葉がのぞいた。
見慣れている少女は驚きはせず、しかし不安げに預かり主を見つめる。
雪を触媒にして植物の記憶を読みとる──それが少女を預かっている者の特異な能力であった。雪は副次的に発生する熱によって溶かされ、その量を減らしていくから、読みとることのできる情報量にも制限がある。触媒無しでは、時間がかかりすぎた。
一気に情報が──植物の見た記憶が、触れた手のひらから預かり主の中へ流れてくる。その圧力に意識を流されそうになるのを必死で堪え、情報を取捨選択する。そして──見つけた。男の向かった方向、そして今の所在。
しかも、ここから近い。
だが、急がないと、ここを離れる用意をしていた。しかも、もう出立の直前だ。
「足跡を聴いて近づいてもいいが、気づかれるなよ」
少女は大きく頷いた。
預かり主が最短ルートで先導し、少女がその後に続く。
目的の建物が見えたところで、男と、その縁者であろう女と老いた男が荷車の前に立っているのも見えた。
とっさに、建物の陰に身を隠す。
少女も同様にする。しかし角からむこうを窺った時、男に気づかれた。
──*──*──
少女と別れ、自分のいるべき場所──もう間もなく離れてしまう家に戻ると、男は何もなかったように、掃除の仕上げをした。どこに行っていたんだとは、誰も尋ねない。おおかたの不要品は処分し終えているから、必要なものを持ち出せば、後は何も残らない。
急げ。と、仕事仲間の老人が態度で急かす。
家の外で待つ仕事仲間二人と共に連れ立って出立しようというとき、何かを感じて振り向いた。
目が合うと、物陰から顔を出している少女は硬直してしまった。
その横には、よく見れば少女を預けた相手がいるではないか。
どうしてここが、とか、なぜここに、とか。浮かばないこともなかったが、それよりも。
固まってしまった少女に、手招きをする。
硬直から溶解した少女は、駆けてきて抱きついた。
数刻前と似たような状態だ。
男が何かを告げると、少女は大きく頷く。
それを、預かり主は陰にいたまま見守っていた。
嬉しそうだ。
本来子供は、家族と共にいるべきものだ。
間違っても、自分のような存在と共にあるべきではない。
預かり主があるべき姿に目を細めていたら、彼に気づいた老人が、深く礼をした。
これで、今回の自分の役目は終わりだとわかった。
預かり主は背を向けると、その場から消えた。
少女のかすかな声が、耳に届いた気がした。
夢に見た、あの小説。
辻褄なんて、あうはずないのに。
何故だかそれは、現実のような気がした。