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失われた記憶と魂の箱


 


ーーどうか、

  君の記憶が、温かい陽だまりの中にいつまでもいて笑顔で満たされていますように。

  何も知らないままでいい。

  残酷な過去が、この世の悲しみが、君の記憶を目覚めさせないように。

  どうか・・・

  君の瞳が、赤く染まりませんように。ーー







 第1章 真夜中の訪問客



 目が覚めると、頬を伝う雫が流れる。

 毎朝、毎回のように泣いていて目が覚める。どんな夢を見ていたのか覚えていないけれどそれは物心ついた時から続いていた。ただそれはなぜだかわからないけれど、きっと悲しいものではないとわかる。不確かだけれど、僅かながらにこの体に、まだぬくもりが残っているような気がする。誰かに抱きしめられていたような感覚。しかし、それもまた幻でしかない。この長年の謎が解けないまま、今日もまた、そうやって少女にも朝が来る。

 「んっ。」

 まだ眠い目を擦りながら、背伸びをしてベッドから起き上がった。

 カーテンから柔らかな朝の日差しが差し込み、小鳥のさえずりが聞こえてくるそんな穏やかな朝。

 「おはよう、お父さん、お母さん」

 本棚の上の父と母の写真立てに挨拶をする。それが、朝の日課。もちろん、返事はないけれど相変わらず優しい笑顔でこちらに微笑みかけてくる。仲良く並んで笑っている、少女の大好きな両親。


 朝、顔を洗って、パジャマからお気に入りのワンピースに着替えて、父が育てていた自慢の庭で採れた野菜と昨日森で見つけた赤い木の実を簡単にサラダにして朝食を食べる。それから、洗濯をして、大好きな『アルル冒険記』という何度読み返したかわからないであろうお気に入りの本を庭で読んで、庭に度々やってくるリスにクッキーをおすそ分けして、三時のおやつタイム。軽くお腹を満たしたら、秘密の特訓。これがいつ活かされるのかは分からないけど母との約束だから一日とて、欠かしたことはなかった。日が暮れてきたら、洗濯物を取り込んで、夕飯を何にするか考えながら畳みながら、父お手製のレシピ集を眺める。本日のディナーは、・・・

 「川魚のソテーと、我が家自慢庭野菜ごろごろスープです、いっただきまーす」

 両親の写真に向かって手を合わせて、料理を頬張る。料理上手な父の味なんだから、味は美味しくって当たり前。今日も、また美味しいディナーができて大満足・・・


 「・・・でした。終わり。」

 真っ赤な朱色の表紙の日記帳にペンを走らせ、今日一日の出来事を書き込んでいく。もちろん、これも毎日の日課。随分と書き込んだページを遡ってめくっても、食べるものの少々変化はあるものの、特に変わったこともなく、一ページ一ページが規則正しく繰り返されていく。登場人物は、たった一人。もちろん、少女一人。広い広い森の中に、ポツンとひっそりと佇んでいる一軒の山小屋で一人で暮らしてる。知り合いは、たまにクッキーを求めて訪ねてくるリスが一匹。森の動物たちと同化したようにひっそりと生きていた。変わらない日常を振り返りため息をついて、日記帳を閉じた。旅先でいろんな困難や出会いに胸がハラハラするあの冒険記のような出来事が明日こそ起こらないか夢見ながら、今日もまた眠りにつく。

 そんないつもと変わらない一日が終わる。さて、ベッドに潜り込んで目を瞑った時。


 コンコン。


 ドアを叩く音がして、瞑ったばかりの目を見開いた。こんな真夜中に、誰?こんな森の中に来客なんて今まで一度だってなかった。ぶるり。嬉しいはずのいつもと違う変化なのに、体は裏腹に恐怖を覚えた。怖くなって、ベッドに潜ったまま動けない。


 コンコン。


 しかし、そんなことは御構い無しにまたドアを叩く音。次は、さっきよりも大きくなったように聞こえた。

 「だ、・・・誰なの?」

 震える声でドアに問いかけるが、ドアの外の訪問客は応答がない。シーンと静まり返っている。不気味な雰囲気が暗闇と混ざり合って、より一層恐怖を膨れ上がらせた。

 一時の沈黙が流れる。そして、少女の脳裏にあるイメージが浮かんだ。

 「も、もしかしたら、森に迷い込んでしまった旅人が困って、私に助けを求めているのかもしれないわ」

 あの冒険記の主人公も恐ろしい森に迷い込んで、途中見つけた住人の家に助けを請うというシーンを思い出した。声も出ないほどに、歩き疲れてしまっているのだろう。応答がないのも無理はない。この森はあの冒険記のような恐ろしいところではないがすぐに、ドアを開けてあげて温かいスープでも出して差し上げよう。そう思い、先ほどまで震えていた体を起こし、戸棚からランプを持ち出してドアに向かって駆け出した。

 ドアの前に立ち止まり、大きく深呼吸。

 「・・・よし」

 恐る恐る、ゆっくりとドアを開いて顔だけ用心深く出して外を確認する。静まり返った森の空気が部屋に忍び込んできた。辺りは、真っ暗闇。見上げれば、星空がいつもと変わらず綺麗に輝き広がっている。ランプを突き出して目の前を照らした。しかし、肝心の訪問客の姿はない。風のいたずらか空耳だったのかと、疑問に思いながらも部屋に入りドアを閉めようとした。すると、

 「ちょっと、まってよ。ここよ・・・」

 かすかに声が聞こえた。疲れ果てた女の人の声。辺りをキョロキョロと見渡して、声の主を探す。

 「こっち!」

 さっきよりも、大きな声が足元の方から聞こえたので、少女は反動的に足元を見下ろした。

 すると、暗闇で爛々と光る目玉が二つ。ぎょろりとこちらを見つめていた。

 「きゃあ!!」

 思わず、びっくりして飛び上がってしまい、手元からランプがするりと落ちてがっしゃんと勢いよく地面に落ちた。転がったランプの明かりがぼんやりとそれを照らした。真っ暗闇に溶け込んだものの正体を。

 「・・・やっと、会えた。あなたが、・・・セレーナなのね?」

 私が声も出ないほど、驚いたの理由はきっと昨日までの少女には絶対答えられなかった。その一方では頭の中では、今日の日記の最後に付け加えて、訂正をしなければとか変なことを考えていた。

 

 私を真夜中に訪ねてきたお客さんは、黒猫。

 いえ、ただの黒猫ではありません。どんな図鑑にも載っていないおとぎ話に出てくるような

 ーーー人間の言葉を喋る黒猫だったのです。


 「答えて、あなたがセレーナなのね?」イラついたように再度、黒猫は少女に尋ねた。声がまだうまく出ずに、その問いにただただうなづいた。

 少女の目をしっかりと見つめると、安心したかように意識を失いパタリと倒れてしまう。

 「え!?ちょっと・・・!」

  慌てて黒猫を抱えて声をかけたけど、返事はなく体はひんやりするほど冷たくなっていた。

 「大変!早く体を温めてあげないと!!」



 繰り返される毎日が、何も変わらない毎日がこの出会いで急速に変わっていくのをまだ少女は知らなかった。

運命の歯車が動き始めた瞬間。

 それは、この世界の誰もが逃れられない悲しい運命と出会いの奇蹟の始まり。

 少女そして、家族の秘密を知る過去と未来の話。








 第2章 お喋りな少女と意地悪な猫の謎解き


 一晩での急な変化。今までひとりぼっちの世界に差し込んだような光だと思った。

 「まさか、話し相手ができるだなんて。お父さんとお母さんがいなくなってから、ここのところ声を発するのを忘れてしまいがちになっていたから、独り言が増えてしまって。だから、あなたが人間の言葉を話す猫でよかった」

 そう、セレーナは返事が返って来ることが嬉々としている。しかし、黒猫はそんなセレーナの喜ぶ顔を訝しげに見つめていた。

 「・・・ええまあ。でも、話せなかったらこんなにもたくさんの質問と会話に答えなくて済んだのだから、それはそれで私としてはそちらの方が良かったんだけども」

 なんて、皮肉たっぷりに答えた。それもそのはず、黒猫はあれから目覚めてからというもの少女の何重もの質問の嵐に巻き込まれていた。どこからやってきたのか、どうして人間の言葉を話せるのか、なんて名前か、外の世界はどんなところなのか・・・でも、猫の返事は全て『わからない』だった。これにはマイペースな彼女もだんだん困惑した。全くもって会話が広がらない。

 「しょうがないじゃない。だって、私は記憶がないんだもの。覚えてないんだもの。答えたくても答えられないのだもの。あなたがこちらの話を聞かないんだから、全く無駄な時間を費やしてしまったわ」

 そう猫は言い、尻尾をパタパタ上下させて猫は大きな欠伸を一つ。(そんなこと言ったって・・・。)セレーナは大きなため息を一つ。それでも、嫌味な言い方をされたとしても会話があることに間違いではない。昨日までにはなかった変化だ。セレーナは、少々望んだ楽しいおしゃべりでなかったがそれを歓迎した。湯気が立ち上る温かいミルクを猫の目の前に差し出す。

 「熱いから気をつけて、たしか猫は猫舌でしょ?」

 「うるさいわね、これぐらい平気よ。あっち!」少女の忠告を無視して、猫は見事に舌を火傷した。全く言わんこっちゃない。セレーナは、呆れながらもこれには笑ってしまった。猫は舌打ちしてフンと鼻を鳴らしたそっぽを向いた。ブランケットに包まった猫の前にしゃがんで同じ目線になったセレーネは柔らかい声で語りかける。

 「笑ってごめんなさい。ねえでも、これだけはどうしても知りたいの。何も覚えてないあなたがどうして私の名前を知ってるの?・・・まあどうせ、『わからない。』でしょうけど?」

 ずっと猫が目覚めるまで介抱しながらも、頭の中をぐるぐると駆け回った謎だった。これを解かないときっとセレーナは今日もまた眠れず、くまを一層作ってしまうだろう。

 「・・・わかったわ、温かい寝床とミルクに感謝して、その問いに答えましょう。私はあなたを探していたの。セレーナという少女を探し出して、城に導けば私は私を取り戻すことができるとある男から教えられたから」

 「え、お、お城?・・・ある男?」

 ますます深まる謎に、セレーナはぬかるみにはまったような感覚になる。ズブズブとはまっていく。(猫さんより他に私を知っている人物がいる?それは・・・)

 「それは、もしかして。お父さん?!お父さん以外ありえないわ!」

 ハッとして興奮気味に猫を掴んで詰め寄るセレーナ。この森で出会ったことがある他人などいなかった。彼女を知る存在は、父と母のみ。となれば、答えは一つだと確信した。

 「ちょっと、もう!痛い!!なんて強引なのかしら。この子!!知らないわよ!」

 「そんな、そんなはずはないわ。ああ、そうだこの顔よ。私のお父さん!ほら、ちゃんと見て?!」

 慌てて写真立てを掴んで猫の鼻先に押しやった。

 「わかった、わかったから。そんなに押し当てないでちょうだいよ。・・・ん〜〜〜」

 セレーナの熱い勢いに負け、渋々猫は写真に写る男性を凝視して記憶のある男と照らし合わせる。低く唸なりながら数十秒、見つめた後。

 「・・・違うわ。あなたの父じゃない。別の男よ。フードでうまく顔を隠してたけど、私は下から覗き込んでいたからわかるわ。間違いない。」猫の答えに、がっくりと膝から崩れ落ち残念がるセレーナ。確信と淡い期待は一緒に見事に砕け散った。セレーナの目には涙が浮かぶ。

 「そんな・・・。お父さんじゃないなんて。・・・じゃあ一体誰なの?」

 「さあね。私も聞きたいわよ。こんなところまで歩き疲れてくたくただし。それと、もう質問はこりごりだわ。」

 猫は掴まれて乱れた毛並みを整えながら、毛玉と一緒に吐き捨てた。猫が悪態をつくのも無理はなかった。ある男から告げられたセレーナの家に辿り着くまでの道のりは猫の足には程遠く、森を見つけた時には夜に振りつけた冷たい雨が猫の疲れ果てた体を無情に冷やし体力を奪った。途中、オオカミの群れに出くわしそうになり、恐々しながらようやく、家に辿り着いた時にはもう意識朦朧だった。

 「わかった。もう質問はしない。ゆっくり休んで。私もなんだか、ものすごく疲れちゃった」

 ベッドに倒れこむように寝転がったセレーナに賛同するように猫は明るい声で、

 「よろしい。いい子ね。ゆっくり休んで明日には出発しましょう。城へ向かうわ」

 「明日?!急なのね。・・・もっと先じゃダメなの?」

 「不満ね?何か用事でもあるのかしら?」と眉間にしわを寄せて猫が言ったけど、セレーナにそれを断るだけの用事なんてなかった。庭の水やりとか唯一の友人のリスにクッキーをおすそ分けするぐらいの予定しかない。そんなこと言えば、また猫の機嫌を損ねるだろう。セレーナは口を噤んだ。本当の理由は、ここを離れたくないことだけ。『すぐ、帰ってくるから待っててね。セレーナ』そう、母が数年前に言い残した言葉がずっと胸に残っていて、今も帰りを待っている。無事に帰ってきた両親をすぐ抱きしめて迎えられるように離れたくないから。『遅かったね、待ってたよ。おかえりなさい。』と。でも、もういつ頃からだろう。すっかり、一人の生活にも慣れてしまった。ただの使命感が彼女をこの森に繋ぎ止めていた。

 「男に言われたの、三日後に開かれる城の舞踏会にセレーナを連れてこいと。だから、急いでここを経たないと。間に合わないのよ」

 この森から城まで一体どのくらいの距離かはわからないが、体を休めてすぐに出なければ。約束の舞踏会に間に合わなければ猫と男との契約もおじゃんだ。

 「舞踏会?!すごい、まるでおとぎ話だわ。喋る猫、舞踏会に招待。もしかしたら、王子様が待ってたりするのかしら?ど、どうしよう。あぁぁ、でも、私ドレスなんて・・・持ってない」

 驚いたり、喜んだり、悲しんだり、ころころと目まぐるしく変わる表情に猫はさっきまで疲れたなんて言ってたのにこの子ってばなんなのと目を見張った。絵に描いたような夢見がちな少女だ。まさか、ドレス姿に変身させてくれるんじゃないのなんて期待の眼差しで見られても、猫には何もできやしない。人間の言葉で話せるだけで、他の猫とはなんの変わりないただのネコ科の猫である。魔法なんて奇跡の力は使えやしない。

 「いい?セレーナ。まだ、よくわからないことだらけだけど。私たちがすべきことは、二つ。三日後までに城に着くこと。そして、今は寝ることよ」

 まだ、何か言いたげなセレーナを静止するかのように、今度は矢継ぎ早に猫が言葉を放った。

 「以上、おやすみ、セレーナ」

 まるで、子供をあやす母親のような猫の態度にもう何も言えないセレーナは渋々ベッドに入り、目を閉じた。

 「おやすみなさい・・・猫さん」

 (ああ、何年振りに一人じゃない夜を過ごすのだろうか。でも、私これからどうなっちゃうんだろう。)

 夢にまで見た冒険が始まるはずなのに、どうしてこうも不安な気持ちでいっぱいなのか。そう言えば、日記の最後にさっきまでの出来事を付け加えなくちゃいけなかったのをぼんやり思い出した頃には、ぷっつりと意識がなくなり夢に堕ちたのだった。



 「・・・人違いではないわよね。まさか、こんな可愛らしい女の子が世界を救う最後の希望だなんて。あの男もどうかしてるわ」

 ようやく眠りについたセレーナを起こさないように小さく呟いた猫は、まじまじと彼女の寝顔を観察した。長い睫毛、透き通った陶器のような真っ白な肌、ほんのり赤い薄い唇。世には珍しいであろう白銀の長髪。本人は気づいていないだろうし、言うつもりもないけれど彼女は他に類を見ない美少女に違い。悪い虫がつかないよう、きっと両親もこの森に隠しておきたくなるほど。



「・・・って、こんな話を信じて乗っかった私もほんとどうかしてるわね」

 自傷気味に苦笑いして、猫も眠りについた。





 第3章 ドラゴンの民ルイス



 朝の日差しがカーテンから差し込み、眩しくて気持ちよく目が覚める。それがいつもの始まり。

 でも、今日は違った。

 ドーーーーーン

 突き上げる地響きがしたかと思うと、けたたましい爆発音が森に鳴り響いた。それと同時に動物たちの騒がしい鳴き声がした。

 「きゃあああ。な、なんなん何の音?」

 腰を抜かしてベッドから転げ落ちたセレーナ。朝にふさわしくない騒々しさ。大きな違和感。そしてさっきの衝撃で、本棚やキッチンからは本や食器が振り落とされ、床に散らばった。大切にしている愛読書も、父のレシピ集も、お気に入りのカップも、両親の写真たても。

 「セレーナ、ここは危険よ。出ましょう。グズグズしてる暇はないわ、早く!」

 猫の鬼気迫る忠告に促され、急いで家を這い出る。そこに広がる光景はなんとも恐ろしい森の風景だった。いつもは青々と茂る木々たちが、轟々と音を立て真っ赤に燃えているではないか。そして火の手がすぐそばまで迫っていた。一足先に、家の外に出た猫が家の裏に廻り、安全を確かめた。まだ、幸いにも家の裏手の方には火の手は回っていないようだった。しかし、ここは鬱蒼と木々に囲まれた森の中。全てを焼き尽くすには時間の問題だ。セレーナは産まれてから今日までを過ごした思い出の詰まった名残惜し見ながらも、あまりの業火の勢いにどんどん遠ざかる家を背に無我夢中で走ることしかできない。熱風で悔し涙も乾いてしまいそう。吸い込む空気が熱い。森の動物達は、異変にすぐに気づいて森を逃げ出しているらしく逃げ惑うのは少女一人と、猫一匹、異様な緊張感が張り詰めている。 

 「はあはあ、川に向かえばいいと思う。こっち。」

 普段魚釣りに利用している川に方向転換し走り続ける。

 「確か、この先は。私も通った道だわ。」

 猫にも進む先に見覚えたあった。セレーネの家に向かう途中に、からからに乾いた喉を潤して助けられた。それと同時に丸太にうまく乗れずにずぶ濡れになった苦い思いもしたのだが。

 後ろの方ではどんどん火の勢いが増しバキバキと音を立てて木々が倒れていく。セレーネと猫が荒い息を切らしながら逃げ進むと川がだんだん見えてきた。川の先は、どうやらまだ火の手はなく安全そうだ。橋を渡ればようやく助かった、そう思って足を踏み出した瞬間、ミシミシと音を立てて橋は無残にも崩れ落ちた。

 「そんな・・・!?どうしよう、猫さん」

 川を渡るにはもう泳いで渡るしかなさそうだが、川の流れは異様に早くましてや猫もセレーナも泳ぎは得意ではなかった。決死の覚悟を決めて、川に飛び込もうか迷いを振り切った時、

 すぐそばの林から茶色い巨体が飛び出してきた。思わずセレーナは腰を抜かして、悲鳴をあげ目を瞑った。同時にその巨体は前足を空中に振り上げ、寸ででピタッと止まった。荒ぶった馬の嘶きが響き渡る。

 「だ、大丈夫か?!」

 頭上から慌てた声がしたので、恐る恐る目を開くとまだ鼻息荒く立ち止まった艶やかな毛並みの馬とその上に乗った少年がこちらを心配そうに見つめている。少年は旅の途中なのか大きな荷物を後ろに乗せている。

 「怪我は?!」

 「え、えぇ。私は大丈夫です。ただ、驚いてしまって」

 腰が抜けて動けないセレーナに少年は手を伸ばし、立つのを促した。少年の手を掴み、セレーナはよろめきながら立ち上がった。少年はどうやらセレーナと同じ年頃のような面持ちだった。背丈はセレーナよりも少し高く、まだ幼げが残る顔立ち。

 「ありがとう」

 「・・・・・、いや別に」

 笑顔を向け、少年に礼を述べた。すると少年は、数秒セレーナを見て固まってから俯いて素っ気なく返した。猫はそんな二人を眺めて咳払いした。はっと我に返ったセレーナはまだ火の手からは逃れていないことを思い出す。 

 「あ、あの。この先は危なくて、爆発がして火事になって。私の家も燃えてしまって、だから逃げなくちゃ」

 慌てて少年にも、ここから離れるように伝えようとする。少年はため息をつき、だるそうに

 「ああ、わかってる。俺がなんとかしてやる」

 「え??何言って、」

 セレーナがそう言いかけると、少年は馬からすらりと飛び降り手綱をセレーナに手渡し、「耳を塞いでおいてくれ」そう、言い残して真っ赤に燃え続ける森の方にゆっくりと歩き出した。

 「え、ちょっと、あんた!!」

 常に冷静な猫も慌てて奇妙な少年の行動に必死に叫んだ。しかし、少年は聞き耳を持たず歩みを止めない。逃げるべきか止めるべきか迷いながらも、少年の後ろ姿を呆然と見つめるしかなかった。すると次の瞬間、少年の衣服を突き破り白い翼が生えたのが見えた。そして、頭にはツノのような突起や長くて重たそうな尻尾のようなものさえも。

 「?!!」

 驚く二人をよそにどんどん人の姿からかけ離れたものに変貌していく少年はウロコを帯びた口を大きく開き、

 「ウオォオオオオオオオーーーーーーーーー」

 先ほどの馬の嘶きとは比べ物にならない恐ろしいほどの大きな鳴き声をあげた。耳が潰れるかのような衝撃を受ける。すると化け物、もといが少年が発した衝撃波が一瞬にして燃え盛る炎を吹き飛ばした。真っ黒に焼け焦げた木々と立ち込める煙だけが目の前に残った。あれほど勢いが止められなかったであろう火事が一瞬で失くなった出来事に、あ然として立ち尽くすセレーナと猫。

 煙の中からこちらにまたゆっくりと歩いてくる少年は若干顔に鱗を残した人の姿をしていた。角や尻尾はもう見えない。猫は本能で毛を逆立てて、少年の様子を伺う。目の前で起きた現実に全くついていけないセレーナの手から手綱を無言で受け取り、馬をなだめた。馬は少年によほど慣れているらしく何食わぬ顔で頭をすり寄せた。

 「あ、あの」

 「何事ですか?!坊ちゃん」

 なんと声をかけて良いのか戸惑うセレーナをよそにいつの間にやら現れた馬に乗った紳士そうな青年が少年に駆け寄ってきた。よくみると青年の手には、キラリと光る剣がしっかりと握られていた。

 「急に走り出していなくなったかと思ったらこんなところで何をやっているんですか、坊ちゃん」

 「だから、坊ちゃんっていうのやめろって言ってんだろ」

 「わたくしにとっては坊ちゃんは坊ちゃんです。それより、・・・また人化を解きましたね?」

 「・・・仕方なかった。方法がこれが手っ取り早かったんだ」

 「あぁ、このローブ高かったんですよ。全く・・・もう」

 セレーナと猫を尻目にどうやら主従関係がある二人のやりとりは続く。坊ちゃんと呼ばれた少年は面倒くさそうに青年にくどくど説教を受けている。人化、やはり少年は人ではないらしい。そして推測してこの青年も。呑気なやりとりをする二人組に対し猫は警戒を強めた。こちらの存在を忘れている今のうちに、この場を逃げた方がいいだろうと判断し猫が口を開きかけた時、

 「さて、では・・・」

 青年の手にした剣がセレーナの喉元に突き立てられた。

 「おい、止めろ!リチャード!!」

 「坊ちゃんの真のお姿を見られては生かしておけません。それがいかなる非力なお嬢さんでも。噂がひとたちあがれば、存亡の危機でございます」

 リチャードと呼ばれた青年の丁寧な言葉遣いの裏に冷血なほど主人の身を守ろうとする従順な姿勢が見え隠れする。その眼差しはしっかりとなんの迷いもなく剣先を見ていた。

 「やめて!!その子は何も知らないし、何も見ていない」

 「ほう、この猫は話せるのですか。それなら、お嬢さんの次はあなたですよ」

 必死な猫の呼びかけにも応じず、リチャードはそう冷たく返答する。殺されてしまう、やっとの思いで辿り着いた希望に。猫は止む終えず絶望を覚えた。(せっかく寝ずに辿り着いた彼女の家まで、そしたら爆発で、火事で、まさかの化け物に出くわすなんて・・・猫にまでなった運命ってこれであっけなく終わりだなんてーーーーー)ここへ導いたあの男への恨みでこれまで以上に猫の頭の中はいっぱいになった。


 すると、

 「お止めなさい、ドラゴンの民よ」

 声が聞こえた途端、あたりに眩い光がパッと広がり、思わず目を背けなければならなくなった。リチャードがセレーナの喉元に突きつけていた剣が弾かれ、宙を飛んだ。

 「誰だ!!」

 リチャードが叫んだ先には、後光が差して眩い光を放ち続ける妖精の姿があった。蔦のような長い緑の髪、薄く虹色に光る羽、その姿は女とも男とも言えないしかし、美しく目が離せない風貌だ。

 「我は、森の精。この森と永らく生き、この森に棲まう全てを愛し守るもの。その者を殺すことは決して許しません」

 森の精の声は、柔らかく木漏れ日のように語り口調。うっとりと聞き惚れてしまいそうな、しかしリチャードには通じないらしく厳しい顔は変わらず剣を取られ逆上しているようで、人化とやらを解きかけている。先ほど剣を握りしめていた靫先からみるみると鋭い爪が生えてきた。

 「我々には掟がある。人化を解いた時は、それを殲滅するときのみ。それを知ったものは、全て消すものとす。精霊には関係のないところだ。去れ」

 「いいえ、関係はあります。ここは、我の愛する場所。そして、それは我の愛する者なのです。勝手は許しません」

 両者一歩も引かず一触即発な空気が続く。ただ、ドラゴンの民は精霊とは相性が悪いらしく優劣は森の精が上にあるらしい。リチャードは森の精の出方を伺っていた。なぜなら、もしかすると森の精は力がないのではないかと踏んでいたからだ。あの火事の間、何もせず今の今まで何をしていたのか。森を愛すものだとすれば、火事を消すことが第一ではないか。しかし、精霊の力は未知数だ。

 「あ、あの!!」

 その空気を切り裂くように、今までずっと黙っていたセレーナが拳を握りしめ声をあげた。

 「リ、リチャードさん!私ほんとに、誰にもこのこと言いません。決して言いません!!信じてください・・・でもそれでも、リチャードさんが私のこと信じられなかったらその爪で私を切り裂いてもらっても構いません。助けてもらえなかったらもうとっくに死んでいたのかも知れないのだから。掟だと言うのなら仕方がないのかも知れません・・・それしかこの場を収められないのなら」

 「セレーナ、何言ってんの!!そんなこと言ったら殺されちゃうじゃない。ちょっと、あんたもあの執事止めなさいよ!!」

 猫が噛みつくように少年を猛攻する。少年はああなったらもう命令を聞かないことを悟っているのか無言だった。

 「お嬢さん、察しがいいですね。仕方がない、そうです。この世は掟がありますから。そして、わたくしは人間のことを信じてはいないのですから」

 人間嫌いのドラゴンの民。実はこの世界では当たり前のことらしかった。遥か昔か畏怖を与え続ける存在だったが、ドラゴンの血肉は不老不死と噂されるや、裏取引でそれを生業としていた人間が狩りを始め昔よりもだいぶ数を減らしてしまい今はひっそりと谷の奥で暮らした。追いやられたドラゴン達は一族の存続の為に正体を隠し、人間の姿をすることを選び人間と紛れて生きることを苦渋の選択で選んだのだ。

 セレーナはリチャードが自分のことを信じてはくれないことがよく分かり、大きく深呼吸して、足元に転がっていたリチャードの剣を掴んで自分の喉元に震える手で突き立てた。

 「セレーナ!!」

 「・・・殺されるくらいなら、自害します。ごめんなさい猫さん・・・あぁでも死ぬまでにやっぱり一緒に舞踏会に行きたかったな。許されるならもう一度お父さんとお母さんに会いたい。でも、その前に、」

 今度は剣から目を離し少年の方にまっすぐ向き変え、

 「あの、名前は?あなたの名前はなんですか?」

 「え・・・?」

 「命の恩人の名前を知らないまま、ちゃんとお礼を言わないまま、死ぬのは嫌です。だから、教えてください」

 「・・・ルイス」

 「ルイス、・・・ルイス。ありがとう、助けてくれて。本当にありがとう。早くお礼が言いたかったのに私ったら言えなくてごめんなさい」

 セレーナは笑顔を絶やさずに少年ルイスに感謝を伝える。そんな姿に森の精はなんとも言えない気持ちになる。

 「純粋で真っ直ぐ全てを受け入れる、なんて真っ白な心、ああ愛するものよ、なんて悲運な運命。それはもう、我には止めることができない。神よ、許し給え」

 森の精は雨上がりの露のような涙を浮かべ、悲しみを見せた。辺りの眩しい光もぼんやりと消え失せていく。その姿を見て、リチャードは確信した。やはり、森の精にはもう力が残ってはいない。媒体となる森が焼け焦げてエネルギーがないと見た。素早く飛びかかり鋭い爪を森の精に突き立てようとした。

 「・・・命令だ、リチャード!!この娘と城を目指すぞ」

 「はぁ!?」

 とんでもない主人の命令に思わずリチャードも森の精に向けた爪を大きく外し地面に突き刺してしまった。森の精も我に帰り、リチャードから後ろに下がって距離をとりなんとか光を取り戻す。また、一面がパッと光った。

 「俺たちとこの娘は、目的地がどうやら一致しているらしい。それならば、監視もできるし何と言っても人間達に紛れやすい。他の者にバレなければいいんだろ。それなら、近くに置いておく方が一番いい」

 ルイスは震えるセレーナの手から剣を引き離し、腰の布に剣を刺して直した。

 「そんな面倒なこと、一番嫌いなのは坊ちゃんの方でしょう。殺すのが手っ取り早く済みますし、第一何故ゆえこの者達を生かしていかなければいけないのですか?たかが、小娘一人猫一匹ためらうことはないでしょう」

 ルイスの予測しなかった提案に憤りを感じながら全面拒否するリチャード。そんなリチャードを無視しながら、セレーナの顔をまじまじと見つめながら、

 「助けたやつの命をまた奪うなんて後味が悪い、俺がうまく正体を隠していればこんなことに巻き込まなかったし。それに・・・」

 「それに・・・?」

 訝しげに聞くリチャードの問いに頭を掻きながらルイスは、

 「・・・まだ、俺はこいつの名前を聞いてない。俺の姿を見て怖がらなかった者はいない。ましてや笑いかけるなんてしたやつは・・・見たことない。・・・名は?」

 「・・・セレーナ。セレーナって言います」

 セレーナは照れ笑いしてそう答えた。ルイスは長い間見つめ合ってしまっていたことに気づいて、また素っ気なく俯いて歩き出した。

 「ほら、行くぞ。舞踏会に間に合わない」

そんな二人を見て、リチャードはため息をついて人の姿に戻る。リチャードもまた、こうと決めた主人の頑固さには自分にも太刀打ちができないことを知っていた。

 ルイスには自分に笑いかけてくれる人間なんて者は初めてだった。仮の姿ではなく、本当の姿を見て笑ってくれる、ましてや感謝してくれる者なんて。実は正体が知れたのはセレーナが初めてではなかった。人間が困っている時に放っては置けず、人化を解いて助けてやろうとした。結果はいつも、恐れられて逃げる者も攻撃してくる者のどちらかで、その度リチャードは掟を執行した。それが当たり前で、必然だと思った。

 (だから、もう助けまい。放っておこうと思ったのに・・・この娘は他とは違う何かが。)

 ルイスは自分の後をついてくるセレーナを見て、ふっと思い返していた。

 「お待ちなさい、愛する者よ。もうこの森を出て逝くのですね?」

 森を出ようとするセレーナに悲しそうに声をかける森の精。

 「ごめんなさい、森の精さん。私、行きます。お城へ。誰だか分からないけれど、私を待ってくれている人がいるので。でもまたこの森に帰ってきます」

 「そうですか、時が来たのですね。悲しいですが、暫しの別れ。では、美しいドレスではないのですが我から預かりものを受け取り給え」

 「預かりもの?」

 そう言うと、セレーナの目の前に森の精は手をかざして一本の剣と紅い石がついたネックレスを出した。

 「これは?」

 「これは、其方の母の剣、そして父からの首飾り。時が来れば渡しておいて欲しいと預かっていた物です。ご加護があらんことをーーー」

 セレーナは涙を浮かべて、それを両手で受け取った。そして、今まで知らない間ずっと森の精は自分を見守っていてくれていたことにやっと彼女は気づいた。孤独で寂しいと思っていた毎日が、森の精の柔らかな眼差しで実は照らされていたなんて。

 「ありがとう、森の精さん」

 そう、言ってセレーナは森の精を思いっきり抱きしめた。森の精は突拍子も無い彼女の行動に驚きながらもゆっくりと微笑んで、セレーナの腕をするりと離れ上へ上と昇っていったかと思えばパッと光と共に弾けた。その眩い光の粒が輝きながら空に舞い上がったかと思えば、森中に雨のように降り注ぎ地面に光を放って広がっていく。すると、一面焼け野原になってしまった大地に新芽がむくむくと生えてくる。草花が現れすごいスピードで薄暗い荒んだ風景を花と緑で華やかなものに変えていく。魔法。何事もなかったかのように、森は元の姿を取り戻した。

 この為に、きっと森の精は力を使えなかったのか、リチャードはそう思った。

 「キレーーー」

 「・・・そんなバカな」

 「す、すごい」

 「・・・・・」

  しばらくそれをぼんやりと眺めていた。それぞれ奇跡の力に圧倒されながらも、森を後にする。セレーナはルイスの手を借り、彼の愛馬にまたがった。初めて乗る馬から見る景色は遠くの方までよく見えた。この森は、昔から迷いの森と呼ばれていて、一度立ち入れば二度と戻ってこれないと噂され、旅人は接して近寄りはしなかった。でも、きっとそれは美しい森の精の使う力の美しさに魅せられてしまったからだろう。それは、生物学者のセレーナの父もそうだったに違いない。



 「ドラゴンの少年よ、我からも礼を言わせて欲しい。森と愛する者を守ってくれてどうも、ありがとうーーー」


 セレーナは森のどこからか聞こえる森の精の言葉を聞き取った。ルイスにも聞こえているのだろうか、彼は愛馬を操りながら振り返らずただまっすぐ見つめていた。そして見つめる先には、悠然と佇む城が小さく見えて来た。リチャードの見解では城まであと1日くらいで着くだろうとのこと。

 「飛ばすぞ」 

 「わ、わかった」

 はやる気持ちを抑えて、ルイスの破れたローブの背中をしっかりと掴んだ。

 心地よい光の粉を含んだ風を受けながら、セレーナはドラゴンの民ルイスとリチャード、そして猫と共に城へ目指すのであった。


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