第1話 黒い影(前編)
静かな夜だった。 雨上がりの街には霧が立ち込め、街灯の光がぼんやりと滲んでいる。深夜の住宅街には人影もなく、遠くで猫の鳴く声だけが響いていた。
遠藤茜は、息を潜めるようにして歩いていた。左手首の黒い痣をそっと撫でながら、何かに追われるような気配を感じていた。
「まただ……」
彼女は数日前から、誰かに見られているような感覚に悩まされていた。学校の帰り道、夜の自室、ふとした瞬間に背筋を撫でる視線。しかし、振り返ってもそこには誰もいない。
——違う。「誰も」いないのではなく、「何か」がいる。
茜は自分が昔から、普通の人には見えないものを感じ取れることを知っていた。それがどんな意味を持つのかは分からない。ただ、その存在が彼女の生活に入り込もうとしていることだけは確かだった。
その夜も同じだった。
不意に、空気が変わった。 風もないのに、街路樹の葉がざわめく。電柱の上に黒い影が降り立った。
「……烏?」
茜が目を凝らすと、それはただの鳥ではなかった。漆黒の翼を持ち、黄金の瞳を光らせた異形の存在。普通の烏よりも遥かに大きく、何かを語るように彼女を見下ろしていた。
その瞬間、茜の左手首が熱を持つ。
「目覚めの時だ——」
低く、けれどはっきりと聞こえた声。 それが烏のものなのか、あるいは自分の内側から響いたものなのか、茜には分からなかった。
ただ、一つだけ確信があった。 今夜を境に、自分の世界は変わるのだと——。
茜は思わず足を止めた。目の前の存在から目を離すことができなかった。
烏は静かに羽を広げ、ゆっくりと電柱から飛び降りる。そして、闇の中で形を変えながら、しなやかな人の姿へと変化した。
黒い衣を纏い、長身の青年が立っていた。烏だった頃と変わらぬ黄金の瞳が、鋭く茜を見つめている。
「やはり、お前だったか」
その言葉に、茜は息をのんだ。
「……あなたは?」
「俺の名はクロウ。お前を探していた」
探していた——?
言葉の意味を問いただそうとした瞬間、茜の耳元で何かが囁いた。今までとは違う、冷たい、ひやりとした声。
——見つけた。
何かが、暗闇の中から這い寄ってくる気配がした。
クロウがわずかに目を細め、鋭く視線を送る。その直後、黒い霧のようなものが茜の背後から立ち昇り、形をなしていった。
影。
それは人間の形をしていたが、顔はなく、ただ黒い穴のような虚無がそこにあった。
「逃げろ」
クロウが低く言う。
茜はその場に釘付けになったまま、動けなかった。
影が、ゆっくりと手を伸ばしてくる——。
その瞬間、クロウが茜の腕を掴み、強く引き寄せた。
「目を閉じろ」
彼の声が鋭く響く。茜が咄嗟に従うと、次の瞬間、冷たい風が彼女の肌を撫でた。
何かが動く気配。
茜が目を開けると、クロウの背中から黒い羽根が舞い上がり、空間そのものを裂くように広がっていた。
影の存在はまるで怯えたように後ずさる。しかし、それでも茜に向かって再び手を伸ばそうとする。
「もう遅い」
クロウが静かに囁くと、羽根が光を帯び、影を飲み込んだ。
かすかな悲鳴とともに、影は消滅した。
静寂が戻る。
茜はその場に座り込んだ。
「……何なの、あれは……?」
震える声で問いかける。
クロウは彼女を見下ろし、静かに言った。
「お前の存在を狙うもの——影なるものだ」
茜は息を整えながら、クロウを見上げた。
「影なるもの……?」
クロウはゆっくりと手を差し出した。
「ここでは話せない。お前も感じているだろう。あれがただの幻ではないことを」
茜は一瞬ためらったが、彼の黄金の瞳を見つめると、自然と手を伸ばしていた。
クロウの指が茜の手を包むと、再び風が巻き起こった。
次の瞬間、世界が闇に溶けるように消えた——。