表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
火に問う  作者:
17/17

最終夜「黎明」

「……それでも問うておられるのですね、ソクラテス。」


ソクラテスはゆっくりと振り返る。彼の瞳には、消えかけた焚火の光が小さく揺れていた。シャクナゲの影が彼の肩に落ち、その姿をひときわ彫像的に際立たせている。


「おお……仏陀殿。やはり戻ってこられましたか。」


仏陀の足音は、まるで存在しないかのように静かだった。彼の周りには、まるで光の粒子が漂っているようにも見える。


「戻ったのではありません。あなたがまだ"ここ"にいたから、私は来たのです。」


仏陀は焚火のそばに静かに座る。彼の衣は夜露で僅かに濡れ、その織物の質感が月光に浮かび上がる。再び二人の哲人が、夜の火を囲む。彼らの間には、言葉以上のものが流れ始めていた。


ソクラテスは深いため息をつき、その息が冷たい夜気に白く浮かんだ。

「皆が語り、皆が去っていきました。だが私はまだ、ここに残ってしまった。なぜでしょうな?」


仏陀はやわらかな笑みを浮かべ、遠い山々を見るような眼差しで答えた。

「問いに"終わり"を求める者は、まだ"問うている"のです。あなたは、"旅"の途中にいる。」


焚火が小さくはぜて、一瞬だけ二人の顔を明るく照らした。ソクラテスは手の皺を見つめながら苦笑した。

「私は答えを求めていたようで、実のところ、問うことそのものに執着していたのかもしれませんな。」


仏陀は静かに目を伏せた。彼の周りの空気が、一層清らかになったように感じられる。

「問うこともまた"欲"になり得ます。だがその欲が、誰かを目覚めさせることもある。あなたの問いが、多くの者をこの焚火に導きました。」


夜の闇は深まり、星々はいっそう鮮やかに輝き始めていた。森の向こう側から、夜行性の鳥の鳴き声が一度だけ聞こえた。ソクラテスは目を細めて、仏陀の顔をじっと見た。

「だとすれば、今ここであなたに問いたい。この夜に集まった言葉の末に、我々は何を見たのか?」


仏陀は目を閉じ、しばし沈黙する。焚火の火が、最後の温もりを照らしている。星は夜の中心で凍るように静まり返る。遠くに猿の鳴き声が一度だけ響き、そして消えた。


やがて仏陀は、静かに目を開いた。彼の瞳には、全宇宙が映っているかのような深さがあった。

「見えたのは、"答え"ではありません。見えたのは、**問い続ける者の"かたち"**です。」


ソクラテスは身じろぎもせず、ただじっと聞いている。夜風が彼の白髪を優しく撫でていった。


仏陀の声は、まるで風に乗って響いてくるかのようだった。

「闇に触れ、赦しを語り、善と悪の狭間をさまよった者たち。詩で慰め、科学で照らし、宗教で包み、そしてあなたは――問いで繋いだ。」


「問いのかたち、か。」ソクラテスはつぶやいた。彼の声は、深い井戸から響くようにこもっていた。「それは……魂の姿とも言えるな。」


「はい。」仏陀は頷いた。彼の姿は月明かりに溶け込みそうになりながらも、しっかりとそこに存在していた。「言葉の末に残ったのは、**沈黙ではなく"深い目覚め"**です。問いを持ち帰る者たちが、それぞれの道で"目を開く"ことでしょう。」


ソクラテスは目を閉じ、心の中で何かを確かめるように微笑んだ。彼の顔の深い皺が、月明かりに浮かび上がる。

「それは……それは、まさしく"生きる"ということかもしれませんな。」


仏陀はゆっくりと立ち上がった。彼の動きは水が流れるように滑らかで、その姿は月明かりに輝いていた。東の空がほんのわずかに明るくなり始めている。


焚火は今やほとんど消え、わずかな灰と赤い炭だけが残っていた。ソクラテスも立ち上がり、彼の影は長く伸びた。

「ええ、だがその前に――ひとつだけ、最後の問いを。」


仏陀は振り返らなかった。彼の背中は、既に夜明けの光をわずかに浴びていた。

「はい。」


ソクラテスの問いは、夜明け前の静寂に優しく響いた。

「また……ここに、火を囲んで語り合えますか?」


仏陀は静かに首を傾げ、答えた。

「あなたの問いは、間違いではありません。問い続けることこそが、道です。」


その言葉を残し、仏陀は森の中へと歩き出した。その姿が夜明けの霧に溶けかけたとき、別の人物と擦れ違った。冠をつけ、上品な衣をまとった東洋の若い貴人である。二人は一瞬だけ目を合わせたが、仏陀は何も言わず、ただ穏やかに微笑みを浮かべ、そのまま朝霧の中へと消えていった。


若い貴人は、十七条の飾り紐が垂れる冠を整えながら焚火に近づいてきた。その歩みには凛とした威厳があり、眼差しには深い叡智が宿っていた。


「和を以て貴しとなす。まだ対話を続けられるようですね」冠の下から覗く耳飾りが揺れ、日の出の方角を指し示すかのようだった。


ソクラテスは振り返り、新たな訪問者を見つめた。

「どうやら、まだ薪が必要なようですな。」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ