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第伍幕前 ― 夢袷 ―

 北の龍門を守る大天狗祇威が、都守の屋敷を訪れた。その末娘の身に起きた怪異を探るべく、蒼奘は伯と共に霊山斗々烏へ向かう、、、


 死人還りの都守蒼奘、業丸を継ぐ武官燕倪、幽身であるがこの世に縛られた伯。それぞれが紡ぐ異国絵巻、第伍幕前編。。。

 刹那は、騒々しい。 

 庭の片隅で鳴く羽虫はむしの声。

 朝を謳歌する鳥の羽ばたき。

 荷車が行く往来の音。

 刹那が、眩しい。

 行き交う雲の流れ。

 彩変える空の顔。

 頬に触れる風の囁き。 

 それは、まだ陸に上がって間もない去年の神無月の事であった。

 伯は、ひとり。

 欄干に腰を下ろしていた。

 茫洋と、視線を庭に落としてはいたが、持てる全ての感覚を研ぎ澄ました“目”が、全身にあった。

 息を吐くたびに移ろう今を、懸命に、その不慣れな体に同調させようとしていたのかもしれない。

 いつの間にか、白々と明けた空。

 鮮明に、雲がその輪郭を現した時。

 ぴくり…

 投げ出されていた手指が動いて、伯は空を見上げた。

「、、、、、」

 弾かれたように身を捩ると、垂らされたままの御簾をくぐった。

 屋敷の最奥にある主の。寝所。

 一段高くなったしとねに、白い人影が横たわっている。

 伯は構わず、その上に舞い降りた。

  額に、ひんやりとした手。

 蒼奘そうじょうは、重い頭を擡げた。

 燕倪と過ごした昨夜の深酒が、残っていた。

 うっそりと眼を開けば、腹の上に伯。

「どうした、、、?私は、朝が苦手だと、、、」

 体を捩り、再び眠りに就こうとすれば、今度は、長く白い髪を引っ張られた。

「何だ、、、」

「ん」

 伯の顎が動いた。

 御簾の先。

 塀に添って植えられたのは、たわわに実を結び甘く香る、榠櫨かりんの古木。

 ほんのりと黄色く色づき出した、楓。

 その根元でつつましく揺れるのは、朝露を結んだ竜胆の青紫と桔梗の青。

 見慣れた庭に、人影があった。

 まだひんやりとした朝霧の中に、漆黒の羽を持った大男。

 その向こうに、幾人もの屈強な若者が膝を折って控えた。

「何だ、物々しい、、、」

 うっそりと上半身を起こすと、

「突然の非礼、お詫び致す。都守」

「まったくだ、、、」

「ぁぁぅ、、、」

 共に出て来ようとする伯に、頭から掛け布を掛ける。

「其処にいろ、、、」

 目を細めつつ、

「霊山斗々れいざんととうの天狗が、一介の都守に何用だ、、、?」

 不機嫌極まりない物言いで、腕を組み、柱に凭れ掛かった。

俄かに殺気だった屈強な男達を、手で制すと、巌の如き体躯の男は膝を付いた。

「その龍門を預かる祇威ぎいと申す。この度、貴殿にどうしても診ていただきたい者がおる」

  漲る鬼気とは対照的に、ひどくやつれた顔をしていた。

「所詮、私は人の身だ。地仙ちせんの頼みとは言え、出来ぬ事の方が多い」

「幽世の深淵、この世の最果てを知る貴殿にしか判断できぬのだ」

「どこで聞いた?」

 不機嫌この上なく、細まった闇色の双眸に、

「先程、そこの天狐に。古い知り合いで」

「天狐か。同じ流れを汲むのであったな、、、」

 溜息が、煩わしいとばかりに青い唇から漏れた。

「そうと言ってもこの体、借物でな。理により生半な事では脱ぎ去れぬように出来ておる。人の目で、果たして何が視えようか、、、」

「とにかく、我々と共に来て頂きたい」

 赤紅の強い瞳だった。

 しばらくその眼差しを受け止めていたが、目を伏せた。

「こうも厄介事が、舞い込むとはなぁ、、、」

 自嘲気味に歪む、唇。

 平素その厄介事を持ち込む相手、燕倪の顔が浮かんだ。

「そこを押して、どうか、、、」

「断る」

 あっさりと言いのけて、

琲瑠はいる汪果おうか、丁重にお帰り願え、、、」

 予期せぬ空からの来訪者に戸惑う使用人へ、命じた。

「ま、待ってくれッ!!娘の命が掛かっているんだッ」

 悲痛な叫び。

 しかし当人はさっさと御簾を上げ、褥に戻ろうとして、

「伯」

 腰に、細い腕が回った。

 澄んだ菫色の瞳が、興味があるのか焦点を結んで、

「れぃざん、、、」

 見上げてくる。

「、、、、、」

 その眸に、何を見たのか、、、?

 伯の頬を、親指で擦ると、

「いいだろう。その代わり、こちらも条件を出すぞ、、、」

 人の悪い笑みを、端正な口元にいたのだった。

 

 半刻の後、二人は身支度を整え、牛車に乗っていた。

 否、正確には牛車であっても、空に在った。

 屈強な天狗の若者達が、車を轢いているのだ。

 北へ。

 人の世においては、未開の地とされる更なるその深み。

 緑深い山々が眼下に延々と広がる中、伯は物見ものみから突き出していた顔を引っ込めた。

「むぅ、、、」

 頬に手を当てて何やら呻く伯の手をどけ、指の背で触れる。

「冷えたのだ」

 随分と帝都を離れた事だろう。

 上空だけあって大気は冷たいが、汪果が急ぎ火鉢を蔵より出してきて持たせてくれたため、幸い車の中は温かかった。

 大人しく膝に入った伯は、蒼奘の手によって蘇芳色の布を首に巻かれる。

 その様子を腕組みしたまま向かいで眺めるのは、大男。

 祇威。

「んん」

 頬の異変が収まると、再び物見に向かう華奢なその背中。

 肩膝を立てその上に肘をつき、前髪をかきあげた姿勢のまま、闇色の眼差しを向けるのは、蒼奘。

 しばらく、伯の背中を眺めていたが、

「話せ」

 沈黙に低く、呟いたのだった。

 

 祇威が語ったのはこうだった。

 三月程前、末の娘、雫玖菜姫しくなひめが病に倒れた。

 特に症状などから、風邪か何かだと思っていたのだが、一向に直る気配がない。

 熱は無く咳が続いたが、苦しがる事もなく過ごしていた。

 養生を続け三月程して、咳に白いものが混じるようになった。

 当人も心当たりは、無いと言う。

 よく見れば、それは霜であり、日に日に氷の欠片となった。

 八百万神がかかると言われるありとあらゆる医者を呼んだが、一向に首を捻るばかり。

 その内に姫の体温は下がり続け、眠ったままの状態が続いた。

 今月の初め、体の表面には氷が張り、見る見るうちに姫が養生していた屋敷一つ、凍りついた。

 誰も近づく事叶わず、屋敷は氷の支配下に置かれたと言う。

 目下、縋る者も絶え、誰ぞ、と昼夜重鎮連中と額を寄せ合っているところに、噂を聞いたのか天狐遙絃てんこようげんから連絡が来たと言う。

 

 霊山斗々烏。

 峻険な墨色をした岩山で、その頂は常に雲に隠れ、それだけ見れば天を支える柱のようにさえ見える。

 対して山裾は、なだらかに伸び、豊かで緑が深い樹海が広がっている。

 また、霊山の周囲は切り立った山稜が連なり、空からではなければ成る程、訪れる事は出来ぬであろう。

 天狗は、山稜を自然の要塞とし、樹海に氏ごとの里を拓き、暮らしている。

 その里の一つ。

 天狗族の一切を取り仕切る大天狗の屋敷から、少し離れた熊笹生い茂る静かな場所に、その屋敷はあった。

「ほぅ、これは見事な、、、」

 思わず感嘆の溜息。

 それは、そのまま氷に抱かれていた。

 眼を凝らせば朧気に、屋敷が氷の中に窺える。

 行く手を阻むかのように、寒々と突き出した氷の棘は、複雑奇怪に絡み合い、門に近づくことすらできぬ有様。

 透明なその氷は分厚く、周囲に渦巻く凍てついた大気が、来る者をことごとく拒んでいた。

「姫の他に、残っている者は居ないのだな?」

「凍てつく大気に、屋敷の外に追いやられたと」

「一同、成す術なく逃げ出したと言うわけか、、、」

 その太い幹の一つに近づき、蒼奘は手を置いた。

 そのまま触れ、しばらく、

― これは、、、 ―

 微かに感じ取れるのは、震動。

 そして、

「屋敷がこの状態に成って、何日目だ?」

梶女かじめ

 腰を低くした年配の女が、震えながら口を開いた。

「八日目でございます、、、」

 居並ぶ者は、一様に憔悴しきった様子。

 この有様。

 姫の安否は、諦めているのかもしれない。

「一日にしてこの有様か?」

「いえ、最初は、姫様の寝所が凍りつき、その翌日に母屋。庭、塀へと、広がりまして、今日のような状態に落ち着きましたのは、一昨日の晩でございます、、、」

 現在、一先ず凍結は、落ちついているようであった。

「斗々烏の意思か、それとも、、、」

「どうなのだ?!」

「ふむ。とにかく、姫のものではないように感じるが、、、」

「やはり、雫玖菜をこのようにした者が潜んでいるとッ?!」

 怒りで声を震わせる大男に、

「そこまでは、まだ分からぬ。言っただろう。今の私は人に等しい、と、、、」

「ぬ、、、」

 俄かに険しくなった視線の先、急くなとばかりに柳眉を寄せた、美丈夫の姿。

「今の私には、限度があるが、、、」

 傍らに視線を落とせば、

「伯、どうだ、、、?」

 それまで、蒼奘の衣の袖を握ったまま爪を噛み、じっと、氷の向こうを凝視していた伯。

「ちぃさぃ、おと、、、」

 ぽつりと呟く。 

 どうやら伯の耳には、微かな心音が聞こえるらしい。

「そうか、、、姫は生きているか、、、」

「な、なんとっ」

 どよめきとも安堵とも取れる声が、各方面からこぼれた。

「入れるか、、、?」

「、、、、、」

 ふわり。

 一歩前に進み出ると、伯が切っ先の一つに触れた。

 が、次の瞬間。

「ぁ」

 拒絶して、突き出した。

 咄嗟に蒼奘がその襟を力任せに引き寄せたが、伯の右頬に、微かに朱が刺す。

 菫色の瞳が、赤みを帯びた。

「伯」

「ふっ、ふぅッ」

 小さな犬歯を剥く、伯。

 腕を跳ね除けようとする伯を、羽交い絞めにし、

「落ち着け、、、」

 そのまま小脇に抱えると車に連れて行き、閉じ込めてしまった。 

「生きているのなら、未だ私の管轄か、、、」

 蒼奘、いつの間にやら手に札を持っている。

 札には、赤い墨によって、大きく楕円形が描かれていた。

「祇威よ。少し、氷を砕いてくれぬか?」

「雫玖菜の命には、、、」

「関わらん、、、」

― 恐らくな、、、 ―

 祇威は、腰に提げていた幅広の大太刀を抜いた。

 鈍く輝くその太刀を反すと、柄に結ばれた浅葱色の房が、揺れた。

 峰でもって突き出した氷柱を一つは、叩き割られた。

 大地に砕け落ちた氷柱は、次の瞬間、新たな切っ先を再生させていた。

 それは何度と無く、助け出そうとした眷族によって繰り返された光景であった。

「どれ、、、」

 手の平で包める大きさの氷を一つ拾うと、

「緋皇」

 金色の輝きを帯びた褐色の肌を持つ鬼神が、現われた。

 主人の差し出す欠片を受け取ると、そのまま握り締める。

 程なくして滴り始めた雫を、札が受けた。

 札がぐっしょりと濡れると、手からひとりでに離れ、氷の壁に吸付く。

 そして、そのまま易々と擦り抜け、門の梁へ。

 もう一枚取り出すと、己が左目を覆うように張り、指先を齧った。

 血の玉が結ばれると、左目を覆った札の楕円に色を入れた。

 すると梁に張りついた札の楕円形の中心にも紅が滲み、目玉となった。

 二つの目玉が、揃って蠢いた。

「おお」

 しばらくその具合を確かめた後、一行に背を向けて座り込み、

「蒼奘殿」

「黙っていろ。これより時間軸を離れ、遡る、、、」

 右目を、閉じた。

 

 脳裏に飛び込むのは、門の記憶。

 想いであり、念でもある、想念だ。

 産まれ出でた純粋なそれは、記憶するもの。

 そして、宿るもの。

 写真のように、断片的。

 今、色を纏っては、目の前を過ぎってゆく無数の記憶の欠片を手繰り、繋がる糸口を探す。

 

「ふむ、、、面妖な、、、」

 山裾に太陽が沈む頃、蒼奘は札を剥がしつつ立ち上がった。

「一体、何が?」

 裾を払うと車に向かう。

「ん、、、」

 待ちくたびれ、蒼奘の長衣に包まって丸くなっていた伯が気づいて、縋りついてくる。

 それを抱きかかえ、さっさと車に乗り込んだ。

「姫は、神産みの最中だ、、、」

「な、んと、、、?!」

「人目を気にして夜半、出入りする姫の姿が視えた。よくよく目を凝らせば、何やら腹にて蠢く輝きが視えた」

「神産み、、、雫玖菜が、ややを、、、」

「ただの神では無い。この冷気。どうやら霜月の神、白帝が眷族の子だ。覚えは無いかね?」

「な、い、、、」

「姫の大事、と見境が無いのに、何も知らぬが父親と言うものか、、、」

 小声で呟きつつ、鼻で笑うと、

「産まれてしまえば、母体は回復に向かうだろう。まだ、先のようだがな。その時が来れば、私も立ち会おう、、、」

 柔らかな群青の髪を梳く。

 手指に絡みつく、その感触を愉しむ男に、

「何か、出来ることはないのか?いったい、どうすれば、、、」

「放っておけばいい」

「しかしっ」

「いらぬ刺激で、屋敷が凍った。これ以上、騒ぎ立てぬが肝要。いずれにせよ、産まれてしまいさえすれば、神送りをすることもできようよ」

 神送り。

 在るべき所へ、神がその産まれた意味を自覚し、自らを神と名乗る儀式のようなものだ。

 びくり、、、

【神送り】の音に、微かに震えた伯。

 蒼奘は、その肩に手を置いた。

 そして、

「ただし、其を望めばな、、、」

 力を込めて衣の袂を握る幼い手に、眼差しを注いでいる、、、

 

 

               ※

 

 

 気がつくと、闇路やみじを歩いている。

 ぬるくもあり、ひどくなつかしくもあり、それでいて薄気味悪い。

 居心地だけで言ったら、けして悪くは無いのに、記憶はかすみがかかって、過去がそっくり抜けていた。

 あるのは、今。

 それと、ここで過ごした記憶だけだ。

 ここで足を止める場所も、決まっている。

 闇路の先で、すすり泣くその女の元だった。

 どうやってここに辿り着くのかは、分からない。

 けれど、確かな事は、一つ。

 それはもう何度も、この地に足を踏み入れているという事。

「どこか、痛むのか?」

 その日も、女童は袂で顔を覆うその女の前で、しゃがみ込んだ。

 この闇路には、光源など無いとのに、その人の容姿をはっきり見て取れる。

 長い鴉羽色からすばいろの黒髪はちゅうをたゆとう。

 雪よりも白く、透けるような肌。

 淡い縹色はなだいろに、浅葱、藤色を重ねた寛衣を華奢な体にゆったりと纏っている。

 一見、異国の姫の風情であるが、その背には海松色みるいろの翼があった。

「いいえ、、、ただ、哀しくて、、、」

 涙を袂に吸わせて、女が貌を上げた。

 額に金の吉祥紋を頂いた、蜂蜜色の双眸深い、美しい姫であった。

「哀しい?」

「ここに来て、とても長いようにも感じるのに、とても短いようにも感じるの」

「わらわもじゃ。ついさっきここに降りたような気がするのに、随分と長居しているようにも感じる。ここには、無限の安らぎがあるが、それだけだ。ひどく、虚しい、、、」

 女童は、溜息。

 身近にあるのに、ここに居る時は、“ここ”を“それ”だと、気づけぬ場所でもあった。

「でも、わたしはあとりに会えて、すごく嬉しかった。だってずっとここで、一人だったから、、、」

「わらわも、だ、、、」

 女童、あとりは、照れたようにはにかんだ。

 自然と女も、微笑んだ。

 けれど、それも束の間。

 すぐに暗く沈む、その表情。

「雫玖菜?」

「あとり、、、わたし、ずっと、思い出せないの。どうして哀しかったかのか、どうしても、、、」

 その溜息に、

「なら、ここから出ればいい。すべて、思い出すかもしれない」

「それが、怖い。もし、思い出したくない事だったら?嗚呼、きっとわたしはここに長く居すぎてしまったのね、、、」

「雫玖菜、、、」

 あとりは、その人の隣に腰を下ろした。

「呼びたい名前も、以前はあったと思うのに、思い出せないの、、、」

 大切な人の名。

 再び、頬を伝う涙。

 雫玖菜は、あとりの手前、慌てて袂で拭った。

「それに、どうやって、ここから出るのかも、、、」

「実はわらわもじゃ。気がつくとここに居て、気がつくとここを出ている、、、」

 からりとした、あとりの声音。

「だから、今回は雫玖菜が戻る時に、一緒に戻ろうと思うのじゃ」

 その声は、快活そのものであった。

「本当に?」

「ああ。それを今日は、言いに来たのだ。こんな薄暗いところでは、わらわもそなたも一人では心細い。だから、一緒に居よう」

「ええ、あとり。約束よ」

 雫玖菜の手が、あとりの手に触れた。

「約束、、、」

 あとりが、その手を握り返す。 

 その温もりが、今は、何よりも心強い。

 

 庭の池では菖蒲の蕾が脹らみ、しとしとと甘い雨が波紋を刻んでいた。

 小さな雨蛙は浮き草の上で休んでは泳ぎ、薄墨色うすずみいろの鯉がそれを狙って大きな口で追いかける。

 柳や楓、梅に椿、青々と芽吹くその庭で、気の早い紫陽花の青と蔓薔薇の紅が、鮮やか。

 梅雨にはまだ少し早い、皐月のある日。

 庭の阿四屋あずまやに運んだ長椅子で、汪果が爪弾く月琴を聞いていた男は、物憂げに眼差しを向けた。

 その先に、渡り廊下の欄干に座り、屋根から滴る雫を素足で弾く伯の姿。

 菓子にも飽きて、ここ数日降り続く雨にも飽きての、その姿。

「すっかり、人の子のようですこと」

「そのようだな、、、」

 都守が出張るような目立った怪異も無く、燕倪が持ち込む厄介事も無い。

 平穏過ぎるのが、伯にとっては却って退屈なのかもしれない。

 かつては見るもの全てが真新しく、それに感情がついて行かなかったのだが、最近ではそうでもない様子。

 相変わらず口を使う事は少ないが、身支度など、琲瑠が手伝わずとも自分でやってのけてしまう。

 それが、琲瑠には少し寂しいらしい。

「伯、、、」

 名を呼ばれて、振り向く。

「髪紐が、解けている、、、」

「ん、、、」

 そのまま歩いて来て、蒼奘の膝に、腰を下ろした。

 群青色の髪に纏わりついている浅葱の組紐を手に取り、結いなおす。

 華奢なその背の中程まで伸びた、髪。

「雨が止んだら鋼雨を連れ、野駆けに行こうか、、、」 

 菫色の眸が、見上げてくる。

― エンゲ、も、、、? ―

 そう、言っている。

「ああ。あやつもお前と同じで退屈していよう。誘おう、、、」

「ん、、、」

 こくり… 

 頷くと、足をぶらぶらとさせる。

 その手に青磁の薄い杯を持たせた時、伯が鼻を鳴らした。

「いぃんじん、、、」

 山野草の植わる小道から、傘を差した長身の男が、姿を現した。 

「珍しい事もあるものだな、、、」

 青い唇を歪めた、蒼奘の向かい。

「人らしく、色は変えて、歩いてきた」

 身震いすると、その黒髪と眸が変化する。

 背に流した朱金のばさらの髪。

 彫深い容貌。

 そして憂いを帯びた、金色こんじきの双眸。

 異形の姿だが、今日は蝉の羽の襲目色で合わせた直衣を、纏っていた。

 傘を、汪果に預けた銀仁が腰を下ろすと、伯が左右に首を傾げる。

「そうではない、、、」

 杯を持ってきた琲瑠と、月琴を爪弾いていた汪果が、無言で席を外した。

「散策にしては、幼き主人の姿が無い事よ、、、」

「、、、、、」

「まあ、まずは一献、、、」

 眼を伏せた銀仁の手に、杯を持たせると、瓶子を傾けた。

 淡く紅色に色づいた酒が、注がれた。

「去年摘んだ山桜桃ゆすらうめを、汪果が漬けていてな。昼間出される酒は、薬酒ばかりだが、これはまだましな方だ、、、」

「頂こう」

 口に含むと、仄かな酸味が広がった。

 その鬱々とした顔を見つめ、

「胃腸の調子を整え、疲労に効くそうだ、、、」

 珍しく効能などを口にした。

 しばらく、舌から消え去ろうとする酸味を探していた銀仁は、吐き出すように問うた。

「夢から覚める薬酒は、無いものだろうか、、、」

 

 帝都の艮。

 北東に在る陰陽頭おんみょうのかみ天羽充慶あもうじゅうけいが、屋敷。

 高い塀に囲まれた重厚な寝殿造りのその屋敷は、雨に煙っていた。

 門を潜って右正面にまず、池のある広大な庭が広がる。

 奥へと伸びる母屋の東には、住み込みの弟子達のための長屋があり、当主が住む北側から渡り廊下で結ばれた西側に、妻子のための住居が設けられていた。

 出掛けていた銀仁が戻ったと思えば、

「邪魔をするぞ、、、」

 その背に続いて、もう一人。

「きぅぅ、、、」

 さらに、もう一人。

「これは、み、都守?!」

 出迎えた若衆の異変に気づき、急ぎ現われた侍女長は、流れる白髪の主に、言葉を失った。

 かつて、当主と旧知の仲であった先代都守と共に、この屋敷を訪れていた耶紫呂蒼奘の面影は、無い。

 怜悧な闇色のその眼差しに射抜かれれば、身を強張らせ、

「今日は、あとり姫の見舞いに罷り越した、、、」

 白い髪を背でゆったりを結い、青柳の襲目色の直衣を纏った蒼奘が水干姿の連れを従え、銀仁と共に颯爽と歩み去るのを、見送ることしかできず、、、

 

「これは、、、」

 あとりの寝所に向かう渡り廊下。

 鼻腔を突いたその香りに、覚えがあった。

 木瓜、紫蘇、赤箭、鼠麹草、山吹、松藤、白英、杜仲、王瓜根、熊柳、紫苑、蓮子らを焚いたもの。 

 蘇生香。

 そして聞こえるのは、朗々と響く男の声。

「嗚呼、銀仁っ」

 単衣を纏った初老の女が、若い侍女に支えられ、佇んでいた。

「今、充慶様が祈祷を始めてくださり、、、でも、もし、あとりが眼を覚まさなかったらっ」

「落ち着いてくだれ、つつら殿、、、」

 その傍らを、蒼奘は通り過ぎた。

 縋りつくあとりの母を支えたまま、見送った先で、

「み、、、都守ッ」

 蒼奘が、閉じられたままの板戸を、勢いよく開け放った。

「今すぐ止められよ。その魂、夢路を永遠に彷徨うぞ、、、」

 

 紫煙で煙る寝所。

「今、姫の魂魄を繋ぐものは、眠るこの器。無理に起しでもして、その繋がり途切れれば、それこそ一大事」

 横たわる娘の傍らに座していた男は、声の主の姿に眼を細めた。

「蒼奘、、、」

 髭を蓄えた初老の男。

「娘の寝所には、誰も近づけるなと言いおいたのだが、、、銀仁か、、、」

「ぁぁ、、、」

 水干の袖が翻り、褥の周りを囲う御簾が跳ね上がる。

「あ、と、り」

 眠る娘の頭を撫でる、幼い手を見た。

 娘と年頃同じくらいの、童。

 黒髪に、眸。

 勾玉の連珠を首に掛けている。

 炯々《けいけい》とした鉛色なまりいろの瞳が、すがめられた。

「式か。かように幼き神霊を、悪戯にこの地に縛りおって、、、」

「、、、、、」

 呟きつつも、その眼差しが和らぐ。

「そなたも、娘を見舞いに来てくれたのか?」

「ん」

 こくりと頷いた。

 童の頭を撫でると、大きな眸が見上げてきた。

「あとり、寝てる、の、、、?」

 それまで強張っていた表情が、すっかり人の親のそれになっていた。

「ああ。だが、心配ない、、、」

 ほぅ、と小さい溜息。

「充慶殿」 

 申し訳なさそうに戸口に現われた銀仁の姿に、

「この子を想うのは、儂もそなたも同じ、、、」

 充慶は、寝息をたてるあとりを改めて見つめ、昏々と眠るその頬を、擦った。

「都守」

「ああ、、、」 

「心当たりがあるのだな」

 低い声に、

「道すがら、銀仁に一通り聞いた、、、」

 板戸に凭れかかったまま、応えた。

「夢に出たと言う異形の姫。以前、私が預かった姫でな、、、」

「背に黒き翼がある者といえば、倭では北の大天狗が眷族」

「そのままその大天狗が末姫よ、、、」

 腕を組み、雨足が強くなった庭を眺めている。

「あとり姫は、天性の夢見。その異形の姫に同調し、魂と心を、通わせたのであろう、、、」

「しかし、一つ腑に落ちぬ。異形の者が夢で会うた人の子に縋るとは、その姫の心労は、いったい、、、」

「神産み」

「なんと、、、異形の姫が?」

「不思議は無かろう。異形も人も、たどれば天孫。神の末には違いない、、、」

 蒼奘が、柱を離れた。

 充慶の視線に、華奢な背中が映った。

 白い手が、差し出された蒼奘の手を、取る。

「充慶殿、これで失礼する。出産には立ち会うと、大天狗に言い置いていたのを思い出した。恙無つつがなく産み終えれば、あとり姫も目覚める事だろう、、、」

 早く行こうとばかりに伯に、手を引かれる蒼奘に、

「三日してあとりが戻らねば、儂が力ずくで引き戻すぞ」

 充慶が言い捨てた。

 廊下を行くその人の青い唇が、どこか愉しげに歪むのを、微かに視線の端で捉えると、

「好きにされよ、、、」

 低い、その呟きが聞こえてきたのだった。

 

「都守」

 屋敷の門前につけられた牛車。

 琲瑠によって手向けられた傘の下に、乗り込む二人の姿。

 傘も差さずに、走り寄った銀仁の直衣は、雨に濡れて所々色が変わっていた。

「我も、連れて行ってくれ」

「銀仁様、濡れてしまいますよっ」

 慌てて琲瑠が傘を差し向けるのも構わず、

「充慶殿には、都を離れる了承を得た。何かしておらねば、我は、、、」

 苦悩するその顔を、闇色の眸がひっそりと見つめている。

「都守、頼むっ」

 そこには、憂いを帯びたいつもの眸は無い。

 あるのは、まっすぐな眼差しだけだ。

 蒼奘は、一瞥を琲瑠に送る。

 にこりとして琲瑠が車へ、傘を傾けた。

「化生はとにかく、神霊の類ともなれば燕倪では正直、心許無こころもとないと思っていた所だ、、、」 

「都守、痛み入る」

 銀仁が車へ乗り込むと、鬱々とした蒼奘の声が、行き先を告げる。

「天狐の屋敷へ、、、」

 

 帝都の空模様など、どこ吹く風。

 案内に出た女に続いて庭に出れば、そこには古びた屋敷の概観とはおおよそかけ離れた空間が、存在していた。

 降り注ぐ陽光穏やかで広大な草原には、生まれたばかりの子鹿が遊び、猪の子らは親猪と仲良く草花をんでいる。

 一際大きく枝を伸ばした椎の梢では、まだ羽毛が生え揃わぬと言うのに、熊鷹の子らがこぞって羽ばたきの練習中だ。

 その草原の中にぽつりと、阿四屋がある。

 遙絃は、長椅子の肘掛に上半身を預け、薄絹の衣を幾重にも重ねたのを長く床に這わしていた。

 金糸の髪には、桃色の見事な蓮の花簪。

 妖艶な色香を含んだ紺碧の双眸が、今日は一段と潤んで見えた。

「珍しい顔ぶれが揃ったものだ、、、」

 翡翠に染められた長い爪。

 摘んだのは、七宝を散せた煙管。

 丹唇につけて吐き出された煙は、東雲色であった。

「銀仁と、申す」

 両の手を組み合わせ、大陸の礼をした銀仁に、ようやくそこで煙管を置いた。

「遙絃じゃ。長く、この都で地仙をしておる。虎精よ、都守から話は聞いている。まぁ、掛けてくれ」

 蒼奘は、向かいに座った。

 銀仁は、卓を挟んで、二人の間に、腰を下ろした。

 伯は、銀仁の肩に攀じ登ると、その肩越しに、正面を睨んでいる。

 視線の先に、茶器を操る胡露うろうがいた。

「天狐、大天狗から、その後何か連絡は無いか?」

 薄く焼かれた茶碗。

 その温もりを手で愉しみながら、蒼奘は低く問うた。 

「そういえばここ数日、斗々烏からの使いが絶えていてな、、、」

 胡露が遙絃の前に小箱を置くと、極彩色の玉が覗いた。

 遙絃が一粒摘むと、伯へ差し出す。

 ちょっと戸惑いつつ、幼い手がその飴を受け取った。

 透明に透ける、琥珀色。

 すぐにかりかりと音を立てて齧る伯を眺めながら、

「何か兆しがあれば、祇威に参るように言っておいたのだが、、、」

「音沙汰無しと言うのも、やはり奇妙よの」

 遙絃の小さな溜息だ。

「ここ三日。この銀仁が仕える姫が目覚めぬと言うのだ。陰陽頭天羽充慶殿の末姫だ。今月に入って、度々夢で会うていた友の具合が良くないと、言っていたらしい」

「黒髪艶やかな、背に海松色の翼を持つ姫と、、、」

「ふむ。雫玖菜に間違いあるまい。夢路に留まるその孤独に、姫が同調したのであれば、雫玖菜が夢から覚めれば自然とその姫も目覚めるだろうが、、、」

「子が見る夢は異界。その時間軸も、空間も、この世とはまるで異なる。魂が憔悴しきる前に、連れ戻さねば」

「うむ。しかし人の子で、そのように深く夢を渡る者がいるとはな、、、」

 その先を続けようとする遙絃の双眸を、闇色の眸が窘めた。

 微かに唇を吊り上げた遙絃は、茶を含んでそれを隠す。

「いずれにせよ、雫玖菜姫の一件は大天狗より預かり受けたままだ。夢の通い路から戻らぬ天羽殿の末姫のこともある。こちらから出向くしかあるまい、、、」

「ああ、そうであったな。翼無き者では、あの地に足を踏み入れる事すらできぬでなぁ」

 これ見よがしに羽衣を手指に巻きつける遙絃に、

「虎精、鋼雨の足であれば可能であろうが、氷雨に濡れるのがな、、、」

 ぬけぬけと本音。

「ふん、、、元々は私が大天狗に取り次いだと、そう言いたいのであろう?胡露、手隙な野狐やこを、すぐに集めさせよ。車を出すのだ」

 傍らに控えていた胡露が、

「仰せのままに」

 すぐさま、彼方に見える母屋へ向かう。

 歩みは変わらぬのに、見る見る遠ざかる背は、程なくして母屋の中へ消えていった。

 それを見届けて伯は、ようやく銀仁から降りた。

「ヨーゲ、、、」

 その膝に、手。

「ああ、おいで、、、」

 飴が気に入ったのか、遙絃の手に抱かれその膝に入った伯。

「じきに仕度は出来ようよ。それまでは、ゆるりと寛いで行け」

 柔らかい髪を撫でながら、天狐は珍しく目尻を下げたのだった。

 

『私も行きたい所だが、都守もこの地を離れるのであれば、そうも行くまい。その代わりこの車は、自由に使ってくれて構わぬ』

 青い鬼火が、車輪に纏わりついている。

 無数の狐が宿った車輪は、雲を従えて空を駆けていた。

 雨雲の上を行けば、地上の様子とは打って変わって青空が広がり、彼方に白い月が覗いていた。

 カリカリ… 

 奇妙な音がする。

「随分と、気に入ったようだな」

 伯を見つめ、銀仁が言った。

「私も最近気づいたのだがな、伯はどうやら甘いものと言うより、透明なものが好きなようなのだ、、、」

「透明なもの?」

「これでいて、見通せぬ沼や霧を、怖がる、、、」

「それは、嗜好とは関係無いのでは?」

 片眉を跳ね上げた銀仁に、

「味噌汁は飲まん。濁り酒も嫌う、、、」

 隣でおとなしく、飴を齧り続ける伯の肩に、手を置いた。

「そういうものなのか、、、」

 銀仁の呟きに、こくりと頷く、伯。

 外見こそ、有り触れた童子だが、底知れぬ何かを感じさせる蒼奘の式神。

 それなのに、無心に飴玉を齧っている姿などを見れば、少し犬歯が鋭い人の子、そのもの。

「伯は、貴公に仕えて長いのか、、、?」

 思ったことをすぐに口に出し、行動してしまう燕倪に対し、銀仁はどうも奥歯にものが挟まった言い方をする傾向がある。

 蒼奘は、向かいに座る銀仁を一瞥すると、

「うぅ、、、」

 さすがに齧り疲れたのかぐったりと項垂れる伯を、膝に寝かせた。

「出会ったのは、お前があとりと出会う少し前くらいだ。戯れに大地に縛り、戯れに世話を焼いた、、、」 

「戯れに、、、」

「ああ。だが、これから先、式神として使役するつもりも無い、、、」

「では、何故?」

 うとうとする伯の髪を撫でながら、

「私にも分からん、、、」

 蒼奘は自嗤気味に、唇を歪めた。

「む、、、」

 猫のような、鼓膜に甘く纏わりつくような鳴き声が、外でした。

 野狐達のざわめきだ。

「あれは、、、」

 弾かれたように、物見から顔を覗かせた銀仁が見たものは、

「雪?いや、氷か?」

 天高く聳え、頂を雲で隠した霊山、斗々烏。

 異変は、その中腹にあった。

 峻険な霊山の中腹から、とたんになだらかに伸びるはずの麓。

 そのまま広がる樹海はやがて、ぐるりと霊山を囲むように伸びる切り立った山脈そのもので、外界と遮断されているはずだった。

 それが、凍りついていた。

 初夏も間近だという、こんな時期に。

「麓の里はこの様子では、、、」

「、、、、、」

 その圧巻の様に言葉を失う銀仁をそのまま、車内では外の様子など見ずに溜息が漏れた。

「刺激したか、、、」

 忌々しいとばかりに零れたのは、蒼奘の呟きであった。

 

 雨が上がり、西の空に掛かった雲が茜色に染まる頃、

「それが、昼頃に湯治に行くと、お出掛けに、、、」

 すぐに屋敷の門前に応対に現われたのは、困ったように眼を細める琲瑠。

「なんだ。せっかく雨も上がって、良い酒も手に入ったのに、、、」

 濃い眉を顰めた燕倪だったが、すぐに、

「お前は、呑めんのか?」

「舐める程度しか、、、」

「あ、そ、、、」

 肩を落とす。

 当の相手の不在を聞かされても、中々諦めきれない様子。

 大振りの瓶子を大事に抱えたまま、

「しかし、なんでまたこんな時に湯治になんぞ。あいつ、暢気過ぎやしないか?」

 つい愚痴めいた口調。

「この気候で、肩の傷が疼くと言っておりましたから、、、」

「まだ完治していないのか」

「怨敵槇廼尭元の恨み辛みを、咬ませた際にその身に封じていますからね。そうでもしなければ、鬼の中の人の心を呼び覚ます事は出来なかったでしょう」

「なんだと!?あいつ、、、そんな事、一言も言ってなかったぞ、、、」

 憮然とする燕倪に、

「そういう方ですから、、、」

 琲瑠の苦笑。

「お互い、苦労するよなぁ、、、」

「はい、、、あ、いえ」

 暮れてゆく空の下、家路を急ぐ人達で賑わう往来に溶け込むそんな穏やかな時間が、流れている。

 

「、、、、、」

 不意に空を見上げた蒼奘。

「どうかしたのか、都守?」

 銀仁の問いに、

「誰かが噂しているような、そんな気がしただけだ。先を急ごうか、、、」

 蒼奘は、長衣の前を掻き合わせた。

 幸い車の唐櫃には、遙絃の衣の換えがそのままになっていて、ひとまず防寒の心配は無さそうだ。

 雨が上がったのを見計い、様子を見るために氷の上に降り立ってから、早半刻が経っていた。

 ぐるりと囲む山脈の頂から、霊山の中腹にかけて張った氷は、鏡面のように平らで澄んだ青を湛えていた。

 不思議なもので、その上から眼を凝らせば眼下に広がる樹海と、小さな集落が点々と窺える。

「ここ数日の間に凍ったようだが、こんな大規模に凍りつくなんて事があるのか、、、」

 銀仁のその問いに、蒼奘は錫杖の柄で軽く氷を突いた。

「元々、姫の身を案じた事が発端だ。この氷は腹にいる仔に従う元素らが、騒ぎ立てる大天狗の眷族らから、主を守らんが為に張った結界のようなもの」

「待ってくれ。その元素が、従うとは?」

 氷の底を覗きこんでいた銀仁が、顔を上げる。

「何というのか、その存在に付き従うべく発生した存在」

 青い唇から、白い吐息が、細く流れた。

「この世は、想いを描き反映する粒子で満ちている。それは神や、自然や、動物、人を構成している素のようなものだ。また、時として想いそのものとなる」

「漂う元素が、自らそう望み意思を持つと、神霊となるのか?」

「そのようなものだ。普通、他の神に命じられ、または人に乞われ、使役される場合が多いがな」

「この世に在って得る眷族もあれば、生まれる以前より、眷族としての働きをするものもあるのか、、、」

「ああ。その奔流に大いなる意思があるのなら、それによって個々がどのような働きを担おうが、なんら不思議ではなるまい。まあ私は、今のこの世の有様すべてが、仕組まれたものとは、思いたくないのだがな、、、」

「神であっても、その奔流を前にしては、万能とは行かぬわけか」

 銀仁の呟きに、蒼奘は唇を歪めた。

「人の中に在ると、都合良く語ってくれる、とよく思う」

「気苦労が多そうだ、、、」

 錫杖の柄が突くたびに、氷が澄んだ音をわんわんと反響させた。

 どこかに下に降りる事ができる窪みや、歪み、脆い箇所を探しているのだが、見つからない。

「しかし都守、この分では氷に捕らわれた者の命は、既に、、、」

「さて、、、」

 見渡す限り広がる、氷の原。

 彼方の山稜に陽が沈むと、宵闇が迫ってきた。

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