第三夜「焚べられた理想」
夜が深まりつつある森の中で、焚火の柔らかな光が周囲の木々に揺らめいていた。炎の前にはソクラテスと仏陀が向かい合って座り、静かな対話の余韻がまだ空気の中に漂っていた。古い樫の木々は二人を見守るように立ち、星明かりが枝の間から零れ落ちている。
その静寂を破るように、草を踏む足音が聞こえてきた。若々しく活力に満ちた声が闇の中から近づいてくる。
「師よ! やはりここにおられた!」
闇の中から姿を現したのは、青年プラトンだった。彼は息を少し弾ませながら、焚火の光に照らされた顔に期待と興奮を浮かべ、小さな空き地へと足を踏み入れた。
ソクラテスは炎越しに弟子を見つめ、温かな微笑みを浮かべた。「プラトン……火を見る目が理想でいっぱいだな。まあ、ここに座るといい」
影と光が交錯する中、ソクラテスは自分の脇に置いていた簡素なクッションをプラトンに差し出した。言葉はなく、ただ静かに渡し、軽く会釈する。その仕草には、長年の師弟関係が作り上げた無言の理解があった。
プラトンは小さく頷き、差し出されたクッションに腰を下ろした。彼の目は向かい側に静かに座る仏陀へと向けられ、焚火の揺らめく光の中で、彼自身の姿勢も少し緊張気味に直された。初めて会う東洋の賢者の前で、言葉を選びながら話し始めた。
「初めまして、仏陀殿」プラトンは焚火越しに視線を送り、丁寧に頭を下げた。炎が彼の若い顔に揺れる影を作る。「私は、魂に内在する『イデア』こそ、真なる実在と考えています。万物の上に”善のイデア”があり、人はそれに近づくことで魂を磨く――この思想について、あなたはどう思われますか?」
仏陀は静かに両手を膝の上で組み、穏やかに目を開けて答えた。その声は焚火のはぜる音とともに夜の空気に溶け込んでいく。「イデアは、“変わらぬ真理”を求める姿勢。それは、心を高めようとする尊い努力です。ですが、私はその”形”にもまた、執着が宿ると見ています」
「では、真理は”無い”と?」プラトンは少し身を乗り出し、手のひらを上に向けて問いかけた。「形を否定してしまえば、何を基準に人は善を知るのでしょう?」
仏陀は一枚の落ち葉を拾い、そっと指先で触れながら答えた。「善は”基準”ではなく、“目覚め”です。善を判断するために形を探すのではなく、心を静かに見つめることで、自然にそれが現れるのです」
プラトンは眉をひそめ、焚火を見つめながらしばらく考え込んだ。木が燃える香りが彼の思考を促すように漂う。「それは……“知る”というより、“気づく”ということですか」
「そうです」仏陀は微笑みながら頷いた。「思考で掴むよりも、執着を手放した時にだけ現れる”静かな理解”。あなたの”イデア”もまた、そうした気づきのひとつなのかもしれません」
プラトンは少し体を起こし、両手で円を描くように話した。「しかし、気づきだけでは社会は作れません。それでも私は、“国家”をつくるには、理想のかたちが必要だと信じています。形なき教えでは、人は流されてしまうのではないかと」
ソクラテスは膝を抱えるようにして座り、顎に手を当てながら興味深げに二人の言葉を追っていた。彼の目元に寄る皺からは、弟子の主張に対する親しみと批評の両方が読み取れた。
「流れることを恐れる必要はありません。水は、形を持たずとも、地形を変える力を持つ」
沈黙が訪れる。火が静かにゆらめき、樹脂のはぜる音だけが沈黙を彩る。森の奥からは夜の生き物たちの気配が感じられ、時折フクロウの鳴き声が遠くに響く。プラトンは揺らめく炎をじっと見つめ、その瞳に火の粒子が映り込み、静かにうなずく。
やがてプラトンはゆっくりと顔を上げ、ため息のように言葉を吐いた。「……学ぶべきものは、まだ多いようです」
ソクラテスがにやりと笑い、目元に刻まれた皺が深まった。「それに気づいたなら、今夜ここに来た意味はあったということだ」
焚火に薪を一本加えながら、プラトンは新たな質問を投げかけた。「仏陀殿」彼の声は先ほどより柔らかくなっていた。「では、あなたの教えでは、国をどう治めるべきだとお考えですか?」
仏陀は両手をゆっくりと膝の上で組み直し、炎の光を受ける顔に穏やかな表情を浮かべて答えた。「国も、人の心と同じく、中道を歩むべきだ。極端な厳しさも、極端な放任も苦しみを生む。統治者は川の流れを整える者であって、川そのものをつくる者ではない」
「中道とは、何事にも『過ぎたるは及ばざるが如し』ということですな」ソクラテスが笑い声を含んだ口調で言った。彼は焚火の横に置いていた水筒を手に取り、一口飲んでから続けた。「私もまた、知恵ある者が導く国が最良だと考えます。しかしその知恵とは、万物を支配することではなく、自らの無知を知ることから始まる」
プラトンは師と仏陀の間で視線を往復させ、言葉に耳を傾けた。彼は拾った小さな枝を手の中で回しながら、つぶやくように言った。「無知の知と、執着からの解放…」彼は枝を火に投げ入れた。「しかし実際の国づくりには、もっと具体的な指針が必要ではないでしょうか」
夜風が木々を揺らし、焚火の光が三人の周りで踊る。