ミルキーウェイは砂糖味
「はぁ」
風呂上がりのエリはドライヤーで髪を乾かしながら、鏡に映る自分の姿を見てため息をついた。いつもはもっとすっきりした気分になる風呂上がりなのに、今日はなんだか憂鬱で、髪から滴る水滴をうっとうしく感じた。いや、「なんだか」じゃない、原因ははっきりしていた。ひそかに恋心を抱いていたショウヘイが、今週末に家庭の都合で遠くの学校に転校することになったのだ。
何も仲が良かったわけではない、話しかけることはとてもできなくて、遠くからそっと眺めていただけだけど、それでもそれは恋だった。未練は湿った髪のように、彼女の心に長い影を落としていた。
服を着てベッドに寝ころびながら、カレンダーとにらめっこする。今日が火曜日だから、ショウヘイくんと学校で会えるのは、水曜日と、木曜日と、それから金曜日。たったの三日間しかないなんて!
彼女はその事実に改めて気づき、動揺を隠せずうつ伏せになって泣いていたが、しばらくすると決意に満ちた表情で起き上がった。
「このままじゃだめだ!」
今からでも、残された時間だけでも彼と仲良くなりたい、その思いでいっぱいになった。
「明日着けてくヘアピンは……」
彼女は懸命に明日の準備をして、早めに床に就いたものの、よく眠れぬまま夜が明けていった。
***
「ショウヘイ、荷物の整理進んでるかー」
「いやー」
比較的のんびりした父親が急かすようになって三日。ショウヘイは寝転がったまま生返事を返していた。引っ越しは四日後の土曜日で、金曜には完全に荷物を纏めてないといけない。
「はぁ」
どうしたってため息がこぼれる。もしかしたら引っ越すかもと言われて、まだ一カ月も経っていなかった。こんなすぐに引っ越さなくちゃならないなら、もっと早くあの子に声を掛けたのに。ずっと気になっていたのに、いざ目が合うと視線を逸らしてしまう。
まだ話せてもいない自分が、不甲斐なくてたまらなかった。
彼は、未練がましく空箱のまま放置した段ボールを横にどかして、灯りを消す。
もし願いが叶うなら、友達を呼ぶお別れパーティには呼べますように。そう願いながら、眠りについた。
次の日の朝、やや重い足取りで学校へ向かった。
教室に入ったとき、すでに机に座っているエリとふと目が合った。
「!」
ショウヘイはすぐに目をそらしてしまったが、なんだかいつもに増してきれいに見えたのは気のせいだろうか。
休み時間のたびに話しかけようと試みるものの、転校が近いこともあってショウヘイに話しかけてくる友人は多く、結局学校が終わるまであの子とは話せずじまいだった。なぜだか目が合うことはいつにもまして多かったけど、放課後になってさえも、彼はなかなかあの子に話しかけられないまま、友人に囲まれながら帰路についてしまった。
帰宅後、昨日よりやや口調のきつくなった父親の催促を受けて、彼はようやく気の進まない引っ越し準備を始めていたものの、早々と切り上げてベッドについた。引っ越し準備を進めるほど、自分の所属が引っ越し先に行ってしまうような気がした。もう少しこの場にとどまっていたかった。
あと二日。
「なんであのとき話しかけられなかったんだ」
彼は昨日と変わらない状況を、変えられない自分を呪った。
次の日も、その次の日も、二人の距離は変わらなかった。二人とも互いを想っていたのに、どこかそれに恥ずかしさを覚えて、決して踏み込むことが出来なかった。
そして三年後。
引っ越し先付近の公立高校に進んだショウヘイは、仲間たちに囲まれながら高校生活を楽しんでいた。
彼は優しい性格で、尚且つ顔も整っており、何人もの女子に告白されたが、頑なに恋人は作らなかった。
そんなある日、道行くショウヘイは、何度も後悔し、何度も恋い焦がれた後姿を見つける。
「エリ?」
「ショウ……ヘイ?」
進学してからもなお、エリはショウヘイのことを引きずっていた。高校にもかっこいい男子はいたけれど、彼女は一途な性格ゆえにショウヘイを忘れられないまま、新たな恋愛もできないでいた。高校でできた親しい友達にもいい加減忘れてしまうべきだとアドバイスされたけど、どうしてもそうすることができなかった。
その、もう二度と会えないと思っていた彼が目の前にいるなんて!
「……久しぶり、だね」
「ああ」
どうしよう。中学のころ全く話していなかったから、何を話題にしていいかまったくわからなかった。そもそも、そんな相手にいろいろ話しかけるのって、ちょっと変かもしれない。じゃあね、でそのまま別れるべき、なんだろうか。エリは何か言いたいけれど何も言えないまま、ただ視線を泳がせていた。
「……もう逃げない」
ショウヘイは自分に言い聞かせるようにつぶやく。彼が過ごした途方もない後悔の三年間が、彼に勇気をくれた。これは神様がくれた奇跡だ。きっと、ここで逃げたなら、もう二度と会えない気がした。今一瞬だけでいい。これまで、なんてことは忘れよう。せめて気持ちを伝えなければ、きっと永遠に後悔する。
エリはどれだけ言葉を探しても、俯くショウヘイに言える言葉が思いつかず、別れを告げようとするが、その言葉はショウヘイによって遮られた。
「あなたが好きです。前からずっと……今もまだ」
「えっ」
エリははっとして、しかし今度は視線をそらさずにはっきりと答えた。
「私も……ショウヘイくんのことをずっと……好きです」
よく目が合ったのは偶然じゃなかったんだ。三年間の互いに凝り固まった思いが、ゆっくりと熔けていく。
ショウヘイは顔を真っ赤にして、信じられないようなというような顔をしばらくしてから、こう切り出した。
「もしよかったら、今日の夏祭り、一緒に行きませんか」
***
屋台が立ち並ぶ喧騒の中を二人は歩いていた。まだ会話はぎこちないけど、互いの気持ちは明らかだった。
ピンク色の浴衣を着たエリが、歩みの速いショウヘイに合わせようと長い黒髪を揺らしたなら、紺色の甚平を着たショウヘイは、歩みを止めてエリの事を待つ。
そんな事を繰り返しながら、エリとショウヘイは屋台を見て回った。
ある時、ショウヘイが歩みを止めた。
「おっ、綿菓子みっけた」
「好きなの?」
「去年からだけどね。あの店、去年に友達の親が始めたんだ」
エリは楽しげなショウヘイの顔から目を逸らし、その屋台を見た。確かに、屋台自体にも興味があった。でも、本当に屋台を見た理由は、ショウヘイの顔から目を背けたかったからだ。一緒に居なかった時間を思い出すのは、エリにとって辛いことだった。
呆然としていたエリは、ショウヘイに手を掴まれて我に返る。
「寄ってこう」
「う、うん」
顔が赤くなったエリはショウヘイの顔を見ないように俯いた。だが、その必要はなかっただろう。ショウヘイもまた、頑なにエリの方を向こうとはしなかったのだから。
花火が始まる頃、二人の片手には綿菓子が握られていて、もう片方の手は自然と繋いだままだった。ショウヘイの誘いで、人気のない穴場を見つけた二人は、互いの顔も見えないような暗闇の中で、手の熱だけで存在を感じている。その間に言葉はなかったけれど、二人とも、不思議とその沈黙が嫌にならなかった。
ふと、エリがつぶやいた。
「なんか信じらんないよね?」
「何を?」
ショウヘイが、不思議そうに聞き返した。
「こうして二人でいることが、だよ。だって、昨日までは二度と会えないかもって思ってたのに」
エリの言葉を聞いたショウヘイは、ただ何も言わずにいた。不思議に思ったエリがショウヘイの顔を覗き込むと、ぼんやりと見えたショウヘイは、じっと考えているように見えた。
「確かに、そう見たなら奇跡だよね。でもさ、俺は今、奇跡じゃなくて運命だったのかも、って思ってる」
「運命?」
「何ていうか……近くに居られた頃は少しも近づけなかったのに、三年も会えなかった今の方が近くに居られているんだ。だからきっと俺たちは、遠くに居たはずの三年で心が近づいたんだ、と思うんだ。だから、一度離れたのも、再会できたのも、俺たちが結ばれるための運命だったんじゃないかな」
運命。そうかもしれない。
「そうかもね」
今度は一切目をそらすことなく、エリは微笑んだ。
それから二人は花火を見続けた。それ以上話すことはなかったけど、つながれた手が二人の仲を示していた。この時間が永遠に続けばいいのに、エリはそう思った。
最後に大きく見事な花火が打ちあがると、それきり静かになった。どうやらこれで終わりのようだった。
「花火、終わっちゃったみたいだね」
エリは少し残念そうにつぶやいた。
「でも、ほら見て」
ショウヘイが空を指さして言った。
「わぁっ、とってもきれい……」
エリが空を見上げると、そこには見事な天の川が横たわっていた。こんなに美しいのに、さっきまで明るくて見えなかったんだ。
「天の川ってさ、英語でミルキーウェイって言うらしいよ」
「確かに、ミルクをこぼしたみたい。ショウヘイくんって、かっこいいし、博識なんだね」
「そ、そんなことないよ」
そういうと、少しの沈黙の後、ショウヘイはこう切り出した。
「ねえ」
「なに?」
さっきまで普通に話していたショウヘイは、いきなり顔を赤らめて少しうつむきながら、こう言った。
「キス、していいかな」
ミルキーウェイの流れる空の下、沸き立ってしまいそうなほど暑い夜、二人は、長く甘いキスをした。