第捌話 八咫
視界に黒影の群れが近づいてきても、意外にも御中は冷静だった。じめじめとした天気が続いていたからか、「これだけ風を感じると気持ちいいな」なんてことを考えながら、こちらに気づいた黒影に向かって抜刀する。
「はあああああ!」
剣に風を纏い、切り裂くような竜巻を黒影に浴びせる。刃の渦に吸い込まれた黒影は、耳障りな断末魔をあげつつ、灰色になって崩れ落ちる。
「咲耶! 櫛名田! 頼んだよ!」
三人は、それぞれの目的地に向かって別れる。御中は、視界の端に高御を捉えたが、思ったよりもピンピンしているようで、ひとまず安心した。あの様子なら、咲耶と二人でなんとか持ちこたえられるだろう。
「次! いくぞ!」
派手に一体倒したことで、ほとんどの黒影が御中に向かって迫ってきていた。黒影が神通力を感知する性質があるということは、この数年で把握していた。そのため、普段の戦闘でも御中と咲耶に的が集中することが多かった。いつもなら、その後ろから高御が暗殺者の如く、二本の短剣で暴れ回ってくれるのだが、今回ばかりはそれも期待できない。
「悪いけど、今日はぼく一人が相手になるよ! っせいや!」
再び剣先に風を纏い、先ほどよりも大きな竜巻を作り出す。
「これなら、ひとまとめにできるよね……」
黒影が押し寄せる位置に向かって、剣を真っすぐ振り下ろす。竜巻は地面の砂利を巻き上げながら、周囲の黒影を渦の中心に飲み込んでいく。
「これで……どうだ!」
御中は、同様の竜巻を次々に作り出し、黒影を飲み込んでいく。これだけの黒影を一度に相手にしたのは初めてだったが、このままいけばなんとか状況を切り抜けられそうだった。
右前方では、竜巻で吸い込めなかった黒影に対して、高御と咲耶が応戦する。残りは二体だろうか。もうすぐ片が付くように思えた。対して、左前方にはさっきまでは手にしていなかった細い剣を握り、櫛名田が一体の黒影と対峙していた。
「櫛名田! 落ち着いて対処して! 櫛名田なら守れるよ!」
御中の声が届いたのかどうかわからないが、櫛名田は意を決したように、黒影に対して向かっていく。
「この……、まっくろやろー!」
細い剣は、しなるようにして黒影の身体を次々に突き刺していく。
「やっ! はっ! それっ!」
突いては引きを繰り返し、黒影の動きに合わせて臨機応変に細い剣を操る櫛名田。
「なんだよ。櫛名田、強いじゃん」
あの様子であれば、御中の助けは必要ないだろう。すぐに初めての黒影を倒すことができるはずだ。それが櫛名田にとっていいことなのかどうか、それはわからない。それでも、力の本質について、櫛名田はきっと理解するはずだ。
視線を前に戻す。竜巻に巻き込まれた黒影は、その身体を灰色に変え、ほとんどが消えてなくなっていた。唐突に訪れた戦いも、これでなんとかなるだろう。そう思った矢先、御中の耳に聞き覚えがない、低くしゃがれた声が聞こえてきた。
「コロス……コロス……」
「え……」
御中の前に立ちふさがったその黒影は、今まで戦ったどの黒影とも姿形が異なっていた。
首から先、頭は八つに割れている。正確に判別することはできないが、腕も二本どころではない。
「コロス……コロス……」
「うわっ!」
目で追えないくらいの速さで御中の目の前に迫り、複数の腕を薙ぎ払うように打ち付ける。御中は、逸らすようにして上体を後ろへのけ反らせる。一歩、また一歩。後退るようにして体勢を整えると、胸のあたりにうっすらと赤色がにじみ出てくるのに気付いた。
「は、早い……」
避けきったと思っていたが、御中の胸には横一線に剣で斬られたような跡ができていた。痛み自体はそれほどひどくはない。しかし、ひりつくような圧迫感は、傷口を通じて御中の頭を激しく揺さぶっていた。
まずい。
この黒影が相手では、自身の身すら守れないかもしれない。
御中の頭は、目の前の八割れ頭の黒影に対して、最大限の警報を鳴らし続けている。一撃目はなんとかいなすことができたが、次はどうなるかわからない。あの鋭い腕を立て続けに打たれたら、おそらく、あっという間に御中の身体はばらばらになってしまうだろう。
「コロス……コロス……」
同じ言葉をつぶやき続ける八割れ頭。不気味に光る赤色の目は、確かに御中を捉えている。
「御中! 任せろ!」
対峙していた黒影を退けたのか、ボロボロになりながらも、高御は低い姿勢で八割れ頭に向かって突っ込んでいく。
「高御! ダメだ! うかつに近寄ったら――」
「おおおおおお!」
八割れ頭の背後から、高御は回転しながら勢いをつけて斬りかかる。
グジュっと、肉を突き刺すような、嫌な音が響く。
その音は、八割れ頭の背中から伸びた鋭い腕が、高御の右胸あたりを貫いた音だった。血が噴き出し、突き刺さったままの状態で、高御の身体は八割れ頭の頭上にぶら下がっている。
「高御くん!」
呆然とした御中の意識が覚醒するよりも早く、咲耶は手にもった槍を八割れ頭に向ける。
「今、助けます!」
咲耶が何事かを口走ると、槍の剣先が震え出す。
「やああああああ!」
真っすぐに突き出した槍を構え、八割れ頭の黒影に向かって走り出す咲耶。
「ダメだ! 咲耶、距離をとって!」
鈍い衝撃音の後、咲耶の手に握られていたはずの槍は宙に舞った。動揺した咲耶は、なにかに足を掴まれたかのように、その場で固まってしまう。
八割れ頭は咲耶に対して向き直り、腕を伸ばす。
「……」
怯んだ咲耶の足は、未だその位置から動かない。このままでは、高御と同様あの腕の餌食になってしまう。御中の足は咲耶とは対照的に、考えることなく瞬発的に動き出していた。
八割れ頭の伸ばす腕が咲耶に振り下ろされる寸前、間に入った御中が剣で防ぐ。
「ぐっ……」
重い衝撃とともに、刃がぶつかり合うような鍔迫り合いの音が響く。
「み、御中くん……」
「咲耶! 早く引いて! このままだともたない!」
腕を押し返し、逆方向から振り下ろされる次の一手を再び防ぐ。圧倒的な手数の前に、御中がやられるのも時間の問題に思えた。
「そんな……でも……」
「いいから早く! ここは一旦引くんだ! 高御を連れて、櫛名田のところまで行って!」
「みな――」
咲耶の返事が聞こえるよりも早く、八割れ頭の腕は御中の剣をすり抜け、咲耶の左腕をかすめるように貫く。
「きゃああああああ!」
「咲耶!」
傷は浅いが、勢いもあって咲耶の腕からは血しぶきが舞う。
絶え間なく御中へ打ちつけられる複数の腕は、徐々に御中の身体に近い位置での攻防となっていた。
「このままだと、全員が危ない……」
咲耶はかろうじて意識があるように見えた。しかし、傷口からは大量に血が噴き出し、早く止血しないと本格的に危ない。
地面に叩き落とされた高御の顔が見ることができなかった。微動だにしないことから、おそらく意識を失っている。咲耶よりも、高御の方が一刻を争うように思えた。
八割れ頭は、御中の逡巡を気にすることなく、ゆっくりとにじり寄ってくる。御中は、距離を測るように側方へと足を動かす。幸いなことに、八割れ頭は御中を追っているようで、横たわる高御と咲耶には見向きもしない。
「御中! 今どうなってるの!?」
「櫛名田!」
倒れる二人から八割れ頭を引き剥がすと、離れて戦っていたはずの櫛名田が駆けつけてきた。
「櫛名田! あいつ、ほかの黒影とは全然違って、明らかに強い。早くここから離れないと、最悪の事態になるかもしれない」
「そんな……」
櫛名田の視線は八割れ頭に向けられる。その表情は、最初は驚いたような色だったが、次第になにか気づいたように、はっとしたものへと変わっていく。
「あいつ、もしかして……」
「櫛名田、なにか知ってるの?」
御中は、櫛名田とともに移動しつつ、八割れ頭から視線を外さない。
「どこかで聞いた……、たぶん昔話だったと思うんだけど。頭が八つの黒い影……」
思い出すように頭をひねる櫛名田。
「名前は……えっと、そう! 八咫だ」
「八咫!? もしかして、黒影には名前があるってこと?」
「わからない! でも、八咫は頭と腕をいくつも持ってる、強い化け物だよ!」
櫛名田に言われるまでもなく、その強さはすでに御中も体感していた。鋭く動く腕や、力強く振り下ろされるその一撃は、容易に人の身体を貫く。
人の身体は脆い。あの腕をたった一回でも受けてしまえば、たちまち大量の血を噴き出し、倒れてしまう。
「とりあえず、ここはなんとかして逃げよう。有難いことに、八咫はぼくを狙ってる。だから、ぼくがなんとか時間を稼ぐから、櫛名田は二人をお願い!」
「でも、まだお父さんたちも運べてない。今ここを離れたら、次に狙われるのはお父さんたちかもしれない。そんなの、嫌だよ!」
少し離れたところに、櫛名田の両親と思われる男女が横たわっているのが見えた。今まで黒影と対峙していた櫛名田にとって、あの二人を庇いつつ、負傷した高御と咲耶を運ぶのは難しいだろう。それは御中にも理解できた。
「なら、どうすれば……」
八咫の力は圧倒的だった。どう考えても、御中の神通力と剣の腕では適わない。
「私、戦うよ!」
「え!?」
「私が戦うよ! 私の家をこんなにしたの、あいつでしょ。絶対許さない!」
黒影の群れを見たときに足が動かなかった櫛名田が、ほんのわずかの間に、ここまで勇敢な少女に成長していた。いったい、この短時間に櫛名田の中でなにがあったのか、想像することもできない。
戦いが、櫛名田という一人の女の子の性格を変えた。それが良い方向なのか、悪い方向なのか。今の御中にはわからない。少なくとも、もっと違う、楽しい人生だってあったはずだ。
彼女は選ばれたのだ。黒影と戦うという、争いの運命に。
彼女は選んだのだ。八咫と戦うという、修羅の道を。
彼女は変わった。変わってしまった。
普通の人生とは程遠い、普通じゃない人生を歩み始めた。だとしたら、普通じゃない人生を歩く御中にできることは、たった一つのことだけしかない。
「わかった! 一緒に戦おう!」
「うん!」
迷うことなく、櫛名田はうなずく。
二人は立ち止まり、八咫に向かって剣を構える。
「ぼくが前から切り込む。たぶん、八咫の腕のほとんどはぼくに向けられると思う。その間に、櫛名田は後ろに回り込んで、ありったけの力を八咫にぶつけて。あいつだって黒影なんだから、神通力は効くはずだよ」
一瞬で距離を詰められてしまう以上、遠距離からの神通力は諸刃の剣だ。それなら、二人で距離を詰めて、少しでもあの腕を分散させつつ、どちらかの一撃で仕留めるしかない。もしかしたら、どちらかはあの一撃を受けるかもしれない。二人とも受けるかもしれない。それでも、それを覚悟で突っ込んでいかないと、今の二人に勝機はないように思えた。
「わかった! やってみる!」
櫛名田も覚悟を決めたのか、乾いた口の中の水分を、勢いよく飲み込む。クっと鳴る喉の音を聞き、御中も覚悟を決める。
「行くよ!」
「うん!」
歩調を合わせて、二人で八咫へ向かって走り出す。数歩走ったところで、背後に周るべく、櫛名田は後ろにずれようとした。しかし――。
「ぐっ……」
「え……」
一閃。二人が並ぶのを待っていたかのように、八咫から伸びた一本の腕が、二人の胸を貫く。一瞬のことで、まったく反応することができなかった。
しばらく宙に浮いた後、引き抜かれた腕の支えをなくし、二人は地面に落ちる。
「あ……、かはっ……」
櫛名田は、呼吸することすらままならない。
「……」
正面で受けた御中は、すでに意識を失っているように見えた。
櫛名田は腕を伸ばす。御中の顔に触れると、小さな呼吸の振動だけが、辛うじて伝わってきた。
まだ御中は生きている。しかし、櫛名田一人では、もうどうすることもできない。
胸に空いた穴に手を乗せると、血だまりができているのを感じた。
最初から無謀だったのだ。
初めて黒影と戦い、自分を奮い立たせた櫛名田にとって、八咫のような敵と一戦交えること自体、勝ち目のない戦いだったのだ。
櫛名田の視界には、すでになにも映っていない。五感も徐々に失われていく。薄れゆく意識の中、櫛名田の頭には後悔の念が流れていく。
ここで死ぬのだろうか。
死ぬ。初めて、それを意識する。
怖い。たまらなく怖い。死ぬことが怖い。
悔しい。なにも成し遂げることなく、生を終えることが悔しい。
辛い。御中と高御と咲耶。出会ったばかりの人たちを巻き込んでしまったことが、どうしようもなく辛い。
申し訳ない。育ててくれた両親に、なにも返すことができずに終わってしまうことが、心から申し訳ない。
ようやく一人で戦えるようになったのに。初めて黒影を倒すことができたのに。どうして私の身体は、言うことを聞いてくれないのだろう。
初めて手に取った生大刀。意識を失う直前に、震える手でお父さんが私に託してくれた。大切な力だから、いつかふさわしい使い手になれるように、頑張ってきた。それなのに。
櫛名田の意識は、後悔の穴に落ちていく――。