あの悲しみを忘れたくない
「大変お世話になりました」
別れの挨拶をする私を、長年ともに働いてきた仲間の聖女たちが、泣きながら見送ってくれる。
「まさか、ヘデラが私よりも先に神殿を出て行くなんてね……私が見送ってもらうつもりでいたのに」
そう言って涙を拭うのは、御年七十歳になる聖女長様。見習い聖女として入殿した私を、厳しくも愛情深く育ててくれた人だ。
私も聖女長様をお見送りしたかった。そしていつかは、彼女のような立派な聖女長になりたかった。けれど──
受け入れなければならない。
ここへ来た時も、ここを去る時も、自分の意思ではどうにもならないのだから。
私はなんとか笑顔をつくり、二十五年間過ごした神殿を後にした。
適性検査で神聖力があると認められた十二歳以上の純潔の女性は、神殿で神に仕えることが義務付けられている。病や加齢で神聖力が弱りお払い箱になるまでは、神殿から一歩も出られない上に家族と面会することも禁じられていた。
当時十五歳だった私も、神聖力の検査で適性ありと判断されてしまい、両親と無理やり引き離され神殿に閉じ込められた。頭では国民の義務なのだとわかっていても、心は現実を受け止められず、泣いてばかりいた。
『そのように泣き虫では、国に災いが起きてしまいますよ? あなたの捧げる祈りは、この国で暮らす、あなたの大切なご両親にも通ずるのです。ここにいる聖女たちは皆、あなたと同じ。……昔、寂しくて悲しくて、毎日わんわん泣いていた十四歳の少女もね。でもほら、今ではこんなに逞しくなりましたよ。こんがりふわふわの、あまぁいビスケットを食べすぎたせいかしらねえ』
聖女長様にそう声を掛けられた日、私は神殿に来てから初めて笑うことができた。
聖女には、見習いとして入殿したその日から、一人に一つ水晶が与えられる。これに自分の神聖力を注ぎ込み、磨き上げることで、やっと神具として祈りを捧げられるようになるのだ。
次第に現実を受け入れ、使命を全うしようと決意した私は、自分の水晶を毎日懸命に磨いた。
そうして一年も経たずに見習いを卒業した頃、ある目的のために、十五歳から二十二歳までの聖女が集められ、二回目の適性検査が行われた。
一番神聖力が高いと判断された私は、十八歳の王太子殿下の妃候補となった。この国には、年頃の聖女の中で一番神聖力が高い者を、王太子の正妃にするという法律があるからだ。身分を問わないため、平民出身の私であっても妃になれる。
もう祈らなくてもいいと水晶を取り上げられ、仲間との相部屋からお姫様が住むような特別室へと移されてしまった。実感が湧かず、神殿にこんな部屋があったのねとぼんやりする私を、早速王太子殿下が訪ねて来られた。
王家の血筋にしか表れない銀髪と、深い紫色の瞳を持つ美しい殿下に、私の胸はときめいた。容姿だけでなく、さりげない優しさや心遣いに惹かれ、出逢ったその日に恋に落ちてしまう。
幸運なことに、それは王太子殿下の方も同じだった。本来は週に一度の面会でいいところを、政務の合間を縫って、ほぼ毎日私に会いに来てくださった。
石畳が敷き詰められただけの狭い中庭も、殿下と手を繋いで散歩をすれば、春の草原のようにどこまでも広がる。笑いかけてくだされば、殺風景な石畳も、鮮やかな花が咲いているように色付いた。
神の前で正式に婚約の儀を執り行った後は、この神殿を出て王宮で暮らせる。その日を心待ちにする私たちだったが、思いもよらぬことが起きてしまった。
『適性検査に誤りがあった。
本当の妃候補は別の聖女なので、今すぐ特別室を出て行け』
──そう告げられた時は、頭が真っ白になった。
その本当の妃候補とは、私の後輩で十五歳になったばかりの聖女だった。確かに神聖力は高いが、私ほどの力はないということは、自他ともに認めていたはずなのに。
適性検査の際、神聖力を注ぎ込んだ聖杯も、私に比べれば微弱な反応しか示さなかった。ではなぜ……と疑問を抱く私の耳に、ある噂が聞こえてきた。
裏で何かの力が働いたのでは? と。
その聖女は侯爵令嬢であり、お父上は宰相だった。現国王を推し無事に王座に就かせた宰相一派と、未だに王座を狙う王兄一派との間では、水面下で争いが続いていた。
娘を王太子妃に据え安定を図るため、宰相が神殿に手を回したのだろうと囁かれていたのだ。
適性検査の一部始終を見守っていた聖女長様は、神官長様に異を唱え続けた。だが、神官長様も権力には逆らえなかったのだろう。危うく罰されかけそうになった聖女長様を、私は必死に止め、暴れそうになる感情を呑み込むしかなかった。
相部屋に戻された私を優しく慰めてくれる仲間たちと、不甲斐なくてすまないと泣いてくださる聖女長様。その姿を見て、私は天罰が下ったのだと思った。自分だけが神殿を出ること、自分だけが幸せになることしか考えていなかったのだから。
王太子殿下にはもう二度と会えなくなった。
数日前、「ではまた」「またね」と普通に挨拶を交わしたのが最後だったと思えば、悲しくてやりきれなくなる。
一方で、それでよかったのだとも思っていた。普通にお別れできたからこそ、一点の曇りもない笑顔を互いの胸に残せたのだ。
再び手元に戻された自分の水晶に、私はこの国と国民の幸せを一心に祈った。餓えや争いが起きませんように、国民が一人残らず幸せでありますように。……どうか、王室が安泰でありますようにと。
ところが、王太子殿下が婚礼を挙げてから、この国はさまざまな不幸に見舞われた。国王陛下の崩御に始まり、天変地異による食料不足、疫病の蔓延や戦争など。そのたびに聖女長様は、神の御意思に背いたからだと仰っていたが、私たち聖女はただ祈ることしかできなかった。
やがて、事情を知らない国民の怒りは、私たち聖女に向けられた。
なぜ聖女が祈っているのに、こうも国に災いばかり起きるのか。怠惰な聖女を引きずり出して罰を与えよと。
神殿の周りでは、連日民の怒号が響き、私たちが祈っているから国が滅びずに済んでいるのにと悲しくなる。聖女たちは心を病みそうになりながらも、平静を保ち祈り続けるしかなかった。
こうしてなんとか災いは終息したが、国王に即位した王太子殿下と妃の間に子は授からず、前国王の兄の孫を、王太子に立てることになった。
不正行為をしてまで娘を妃に据えた宰相だったが、結局は派閥争いに負けてしまったのだ。
私も国王陛下も王妃も同じ。
個人の感情を置き去りにされた、哀れな国の操り人形でしかない。
そう気付いてからは、悲しみよりも虚無感に襲われ、心に空洞をつくっていった。それが、この病の引き金になったのではないかとも思う。
私が冒された病。それは、徐々に記憶を失っていく病だった。
治療法はなく、悪化すればいずれ廃人になり、人の手を借りねば生きていけなくなると医師に告げられた。
まだ四十歳になったばかりなのに、病のせいで神聖力が不安定になり、うまく祈れなくなってしまった。身体はまだまだ元気なのにと悔しくなるが、仲間に迷惑をかける前に、病に気付けただけでもよかった。
両親も親しい友も既に亡くなり、他に身寄りもないため、病が悪化しても誰にも迷惑を掛けずに済む。
……そう思わなければ、やりきれない自分の人生を呪いたくなってしまう。
皆と別れて乗った孤独な馬車の中、私は僅かな退職金とともに渡された手鏡を、鞄から取り出す。そこに映る哀れな中年女性の泣き顔に、ふっと笑った。
生まれ育った懐かしい実家に帰ると、父が遺言状と一緒に送ってくれた鍵を、ドアの錆びた鍵穴に差し込む。
誰もいなくなってから五年。あちこち傷んでいる可哀想な家に「ただいま」と挨拶し、窓を開けて新鮮な空気を入れた。
母のお気に入りだった揺り椅子の埃を払い、腰を下ろすと、目を瞑りこれからのことを改めて考える。
たとえ不要な命であったとしても、神に仕えた身として、自ら絶つことは赦されない。
……というのは言い訳で、単に勇気がないだけだ。ならば、できるだけ病の進行を遅らせ、いよいよ自分が何者かもわからなくなるその時までは、自力で生活したい。
そんなことを考えていると、腹がきゅうと鳴り空腹を知らせた。
いつ、何を、何回、どのくらい食べたか。そもそも食事を摂ったかどうか。
近頃ではそんな記憶すらも怪しいが、今日は頭がいつもよりスッキリと冴えていた。
朝はビスケットとスープと林檎、昼は馬車で移動中だったので何も食べていない。窓を見れば、午後の陽が赤く燃え始めた頃。ならばお腹が空くのも当然ねと、私は安堵した。
聖女長様が持たせてくださったビスケットを食べながら、なぜこんなに頭が冴えているのかと考える。咀嚼し、飲み込んでを繰り返し──やがて思い当たったのは、『悲しみ』だった。
神殿を出てから、ずっと振り返っていた自分の過去。改めて見つめれば、そこにあったのはほとんど『悲しみ』だ。
悲しみは記憶の糸を引っ張り、ピンと弾いて震わせる。そのたびに心が清涼感に似た痛みを感じ、頭の霧を払ってくれるのだ。
私はまたあの手鏡を取り出し、くたびれた自分の顔をじっと見つめる。
──あの悲しみを忘れたくない。
心でそう呟くと、鏡面がぽうと光った。
今まで映っていた自分の顔が消えていき、やりきれない過去が、鮮やかに映し出された。
私は驚く。もう神聖力など残っていないただの鏡のはずなのに、一体なぜ? と。
この手鏡は、聖女のパートナーである水晶を加工したもので、退職記念に神殿から渡される品だ。
強い神聖力を蓄えていた水晶も、鏡になってしまえば何の力も発しない。加工する際、神殿に祀られている大水晶に、神聖力を全て奪い取られてしまうからだ。
身を粉にして国民のために祈り続けた聖女は、たとえ自由になっても、自分のために力を使うことは許されないのである。
だがこの水晶は、私の願いに応えてくれた。
なぜ? と心で問い掛ければ、泣きながら水晶を磨く幼い自分の手と、ありがとうと応えるように輝きを増す水晶が、鏡面に映し出される。
頭の霧を柔らかな悲しみが払い、ぬるい涙がほろりと溢れた。
その日から、手鏡は私の願い通り、過去を延々と映し出してくれた。
幸せだった日々から、それを失った光景と、その後の絶望まで。当時の私の視点で、悲しみを呼び覚ましてくれる。それは、過去とは思えないほど鮮やかだった。
朝ご飯を食べたかしら、食後の薬は飲んだかしらとぼんやりする頭も、手鏡を覗いた後は、いいえ、まだ食べても飲んでもいなかったわと思い出す。
それでも病は少しずつ進行し、記憶を留めておくことが難しくなっていった。
──悲しみだけをもっと鮮やかに映し出してちょうだい。
私の願いに応え、手鏡は一番悲しかったあの瞬間を切り取り、繰り返し映し出す。王太子殿下と過ごした鮮やかな日々が、ふっと色を失うあの瞬間を。
けれど、まだまだ悲しみが足りなかった。
こんなものでは霧を払えない。こんなものでは私を『生』に繋ぎ止められないと思ってしまう。
それとも、私はもう死んでしまったのだろうか。あんなに悲しかった記憶を悲しいと感じなくなったのは、私が廃人だからなのだろうか。
過去のものではない今の悲しみが押し寄せ、耐えきれなくなった心から鮮やかな血が噴き出す。濃い霧と混ざり合い、余計にぼやける視界の中に、最愛の人が立っていた。
──会いたい。
何もわからなくなる前にもう一度。
私は手鏡を放り、家を飛び出した。
ちゃんと食事を摂ったか、薬は飲んだのか。今日は何月の何日で、ここがどこで、自分が何者なのか。もう、そんなことは思い出せなくても構わない。ただ、あなただけは忘れたくないと、その一心で走り続けた。
「……ヘデラ?」
幻か、それとも奇跡か。
濃い霧の向こうから、会いたかった人が鮮やかに現れた。
「まあまあ! 裸足でどうしたの。私の可愛い娘が、こんなにお転婆だったなんて知らなかったわ」
その人は笑いながらすっとしゃがみ、靴を履き忘れていたらしい私の足を、肉厚の掌に乗せハンカチで優しく包んでくれる。
「私もね、今日神殿をお払い箱になったの。やっと神聖力が失くなってくれてね。そのまままっすぐあなたの家に向かっていたら、あなたの方から会いに来てくれるんですもの。驚いちゃったわ」
霧がさっと晴れていく。
今日は六月二十五日。素足で立っているこの場所は、家の前から街へと続く一本道で、私の名はヘデラだ。
そして今、私を抱きしめている、温かなこの人は──
「聖女長様」
忘れていなかった。忘れる前にまた会えた。
熱くて塩辛い涙が溢れては、喉の奥に落ちていく。もう何日も食べていない空っぽの胃を、キリキリと刺激し虐め出した。
「お腹が空いたわ。すごく、すっごく。薬もまだ飲んでいないの」
子どもみたいに泣きじゃくる私の背を、聖女長様は優しく撫でてくれた。
「大丈夫よ。美味しいご飯を一緒に食べましょうね。ヘデラの好きな、あまぁいシロップをたっぷりかけた焼き立てのビスケットと、ベーコンと玉ねぎをくたくたに煮込んだスープと……」
温かな言葉が、子守歌のようにほかほかと沁みていく。
ぐしゃぐしゃに濡れた互いの顔を見つめ、泣き虫ねと笑い合った。
──この幸せを忘れたくない。
私は聖女長様の手を取り、しっかりと繋ぐ。
「我が家にご案内いたします」と、確かな足取りで来た道を戻った。
◇
記憶を失う病に冒され神殿を追われた元聖女ヘデラは、高齢のため同じく神殿を追われた元聖女長と幸せに暮らした。
二人が再会してから三年後、ヘデラは別の病を併発し、元聖女長に見守られながら息を引き取った。ほとんど何もわからなくなっても、『おかあさん』と慕っていた元聖女長のことだけは、最期まで忘れなかったそうだ。
その数カ月後、元聖女長も、娘のように愛したヘデラの後を追うようにして亡くなった。
二人がいなくなった後も、あの手鏡は、ヘデラの過去を映し続けた。元聖女の幸せと悲しみは、手鏡を観た人により語られ、口々に広がっていった。
ヘデラの過去とともに明るみになったのは、妃選びで宰相が不正を働いたために国が傾きかけたこと。さらには貴族らと神殿が聖女の神聖力を搾取し、私腹を肥やしていたことだった。
怒り狂った国民らにより、各地の神殿で暴動が起きた。国中が揺れ、大荒れに荒れた末、王制と貴族制度が撤廃された。
幼い少女を不幸にする聖女制度も改革され、神聖力を持つ者の人権を尊重する、新たな法律が制定されたのだった。
あの手鏡は、他の聖女たちの水晶とともに細かく砕かれ、かつてヘデラがいた首都の大神殿で祀られることになった。
それでも消えない悲しみの残像は、時折祭壇の壁に映し出され、祈りを捧げに来た国民に、ささやかな幸せをもたらしているという。
ありがとうございました。




