第壱話 御中と高御
いつもと変わらない朝が始まる。
短い間隔でなにかを刻む音が、今日も寝ぼけ眼の御中の耳に届く。重い瞼を擦りながらも、しばらくの間は抵抗するように、適当に掴んだ布で耳を覆う。
「御中ー。高御ー。そろそろ起きてー」
「……ふぁああ。御中、朝だよ。先に行ってるからね」
御中のすぐ側で、物音を立てながらなにかが動き出す。それでもまだ、御中はまどろみの中に居座ろうとしていた。
しかし次第に、お腹の虫を刺激するような、香ばしい匂いが鼻へと届くようになる。
「! 朝!」
素早く起き上がる御中。高御の姿はすでに見当たらない。どうやら、先ほどの物音は高御が立てたものだったらしい。
「御中ー。早くこっちきて、手伝ってー」
「わかったー。今から行くー」
聞こえてきた母親の声に返事をする。床に敷いていた布団を適当に片付け、声が聞こえた方向へと向かう。そこには、すでに食事の用意をほとんど済ませ、御中が起きてくるのを待つ両親と高御の姿があった。
「やっと起きたか。御中は相変わらずだな」
「ふふふ。御中はお寝坊さんだね」
「遅い!」
「ごめんごめん」
呆れに似た声を一身に浴びながらも、御中はいつもの場所へと腰を下ろす。そこには、すでにお椀がいくつか用意されていた。
「さあ、いただこう。母さん、今日もありがとう。いただきます」
「はい。今日もよろしくお願いします。いただきます」
「「いただきます!」」
両親のいつものやりとりを横に見ながら、御中と高御は手を合わせ、前のめりになってお椀の中身をかきこむ。
「おいおい。そんなに慌てなくても、誰もとったりしないぞ」
「二人とも、もっと落ち着いて食べてね」
「もが!」
口に食べ物を含みながら、御中は両親に向かってうなずく。一方高御は、気にすることなくかきこみ続けている。
「ふふふ」
そんな二人を見て心配する父親とは対照的に、母親は終始笑顔を浮かべていた。
一足先に食事を終えた御中と高御は、森へ向かうための準備を始める。いつもの木刀を携えた高御は、未だ部屋から出てこない御中を急かすように、何度も声をかける。
「御中、早くいこうよ」
「もう少しかかりそうだから、高御は先に行っていいよ」
「いい。待ってるから、早く準備してきて」
「わかった。急いで支度するから、外で待ってて」
「んー」
慎重でしっかりとした御中とは違い、高御は大雑把で勝気な性格だった。その割に繊細で、村にいる同い年の男の子たちと遊ぶことはなく、いつも御中の周りをうろつくか、お気に入りの木刀を片手に、剣の修練に励んでいた。二人は、互いに違う長所をもちながらも、足りない部分を補い合って助け合う、仲の良い兄弟だった。同じ日に生まれ、お互いが思っていることは、どんな些細なことでもわかり合えた。同じ時間を過ごし、同じものを見て、同じことを考えてきた。それでも、これだけ性格が異なる男の子に育ったのだから、両親も不思議に思っているに違いない。
高御を長い時間待たせるのも悪いと考え、御中はいつも壁にかけている木刀だけを手にとり、床に散乱するものを器用に避けながら家の出口へと向かった。
「お待たせ、高御」
「遅いよ御中! さあ行こう。今日こそは勝ってみせるから」
「やる気満々だね。それじゃあ、行こうか」
高御は、家から出てきたばかりの御中をまくし立てると、後ろに回って御中の背中に手を当て、ぐいぐいと前へ、森の方向へと押し出していった。
二人が暮らす村は、この辺り一帯を覆う森の中心部に位置していた。すぐ近くに清流が流れていて、村で暮らす三十余りの人々は、その水を頼りに生活していた。
父親の話では、ここから遙か東の地に、この村が十も二十も入ってしまうくらい、大きな村がいくつもあるらしい。二人は話でしか聞いたことがなかったが、つい最近、偶然村に立ち寄った商人からも同じ話を聞き、一度は行ってみたいと思っていた。
川にかかる橋を渡り、高御に押されながらも、御中は森の中へと進んでいった。
「よっし。それじゃあ御中、昨日の続きをしよう」
少しの間、木々が生い茂る森の中を走った後、二人はほんの少し開けた場所に辿りつく。辺りの木は斧で切り倒されたのか、座るのにちょうどいい高さの切り株がいくつか点在していた。
「うん。昨日はぼくの勝ちだったから、今日も勝たせてもらうよ」
「違うよ御中。昨日はぼくの勝ちだったよ。こいつで背中を一突きしたでしょ」
高御は木刀を胸の位置まで持ち上げた後、見せつけるように御中へと突き出す。
「いやいや。高御はいつもそう言うけど、昨日も、その前も、ずっとぼくの勝ちだったじゃないか」
「そんなことないって。昨日だって、こいつを思いっきりくらったせいで、御中は泣いてたじゃないか」
今度は木刀の剣先を指差し、軽く数回叩く。そのまま右手で強く握り直して、風を切り裂くような音を立てながら、剣先を御中の方へと振り下ろす。
御中は、呆れたように首を左右に振った後、地面につけていた木刀を両手に握り直して、高御と同じように、剣先を真っ直ぐ前へ向ける。
「なら、今日こそは決着がつくまでやり合おう。ぼくの方が高御より強いってこと、証明してみせるよ」
「ぼくだって、こいつの使い方なら誰にも負けないよ。ずっと練習してきたんだから。御中よりも絶対に強い」
二人は、決着がつかない言い争いを一度切り上げ、お互いの目をじっと見つめる。剣を握る手は、御中も高御も相当力が入っている。
歳は同じ。体格もそう変わらない。兄と弟とはいえ、生まれた日は同じ。剣の修練も同じようにこなし、師匠さえ二人とも同じ、父親に教わってきた。実力では全く変わらない。それでも、この勝負は御中が勝つということがわかりきっていた。
「いくぞ!」
先に声を上げた高御は、御中に向かって勢いよく走り出す。木刀を持つ手は右の懐深くへ引き、突進する形で突き出そうというように見えた。
「来いっ!」
その様子を冷静に見る御中は、ゆっくりと、高御の狙いを予想する。あの位置からだと、おそらく御中の左脇腹辺りをめがけて突いてくるはずだ。それなら……。
「うりゃー!」
走る勢いそのままに、御中の予想通り、高御は左脇腹に向けて強い一突きを繰り出す。しかし、その位置にはすでに御中のもつ木刀があった。
カツーンという、木刀同士がぶつかり合った、響きのいい音が森に響く。走った勢いもあり、思ったよりも高御の剣の勢いは強かった。予想し、防ぐ構えの御中だったが、勢いを受けきれずに大きく後ろへと押し込まれてしまう。
「どうしたの御中、そんなに大きく後ろに引いて。もしかして、たった一突きで降参、なんてことはないよね?」
「そんなわけないよ。ただ、ちょっと思ったよりも強かっただけ。今度はこっちから行くよ」
「おっけー。さあこい!」
体勢を立て直した御中は、改めて木刀を両手で持ち、正面中段に構えてゆっくりと高御に歩み寄っていく。一歩ずつ、一歩ずつ。しびれを切らした高御が突進してくることを期待しつつ、周りの状況を把握するように、目だけを静かに動かす。
「そんなにノロノロ歩いて……。それじゃあ、もう一回こっちから行くよ!」
再び走り出す高御。それを目で捉えた後、御中はすべての意識を高御に向け、今までにない、鋭い視線を送る。
すると、二人の間を裂くように、どこからともなく強い風が数度吹き付ける。その風の終着点、高御の木刀は、強く握りしめていたその手をもろともせず、即座に木刀を奪い去った。
「っせいや!」
がら空きになった高御の身体に向けて一閃。御中の太刀筋は迷いなく、きれいな軌道を描いて素早く高御の胸に打ち込まれる。
「うっ!」
木刀を取られ、防ぐ手段なく打ち込まれた高御は、歳に似つかわしくないような、低くくぐもった声でうめく。そしてそのまま地面にガクッと倒れ込み、膝をついた。御中は、小さく息を吐いた後、高御の横にゆっくりと歩み寄り、悔しがるように見上げる高御に向けて、勝ち誇ったように口を開いた。
「やっぱり、今日もぼくの勝ちだね」
「ずるい……。こんなの、剣の勝負じゃない。卑怯だよ……」
吐き捨てるようにつぶやく高御。口の端から、わずかに出血しているのが見えた。
「いや、別に卑怯ってことはないでしょ。神通力だってぼくの力なんだから。勝つためには、しっかり考えて、全力を出さないと」
「……」
なにも言い返すことができないからか、あるいは受けた痛みがまだ続いているからなのか。じっと視線を御中に向けたまま、今にもなにか零れ落ちそうな視線を地面に落とす高御。口の血を右手で拭う仕草は、なにかをこらえているように映った。
深い、ため息ともとれる呼吸をした後、高御は、地面に転がっている木刀の元へと歩いていく。その足取りは、見えないなにかを引きずって歩いているようにさえ映った。
神通力。
それは、万物に対して働き掛け、あらゆる事象を起こす、不思議な力。誰もが使えるわけではない。少なくとも、御中が知る限り、ほかに扱える人はいない。
二人が対峙したあの瞬間。御中は、神通力を用いて風を発生させて、高御がもつ木刀に向かって、強風が吹きつけるように操ったのだ。
神通力は、扱い方によって様々な力を発揮する。たとえば、遠くの木々から葉を落としたり、水たまりを蒸発させたり、燃える炎を大きくしたり……。ある程度思いつくことは、御中も試してきた。それでも、なぜこの力を扱うことができるのか。どうして御中だけが使えるのか。そのことは、未だによくわかっていなかった。
御中と高御。
同じ日に生まれ、同じ時を過ごし、同じものを見てきた。しかしながら、神通力は御中にしか扱えなかった。そこになんらかの意味があったとしても、二人にとって、大きな溝が引かれてしまったことには変わりなかった。
御中は腰に手をあて、高御に声をかける。
「今日はもう、帰ろうか」
「……うん」
高御からは先ほどまでの威勢が感じられなくなっていた。御中の問いかけに対しても、心ここに在らず、といった様子の返事をするばかりだった。
「そうだ、今日は父さんから小枝を拾ってくるように言われていたんだった。高御、悪いけど先に戻って、母さんの手伝いをお願いしてもいい?」
「……わかった。先に帰るよ」
その声に覇気はなかった。御中の方を振り返ることもなく、高御は村の方へと消えていく。
この森での修練は、御中が神通力に目覚める前から行っていたものだった。「いつか、なにかのために」という父親の言葉を、意味はわからず受け入れていた二人。しかし、今は少し、その言葉に対する意識が変化している。
「高御……。本当は、どう思ってるのかな……」
ふと、そんな考えが御中の頭を過ぎる。
修練のときは神通力を使わないようにしようと、当初の御中はそう考えていた。なぜなら、神通力という力は、いずれ高御も目覚めるものだと信じていたからだ。しかし、どんなに修練を重ねても、どんなに時が流れても、高御が神通力の才を覚醒させる気配はない。
そこで御中は考え方を改め、高御の近くで積極的に神通力を使うようになった。もしかしたら、なにか秘められているものを刺激することができるのではないかと考えたからだった。
「……ふぅ」
溜息がこぼれる。集めた小枝をひとまとめにして、持ち運びやすいようにもってきた紐で縛っていく。
高御のことは心配だったが、今はそっとしておくことしかできない。
御中が神通力に目覚めた後、初めこそやる気に満ち溢れていたように見えた高御だったが、次第にふさぎ込むことが増えた。今では、家族以外とはほとんど話すこともない。
神通力という力が、高御を捻じ曲げてしまった。そんなことを考えたこともある。それでも、御中は高御の前で神通力を使い続けた。なんとかして、高御にその日が訪れることを待った。
「どうすればいいのかな……」
高御にとって、今の状況があまりいいものではないということは、兄である御中が誰よりも感じていた。だからこそ、兄弟でも、二人は距離を置かなければならないのかもしれない。御中は、最近そう考えるようになっていた。
願いは欲望だ。欲望は、膨れ上がると破裂してしまう。恐ろしいのは、破裂した後、再び願いを抱けるのかどうかはわからないというところにある。一歩間違えると、その願いは誰かを傷つけてしまう。なにかを失ってしまう。だからこそ難しい。目指す先は明確なのに、そのためにやるべきことはあまりにも複雑に思えた。
「村、出るべきなのかもしれないな」
そんなことを考えている内に、御中の周りには小枝の山がいくつも出来上がっていた。気付かない間に、持ち運ぶことができないくらいの量を拾っていたらしい。
「仕方ない。帰ろう……」
どのみち、御中一人で決められることではない。両親にはもちろん、やはり高御にも話しておかなければならない。たった二人の兄弟なのだ。それくらいのことで切れてしまうような、薄い繋がりとは到底思えない。いや、思いたくない。
頭を過ぎるのは家族のことだけではない。神通力という、稀な力に目覚めた御中にとって、なにかをしなければならないという、強烈な使命感のようなものは常に頭の中を渦巻いている。しかし、この平和な村で、神通力という唯一の力をどう生かすべきか。それは、当事者の御中でさえもわからなかった。
「名もなき土地。争う人々。現れる神々。そんな話が本当にあれば、ぼくの神通力で、誰かを助けることができるのかな……」
それは毎晩のように、父親から聞いた昔話。本当にあったのか、それともただの作り話なのか。実際のところ、御中には想像もつかない。
現実問題として、そのような争いがこの世界で起こるはずはない。いや、起きては困る。
御中は争いを好むような性格ではなかったし、助けを必要とする人なんて、この世にいない方がいいに決まっている。誰も助けを必要としないということは、みんな幸せということなのだから。
「帰ろう……。高御はもう、家に着いたかな」
腰に巻いた帯には、先ほどまで高御と修練していたときに使っていた木刀が納めてある。おもむろに手を伸ばすと、木刀の柄が左脇腹を突くような形になった。
「いたっ!」
先の尖ったものがチクチクと皮膚を刺すような痛みを感じた。そこは、高御から最初の一撃を受けた場所だった。
「ったく。高御は手加減を知らないんだから」
御中は、神通力こそ扱えるものの、剣戟では高御に劣っていると感じ始めていた。間合いの取り方、太刀筋、剣技、駆け引き。そのすべてにおいて、神通力をもたない高御は、死にもの狂いで身に着けようと取り組んでいた。そのことは、一番近くで見ていた御中が最もよく知っている。だからこそ、その意志の強さが、優柔不断な御中にとってはすごくうらやましかった。
痛みを感じる部分を右手でさすりながら、集めた小枝を紐で縛っていく。
先に高御が戻ってから、すでにかなりの時間が経っていた。空を見上げると、思ったよりも日が傾いていて、森はもうじき眠りにつく頃合いだった。
暗くならない内に帰るため、先に戻った高御が歩いたであろう道を歩き始める。御中の足は自然と、小走りになっていた。