第参話 振るう剣、纏う衣
作者のエゴかもしれませんが、本作の「剣」は、基本的に「つるぎ」と読んでいただけると幸いです。
***
それは、不思議な空間だった。
最初に目にしたのは、自分の身体を支える地面が、静かに、波打つように揺れている様子だった。
「のわっ⁉」
驚き、思わず一歩飛び退いてしまう。しかし、新たに足を着いた先も、さらに言えば視界に入る限り一面が、透明な青白い水面のように広がっていた。
御中は、その水面に沈むことなく身体を立たせていた。
一抹の不安を感じながらも水面を覗き込むと、見たこともないような魚群の群れが回遊しているのが見えた。その魚体は様々な色に発光していて、集団となることで虹色の輝きを見せていた。強い光にもかかわらず、その光を見つめていても瞳に負担はかからず、むしろどこか安心するような気分にさえなってくる。
ひとまず気持ちを落ち着かせて、あたりを見渡す。
先ほどまで相対していた黒い影は、今はどこにも姿がない。この空間に存在しているのは、終わりの見えない水面と、どこまでも続く青い空。少なくとも、今日まで御中が暮らしてきた村の近くではない、ということだけは理解することができた。
もう一度、注意深くあたりに視線を走らせる。すると、不意に御中の真後ろから、その声は届いた。
「大丈夫、ですか?」
「え?」
突然の事態に動揺したのか、御中は思わず身体を震わせる。振り向くと、そこには見たこともないような服を着た、見知らぬ女性が宙に浮くようにして存在していた。
「……」
御中の思考は混乱し、思ったように口を動かすことができない。ついには、沈黙するようにその場で固まってしまった。
女性は、見たところ歳が御中よりも上のように思えた。長い髪を後ろで結い、手前で腕を組みながら立つその姿は、物語の中に登場する、どこかのお屋敷のお嬢さんを彷彿とさせる。身に纏う衣は白を基調として、袖や衿が真紅に染められていた。
女性は、静かに御中を見下ろしながら、再び同じ言葉を繰り返す。
「大丈夫、ですか?」
「えっと……。大丈夫、でしょうか?」
思わず、質問に質問で返してしまう。
「なにが、あったのですか?」
「なにが……、ですか……」
御中は、どうしてこの空間に自分がいるのか考えを巡らせる。しかし、腑に落ちる答えを導き出すことができない。どのようにしてこの空間まで来たのか考えを巡らせる。やはり、納得がいく答えにたどり着くことができない。
なにか答えなければならない。そんな気持ちに引っ張られるようにして、御中は頭に浮かんだことをそのまま口にしていく。
「えっと、黒い影、です」
「黒い影?」
「はい……。見たこともない黒い影が出たんです。それで、全部燃えてしまって、それで、なにもかも壊れていて、それで、それから、ただ必死に頑張って……」
言葉は支離滅裂だった。それでも、伝えよう、伝えたい、伝えなきゃという、使命感とも思える気持ちだけはあった。混乱する頭を整理するように、最後に目にした光景を、言葉にして確かめていった。
「なるほど……」
勢いのままに話し続けた御中の言葉を、女性は静かに、時折うなずきながら耳を傾けていた。そして、御中の言葉が途切れると、少し身体を滑らせるように水面へと降ろし、考え込むように視線を落とす。
「えっと……。ぼくは、どうしてここにいるのでしょうか?」
遠慮するように声を出した御中に対して、女性は顔を上げ、透き通るきれいな声で答える。
「そうですね。おそらく、あなたの血に、私の存在が反応したからでしょう」
「血に?」
「そうです。正しく言うのであれば、あなたの血から、神通力の力を感じたから、でしょうか」
「血の、神通力……」
思えば、確かに御中の身体からは、大量の血が流れ出ていた。だとするとその血が、この女性と、この世界と繋いでくれたということだろうか。
「えっと、すみません。あなたは、どなたでしょうか?」
御中は、目の前に浮かぶ不思議な女性に対して、思わずそんな疑問をぶつけてしまう。
「私は、羽張、と申します」
「えっと……」
「私の名です。羽張、と申します」
「はばり……さん、ですか」
御中にとって、その名前の響きは初めて聞くものだった。いったい、どのような意味が込められているのかさえ、到底思い浮かばない。
「あの、それで……。ここはいったい、どこなんでしょうか? いったい、ぼくたちはどうなってしまったんでしょうか? 高御は、無事なんでしょうか?」
「そう、ですね。今はまだ、あなたたちの存在を感じることができます。ですが、それは風前の灯火。すぐに手を打たなければなりません」
「は、はあ……」
髪を思いきりかき回しながら、「死後の世界には不思議なことがあるものだ」と、御中はのんきなことを考えていた。
「あなたは、どうしたいと思っているのですか?」
目の前に浮かぶ女性――羽張――は、御中と視線を合わせる。御中は、不意に視界に入り込んだ羽張の青い瞳を見て、純粋に「きれいだ」と感じていた。御中を見つめながらも、御中のことを見ていないような。青い色でありながら、少し輝きを失っているような。なぜか、その瞳に吸い込まれるような気分になってくる。
自我を失いそうになり、御中はあわてて視線を逸らす。
「さあ、わかりません。ぼくはただ、必死だっただけです」
目の前に迫りくる黒い影に対して。あるいは、横で倒れる高御をどうにか助けたくて。落ちていた錆びた剣に、御中は最後にすがった。ただ、それだけだった。
「守りたかったんです。ただ、高御を。それだけだったんです。結局、守れませんでしたが……」
「……」
羽張は、思案するように、黙って御中へと視線を向け続ける。たっぷり、御中という人間の核心を見定めるように、その全身へと視線を滑らせる。そして、決意するように、言葉を口にした。
「では、力をお貸ししましょう」
「力を?」
「そうです。私は、あなたに力をお貸しします。あなたは、大切な人を守るために、その力を使ってください」
「本当に、そんなことができるんですか? そんな、神様みたいなことが……」
「……」
その言葉に答えるように、羽張は黙ったまま、優しく微笑む。
「お願いします! ぼくに力を……、高御を、みんなを守れる力を、ぼくに下さい!」
迷いなんてない。御中にとって、それよりも大事なものなんて、この世に存在しないのだから。たとえどんな力でも、羽張が悪魔の使いだとしても、大切な人を守るための力なら、喜んで手に入れたい。どんな試練でも乗り越えて見せる。
「ですが……」
興奮気味に振る舞う御中に対して、羽張はあくまで冷静に、淡々と言葉を紡ぐ。
「ですがその代り、たった一つ、私の願いを叶えていただきたいのです」
「願い、ですか? もちろんです! ぼくにできることなら、なんでもやります!」
「そう、ですか……」
御中にとって、その答えは純粋な気持ちだった。真っすぐに、ただ一心に、目の前の壁を乗り越えることだけを考えた言葉だった。
「わかりました」
羽張は目を閉じる。なにを考えているのか、御中には察することさえできない。
その後、小さく羽張の口が動く。何事かを口にしていたのは間違いないが、御中には聞き取ることも、読み解くこともできなかった。
「それでは、目を閉じてください」
「目を?」
羽張の手が伸びる。そっと、御中の瞼を優しく降ろす。
その声は、耳元でそっと、ささやくように聞こえてくる。
「次に目を開けたとき、あなたは力を手にしているでしょう。その力で、大切な人を守ってあげてください。そして、いつか私の願いを、叶えてください」
こそばゆさを感じた後、なにかを口にするよりも早く、御中の意識は溶けていった。
最後に感じたのは、今まで感じたことがないような、唇への、柔らかな感触だった――。
***
唐突に視界が開ける。
「え?」
視界に飛び込んできたのは、御中の身体を包む、真紅の衣。そして、見たこともない剣と、その先に広がる、見たことのある光景。
「こ、これっていったい……」
「アアアアアアアア!」
「って、うわっ」
状況を理解するよりも早く、目の前に現れた黒い影が御中に襲い掛かる。思わず目を閉じた御中だったが、衝撃は訪れない。
「あ、あれ?」
目を開けると、黒い影が振りかぶっていたはずの手は、先から半分ほどが切られたようになくなっていた。
「ア……ア……」
「あ、あれ?」
未だに状況は把握できない。それでも、とりあえず御中にとって悪い状況ではないように思えた。
「……よし!」
握りしめていた剣を持ち直し、黒い影に向かって構える。初めてもったはずの剣の感触は、不思議と御中の手に馴染んでいるように思えた。
「いくぞ! っせいや!」
御中は、黒い影に向かって大きく一歩踏み出しつつ、剣を右上方へ担ぎ上げるように回し、勢いよく振り下ろす。すると、木刀では一切当たることがなかった黒い影の身体を、鋭く剣先が切り裂いた。
「グアアアアアア!」
低い断末魔を上げながら、黒い影はみるみる内に灰色に染まっていく。そして、あっという間に全身を灰のように変えていった。地面に積もったその灰は、風にさらされて森の方へと流れていく。
「これは、いったいどうなってるんだ……」
御中は、改めて自分の姿を確認する。やはり、今まで着たことがない衣だった。袖の下側と衿全体、加えて腰から下までが真紅に染まっている。
そこまで確認したところで、この衣が、あの変な場所で出会った宙に浮いた女性、羽張が着ていた服にそっくりだと思った。
「えっと……これって……」
続きを口にするよりも早く、御中の視界は黒く塗られていく。次の瞬間、身体が頭から地面に向かって倒れ込んだ。身に纏う真紅の衣は、徐々に木くずのように崩れ始め、わずかの間で御中の身体から剥がれ落ちてしまう。まるで最初から存在していなかったかのように、御中の身体にはいつもの着慣れた服が纏われていた。
黒い影が消え、御中は倒れ、高御も目を覚まさない。
静寂が訪れた。もはやこの村には人の気配がしなかった。
気を失い、地面に伏せる二人。
今なお燃え続ける炎の音だけが、その存在を二人に主張し続けていた。