第伍幕後 ― 氷筍 ―
変わり果てた里の外れで出会った天狗の若者。霊山斗々烏の真意を確かめるべく、一行は地下洞窟を行くことに、、、
死人還りの都守蒼奘、業丸を継ぐ武官燕倪、幽身であるがこの世に縛られた伯。それぞれが紡ぐ異国絵巻、第伍幕後編。。。
橙の炎が揺れていた。
見上げれば、拒むように聳える壁が迫っている。
凍りついた山稜、その外側を流れる川辺に、車があった。
月の無い宵闇に、白々と浮かぶ川原の石。
茫洋と揺れる焚火の明かりの中、いくつもの影が、跳んだり跳ねたり、忙しい。
野狐である。
細身の体躯を捻っては、足音も無く舞い降りる。
その真ん中に、伯がいた。
袖を翻しては、狐らを追いかけて遊んでいる。
炎に、枝をくべているのは、蒼奘。
夜気に、濃厚な冷気が漂い始めていた。
「、、、、、」
蒼奘が、立てかけていた錫杖に手を伸ばし、やめた。
独特な甘い香りが漂って来たのを、逸早く嗅ぎ取ったのかもしれない。
闇の中、赤光放つ双眸が浮かんでいる。
この程度の闇など、見通せぬはずもない獣のものであった。
その口に、咥えているものがある。
肉置き見事な、雌鹿であった。
前方の茂みの先で、焚火の明かりがちらちらと見えた。
獣は、音を立てる事無く獲物を置くと前肢を伸ばすし、ぐぐぐっ、と背を丸めた。
その目は、新たな獲物を捉えている。
グゴァガガアァ―――ッ
腹腔深くを震わせる、咆哮。
驚いた野狐達が伯に寄り添い、あるいはその体に縋り付いて、固まった。
「ひぃぃいいッ」
茂みが大きく揺れ、焚火の灯りの下に這い出したのは、漆黒の翼を持つ若者。
その上に、朱金の毛並みの巨虎が覆いかぶさっている。
「銀仁、それくらいにしてやれ、、、」
「ああ」
巨虎が、ひどく緩慢な動きで若者の上から退くと、そのまま木立へと入っていった。
蒼奘は、若者に歩み寄ると、その翼を見つめた。
「あ、、、ああ、、、」
涙を滲ませた天狗の若者に、
「無事、逃れた者もいたのか、、、」
手を差し伸べた。
「あ、あなたは、、、?」
「耶紫呂蒼奘。天狐の口利きで、大天狗祇威の末姫の様子を伺いに参ったのだが、、、見てのとおり。この有様に、途方に暮れているところだ」
その手を取って、若者が立ち上がる。
そして無遠慮にもしげしげと白い髪の男を、見つめた。
「人、ですか、、、?」
消え入りそうな声が、問うた。
「死人還りでな。仕事柄、多少、呪術も使う。そなたは?」
「僕は、翠狗」
「では翠狗、大分体が冷えているな。火にあたろう」
衣を一枚出してきて、火の側に座った翠狗に、投げてやる。
「ありがとうございます、、、」
そそくさと肩に掛けると、火にかざしていた手を擦り合わせた。
「あの、、、」
ふと、向かいで狐らに揉みくちゃにされたままの、水干姿の童子に気がついた。
「そこの仔は、あなたの?」
突然の銀仁の咆哮に怯えたせいか、その緊張を隠せず、伯を含めて眼を丸くして、翠狗を凝視している。
「伯と言う。式神とでもしておこう、、、」
「ああ、そうでしたか、、、」
ほっとしたのか、膝を抱え、頬を預ける。
そこへ、皮を剥いだ鹿肉を持った銀仁が直衣を着崩して現われた。
「虎精の銀仁だ。銀仁、翠狗と言うそうだ」
「脅かして、悪かったな、翠狗」
銀仁が、帯に引っ掛けていた枝を蒼奘に手渡す。
ぷっくりと瑞々しい茜色の果粒が、たわわについた木苺の枝であった。
「いえ。僕の方こそ、様子を窺っていたのだし、怪しまれるのは、その、当然で、、、」
生肉のいくらかを狐達に与えると、ようやく解放された伯が蒼奘の元へ。
膝に入ると、摘んでくれた木苺を、口に運んでもらうのだった。
「他に助かった者はいないのか?」
銀仁が、残りの肉を引き裂いては棒に突き刺し、焚火の回りに挿してゆく。
肉が焼ける香ばしい香りが、辺りに漂い始めた。
「恐らくは、、、」
翠狗は項垂れながら、言葉を濁した。
「恐らく?」
「実は僕、今日ようやく風穴から抜け出してきたんです」
よくよく見れば、薄墨色の衣が所々汚れ、擦り切れ、血で滲んでいる。
「いったい何日経ったのか。真っ暗い中を手探りで、水が流れる方に風が来る方に進んで、さっきようやく外側に辿り着いたんです」
誰か仲間がいるのでは無いかと、舞い上がった所に、焚火が見えたのだと言った。
「なら、腹が減っているだろう。まずは、腹ごしらえだ」
銀仁が焼けた肉を差し出すと、翠狗は齧りついた。
よほど、腹が減っていたのだろう。
蒼奘は、短刀で肉を削り取り、小さくしながら伯の口へ入れてやる。
食べなれた魚鳥とは違う、野性の鹿。
「うう、、、」
「良く噛んでから飲み込め、、、」
「んーっ」
けれど、口の中の肉は、中々思うようには噛み切れないようだ。
銀仁は、そのまま生肉の塊を齧っている。
空腹を満たした野狐達が寄り添いあって眠る頃、一息ついた翠狗は、話し始めた。
「今日が二十八日なら、あれは、二十三日の早朝の事です」
霊山斗々烏の山裾には、雪解け水が湧き出す泉が幾つも存在する。
翠狗は、泉の守として親元を離れ、霊山の山裾で一人暮らしていた。
それは里の習いでもあり、十五になった男は皆、持ち回りで水源を守るのだ。
いつものように陽が上る時分には起きて、泉に落ちた枯葉を掻き出していると、凍てつくような冷風が風下から吹き上がって来た。
眼を凝らせば、彼方の木々が白々と凍ってゆくではないか。
とっさに風穴に逃げ込み、渦巻く風の音が過ぎ去るのを待っていたが、程なくして静まり返った時には、凍てつく氷の壁が外界への出口を阻んでいた。
出口を探して暗闇を彷徨い、樹海の地下に張り巡らされた風穴、洞窟を辿り、ようやく出られたのが、まさしく今日であったと言う。
「皆、大丈夫なのでしょうか、、、」
涙を滲ませ、悲痛な溜息をつくその若者。
「翠狗。そなたが出てきたその風穴に、案内してくれないか?」
はっとした翠狗と、ひっそりと沈んだままの銀仁の双眸。
「地に潜ってでも、雫玖菜姫の屋敷へ行かねばなるまいよ」
「ああ、、、」
確固たる覚悟を垣間見て、
「姫様を、皆を、助けられるのですか!?」
翠狗は叫んでいた。
淡々とした低い声音が、それに応じる。
「確実ではない。手を尽くし、足掻いてみるだけだ、、、」
闇色の双眸が、そそり立つ山肌を見上げていた。
「出立は明朝。それまで休んでおけよ、銀仁」
月の無い夜空に、星が、流れている。
夜が今だ、深い。
蒼奘が休む車の下で丸くなっていた銀仁は、炎の側で衣を何枚も纏って休む翠狗を見つめた。
静寂の中で彼の寝息と、群になって眠る野狐達の息遣い、小川のせせらぎが、音と言う音の全てであった。
― あとりは、どこに居るのだろうか、、、 ―
時間の流れが、今日程緩やかで苛立つのも、そうはないと思われた。
ひょっとすれば、帝都の屋敷で目覚めているかもしれない。
そうであれば、どれ程心安いか、、、
だが、あのあとりの事。
この凍りついた大地が、案じている姫の身の異変そのままを語っている。
あとりの気性からして一人、苦しむ姫を残して、引き下がるはずはない。
そう思い当たって、少し頬が、緩んだ。
― あとりらしいか、、、 ―
それが、銀仁の知るあとりであり、銀仁がここに来た理由でもあった。
高揚していた気が落ち少し着くと、待っていたかのように眠気がやってきた。
前肢に、ようやく巨虎は顎を乗せる。
眼を閉じようとしたところで、
「む、、、」
頭上から降ってきた者が、あった。
万一の時にと、空け放たれたままの車の扉から、伯が転がり落ちたのだ。
「ふぁふ、、、」
ふかふかとした毛並みが気に入ったのか、そのまま首を抱いて、瞼を閉じてしまう。
銀仁は、冷えないように伯の体を抱え込むと、その温もりを感じながらまどろんでいった。
翌朝。
一行は、黒々とした口を開ける洞窟の前にいた。
光など届かぬ闇と冷気が、満ちていた。
灯りは、蒼奘が手にした提灯、一つ。
青白い炎が揺れているのは、野狐が一匹宿っているからだ。
残りの野狐は、車と残す事にした。
「勘弁してくださいよぉッ!!また、穴蔵に逆戻りだなんてぇっ」
涙目の翠狗を、喉鳴りが諌めた。
背に伯を乗せた巨虎の姿のままの、銀仁だ。
しぶしぶといった様子で、先に洞窟に入って行くと、銀仁、蒼奘が続いた。
洞窟内に残っている翠狗の臭いを辿れば、少なくとも斗々烏の麓の風穴までは行ける。
地下に這うように伸びている風穴、洞窟。
もしかすれば、里の真下まで行けるかもしれない。
どこかで水が流れるが音がしている。
漆黒の闇の中で、時間の感覚が麻痺する中、
「ここからしばらく下りですんで、頭上に気をつけてくださいね」
翠狗の声音がわんわんと響いた。
巨虎が、身を縮めて縦穴を降りてゆく。
「あぅっ」
その途中、伯が転げ落ちた。
「す、すまぬ」
伯が背にいたのだが、その体の分は考えてなかったらしい。
打った額を押さえながら、伯が憮然とした面持ちで銀仁の尾を掴んだ。
銀仁も、尾をしっかりと伯の手首に巻きつける。
その後を、青い炎に足元を照らされた蒼奘が続く。
しかしその眼差し。
「、、、、、」
どうやら先を行く翠狗の背中を、追っている、、、
どれ程歩いただろう。
狭く勾配厳しい道の先。
広い空間に出たところで、休息を取ることにした。
ピショ・・ンン・・・ピショ・・・ンンン
水が、滴る音が響いている。
その音に釣られ、脇道を覗き込んだ伯は、
「ふぉぉお」
眼を丸くした。
蒼奘が灯りを近づけると、その先に、透明でこんもりとした氷の柱の群が浮かび上がった。
「ああ、氷筍ですよ」
「氷筍、、、」
「岩盤から滲み出した水が、長い時間かけて少しずつ凍ったものです。もちろん、不純物なんて滲み出す過程ですっかり濾過されてますんで、って、、、嗚呼、、、」
言った時には既に手近な氷筍に、伯が噛み付いていた。
「かぅぅ、、、」
固かったのだろう。
蒼奘の元に戻って、袖を引いた。
袖から、小箱を取り出すと、飴を二つ三つ摘んで、伯へ。
飴を齧る音が、響く。
「あの、耶紫呂様、、、」
「なんだ、、、?」
腰を下ろした蒼奘の向かい。
「道中、足掻く方法は、見つかりましたか?」
青白い灯りに、翠狗の不安そうな顔が浮かんだ。
「無い、、、」
「ああ、やっぱり、、、」
項垂れた翠狗に、
「水の流れを辿れば、斗々烏には近づける。少なくとも、このまま進めば風穴の入り口までは行けるだろう。だが、その先にある氷の壁をなんとかせぬ事には、どうにもならぬ、、、」
鬱々とした声音が、響いた。
「氷の壁。都守、先日貴公は、眷族が主を守るために張った結界のようなものと言ったが、、、」
「ああ。言った、、、」
「我らは少なくとも、その主を傷つけに来たのではない。それを、その眷族に伝える事は出来ないのだろうか?」
青い唇が、僅かに吊りあがった。
「無理であろうな、、、」
首に巻いた布を、巻き直しながら、
「姫の身を案じ、医者や術者に診せたら、屋敷が凍った。産まれるのを待つが早いが、その前に里も凍った。眷族に、耳は無い、、、」
「何か、方法があれば、、、」
闇色の双眸が、向かいで氷筍の欠片を齧り、喉を潤す若者を見つめた。
「方法なら、翠狗が知っている、、、」
「な、、、そんな訳ないでしょう?!」
はっとした、翠狗。
蒼奘は、人の悪い笑みを浮かべたまま、だ。
「まるで、この洞窟を知り尽くしたかのように、闇の中でも歩みに迷いが無い、、、」
「そう言えば、辿っていた臭いも、道を外しているような感じでは無いぞ」
銀仁はそこ声音に背を丸め、臨戦態勢だ。
「銀仁様まで、僕を?!」
翠狗が、縋るような顔をした。
「下手な芝居はやめよ。その体温、さすがに天狗と言えども、有り得まいよ、、、」
昨夜、手を取った際の感触は、氷のようだったのだ。
「都守、こやつは、、、」
命じられればすぐにでも飛び掛かるつもりの銀仁に、蒼奘の低い声音が告げた。
「どうやら、刺激したのは、この男らしい、、、」
翠狗は、頭を掻いた。
そして、観念したかのように腰を下ろすと、
「どうしてばれちゃったんだろう。年甲斐も無く、若作りし過ぎたからかな?」
屈託無い笑顔を見せた。
その姿、燐光を放つと、冷気が吹き抜けた。
白く透けた巨躯が、長く長く暗闇へ伸びていった。
目などは無い。
あえて言えば、それは白蛇に良く似た姿をしていた。
「ぬっ」
その鼻先に、巨虎が舞い降りたのは、背に蒼奘と伯を庇ったため。
毛を逆立てる銀仁の背に触れて、蒼奘が前に立った。
「教えてくれ。姫の身に、何が起きたのかを、、、」
「やはり、ただの人ではないね。耶紫呂様、、、」
「話せば長くなる。今は、根を張る氷を溶かさねばなるまいよ」
「その前にその虎、鎮めてくれないかな?」
怯えたふりか、体を縮込ませた。
巨躯が触れたのか、彼方で洞穴の一部が崩れた轟音がした。
それに、更に気を悪くした巨虎が鼻に皺を寄せ、牙を剥いた。
「銀仁、、、」
「しかし、都守。この者のせいであとりは、、、」
「それは結果だ。逸るでない」
伯が、背に攀じ登る。
「ぃんじん、、、」
その太い首に腕を回し、頬を摺り寄せた。
その仕草、温もり。
あとりを、思い起こさせた。
「、、、、、」
銀仁が、観念したかのように地に腹をつけた。
「聞かせてくれ」
蒼奘が、促す。
翠狗の巨体が、再び若者の姿を取った。
「これでも多忙な身でね。冷気寒気を引き連れて、空を行くのが僕の神命。ようやく一息ついたところで、雫玖菜に会いに寄ったのよ」
どこか楽観的な溜息に、伏せたままの巨虎が片目で睨んだ。
「驚いたよ。まさか、僕の仔を宿しているなんてね。思えば、責任も無くは無い。一先ず取り上げとやらはしてやらねばと、凍りついた屋敷に向かえば、この有様。赤子の眷族に追われて、逃げ込んだのがこの穴だ。穴蔵を彷徨ったのは、本当だよ」
「翠狗よ。我らに接触を持ったからには、何か策があるのだろう」
糸のように細まった眸。
翠狗は、薄い唇を吊り上げた。
「本当は、君達が気づいたって事にして欲しかったんだけど」
そう前置きすると、
「その氷筍のもっと大きいものが、この先に在る。それが、里を包む氷の本質だ」
「そこが、屋敷の真下と言う訳か、、、」
「大地を穿ち、吸い上げた斗々烏の雪解け水。水脈が、応えたのだろう。仔は、斗々烏の眷族でもあるからな」
額の辺りを揉みだした。
「随分と、嫌われたものだな、、、」
「天狗族は、斗々烏の民。ここの本質が、それを望むのも無理は無いさ」
「新たな地仙として迎えるか、、、」
「そうしたいようだが、こちらにも都合がある。どのような神命を帯びているかは知れぬが、白帝の拝謁賜らねば、名乗る事は叶わぬ。そちらはどうであった?」
伯が、蒼奘を覗き込んだ。
「、、、、、」
その視線から逃げるように、顔を背ける様を、上目使いで銀仁が眺めていた。
「そういうものなのか?」
ぽつりと呟けば、
「まぁ、眷族として生まれたからには、筋を通した方が、神命を遂行し易い、、、」
闇色の双眸が、翠狗を睨めた。
どこ吹くといった風情で、その人は背を向けた。
歩き出すその背に続いてしばらく、一行は巨大な空洞に出た。
その先に、青白くそそり立つのは、
「あれだよ」
巨大な氷の柱と、氷の天蓋。
「これが、根。あ、近づかないで」
手で制すと、
「さすがに小康状態だけど、上を見ただろ?」
「被害を拡大させたのは、そなただろうが、、、」
「はははは、、、」
銀仁の皮肉に翠狗は、からからと笑った。
凍てつく静謐の中、
キン…キィン…
金属を互いに触れ合わせたかのような澄んだ音が、聞こえる。
水を吸い上げ、それが凍っているのだ。
しばらく、柱を遠巻きに見上げていた蒼奘。
「これは、生半な炎では、融かせないよ」
懐手で傍らに立った翠狗が言った。
「冥府の業火でなら可能だが、、、」
「冥府の縁者だったのかい?」
「ああ。だが、それは焼き尽くすためのものだ。加減が、出来ぬでな」
伯も、ぼんやりとその柱を眺めていたが、
「伯、待てっ」
「ひにゃっ」
襟を銀仁に噛まれ、吊り上げられた。
いつかの怪我を、思い出したのかもしれない。
「雫玖菜姫が、神産みをするのは、いつだ?」
「出てもいい頃なのだけどね。仔が、それを望まぬ内は、腹の中だ、、、」
「いずれにしても、氷を融かし、仔を諭さねばなるまい」
「それにはやはり、眷族としてこうして応じている斗々烏の理解が必要か、、、」
相容れられぬ者同士の悲しさか。
「龍門であるからには、地脈も通っておろう」
龍門。
空を漂う、万物を成す素でもあり源。
龍脈。
それが枝分かれし、大地に根を張るようにして水脈、地脈と繋がる点を、龍門とする。
霊山斗々烏は、その一つである。
「一つ、それに賭けるしかあるまい」
『僕は、この先は遠慮させてもらうよ。この熱気。さすがに、近づく事が出来ないから』
巨虎と蒼奘は、比較的緩やかな岩肌を、下っていた。
翠狗が案内した風穴の一つ。
しかし、そこに立ち込める大気は、異様。
所々噴出しているのは、超高温の蒸気。
鼻を付く硫黄の臭いに、銀仁は気が遠くなりながらも歩を進め、蒼奘は、額に浮かんだ汗を、袖に吸わせた。
ひゅうひゅうと喉を鳴らすのは、巨虎の上でしっかり伯に抱きしめられた野狐。
青白く纏う炎が、唯一の光源であった。
その光が、阻まれた。
「あれか、、、」
靄の向こうに、太い注連縄を結えた見上げる程に大きく丸い岩が、鎮座していた。
「地脈の一端。岩座として祀っているようだな、、、」
「場所を把握していたといい、翠狗は始めからこの岩座を解放するつもりだったのか」
「おそらくな。だが、斗々烏にこれ以上煙たがられては、この地に寒気をもたらすやつの事、都合が悪いのだろう。上手く事が運べは、天狗との絡みもあるしな、、、」
蒼奘が錫杖を鳴らし、岩座に近づいた。
「気が引けるがやはり、余所者の我らが適任か、、、」
「しかし、、、」
銀仁が見上げた先に、逃げ場は無い。
黒々とした天井が、在るだけだ。
「我は構わぬが、、、」
前置きし、銀仁は、
「賭けるものが多すぎやしないか、都守?」
背に乗ったままの伯、その腕に捕らえられ怯える野狐、そして蒼奘を、見つめた。
「何か、助かる策があるのなら、別だが、、、」
「無い」
「悠長な、、、」
さすがの銀仁も、溜息だ。
「今からでも、戻ってくれて構わぬが、、、」
「見届ける。それが、雫玖菜姫を負った私の役目だ」
錫杖の先で注連縄を引っ掛けるようにして引くと、腐蝕が進んでいたそれは、いとも容易く足元に蟠った。
伯が、暴れる野狐を捩じ込んだ。
「あの日、我に生きよと説いた貴公が、捨て身とは、、、」
銀仁が、笑って言った。
禍々しいまでに鋭い漆黒の鉤爪が、岩盤にめり込んでいた。
「そうでもないさ、、、」
蒼奘が、伯を抱き上げる。
青い唇に、刷かれたままの笑み。
「ならば、その笑みに賭けようか、、、」
朱金の体毛が逆立つと、金色の目が、赤々と染まってゆく。
一つ、大きく咆哮するとその身が、岩座に向かって突進。
振りかざした前肢によって亀裂が奔り、その肩でもって砕かれる。
飛び散る石飛礫。
崩れる天井。
そして、内側から轟音と共に亀裂を押し上げたのは、灼熱の蒸気であり、真緋の溶岩であった。
― あとり、、、―
「あ、、、」
声がする。
闇の中、聞き覚えがある、声がする。
「あとり、、、?」
雫玖菜の声。
― あとり、、、―
また、呼ばれた。
「誰じゃ、、、」
確かに聞き覚えがあるのに、思い出せない。
この空間では、問うことしか、できない。
「わらわの名を、呼ぶのは、、、誰じゃ?」
「何も、聞こえないけど、、、」
「この声は、、、誰?」
父であって、母であって、兄姉のもののようで、その誰でもない。
声が、する。
わんわんと、耳腔に蟠る。
「誰かが、ずっと、、、呼んでいた?」
「あとり、大丈夫?」
「誰、、、だろう。ここには、居ない。ここじゃない、別の、、、」
首を傾げ、声を探すが、わんわんとした余韻だけが、残っているだけだった。
ここに来て初めて、もどかしくなった。
「ここは、、、」
― あとり ―
声の主。
その、名。
「そうか、分かった、、、」
「あとり?」
あとりは、雫玖菜の手を握った。
「どうして、気づかなかったんだろう。雫玖菜っ、ここは、夢だ」
「ゆめ、、、」
あとりが、微笑んだ。
「そうだ、そうだ。わらわは、良く夢を視る。それは、そなたも夢の中にあるからなのだ」
「夢、、、わたしは、眠って、、、?でも、どうやって覚めるの?」
「匂いが、するはずだ。何でも良い。土の匂い、雨の匂い、香でもいい」
雫玖菜は、それまで意識していなかったのだが、鼻から息を吸う。
肺腑に深く、
「あ、、、冷た、い?」
空気が、肺を広げた。
雫玖菜は、胸を押さえた。
もう一度。
「なんだろう、これは、、、木の香り、、、?」
「体は、在る、、、」
「あ、、、」
何かが、小さく欠伸した。
胸を押さえていた手を、雫玖菜はそこに当てた。
下腹部から、布地を通して光が漏れている。
「あたたかい、、、」
そっと擦りながら、眼を細めた。
その存在を意識すると、安堵のような幸福感が、全身を包み込んだ。
記憶が、奔流となって押し寄せる。
「あ、、、嗚呼、、、」
ぽろぽろと零れた、涙。
涙の意味が、そこで知れた。
「ずっと一緒だったのに、ごめんね、、、」
その存在を確信した時、不安で不安でどうしようもなくなって、訪れぬあの人を恨めしくも思った。
「だから、わたしはここに閉じこもった、、、」
手の下で、光が、揺れる。
それを望み、仔は応えた。
「あなたも不安だったのね、、、」
穏やかな、光であった。
「待っていてくれて、ありがとう、、、」
それまで、沈んでいたかのように安定していた体が、浮かんだ。
意識が、戻ろうとしていた。
「あとり」
体が、吸い上げられるように舞い上がる。
「ありがとうっ」
雫玖菜の腕が、強くあとりを抱きしめた。
「雫玖菜」
あとりが、強く手を握り返す。
「あとり。今度会ったら、あとりに空を見せてあげるっ」
「うんっ」
伸ばされた、腕。
繋がれた、手。
指先が、離れる。
雫玖菜の体が、靄の中へ掻き消えてしまった後も、あとりはしばらくその先を見つめていた。
やがて、一息吐くと、眼を閉じた。
「父上、母上、銀仁、、、今、帰るから、、、」
その日、霊山斗々烏の上空には、靄が立ち込め、一日中晴れる事は無かった。
翌日、凍てついた大気は陽気に掻き消え、一斉に芽吹いた木々の新緑は眩しく、遅い春に目覚めた動物達は、我先にとその恵を食んだ。
目覚めたのは、動物だけではない。
氷に呑まれた天狗族達は身に降りかかった異変を知り、そしてそれが過ぎ去った事実に沸いた。
大天狗と長老らは、雫玖菜の身に起きた事実に動転しつつも、霊山斗々烏の示した神威を真摯に受け止め、眷族の理解に勤め、奔走する事となった。
霊山斗々烏の麓にある、軒廂を長くとった神明造りの社殿。
四角に建てられたその中央には、底知れぬ闇が嵌め込まれていた。
屋根は無く、空が覗く。
そこから見上げる空は、底と同様、深い闇が続いていた。
その間に浮かんでいる者が、居る。
白い水干が、靡いていた。
こぽ…こぽ…
可憐な唇から、空気の球が舞い上がった。
伯である。
まるで水中の中にいるかのような錯覚さえ、覚えるに違いない。
しかし、一行は風穴で灼熱の溶岩流に呑まれたはず、、、
「地脈、水脈、龍脈、その線が交わっての点、龍門。いわばここは、神の道。浄域と言っても過言ではない」
低い声が、鬱々と告げた。
中央への闇へと続く階段に、杯を手にした男が座っていた。
臙脂に染められた羽二重の着流しに、銀糸の髪が流れている。
「その浄域で、夢見心地じゃないか。あまり良い環境で、過ごさせていないと見た」
視線の先に、
「はぁ、、、んん、、、」
とろりと瞳を潤ませ、短く呼吸を繰り返す、伯の姿。
「中々に、忙しくてな、、、」
「それで、手っ取り早く、ここを貸せと迫ったのかい」
懐手で現われたのは、呆れたような声音の主。
翠狗であった。
相変わらず、天狗の若者の姿をしている。
「挨拶回りは、終えたのか?」
「まぁ、、、」
「男前が、上がったな、、、」
その手に杯を持たせ、酒を注いでやるのが、蒼奘。
「当代大天狗は、気性が荒くていかんよ」
一息に飲み干した翠狗は、左頬を擦りながら肩を竦めて見せた。
「仔は、どうした?」
「母子共々、もう少しそのままでいたいそうだ。取り上げは、いつになる事やら、、、」
「そうか、、、」
「すっかり、萱の外さ」
霊山斗々烏は地脈でもって、仔に従った水脈を宥め、里を氷の結界から解放した。
地脈が仔に従い、新たな地仙として迎えるつもりであったのなら、天狗族は炎に呑まれていたのかもしれない。
「まぁ、これで晴れて、互いに忍ぶ仲でもなくなったのだがね、、、」
「そうか、、、」
「そういえば、虎精の姿が見えないようだけれど?」
「先に都へ戻った。その主、雫玖菜姫と共に夢路にいた、人の姫だ」
「まったく僕ときたら、随分と世話を、掛けてしまったんだね、、、」
反省しているとは思えぬ、口調であった。
「いつまで、その姿でいるのだ?」
「似合わないかい?気に入ってるんだけどなぁ」
「ああ。どちらかと言うと、腹立たしい、、、」
苦笑しつつ、腕の辺りを擦る。
「正直、斗々烏が手加減してくれたからいいようなものの、当分は、神体には戻れぬ。次の神命までもう少しあることだし、それまでこの里で養生するさ」
溶岩流に呑まれる寸前、一行を呑み込んだのは、白蛇の口であった。
翠狗が身を挺して、地上へと運んだのだった。
「つまらぬ意地で、未来永劫、冥府で世話をしてもらえなくなるよりは、ましだろ?」
流し目の先で、男は、無言で杯を口に運んだ。
空になった蒼奘の杯に、翠狗は、瓶子を傾けた。
「白帝には、どう説明するつもりだ、、、?」
闇色の眼差しの先で、
「ふぁぁあ、、、」
青紫の輝きが、揺れていた。
霊紫。
それがゆらゆらと舞い上がるのを眺めながら、
「何とか、言いくるめるさ、、、」
どこか晴れ晴れとした、翠狗の顔が、そこにあった。
ぼんやりとテレビを見ていて、氷筍の特集をやっていた。すぐに、それをネタにしてみた。案の定、そんなものも、言葉も、知らなかったんだけどね。