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火に問う  作者:
2/17

第二夜「苦しみと幸福」

夜はさらに深まり、濃紺の天空には無数の星々が冷たく瞬いていた。森の中、孤独な光源として焚火だけが静かに燃え続けている。その周りには、対話を続けるソクラテスと仏陀の姿があった。二人の表情は炎の明かりに照らされ、時に鮮明に、時に影に隠れるように揺れ動いていた。

ソクラテスは炎を見つめながら、ゆっくりと口を開いた。彼の目には先ほどからの思索が宿っているようだった。

「魂とは変わるもの、あるいは流れるものだと——そう仰いましたな」ソクラテスは先の対話を振り返りながら続けた。「だとすれば、なぜ人は変わることを恐れ、苦しむのでしょう?」

仏陀はソクラテスの問いに、静かな声で応えた。その声は森の静寂に溶け込むかのように穏やかだった。

「人の苦しみは、変化そのものではなく——『変わらないでほしい』という願いから生まれます」仏陀は両手を膝の上で重ね、続けた。「欲、執着、無知。それらが”ドゥッカ“の根です」

ソクラテスはしばし考え込み、自らの哲学と照らし合わせるように思索を巡らせた。「ふむ……我々は”善く生きたい”と願い、徳を求める」彼は眉をひそめて言った。「だがその『善』すら、執着の一種になりうると?」

仏陀は静かに頷いた。その仕草には、人間の苦しみを幾度となく目にしてきた深い理解が表れていた。「求める心は、常に苦しみを伴います。けれど、慈しむ心は苦を超える。それは、自と他を隔てない優しさです」

焚火の木が小さくはぜ、火花が舞い上がった。その一瞬の光の中に、二人の対照的な姿が浮かび上がる。ソクラテスは黙して考え込み、その鋭い知性は今も真理を探し求めていた。

長い沈黙の後、ソクラテスが再び語り始めた。「あなたの言う幸福は、『何かを手に入れること』ではなく——『何かから自由であること』なのですね」

「はい」仏陀の穏やかな返答が夜に響いた。「幸福とは、条件によって左右されぬ、静かな心の在りようです。それは”無我”の中に見いだされます」

ソクラテスは頭を少し傾げ、自らの長い思索の旅を振り返るかのように言った。「私はずっと、『魂が正しくあろうとすること』にこそ幸福が宿ると信じてきた」彼は一瞬躊躇い、続けた。「でも……その”正しさ”すら手放す必要があるのかもしれませんな」

仏陀は優しく微笑み、ソクラテスもまた頷いた。二人の間には言葉にならない理解が流れていた。

「時には、答えを出さぬまま火の前に座り続けることが、最大の気づきになります」仏陀の言葉は、この対話の節目のようだった。

二人の間に静寂が広がった。焚火はゆらめき、小さな火花が夜空へと昇っていく。その光は星々と一体になるかのように、闇の中へ溶けていった。

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