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怖い話

形見分け

作者: 夢野かなめ

 祖母が亡くなった。


 その連絡を受けてから、通夜に葬式にと慌ただしい日が過ぎ、仕事に追われるうちに二週間が過ぎた。気が付けば桜の時季が終わっていた。


 艶子(つやこ)は床に並べられた品々を見回して、その内のひとつを手に取った。


 花を模った大ぶりのブローチだ。


「あぁ、それアンタに似合うんじゃない?」


 母の声に、うーんと唸って首を傾げる。


「そうかなぁ。ちょっと大きくて私には使いこなせないかも」


「そう?」


 艶子はブローチを箱に戻し、同じ箱に入っていたネックレスを手に取った。透明な石を使った花形のトップが控えめで可愛らしい。


「あぁ、そっちの方がいいんじゃない」


 母は次々に箱や袋を取り出してくると、中身を床に並べていく。


「そう……だね。これは使えそうかも。貰っとく」


 その言葉に、母は納戸からジッパー付き保存袋を取り出してきて艶子に手渡した。それに入れろ、ということらしい。


 母は艶子が何かを手にする度に「それいいんじゃない」と口を挟んだ。実際に良いと思っているというよりは、早く(さば)き切ってしまいたいという思惑が透けて見える。


「おばあちゃんったら、物集めるのが好きなのは知ってたけど、こうして出して見ると結構な量あるのよねぇ。これでも随分処分したって言ってたけど」


 祖母はアパートで一人暮らしをしていた。母は同居でもしようかと頻繁に話をしていたようだが、祖母は最後まで首を縦に振らなかった。艶子も就職と共に家を出て会社に近い土地へと引っ越したせいで、祖母の家に訪れたのは一年振りだった。


 記憶の中と随分と変わってしまっていた。それは、艶子よりも先に他の親族がこの家を訪れ形見分けをしていったからで、母が何と言おうと随分と寂しくなった部屋だと艶子は思った。


 なにより、祖母がもう居ない。


 遺影や遺骨は母の家、つまり艶子の実家にあるせいで、実際に祖母はここには居ない。しかし、どこか祖母の残り香のようなものがあって、胸に込み上げてくるものがあった。


 艶子がぼんやりと部屋を見つめていると、母が「ちょっとぉ」と顔を(しか)めた。


「早いところ片付けちゃいたんだから、手を動かしてちょうだいよ。午後には紬紀(つき)ちゃんが来るんだから。あぁ、あと夕方にはお隣さんも呼ぶんだから」


 慌ただしく部屋を行ったり来たりする母は、よく判らない紙やビニールを集めてゴミ袋に突っ込んでいく。段ボールを見つけてそれを細かく裂くと、それもゴミ袋に突っ込んだ。


「うん、判ってる」


 艶子は、床に並べられた品を次々に手に取っていった。形見分けといっても、既に値打ちのある物は祖母の生前にそれぞれに配られていたし、残っているのは、値打ちはないが生活に必要な物だったり、気に入れば使える程度の物だった。


 未使用のノートや花柄の絆創膏など、生活用品を紙袋に入れていく。


 そう言えば、おばあちゃんは花柄が好きだったな……。


「はい、これも。ちょっと中身出しておいて」


 つい思い出に浸りそうになった艶子の横に、母がいくつか重ねた箱を置いた。艶子の返事を待つことなく納戸へと引き返していく。


 艶子は箱のひとつを開けて中を検めた。中には華奢な造りの小皿が収められていた。


「お母さん、これどれも食器みたいだよ。調べなくていいの?」


 艶子の声に、母は納戸から声を張り上げた。


「大丈夫。それどれもブランド品とかじゃないみたいだし、おばあちゃんが旅行先とかで買った民芸品とかだから。欲しいのあったら持って帰って」


 ひとつひとつ丁寧に箱を検めた艶子は、ひとつのティーカップに目を止めた。


 カトレアが描かれたそれは、優美な曲線を描いた縁に金を差し、凝った造りの持ち手が華やかさを添えている。揃いの柄のソーサーも可愛らしい。


「いいのあった? ──あぁ、お母さんこれ貰おうかな。この間お皿割っちゃってねぇ」


 母は、箱から取り出した平皿何枚かの表裏を確かめると、問うように艶子を見た。


「アンタこれ使う?」


「ううん、平皿は間に合ってる」


「じゃあ、お母さんが貰っておくか」


 そう言って、(まと)めて置いてあった紙袋の束からひとつ取ると、その中に豪快に突っ込んだ。


 その後も昼過ぎまで祖母の遺品整理をしていた艶子は、「出前でも頼もうか」という母に断って、帰路に就いていた。遅くとも十四時くらいまでには来る筈だという従姉妹の紬紀が少し苦手だった。年下で、華やかな紬紀が。


 引き取って来た遺品は、気付けば紙袋ふたつ分になっていた。その殆どが消耗品だったが、ネックレスやティーカップなどは、それぞれアクセサリースタンドや食器棚に仕舞う。


 ふと思い出し、艶子は食器棚の下の開き戸を開け、紅茶缶を取り出した。職場で海外旅行のお土産にと貰ったものだった。


 湯を沸かし、ティーカップを洗ってからティーポットと共に温める。良い香りの茶葉を入れ、湯を注ぎ蒸らす。


 艶子は窓辺に置いた卓へ移ると、ぼんやりと外を眺めながら紅茶の香りを楽しんだ。




「やっぱり、これだな?」


 夏が近づいたある日。艶子はティーカップを掲げ、首を傾げた。


 妙に幸運と思える出来事が続き、どうもそれはカトレアのティーカップを使った後のことだ、と殆ど確信に近い想いを抱かざるを得なかった。


 ひとつひとつは小さな幸運かもしれないが、それは艶子の日々の気分を上げるには十分だった。


 そんな時、紬紀から連絡が入った。


『おばちゃんから荷物預かったから今度届けに行くね。おばあちゃんち行った時会えなかったし、久し振りに艶子ちゃんと会いたいなー』


 次いでタイミングを計ったかのように母からも連絡が入った。


『この間話したお菓子、紬紀ちゃんが持って行ってくれるそうです。よろしくネ』


 溜め息を吐いた艶子は、ティーカップを見下ろした。


「……そんな訳、ないか」


 約束した日に艶子の家を訪れた紬紀は、汗を拭いながらも嬉しそうに笑った。


「久し振りー、艶子ちゃん。はい、これおばちゃんから預かったお菓子。冷やして食べたほうが美味しいって。あとこれ一緒に食べようと思って買って来たよ」


 そう言って袋を差し出した。見ればシューアイスの小袋が入っていた。艶子は、心のどこかで荷物を届けてすぐに帰ったりしてくれないかと期待していたが、紬紀の笑顔を見て、その考えを追いやった。


 艶子の苦手意識になど全く気付いていないように紬紀は笑い掛ける。そういう所が、特に苦手だった。自分の嫌な気持ちを意識させられるから。


「それで秀人(しゅうと)が帰って来るのが遅くてさぁ──」


 他愛もない話をしている途中、ふいに紬紀が押し黙り、少しの間を置いてくしゃみをした。


「あ、もしかして寒い?」


 目を瞬いた紬紀は、へらっと笑うと頷いた。


「シューアイス三個も食べたからちょっと寒くなっちゃったかも。この部屋冷房効いてるし」


「あったかいお茶でも淹れようか」


「うん!」


 艶子が立ち上がると、手持ち無沙汰になった紬紀は、観葉植物を振り返って「植物の世話出来るなんてすごいねぇ」と一人で感心している。


 トレイにカップを乗せて卓へ戻ると、紬紀があっと声を上げた。


「そのカップかわいい!」


 カトレアのカップを指さして瞳を輝かせる。艶子は一瞬だけ迷ってからカトレアのカップを紬紀の前に置いた。


「これ、おばあちゃんの形見分けのカップ。可愛いよね」


 内心、惜しい想いをしながらも艶子は笑った。紬紀はカップを取り上げて、しげしげと模様を見つめている。


「この花ってなんていう花だっけ?」


「カトレアだよ。──カップ置いて。お茶淹れるから」


 紬紀は、そっとソーサーにカップを戻した。


「艶子ちゃんって本当お洒落だよねぇ。お部屋も雑誌に載ってるコーディネートみたいだし」


「そうかな。紬紀ちゃんもお洒落に気を使ってるでしょう?」


 艶子がそう言うと、ニッと笑った紬紀はそっとカップを持ち、紅茶を飲んだ。ほっと息を吐き、顔を緩ませる。


「この紅茶凄い美味しいね。お洒落なカップで飲んで優雅な気分。おばあちゃん、これ何処で買ったんだろうねぇ」


「さぁ……何処だろうね。色んな所に旅行してたもんね」


「おばあちゃんにさぁ、会いたいね」


「……うん」


 紬紀はその後もあれこれと話すと、陽が沈み僅かに涼しくなってから帰って行った。


 その夜遅くのことだった。


 寝入りかけていた艶子は、突然鳴った着信音に体を起こした。枕元のスマートフォンを取り、画面を確認すると母からだった。通話ボタンをタップする。もしもし、と言う前に、潜めた声が言った。


『艶子? お母さん今病院に居るんだけどね。紬紀ちゃんが交通事故に遭ったって』


「……え?」


 寝入りかけていたせいもあるが、すぐに言葉の意味を理解出来なかった。


「紬紀ちゃんが、交通事故?」


『そう。アンタの家から帰る途中にね、淑子(としこ)……おばちゃんがね、買い物頼んだんだって。でね、スーパーに向かう途中で車に轢かれたらしくて。──あ、ちょっと待って。呼ばれたから行ってくる。とりあえず、また明日連絡するから』


 そう言い残し、慌ただしく電話は切れた。


 ──紬紀ちゃんが交通事故に遭った……?


 艶子は眠れないまま朝を迎え、母からの電話で紬紀が亡くなったことを知らされた。


 白い、黒い、白い……。景色が……。


 紬紀の葬式には多くの友人が訪れた。愛されていた子だった。だから、嫌だった。だが、それは亡くなっても悲しくないという訳ではない。


 景色が白と黒に滲む。


 母の手が優しく艶子の背を撫で、母の堪え切れず漏れた声が聞こえてくる……。




「本当、どうしてこうなっちゃったんだかねぇ……」


 仕事が落ち着いていたこともあり、長めの有給休暇を取った艶子の家に、母は「ご飯でも作ってあげるわよ」と理由を付けて訪れていた。


「そうだね……」


 ぼんやりとソファに座っていた艶子は、隣に座った母の手元に目を止めた。


「あ、それ……」


「え、これ使っちゃ駄目だった?」


 カップ借りるわね、と食器棚を探っていたのは判っていたが、まさかカトレアのカップを選んでいたとは知らなかった。しかし、その拘りも今はどうでもいい気がしていた。


「ううん、大丈夫」


「そう、よかった」


 母は紅茶を飲み、卓にカップを置くと鼻を啜り始めた。


「あの日、私がお菓子を持って行ってくれる、なんて頼まなければねぇ……」


 そう言って零れた涙を、エプロンのポケットから取り出したタオルハンカチで拭う。


 艶子は母の背を優しく撫でた。


 その夜のことだった。


 母から『家に着きました。今日はアリガト』という連絡から暫くして、父からの着信があった。


「もしもし?」


『あぁ、父さんだけどな。あのなぁ、母さんが倒れた』


 艶子はすぐには返事が出来なかった。


『聞いてるか。今な、病院に居て──』


「聞いてる。判った。すぐに行く。何処の病院?」


 艶子はタクシーを呼び病院へと急いだ。


 薄明りの病院の待合室で、父がしょんぼりと座り込んでいた。艶子に気が付くと、腰を上げる。


「お父さん」


「艶子……母さん、脳卒中だって。暫く入院だって」


「脳卒中」


「今日は艶子の家に行くからって晩飯は用意してくれててな。それを食べ終わった辺りに帰って来て、お茶でも淹れようかって言って、急に倒れたんだ。いつも通りで……いつも通り、元気だったんだけどな。いや、こんな時だから気分は沈んでたみたいだが」


 父が瞳の奥に不安を滲ませながら言う。艶子は、それを静かに聞いてから顔を上げた。


「お母さん、入院するならその用意しないと。この後家行くね」


「あ、あぁ……頼む」


 入院に関する手続きや支度を終え、その後も見舞いに訪れたりしている内に一週間が過ぎた。職場に事情を話し、もう一週間だけ有給休暇を伸ばしていた。


「いいなぁ、そんなにほいほい有給休暇取れるなんてさぁ」


 可愛らしい部屋着を着た明里(あかり)が言った。


「ほいほい取れた訳じゃないよ。今回は事情が事情だからね。まぁ、実際有給休暇取らせてくれたのには感謝してるけど」


「紬紀ちゃん……かわいい子だったのにね」


 大学時代の友人である明里は、紬紀と一度だけ会ったことがあった。久し振りの連絡があった際に、紬紀と母のことを伝えると、艶子を心配して駆けつけてくれたのだった。


「お母さんも早く良くなると良いね」


「……うん」


 部屋に沈黙が落ちた。


 パッと顔を上げた明里が、立ち上がると明るい笑顔を浮かべた。


「よし、今日は寝ちゃおう。明日は朝からしっかり栄養満点ご飯を作ってあげるからね! あ、艶子はご飯出来るまで寝てていいからね。ご飯の美味しい香りで起こしてあげるから」


「うん、有難う」


 笑い交じりに艶子が答えると、ニッコリと笑った明里が「あ」と声を上げた。


「寝る前にお水飲んでいい? 浄水器ついてたよね」


「うん。今──」


 立ち上がりかけた艶子を、明里は押しとどめた。


「お水くらい自分で注げるよ。コップ借りるね」


 艶子はそれに頷いて応えると、卓の上に出しっぱなしになっていた菓子のゴミを集めてゴミ箱に捨てた。


 ふと、嫌な予感に、あっと声を上げる。


 肩を震わせた明里が何事かと振り返る。ゴクリ、と水を飲み込んだ。


「ど、どうしたの」


 艶子は明里の持つカトレアのティーカップに目を釘付けた。その視線に気が付いた明里が、申し訳なさそうにする。


「ごめん、このカップって使っちゃ駄目だった……?」


 艶子は、胸に湧き起こった不安を無理やり押しやって、首を振った。


「ううん、違うの。ちょっと仕事のことで思い出して」


「大丈夫?」


「うん、勘違いだった」


 ──そう、勘違いだ。そんな訳はない。全ては悪い偶然が重なっただけだ。


 翌日、明里はお昼にカラフルなサンドイッチを作り、晩御飯のおかずまで作ってから帰り支度を始めた。


 料理好きの明里が作った料理は、どれも美味しく、そう伝えると嬉しそうに笑った。


「じゃあ、帰るね。もし何かあったらすぐに連絡してね。お母さんのことも、人手必要だったら手伝うし」


「本当に有難う、明里」


「ん、じゃあね!」


 玄関先で明里を見送り、部屋に戻った艶子は、部屋の隅に纏めておいた客人用の布団を持ち上げた。


 その時、突然窓の外からドーンという重い音が聞こえてきた。次いで悲鳴が響く。


 布団を置き、ベランダに出た艶子は、下の道を覗き込み悲鳴を上げた。


「明里!」


 街路樹が道を塞ぐように倒れていた。その下に──下に……。


 艶子は家を飛び出すと、六階を素通りして上がっていったエレベーターに焦れ、階段を駆け下りた。ホールを抜け、建物を回り込むようにして道へ出る。既に多くの人が集まっていた。すぐにサイレンが聞こえてきて、人々が道の脇へと避けていく。


 艶子は声を上げられなかった。人だかりが出来ていたせいでも、救急車が到着したからでもない。


 視界が歪んで、苦しかった。


 あの、ティーカップが……?


 そんな、訳──。


 視界が暗くなる。音が遠くなる。脚に力が入らない。


 艶子の様子に気がついた周りの人々が艶子の体を支え、花壇の端に座らせた。


 大丈夫、という気遣う声が頭の中に響く。大丈夫です、と繰り返すうちに救急車の音が遠ざかっていく。


 明里……。


 艶子は暫く花壇の端で見知らぬ人に世話を焼かれてから、のろのろと自宅に戻った。


 キッチンで、カトレアのティーカップを取り上げる。


 ただの、ティーカップだ。ただの……。


 カラカラの筈の喉がゴクリと鳴った。


 艶子はカップを高く掲げた。


 カップを壊してしまえば、もう、きっと。


 ……本当にそうだろうか。


 判らない。ただの偶然かもしれない。いや、偶然だ。だが、それにしてはあまりにも……。


 艶子は背筋を汗が流れていくのを感じた。


 例えばこれが呪いのカップだとして。壊してそれで終わるのだろうか。


 本当に、そうなのだろうか。


 腕を下ろした艶子は、手の中に収まるカップを見つめた。カトレアのティーカップ。祖母の形見の──。ふっと浮かんだ考えに、艶子は息を飲んだ。


 同じ、だったのだ。祖母も。


 祖母も、このカップを手にし、このカップのもつ〝魔力〟に思い至ったのだ。


「だから、仕舞って……」


 声は掠れていた。


 艶子は箱に仕舞ったカップを鞄に入れて家を飛び出すと、一番近くの中古品店まで走った。


 一刻も早く手放すのだ。形見だろうと、ここで断ち切るのだ。


 ティーカップひとつを売りたい、と差し出した艶子のことを不審そうに見つめた中古屋の店員は、それでもカップを検めると言った。


「うーん、ブランド品って訳じゃないけど、柄は綺麗なんで百円でよければ」


「お願いします」


 悩むことなくそう返した艶子を、改めて不審そうに見た店員は、しかし書類への記入を求め、レシートと共に百円を手渡した。


 店を出た艶子は、どこか気が楽になり、長い息を吐いた。


 もう、大丈夫。これで、全て。


 ──大丈夫、ではなかった。


 カップを手放した筈なのに。


 入院中の母に新たな疾患が見つかった。父の会社が倒産し、艶子は入院費を援助する為に貯金を切り崩すことになった。マンションにボヤ騒ぎが起き、実家へと居を移すことになった。不幸を挙げ連ねればきりがない。明里は、目を覚まさないままだ。


「なんで……」


 実家の自室に残された子供っぽいベッドに腰掛け、艶子は声を震わせた。


 職場からは、昼のうちに「体調を慮って」と、部署の異動を告げられていた。善意からもあるだろうが、それはただ戦力外といわれたも同然だった。戻る場所は、ない。


 カップを手放した筈なのに。


 ハッと息を飲んだ艶子は、立ち上がった。息が上がる。


 違う、あれは、手放してはいけなかった。手元に置いたまま、何処か手の届かぬ奥へと仕舞っておかねばならなかったのだ。


 艶子は家を出た。


 電車を乗り継ぎ、ティーカップを売った中古品店へと向かう。


 店に入った艶子は、次々に棚を覗き込み、食器コーナーを探し出すと、棚を見渡した。


 ……ない。


 棚の一段一段を覗き込み、棚の端まで行ってから戻る。


 ──ない!


 カトレアのティーカップは何処にも見当たらなかった。


 近くで商品整理をしていた店員に「カトレアのティーカップが」と訊いても、不審そうに首を傾げるだけだ。


「どうされました?」


 その時、艶子の背後から声が掛かった。振り返った艶子は、あっと思った。あの店員だ。店員も、一瞬怪訝そうにした後、僅かに目を見開く。


「あ、あの、数日前にカトレアのティーカップをひとつ買い取って頂いたんですが」


 店員は、戸惑ったように「あぁ、はい」とだけ答える。


「あれって、何処にありますか。まだ店頭に出してないんですか。あれが、必要になって」


 その言葉に、店員は考えるようにし、次いで眉を寄せた。


「あー、あのカップは売れちゃいましたね。昨日」


「う、売れた⁉ 誰に……」


「あ、えーと、そういうのは判らないです。申し訳ないけど」


 只ならぬ艶子の様子に、他の買い物客が棚の端から様子を伺っている。店員は、ちらりと周囲に目をやり、艶子を誘導するように手を掲げた。


「申し訳ないんですが、他のお客様のご迷惑となりますので、何かお話があるなら外で──」


 艶子は店員がそう言うのを無視し、店を飛び出した。店員は追って来なかった。


「……どうしよう」


 恐らく、ティーカップを購入した者の許にも不幸は訪れている。いや、最初は幸運を運んできていた。では、今艶子を襲う不幸は? 幸運の代償とでもいうのだろうか。


 艶子の胸がざわりと鳴った。


 本当に?


 本当に、ただの代償だけなのか……?


 幸運なことが起き、それに起因して不幸が訪れた訳ではない。


 これは、代償なのだろうか。与えられた幸運の分だけ不幸に耐えればそれで終わるのだろうか。


 判らない。もう、知る術はない。


 形見は──分けられた。



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