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私は、日本のブラック企業でカスタマーセンターの責任者として働いていた。
ブラインドが常に下ろされ、青白い蛍光灯の光だけが満ちる、息の詰まるオフィス。
朝から晩まで鳴りやまない電話。
受話器の向こうから浴びせられる、理不尽な要求と終わりのない罵詈雑言。
「誠意を見せろ」
「SNSで拡散してやるからな」
「女じゃ話にならん。責任者を出せ」
私がその責任者なのに、女性だという理由だけで、さらに上の男性の責任者を出せと理不尽にキレられる。
そんな顔の見えない相手の怒りをなだめ、謝罪し、時には会社の経費で和解の品を送りつけて事態を収拾する。それが私の毎日だった。
有給休暇は名ばかりで、連日の残業で終電を逃すことも珍しくなく、休日は泥のように眠って終わる。
そしてある夜、デスクで冷めたコーヒーを飲み込もうとした瞬間、心臓を直接わしづかみにされたような激痛が走り、視界が暗転した。
(ああ、嫌だ。こんな、誰かの怒りに頭を下げ続けるだけの人生で終わるなんて――)
薄れゆく意識の中で、私は強く後悔した。
もし次があるなら、理不尽な暴力に怯えることなく、自分の価値を認めてくれる場所で心穏やかに生きたい。
私の人生は、そこで一度途切れた。
◇
次に目覚めた時、私は見知らぬ薄暗い路地裏で倒れていた。
石造りの冷たい壁。漂う生ごみの臭い。
震える自分の手は、前世の私よりも一回り小さく、酷く痩せこけている。
脳裏に流れ込んでくる記憶によれば、この体の持ち主はセリアという同年代の町娘だった。過酷な下働きと栄養失調の果てに、たった今、路地裏で孤独に息を引き取ったらしい。
絶望の果てに空っぽになった直後の彼女の器に、行き場を失った私の魂が吸い込まれてしまったのだろう。
この不可思議な現象と同時に、私は、一つの固有スキルを手にしていた。
『思念解読』。
対象の真名を認識すると同時に、その意図や感情、隠された本音を、言語の壁を越えて正確に読み取る能力だ。
路地裏で飢え死にしかけていた私は、生き延びるために泥水を這い、この能力をフル活用した。
市場での腹の探り合いや、酒場でのつまらない揉め事。交差する人々の「嘘」と「本音」を読み取り、双方が納得するギリギリの妥協点を提示しては小銭を稼ぐ。
力のない小娘が生き残るには、誰かの利益になる「有益な仲裁役」として重宝されるのが一番だ。前世で理不尽なクレーマーの怒りを鎮め続けた経験と、相手の思考が読めるスキルの相性は、笑ってしまうほど抜群だった。
次第に扱う案件も大きくなり、貴族同士の領地争いやギルドの報酬交渉すらも、次々と有利にまとめ上げるようになっていった。
そうして王都の裏ルートで「調停屋」と呼ばれ、名が売れ始めた頃。
私は、【光の勇者】レオンが率いる一流パーティーに、外交および経理担当としてスカウトされた。
事の発端は、彼らが酒場で起こした大規模な暴力沙汰の示談交渉を私が請け負ったことだ。
武力はあるが交渉力や政治感覚が皆無で、多額の賠償金を請求されかけていた彼らにとって、相手の足元を見て完璧に事態を収拾した私は、喉から手が出るほど欲しい人材だったらしい。
王族への謁見の段取り。腐敗した教会への寄付金の調整。宿屋の宿泊費の値切りまで。
表舞台で光り輝く勇者の裏で、泥臭い根回しを行い、パーティーの活動資金と社会的信用を死守するのが私の役割になった。
しかし、現在。
私は王都から馬車で一週間以上も離れた国境沿い、瘴気が渦巻く「魔の樹海」の入り口に、泥にまみれて倒れ伏している。
「お前のような魔物の味方をする裏切り者は、今日限りでパーティーをクビだ」
「貴族との交渉役に雇ってやったのに、高価なアイテムを勝手に魔物に貢ぐなんてあり得ないわ。せいぜい、大好きな魔物たちと一緒に仲良く暮らすのね」
私を見下ろす勇者レオンと、彼に寄り添う気位の高い魔導士の女が、冷酷な笑みを浮かべてそう言い放った。
馬車の御者台では、巨漢の重戦士と回復役の神官も、まるで路傍の石でも見るような目で私を一瞥し、顔を背けている。
追放宣告である。
彼らは私を解雇するだけでなく、物理的に置き去りにするという暴挙に出た。
彼らが解雇の口実にしたのは、数日前の出来事だ。
遭遇したのは、街道を塞ぐ巨大な【メルト・スライム】。
レオンは力ずくで倒そうとしたが、周囲に粘液がぶちまけられれば仲間の装備は損傷し、完全に「赤字戦闘」だった。
私は『思念解読』を使って、スライムに戦闘の意思はなく、「体内に刺さった矢から溶け出す毒に苦しみ、助けを求め怯えている」ことを読み取り、解毒薬を与えたところ小さな姿になり、感謝しながらプルプルと揺れて森へ帰っていき、穏便に解決した。
仲間の負傷や装備損傷のリスクを回避する。私にできる最善の行動だったと思う。
しかし、名誉欲に飢えたレオンにとって、私の行動は「自分の見せ場を奪った奇行」でしかなかったらしい。
それを今になって持ち出し、本日の遺跡探索の帰路――王都へ向けて走る馬車の中から、突然私を蹴り落としたのだ。
戦闘能力のない私は、彼らが遺跡の奥を探索している間、外の馬車で待機し、留守番をしていただけなのに。
レオンたちは鼻を鳴らすと、馬車に鞭を入れ、猛スピードで王都の方角へと消えていった。
私は泥だらけの体を起こし、遠ざかる馬車の背中に向かって、事の真相を確認するために『思念解読』を発動した。
(遺跡の『黒曜の龍星晶』は俺だけのものだ。だが、間近で主の化け物が目を覚ましやがった……! この女をここで囮にして、怒り狂った化け物が八つ当たりで喰い殺している間に馬車を飛ばせば、森の境界を抜けられるはずだ)
レオンの脳内から溢れ出す、醜い自己保身と剥き出しの悪意。
私が馬車で待っている間に、彼らは私に内緒で森の主の宝を盗み出していた。そして主の追跡に気づき、逃げる時間をわずかでも稼ぐための「使い捨ての肉盾」として、道中まで連れていた私を都合よく投げ捨てたのだ。
こめかみの奥に、鋭い痛みが走った。前世から引き継いだ、ストレス性の頭痛である。
――だが同時に、腹の底から、冷たくどす黒い感情が湧き上がってくるのを感じた。
ただの理不尽な解雇なら、悪質な顧客だと思って割り切ることもできた。だが、彼らは明確な悪意を持って私の命を奪おうとした。
前世のように、ただ理不尽な暴力に頭を下げて泣き寝入りするのは、もう絶対に御免だ。
しかし、もう馬車は見えなくなった。
行き場のない暗い森に、戦闘能力皆無の女が一人。
生存率はゼロに近い。
どこからともなく現れた強力な魔物の餌になって死ぬ。
私の人生、前世も今世もハズレばかりである。
そう自嘲気味に諦めかけた、その時だった。
――突如、空気が凍りついたかのような、圧倒的なプレッシャーが森を制圧した。
直後、物理的な衝撃を伴う地鳴りが鼓膜を打ち据える。
大地が激しく揺れ、周囲の巨木が次々とへし折られていく。
土煙と瘴気の向こうから姿を現したのは、山のように巨大な漆黒のドラゴンだった。
闇夜を固めたような強靭な鱗。全てを焼き尽くすかのような金色の瞳。
絶対的強者――【黒龍】。
逃げることすら許されない重圧。
巨大な顎が開かれ、私というちっぽけな命に向けて、凶悪な咆哮が放たれた。
足の震えが止まらない。
けれど、あんな巨大な牙に噛み砕かれて死ぬなんて、絶対に嫌だ。
私は死への恐怖を必死に抑え込み、無我夢中で『思念解読』を発動した。
膨大な情報の波の奥から浮かび上がった、対象の真名――『ギルバート』。
(……ひどく不愉快ですね。私の眠りを妨げ、あろうことか『黒曜の龍星晶』を奪い去るとは。……どこへ逃げようとも、一匹残らず、絶望の中で灰にしてあげましょう)
やはり。
勇者レオンは、この【黒龍】の所有物を奪い、私を時間稼ぎの身代わりに立てたのだ。
私は震える膝を叩いて立ち上がり、姿勢を正した。
相手がどれほどの化け物であろうと、「明確な不満」があるなら、まだ交渉の余地はある。
私は前世の経験を総動員し、顔に営業スマイルを貼り付け、最大級の敬意とハッタリを込めた。
「黒龍ギルバート様。お探しの『黒曜の龍星晶』を持ち去った不届き者の特徴と、その逃走ルートに心当たりがございます」
私がはっきりと通る声でその真名と肩書きを呼んだ瞬間、森を揺るがしていた咆哮が、ピタリと止まった。
『……驚きましたね。人の子が私の真名を呼び、あまつさえその意志を理解しようとするとは。……身の程知らずか、それとも死の恐怖が生んだ妄言の類でしょうか』
地響きのような声と共に、黒龍の巨体が濃密な黒い煙に包まれた。
シルエットが急速に縮んでいき、風が煙を晴らす。
そこに立っていたのは、漆黒の髪と金色の瞳を持つ、恐ろしく整った顔立ちの青年だった。
彼は冷ややかな微笑を湛えたまま、一歩、音もなく私に歩み寄る。
『いいでしょう。あなたが差し出すその「情報」とやらに、私の怒りを鎮めるだけの価値があるのか……。その細い喉を噛み切られる前に、証明してみせなさい』
私は冷徹な金色の瞳を真っ直ぐに見返し、静かに息を吸い込んだ。




