第肆話 陽炎稲妻水の月
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御中が目を覚ますと、そこは見慣れない場所だった。最後に見たのは燃え盛る炎が村を焼く様子。しかし、今の御中の視界に映っているのは、森の木々が、その枝につけている青々とした葉を揺らす姿だった。
状況を確認するように、御中は首を左右に動かす。動きに問題はないように思えたが、念のためゆっくりと、動作を確認するように、力を少しずつ入れていく。可動範囲が狭いためか、視界に入ってくる情報は先ほどまでとほとんど変わらない。
意を決して、上体を起こすため、全身に力を入れる。すると、剣で切られたような鋭い痛みが、御中の左脇腹を襲った。
「! っいてて」
我慢できないほどの痛みというわけではなかった。左脇腹を右手で押さえつつ、ゆっくりと身体を起こしていく。
上半身が起きたことで、視界が開ける。周囲を見回すと、そこはいつも高御と剣の修練をしていた森の一角のようだった。どうやら、意識を失っている間に、誰かが御中をここまで運んだらしい。
「……」
改めて周囲を確認する。目が届く範囲には、特にこれといって変わったものはない。それどころか、横に倒れていたはずの高御の姿も近くにはなかった。
「高御、どこにいったんだ……」
つぶやくような声が口から洩れたとき、前方から二人組が歩いてくるのが見えた。
その姿がしっかりと捉えられる距離に近づくまで待つ。すると、一方は見知った人物だということがわかった。
「御中!」
御中の名前を呼ぶと、二人の内の一人が駆け足で御中の方へと近づいてくる。
「御中、気が付いたんだ。よかった」
「高御? どうして、ここに……」
「どうしてって、倒れていた御中をあの人と一緒にここまで運んだんだよ」
そういうと、高御は後ろを振り返り、ゆっくりと歩いてこちらに近づいてくる、見覚えのない女性を指差す。どこかで会ったことがあるだろうか。淀む頭でははっきりと思考を巡らせることができない。
「目が覚めましたか、御中さん。よかったです。どこか痛むところはありませんか?」
「い、いえ。大丈夫です」
「そうですか。それはよかったです」
安心したように、胸に手を当てる女性。やはり、初めて会う女性のような気がした。しかし、頭のどこかに引っかかるような違和感もある。
「あの……えっと……」
「え? ああ、そうですよね。目を覚ましたら、いきなり知らない人に話かけられるなんて、ちょっとびっくりしてしまいますよね」
「いえ、その……まあ……」
「私は、この辺りを旅して歩いています、咲耶というものです」
やさしい笑顔を浮かべながら、咲耶と名乗る女性は御中に向かって少し頭を下げる。横に並んで立つ高御と比べても、それほど背丈に差はない。一つ上、いや二つ上だろうか。いずれにしても、御中と高御に比べると、その佇まいは落ち着いて見えた。
咲耶は、後ろで束ねる髪を左右に小さく揺らしながら、地面に座ったままの御中と視線を合わせるように、腰を下ろして膝を地面に着ける。着ている巫女服のような衣が地面に触れて汚れないようにするためか、膝の裏に織り込んでいく。その所作からも、彼女のとてもおしとやかな雰囲気が伝わってきた。
「気分はどうですか? ひとまず、深い傷だった左脇腹には、私がもっていた薬を塗って布を当ててあります。早いうちにしっかりとした人に診てもらった方がいいと思いますが、とりあえずはなんとかなると思います」
薬を塗ったというが、御中の左脇腹はすでになにもなかったかのように傷口が塞がっていた。今もズキズキと感じる痛みだけが、傷を負ったことを御中に自覚させている。長い間眠っていたとは考えづらいが、よほど強力な薬だったのだろうか。
「咲耶、さん? ありがとうございます」
「いえ、お気になさらず。それと、咲耶で結構ですよ」
「すみません。ぼく、ご迷惑をおかけしたみたいで……」
咲耶は口元を抑えるようにしながら、やさしく微笑む。
「いえ、高御さんもまったく同じことを言っていましたので。すみません、やはりご兄弟なのですね」
「咲耶……、笑わないでよ……」
バツが悪そうな表情を浮かべながら、顔を少し紅潮させる高御。同時に、御中も恥ずかしさのせいか、少し身体の温度が上がったように感じた。
「ごめんなさい。悪気はないのです、許してください」
二人にそれぞれ視線を向けた後、咲耶は頭を下げる。
「い、いえ。大丈夫です」
居心地の悪さをごまかすように、御中はその場に立ち上がる。痛みはあるものの、このくらいの動作であればなんとかこなせるようだった。
「それで……」
咲耶は今までのやさしい表情を保ちつつ、真剣みを帯びた視線を二人に向けた。
「私があなたたち二人に会ったのは、二日前の夜のことです。なんとなくなにが起こったのか、私にも心当たりはありますが、お二人の口から聞かせていただけますか?」
御中は高御に視線を向ける。咲耶と一緒に歩いてきたことから、高御は先に目を覚ましていたはずだ。高御はなんて言ったのだろうか。正直、御中も起きたばかりで、頭の中を整理できていない。
御中の視線を感じたからか、高御は手を合わせて頭を下げる。
「御中が起きてから話そうと思って、ぼくからは特になにも言ってないよ。話すのが難しいなら、ぼくから頑張って話してみるけど、どう?」
「いや……、大丈夫。咲耶の薬のおかげで、身体はそれほど痛くないから」
高御に向けて手を振りつつ、今度は咲耶に視線を向ける。
「でも、ぼくも少し混乱していて……。少し、整理しながら話してもいいですか?」
「もちろん、大丈夫ですよ」
「ぼくも覚えているところは話すよ」
「ありがとうございます。それでは……」
御中は、今朝起きた出来事を少しずつ語り出した。
いつもと変わりない始まりだったこと。
森での高御との修練のこと。
村に帰ると、一面炎の海で、黒い影に高御が襲われていたこと。
そして、なんとかして二人で黒い影を撃退したこと。
全て話し終わるまで、咲耶は静かに聞いていた。時折小さくうなずくように首を上下に振りつつも、落ち着いた様子で、最後の言葉を聞き終わるまで黙っていた。
「と、いうことなんですけど……」
「そうだったのですね。二人が無事で、本当によかったです」
咲耶は二人に手を伸ばすと、抱き寄せるようにそっとやさしく包み込む。一瞬の出来事で反応できなかった二人は、されるがままに、柔らかそうな胸に包まれていく。
御中は恥ずかしさからか、身じろぎをしながら腕を搔い潜ろうと試行錯誤するが、咲耶の腕に込められた力は予想以上に強く、次第に抵抗することをあきらめていく。
「よかった。本当に、よかったです」
咲耶は、繰り返しその言葉を口にする。
三人は、今日、初めて言葉を交わした。それなのに、咲耶はここまでぼくたちのことを想ってくれている。そのことが伝わってきて、御中にとっては不思議で、理解できなくて、そしてなぜか涙がこぼれてきた。
「怖かったですよね……。もう大丈夫ですよ。もう、大丈夫」
御中は理解した。怖かったのだ。言われて初めて、そのことを自覚した。
ずっと暮らした村は燃えてしまった。両親の姿もついに見つけることができなかった。それなのに、黒い影が突然現れて、理解する前に戦っていた。
そうだ。御中は怖かったのだ。そのことを自覚すると、どうしようもなく身体が震えてくる。ともに腕に収まる高御の身体も、同様の恐怖からか小刻みに震えていた。顔は見えないが、おそらく泣いているのだろう。御中の瞳からは、大粒の涙がこぼれてくる。
「大丈夫……。大丈夫ですよ」
しばらくの間、御中は声にならない嗚咽を吐き続けた。どんなに時間が過ぎても、二人を抱く咲耶の腕から、力が抜かれることはなかった。
***
どれくらいの時間が過ぎたのだろうか。数分か、数十分か。あるいはもっと長い時間が過ぎたのかもしれない。御中は、ずっと二人を抱き、背中をなでてくれていた咲耶の腕を掴み、そっと腕の中から出ていく。
「もう、大丈夫ですか? 落ち着きましたか?」
「はい……。すみませんでした」
「大丈夫ですよ。私はお姉さんですから。お姉さんっていうのは、弟たちに甘えてもらうためにいるんですよ」
「弟、ですか」
「はい! お二人はもう、私のかわいい弟たちですよ!」
兄である御中にとって、自分のことを弟と定義されるのは慣れていないためか、少し恥ずかしさを感じた。高御は特に気にする様子もなく、御中よりも早く落ち着きを取り戻し、今は少し離れたところでケロッとしていた。
「それじゃあ弟たち。お姉さんの話を聞いてくれますか?」
少しおどけたような口調に変わる咲耶。
「? はい」
「今から話すのは、二人の村に起きたことと、二人のこれからのことについてです。急がなくていいからね、……って言ってあげたいのですが、残念ながらこの世界はそんなに優しくはないの。人は立ち止まることができるけれど、時間は止まってくれません。決めないといけないときは、しっかり決めないとね」
どこか遠くを見ながら話す咲耶。彼女にも、なにか思うところがあるのかもしれない。そう思うと、御中の姿勢は自然と引き締まる。
「は、はい」
「二人が見た、黒い影……。あれは、禍津というものが作り出している、危ない存在です」
「禍津?」
「そうです。禍津は、この世界のバランスを壊そうとする、危険な存在です。禍津がこの世界に現れて、その日からわずかの間で、世界はとても変わってしまいました」
わずかの間。それがどれくらいの短期間なのかはわからない。それでも、世界を変えてしまうという禍津。それは、御中にとって想像することも難しい存在に思えた。
「そして黒い影……、あの存在は、黒影と呼ばれています。黒影は人のような姿をしていますが、実際は禍津が作り出した幻影だと考えられています。お二人も戦われたことで感じたかもしれませんが、黒影は普通の武器で倒すことができません。実体をもたない存在、まさしく幻なのです……と言って、わかるでしょうか?」
「なんとなく、わかります。人の姿をした幻、それが黒影なんですね。だから黒影には剣が当たらない。ぼくたちもあいつと戦ったので、それはわかります。ぼくの剣も、高御の剣も、あいつにはまったく当たりませんでした」
御中は、横に並んで咲耶の話に耳を傾ける高御に視線を向ける。高御は、腰に提げた木刀をなでるように触りながら、視線を下に落としている。黒影に対してなにもすることができなかったことが気になっているのか、御中の目に映る高御の姿は、いつもより落ち込んでいるように見えた。
「お二人とも、剣の心得があるのですね。残念ながら、黒影にはその剣は通じません。ですが……」
口を閉じる咲耶。なにか気になることがあるのか、御中の目を覗き込むように、じっと視線を投げてくる。
「どうしました?」
さすがに、黙ったまま視線を合わせ続けるのは恥ずかしい。我慢できずに、御中の方から話の続きを促す。
「お二人は……というより。御中さんは、どうやって黒影を退けたのでしょうか」
「ああ、それは……」
「神通力、だよね」
そう答えたのは、今まで静かに二人の会話に耳を傾けていた高御だった。
「まあ、確かに使えるけど……」
御中は、高御の言葉に応えつつ、黒影に立ち向かったときのことを思い出す。
確かに、黒影に対して御中の神通力は有効だった。しかし、結局それほどのダメージを与えることはできず、ほとんど役に立たなかった。最後には、黒影から受けた左脇腹の痛みが強くなり、神通力を扱うことすらできなかったのだから、神通力のおかげで黒影を退けたとは言えないだろう。
「神通力? 御中、それは本当ですか?」
咲耶は御中に向かって一歩近づき、整った顔をぐいっと近くに寄せる。御中は驚くように一歩後ろへと下がってしまう。
「は、はい。使えますが、そんなにうまくは扱えないです」
「そうですか……」
何事かをつぶやいた後、咲耶は少し黙り込む。三人の間にわずかな沈黙が流れる。はっとしたように顔を上げた咲耶は、再び顔を綻ばせて話始めた。
「ひとまず話を戻しますね。禍津と黒影について、でしたね」
「はい」
「直接戦った二人ならもう知っているかもしれませんが、禍津と黒影に唯一対抗できる力、それが神通力なのです」
「やっぱり、そうなんですね」
つぶやきながら、落ち込むようにうつむく高御。あの時も、結局高御の攻撃は全く当たらず、御中が起こした竜巻と炎の柱だけが唯一の有効手段だった。
「そういえば……」
「ん?」
御中は、戦いの中で起きた不思議な出来事について思い出した。見たことがない場所。宙に浮く女性。真紅の衣。そして、黒影を退けた、見たこともない剣。
あの場を脱することができたのは、剣の力があったからだ。あの剣がなかったら、御中も高御も、こうして咲耶に会うことさえできなかったはずだ。
高御に視線を向けると、不思議そうに御中を見つめていた。
「どうしたの、御中? もしかして、なにかあった?」
「いや……、えっと……」
言うべきか、それとも黙っておくべきか。御中の中でも、あの出来事についての記憶はあやふやで、もしかしたら夢でも見ていたのかもしれないとさえ思えた。
「御中? 遠慮なくなんでも言ってください」
「御中。はっきり言ってよ」
咲耶と高御から促さられ、御中は観念したように口を開く。
「実は、高御が意識を失った後、不思議なことがあったんだよ」
「不思議なこと?」
首をかしげながら先を促す高御。
「見たことがない場所で、知らない女性に会ったんだ。その人、宙に浮いていて……、確か、羽張って言ってたかな?」
「羽張? なにそれ、人の名前?」
「うん……。たぶん、そうなんだと思う。あんまり覚えてないんだけど」
あの女性は、神聖とも表現できるような出で立ちだったと思う。いや、あの空間自体が、どこかこの世界から隔離されているような、理が違う世界のような、そんな様子だった気がした。わずかの時間の出来事だったはずなのに、なぜか御中の頭の中から離れない。それなのに、細部を思い出すことができない。
「御中さん。無理はしないでくださいね」
優しく、御中の頭へと手を伸ばす咲耶。そのまま頭をなでながら、咲耶は言葉を続ける。
「そうですか、羽張という女性に会ったのですね。その方の姿は、思い出せますか?」
「姿……。いえ、すみません。はっきりとは思い出せないです」
「そうですか」
咲耶は微笑み、最後に御中の髪をくしゃくしゃにした後、手を引いた。
納得するようにうなずく咲耶。御中と高御は、咲耶がなにを考えているのか、なにに納得したのか、何一つ理解することができなかった。
「御中さん。おそらくあなたは、十拳剣と対話したのです」
「十拳剣? なんですか、それ?」
御中にとって、それは聞いたことがない言葉だった。確かめるように、高御に視線を向ける。しかし、高御も聞いたことがないのか、表情を何一つ変えずに次の言葉を待っているようだった。
「十拳剣とは、この世界に伝わる、十の宝剣の名前です。かつて、この土地の争乱を平定した神々が持ち込んだ武器で、十の剣に十の力が宿っていると言われています」
「宝剣、ですか」
「聞いたことない」
二人は初めて聞く言葉の数々に、ほとんど頭が追いついていかない。
「二人は、高天原について、昔話を聞いたことがありますか?」
わからないというように、高御は首を振る。
「いや……どうだろう。ぼくは聞いたことがないと思う。御中はよく父さんから昔話を聞かされていたけど、そんな話なかった?」
「どうだろう……、聞いたような気もするけど。父さんの昔話は、いつもいきなり話が始まるから。毎回出てくる名前が違っていたりして、どれがどのことかなんてわからないよ」
話好きな父親だったが、いつも脈絡なく話始めるため、御中にとってはすべて父親の作り話である、という印象しかもっていなかった。実際、御中の質問に対して、父親は適当なことを答えるだけで、いつもその答えも違っていた。
「わかりました。では、聞いたこともあるかもしれませんが、少しだけお話しますね」
せき込み、喉の調子を整える咲耶。ここまでずっと話続けていたが、疲れている様子は見られない。もしかしたら、咲耶は父親と同じで、話好きなのかもしれない。御中はそんなことを考えながら、咲耶の言葉に耳を傾けた。
「私たちが暮らすこの世界は、芦原と呼ばれています。芦原の地は広く、多くの人が暮らしています」
地面に人差し指を向けながら、「ここも芦原ですね」と笑う咲耶。
「そして、この芦原のどこか。すぐ近くかもしれませんし、とても遠いかもしれません。どちらにしても、どこかに確かに存在していると伝わる、神々が暮らす地があります」
咲耶の視線は二人の先、はるか遠くに向けられている。
「その地の名を、高天原といいます。そこには、芦原に暮らす人々が窮地に陥ったときに救いの手を差し伸べるべく、十の神々が暮らしていると言われています」
「神々、ですか……」
信じられない、と声に出しそうなくらい、高御の顔には疑念の色が強まっていた。対して、御中は心当たりがあるのか、咲耶の言葉に食い入るように耳を傾け続ける。
「実際は神様だったのか、それともすごく強い人間だったのか、本当のことはわかりません。ですが、高天原の地は確かに存在しています」
「なぜ、存在していると言えるんですか?」
高御は問う。
「それは……、私の父が、高天原の地を踏んだからです」
咲耶の言葉を聞いた途端、高御は面食らうように一瞬黙ってしまう。しかし次の瞬間、静かな笑い声をあげて話し出した。
「ははは。それを信じろっていうのは、少し難しいですよ。ぼくらだって、実際にこの目で見てみないと、高天原? のことを信じることはできないです。御中もそうでしょ?」
確かに、高御の言うことは最もなことだ。高天原という地の存在。そこで暮らす神と言われる存在。実際に見てみないと、判断することはできない。
御中は、口をつぐんでいる咲耶に視線を向ける。その顔からは、とても嘘を言っているような様子は見て取れない。
「私の父の話は、今は置いておきましょう。とりあえず、高天原という地は存在していると仮定してください。そして、なにより重要なことは、その高天原の地には、かつての神々がこの世に持ち込んだ、十の宝剣が隠されている、ということです」
「それが、十拳剣……ですか」
つい、御中は口をはさんでしまった。しかし咲耶は怒る様子もなく、「そうです」と微笑み、話を続ける。
「十拳剣は全部で十本です。そして、そのすべてに、それぞれの神の力が宿っていると言われています」
「神の力……。それって、いったい――」
「神通力です」
咲耶の口から出た言葉に、御中は言葉を失った。高御に動揺した様子はないが、視線は変わらず真っすぐに咲耶へ向けられている。
「本来、神通力とは十拳剣が宿す、特別な力なのです。ですが、神々が十拳剣を振るった際に、その力が芦原の人々へと伝わり、稀に扱うことができる人が現れるようになった、と言われています」
今まで、御中はずっと不思議に思っていた。なぜ、自分には神通力が扱えるのに、高御には扱えないのか。同じ親をもち、同じ場所で暮らし、同じことをしてきたはずなのに。
その答えは、こんなにも簡単で、単純なことだった。
「そうか……。御中だけに神通力が扱えたのは……、いや。ぼくが神通力を扱えなかったのは、ただ、ぼくが選ばれなかったってだけのことだったのか」
ほっとするような、どこかあきらめの色を帯びたその声は、御中の耳にも届いた。高御は腰から木刀を抜き、剣先を軽くなでるように優しく触れる。その瞳に映っているのは、どんな景色だろうか。その景色は、ずっとともに過ごしてきた御中でさえ、映すことができないものに違いなかった。
「話はここからなのです」
佇まいを直し、咲耶は改めて二人に視線を向ける。高御は一度笑みを浮かべた後、手にもった木刀を再び腰に収めた。御中は固まった身体をほぐすように伸びをした後、改めて咲耶の目を覗く。
「この十拳剣に秘められた神通力こそ、黒影を、そしてその先にいる禍津を倒すことができる、唯一の力なのです」
「十拳剣が? どうしてですか?」
「神通力が彼のものたちに有効な手段であるということは、お二人も身をもって体験されたと思います。ですが、人が使う神通力には限界があり、完全に倒すことができないのです」
顔を伏せる咲耶。御中の目に映る彼女の表情には、深い悲しみの色が見え隠れする。そう歳は変わらないはずの咲耶に対して、御中は純粋に、なにかしてあげたい、という気持ちになっていた。
「言い伝えでは、神々は十拳剣を振るうことで、芦原の人々を魔の手から救ったと言われています。つまり、神通力の力を用いて人々を守った、と考えられます。だからこそ、禍津のような存在を倒すためには、十拳剣の力が必要なのです」
「なるほど。確かにそう考えると、言い伝えにも信憑性が出てきますね」
だとすると、あの時御中が出会った女性は、十拳剣の持ち主たる神だったということになる。そして、身に纏った真紅の衣と剣は、十拳剣に秘められた神通力が具現化したもの、ということだろうか。
咲耶は小さく深呼吸をした後、御中を見つめる。
「御中さん。あなたが会ったという、羽張と名乗った女性。彼女は、十拳剣が一本、天之尾羽張剣の持ち主たる、神々の一人だと思われます」
「やっぱり……、そういうことになるんですかね?」
咲耶の言葉を聞いて、御中はそう考えるのが自然に思えていた。あくまで言い伝え、事実かどうかはわからない。それでも、黒影と戦い、羽張と出会った御中にとって、それは空想の物語ではない。すべて、自身の身に起きた、真実の体験なのだ。
「御中さん。お願いがあります」
咲耶は御中の手を取り、顔の前まで持ち上げる。動揺し、咲耶の顔を見上げる御中と、咲耶の視線が絡み合う。
「あなたの力を、貸してください」
「ぼくの……力?」
「はい。私は、この世界の平和のために、高天原の地を目指しています。御中さん。私と一緒に、来てはくれませんか?」
「高天原の地……。ぼくが、ですか?」
本当に存在しているかどうかさえわからない地。そこを目指し、そして世界に平和をもたらす。とても御中一人が背負い込めるものではない。
確かに、禍津が作り出したという黒影によって、御中が暮らしてきた村はなくなってしまった。家を失い、親を失い、残された高御とともに、これからを生きていかなければならない。それだけでもどうすればいいのかわからないというのに、加えてこの世界の平和のために力を貸してほしいという。
御中は改めて咲耶を見る。手は今も繋がれたまま、その目からは真剣さ以外の余計な感情が一切感じられない。
「やろう、御中!」
高御はそう言うと、二人の手に自らの手を重ねて、強く力を込める。御中の手には、咲耶と高御、二人分の力が加わる。しかし、まったく痛みはなく、温かさと心強さが手を伝わって、御中に流れ込んでくるような感覚を覚えた。
御中は、高御と咲耶、二人の顔へ交互に視線を向ける。そして、その言葉を口にした。
「……うん。やろうか、ぼくたちで」
「本当ですか!? ありがとうございます!」
「ううん。ぼく一人じゃ、絶対に叶えられないと思うけど……」
高御と視線を合わせ、大きくうなずく。
「ぼくたち二人なら、きっとどうにかなると思う」
「ぼくも、神通力は使えないけど、なにかの役には立ってみせるよ」
御中と高御は、顔を覆う咲耶の手を取り、力強く握る。現れた咲耶の顔は、今には泣き崩れてしまいそうな表情に見えた。
「はい! はい! よろしく、お願いします」
一瞬、咲耶の小さな瞳から、きれいななにかが一滴、零れ落ちたように見えた。その一滴に気づいたのは、御中だけだった。それでも、その一滴は、御中の中のなにかを満たすには、十分な量だった。
この日、三人は出会い、誓い合った。
腕を磨き、誰かを守れるくらい、強くなることを。
十拳剣を手に入れ、禍津を倒すことを。
芦原の地へ、再び平和を取り戻すことを。
自分たちのような、悲しい想いをする人がいなくなるように戦うことを。
すべては、高天原の地へ行くことで、達せられる。
言葉で確認し合わなくとも、お互いに考えていることは伝わっていると思った。これだけの想いをしたのだから。これだけの悲しみを背負ったのだから。二人は家族で、三人も家族になったのだから。
手を取り合い、空に浮かぶ黄色の月を見上げる。
「強くなりたいな……」
漏れ出た高御の言葉を、御中は噛み締める。
守る。高御を守るために。家族を守るために。
三人の想いは、同じ目的へと繋がっている。それだけは、確かに感じることができた。