26歳の綴り
大学を卒業した社会人4年目、26歳の年の5月のこと。家と職場の往復だった味気ない日常のなかに懐かしい顔が現れた。
忘れもしない20歳の頃に恋をした彼は“ひまわりの匂い”のする好青年で、今や私の恋人だ。
青かった二人には分からなかったことが沢山ある。イタズラ好きな神様がもう一度くれたチャンス
どちらが傷つけたのか、どうして心が埋まらないのか、どうして愛してしまうのか、その答えをあなたと見つけたい。
大好きな人が5年間変わらないことなんて無いのに。
2018年8月
都内の美容クリニックに勤務している“私”(織田 茜)と、同じく都内の旅行会社に勤務している“景くん”(杵島 景一)にとって、もうすぐ交際して1年の記念日を控えているのにも関わらず、夏は繁忙期の真っ只中。
忙しない業務に追われ、次々と塗り重ねられていく周知事項に頭が追い付かない日々も、ロッカールームで確認するメッセージチェックの一時に癒しを感じていた。
(あと少し頑張ったら“景くん”に会える…!)
アナログ仕様の壁掛け時計を一瞥すると、約束の時間まで6時間を切っていた。
『茜さん、今日はいつもにも増して可愛いじゃないですか。デートですか~?』
ロッカーの死角からひょこっと顔を出したのは、同じ受付嬢で一期後輩の凜ちゃん。
愛くるしいルックスと精錬された甘い声。ドクター達のお気に入りである彼女の裏の顔を知っているのは私と同期のユキナだけ。
裏の顔と言っても、単に強か要素が常軌を逸しているだけでとても良い子だ。因みに昨日は私の家に半ば強引に押し掛けてきて
『茜さんの手料理が食べたいです!』と結局終電間際まで一緒に過ごしたほどの仲ではある。
『まだ何食べるかは決まってないんだけどね~』
『いいな~、私も茜さんとご飯食べたいです』
『昨日私のご飯食べたじゃないの!』
『まだ話し足りないんですよーっ』
どこか拗ねたように口元を尖らせて、小動物のようにまとわりつく凜ちゃんに
“私が絶対に残業しないように、ぬかりなく真摯にお客様と対応して行きたい旨”
を端的に説くと彼女は満面の笑みで『また聞かせてくださいね!』とだけ言い残し、颯爽と廊下へ掃けていった。
今朝早起きしてコテで巻いた髪の毛を院内では後ろで一つに束ね、化粧直しを想定して勤務中はハイカバーファンデとアイシャドーのみ。
本当はもっと薄いメイクでも良かったのだけど、美容クリニックの受付嬢はクリニックの顔として、見た目も綺麗に整えておかなければならないと思っている。
もし時間があったら帰宅して一旦メイクを削ぎ落としたいぐらい、冷房の完備された院内でさえ今日のスケジュールは激務だった。
結局、退社予定時刻の19時を20分程過ぎて、やっと最寄り駅に到着した私は電車内のクーラーを求めて駅構内を小走りで駆けた。
なんとか乗り込んだ電車内は帰宅ラッシュも相まって座席は確保出来ず、お気に入りの1両目の運転席側の壁に軽くもたれるのが精一杯だった。
改札から一緒に走った部活帰りの高校生たちは息を切らすこともなく、それぞれの会話に花を咲かせているのを鑑みても
今年で齢26歳となる足腰は週3通いのジムで鍛えているとは言え、やはり確実に鈍化の一途を辿っていた。
約束の時間まで30分…。少し遅れることを懸念して“景くん”へメッセージを送る。
『ごめんね、残業あって今電車乗ったところ!これから向かうから少し待たせちゃうかも知れない!』
トーク画面に“入力中”の表示が浮かび、程なくして“景くん”からのメッセージが届く。
『あーちゃんお疲れ様。仕事だったんだからしょうがないよ!中央改札口で待ってるからゆっくり来てね!』
子犬のスタンプで蓋をする彼の気遣いと、相対的に沸き上がる私の申し訳なさが錯綜する。
地方出身の私も大学期間を含め上京8年目ともなると、帰宅ルートではないイレギュラーな乗り換えもアプリ無しでこなせるようになっている。
3駅先で急行から快速急行に乗り換え、予定到着時刻が数分早まるのを目視で確認し、小さなガッツポーズをとる。
一秒でも早く彼に会いたい。待ち合わせをしている池袋駅に到着するまでの間、黒い車窓に映った自分の髪の毛を手ぐしで整えるなどして、期待に胸を膨らませながら過ごした。
約束の20時を数分過ぎて駅に到着すると、まずは女子トイレに駆け込んで自分でも恐ろしいほどの手際の良さでお化粧直しに勤しんだ。
毎朝このぐらいの速さで身支度を終えればお昼のお弁当のおかずも増やせるのに。人間なにかに追われて発揮する力もある…と悟ってみる。
斜交いのエスカレーターの右側を俊足で駆け抜け、中央改札口の傍らに立つスーツ姿のイケメンへ目がけ、数メートル先よりロックオン&ガンダッシュを発動した私は地面に滑り込む勢いで謝罪した。
『景くん遅れて本当にごめんなさっっっっ!』
景くんは激突こそ回避したものの、勢い余ってそのまま押し倒しそうになる私を失笑しながら、両の腕で抱き止める。
『ゆっくり来てねってゆったのに~。』
『だって、ゼェッ…』 息が上がって上手く舌が回らない。
『可愛く走れば良いものを、あーちゃんは鬼気迫る表情で…まあそこが良いところなんだけどね!』
景くんは自身のスマホをズボンのポケットにしまうと胸ポケットからハンカチを取り出し、表面をこちらへ向けて手渡した。
数分とは言え遅刻した側を労う余裕を見せて、且つ最高に可愛い笑顔で迎えてくれるとは…。非の打ち所の無い、どこまでもイケメンだから困る。
『あ、ありがと…。』
『何か飲む?あっちにミックスジュースのお店があるけど』
『美味しいよねあそこ!飲みたい!』
強烈な再会シーンもそこそこに、夏場の冷たいミックスジュースは身体の隅々に栄養が行き渡るような感覚が走った。
『あーちゃん、こっち向いて~』
『あ、写真?』
唇の先でストローを咥えた私に向けて景くんが銀色のデジタルカメラを向けている。
『可愛く撮ってね?』
『あー、可愛い。可愛いよ~、可愛い!』
カメラの内側の景くんは、白い歯を見せながらシャッターを複数切った。
3ヶ月前に付き合いだしてから始めたという“カメラ”だが、毎日家の中でも撮影をしているようで既に手慣れたものだ。
『あーちゃん、今夜行きたい場所ある?』
薄型カメラを卓上に置いて、景くんは搾りたての果実ジュースにストローを差す。
『友達の投稿で何回か見たんだけどね…えっと、これこれ!』
SNSで繋がっている友人たちが、こぞって投稿している人気のハッシュタグ『|#アリス』は、幻想的な童話の世界をモチーフとした洋食専門レストラン。 子供から大人まで幅広い年代にファンを抱えている人気店で、完全予約制の名店らしい。
『へぇ、一風変わったメニューがあるんだね~』
『トランプ騎士の赤ソテーとか可愛くない?』
公式HPに掲載されている夏季限定メニューのアイスケーキを指差しながら、スマホの画面を二人で覗き込む。
『ちょっと子供っぽいかな?』
即答を得られなかった事もそうだが、改めて見ると掲載写真の殆どが親子連れで、社会人のカップルならホテルの最上階等のビュッフェの方が良いのかも…とあれこれ思考を巡らせる。
最近同僚とランチで食べた自然薯のお蕎麦を代替案として挙げようか…。と並行して別のハッシュタグを指で探っていると
『ううん、楽しそう!元々あーちゃんが決めた場所なら例え立ち食い蕎麦でもファーストフードでも良いって思ってたから。』
景くんは屈託の無い笑顔で私の提案に快諾してくれた。いつもこうやって私の考えを最優先にしてくれる。
『じゃあ飲み終わったらアリスちゃんのディナーに行こっか。』
私の飲み終えたカップとストローをゴミ箱の前で素早く分別し、ターコイズグリーンのお洒落な腕時計に目を落とした彼は、私の左手を取って数歩先から歩きだした。
優しくて、誠実で、端正な顔立ちの彼を見て、私の過去を知らない人たちは口々に『お似合いカップル』と評してくれる。
景くんは誰の目から見ても魅力的に映るらしい。
逆に同じ大学出身の知人らは、『イケメンなのに勿体ない』と私の目の前であってもお構い無しに好き勝手に口にする。
状況と人物を置き換えれば、大学在学中はまだ前の戸籍だった私を第三者に紹介する際にも 『この子、本当は男の子なんだよ!』と平気でアウティングしてしまうような神経の持ち主だから、そういう発言をしても“伝家の宝刀”『悪意が無かった』で済むと思われてしまっている。
所謂『言う必要のない持論』まで、人目を憚らずに展開してしまうのだ。当時大学生だった私は何を言われても決まって 『こんな風に生まれた私が悪い』と自責し続けた。
“個性”だとも沢山の人に言われたけど、自分にとって腫れ物を美談にすることには大きな抵抗があったし、第三者に打ち明けるという行為自体が生きる上で足枷になっていた。
嫌な扱われ方もされたし、嫌な呼び方もされた。今だったら絶対に答えたくない質問さえ、浴びた当時は全く気にも留めなかった。 厳密には『足を止めなかった。』という表現が近いか。
余力だけで走っていた学生時代に少しでも冷静になる瞬間があったとしたら、きっとそれは自死の葛藤だけだろう。 当時、19歳、20歳かそこらの自分でも分かっていたことは、『普通の女ではない』という事実と、その開いてしまった距離は一生かけても埋められないものだった。
予約したレストランへ向かう彼の背中に重ねたのは、越えられない肩の向こうに手を伸ばして伸ばして、加減を知らず彼の優しさと懐の広さに甘えてしまった二十歳の私。
だけど、今はこうして…。
景くんの骨張った大きな手の中で温もることも出来る。この時間がずっと続けばいい。
ー道中ー
『もうちょっと歩く?』
『ナビによるとあと3つゲートを越えたとこだよ~』
じめじめとした夏の夜の外気から逃れるように私たちは地下に降りて疎らな人波のなかを進む。
『あーちゃん少し痩せた?ちゃんとご飯食べてる?』
『最近ホットヨガを始めたからそれもあるのかな』
『へぇ~、ヨガ。あーちゃんにピッタリだね。ちゃんとご飯食べてるんだよね?』
景くんは、しっかりと繋いだ指を時折り弛緩させながら私を見る。
『食べてる食べてる! 昨日は後輩…あ、女の子ね?凜ちゃん。凜ちゃんが家に来たから二人でご飯作って食べたし。』
『よく聞く名前だね、そっかそっか安心したよ』
安堵の表情を浮かべるけいくんと連れだって辿り着いた『#アリス』の洋食屋。幻想的な世界を楽しみながら腹八分食べ終えた頃に時刻を確認すると、22時を回っていた。
今宵は時間を考えず、このまま夢幻の気分に浸り続けられる。
大好きな人に応えられる喜びを風化してはいけない。
ー翌朝ー
『あーちゃん、あーちゃーんってば!』
恋人の声で目覚めたのであれば完璧な朝チュンだったのだが、景くんの呼びかけの背景に聞き慣れた甲高いアラームが響いていた。
『いま何時…?』微睡む意識の中、言葉通り手探りで景くんのお腹を這わせながら尋ねると
『朝の6時だよ~』と景くんによる気怠げな返答が返ってきた。
『え、全然寝てないじゃん』
『あーちゃんのアラームで起きたとこだよ~』
『またやっちゃった…ごめんね…』
『いいよいいよ、真面目なあーちゃんの毎日が垣間見えたし。俺だったら二度寝しちゃうもんな~。』
シフト休の私は、曜日を固定しない目覚ましアラームを設定しているので、たまのお泊まりで度々やらかす。
仕事の日なら反射的に飛び起きるのに、景くんと一緒に居るときは安心するのか爆睡してしまい、毎回景くんに起こされてしまう。
『ふふ、あーちゃーんぐっすりだったから起こすの躊躇っちゃった』
けたたましく鳴るアラームを解除し、毛布の中から上半身だけを出した状態の私の頭を指先でわしゃわしゃと撫でる景くんは、そのまま指を肩に落として抱き寄せる。
『こっちおいで、もう少し寝よう』
『うん、ごめんね起こしちゃって』
『気にすんな、いつものこと~』
煙草を吸わない彼はほんのりと甘い匂いがする。すべすべの肌が好き。きっと私をダメにする成分が含まれているんだと思う。この火照りがいとおしい。
こうやって一緒に過ごすこと自体が久しぶり。
大好きな人の表情の推移が堪らなくいとおしい。こんなに近くでキスして確かめ合えるのは紛れもない愛情の賜物だと思える。
早い子は10代で経験するとも聞く。周囲で交わされた当たり前の背伸びが私にとってコンプレックスの一つに数えられていた。
私の生まれつき持たない子宮を知りながら、過去には何もつけないまま無理矢理押し込もうとした男もいた。
だけど、景くんは都度コンドームをつけてくれる。気持ちの問題だけど、大切にされてると思うと凄く嬉しかった。
『あんま考えすぎないようにね!』これは二十歳の頃のあなたの言葉。そして『男の人とは付き合えない』これもあなたの言葉。
この5年であなたに何があったんだろう。詳細を聞くことは今の自分を否定するようで出来なかった。
次第に小さな寝息を立て始める景くんの腕の中で神妙な顔をしていた自分が気恥ずかしくなって、『ごめんね』の意味を込めて、頬っぺたに本日何度目かのキスをした。
再び眠りに落ちる頃、今度は景くんのスマホの通知音が短く鳴った。
景くんもアラーム(?)鳴ってるじゃん…。
優しく重なる腕をすり抜けて、ふと視線を落とすと平和そうなけいくんの寝顔があった。
少しだけ生えてきた口髭を指でなぞって、薄桃色の唇へと伝わせる頃には私の口元は自然に綻ぶ。
かわいい。
…ん、待って、何今の…。
第六感よりも鋭利で刹那的な予感が走る。
見るな、見るな、見るな…。
午前6時22分、スマホの画面に一瞬だけ通知された赤い点滅と文章。
そこには
『江藤』という差出人と、『景一さん』から続く、シンプルな余命宣告が一方的に綴られていた。