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1.置時計

 定年退職するまでの数週間、昼休みになると石嶋達郎はいつも一人でいて、考え事をして過ごした。

 それに、まっすぐ家に帰ったことが一度もなかった。



 いつも川岸をうろついて川を眺めていた。お決まりの場所に立ち、ハイライトに火をつけて深々と吸い込む。



 足元では澱んだ水が川辺を舐めるようにゆったりと流れ、街灯の光が届くあたりだけが一瞬煌いていた。



「仕事を辞めたら、どうするつもりだ?」



 同僚からそう訊かれた。それは退職を一カ月後にひかえた一九九〇年の晩秋のことだった。



「なにもしないさ。のんびりさせてもらうよ」



 今となっては、それが本心だったかどうか、達郎には分からない。

 こうして退職してみると、生活がそれまでとは随分違った。



 最近では働いていた当時のことは、もうぼんやりとしか思い出せない。

 四十年近い歳月の重みが、今、達郎にのしかかっていた。



 かつて誇らしげに語っていた仕事なのに、もう失敗したときの思い出しか浮かばないのが情けない。



 彼がいた会社は退職者に置時計をくれた。それはどっしりとしたもので、秒針が付いていないタイプだった。

 秒針など有ると追い立てられるようだし、せわしなくて嫌だと達郎は思った。



 数日は居間のソファーに座って、それを眺めていた。

 だが、ある日の午後になると、とうとう時の経つのがあまりに遅く感じられてきた。



 時計が止まっているのかと思った。何度も何度も立ち上がっては、置時計を手にして耳に押しつけた。でも、音は一度も聞こえなかった。



 あの喧しかった工場のせいに違いない。

 しばらく見つめていて、達郎はようやく分針が動いたことに気づく……ああ、これなら大丈夫だ。



 妻の晴子は、達郎が家に居るのを嫌がった。彼女が台所で鍋の音を煩く立てるので、達郎は新聞を読むこともできずに、緊張してその音を聞いた。



 晴子が居間を掃除するときには、いらいらした様子で掃除機の先端を達郎の脚のあいだに突っ込んできた。



 だが、それも分からないことではない。晴子は自分一人で家に居るのに慣れていたのだ。以前は自分のペースで家事が出来たのだ。



 それから、子供たちが訪ねて来ても状態はそう変わらなかった。たいていは、

「こんにちは父さん。元気だった?」と言う。



 でも、子供たちが会いに来たのは母親の方なのだ。

 だからといって、それを妬む気持ちはなかった。彼女は良い母親だし、これ以上の母親は望むべくもないほどだ。



 でも時には、羨ましく思うこともあった。晴子は子供や孫に囲まれて、とても落ち着いているように見えた。



 そんなわけで、達郎はできるだけ家に居ないように心掛けた。

 しかし、どこか出かける所を探すのは難しかった。



 年金をそっくり妻に渡し、その中から彼女がいいと思うだけ小遣いを貰っている。



 子供たちがときどき母親に少し援助しているのではないかと思うことがあるが、この先の生活や健康面にかかる医療費のことを考えれば、そうするしかなかった。



 そんなわけで自分の小遣いはほんの雀の涙だ。ビールを一、二杯に煙草、それで終わりだ。



 最初はかつての職場の仲間と就業後を待って付き合いを続けようとしたが、長くはもたなかった。



 次回みんなに奢るだけの持ち合わせが有るかどうかと、考えながら座っているのが苦痛だった。



 みんなが達郎にそれを期待していたわけではない。達郎が自分でそう思っていただけだったのだが──。



 それに、しばらくすると話題についていけなくなった。人の名前や作業工程のことさえ、達郎にとっては初めて聞くものに変わっていた。



 新しい契約が成立しなかったとか、また一部人員整理があったとか。そういったことが話題になったが、どれもこれも達郎にはもう無縁だった。



 それで付き合いも次第に遠のき、とうとう居酒屋で飲むこともぱったりなくなった。



 年をとると誰からも相手にされなくなると思い込んだりもした。みんな、何か下心があるんだろうと俺のことを思っているに違いない──小銭が欲しいとか、酒を奢って欲しいとか。



 達郎は苦々しく思った。

 でも実際は、昔の仲間が達郎を避けていたのではない。達郎のほうが仲間を避けてしまっていたのだ。



 そんなこんなで、達郎は近所の公園に足を運ぶようになった。天気が良いときは、寄り集って日向ぼっこをしている他の年寄り連中から、ちょっと離れたベンチに一人で座って時間が過ぎるのを待っていた。



 あの老人たちは甲羅の中から外を窺う亀のようだ。結んだ赤いマフラーのあいだから、おどおどと皺くちゃの首を突き出している。



 しかし、天気が悪いときには図書館へ行った。

 公園が気を滅入らせるとすれば、図書館は達郎を脅えさせた。



 そこは本当に社会から見捨てられた、惨めな落伍者たちの最後の行き場のようだった。



 彼らは雑誌やベストセラーを読む振りをしながら、独り言を呟いていた。鼻クソをほじり、それを指先で床に弾き飛ばす汚い老人もいれば、煩い音を立てる老人もいるし、第一嫌な臭いがした。



 ここに居るときの彼らは、おどおどしているように見えた。なぜなら図書館の三十前後の係が、自分たちに対して大きな権限を持っているのを知っているからだ。



 若くても彼らは、年寄りたちを図書館から追い出して暖を取らせないようにすることが出来るのだ。

 外は寒い。だからサンドイッチも係の顔色を窺いながらこそこそと食べる者もいた。



 心の中の尽きない怒りを独り言で発散したくて堪らない──そんな彼らも出来るだけ静かにしようと努める。



 だがいつもうまくいくとは限らない。係の一人は机の間を歩き回るのが癖だった。

 達郎がいるとき、一度そんなふうに回って来た。



 彼は自分の顔に、みんなと同じような落ち着きのなさが滲み出るのを感じた。それで、すぐに図書館を出て、それっきり二度と行かなかった。



 次に、達郎は若いときに熱中したことがある、ジャズを聴きに行こうと思い立った。



 繁華街の外れ、懐かしいその店はまだそこに有った。カランと音が鳴るドアはそのままで、かえって驚いてしまった。



 ピアノの音だけで意外に静かだったので、身構えていた肩の力を抜いた。


 薄暗い店内。なかなか慣れない目を細めて奥へ進むと、カウンターの手前のレコードプレイヤーの上に、オスカー・ピーターソンのLPジャケットが掛けられていた。


 目を凝らし、後ろを見回すようにしてカウンターにはり付いた。若者が数人別々に座って居るだけだった。



「なににします?」


 女の声に振り返った。カウンターの中で女が微笑んでいた。


「ああ……ウヰスキーを」


 そう言うと、女は小首を傾げて見せた。それは可愛い仕草だが、仕草ほど若くも見えなかった。


「シングルで」と、付け加えた。


 狭いカウンターの中で物に掴まりながら女は背を向けると、高いところに手を伸ばしてグラスを取った。



 そのとき細い腰と肉付きの良い尻を目の前にして、達郎は久し振りに目を細めた。



 働き始めたころ、少ない給料の中から小銭を握ってこの店に来ていたことを懐かしんだ。



 もちろん、カウンターの中の女は違うけれど、ここで知り合った連中とは女の好き嫌いを当て合って、誰がものにするかで賑やかだった。



 煙草の匂いと焦げ茶色に染まった店内は、あのときとなんら変わらないように見える。



「はじめて?」


 そう言いながら、女はグラスを置いた。


「変わらないね」


 と、達郎はグラスに手を添えた。


「え?」


「店さ」


「そう……古いらしいわ。あたしは最近だけど」


「そう」



 達郎は女の顔をじっと見た。童顔で胸の谷間に二つ並んだホクロがコケティッシュだった。



 見た目じゃ分からないが、歳は幾つぐらいなのだろう。さくらんぼを摘まんで、こっそりと口の中にすべり込ませた。そんな女の仕草に気づいて達郎は胸が躍った。



 帰り道、達郎は思った。

 公園も図書館も歓迎できる場所ではない。自分は違うと、自分自身に言い聞かせた。違う、絶対に……。



 しかし、人間としての尊厳を保ち続けるのは難しかった。

 妻が働き口を見つけたのだ。たいした仕事ではない。中くらいの会社の食堂のパートだ。



 でも、達郎はもう我慢ができなかった。鉄砲から出た弾のように職安に飛んで行った。



「何でもいいから仕事を下さい」と頼み込んだ。



 何でも構わない。仕事でさえあれば。

 まわって来たのはトイレ掃除だった。



 床をモップで拭き、トイレ全体を綺麗にする。時間はそうかからないので、余った時間をただ座って過ごした。



 これでも仕事は仕事だ。いくらかでも金が入る。自立できる。そこのところが小さいようで大きい。



 いつもより少し早く家に帰った日のことだった。

 妻と二人の娘の笑い声が聞こえて来た。達郎は台所のドアの外に立って耳を傾けた。



「あの人がトイレ掃除をやるなんて、考えただけでも可笑しいわ」


 と、晴子が言っているようだった。



 達郎は自分が立ち聞きしなかった振りをして、また玄関へ戻り、今度は大きな音を立てて家の中へ入っていった。


 でも、心は相当傷ついた。



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