2.図書室
教室に戻った僕は、空気さながらに誰とも挨拶を交わさず、自席へと腰を落ち着けた。
一限目の教科書やノートを出して、スマホを眺める、それが日々のルーティンだ。
数分ほどしてバタバタと男子生徒が入ってきて、「ギリギリセーフ」など囃し立てられながら席へ散らばるのも、いつものごとくの光景であり、僕の斜め前の席に近づいてくる彼を目で追ってしまうのも、僕の日常だ。
品の良い所作で椅子をひき、そこへ腰を下ろした久我は、絵画から飛び出てきたのかのごとくの美しさだ。
駆けてきたわりには息が切れておらず、そればかりか、いっさいの乱れもない。サッカーなんぞしてきたというのに、髪もサラサラで、制服には汚れもなく、着こなしも完璧だった。
完璧な男は、どんなときでも完璧であるものなのだろう。
などと、授業が始まっても見惚れて、黒板と久我を交互に見ていたところ、ふと久我が振り返った。
動いた瞬間すぐに目を逸らすも、気づかれただろうかと不安が襲う。
心臓がばくばくとして、手に汗が浮き出てくる。
僕は空気だ。一度も彼と目が合ったことはない。認識されていないはず……というか黒板を見るには久我のほうを向いていなきゃいけない状況でそんな反応をしてしまって、逆に目立ってしまっただろうか。
わからない。わからないけど、なるべくなら今日はあまり見ないほうがいいだろう。いつもじろじろ見ているなんて知られたらまずいどころじゃない。
昼休みになり、図書委員の当番日だった僕は図書室へと向かった。
さすが名門校だけあって日頃から勉強している者は多い。図書室は読書のためというよりは、勉強するために静かな空間を求めて来る人がほとんどだから、図書委員の出番はほとんどない。配架や書架整理をしながら、貸出や返却があればカウンターに戻る、そんな仕事だ。
様子を伺いつつ、今なら奥へ向かっても大丈夫そうだと見計らい、両手に十冊ほど積み上げた本を抱えて配架を始めた。返却された本を元の場所に戻しながら歩いていると、その途中で突然腕を引かれ、二冊ほど落としてしまう、かと思いきや、本は途中で停止し、積み上げた本のタワーへと再び戻ってきた。
「誰にも言うなよ」
ふわりと香る爽やかな香り、そして同時に起きた驚くべき魔法、なんてバカなことを考えたのは、目の前に久我の姿があったからだった。
久我が拾って乗せてくれた、そのことが信じられず、脳が処理しきれなかった。
親切な生徒会長がとる行動としてはあり得ることだけど、僕の目を見ていることはあり得ない。
しかも、手を伸ばせば届くほどの距離にいる。
そして、何やら話しかけられた気がする。僕のことなんて知らないはずなのに。
同じ学校の生徒とはいえ、空気である僕が認識されるはずはない。
だから僕に声をかけたわけじない、と考えてきょろきょろとあたりを見渡してみた。
しかし、図書室の隅っこであるここには、他に誰もいない。
久我と、僕だけだ。
「……おまえに言ってるんだよ」
きょろきょろとしていた目を戻す。するとまた目が合った。
見たことがないくらいに、強く……睨まれている?
僕はそのとき、なぜ睨まれているのかを考えるよりも、久我がこんな顔をするんだ、という驚きのほうが大きかった。
誰にでも快い笑みを向ける久我が、怒りをあらわにしたところなんて見たことがない。それだけでなく、イメージからも考えられないことだった。そのはずが、明らかに不快げに眉根を寄せ、威嚇するかのごとく目を細めている。
そんな久我も、素敵だ。
「……聞いてんのか? 誰にも言うなよ。ここじゃ他人だからな。……わかったな」
久我は、僕にしか聞こえないくらいの声で言って、そして去っていった。
なんのことだろう。
落とした本を拾ってくれたこと?
親切にしてくれたわけだけど、僕と関わりを持ったこと自体を隠したいのだろうか。
いくら品行方正の生徒会長でも、空気である僕のことは、他の生徒と同様に空気として扱っている。そんな底辺ぼっちと喋ったことだけでも、王子にとっては不服だったのかもしれない。
などと考えながら、図書委員の仕事を終えて教室へ戻った。
久我は、クラスメイトに囲まれている。同じクラスだけでなく他クラスの生徒も彼を求めてやってきて、その輪に入ってくる。
常に取り囲まれている彼が、一人でいたなんて数えるほどしかないだろう。
もしかしたら、久我じゃなかったのかも、なんて考えたけど、目に焼きつけんばかりに彼を見つめ続けている自分が見間違うはずはない。
今の彼は、人好きのする笑みを浮かべ、周りを囲む十人以上の生徒たちそれぞれに満遍なく反応を返している。
頼りになる生徒会長。
成績優秀な自慢の生徒。
文武両道で部活動の主戦力。
代議士の息子である彼は、社会に出たあとも友人として親しくしていたい存在なのだろう。周りはそんな彼とのパイプづくりのため、親しい友人としての座を奪い合っているかのように、気を引こうとしている。
久我は、そんな自分の立場に驕ったり、威張ってみせたりすることもなく、常に親切で、誰のことも気遣っている。そんな彼の姿を評して、国民に愛されている王子様と形容されるのは、納得も納得、上手い表現だと思う。
男子だけでなく、王子様からの寵愛を受けて姫になりたい女子も少なくないだろう。
告白をして振られたなんて話は、何度も耳に入ってきた。高嶺の花がゆえに、告白できずに片思いしているというのも聞こえてくる。
空気の僕は、そこにいてもいないものとして扱われるため、そういった細々とした内緒話が勝手に耳へと入ってくるからだが、妬まれる立場でもあるだろうに、不思議と陰口は聞こえてこない。
久我のいない場でも、聞こえてくるは「雅利はいいやつだよな」などとの賛美の声ばかりた。
「雅利、なにしてたんだよ」
声をあげて教室の入り口から顔を覗かせたのは、副生徒会長の盛山英治だ。
「なにしてたって、サッカーして教室に戻ってきたところだけど?」
「……緑化運動の書類を確認する約束してただろ」
「約束っていうか、修正したあと鎌田先生に確認してもらう書類だろう? それならすでに渡してある」
「えっ……まじかよ」
盛山は教室のドアのところで大げさに脱力した様子を見せたあと、笑みを浮かべて久我のほうへ近づいていった。
久我の肩に手を置いて、「仕事早すぎ」と声をかけ、久我の隣に座っていた男子生徒が慌てて立ち上がったそこに腰を下ろした。
久我が王子なら、盛山は専属の従者というのだろうか。別のクラスであるはずが、久我のいるところに必ずいる。彼の父も確か代議士で同じ派閥かつ友人同士だという噂だ。
親の権力に則ったヒエラルキーがあり、友人グループもそれに沿ってつくられているらしい。
高級クラブのホステスから成り上がった母を持つ僕と、親しくしようなんて生徒がいないのも当然のことだった。
今夜はペンが進みそうだ。久我の新たな表情を見たから、絵にしたためたくてうずうずする。
美しい彼は、そんな表情でも絵になる。むしろ穏やかに振りまいている笑みよりも、生き生きとしていると言えるかもしれない。
金曜日に母がいることは滅多にない。当然今日も、帰宅したマンションに母の姿はなかった。
中学に上がるまでは間を空けずに相手がいたうえに、兄弟もいたりしたから、一人ということはほとんどなかった。それ以降は夫か彼氏が同棲していない時期は、週に二日もいればいいほう、という頻度で姿を見かけなくなった。
僕が成長したことで、直接お金を渡されるようになり、食事や必要なものを買うにも自分である程度ができるようになったから、いつの間にやら不在を気にしなくなっていた。
しかしながら、今日は夕食を用意してくれていたらしい。
鍋にシチューと、『トースターで焼いてね』というメモのついたフランスパン、それと冷蔵庫の中に若鶏のグリルを見つけた。
それを口に運びながらスマホを見ていたところ、LINEが届いた。
『明日の朝十時に、今度の自宅に来て』
母からのシンプルなメッセージの下に、マップのリンクがあった。
学校と同じ駅で、駅から学校とは反対方向へ向かって五分程度の住宅街にある家らしい。
マップで見る限り、大きなガレージや庭なんかもある割と豪勢な邸宅のようだった。
高級住宅街でこの規模は相当なお金持ちだろう。
これまでの中で一番羽振りのよい相手かもしれない、なんて考えながら、漫画を描いていつも通り深夜に就寝した。