まほろ市への入り口
まだ少しふらふらする。
一歩あるくごとに胃が震えるような気がして、それが俺のイライラに輪を掛けていた。
日付が変わろうとしている。夜の空気はひんやりとして、火照った体に心地いい。
しかしこんな時間なのにも関わらず、駅周辺は騒がしかった。今日が金曜日なのも原因のひとつだろう。翌日が休みだからという浮かれきったムードが充満していて、酷く鬱陶しかった。大声でげらげら笑いながら横一列になって歩く中年サラリーマン連中を見ると、どの口で「最近の若者は」などとのたまえるのか不思議で仕方が無い。
酔っぱらってはしゃぎすぎなんだ、どいつもこいつも……。
ますます腹が煮えてきた。
どうしてこの国は煙草にはやたらめたらと厳しい割に、アルコールにはこんなにも寛大なのだろうか。寛大どころじゃない。酒を飲めない人間には人権が認められないのではないかという程だった。何度も何度もお酒は飲めませんと繰り返したはずなのに、このざまだ。最寄り駅からは自転車通勤であることを言っても酒を飲ませてくるのだから、うちの上司は唐変木としか言いようがない。そのくせ会社の喫煙所は年々減っていくときている。
酒の飲めない愛煙家としては、生まれてくる時代を間違えたことを痛感せざるを得ない。
駐輪場が見えてきた頃には気分も多少はマシになってきた。といっても酒飲み運転には変わりないのだが、上司に無理やり飲まされた酒のせいで歩かなければならなくなるのも業腹だ。自転車でも二十分の距離を、徒歩だと五十分はかかってしまう。冗談じゃない。
まあ、駅周辺は狂ったように賑わっているものの、そこから抜け出せば静かな普通の町なのだ。この時間ならまともな運転ができなくとも、轢いてしまうような人間は歩いていないだろう。
そう思い、俺は自転車の鍵を外した。
念のため駅前に居るあいだは自転車を押しながら歩き、人気がなくなり始めたあたりでサドルにまたがる。
駅前とは打って変わった静けさが身を包み、景色もがらりと変わった。聞こえるのは自転車のチェーンの音。遠くで猫が喧嘩する鳴き声。ときたま吹く風の音。ただそれだけ。
閑静な住宅街というのはまさにこういうところを言うのだろう。
イラついていた気分も静かな夜道を走っていると、落ち着いてくる。こういう雰囲気は、嫌いじゃない。
実を言えば、夜道は好きなのだ。
同じ町でも、昼間とは全く違った姿を見ることが出来るのが楽しい。我ながら子供っぽいところがあるなと苦笑したくなるが、実際子供のように目を輝かせながら周りを見る自分も、いる。
毎日通勤していれば見飽きてくるはずなのだけれど、不思議と飽きることはない。それどころか、俺は帰りに夜道を走るのが楽しみになってさえいた。毎日、少しずつ景色が変わっているのではないかと思うほどである。
街頭が煌々と光を放ち、走るのに十分な視界を確保してくれている。
しかしそれでも暗闇はあちこちにあった。
電柱などの影はもちろん、自分が乗っている自転車の影にだって闇はある。
立ち並ぶ家々は塗りたくったように黒く見えた。
河川敷に出たので、ふいと川に目をやった。
昼間は汚い川でしかない。しかし今は、そこに流れる水も真っ黒だ。街頭の光をてらてらと反射させているのが何とも神秘的ではないか。
――いつもと違う道を通ってみようかな。
俺はふいにそんなことを思った。
昼間に近所を走っているとき、通ったことのない道を走ってみることはたまにあった。といっても、いつも帰り道から大きく外れるわけではない。行ったことのない道もしばらく走っていると馴染みの場所へ出るのだ。そういう「ああ、ここの道はこう繋がっていたんだなあ」という発見も面白いし、知らない道を走るささやかな冒険も、俺は結構好きだった。
しかし夜にやったことはない。
いつものルートの景色に目を奪われているうちに、自宅へ着いているからだろう。
俺は時計を見た。
午前十二時十分か。
差し当たりどうするか迷った挙句、俺はついぞ入ったことのない脇道にハンドルをきっていた。
ここからは未知の道だ。……などとくだらないことを考える余裕があったのだから、俺はきっと浮かれていたのだろう。見たことのない新たな闇の景色は、やはり俺を楽しませた。
小さな脇道なので行き止まり覚悟で入ったのだが、道は先まで続いているようだ。ここから一体どこに繋がるのだろうという期待に胸が高鳴った。ここ周辺では既にたいていの道を走っているので、きっとしばらく走っていれば、既知の道に出るはずだ。それで遠回りになったとしても、土地鑑が増したと思えばそれはそれで面白い。
少し走ると、静けさは更に甚だしくなった。
遠くの方で聞こえてきていた猫の喧嘩も、もう聞こえない。風もいつの間にか吹き止んだようだ。
聞こえるのは、チェーンの音と自分が空気を切る音だけ。
狭かった道幅は進むにつれて広くなり、視界も広けていった。
初めて来る場所だ。
二、三メートルばかりの道幅が、ただ続く。道はぐねぐねと曲がりくねっていた。両側に立ち並ぶ家々が俺を見下ろしている。こんな時間だからか、どこにも明かりは灯っていない。
少しの間走り続けていたものの、景色は変わらない。分かれ道もない。曲がりくねってはいても一本道だ。
あまりにも同じような眺めが続くので、少し不安になってきた。
まだ三十秒も走っていないような気もする。五分以上ずっと変わらない道を走ってきた気もする。
酔って時間の感覚が狂っているだけだろうか。
引き返そうか、とも思った。しかし、ここまで来てすごすごと普段通りのルートに戻るのも何となく負けたような気がする。それに今日は金曜日なのだ。翌日の出勤を心配する必要はない。
俺は魅入られるように、同じ道を走り続けた。
それでも景色は変わらない。
同じように曲がりくねった道。同じような家。同じような間隔で立っている街灯。
ここまで変わらないというのもなかなか珍しい。どうして今までこの道を知らなかったのだろう。そもそも、ここは街のどの辺りなのだろうか。そんなことを考えつつ、俺はずっとずっと走り続けていた。
ペダルを漕ぎ続けて、どれぐらい時間が経っただろうか。
時計を見なかったので正確には分からないが、少なくとも一分二分ではない。
俺は走るのをやめていた。
辺りを見回してみる。
同じだ。
何も変わっていなかった。
流石におかしい。
ここまで同じ道がむやみに続くなんて――そんな馬鹿なことが、あるはずがない。
それにいくら夜中とはいっても、これだけ多くの家の明かり全て消えているのはいささか不自然だ。明日は休日なのだから羽目を外して遅くまで起きている人が居たって不思議はないはずだ。それなのにどの家もひとつ残らず闇色に染まっていた。テレビやラジオの音だってもちろん聞こえない。深夜番組を観ている人だって居てもいいはずじゃないか。まるで家々が全てハリボテであるかのように、ただそこにあるだけである。
正直、薄気味悪い。
脇道に入ったときのような高揚感はすでに消え去っていた。
酒に酔っているせいではないだろうかとも思った。道が曲がりくねっているせいで分からなかったが、実は同じ道をぐるぐる回っていただけだった、というオチではないだろうか。酔っているのなら気がつかないのにも無理はない。そうだ、そうに違いない。俺は自分の顔を何度か叩いて、酔いを醒まそうとした。そして可能な限りの注意を払いながら、再び走り始めた。
結果は変わらなかった。
いくら目をこらしても一本道だ。ぐるぐる回っているわけでは、決してないのだ。
それなのに景色が変わらない。
おかしい。どう考えてもおかしい。これだけ走っていれば絶対どこかに出るはずだ。いつまでも一本道の住宅街が続くなんてあるはずがない。
しかし、もういくら進んでも景色が変わるとは思えなかった。
俺は深いため息をついた。酔いはすっかり醒め、頭は憎らしいほどに冴え渡っている。
引き返そう……。
自転車乗りとして、来た道を引き返すことは屈辱でさえあった。しかしもはやそんな意地を張る気も失せていた。ぐるりと今まで走ってきた道へ向きを変え、ペダルを漕ぐ。そうすることで少し気が楽になった。これまでどれほどの距離を走ってきたのかはよく分からないが、少なくとも終わりはあるのだ。
俺はしゃにむにペダルを漕ぎ続けた。
一秒でも早く普段通っている道に帰りたかった。
酔いが醒めたからか、空気がやたらと冷たく、寒かった。
にも関わらず、俺は額から汗を流していた。
速く、もっと速く。
大蛇がうねった跡みたいな道を、ひたすら走って、走って、走って――
そして。
荒く息をつきながら、また俺は立ち止まっていた。
愕然としていた。
終わらないのだ。
来た道を引き返しているのに、いつまでも景色が変わらない。
行きに走ったよりも遥かに長い距離を戻ったはずだ。
全身を氷のように冷たい汗が流れた。
立ち止まっていると、本当に何の音も聞こえなくなる。
痛いほどの静寂に、気が狂いそうになった。
青白い街頭の光も不気味に感じるようになった。
見渡しても、人はおろか虫一匹見当たらない。
今は何時なのだろうと思い、腕時計を見た。
鳥肌がたった。
時計は十二時十分を示したまま止まっていたのである。
今日までずっと正常に動いていたし、故障するようなこともしていない。電池だって先月入れ替えたばかりだ。
俺は震える手で携帯電話を開いた。
圏外だ。
こんな場所が圏外になるはずがないのに。
携帯の時刻表示さえも十二時十分のまま止まっているのを見て、泣きたくなった。
もはや自転車を漕ぐ気もしない。
俺は自転車から降りた。
こんな時間に迷惑がられるかもしれないが、住民に助けを求めてみよう。そう思い、目の前の家のインターホンを押して反応を待った。運動をやめると、ますます寒くなってくる。
かちっ、軽い音がしたものの、他に何も音が聞こえない。俺はしばらく待ってから、もう一度強くボタンを押した。しかし、俺が心待ちにしている電子音は聞こえない。家のそばで耳をそばだてても、変わらなかった。家の中でも鳴っていないらしい。
くらくらしてきた。
何度も何度も何度も何度もボタンを押した。
かちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちっ。
けれども電子音は聞こえない。
ここの家のインターホンが故障しているだけかもしれないと思い、隣の家でも同じことを試みた。しかし同じことだった。インターホンが反応しない。その隣の家でも、その向かいの家でも同じだ。どこの家のインターホンも鳴らないのだ。
半ばやけくそになって、俺は最初の家のドアを力の限り叩いた。何回も叩いた。蹴ったりもした。
それで警察に通報されるようなことがあったとしても、それはそれで助かる。
しかし、何の音もしなかった。
耳を疑うとはこのことだ。
いくら力を込めてドアを叩いても、何の音もしないのだ。
まるで映画をミュートで見ているかのようだった。
俺は声の限り叫んだ。
すみません、とか、助けてください、というのをはじめとして、開けろ、だの、ここから出せ、だの、殺すぞ、なんてことまで叫んだ。
俺の声は驚くほど辺りに響いたが、それでも状況が変わることはなかった。
この地球上は俺以外の生物はいないのではないかと思うほどだ。
ゴーストタウンのようだ。
いや、一見ゴーストタウンには見えない分、ゴーストタウンよりも気味が悪い。
気が付くと俺は、塀にもたれかかり、子供のように膝を抱えて座っていた。
このまま朝まで待てば事態は好転するだろうか。
朝になれば誰かが目を覚まし、俺を助けてくれるのか。人通りは増えるのか。俺は帰れるのか……。
何となく、そうはならないような気がしてならなかった。
朝になっても、どの家も反応しないかもしれない。いくら走っても抜け出せないかもしれない。
そもそも朝なんて、来ないのかもしれない――――
普段なら一笑に付すところだ。しかし、その可能性もあるような気にさせるほど、この状況は異質だ。
何の音も聞こえない。
徐々にまぶたが重くなってきた。
眠い。
しかし今眠れば、凍死してしまうかもしれない。
さっきまで寒かったのに、今ではあまり寒くない。
低体温症なのかもしれないな、と思った。
座ったときには氷のように冷たかった路面が、今は温かい。
それがやけに心地よかった。
ああ、本当に眠い……。
俺はうつらうつらし始めていた。向かいの塀を何となく眺めながら、現を離れかけては戻り、また離れそうになる。目の前がぼやけ始めていた。景色がゆがみ、揺れる。
薄れゆく意識の中――向かいの塀に、ぼんやりと文字が浮かび始めていた。……気がした。
あれは……なんだ……。
重い手を持ち上げ、必死に目をこすりながら何とかして読もうとする。
こ こ は 、 ま ほ ろ 市 。
辛うじて、そう読めたとき、俺は、意識を、手放した。