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月華燃ゆる  作者: ぼたん鍋
第一部 月が照らす世界は何色か
12/16

第拾壱話 この世界の物語

 反響するように響く足音が、御中たちの周りにこだまする。扉の中へ一歩入り込むと、足の裏からは硬い石の上を歩くような、ゴツゴツとした感覚が上半身まで伝わってくる。一歩前を歩く人の背中がかろうじて見えるほどの明るさの中、御中たち四人と伊岐と那美、総じて六人の集まりは狭い空間を進んでいく。


 静けさを象徴するような、頭上からの水滴が下に落ちてはじける音が響く。伊岐は、静かに口を開いた。


「天之御柱に高天原の秘密あり」

「え?」


 唐突に告げられた言葉に、御中は困惑する。


「なにそれ? なんかの呪文?」

「いいえ、違いますよ。でも、あるいはそうかもしれませんね」


 曖昧な那美の答えに、櫛名田の頭は混乱していく。


「私たちは、この言葉をあなたたちに伝えるために、今日まで淤能碁呂で生きてきました」

「ぼくたちに……、伝えるため、ですか」

「はい。それだけを考えてきました……」


 那美の言葉の後、伊岐は再び口を開く。


「天之御柱に高天原の秘密あり。なんじ高天原へ至ること望むならば、天之御柱を訪れるべし。さすればは、導くであろう」

「この言葉は、私たちがまだ小さかったころ、とある旅のお方からお聞きしたものです。そのお方は、淤能碁呂から出たことがなく、これからも出ることができない私たちに対して、いろいろなことを教えてくれました」

「出ることができない?」

「はい。私たちの家は、代々この淤能碁呂を治めてきました。とても昔、この村が淤能碁呂という名前になったときからそうだったと聞いています」


 「本当のことはわかりませんけどね」という那美の声とともに、笑い飛ばすような声が聞こえてくる。姿はぼんやりとしか確認できないが、おそらく伊岐の笑い声だろう。


「それはともかく、私たちはそのお方にとてもたくさんの世界を教えてもらいました。木が数えきれないほど生い茂る地。いつも空を暗い影で覆われている村。一面に白く冷たい土が敷き詰められた山。そのすべてが、私たちにとっての世界なのです」


 那美の表情を伺うことはできなかったが、その声色からは、どこか遠くを見つめるような、懐かしむような様子が伝わってきた。


 御中は、決して声に出すことなく、静かに思い起こす。

 村を焼かれ、三人で旅に出るまで、御中にとっての世界とは、数十人が集まって暮らす、小さな集落のことだった。家の中心にある囲炉裏いろりを、家族四人で囲んで食事をする。夏は熱さをしのぐために水をかけ合い、冬は寒さを耐えるために身体を寄せて温め合った。


 父が話す、真偽もわからない昔話を熱心に聞き、母が作る具なしの汁を喜んですすった。そんな、本当に限られた空間だけが、御中にとっての世界だったのだ。


 だが、今は違う。咲耶と出会い、見知らぬ土地をいくつも訪れた。櫛名田と一緒に家族を助け、何体もの黒影と戦ってきた。気を失って倒れることも、身体からものすごい量の血を流すこともあった。それでも、今の御中にとって、あるいは高御や咲耶、櫛名田にとって、世界とは、四人で過ごした時間のことだった。四人で見た景色のことだった。四人で交わした会話のことだった。そのわずかな間の出来事こそが、四人の世界そのものだった。


 伊岐と那美にとっての世界は、四人のそれとは異なっている。旅をする人から聞いた、淤能碁呂の外の景色。自らの目では見たことがない、見知らぬものが存在する地。

 本当は存在しないかもしれない。それでも、伊岐と那美にとっての世界は、確かに二人の頭の中にある。だからこそ、世界を教えてくれた人への礼を忘れないのだろう。そういう想いが、那美の言葉からは強く感じられた。


「そのお方が亡くなる前、私たちに教えてくれました。淤能碁呂とは、芦原の始まりの地であり、この世界の成り立ちを、後の世に伝えていく役目をもった村だと。その淤能碁呂を治める家に生まれた私たちは、知っておかなければならないことがあるのだと」

「知らなければならないこと……。それって、いったい……」

「時が来ればわかる。そう言われました」

「んー? 私にはよくわかんない……」


 櫛名田は必死に理解しようと疑問をぶつけていたが、ついについていくことができなくなったのか、投げやりに言葉をぶつける。


「正直、おれも那美も、話を聞いただけでは意味がよくわからなかった。実際に目で見て、この身体で味わってみなければ、わからないことなんてたくさんある。御中、お前だってそうじゃないのか?」

「そう、かもしれないです」


 御中自身、村で暮らしていたときは、黒影という得体の知らない相手と戦うことになるなんて、思ってもみなかった。それが今では、当たり前のように剣を抜いている。その意味すら考えず、驚くことも、躊躇することもない。それが当たり前になっているのだ。


「今日、御中たちがここに来てくれたことで、ようやく理解した」


 御中と櫛名田は、伊岐が口にした言葉の意味がわからず、顔を合わせて首をかしげる。


「御中、その腰に提げている剣は、天之尾羽張剣だろ」

「え? どうしてわかったんですか?」

「そして櫛名田。それはおそらく、生大刀だな」

「すごーい。なんでわかったの?」


 伊岐の目の前で剣を抜いたことすらないにも関わらず、二人がもっていた十拳剣について、伊岐は迷うことなく言い当てた。


「ははは、すごいだろ。おれはなんでも知ってるんだ」

「嘘はよくないよ。伊岐のそれは、羽々はばきりのおかげでしょ」

「はっはっは、そうだったかな。まあ、どっちにしてもおれの力であることに変わりはないさ」


 なにかを叩くような音が数回聞こえたが、伊岐の「痛い! やめてくれよ」という声がしたことで、だいたいの事態は察することができた。


「御中、櫛名田。二人だって、おれが十拳剣の一つ、天羽々斬剣あめのはばきりのつるぎをもっていることはわかっていただろう?」


 伊岐は、手にもった灯りで自身の背中を照らし、天羽々斬剣を見せる。


「いや……、初めて知ったよ」

「私も」


 三人は、今日初めて、それもついさっき顔を合わせたばかりだった。それなのに、伊岐はどうしてそんなことがわかると思ったのだろうか。御中は不思議で仕方なかったが、櫛名田はそれすら考えることを放置しているようだった。思ったよりも頭の中が混乱しているのかもしれない。


「あれ? お前たち、神通力の力を感じないのか?」

「神通力を……、感じる?」


 御中が口にするよりも早く、櫛名田がその疑問をぶつける。


「あー、そうか。そっかそっか」


 納得するようにうなずく伊岐。馬鹿にされたような気がして御中は少しイラっとしたが、横を歩く櫛名田から服を強く引っ張られて、意識がそちらに移り変わる。


「ねえ御中。あの人、ちょっとおかしいんじゃない? さっきからなに言ってるか、全然わかんないよ」

「おかしいかどうかはわからないけど、ぼくもなに言ってるかわかってないから、とりあえず適当に合わせておこうよ」

「わかった」


 顔を近づけ合い、二人はうなずき合う。


「おいおい、聞こえてるんだが……。まあ、いいか。そろそろ天之御柱に着く頃だしな。お、話をしたらちょうど見えてきたな――」


 強い光が、暗闇に慣れた六人の目を刺激するように、視界に入り込んでくる。腕を掲げて目を細め、強すぎる光が目に入らないように壁をつくる。ようやく光に慣れたとき、目に飛び込んできたものは、今まで見たことがないような模様が描かれている、天高くそびえる建造物だった。


「これが……」

「天之御柱、だ。おれもこの目で見るのは二回目だけどな」


 圧巻だった。天を仰いでも、その先を目にすることはできない。それもそのはずで、天之御柱の上層部とも考えられる部分は、頭上に広がる岩の中に入り込んでいた。この位置から見る限り、幾何学の模様は途中で岩に阻まれ、先が隠れている。おそらく、あそこで建物自体が終わりというわけではないと思われた。


「四人とも、こっちに来てくれ」


 天之御柱の仰々しさに圧倒されている御中たちの先、伊岐と那美は、入口と思われる扉の前で四人を待っていた。未だ呆然とする頭を引きずりながら、一足先に歩き始めた高御を追うように、取り残された三人も歩き始める。御中の視線は天之御柱に釘付けになりながらも、ゆっくりと伊岐と那美の元へ向かう。


「ここだ。これを見てくれ」


 ようやく御中がたどり着くと、伊岐は急かすように、扉に向かって指を差す。


「なんだろう……。穴? 違うな。なにかで刺した跡かな?」

「なんだろうね」


 伊岐が指差す位置には、なにか鋭利なもので斬りつけたような跡が複数残されていた。気になったのか、櫛名田はほじくるようにくぼみの中に指を突っ込む。


「なんもない!」

「怖いもの知らずだな」


 御中はあきれたように笑い、櫛名田を引きはがす。


「どいてくれ」


 今まで黙ってついてきていた高御は、腰から短剣を一本抜き、おもむろに構える。前に立っていた御中と櫛名田を手で横に押しやり、櫛名田が指を突っ込んでいたくぼみに向けて、短剣を差し込む。

 直後、石をはじくような音がした後、短剣は穴に対して中途半端な形で刺さっていた。


「なるほどな……。賢いな」


 その行為に対してか、あるいは高御自身に向けた言葉だったのか。いずれにしても、伊岐は手を叩いて称賛した。


 しかし、その称賛には目もくれず、高御は穴から短剣を抜き、そのまま元の位置へと戻っていく。高御はいったいなにがしたかったのだろうか。その行為の意味を御中が考えていると、説明するように伊岐はくぼみの前へと歩み寄る。


「扉を開けるには、必要なことがあるんだ。前に来たときはそれが足りなかった。だから今日、御中たちが来てくれたことで、初めてこの中に入ることができるんだ」

「どういうことですか?」

「時が来たら、という言葉の意味だよ。この扉を開けて、天之御柱に入るためには必要なんだ。御中、櫛名田。二人の力がね」


 背負った剣の柄を握り、伊岐は天羽々斬剣を抜く。その刃は薄く、シンプルな造りだった。柄にも特別な装飾はなく、これが天羽々斬剣であると言われない限り、その様相からはとても十拳剣とは思えないだろう。


 伊岐は、手にした天羽々斬剣を素早く振り、剣先を御中と櫛名田へと向ける。


「さあ、二人とも。剣を抜いてくれ」

「え? どうしてですか?」

「大丈夫だ。別に斬り合おうってわけじゃない。その剣が、二人の十拳剣が必要なんだ」

「そう、なんですか。わかりました」


 理由はいまいちわからなかったが、ひとまず、御中は天之尾羽張剣を抜く。ここ最近は常に使い続けているため、柄が手に馴染む感覚がある。


「私も、別にいいけど……」


 御中が剣を手にしたのを見て、櫛名田も生大刀を抜く。それほど重くないはずの刀身を両手で支えているあたり、櫛名田は少し不安を感じているのもしれない。


「ありがとう。それじゃあ、二人ともこのくぼみに剣を刺してくれ」


 伊岐に言われるまま、御中と櫛名田はくぼみへと近づき、合図をとって一斉に刺し込む。先ほどの高御の短剣とは違い、石をはじくような音はしない。明らかに剣先の形と合わないと思われたくぼみだったが、二人が刺し込むと、きれいに納まるようにくぼみの幅が狭まっていく。


「すごい……」


 櫛名田のささやくような声の後、突如三本の十拳剣は光を放ち始める。その光は剣全体を強く輝かせ、次第に剣先へと集まっていく。


 剣先を伝って光がくぼみに吸い込まれた後、それは起こった。


「こ、これって……」

「うそ!? すっごいきれい!」

「まさか、こういうことだったのか……」


 口々に感嘆の声があがる。光が吸い込まれ、天之御柱の壁一面に描かれた幾何学模様が青白く発光し、周囲の岩に向かって光を放ったのだ。その光の先、照らされた岩の壁面には、見たことがないような絵がひしめき合うように羅列していた。


 人だろうか。小さな生き物が数多く描かれ、なにかを手にして、黒い渦のようなものと向かい合っている。その黒い渦の周囲には、数えきれないほどの黒い丸が、重なり合うようにして並んでいる。


 すぐ隣の絵では、小さな生き物たちが次々と黒い丸に取り込まれていた。さらにその隣では、黒い丸が大きくなり、いくつも集まって新たな黒い渦を作り出している。


「ねえ……。あれ、見て」


 御中は、櫛名田が指を差した方向に目を向ける。そこには、先ほどの絵とは比べものにならないほど大きな黒い渦が壁一面に描かれていた。


「なんだろう……。あれって、どういう意味なんだろう」


 自然と口からこぼれた疑問。しかし、思わぬところからその答えは告げられた。


「あれは、人と禍津の、戦いの歴史です」


 その声は、今まで聞いてきた咲耶のどんな声よりも、低く、冷たく、そして悲しい声だった。


「咲耶?」


 振り向くと、咲耶はゆっくりと近くの壁まで歩み寄り、そっと壁に手を添える。


「あの黒い渦。あれこそが芦原を混沌に陥れる元凶。私たちが倒さなければならない敵なのです」


 目を閉じているせいか、咲耶の表情を伺い知ることはできない。しかし、身に纏うその雰囲気は、一緒に旅をしてきたものとは違い、まるでなにかが乗り移ったかのような、別人に思えた。


 御中はほかの全員へと視線を向ける。櫛名田、高御、伊岐、那美。四人とも、その視線は咲耶に向けられていた。全員が、口を開くことなく、その場にじっと立ち止まり、咲耶の次の言葉を待っていた。


 張りつめた空気の中、咲耶は両手を上げ、現れた絵に向かってその手を掲げる。しばらくそのままの位置で手を止めた後、なにかを果たすことができたのか、ゆっくりと降ろしていく。


 咲耶の閉じていた瞼が、静かに開く。吸い込まれそうな瞳は、その場の全員へと順番に向けられていく。


 そして、咲耶はゆっくりと語り出した――。


「はるか昔のことです。この世界、芦原では、多くの人が生活を営み、穏やかな時を過ごしていました。芦原は長い平和に包まれていたのです。皆が幸せを感じていたのです。ですが、人とは欲深き生き物です。平和に慣れた芦原の人々は、更なる平和を求めるようになりました。更なる幸せを求めるようになりました」


 咲耶は、視線を手元に落とす。


「きっかけは、本当に小さな出来事だったと言われています。今では、それがどんなことだったのかさえ、伝わっていません。ですが、人々は更なる平和を求めて、より大きな幸せを感じるため、争うことを選んだのです」


 選んだということは、選ばないということもできたはずだ。それでも、人々は争うことを選んだ。自らその道に進んだ。それは、いったいどんな心境だったのだろうか。どんな想いを抱いていたのだろうか。それほどまでに、更なる平和を、更なる幸せを求めていたのだろうか。


「人々は、己が欲に飲まれたのです。

ただ、平和を求めたはずだったのに。

ただ、幸せになりたかっただけなのに。

自分たちはなぜ武器を手にしているのか。なぜ同じ芦原の人間同士で血を流しているのか。

その理由を考える暇もなく、終わりの見えない泥沼に足を踏み入れてしまったのです。

そして、その欲が禍津を生み出しました。

禍津は、人々が抱えた欲が闇へと変わり、大きな渦のように集まって生まれた存在です。

とても禍々しい、全てを飲み込んでしまうような、恐ろしい闇の存在です。

禍津とは、人々の闇が姿を成した存在なのです。

人々が争いを選んだ結果生まれてしまったものなのです。」


 言葉は途切れる。咲耶は、うつむいていた顔を上げると、壁にもたれかかるようにして、六人がいる方向へと振り向く。


「禍津が生まれたことで、芦原の地は更なる戦いの闇に覆われていきました。日の光が差し込まなくなり、土地は痩せ、作物は実らず、餓死する人がどんどん増えていきました。大地が赤く、血に染まっていったのです。さらに、禍津の身体から離れた小さな闇は、争いで疲れ果てた人々の身体を次々に侵していきました。そして生まれたのが、知性なき存在、黒影です」


 咲耶の言葉を、御中は正面から受け入れることができなかった。聞き間違いに違いない。そんなことがあっていいはずがない。なぜなら、もし咲耶の言葉が本当であれば、今まで御中たちが戦ってきた黒影の正体は――。


 恐ろしかった。恐怖で逃げ出してしまいそうだった。それでも、御中は聞かずにはいられない。今、逃げ出してしまうと、この先に待っているのは果てしない悪夢の連鎖だ。意を決した御中の発した声は、すぐ近くに立つ咲耶がなんとか聞こえる程度の大きさだった。


「もしかして……、ぼくたちが今まで戦ってきた黒影って……」

「元は人間、だった存在です」


 御中は絶句する。言葉が出てこなかった。今まで御中がしていたことが、人を殺す行為だったとは、思いもしなかった。


 櫛名田はその場に座り込み、耳を塞ぐようにして、頭を何度も左右に振る。そうしなければ、八咫を切り裂いたときの感触が手に蘇ってきそうだった。


 伊岐も那美も、そして高御も、言葉が出ないのかその場に立ち尽くす。自分たちの剣が切り裂いていた相手がまさか人だったとは、まったく思いもしなかったのだ。そんなこと、想像できるはずがなかったのだ。


「ですが……」


 御中たちがうなだれる中、なおも禍津との戦いの歴史は咲耶の口から語られる。


「ですが、人々は禍津に立ち向かいました。争っていた人同士が手を取り、多大な犠牲を払いながらも、自らが犯した過ちを清算するべく、巨大な闇に挑んだのです。ですが、戦いは劣勢を強いられました。中には、戦いの最中狂ったように自分を斬りつけるものもいました。混乱しながら見当違いの方向へ逃げ出す者もいました。人と禍津の戦いは、この世の全ての絶望を体現するようなものでした。そんな戦況の中、ついに、希望が現れたのです」


 咲耶は壁の一部を指し示した。そこには、禍津に対して立ち向かう大勢の人々と、その人々の前に立つ、十人の姿が描かれていた。


「あれは、禍津を倒すために集まった、十人の強者たちです。十人はひたすらに剣の腕を磨き、貪欲に強さを求めてきた猛者たちでした。十人は力を合わせ、芦原の人々を導いて立ち向かいました。そしてついに、禍津を倒すに至ったのです」


 そこまで話すと、再び咲耶は言葉を区切る。額にはびっしりと水滴を貼り付け、呼吸は少し乱れていた。今にも倒れてしまうかもしれない。すぐにでもその身体を支え、楽にしてあげたい。そう頭では考えているのに、御中の身体はその一歩を踏み出すことができない。咲耶の口から語られたことが、頭に強烈な刺激を与え続けている。


 荒い呼吸を落ち着けるように、咲耶は大きく息を吸う。そして壁に描かれた最後の絵を見つめ、思い出を振り返るように口を開いた。


「禍津を倒した後、芦原には再び平和が訪れました。人々は、当たり前に享受されるべき幸せを、その手で勝ち取ったのです。ですが、この結末を良しとしない者がいました。十人の強者の内の一人、布都ふつという者です。布都は、十人の中で飛び抜けて強さへの執念が強かった女です。彼女は、平和となった芦原に不満をもっていました。なぜなら、力あるものと剣を交えることができなくなったからです。戦うことができなくなったからです。剣を振るうことができなくなったからです。そこで、布都は考えたのです。禍津を超えるような、さらに強い相手を、自らの力で生み出すことはできないのかと」

「! そんなまさか!?」

「せっかく平和になったのに、そんなのって……」


 御中と櫛名田は、思わず声が漏れる。咲耶はそんな二人に近寄り、震える肩に優しく手を差し伸べ、「大丈夫ですよ」と声をかける。


「結論からいうと、布都の願いが叶うことはありませんでした。幸いなことに、禍津を超える闇を生み出すには至らなかったのです。ですが、布都を除いた九人は、この事実は重く受け止めました。そして九人は話し合い、布都を閉じ込めることにしたのです。二度とあのような災禍が訪れることのないように。布都のような、歪んだ想いを抱える人間が生まれないように」

「そうは言っても、いったいどこに閉じ込めるの? 禍津を超える闇を生み出そうって考えるくらい、布都って人は強いってことだよね? それなら、閉じ込めることができても、すぐに出てきちゃうと思うんだけど……」


 櫛名田の問いに答えるかのように、咲耶の視線はゆっくりと櫛名田に向けられた。いや、櫛名田ではない。その手に握られた、生大刀へと視線を向けていた。


「もしかして……」


 その視線の先に気づき、御中も、櫛名田の手に納まる生大刀へと視線を向ける。


「そうです。布都に気づかれることのないように、九人はともに剣へと刻まれることを選んだのです」

「? どういうこと?」


 問い返す櫛名田とは対照的に、御中は理解した。いや、理解してしまった。


「櫛名田ちゃん、その生大刀を初めて抜いたとき、なにか感じませんでしたか? いいえ、誰かに会いませんでしたか?」


 思案するように、櫛名田は頭を抱える。しかし、すぐになにかを思い出したのか、目を見開き、その目に生大刀を映す。


「もしかして……、生?」


 櫛名田が口にすると同時に、生大刀の柄から白い布が大量に現れる。刀身はみるみるうちに包まれていき、最後には生大刀全体を包み込んでしまう。


「わっ! わわっ!」


 慌てふためく櫛名田。初めて見る光景に驚きを隠せない御中たち。しかし、咲耶だけは白い布で包まれた生大刀の中から、『彼女』が現れるのをじっと待った。そして彼女は、姿を現した。


「おっはよー! 櫛名田ちゃん、元気してた?」

「い、生……。久しぶり、だね……」

「もう、櫛名田ちゃんったら、そんな他人行儀な呼び方はやめてよね。かわいく、生ちゃんって呼んでね?」

「……」


 言葉が出ないまま、事態を見守る御中たちを余所に、咲耶はゆっくりと生と名乗る少女に近づいていき、声をかける。


「生、久しぶりです。健在のようでなによりです」


 からかうように櫛名田に話続けていた生は、名前を呼ばれたことに驚きつつ振り返る。しかし、咲耶の姿を捉えた瞬間、先ほどよりもさらに大きな声を上げる。


「うそ!? そのかったーい話し方! もしかして、羽張はばり!?」

「はい。こうして再びお会いできたこと、嬉しく思います」


 羽張、と呼ばれた咲耶は、その呼び名を否定することなく、生と言葉を交わす。


「えー!? すごい久しぶりだねー! ちょっと、しばらく見ないうちに雰囲気変わった?」

「いいえ、そんなことはありません。今は少しわけがあってこのような恰好をしていますので、昔の私とは少し異なるかもしれませんね」

「なんだー! じゃあ羽張は羽張なんだよね?」

「もちろんです。私はどんなに時が流れたとしても、あの日あの時からまったく変わることはありません」


 咲耶は迷うことなく、はっきりとした口調で生に告げる。その姿は、今まで偽って生きてきたことから解放されたような、清々しく、凛とした姿に映った。気づけば、いつの間にか咲耶の身体は、真紅の衣に包まれている。御中には、その衣に見覚えがあった。しかし、それが御中を不安にさせる。


「どういう……、こと?」


 御中は、頭では理解することができても、受け入れることはできなかった。目の前で話す咲耶と、記憶の中にある咲耶が一致しない。咲耶の姿は、今も昔も変わらないはずなのに。


 あの日、御中を助けてくれた咲耶。一緒に旅をした咲耶。櫛名田を助け、淤能碁呂までずっと一緒にいた咲耶。


 でも、違った。咲耶は咲耶ではなかった。今、御中の目の前に立つ女性は、羽張と呼ばれ、それを肯定した。


「羽張? うそだよね? 冗談だよね? 咲耶は咲耶でしょ? ぼくたちと一緒に旅をしてきた、咲耶だよね?」


 取り乱す。思考が乱れる。確認せずにはいられない。理解していても、わかっていたとしても、声に出して、咲耶の声で肯定されるまで、受け入れることができない。


「そうです。私は咲耶です」


 咲耶は肯定する。迷いなく、しっかりとした視線を、御中に向けながら。


「だよね……、いきなり変なこと言うから、びっくりし――」

「ですが、本当の名は羽張と言います」

「……」


 言葉が続かない。続けてしまったら、今までのことを御中自身が否定してしまうように思えたから。


「御中くん。私たちは一度、お会いしています。私の真名まなも伝えています。思い出してください。私があなたを選んだ日のことを。あなたが私を選んでくれた日のことを」


 咲耶の言葉に反応するように、天之尾羽張剣が光を放つ。思わず、御中は剣を掴む手を放す。しかし、剣はその位置から地面に落ちることはなく、なにかに支えられることもなく、静かに、独りでに宙を漂い続けた。


 咲耶は、担い手を失った天之尾羽張剣へと歩み寄り、そっと柄に手を振れる。すると、一瞬強く光を放った後、天之尾羽張剣は咲耶に吸収されるように姿を消してしまう。


「……咲耶?」


 御中の問いかけに、咲耶は答えない。瞼を閉じ、静かに首を振る。


 そして、その言葉は御中に向けられた。


「私の名は羽張です。布都を閉じ込めるため、十拳剣に刻まれた九人の内の一人、羽張です」


 咲耶の手が、御中の目の前に差し出される。


「御中くん……。今こそ、私の願いを聞いていただけますか?」


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