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竹刀の音、心臓の音

作者: NIki
掲載日:2026/04/05

「メェェェンッ!」

裂帛の気合いと、竹刀が交差する乾いた音が板張りの道場に響き渡る。

神代凛かみしろ りんが打ち込みを終えて残心を示すと、道場内にはピンと張り詰めたような静寂が落ちた。

二年生にして剣道部の副主将。実家が道場ということもあり、その太刀筋には一切の迷いがない。隙のない構えと涼やかな容姿から、他所の部員たちに密かに『氷の剣士』と呼ばれていることを、凛本人は知らない。いや、仮に知っていたとしても「くだらない」と一蹴するだけだろう。凛にとって、剣道こそが学生生活のすべてだった。

そんな彼女の神聖な領域に、土足で踏み込んでくるような男が現れたのは、春の風が少し汗ばむ陽気になり始めた頃だ。

「ちわーっす! 今日から入部希望の、二年、佐藤陽太さとう ようたでーす!」

ガラッ、と無遠慮に引き戸を開けて現れたのは、緩くワックスで遊ばせた髪に、第一ボタンを開けた着崩し気味の制服姿の男子生徒だった。どう見ても、真面目に武道を志すタイプには見えない。

「いやー、剣道着って一度着てみたかったんスよね。ほら、なんかサムライっぽくて、女子ウケ良さそうじゃないスか?」

あっけらかんと言い放つ陽太に、道場にいた部員全員が呆気にとられる。

凛はゆっくりと面を外し、汗ばんだ前髪から冷ややかな視線を陽太に向けた。

(……また、冷やかしの類か)

ため息を飲み込む。剣道部には毎年、不純な動機で入部してくる生徒が数人いる。しかし、その全員が道場の厳しい空気に耐えきれず、すぐに姿を消していくのだ。

「佐藤、と言ったか」

「はいっ! 神代さん……いや、凛先輩、っスよね? よろしくお願いしまーす!」

「同学年だ。先輩と呼ぶ必要はない。……私がお前の指導担当になる。入部したいというなら、まずはあそこの隅で素振りを一千回。終わるまで帰るな」

「えっ、千回!? 初日からマジっスか!?」

「嫌なら今すぐ引き返せ。ここは、モテたいなんていうふざけた理由で足を踏み入れていい場所じゃない」

絶対零度の声で告げると、陽太は少しだけ目を丸くした。

普通ならここで怯むか、不満を垂れて帰っていくはずだ。しかし、陽太はなぜか「おおー、マジで厳しい!」と嬉しそうに笑い、「了解っス!」と元気よく竹刀置き場へと駆けていった。

(どうせ、三日も持たずに音を上げる)

不格好に竹刀を振るい始めた陽太の背中を冷たく見つめながら、凛は再び面を被る。

それが、凛と陽太の最悪で、そして少しだけ騒がしい日々の幕開けだった。



三日で退部する。そんな凛の予想は、見事に裏切られることになった。

入部から一週間。陽太は毎日欠かさず道場に現れ、文句一つ言わずに千回の素振りをこなしていた。相変わらず態度は軽く、言葉遣いもチャラチャラしているが、その目に宿る熱だけは本物だった。

ざあざあと冷たい雨が打ち付ける、ある日の放課後。

部活が終わり、戸締まりを済ませて帰路につこうとしていた凛は、忘れ物に気づいて道場へと引き返した。

薄暗い道場に近づくと、聞こえるはずのない音が耳に届いた。

ブンッ、ブンッ、と空気を裂く、少し不格好だが力強い風切り音。

(……誰?)

そっと引き戸を開けた凛は、思わず息を呑んだ。

道場の片隅で、陽太がたった一人で竹刀を振っていたのだ。ジャージ姿の背中は汗でぐっしょりと濡れ、肩で荒い息をしている。

「九百、九十八っ……九十九……、千ッ!」

最後の一回を振り下ろし、陽太はその場に仰向けに倒れ込んだ。

「あー……っ、キツ……」

天井を見上げて息を吐く陽太の右手には、何重にもテーピングが巻かれていた。それでもカバーしきれず、手のひらにはいくつもの豆が潰れ、痛々しく皮がめくれているのが遠目にもわかった。

「……何をしているの」

暗がりに響いた凛の声に、陽太は「うおっ!?」とカエルが潰れたような声を上げて跳ね起きた。

「か、神代さん! いや、まだ残ってたんスか!?」

「忘れ物を取りに来ただけだ。それより、お前はなんだ。今日のノルマの素振りは、部活中に終わっていたはずだろう」

凛が鋭く問いただすと、陽太は気まずそうに頭を掻いた。

「いやー……ほら、俺って初心者じゃないスか。皆と同じメニューやってるだけじゃ、全然追いつけねーなって思って。居残りしてたんスよ」

ヘラッと笑ういつもの顔。だが、その声には疲労が滲んでいる。

凛はコツコツと板張りの床を歩き、陽太の目の前で立ち止まった。そして、テーピングだらけの手をじっと見下ろす。

「……どうしてそこまで。ただ女子にモテたいだけなら、もっと楽な部活がいくらでもあるだろう」

呆れ半分、純粋な疑問半分の凛の言葉に、陽太は少しだけ目を伏せた。

「んー、まぁ最初はそうだったんスけど。……俺、一度やると決めたこと、途中で投げ出すの嫌いなんスよね」

それから、陽太は顔を上げ、真っ直ぐに凛の目を見た。

「それに。俺みたいなふざけたヤツにも、毎日サボらずにちゃんと指導してくれる女子から逃げるのって……なんか、すげーダサいじゃないスか」

照れ隠しのように笑う陽太の顔を見て、凛の心臓がトクン、と小さく跳ねた。

冷やかしだと思っていた。すぐに音を上げると思っていた。けれど、この男は不器用なほどに真剣だったのだ。

「……ばか」

「えっ、痛っ!?」

凛は持っていた手ぬぐいを、陽太の顔にバサリと投げつけた。

「汗、拭け。風邪を引く」

「あ、あざっす……?」

「それと。お前の素振りは肩に力が入りすぎている。だから変な場所に豆ができるんだ。竹刀を持て」

ぽかんとしている陽太から竹刀を取り上げ、凛は背後に回った。

「えっ、ちょ、神代さん?」

「足幅をもっと開け。左手は柄の下、右手は添えるだけだ」

凛は背後から陽太の腕に触れ、正しい構えへと直していく。普段、部員同士で教え合うことはあっても、異性とここまで密着することはなかった。陽太の体温と、ツンとした制汗剤の香りが不意に鼻を掠め、凛は自分の頬がカッと熱くなるのを感じた。

「……こう、スか?」

「そうだ。そのまま、真っ直ぐ振り下ろす。……雨の日限定だ。私が直々に、お前のその酷い癖を直してやる」

動揺を悟られないよう、あえていつもより低い声で告げる。

雨音が響く薄暗い道場で、二人の秘密の特訓が始まった。氷の剣士と呼ばれた凛の心が、少しずつ溶け始めていることなど、目の前の不器用な初心者はまだ知る由もなかった。



雨の日の居残り特訓は、二人の秘密の日課となった。

「ほら、また右肩が上がってる」

「うっす。いやー、凛先生は厳しいなー」

「……誰が先生だ」

軽口を叩きながらも、陽太の素振りは見違えるように鋭くなっていた。潰れた豆は硬いタコに変わり、彼の努力の痕跡を物語っている。凛もまた、陽太のくだらない冗談に小さく吹き出してしまうことが増えていた。いつしか凛は、天気予報に雨マークを見つけると、胸の奥がふわりと温かくなるのを感じるようになっていた。

そんな中、夏の大会に向けた部内戦が開催された。

初心者の陽太にとっては腕試しの場だったが、トーナメントの組み合わせ表を見た凛は眉をひそめた。陽太の初戦の相手は、三年生のレギュラー・木島きじま。実力者だが、以前から凛に執拗にアプローチをかけてきており、最近凛と親しくしている陽太を露骨に疎ましく思っている男だった。

「初めっ!」

審判の掛け声とともに、試合は一方的な展開となった。

「どうした! その程度か!」

木島の容赦ない竹刀が、陽太の小手を、胴を、激しく打つ。完全に格下の陽太を弄ぶような荒い剣撃。防具の上からでも、鈍い痛みが陽太の体力を削っていく。

(だめだ、実力差がありすぎる……!)

凛は竹刀を握る手にギリッと力を込めた。声をあげて試合をやめさせようとしたその時だ。

「……っ、まだスよ!」

息も絶え絶えになりながら、陽太は竹刀を構え直した。その目は決して死んでいない。

陽太の脳裏には、雨の道場で凛が言った言葉が蘇っていた。

『相手が圧倒的に格上の場合、中途半端な防御は意味をなさない。打たれることを恐れるな。肉を切らせて骨を断つ——捨て身で踏み込み、ただ一撃にすべてを懸けろ』

木島が「トドメだ」とばかりに、大上段から竹刀を振り下ろそうとした瞬間。

陽太は防御を一切捨て、勢い良く地を蹴った。

「うおおおおっ! メェェェンッ!!」

恐怖をねじ伏せた、乾坤一擲の飛び込み面。

木島の竹刀が陽太の面を打つと同時、陽太の竹刀もまた、木島の面を正確に捉えていた。

パーンッ! と、二つの竹刀の音が重なり合う。

一瞬の静寂の後、主審の旗がサッと上がった。

「……面あり、勝負あり!」

上がったのは、木島側の旗だった。陽太の一撃は完璧だったが、スピードと体捌きにおいて、三年生の木島がほんのわずかに勝っていたのだ。

「……っはぁ、はぁ……」

「礼!」

試合が終わり、定位置に戻って面を外した陽太は、その場に膝から崩れ落ちた。肩で息をし、滝のような汗を流しながら、「あー……負けたぁ……」と悔しそうに天井を仰ぐ。

その時だった。

「陽太!」

タッタッタッ、と小走りで駆け寄る足音。周囲の部員たちがざわめく中、誰よりも早く陽太のそばに膝をついたのは、他でもない凛だった。

「あ、神代さ……」

バサッ。

言いかける陽太の頭から、凛は冷たいタオルを被せた。そして、そのままタオルの上から、陽太のくしゃくしゃの髪を、ポンポンと優しく撫でたのだ。

「え……」

「……一歩も引かなかった。綺麗で、真っ直ぐな面だった」

顔を覗き込んだ凛は、氷の剣士などという異名からは想像もつかないほど、柔らかく、労わるような微笑みを浮かべていた。

道場中が「あの神代が笑った……!?」とどよめく中、陽太は痛みを忘れて硬直した。

「よく、頑張ったな」

「〜〜〜〜ッ!!」

タオルの下で、陽太の顔がかつてないほど真っ赤に染まる。それは激闘の疲労のせいだけではなく、目の前の少女の笑顔に、心臓が爆発しそうなほど鳴り響いていたからだった。



部内戦から数日後。

蝉時雨が響く放課後の道場には、西日が長く伸びていた。他の部員たちが帰り、静まり返った空間に残っているのは、いつものように居残り練習をする陽太と、それに付き合う凛の二人だけだった。

「……ふぅ。よし、今日の素振りは終わり!」

「お疲れ。だいぶ太刀筋が安定してきたな」

雑巾がけを終え、並んで床に座り込む。汗ばんだ肌を撫でる夕暮れの風が心地いい。

道場に染み付いた藍の香りに包まれながら、凛は隣で清涼飲料水を喉に流し込む陽太の横顔を、無意識に見つめていた。

(……いつからだろう。こいつが道場にいるのが、当たり前になったのは)

剣道がすべてだった。他のことなど視界に入らなかったはずなのに、今では陽太が笑うたびに胸が騒ぎ、彼が傷つけば自分のことのように心が痛む。それがどういう感情なのか、恋愛に疎い凛でも、さすがにもう気づいていた。

「なあ、凛」

不意に、先輩呼びをやめた陽太が口を開いた。

「俺さ、最初ここに来たとき、『剣道やってたらモテそうだから』って言ったじゃん」

「……ああ。ふざけた理由だと、今でも思っている」

「ははっ、辛辣ぅ。でもさ」

陽太は空になったペットボトルを床に置き、真剣な目を凛に向けた。

「今はもう、不特定多数の女子にモテたいなんて、これっぽっちも思ってないんだわ」

「……」

「俺がカッコつけたい相手は、もう一人しかいないから」

まっすぐな視線。その言葉の裏にある意味に気づき、凛の心臓が警鐘を鳴らし始める。

「……そ、そうか。なら、その相手に笑われないよう、もっと腕を磨くことだな」

動揺を隠すように顔を背け、凛は逃げるように立ち上がって防具を手に取った。

「ほら、無駄話は終わりだ! 最後にもう一本、打ち込み稽古をして帰るぞ」

「おっ、マジで? よっしゃ、今の俺なら凛から一本取れる気がする!」

陽太も弾かれたように立ち上がり、面をつける。

二人は道場の中央で向かい合い、竹刀を構えた。西日が二人の影を長く床に落とす。

「行くぞ……!」

「こい!」

陽太が床を蹴る。あの部内戦で見せた、捨て身の飛び込み面。

しかし、凛はその軌道を冷静に見極めていた。すり上げて、胴を打つ。そのはずだった。

「スキィィィッ!!」

「……は?」

道場に響き渡った、ありえない気合いの声。

『メン』でも『コテ』でもなく、明らかに別の単語を叫びながら突っ込んできた陽太に、凛の思考は完全に停止した。

パァンッ!

がら空きになった凛の面に、陽太の竹刀がクリーンヒットする。

「あ……」

残心を取った陽太が、自分の叫んだ言葉に遅れて気づき、竹刀を取り落とした。

「ち、ちがっ! 今のはメンって言おうとして、でも頭ん中でお前のこと考えてたら、なんか混ざって……!!」

パニックになり、顔を真っ赤にして両手で覆う陽太。

打たれた凛もまた、面の中で顔を火のように赤くしていた。

氷の剣士の面影など微塵もない。心臓がうるさくて、呼吸がうまくできない。しかし、この赤い顔を相手に見られていないことだけが、今の凛にとって唯一の救いだった。

「……神代、さん……?」

恐る恐る尋ねてくる陽太に向けて、凛は竹刀をスッと青眼に構え直した。

「……次」

「えっ?」

「次、私が一本取られたら。……お前の願い事を、一つ聞いてあげる」

面の奥から聞こえたその声は、微かに震え、これまでで一番甘い響きを帯びていた。

陽太は一瞬ポカンとした後、すべてを察してニッと悪戯っぽく笑った。

「マジで? 言ったな? 絶対後悔させねーからな!」

陽太が再び竹刀を構える。

夕暮れの道場に、二つの竹刀が交差する音が響き渡る。

それは、不器用な二人の新しい関係が始まる、何よりも確かな合図だった。

(了)



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