第零話 幸せなひととき
はるか昔。それは、神話の時代の、伝承とも言える出来事。
人々が暮らす世界のことを、芦原と呼んでいた。
芦原では、多くの人が生活を営み、子を産み、平和な時を過ごしていた。
ある時、芦原のすぐ側で、名もなき土地が見つかった。
芦原の人々は、自らが暮らす土地を得るために、その名もなき土地へと渡った。
しかし、彼らは強欲だった。
名もなき土地に渡った芦原の人々は、いつしか二つに分かれ、激しく争い合った。
人々は、己が欲に飲まれたのだ。
己はなぜ武器を手にするのか。なぜ同じ芦原の人間同士で武器を向け合うのか。
理由なき、終わりの見えぬ泥沼に引きずりこまれていた。
永久に続くかと思われたこの争いは、唐突に終わりを迎える。
どこからか現れた十の神々による不思議な力により、人々は正気を取り戻していった。
その後、二度と争いが起こらぬよう、神々は名もなき土地に身を降ろした。
神々は、その土地に高天原という名を与え、芦原の人々が渡ることができないように、二つの地の間を引き裂いた。
その後、十の神々は高天原に長く留まり、芦原の人々を見守り続けた。
芦原には、再び平和が訪れたという……。
「それで、その後はどうなったの?」
男の子は、難しい話にひとしきりうなずいた後、父親に向かってそう問いかけた。父親は、手に持っていた本を置き、幼い彼の頭を優しく撫でまわした後、ゆっくりと話し出す。
「その後はな、争い合っていた人たちはみんな優しくなって、二度と戦いは起こらない、平和な世界になったんだよ」
「平和な世界? それじゃあ、神様たちはどうなったの?」
「あー……。神様たちも暇になったから、ずっと遊んで暮らしてたんじゃないかな」
「遊んで暮らしてたの? じゃあ、ぼくも神様になりたい。神様になって、遊んで暮らしたい!」
「ははは……。悪いが、御中は頑張って働いて、父さんと母さんを助けてくれ」
無邪気に笑う男の子、御中とは対照的に、父親の表情には少し困ったような色が見えた。しぶしぶ「はーい」と返事をする御中だったが、横で眠る、同じ年頃の男の子に視線を向けた後、身体から落ちかかっていた布を掴み、そっと寝ている男の子にかけ直した。
「お、さすがお兄ちゃん。御中は優しいな」
「まあね。ぼくは高御のお兄ちゃんだから」
高御と呼ばれた男の子は、近くで話す御中と父親の声をまったく気にすることなく、すやすやと気持ちよさそうに寝息を立てている。外は暗く、空にはいっぱいの星が所狭しと並び、暗闇に我ありと言わんばかりの、強い光を放っていた。
いつもならば、御中もすでに寝ている時間だったが、今日は父親が話す昔話を高御と一緒に聞いていたところ、あまりに突飛な話過ぎて眠れなくなってしまったのだった。
「さあ、明日も高御と二人で森へ行くんだろう? もう夜も遅い、風邪を引かないように、温かくして早く寝るんだよ」
「わかった。おやすみなさい、お父さん」
「おやすみ、御中、高御」
手をつき、床にそのまま座っていた身体をよいしょと持ち上げ、立ち上がる父親。そのまま大きく身体を伸ばした後、御中と高御の寝室からそっと出て行った。寝室といっても、両親が眠る部屋と仕切りがあるわけではない。上から垂れている布幕が、一応風除けの役割を果たしていたが、あまりに薄く、話の最中にもわずかな風によってゆらゆらと揺れているのが見えた。
御中はぐるっと家の中を見回した後、高御が眠る粗末な布団の中に身体を潜り込ませた。先に眠る高御は、ほんの少し身体をくねるように抵抗したが、数秒もしない内に小さい二人の身体はすっぽりと収まってしまった。
御中はゆっくりと目をつむり、父親から聞かされた先ほどの話を思い出す。
名もなき土地のために争う人々。
十の神々の存在。
二つに分かれた地、高天原と芦原。
その全ては、父親が語った、造作もないおとぎ話だろう。苦しい思いをした人はいなかったのだろうかとか、神様はどこからきたのだろうかとか、そんなことを考えても、きっと父親だって応えてくれないだろうということは分かっていた。それでも、好奇心は抑えることができない。
人が争わなくて済む世界。人の理を超えた、神の存在。
御中たちが暮らす小さな村でさえ、周辺のいくつかの村と小競り合いが頻発している。幼い御中にとって、その理由を正確に知ることはできなかったが、水とか食べ物とか、そんなことを言い争っている大人たちの姿は、外で遊んでいてもすぐに目に入ってくる。
「ぼくが神様みたいに強かったら、いろんなことからみんなを守れるのかな……」
幼い御中のその問いは、誰にも答えられることなく、静かな夜の空気に溶けていった。
本格、という言葉を用いるのは分不相応かと愚考致しますが、精一杯努めさせていただきます。
第一部はすでに書き上げておりますので、推敲しつつ、順次更新して参ります。
何卒、よろしくお願い申し上げます。