4.朝は来る
目が覚めると朝だった。
達郎は床に散らばった服や靴を見て、どうしてこんなに酷く散らかっているのかと勘違いした。
すぐに昨晩のことを思い出し、素っ裸のまま寝入ったのだと理解した。
もそもそと起き出して服を拾い集めた。
彼は今、ショックを受けているのか、嬉しかったのか分からなかった。
達郎はミサコを見下ろした。その姿は、まるで妻が寝ているようにも思えた。
口をやや開けぎみで、息をするたびに一房の髪が揺れる。その光景に達郎はたじろいだ──この女が、妻のように見えてはならない!
達郎はずっと、世の中には二種類の女がいると思っていた。マトモな女と、それ以外の女だ。
だから、見かけも違っているはず。そうでなければ区別がつかない。
草臥れたミサコの寝顔。彼女の腹には一筋の線があった。その線は臍から股の茂みに向かって伸びている。
いつのことか分からないが、子供を産んだのだろうか。だが、ミサコに家族がいるという噂は一度も聞いたことがなかった。
達郎は、今度は自分の身体を見下ろした。項垂れた男性自身を見る。ズボンを引き上げる前にもう一度見やった。
そして思った。早く家に帰らなければ。
ミサコが目を覚まさないように、何故か気を使う。
そっと金を数えると、それを枕元に置いた。だが一瞬考え、千円札を一枚サイフに戻した。やり過ぎることはないんだ、こんな女に。
金を置かずに出て行くことだって出来る。確か、幾らでもいいと言っていたではないか。
さあ、帰ろう。ミサコが目を覚ますかも知れない。あんな格好で口を開けて眠っているのだから、喉が乾いてそろそろ目が覚める頃だろう。
達郎は片膝をついてから、おもむろに立ち上がった。
「あたしだって必死なんだよ……」
寝言だと思った。ミサコはちょっと身じろぐと、体を横に向けた。
そして、誰かから自分を守らなければならないのを知っているかのように、膝を閉じ、掛け布団を巻きつけるように勢いよく引いた。
それを抱え込むようにして丸く背を向けたので、女の脚が剥き出しになった。
達郎は覗き込むようにして、ミサコの右足の付け根に残る痛々しい傷跡を見た。
そのワケは誰も知らない。女が話さないから誰も知らないのだ。
必死に生きている……。
この街ではミサコのような女たちはみな、それぞれワケがあって夜の街角に立っている。
彼はミサコの体に掛け布団を掛け直してから戸口に立った。
一段一段、罪の意識を置き去りにするように階段を下りた。
見上げると、朝日が眩しかった。階段の下で大きく深呼吸してから川へ向かった。
最初の角を曲がるとき、何気なく振り返って見た。階段の上のドアが開いていて、裸の肩を毛布で包んだミサコが立っているのが見えた。だが、すぐにドアは閉じられた。
きっとまた寝床に戻り、昼ごろ起き出してジャズ喫茶で働くのだろう。そして月が屋根の向こうにかかるころ、オリンピック通りの角にいつものように立っているに違いない。
彼の足どりは意外に軽やかだった。達郎はまた、昔の自分を取り戻しつつあった。
夜の行為を誇りと、楽しさと、恥ずかしさの入り交じった、そんな感情で振り返ることのできる、かつての自分を……。
鳥が川の上を舞っている。そのうちの一羽が群れから離れ、鉄橋の下をくぐり抜けた。翼に一瞬影が落ちたが、それはすぐに明るい光の下で輝いた。
空気を吸い込むと肺が痛んだ。煙草を止めることを真剣に考えた方がいいだろうか。
達郎は、去年死んだ親戚の子の葬式のことを思い出した。
まだ自分の半分にもならない歳だった。それは気の毒なことだったが、その子のことを思い出しながら、達郎はしゃんと背筋を伸ばした。
自分はまだ、どれだけの人生を生きなければならないか。いや、自分の中にまだどれだけの人生が詰まっているのか……。
そんなことを考えた途端、彼はふふっと口角を上げて笑った。
そうだ、たまには置時計でも磨くとするか。
耳のひしゃげた三毛猫が目の前を横切った。いつもなら猫など気にもかけないのだが、達郎はこの猫とは視線を交わした。
皮肉な、認めるような眼差しで、猫は達郎を睨み返した。達郎の道と、猫の道が出会い、交差し、また別れる。
彼は今、口笛を吹きながら自分の道を歩いていた。家に着いたとき、何と言ったらいいのか考えてもいない。
『あら、あなた、どこに泊まってらしたの?』
晴子のそんな皮肉が聞こえてきそうだ。
だが今では、それも軽く受け流すことが出来そうだった。なんといっても、晴子は自分に最も近い女だ。
娘二人だって母親ほどでなくても、ときどき気にかけてくれる。
達郎は歩きながら足元を見た。朝日に背を向け、揺れる己の影を見ながら、この季節にしては眩し過ぎるほどの陽光を感じていた。
彼は今、ポケットの中でジャラっと小銭を鳴らして、我が家へと足を向けた。
‐了‐