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月華燃ゆる  作者: ぼたん鍋
第一部 月が照らす世界は何色か
10/16

第玖話 親愛なる貴方のために


   ***


 目が覚める。目の前は、一面の草原。

 今まで見たことがないような、晴れ渡る空。心地よい風が櫛名田の身体を包む。

 辺りに見覚えはなく、目が届く範囲には、これといって建物がない。


「ここ、どこだろう……」


 耳に入ってくるのは、櫛名田自身がつぶやいた声。


「ここは剣の世界だよ!」


 不意に聞こえた声に驚く櫛名田。振り返ると、そこには小柄な少女が立っていた。


「あなたは……だれ?」

「私はいくだよ、櫛名田ちゃん!」

「私の名前……。私のこと、知ってるの?」

「もちろん! ずっと一緒にいたじゃない!」


 思い出せる限りでは、櫛名田の記憶に生と名乗った少女の姿はない。


「えっと……、どこで会ったっけ?」

「ふふふ。もう、忘れんぼさん!」


 ニコニコと笑う生の表情はいやらしさがなく、赤子のような可愛さを彷彿ほうふつとさせた。

 迷いながらも、改めて櫛名田は記憶を探る。やはり、生の姿を見たという記憶は存在しない。


「ごめん。覚えてないや」

「えー!? そんなー!? ひどいよ櫛名田ちゃん!」

「ごめんごめん」

「いつも一緒のお部屋で寝てたよ?」

「え? ほんとに?」

「いつも一緒にご飯も食べてたよ?」

「え? え?」

「いつもいつも、いーっつも。生と櫛名田ちゃんはずっと一緒に暮らしてたよ?」

「うそ……、生? そんな。私、覚えてない……。ごめん……」


 櫛名田はずっと両親と三人で暮らしてきた。少なくとも、記憶の中ではそうに違いない。

 初めて会った外の人は、御中と高御と咲耶の三人。それも昨日のことだった。


「本当に私たち、一緒に暮らしてたの?」

「うん! 私はこの姿じゃなかったけどね」

「え?」


 ますます意味がわからない。


「どういうこと?」

「普段の私は、こんな姿だよ!」


 生の身体が、みるみるうちに白い布に包まれていく。白い布はあっという間に生の全身を包み込み、その姿は完全に見えなくなってしまう。


「生?」


 櫛名田が声をかけると、白い布がほどけていく。


「え?」


 ほとんどほどけても、未だ生の姿は現れない。なにかに化かされてしまったのだろうかと櫛名田が思い始めたとき、見覚えのある、一本の細い剣が姿を現した。


「これって……」


 剣に近づく櫛名田。そっと手に取り、気づいた。


「これ、うちに飾ってあった剣だ」

「そうだよ!」

「うわっ! 剣が喋った!?」


 思わず剣を放り出してしまい、支えを失った剣はそのまま地面へと落下していく。しかし、生い茂る草に自らを受け止めさせることなく、剣は独りでに浮上し、櫛名田の目の前にゆらゆらと漂う。


「私だよ! 生だよ!」

「え? 生、あなた、この剣だったの?」

「うん!」


 生の言う通り、この剣が生の身体であるなら、言っていることは筋が通る。確かに、櫛名田が生まれたときからこの剣は家にあったし、ついさっきも、この剣を手にして八咫と戦っていた――。


「あ!? そうだよ、忘れてた!」

「どうしたの? 櫛名田ちゃん」

「生! 私、八咫と戦ってたの。あなたと一緒に。でも、たぶんきっと死んじゃった」


 櫛名田の胸は、確かに八咫の黒い腕に貫かれた。櫛名田自身が、血が噴き出す自身の胸を見たのだ。それは間違いない。

 それなのに、今もこうして、櫛名田は立っている。胸には穴が開いていない。


「生……。私、死んじゃったのかな? どうしてここにいるのかな? みんなは、御中と高御と咲耶と。お父さんとお母さんは、どうなったのかな?」

「さあ? 生にはよくわかんない!」


 私には関係ないと言わんばかりに、再び少女の姿に戻った生は、ニコニコと笑う。


「生? 私、もうなにもできないのかな? せっかく頑張ってきたのに。やっと外の人たちと会えたのに……」


 なにもできず、死んでしまったのだとしたら、今までいったいなにをしてきたのだろうか。なんのために生きてきたのだろうか。そう考えると、たまらず怖くなる。

 恐怖心を打ち消すように、自身の腕を掴むようにして、強めの力で数回擦る。


「櫛名田ちゃんは、なんで頑張ってきたの?」


 無邪気な笑顔を崩さず、生は櫛名田の顔を覗き込んでくる。くりくりとした目が、櫛名田の目の奥、もっと深いところを覗くように、じっと見続けてくる。


 どうして頑張ってきたのだろうか。

 自分のため? 確かに自分のためでもある。

 世界のため? たぶん違う。そんな大義のために頑張ってきたわけじゃない。

 両親のため? もちろん、両親のためでもある。

 誰かのため? わからない。誰かに会ったことなんて、今までなかったのだから。


 根拠なんてものは、たぶんその時々によって変わっている。始まりはきっと、両親の言葉だった。次第に身体を動かすことが楽しいと思えるようになった。そして今は、なにかを求めている。ずっと一人だったからこそ、誰かを求めている。


 確たる証拠があるわけではない。理由の在り処を他人に押し付けるつもりもない。それでも、そのときのために、きっと頑張ってきた。


「私……」


 言葉にするのは少し躊躇われる。それでも、生になら言ってもいいかもしれない。今、初めて会ったからこそ、恥ずかしい話も恥ずかしくない。


「私、役に立ちたい」


 言葉にして、その一言を噛みしめるように紡いでいく。


「御中も、高御も、咲耶も。会ったばっかりだけど、この人たちのために、この人たちと一緒に戦うために、私はずっと頑張ってきたの」


 たった一晩の付き合いでも、会っただけで分かり合える人がいる。時間の長さなんて関係ない。好きな人は、この目で見ればすぐに見つけられる。


「やっと、そう思える人たちに会ったの!」


 それほどまでに、櫛名田は三人に惹かれていた。

 背中の熱を感じただけで。

 剣の稽古をしただけで。

 一晩一緒に眠っただけで。

 それだけのことで、三人は櫛名田の世界を広げてくれた。勇気をくれた。一緒に戦ってくれた。


 なによりも、こんな私を、選んでくれた。それだけで、櫛名田にとっては、なににも代えがたい価値があるものに思えた。


「ふーん、そうなんだ!」


 生は笑顔を崩さない。それでも、その二つの瞳だけは、逸らすことなく、櫛名田の瞳を覗き込み続ける。


 少しの沈黙が場を支配した後、生は楽しそうに、宙でくるくる回りながら、その言葉を告げた。


「わかった! じゃあ、生が力を貸してあげる!」

「力?」

「うん! 生、こう見えてすっごく強いんだから! もう、あんなゲジゲジなやつくらい、一発で倒しちゃうんだから!」


 ゲジゲジなやつ、というのがなにを指しているのか、櫛名田は一瞬理解できなかった。しかし、手をゆらゆらさせながら「顔がやっつー、腕いっぱーい」と口ずさみながら笑う生を見て、八咫のことを指しているということに気づいた。


「ほんと? 生の力で、八咫を倒せるの?」

「もっちろん! しゅんころだよ、あんなやつ」

「しゅんころ……。なんだかわからないけど、すごいね」


 八咫を倒すことができれば、みんなを助けられるかもしれない。私を選んでくれたみんなを、今度は私が助けたい。


「それじゃあ、一緒に戦ってくれる?」

「ううん。戦うのは櫛名田ちゃんだよ?」

「え?」

「私は使ってもらうだけ! なんて言ったっけな……。確か、神懸かみがかり? とにかく、櫛名田ちゃんがズバッと薙ぎ払っちゃって!」

「神懸り? えっと、生は剣の姿……、ってことかな?」

「うんうん。わかんないけど、たぶんそんな感じ!」


 適当な生の言葉を解釈しながらの会話だったが、おそらく櫛名田の理解はそれほど遠くないだろうと思えた。


「じゃあ、今からあっちの世界に戻してあげるね!」

「あっちの、世界?」

「えっと、櫛名田ちゃんたちの呼び方だと……、芦原? だったっけ?」


 わざわざ「あっちの世界」とか「芦原」とか「剣の世界」と呼び分けるということは、普段櫛名田が暮らしている世界と、今立っているこの世界は、一緒の世界ではない、ということだろうか。


「目をつむってね。すぐに戻れるから」

「うん」


 生に言われた通り、そっと目を閉じる櫛名田。同時に、なにか柔らかいものが、強く握りしめていた拳に触れる。


「いい、櫛名田ちゃん。これは約束だよ?」

「約束?」

「うん。私は櫛名田ちゃんを助けてあげる。だから櫛名田ちゃんも、いつか私を助けてね」

「え? それってどういう――」

「それじゃ、一名様、ごあんなーい!」


 櫛名田の最後の言葉は、生の無邪気な言葉にかき消されるようにして、周囲に溶けていった――。


   ***


 目覚めたとき、櫛名田の視界に飛び込んできたのは、背を向ける八咫の姿だった。黒く、禍々しいその身体は、記憶にこびりついたそれと一致する。


 どうにかしないといけない。強烈な使命感に駆られると同時に、自身の身体が白い衣に包まれていることに初めて気づいた。


「これって……」


 確認するように、腕から胴体、足元へと視線を流す。その衣は、先ほどまで話していたはずの、生が身に纏っていたものにそっくりだった。

 さらに、手には細い剣が握られている。これも先ほど目の前で見た、生の剣の姿そのものだった。


「生、こういうことなんだね」


 飾り気のない、シンプルな柄と刀身は、刀の扱いに慣れていない櫛名田にとって都合がいい。刀身の細さも、小柄な櫛名田にとっては重さを感じない。なによりも、今まで感じたことのないなにかが、櫛名田の身体を駆け巡るのを感じた。


「守る! 絶対に守ってみせる」


 剣を構え、勢いよく八咫へと踏み出す。たった一歩の軽い踏み出しのはずが、それだけで八咫の目の前へと到達してしまう。


「わわっと。よいしょ!」


 体勢を崩しながらも片足で踏ん張り、居合切りの要領で八咫に向かった剣を薙ぐ。

 生の言ったことはその通りだった。たった一振りで八咫の身体は引き裂かれ、うめき声をあげながら、その場に崩れ落ちた。そのまま、ほかの黒影と同じように、灰になって散っていく。


「すごい……」

『だから言ったでしょ? 一発だって』

「え? 生!?」


 どこからともなく、生の声が聞こえる。


「どこ? どこにいるの?」

『だーかーらー。私はここだって!』


 櫛名田が握った剣が、一人でカタカタと揺れる。


『この姿、生大刀の姿だって、私は私なんだよ? そろそろ慣れてくれないと困るよ!』

「そ、そうなんだ……。ごめん、ちょっとまだ、慣れそうにないかな」

『ひどーい!』


 がっくりしている生の表情が簡単に頭に浮かんで、思わず櫛名田は笑顔になる。


『それよりも! 櫛名田ちゃんのお友達、助けてあげなくていいの?』

「あ! そうだよ! 御中! 高御! 咲耶!」


 離れた位置で倒れる三人をなんとか引きずって、両親を運んだところへ寝かせて並べる。両親も含めて五人とも、なんとか息はある。それでも、早めに手当をしないと助かりそうにない。


「……」

『どうしたの? 櫛名田ちゃん』

「私、どうすれば助けられるか、考えてなかった……」


 櫛名田は、今までちゃんとした神通力の使い方を教わったことがなかった。もっぱら剣の稽古に励むばかりで、師と呼べるような存在もいない。


「どうしよう、このままじゃ、みんな死んじゃうよ!」

『なーんだ、そんなこと』


 まったく問題なしと言わんばかりに、明るい言葉で話しかける生。


「なんだじゃないよ! 死んじゃうんだよ!?」

『ダイジョブダイジョブ! 私に任せて!』

「え?」

『櫛名田ちゃんのお友達、私でズバッと切っちゃって!』

「な、なに言ってるの!?」


 八咫すら一撃で倒したこの剣には、櫛名田が扱いきれないほどの膨大な神通力の力が秘められているということが容易に想像できた。その剣で御中たちを切り裂いてしまったら、それこそ取り返しがつかないことになってしまう。


『だいじょーぶだから。生を信じて! ね!』


 生のおかげで八咫を倒すことができた。そして生が言った通り、たった一撃で生大刀は八咫を切り裂いた。

 生が嘘をつくとは思えない。そもそも、嘘をついても生にとってはなんの得もないはずだ。


 視線の先、横たわる御中たちは、今にも息絶えそうに櫛名田の目に映る。思ったように神通力を扱えない以上、生の言葉に賭けるしか、櫛名田には選択肢がなかった。


「わかった」


 剣を、生大刀を両手で握りしめる。腕にかかる重さは、先ほどと同じ剣のはずなのに、さっきよりもずっしりとしたものを感じた。


 息を飲む。もし、この一撃で御中たちを殺してしまうようなことがあったら。そう考えると、一振りが躊躇われる。


『もう、そんなに心配しなくて大丈夫だってば。そんなに心配なら、生がやってあげる!』

「え? ちょ、ちょっとまって――」

『またなーい! せりゃ!』

「う、うわぁ!」


生大刀が独りでに動き出し、剣先が御中の胸に突き刺さる。


「ちょ、生!」

『ほら、見てみて!』


 御中の胸に突き刺さった剣先から、白い布が次々に現れ、御中の身体を包んでいく。その布は、間違いなく、先ほど剣の世界で生を包んだものと同一だった。

 白い布はあっという間に御中の身体を包むと、わずかに光を放ち、そのままボロボロになって朽ち果てていく。再び櫛名田の目に入ってきた御中の身体は、傷一つない、今朝起きたときと同じような姿になっていた。それどころか、来ている服すら洗ったかのようにきれいになっていた。


「これって……なんで?」

『生の力だよ! なんでも治しちゃうの。癒しの神通力ってやつ?』

「癒しの、神通力?」

『そうそう! さあ、早くみんなも癒してあげて!』


 生に言われるまま、高御、咲耶と続けて、生大刀の剣先を突き立てていく。御中のときと同様に白い布が現れ、あっという間に包み込み、そしてボロボロになって崩れ落ちる。現れた身体は、一様に傷一つないきれいな姿だった。


「すごい……」


 櫛名田は素直に驚いていた。

 ずっと家に飾ってあった剣――生大刀に、こんな力があったことに。

 生大刀に秘められた神通力で、すぐに傷を癒すことができるということに。

 なにより、その生大刀を、櫛名田自身が振るっているということに。


『それじゃあ、ちょっと疲れちゃったから、生はそろそろ戻るね!』

「も、戻る? 戻るって、どこに? 剣の世界ってところ?」

『そうそう! 生は普段、あっち側の世界にいるから! なにかあったら、また一緒に遊んでね!』

「ま、待ってよ! 生!」


 返事は聞こえない。嵐のように現れて、櫛名田に力を貸して、そして嵐のように戻っていった生。


「生?」


 生大刀に呼びかけても、生の声は聞こえてこない。


「あ……」


 生の声が聞こえなくなったのと同時に、見に纏った白い衣が崩れ落ちていく。白い粉のように変化していく衣は、足元に落ちるよりも早く、目に見えなくなるくらい細かな粒になってしまった。


「ん……」

「御中!」


 横たわる御中から息が漏れる。頭元に座り込み、赤みを帯びた頬にそっと手を伸ばす。


「御中……、よかった」


 生きていてくれてよかった。御中も、高御も、咲耶も。

 守ることができてよかった。巡り合えた人たちを。

 安心すると、途端に意識が朦朧としてくる。


「あれ? なんか……、疲れちゃった、みたい……」


 立ち上がろうとして、櫛名田は御中のお腹に頭を乗せるような位置に倒れ込む。視界が暗転するとき、最後に考えたのは、剣の世界で初めてみた、澄み渡る青い空の色だった。


 六人に振り続けていた雨は、この後わずかの間だけ、その雫を空に溜め続けた。


   ***


 御中が目を覚ましたとき、覗き込むような咲耶の視線と目が合った。


「うわっ! っていうか痛い!」


 驚き、身体を起こそうとするが、ピリッとしたわずかな痛みが胸に走る。慌てて、痛みを覚えた箇所に手をあてるが、特に変わった様子はない。


「そんなに慌てないでください、御中くん」

「咲耶……」


 咲耶に支えられながら、ゆっくりと身体を起こしていく。御中は、近くにあった大きな岩に背中を預ける。ゴツゴツとした感触が伝わってきて、お世辞にも居心地がいいとは言えない。

 状況を把握するために、あたりに視線を流す御中。大小さまざまな大きさの岩がそこら中に並んでいる様子を見る限り、おそらくここは川の近くだと思われる。


「御中殿、お目覚めですか?」


 咲耶の後ろから、御中を呼ぶ声がする。咲耶が横にずれると、櫛名田の両親と思われる、少し歳をとったような男女が並び立っていた。


「御中殿、私は山津やまづと申します」

手名椎てなづちと申します」

「あ、えっと……。御中です。よろしくお願いします」


 御中は自然と頭が下がった。どこか雰囲気漂う二人は、言葉遣いになにか特別な色が含まれているようにすら思えた。


「御中殿、お話したいことがあります」


 山津と名乗った櫛名田の父親は、御中と視線が同じ高さになるように腰を下ろす。


「あ、すみません」

「いえいえ。お気になさらず。こちらこそ、こんなときに申し訳ありません。ですが、一刻も早くお伝えした方が良いかと思い、失礼ながらこの場に加えさせていただきました」


 神妙な色を含んだ山津の表情に、スッと背中が伸びる御中。


「お話することはほかでもありません。我が家に納められていた十拳剣、生大刀に関してです」

「生大刀……」


 この五年、ずっと追い続けながらも、情報一つ得ることができなかった十拳剣の一本。その一本は、偶然助けた櫛名田の家に、これまた偶然納められていた。


 そんなことがあるのだろうか。いや、こうして生大刀の存在は確認できたというわけだから、これは紛れもなく事実なのだ。未だ目を覚まさず、横で眠る櫛名田の手には、生大刀が大事そうに握られている。

 山津は一つ咳払いをして、続けて言葉を紡ぐ。


「実は、私と手名椎は以前、淤能碁呂おのごろという島を治めている、伊岐いき様と那美なみ様にお仕えしておりました」

「淤能碁呂、ですか」


 少なくとも、御中は耳にしたことがない地名だった。


「淤能碁呂。その名は父から聞いたことがあります。確か、芦原の始まりを伝える島、と記憶しています」

「はい。咲耶さんはよくご存じのようで」

「いえ、聞いたことがあるだけです。それも、おとぎ話のように父が話す、物語の中の名前でした」

「なるほど。確かに、淤能碁呂は芦原の端に位置しております故。足を踏み入れる者は数少ないと言われております。ですが、私と手名椎は、その淤能碁呂で暮らしていたのです。そして、手名椎と一緒になり、淤能碁呂を離れることになったとき、伊岐様と那美様から譲り受けたもの。それが十拳剣、生大刀なのです」

「生大刀を……、譲り受けた?」


 つまり、神通力の力を秘める、宝剣とも呼ばれる十拳剣を、伊岐と那美と呼ばれる統治者が、この二人に譲ったということだろうか。


「はい。詳しくはわかりませんが、伊岐様と那美様は、こうおっしゃっていました。いずれ、十拳剣を必要とする者たちが現れる。その者たちが其方そなたたちを訪ねてきたら、この生大刀を渡してほしい。そして、その者たちを、この淤能碁呂まで導いてほしい、と」

「では、そのお二人は……、ぼくたちが、いや、ぼくたちのような十拳剣を求めて旅をする人が現れることを予見していた、ということですか?」

「おっしゃる通りです」


 だとしたら、その二人には会う必要がある。会わなければならない。十拳剣のこと、高天原のこと。そして、その先に立ちふさがるであろう、禍津のこと。おそらく、なにかを知っているはずだ。


 御中は、胸の鼓動が早くなるのがわかった。手を添える。今までにないくらい強く、そして早く動いている。咲耶も、信じられないというように両手で口を覆う。その顔は、興奮したように赤く上気していた。


「行こう、淤能碁呂へ」


 最初にそう言い出したのは、側で静かに話を聞いていた高御だった。立ち上がり、腰に提げた木刀を抜く。その腹を優しくなでながら、御中に視線を投げつける。


「もちろん、そのつもりだよ。ぼくたちの目的も、そこへ行けば達せられるかもしれない」

「はい! 行きましょう。私たち四人で!」

「うん! 行こう、ぼくたち四人で! 四人で!?」

「はい!」


 御中、高御、咲耶。三人の間違いではないだろうか。


「あの、咲耶? 四人って、誰のこと?」


 確認のため、御中は咲耶に問いかける。


「もちろん。御中くんと、高御くんと、私と。そして、櫛名田ちゃんの四人です!」

「あれ? 櫛名田も?」

「もちろんです。私たちはもう、家族ですから」

「そうしていただけると、私たちも助かります。見ての通り、私たちと櫛名田は、直接の親子というわけではありません。この子は、淤能碁呂を離れしばらくした後、旅の方から託された子なのです」


 年齢から考えて、親と子という間柄ではないだろうということは、御中にもわかっていた。しかし、櫛名田にそんな過去があったとは、考えもしなかった。


「そんなこと、関係ありません」

「はい?」


 いつになく強い口調で言う咲耶に、山津は声を詰まらせる。御中も口を開こうとした。しかしそれよりも早く、咲耶の口からは落ち着いた声で、それでも確かに櫛名田への想いをこめた言葉が吐露される。


「山津さん、手名椎さん。お二人は、間違いなく櫛名田ちゃんのお父さんとお母さんです。血の繋がりがなくても、それは関係ありません。家族と思えば、愛おしく想う感情があれば、それはどんな関係だとしても家族なんです」


 両手を胸にあてる咲耶。目を閉じているが、その顔が優しさであふれているのが伝わってくる。


「それに、見てください」


 咲耶は右手を伸ばして、眠ったままの櫛名田に向ける。


「あんなに優しい顔で眠っているんですよ。お二人が、いっぱいいっぱい櫛名田ちゃんのことを想ってくれたからこそ、櫛名田ちゃんは強くて優しい子に育ったんです。それはまさしく、親子以外のなにものでもありません。親子だからこそ、繋がれた絆に違いありません」


 咲耶は、一言ひとことに力を入れて、山津と手名椎に言葉を伝える。それは、想いを伝えるようでありながら、どこか自身に言い聞かせるようでもあった。


「はい……、そうですね。確かに、私たちは親子です。紛れもなく、櫛名田は……、私たちの自慢の子どもです」


 山津の目からは、涙がこぼれ落ちていた。


 御中は、ただただ、じっと山津の顔を見つめていた。しわが際立つその顔には、次々と涙の粒が零れ落ちていく。

 きれいだと思った。美しいと思った。誰かのために流す、その透明な水の色は、今まで見た、どんな色よりも透き通って見えた。


「御中殿」

「あっ、はい」


 違うところに意識を向けていたせいか、山津の言葉に一瞬反応が遅れる。


「櫛名田を……、我が子を……、どうか頼みます」


 差し出される手を、握っていいものか逡巡する。一緒に旅をするということは、山津にとって大切な子どもを、危険な目に晒すということに他ならない。そんな資格が、御中にあるのだろうか。

 どうするべきか悩んでいると、御中の手に、そっと咲耶の柔らかな手が重ねられる。


「御中くん、こういうときは、簡単に考えればいいんですよ」

「簡単に?」

「そうです。ただ、どうしたいのか。それだけを考えればいいんです。他の誰でもない、御中くんがどうしたいのか。その答えだけが、本当の答えなんです。本当の想いなんです」

「ぼくの、想い……」


 選んでもいいのだろうかと、御中の中に不安がよぎる。怖さはある。御中だって、八咫には手も足も出なかった。


 後で聞いた話だが、八咫を倒したのは櫛名田一人の活躍だったらしい。結果から考えたら、櫛名田と一緒に旅をするのは、危険という物差しで測れば、心配するまでもないことだった。それでも、今の御中にとっては、差し出された手を握り返すという選択を選ぶのには、勇気が必要だった。覚悟が必要だった。


「ね? 私もいますから」


 咲耶の笑顔は、こんなときでも御中に力を与えてくれる。重なった手からは、確かな温かさが伝わってきた。

 御中は、繋ぎ相手を待つ山津の手を、力強く掴んだ。


「守ります。ぼくの力はまだまだですが」


 強くなりたい。櫛名田を、そして咲耶と高御を守ることができるくらい。


「お二人の、大事なお子さんは、確かにお預かりいたします」

「はい。よろしく、お願い致します」


 強く、御中の手が握り返される。山津は、繋いだ手を何度も上下に振り動かす。


 目指す場所は決まった。芦原の端に位置する島、淤能碁呂。

 目的ははっきりしている。伊岐と那美に会い、十拳剣のことを聞く。

 すべては、高天原を目指し、芦原に闇を落とす禍津から、大切な人を守るために。

 決意した御中の瞳には、決してぶれることのない、確かな想いが宿っていた。


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