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第2話 心が折れたかもしれない

 冒険者パーシルの生活は一変した。


 育児の朝は早い。

 朝日が昇る前にパーシルは起床し、買い置きしておいた黒パンを口に放り込み、台所に立った。

 ヴェインが起きる前にミルクを小鍋に入れて温めておかなければならないからだ。


 ミルクは山羊のものを使う。

 これはパーシルがよくひいきにしている市場のおばちゃんから「赤ちゃんには、これ」とアドバイスされたものだ。


 飲ませるときにはひと肌程度に温め消化しやすいようにしなければいけないが、母乳の代替として優秀なので、この山羊のミルクは今のところヴェインの主食として活躍していた。


 鍋の中のミルクがコトコトと沸騰しはじめたのを確認したパーシルは鍋を火から離す。

 ヴェインに飲ませるためにミルクがひと肌程度まで冷めるのを待つと、そろそろヴェインが起きるころあいになってきた。


 パーシルが寝室に戻ると、ヴェインは赤ん坊用のベッドの上で静かに目を覚ましていた。

 じっと天井を見つめるヴェインの姿ははなかなかの貫禄である。

 将来は大物になりそうだ。


――まあ、異世界転生者だとすれば、それはそうか。


 パーシルはすかさずヴェインを抱え、食事用のテーブルまで移動することにした。

 本来、この時期は赤ん坊は母親からの母乳で育つのだが、それができないパーシルは、ミルクを沸騰させた後、ひと肌に冷まし、布にしみこませてからヴェインの口元に運ぶという方法で食事を与えていた。


 ヴェインは布を口に含み、あむあむと口を動かしながら器用にしみこんだミルクを吸っていく。


「ヴェイン……もう少しペースをあげられないか?」


 しかし遅い。

 ヴェインの食事は驚くべきスローペースだった。

 生まれて間もない赤ん坊は歯がなく、口の力もさほど強くはない。それゆえ口で布をからミルクを絞り出すという作業は実に困難なのだ。


 ミルクを飲みきる時間がかかるほど、それはパーシルの負担になっていた。


 それはヴェインが生まれたばかりのため、まだ首がすわってないのが原因だった。

 自力で首を起き上がらせることができないヴェインは、横になりながらミルクを飲もうとすると必ずむせかえってしまうので、ヴェインがミルクを飲む時間はずっとパーシルがヴェインのことを抱きかかえていないとならなかった。


 パーシルは剣を振り回し、魔物と戦う冒険者であり、力には自信があった。

 だが落としたら死んでしまうかもしれない赤ん坊を抱える筋力と、剣を振るう筋力は全くの別物であった。


 常に落としてはならない緊張感に加え、軽いとは言えない赤ん坊を抱えた状態のキープ、ミルクを与えるたびにパーシルは必要以上に体力を使わざるをえなかった。


 実に40分ほどかけ、おなかが満ちたのかゲップをしたヴェインはうとうとと眠ってしまった。

 あまりに気持ち良さそうに眠るので、パーシルは寝室に戻りヴェインをベッドにそっと置くことにした。


――しかし、なぜあんなにゆっくり飲むのだろうかミルクがまずいのだろうか?


 パーシルは残っていたミルクを小指でちょんと付け、なめてみる。

 特筆するほどまずい味はしないが、なんだか口の中に張り付く感じがあり、パーシルは少し飲みにくさを感じた。


――確かにこれは仕方ないか。

 

 朝のミルクやりを終え、椅子に座ったパーシルは次の瞬間、異臭を感じた。

 それは小魚をいぶしたような、発酵したミルクのような臭い、ここ何日か、育児を始めてから嗅ぎ慣れた悪臭であった。


「まさか」


 パーシルが急いで寝室へ戻り、ヴェインに駆け寄る。


「XE3H……」


 ベッドの上には謎の言葉を呻き、顔を青ざめさせるヴェイン。

 何があったのかパーシルが見ると、おむつとして巻いていた布をはみ出し、茶色気味の黄色いアレが、寝床のシーツを汚していた。


「まじか」

「RNJ……PY」


 パーシルは急いでおむつとシーツを取り、水場で洗うことになった。

 

「ふう」


 そうしておむつとシーツを外に干し乾かし、パーシルは再びヴェインにミルクを与えた。


 生まれたばかりの赤ん坊はミルクしか飲めないのだが、ミルクだけだと腹持ちが悪いらしく、ヴェインにはほぼ3時間置きにミルクを与えないといけないのだ。


 どうやら、ヴェインは主張しない性格のようで、やたらと泣くことはなかった。

 ただ、それは良いことだけではなかった。腹を空かせると静かに、ぐったりと弱っていくので、パーシルは四六時中ヴェインに気を配る必要があり、それは彼の精神をごっそり削っていった。


 四十分かけてミルクを飲ませ、また二時間ほどしたらミルクが必要か様子を確認し、必要ならミルクを与えなければならない。

 パーシルは完全にがんじがらめに陥り、ヴェインの世話以外何もできない状況になっていた。


 更にはおしっこや茶色気味の黄色いアレの世話がランダムでやって来る。特にアレが水っぽいときなんか本当に最悪だった。


 そうして昼。この間にパーシルは市場にも行かなければならなかった。

 山羊のミルクは、チーズとかとは違い長期保存に向かないのだ。

 当たり前のことだが、毎日買い足さないといけない。


 パーシルは布の端を結び合わせ輪にして、体にたらした。

 布を広げ作ったスペースにヴェインを乗せ、慎重に市場へと向かう。


 彼が住むティルスター王国では、育児は妻もしくは乳母が行うものが一般的と言われている。


 貴族の一部には異世界転生者がもたらした育児のための特別な道具があり、男性も育児が行えるらしいのだが、冒険者や商人、市民が集まる市場には無縁の話だった。


 結果パーシルの姿はひどく滑稽らしく、買い出しにきた人々がヒソヒソと彼を指さしあざけった。

 だがパーシルはそんなことを気にしている時間はなかった。


 赤ん坊がおなかをすかせれば比較的すぐに母乳を与えられる女性とは違い、パーシルがヴェインに食事を与えるためには、ミルクを買い、家に戻り、火を起こし、ミルクを煮沸し、冷まさなければいけないのだ。

 早歩きで目当ての露店にたどりついた彼は、軽く叩きつけるように代金を置くと、パーシルは店のおばちゃんに山羊のミルクと自分の食べるパンを注文した。


「あいよ~。ところであんた、大丈夫かい? マリーシャさんはどうしたんだい」

「妻は、ちょっと、うちにいなくて」

「あら、それは大変ね。なら乳母とか雇わないのかい? さすがに一人じゃしんどいだろう?」


 パンとミルクを受け取りながらパーシルはおばちゃんの言葉を少し考えたが、ヴェインの表情が弱々しくなっているのに気が付き、慌ててうちへ帰ることにした。


 何とかミルクは間に合い、そして夜。

 パーシルは育児を始めてから殆ど眠ることができなくなっていた。


 ヴェインのミルク事情は当たり前ながら深夜になっても続く。

 なおかつヴェインは空腹でも泣かないことが仇になっていた。


 普通の赤ん坊は腹を空かせると夜でも構わず泣いて親にそのことを伝える。

 だが、ヴェインは泣かないので、声を頼りに目を覚ますなんてこともできず、パーシルは夜の間ほぼ付きっきりでヴェインの食事を与え続けなければならなかった。


 3日眠らずに森の中を歩き続けたことがあるパーシルだが、さすがに毎日まとまった睡眠がとれない事態は耐えられず、彼は日に日に衰弱していった。


 そうして2か月が経った。

 結果、家は荒れた。


 汚れものが散乱し、パーシルは貯金が空になったことを確認し、自宅の床にばたりと倒れた。

 育児という激務の末に、ついに心が折れたのである。

 まあ、もったほうである。

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