第拾肆話 兄たり難く弟たり難し
屋敷の中には、その姿があった。
操るように、黒影に対して指示を出す高御。その先には、白い衣を纏った櫛名田と、槍を手にした咲耶が必死に対峙している。その奥では、淤能碁呂の人々を屋敷の中へと避難させるために誘導する、伊岐の姿があった。
「高御!」
御中の声に気づいたのか、高御は振り向く。その顔は、光悦に入るように、口元が緩んでいた。
「遅かったな。早くしないと、二人ともそろそろ限界だと思うが……」
「どうして! どうしてこんなことをするんだ!」
御中は勢いよく斬りかかろうとする。しかし、二人の間を二体の黒影が阻むように現れる。
「邪魔! 今は相手をしている場合じゃないんだ!」
踏み出す足に力を入れ、勢いよく地面へ叩きつける。瞬間、御中の足元の砂が大量に宙へ舞う。砂は壁のように御中の左右へと集まり、押し寄せていた黒影をはじき返した。
「すごいな。そんなこともできるようになったのか」
感心するように、高御は何度かうなずく。なにがそんなに嬉しいのか、御中には理解することができなかった。今は、一刻も早く高御を止めなければならない。そして、なぜこんな真似をしたのか、問いたださなければならない。その一心で、向かってくる黒影と対峙する。
「高御!」
「そんなに何度も呼ばないでくれ。恥ずかしいだろ」
「今すぐこんなことはやめろ! さもないと……」
「さもないと?」
御中は剣をもつ手に力を込める。
「高御を、斬らなくちゃいけなくなる」
できることなら、それだけは避けたい。この期に及んで、御中はまだ迷っていた。水蛙の言葉を聞いてなお、できることなら、その決断を下したくないと考えていた。
そんな御中を嘲笑うように、高御はなおも黒影を操り、御中に対して差し向けてくる。
「まだそんなことを言ってるのか。ほんとに、御中はいつまでもお人よしだな」
「高御!」
「そんな御中だからこそ、おれは超えたいんだ。あの日、一緒に誓っただろ? 強くなろうって。どんなに強い相手が現れても負けないくらい、一瞬で倒してしまえるような、絶対的な力をつけようって」
「違う! そんな力、ぼくたちは望んでなんかいないはずだ! ぼくたちはただ、誰かを守れる力が欲しかっただけのはずだ!」
御中は、剣を前へと振り下ろす。迫りくる黒影は、風の刃を受けて次々と散っていく。
「だからぼくは! 高御を! 家族を! みんなを守るために! 強くなろうって決めたんだ!」
屋敷の端まで迫っていた炎を一瞥し、左の手のひらを向ける。限界まで指を開いた後、力強く握る。すると、炎は球体のように小さくまとまり、そのまま御中の手元へと引き寄せられる。
「咲耶! 櫛名田! そこから離れて!」
言うと同時に、炎の球体を高御へと投げ込む。地面に落ちると、炎は勢いよく広がっていき、すぐに多数の黒影を巻き込んで、周囲を火の海にしていく。
「御中くん!」
「御中!」
高御とともに多数の黒影が炎に包まれたことで、御中と咲耶たちは背中合わせになるようにして、残りの黒影と対峙する。
「御中! なにやってるの! どうしてこんなことになってるの!?」
「ごめん櫛名田。ぼくにもわからない。でも、高御は本気みたいだ。本気で、ぼくたちを倒そうとしている」
「なんで!? もう、わけがわからないよ!」
櫛名田が身に纏う白の衣は、すでに袖のあたりが破れていた。おそらく、かなりの数の黒影を間近で退けたのだろう。こんな状況でも、櫛名田が成長していることが嬉しく思えた。
「御中くん。私の力、使ってください」
「咲耶……じゃなくて、羽張さん――」
「咲耶、で大丈夫ですよ。今まで通り、そう呼んでください」
少し疲れたような顔をしながらも、御中のことを心配するように咲耶は微笑んだ。
「ありがとう、咲耶」
すでに咲耶の手には、先ほどまであったはずの槍が握られていない。おそらく、戦っている最中で折れてしまったのだろう。
「咲耶、ぼくはどうすればいい? どうすれば咲耶と一緒に戦える? 教えてほしい。あの日以来、一回も神懸りすることができていないから」
櫛名田はさも当然のように、生大刀の力を身に宿している。白い衣を身に纏っていることから、それはすぐに理解できた。一方、御中は、咲耶の力、つまり天之尾羽張剣の力をその身に宿す方法がわからない。あの日、たった一度だけ、それも気がついたら真紅の衣を身に纏っていた。だからこそ、どうすればいいのかわからなかった。
咲耶は、焦るように言葉を続ける御中の手を、両手で優しく包み込むようにして握る。
「大丈夫です。難しいことではありません」
「咲耶……」
「目を瞑って。私のことを考えてください。私のことだけを考えてください」
「咲耶のことだけを?」
「そうです。焦らないで。ゆっくり、心を落ち着かせてください」
咲耶に言われた通り、御中は目を瞑る。視界は閉ざされ、光も遮断される。そのまま、なにも見えない暗闇の中で、ただひたすらに、咲耶のことを思い浮かべる。
出会ったときの咲耶。
食事の用意をしている咲耶。
優しく微笑んでいる咲耶。
御中と高御と櫛名田。三人を母親のような温かさで包んでくれた咲耶の表情は、意識せずとも脳裏に焼き付いている。思い返そうとせずとも、もらった愛情はしっかりと心に届いている。視覚が遮断されたことで、御中の感覚は、繋がれた手へ一心に注がれる。
御中の手と比べて、咲耶の手は柔らかかった。
御中の手と比べて、咲耶の手は温かかった。
御中の手と比べて、咲耶の手は小さかった。
いつも一緒にいたはずなのに、こうして手を繋いだことで、初めて知ることがこんなにある。そのことが、御中にはとても嬉しいことに思えた。とても愛おしいものに思えた。大切にしたい。守ってあげたい。この人が抱えているあらゆる苦悩を取り除いてあげたい。そのためにも、強くならなければならない。守るためには、力が必要だから。
繋いだ手から、なにかが御中へと流れ込んでくるような感覚を覚えた。そのなにかは、すぐに御中の身体中へ広がっていき、言葉にすることができないような、不思議な安心感で身体を包んでいく。
「目を、開けてみて」
目の前にいたはずの咲耶だったが、声は頭の中へと直接響くように聞こえてきた。御中は、その言葉の通りに、そっと瞼を開く。
「これ……、あのときの衣だ……」
御中の身体は、真紅の衣に全身を包まれていた。その衣は紛れもなく、あの日、御中たちの村が焼かれた日に、初めて黒影を倒した際に身に纏っていたものだった。
「これが、神懸り」
『そうです』
「咲耶? どこにいるの?」
声は聞こえてくるのに、咲耶の姿はどこにも見つけることができない。御中の横には、心配そうにこちらを覗き込んでいる、櫛名田の姿だけを捉えることができた。
『私はここにいます。御中と一緒にいます。御中の中に、私は確かにいます』
「ぼくの、中に?」
『はい。神懸りとは、十拳剣に刻まれた、私たちの力を身に纏うことなのです。櫛名田ちゃんも、生大刀に刻まれた生ちゃんの力を身に纏っているのです』
「それじゃあ、あの日ぼくが見たものって……」
『それは私の中、つまり、天之尾羽張剣の世界です。剣に刻まれた私の内面、と言った方がわかりやすいでしょうか』
あの日見た、晴れ渡るような空の下の世界。あの場所が天之尾羽張剣の世界、つまり咲耶自身なのだとしたら、もう一度行ってみたい。もう一度感じてみたい。あの気持ちよさを、もう一度味わってみたい。御中は、自然とそんな気持ちになっていた。
「ちょっと御中! あんた大丈夫なの?」
いつまでも呆けたような表情をしていた御中にあきれたのか、櫛名田は軽く御中の頬を叩く。
「ちょっ、痛いよ櫛名田」
「なに言ってるの! 痛くもかゆくもないでしょうが。そんなことより、その姿になったってことは、戦えるってことでしょ? 御中がやったあれ、そろそろなくなりそうだよ」
櫛名田が指差す方向に視線を向けると、先ほど御中が作り出した火の海は、すでにほとんど消えてなくなろうとしていた。その中には、動くことなくじっとしていたのか、火の海に飲まれる前と同じ位置に立つ高御が、じっとこちらに視線を向けている。笑いか、それとも憎しみか。感情がはっきりしないような表情を、静かにこちらに向け続けている。その視線を、御中を落ち着いて受け止めた。
「御中。せっかく待ったんだ。全力を見せてくれ」
「高御。力を求めるのは、自分のためじゃない。力は、誰かのために求めるんだ。それは、あの日一緒に誓ったんじゃなかったのか?」
「違うよ、御中」
高御は右腕を薙ぐように、御中へ向けて振り払う。すると、二人の間でわずかに燃えていた炎は、その部分だけ一瞬にして消え去る。
「あの日、御中は力を求めた。親を失い、家を失い、村を失い。せめて最後に残った家族だけは守りたい。そう思っていたんだろ?」
「うん。それは高御も同じはずでしょ?」
「いや……」
高御は足を止め、目を閉じ、御中の問いを否定するように首を振る。
「おれはそんなことを誓ったりなんかしていない。そんな願いを望んだりなんかしていない」
「じゃあ、なにを誓ったの? なにを願ったの? なにを望んだの?」
「決まってるだろ……」
高御は両手を掲げる。その腕は、空に浮かぶ月を抱くように広げられる。
「誰よりも強い力だ! 何者にもなれる力だ! あらゆる困難を跳ね返す、絶対的な力だ! おれはそれを望んだんだ! あの日じゃない。ずっと望んでいたんだ! 常に御中が選ばれ、おれは選ばれなかった。誰よりも努力していたのはおれなのに。誰よりも力を欲していたのはおれなのに。なのに!」
「高御……」
「どうして神通力は御中だけに扱えたんだ!? どうしておれは選ばれなかったんだ!? その十拳剣も、どうしておれの前に現れなかったんだ!? なあ、咲耶! どうしてお前はおれではなく、御中を選んだんだ!」
それは渇望だった。力への固執だった。才能に対する執着だった。御中が選んだわけではない。ましてや、高御が選んだわけでもない。
全ては偶然の産物。しかし、重なることで、偶然は必然へと変わっていく。
それは、もつ者と持たざる者の確執。二人に差異は存在しない。
等しく育ち、同じ形の愛情を与えられ、同様の道を歩いて生きてきた。それでも、道の右端と左端では、その路面は全く異なっている。誰がどこを歩き、いつ石につまずき、沼に足を取られ、砂利で転倒するのか。そんなことは、誰にもわかりはしない。たとえこの空を飛ぶことができたとしても、人はほんの少し先の未来さえ、見通すことなんてできはしない。だからこそ、全ては偶然なのだ。偶然だからこそ、受け入れなければならないのだ。
『悔しいです。ここまで闇を抱えていたことに、私は気づくことができなかったなんて。残念ですが、私の言葉では、きっと高御を救ってあげることはできないでしょう。』
咲耶の言葉は、決して高御に届くことはない。
『選ばれるとか、選ばれないとか。この世界は、決してそのようにはできていないのです。あるのはただ一つ、選ぶか、選ばないか。そこに誰かの意志など、関与する余地がないのです。選択肢は、常に等しく、誰にでもあるのです。そのことに気づくことこそが大切なのです。選択した上での失敗を恐れ、その責任を負うことを放棄してしまうことは、決して選んではならない選択なのです』
咲耶の言葉はもっともだ。それでも、今の高御には、その言葉を受け入れるだけの余裕がない。正しいことを正しいと言うことが、必ずしも正しいわけではない。今の高御に必要なのは、きっと言葉ではない。
「御中。ちょっと聞いて」
今まで言葉を口にすることなく様子を見守っていた櫛名田だったが、横に立つ御中がどうにか聞き取ることができるほどの小さな声で話しかける。
「高御が纏っている黒い衣が見える? あれは、布都御魂剣の力を宿しているんだって。要するに、神懸りってわけ」
御中は目を細め、高御が纏う衣に視線を向ける。月明かりの当たり具合で今までしっかりと捉えることができなかったが、確かに高御は黒い衣を身に纏っている。少なくとも、御中は今まで一度も目にしたことがなかった。
「どうして、そんなことがわかるんだ?」
「生が教えてくれたの。この子、昔は布都と仲が良かったんだって」
「布都? それって、確か力を欲して、剣に刻まれた人だっけ?」
「そう。天之御柱で咲耶から聞いたでしょ? その布都だよ」
「どうして、高御がその布都と、布都御魂剣と神懸りしてるんだ?」
「生が言うには、布都の力は、いろいろなものを新たに作り出す力だったみたい。それで、たぶん高御に取り入ったのかも。力を与えるとかなんとか言って……」
「ってことは、あの衣をなんとかすれば、高御は元に戻るのか?」
「どうかな。それは生にもわからないみたい。でも、たぶんあの木刀。あれが布都御魂剣だって生も言ってるから、まずはあれをなんとかしないといけないかも」
「あの木刀が? だってあれは、小さいときに森で拾ったものだよ? そんなものが、十拳剣だったってこと? そんなの……」
「私に言われても困る。とにかく、まずはあの木刀を高御から取り上げるよ」
「……、わかった」
ずっと側にあったものが、まさか十拳剣だったなんて、御中は思いもしなかった。さらにその十拳剣が、かつて力を求めた結果、剣に存在を刻まれた布都のものだったとは、想像することすらできなかった。
「咲耶、なにも気づかなかったの?」
『すみません。私は常に実体化するために神通力を使っていたので、気づくことができませんでした。私がもっとしっかりしていれば、こんなことにはならなかったのに』
いや、おそらくそれは、咲耶の責任ではない。もっと早い段階で、あの木刀の近くにいた御中こそ、気づかなければならなかった。思えば、高御は旅を始めてからも、いつも欠かさずあの木刀を腰に提げていた。何かある度に、大切そうに刀身をなでていた。きっと、あの仕草をしているときこそ、今の御中たちのように、ほかの人には聞こえない布都の声と、会話をしていたのだろう。
サインは出ていた。それでも、気づくことができなかった。誰のことも攻めるわけにはいかない。この責任は、御中が負わなければならないものだ。
御中と高御の視線が絡まる。
「もう、決着をつけよう。御中」
高御の手には、二本の木刀が握られている。おそらく、普段の戦い方に合わせるように、同様の剣をもう一本生み出したのだろう。
「いや、違うよ高御。今日からもう一度始めるんだ。ぼくたち、家族の日常を」
御中は、腰に提げられた天之尾羽張剣を抜き、前へ突き出すように構える。
「高御! 今から目を覚ましてあげるから、そこでじっとしててよね!」
生大刀を抜いた櫛名田も、剣先を高御に向けて言葉を放つ。
どうして、こうなってしまったのだろうか。後悔しても、なにも解決することはない。今、御中にできることは、目の前に立つ家族を、どうにかして救い出すこと。唯一残された肉親と、再び旅を続けられるように、逸れてしまった道から連れ戻すこと。
周囲には、炎が地面を焼く音だけが響く。あの勢いなら、おそらく屋敷まで火の手が回ることはないだろう。幸い、淤能碁呂の人たちの避難は終わったらしく、伊岐の姿もここにはない。
これで、心置きなく対話することができる。道を踏み外してしまった、バカな弟と!
「いくぞ!」
「うん!」
御中と櫛名田は、同時に前へと踏み出す。剣は低く構えつつ、いつでも高御の一撃をかわす用意を整える。対照的に、高御は棒立ちのまま、剣先を下に向けて歩いてくる。誘っているのか。それとも、構える必要すらないという意思表示なのか。どちらにしても、御中たちは仕掛けるしかない。
「櫛名田! ぼくが前に出る! 後ろをお願い!」
「わかった!」
御中の合図に、櫛名田は足を止める。そのまま、御中の後ろに身体が隠れるように、少し後ろへと位置を変える。
櫛名田が後ろへ回り込んだことを確認すると、御中は、高御の左右でわずかに燃え続けている炎へと左手を向ける。手をかざすようにした後、遠くの炎を掴むように手を握る。再び手を開くと、そこには小さな火の玉が揺れていた。走りながら、火の玉で剣の刀身をなぞるように手を動かしていく。すると、炎は吸収されるように剣へと吸い込まれていき、次第に刀身を紅く染め上げていく。
「これでも、くらえっ!」
高御までは少し距離があったが、構うことなく剣を振りぬく。すると、まるでなにかに引火するように、剣先から勢いよく炎が吐き出され、高御の身体を包んでいく。全身を覆いつくそうかというほどの大きさになったとき、高御は剣を一振りする。すると、炎は一瞬にして空中に霧散してしまった。
「こんなもんか?」
「くっ……。なら、これならどうだ!」
御中は一度大きく前へと踏み込んだ後、剣先を地面につけ、そのまま掘り起こすように楕円を描いて剣を振る。宙に土埃が舞い、二人の視界を遮る。
「っせいや!」
宙に浮いた土埃へと剣を薙ぐと、まるで矢のような勢いをつけて、高御へ向かっていき、炸裂する。辺り一帯にけたたましい炸裂音が響き渡ると同時に、御中は目の前に土の壁を作って身を守る。炸裂音は少しの間鳴り響いた後、本来この場所にふさわしい静寂を運んできた。
「やりすぎたかな……」
御中としても、高御の剣の腕は理解している。だからこそ、遠距離からの神通力による攻撃こそ、最も勝機が高い。そう考えての攻撃だったが、思ったよりも派手に繰り広げてしまった。
「御中!」
後ろから迫りくる黒影と対峙していた櫛名田は、全て倒した後、御中の元へと駆け寄ってくる。
「ちょっと、やりすぎたんじゃない? もしかして、高御死んじゃったかも……」
「いや、どうだろう。そんな簡単に負けることなんて、ありえないと思うけど――」
「そうだな。これで終わりでは、つまらないだろ」
姿は見えなかったが、低く地を這うような高御の声が二人に届く。
「い、生きてる……。あんなに爆発したのに」
「やっぱダメか。強いな、高御は」
「自分で作り出したとはいえ、ずっと先陣切って黒影と戦ってきたんだ。これくらいでは死ねないな」
「そうか。黒影は、高御が作り出していたんだったな。ってことは、いつもぼくたちは高御のせいで危ない目に会ってたのか。それはちょっと、いただけないね」
目の前の壁が崩れると、未だ舞い続ける土埃の中、高御は変わらず平然と立ち尽くしていた。幸か不幸か、御中の遠距離神通力攻めは不発に終わったらしい。
「もう、終わりか?」
「まあね。本当は、これでいくらか傷を負わせてから、説得できないかなと思ってたんだけど、無理みたいだね」
御中は舌を出し、本気とも冗談ともとれる表情を浮かべる。
「ちょっと御中! どうするつもりなの?」
「ごめん櫛名田。ここからは作戦なしだ」
「はあ!?」
驚きか。あるいは呆れか。櫛名田は思わず剣を落としそうになる。
「作戦はないけど、予定はあるんだ。やっぱり、ぼくたち兄弟の決着は、これでつけないといけないから」
御中は、剣を担ぎながら、軽く二回ほど肩に当てる。
「これって……。もしかして、接近戦で決着つけるの!? いや、御中も高御の剣の腕は知ってるでしょ!? めちゃくちゃ強いよ!?」
「知ってるよ。確かに、高御の剣の腕は、もうぼくとは比較できないくらい強い。でも、櫛名田も知らないでしょ?」
「え? なんのこと?」
御中は人差し指で鼻の下をこする。不安を払拭するように。あるいは恥ずかしさをごまかすように。
「ぼくは、一度だって高御に負けたことがないんだよ。小さいときからずっとね。だから、今回もきっとぼくが勝つよ」
口にすることで、覚悟は決まる。おそらく、今の高御には神通力が効かないように、なんらかの力が働いている。さすがに、あれだけの攻撃を無傷で退けるというのは、尋常ではない。高御がもつ剣、布都御魂剣がどのような力を秘めているのかはわからないが、それなら真正面から斬り合うしかない。
「ああ、確かに。小さいときは、いつも御中の勝ちだったか」
「そうだよ。思い出した?」
「はっはっは」
「なんで笑うんだよ、高御」
「いや、思い出したんだ。昔から、御中はここぞというときに神通力に頼っていたなって。純粋な剣の勝負では、昔からおれの方が強いってわかっていたんだろ?」
「そんなことはないさ。兄はいつだって弟よりも強いんだよ。それはどれだけ時間が経っても、どんな手段を使ったとしても、変わったりなんてしないよ」
「はっはっは。そういえば、口喧嘩もいつも御中の勝ちだったな。おれはいつも泣かされたよ」
どこか遠くを見つめながら、高御は懐かしむように口を開く。
「なあ、覚えているか。昔、御中はいろんなことをおれにしてくれたよな。不安なときは手を繋いでくれた。お腹が減ったときはご飯を分けてくれた。眠れないときは一緒に寝てくれた。どうして、そんなことをしてくれたんだ? その時間で、もっといろんなことができたはずだろ? もっと楽しいことができたはずだろ? もっと強くなれたはずだろ? 無駄な時間を過ごしたと、思っていたりしないのか?」
「なに言ってるんだよ。そんなの、ぼくにとっては当たり前のことだよ」
御中は、高御に向かって手を差し伸べる。
「兄は弟よりも強いんだ。でも、どうして強いのか、弟は知ることができない」
「どうして、なんだ?」
「兄は、いつだって弟のことを見ているからだ。どんなときだって、弟のことを考えているからだ」
高御は目を細め、腕を組む。その言葉の、真意を見定めているかのように。
「どんなときも、か?」
「そうだよ。弟が笑えば、兄だって笑うさ。弟が泣けば、兄だって泣くさ。弟が困っていたら、誰よりも早く駆けつけるさ」
「どうして、そんなことをするんだ?」
信じられないというように、高御の語気は強まる。しかし、御中は一切怯むことなく、確信するように言い放つ。
「どうして? そんなの、決まってるよ。兄だからさ」
「兄、だから?」
「弟だからさ」
「弟、だから?」
「それ以上に、理由なんて必要ないんだ」
その言葉をたっぷりと飲み込むかのように、高御はしばらくの間、静かに立ち尽くしていた。そして、なにかを悟ったのか、次第に表情が和らいでいく。
「まったく……。もっと早く、聞いておけばよかったよ」
「今からだって、遅くないと思うけど」
高御は、声を出すことなく、首を左右に振る。
こうした会話が続くだけで、やはり二人は兄弟なのだと確認し合うことができる。それは御中も高御も、そして櫛名田ですらも理解することができる。こんな時間が続けば、どれだけ幸せなことだろうか。どれだけ楽しいことだろうか。それでも、決着のときは近づいている。二人の戦いには、どんな形でも勝ち負けをつけなければならない。そうしなければ、この感情をしっかりと昇華させることができない。
「さあ、剣を構えて、高御」
「ああ。すぐに決着をつけてやる、御中」
横で櫛名田がなにかを言っている。しかし、二人の耳にその声は届かない。
御中にとって、高御は最も守りたい家族だった。
高御にとって、御中は最も超えたい相手だった。
二人は、いつの間にかこの瞬間を楽しんでいた。きっと痛い思いをするだろう。もしかしたら、どちらかは命を落とすかもしれない。手にもつ剣は、昔のようなおもちゃではない。相手を傷つけることができる剣。秘めたる力をもつ、十拳剣。天之尾羽張剣。布都御魂剣。お互い、剣に秘められた力のことを知る由もない。ただ純粋に、剣戟による決着を望んでいる。
二人の視界には、すでにお互いの姿以外はなにも映っていない。勝負は、一太刀で決まる。唾を飲み込むわずかな動作すら、確認し合うことができる。御中の額には、緊張の汗がにじみ出る。高御の瞳には、黒い炎が静かに燃え続ける。
聞こえるはずがないにも関わらず、遠くの方で、木刀同士がぶつかり合うような、木と木が打ち鳴らす、乾いた音が聞こえたような気がした。
「っせいや!」
「はあああ!」
御中が剣を薙ぎ払うと同時に、高御の短剣の一本が、御中の身体へと向かっていく。一瞬の出来事だったはずなのに、まるで時が止まったかのように、二人は互いの身体に剣先が入っていくのを目で追うことができた。
柔らかいものをつぶすような、生々しい感触が二つ。一つは天之尾羽張剣が、高御の左脇腹あたりに突き刺さる感触。もうひとつは、高御の布都御魂剣が、御中の右胸あたりを貫く感触。お互いの剣先には、赤々とした血が少しずつ伝い、地面に滴り落ちていく。
「ぼくの、勝ちだね」
御中が先に声をかける。その顔は、痛みで歪みながらも、どこか安心したような表情に見えた。
「いや、おれの勝ちだな」
答えるように、高御も勝利を宣言する。まるで憑き物が落ちたような、清々しい表情で笑っていた。
二人は、そのまま抱き合うように、剣を刺したまま地面に倒れ込む。
「御中! 高御!」
二人の側へ、櫛名田が駆けつけてくる。座り込み、どうすればいいのかわからず、二人の顔へ交互に視線を移す。
「もう! 変なところに刺しちゃって! すぐに手当するから、じっとしててよね」
「ごめん、櫛名田。迷惑かけちゃって」
「すまない、櫛名田」
「もう! 世話が焼けるお兄ちゃんたちなんだから!」
櫛名田は笑いながら涙を流し、そして怒り出す。その姿がおかしくて、御中も高御もつられるようにして笑い出す。剣先からはさらに血があふれ出していたが、笑いを止めることはできなかった。
ここから、ぼくたちの物語は再び始めることができる。いろいろなものを掛け違えてしまったことで、流さなくてもいいはずの血をたくさん流してしまった。失わなくてもいいはずの命をたくさん失ってしまった。それでも、償うためには生き続けなければならない。死は、決して償いではないから。
人の人生に、面白いことなんて簡単には起こり得ない。往々にして、つまらないことだらけだ。それでも、二人で過ごせば面白いことが起こる可能性も二人分ある。もう一人増えれば三人分。さらに一人増えれば四人分。そうして、楽しいことも辛いことも、嬉しいことも悲しいことも、みんなで分け合うことができる。だからこそ、人はともに生きるのだ。だからこそ、人は一緒に過ごすのだ。
「ここから始めよう。もう一度、一緒に」
御中は、左手で傷口を抑えながら、高御に向かって右手を差し出す。
「そうだな。それも悪くないな」
伸ばされた手を取るために、高御も手を伸ばす。
――しかし、その手は、掴まれることはなかった。
「つまらないな……」
「え……」
高御の手は、差し出された御中の右手でなく、傷口を抑える左手へと重ねられる。そのまま、傷口に剣を押し込むように、強い力が加えられていく。
「ああああああ!」
言葉にならない叫び声が、御中の口から発せられる。
「高御! なにして――」
「黙れ小娘。我は高御などという名前ではない」
「え……、高御?」
「違うと言っておろうが。たわけが」
高御の姿をしたなにかは、ゆっくりと立ち上がる。全身に細かく目を配った後、左脇腹に刺さった剣を躊躇うことなく引き抜く。
「高御!? そんなことしたら、血が――」
「だから! 我は高御ではない!」
感情を露にする姿は、明らかに今までの高御のそれとは違う。
「我の名は布都! この世で最も強い女じゃ」
「布都!? 咲耶が話してた、悪い奴!?」
「悪い奴? はっはっは。そんなことはない。我は純粋に、力を求めておるだけじゃ。この者、高御と言ったか。こやつの身体は実にいい。良く鍛えられておるし、男の身体は力が違うな」
布都は、高御の姿のまま、御中と櫛名田を見下ろす。
「はっ! そやつはもうダメじゃな。直に死ぬぞ」
「なに、言ってんの……、高御。いい加減、変な芝居は、やめろよな……」
言葉を発するたびに、御中の右胸からは血が噴き出す。
『御中くん! これ以上は、私の力でも限界です。すぐに手当を!』
「御中! それ以上話さないで! 傷口が広がっちゃう!」
「よせよせ、小娘。そんな死にかけ、気にしても意味がなかろう。どうせ気にかけるのであれば、そうな……。あちらでこそこそしておるやつなど……、どうじゃ!」
布都は語気を強める。その視線の先にあった物置のような小屋は、溶けるように一瞬にして消えていく。すると、その中には縮こまるようにして身を潜める、月読の姿があった。
「月読⁉ どうして、そんなところに……」
「御中! 話さないで!」
「櫛名田……。頼む。あの子を、月読を、守ってあげてくれ」
流れ続ける血の量から、おそらく御中の意識はすでに混濁としているはずだった。その瞳は、焦点が合っていない。いつ意識を失ってもおかしくないにも関わらず、それでも御中は、誰かを守ろうとしていた。
「おお! こやつ、未だ我の支配に抗おうとしよる。中々骨があるやつじゃの」
布都のその言葉を、御中は薄れゆく意識の中で聞いていた。身体は鉛のように重い。片腕すら、満足に動かすことができそうになかった。
「仕方ない。こやつの身体は、捨てるにはちともったいないが、背に腹は代えられぬ。そうさな、死にかけのやつよりは、あやつの方がよかろう」
その言葉の意味を理解することはできなかった。しかし、今も高御が必死に抵抗しているということだけは、確かに伝わってきた。
布都は手をかざす。その先には、月読の姿があった。
「え? え?」
月読の身体は浮き上がり、宙を滑るようにしてこちらへ向かってくる。事態を飲み込むことができず、ひたすらに恐怖の表情を浮かべる月読。
「詫びは入れぬぞ。我のために、その命を燃やしてくれ」
剣が、ゆっくりと月読に向けられていく。
「させない!」
剣先が月読に突き刺さる寸前。ぎりぎりのところで櫛名田の剣が布都の剣を払う。意識を逸らされたせいか、宙に浮いていた月読は、支えを失ったかのように地面へと落下する。
「いたっ!」
無邪気な声を上げる月読とは違い、櫛名田は、布都から向けられる視線に睨まれ、身動きをとることができなくなっていた。足を動かそうとしても、微動だにしない。その視線には、なんらかの神通力が働いているのかもしれない。見えない圧で身体が押しつぶされそうに思えた。
「また、邪魔をしたな。小娘」
「あ……た……」
言葉すら、発することができない。それほどまでに、目の前に立つ布都の力は、櫛名田とはかけ離れていた。
月読に向けられていた布都の手が、今度はゆっくりと櫛名田の方へと向けられる。
「楽に逝けると思うなよ、小娘」
低く、心の底から憎しみを吐き出すようなその声は、動くことすらできない櫛名田の絶望感を掻き立てる。目の前の恐怖から、視線を逸らすことすらできない。瞼を閉じることすらできない。ゆっくりと、しかし着実に歩み寄って来る死の足音を、ただひたすらに待つことしかできなかった。
「逝け。そして、二度と顔を見せるな」
布都の指が、一本ずつ折られていくのが目に映る。
死。確かにその存在を感じた。しかし、その感覚は、いつになっても訪れなかった。
「どうして、諦めるんだ?」
「え……、み、なか……」
その姿は、間に入り込むように、あるいは庇うように、櫛名田の目の前に立ち塞がっていた。傷だらけの身体からあふれ出る血は、元々真紅だった衣を鮮やかな赤色に染めている。意識があるとは到底思えない。目はうつろで、その瞳には櫛名田の姿が映っていなかった。
「ほう……」
その行動を気に入ったのか。あるいは別のなにかを感じたのか。布都はわずかに顔を崩すと、そっと手首を返す。すると、御中の顔が布都の方を向くように、くるっと回転していく。
「なるほど。高御から聞いてはいたが、確かにお主は強い男だ。だからこそ、敬意を払って、我の礎になってもらう……」
布都は、地面に転がる天之尾羽張剣を拾うと、そのまま、剣先を御中の左胸へと突き刺した。
「っ……」
御中は、身体を痙攣させるように震わせた後、全身の力が抜けていき、布都の身体へと崩れ落ちた。それと同時に、布都の瞳の色が一瞬変化した後、まるで人が変わったように、御中の身体を抱きかかえる。
「御中? おい、うそ、だろ……」
「……」
「こんなんじゃないだろ……。こんなはずじゃ……。おれたち兄弟の決着は……、こんなんじゃないだろ!」
御中の身体を揺するその姿は、櫛名田が知る高御の姿に思えた。しかし、櫛名田は、動くことができない。目の前で起きている光景を、ただ眺めることしかできない。
「こんなこと……、おれは望んでなんかいない。選んでなんかいない。おれはただ、強くなりたかっただけなんだ。いつも御中に守られるだけの、弱い弟でいたくなかっただけなんだ。ただ、それだけだったんだ……」
高御の目から、透明な雫が滴り落ちる。一点の曇りもない、きれいに透き通った雫。その雫は、受け皿に身を預けることなく、御中の顔に数滴落ちていく。
「守って、あげられなくて……、ごめん、な」
その声は、絞り出すように、御中の口から聞こえてきた。それきり、再び言葉が発せられることはなかった。
袖の先から、真紅の衣が崩れていく。その破片は、風に流されて、最後の一片までこの場に残すことなく、空の彼方へ消えていった。
「あ……、あ……、あああああああ!」
悲痛な叫び声と同時に、高御の全身から絶望の色があふれ出していく。身に纏う衣の黒よりも黒い黒。あらゆる絶望が混ざり込んだようなその色は、止まることなくあふれ出し、瞬く間に高御の身体を包み込んでいく。その黒は、夜の色に紛れるように、周囲と混ざり合っていく。そして、高御の姿とともに、櫛名田の前から消えていった。
櫛名田は、誰もいなくなったその場所を、ずっと見つめ続けていた。
身に纏う白い衣は、御中の身体から流れ出る血によって、真紅に染められていく。
行き場を失った櫛名田の手は、月読の震える小さな手を、力なく掴んでいた。




