3.十字路
夕刻、達郎は何も考えずに、ただ通りを歩いていた。ポケットの中には、やけ酒の一杯や、煙草を買う金はある。
小銭をジャラジャラ鳴らした。金というものはすっかりなくなるまで、それがどれだけ大切なものか、まったく気付かないものだ。
日々溜まりにたまった鬱憤のせいなのか、歩くたびに胃のあたりがムカついた。この歳になると、若いときには耐えられたことが耐えられなくなってきた。
心の中の尽きない怒り。それを独り言ででも発散したくてたまらない。
十字路に差しかかったとき、すぐ目の前を一人の若者が横切った。達郎はぶつかりそうになるのを何とか踏みとどまったが、情けないことに膝に痛みが走った。すると、
「危ぶねえな!」
と、急に切れたような言葉が己の口を突いて出たのだ。自分でも驚いた。
「あぁ!?」
男が振り返った。まだ二十歳前後に見える。眉を寄せ、凄んだ顔付きで戻って来た男を見て、達郎は目を開けたままだったが、心では閉じようとしていた。
これは拙いと思った矢先、力強い腕で胸ぐらを掴まれた。
「なんか言いましたかぁ?」
妙に押さえた口調が恐い。
「いや……」
最悪だ。相手の口にくわえた煙草の灰が、達郎の胸元にぱらぱらと落ちた。
だが、別の男が横から近づいて来て言った。
「おい! よせ。行こうぜ」
去っていく男達を見ながら、心臓の動悸が激しくなった。
気が付くと繁華街を避けて歩いていた。普段は足を向けないような随分寂しい場所だ。
少し後ろの反対側の歩道から足音がついて来る。この先の川沿いの廃墟となった家々に、まだ誰かが住んでいるという噂は聞いたことがあったが、もしかしたら先ほどの連中だろうか。
やはり腹に据えかねて戻って来たのだろうか。だが、つけて来るのは女だと確信した。
女が薄暗い街灯の下によろよろ歩み出て来たとき、その独特な足音で相手が誰かはすぐ分かった。
ここにも引退を考えなきゃならない人間がいる。あの仕事をこれだけ続ければ、もうたくさんだろう。彼女はそれだけ働いている。
達郎が知る限り、彼女は街中の男の噂になっていた。
ミサコ。オリンピック通りの角に立ち、どこかの男が引っかかってくるのを待っている女。
彼女は決して諦めようとしない。
ときには何日か姿を現さないと、みんなはやっとミサコも廃業したのかと思う。
だが、その次の日とか、次の次の日の夜になると彼女はまた戻って来て、いつもの角に立っているのだ。
噂は確かなのだろう。彼女の右足は病んでいた。見たことがある──つまり寝たことがある──という男の話では、ミサコの右足の内側には大きな手術跡が残っているという。
達郎はミサコには目もくれず、川の方へ足を向けた。もうすぐ家へ帰り、妻を起こさないように台所で着替えて、寝床へ入らなければならない。廊下の一部は軋んで大きな音を出すので、そこだけは踏んではならない……。
ミサコがよろよろと向かって来た。達郎はイラついた。まったくもって道路は十分広いし、俺の方に近付かなくたって、通り過ぎることなんか分けないじゃないか。
それとも……。
「お久しぶり」
と、ミサコは言った。「どんよりして星が見えないし、雨でも降るのかしらね」
ミサコは相手の様子を窺っているようだったが、相手が喋らないと分かると、
「どうしたの? オジサン、猫にでもベロを喰われちゃったの?」
「今夜は止めとくよ」
達郎は自分の声が擦れるのを聞いた。おどおどしている少年のような声だと自分で思った。「お断りするよ」
「お断りするって!? いったい何のことさ。あたしは何も申し出ちゃいないわよ。ただ、雨がどうのと言っただけじゃない。雨が降るかも……そうでしょ?」
「ああ」
「まったく……」
ミサコはそれから、ぶつぶつと独り言を言った。
達郎は、ミサコをそのまま放って歩き出そうと思ったが、気になってその顔を覗き見た。
自分の嘆きを、独り言を、まるで温もりのように抱きしめている女。
達郎は僅かだがミサコが可哀想に思えてきた。マフラーで顔が半分ほどしか見えないが、噂では四十は越えているとのことだった。
不健康そうで弱々しい足取りは、もう客を探すような状況ではない。いったい幾ら取るのだろうか、と達郎は思った。
「あたし、昔からこのあたりに住んでるのよ。もうちょっと先の“立ち退き”通りだけど」
ミサコは川に背を向け、反対側の荒れ果てた家並みを見ながら立っている。
「寂しい所だよね、ここは」
ミサコは達郎を見た。何かを言おうとしてか、急に喉を詰まらせたようにして咳をした。咳は止まらなくなって体を二つに折り、ミサコは近くの壁に手をついた。
やっと体を伸ばしたとき、ミサコは手袋をはめた手で口元を覆った。手袋は淡いグレーのスエードで出来ていて、不釣り合いに上品な印象を与えていた。
「どこの人?」
と、ミサコは肩をすぼめると、マフラーをまた深々と巻き直した。
「ここからバスで南の方だ」
「中央通りの外れのほう?」
達郎は、髪から覗いているミサコの耳を見た。彼は、ミサコがどんなふうになるのかと、思いを巡らしている自分に気付いた。
どんなふうにするのだろう……。毎晩のように、もううんざりしているに違いない。
妻は……でも妻は違う。達郎は妻と年に二度するかどうかも疑問に思った。彼はできるだけ妻を一人にしておいたし、妻もそれを理解し、達郎に感謝していたはずだ。
とにかく妻は、そんなことにはあまり深入りしなかった。
でももしかしたら、かつてのミサコもそうだったのだろうか。これは単なる仕事だったのか。
「……もちろん、あの頃にはテレビなんかなかったし」
女は勝手に喋っていた。「だからみんな、自分で自分の楽しみを作り出さなきゃならなかったの」
「ああ、それが上手だった」
適当な相槌を打った。
「そうよ」
「この頃は何でも手近にあるから、誰も何にも努力しない」
このあと沈黙が流れたが、やや親しみが漂うようになっていた。
達郎は空気の匂いを嗅いだ。ときどき川の傍に立っていると、夜明けの匂いを嗅ぐことができる。空が明るくなる何時間も前に。それは素晴らしい時間だ。緊張も苦しみもすべて溶け去って、ただどんな人生が現れるのかを待つだけ……。
「ねえ、あたしの家へ来ない?」
その質問は、達郎にとって衝撃だった。即座に『いいや』と答えるべきだったかも知れない。
だが、達郎はそうしなかった。遅れて『いいや』と答えようと口を開こうとしたとき、達郎はそれが自分の本意ではないことに気付いた。
ミサコと一緒に川沿いの道を曲がって歩いた。
「名前はなんていうの?」
「石嶋だ」
「それは名字」
「……達郎だ」
あまり自分のことを知られたくはない。いったい自分は何に首を突っ込もうとしているのか。きっとロクでもないことだ。
「あたしはミサコ」
達郎は『知っている』と言うべきかどうか迷ったが、言わないことにした。
相手は相当酔っていて、もし知っていると言えば、達郎が誘いをかけていると思うかも知れないからだ。
達郎はどうしてこんなことになったのか分からなかった。
でも、最後までついて行く必要はなかった。いつでも踵を返して歩き去ることだってできる。達郎は決心して、ビールと安っぽい香水の匂いから立ち去ろうとした。
「ねえ、ちょっと!」
ミサコはまるで小さな女の子のように、達郎の袖口にしがみついた。
「いいかい? 俺は羽振りがよくないんだよ」
「今夜は五千円でいいよ。なけりゃあ出せるだけでいい」
五千円だって! 年金暮らしのこの俺から五千円が出せるとでも?
達郎の心には、『汚らしい』という言葉が浮かんだが、口にはしなかった。生めかしい安香水の匂いが、達郎の喉を封じた。
「さあ」とミサコは言った。「たまには自分にご褒美をあげなさいよ。分からないじゃない。結構楽しめるかも知れないじゃないの」
「いや……」
「すぐ近くよ。次の角を曲がったところ」
両側の家には板が打ちつけられ、住んでいる人はいない。二人の足音が人気のない通りに響いた。
「人生は金だけじゃないわ」
「酔ってるんだな」
「感謝しなさい」
女はまるで小学校の先生を気取るかのように言った。「素面なら、あたしはオジサンを誘わなかったかも知れないよ」
達郎は部屋の真ん中に薄汚れた布団が敷かれている場面を想像し始めていた。二人は角を曲がって別の通りへ出た。
「ここよ。着いたわ」
草がひとかたまり生え、通りへと続く階段があった。
「牛乳ビンに気をつけて。あれを蹴飛ばしたら、そこらじゅうの人たちが起きちゃうからね」
達郎はこの辺りには他に誰も住んで居ないことは分かっていた。二人は一緒に階段をよろよろ上がった。
ミサコは大きな身振りで、「静かに」という合図を送った。達郎は薄暗い足元に躓きながら、ミサコにもたれかかって階段を上がった。それはまるで、達郎の方が酔っ払っているように見えた。
だが、それが返って二人で何かを共謀しているような気持ちを生んだ。達郎はこの出来事を楽しむ気分になっていた。
窓には曇りガラスが入り、カーテンが下がっている。ミサコは鍵を探した。
そして、二人は中へ入った。
だが、部屋に灯りが点いた途端、達郎は気持ちが萎えてしまった。布団は灰色で、乱れたままだ。それが部屋のほとんどを占領している。
ミサコは靴を蹴って脱いだ。
「やれやれ」と。
それは妻の晴子が一日の終わりに、いつも口にする言葉と同じだった。その言葉に、股のつけ根がウズウズする感じも消えてしまった。
達郎はドアの近くにとりあえず腰を下ろした。ゆっくりと。
布団の傍のテーブルの上に写真が飾ってあるが、古い写真で黄ばんでいる。裸電球がドアの隙間から入ってくる風に揺れている。
ミサコは部屋の奥へ行くと、やかんに水を注ぎ、コンロに火をつけた。
近づいてくるミサコに達郎は何か言おうとした。
「俺はどうも……」
と立ち上がった。
「あら、大丈夫よ」
そう言ってミサコは、達郎のズボンのベルトを緩めた。「待ってなさい」
また、女教師のような言い方をして、着ているものを捨てるように脱いだ。
それを待っているあいだ、達郎は廊下に立たされた生徒のような気分で、なんとも情けない。
それにしても久しぶりの出来事だった。見ず知らずの女の前で、まるで童貞のように立っている。
ミサコが一糸纏わぬ姿で目の前にひざまずいた。白い胸に二つ並んだホクロが艶かしさを助長していた。
達郎は、さくらんぼを指で摘まんで口の中にすべり込ませる女の仕草を思い出した。
「きみは!?」
達郎は前屈みになり、先ほどまでマフラーで分からなかったミサコの顎に手をやると、顔を上げさせた。
「やだっ、今ごろ気がついたってわけ? 通りで『久しぶり』って声をかけたじゃない」
ジャズ喫茶の女はそのまま後ろへ倒れると、けらけらと笑い転げた。電球の灯りが、彼女の顔を、胸を、ばたつかせる足を照らしていた。
「てっきり分かってると思っていたわ、はあっ……はっ……ああ、可笑しい」
達郎はやや鼻白んだが、意に反して股間のものは意思を示し始めていた。それは、あの店の女だと分かったからなのか。
いづれにしても、初老とはいえ男の面子が立つというものだった。