第四幕 ― 潮騒 ―
勅命により訪れた先の漁村で出逢った老婆は、伯の姿に哭く。そこで伯は、ある事を蒼奘に望むのだった、、、、
死人還りの都守蒼奘、業丸を継ぐ武官燕倪、幽身であるがこの世に縛られた伯。それぞれが紡ぐ異国絵巻、第四幕。。。
― あ、、、 ―
肌を舐める海水の温度が、また少し下がった。
白い三日月の光が、まだ差し込む辺り。
微かな光の靄がぼんやりと揺らめく中、水干を纏った若者は、細い目を更に細め頭上彼方を、見上げた。
― やはり、お側を離れなければ良かったかな、、、 ―
胸中に少し、後悔。
一月も離れる訳では無いと言うのに、、、
― 主様の事、早々にお酒で寝かしつけ、お出かけになったのかな、、、 ―
それまで、生まれ育った海の感触に懐かしさを覚え、浮かれていたのだが、
― 猊下の波動に共振して、お目が覚めてなければいいのだけれど、、、 ―
今は少し、幼い主君が気にかかる。
微かに細波を刻む穏やかな海が、広がっている。
まだ、陽も昇りきらぬ内に、大きな籠を背負った老婆は浜に出た。
星が煌めく中、浜には昆布と一緒に流れ着いた流木やらで、黒々とした蟠りが点々と広がり、四半刻たらずですぐに籠がいっぱいになった。
早々に戻ろうと籠を背負おうとして、ふと顔を上げたのは、波打ち際で跳ねる子供の足音を聞いたから。
「こ、、、」
その皺が刻まれ、落ち窪んだ眼窩の奥にある眸が、大きくなった。
膝下まで寝巻きを濡らし、袂を翻しながら飛び跳ねる。
くるくると薄闇の中で舞い踊るのは、黒髪を長く背に垂らした童子。
老婆は、言葉を飲み込み、ふらふらと歩き出した。
一方童は、海水を手に掬っては空に放ち、足で跳ね上げては、遊んでいる。
その童の動きが、
「、、、、、」
止まった。
視線の先には、老婆の姿。
「?」
小首を傾げ、無言で見つめる先に、
「こうっ、、、ぁあぁっ」
手を摺り合わせるようにして、顔を歪めた老いたる女の姿。
垂髪が、風に靡いていた。
焚かれた篝火の下で、白々と浮かぶのは、浄衣の美丈夫。
先月、帝都も未曾有の怪異に襲われ、地方でも不安が広がり、多くの嘆願書が届けられた。
中でも、早急に対応が必要だろうと、都守が勅命により自ら訪れたのだ。
度々氾濫を繰り返す、谷茅の川。
海へと注ぐその河口にある漁村奈七戸は、その被害に悩まされていた。
村の中程を割るようにして流れる川は、けして大きな川ではなかったのだが、今年に入って雨が続いた訳でもないのに四度も村を水浸しにした。
川を見るなり人を集めさせ、寒空の下で、夜通し底を浚わせ続け見つかったのは、一抱えはある巨大な大鯰。
その体色は白く、何より額には珊瑚状の角が一対。
呆気に取られる人々の視線の中、都守はその腕を、巨大な口に突っ込んだ。
何かを探る事しばらく、出てきたものは、古びた釣り針。
「これで当面は大人しくしているだろう」
すぐさま川に戻すと、祝詞と共に酒を、たっぷりと川へ流した。
どうやら、釣り針を飲み込んだ川の主が痛みに暴れたためでもあったのだが、いずれにせよ低い土手。
流れ崩れた護岸は、早急に補強の必要がある。
「護岸の件は、私から上へ伝え置こう」
「我等はこの土地で生まれ育った者。ここから離れて暮らすなど考えられませぬ。どうか、宜しくお伝え願います」
用意されていた酒宴を断ると、白々と明けはじめた空の下、旅籠へと急いだ。
大陸の建築様式を取り入れた珍しい楼閣は、かつての地主の屋敷跡。
村と海を一望できる丘の中程に建てられたのは、弓形に伸びた奈七戸の浜の虜になったお抱えの絵師の要望だとか。
「、、、、、」
海に面した方は崖であった。
その崖下辺りから、ふわりと舞い上がったものがある。
旅籠の玄関脇に枝を伸ばす老松に蟠ったと思えば、そのまま二階の窓辺へと消えた、白い影。
「先生、どうかされましたか?」
「いや、、、」
村長がつけた案内の若者が、怪訝な顔。
旅籠の主人が用意した湯で手足を洗うと、早々に二階の部屋へ上がった。
そこいるのは、裾を砂だらけにした、伯。
ぽつん、と布団の上に座っていた。
「伯、、、」
酒を飲ませ、寝かせたつもりだったのだが、
「浜で、遊んでいたのか?」
触れたその頬が、冷たかった。
どうやら、蒼奘が出て行ってしばらくした後、帝都では聞こえぬ潮騒で目覚めてしまったらしい。
手拭いでその足を拭いてやれば、
「オレを見て、泣くのだ、、、」
ぽつりと呟く。
「泣く者、か、、、」
それだけ言うと、そのまま胸に体を預けて、眼を閉じてしまった。
穏やかな、寝息。
敷かれた布団に横たえながら、
「目覚めた後に、詳しく聞こうか、、、」
― あまりに激しく泣くものだから、どうしたらよいものか、堪りかねて私を待ったと言うわけか、、、―
すっかり陽が昇った時分。
浜辺を一望できる崖に、狩衣姿の蒼奘が立った。
傍らには、水干を纏った伯の姿。
その手には、陽の光を通して琥珀色に輝く塊。
この村に逗留していると言う、出入りの薬師がくれた飴を、齧っている。
見下ろす浜は、村を抱く山裾が突き出して出来た岬まで続き、遊ぶ子供等や船を引き揚げる漁師らの姿が窺える。
弓形の浜辺に沿って彼等の仕事場となる小屋が居並び、緩やかに続く丘陵に民家は肩寄せるようにして続いていた。
眼を凝らすと、東西に伸びる街道を行く荷馬車や、人々の姿も伺うことができる。
「ぃなぃ、、、」
「だが、この村のどこかに、居る」
伯が言う女はどうやら年寄りで、昆布を拾っていたらしい。
「お休みになれませんでしたか、先生?」
旅籠の女主人に起こされたのか、眼を擦りながら追いかけて来たのは、今朝方、案内を買って出た若者であった。
「もう十分だ。ところで、この村の特産は昆布だと聞いたのだが、、、」
「ええ。冬の寒い時分から、今頃までですが、昆布が打ち上げられるのです。海が穏やかな時は漁師も船を出して、長竿でもって昆布漁をしたものですが、今年は先生もご存知の通り、谷茅の川の氾濫でそれどころでは」
「では、あの辺りに見えるものは、、、」
「家屋の修繕の合間を縫って、村人が集め干しているものです。食べて行くためには、出来る事をしていかなければいけませんので」
「そうか、、、」
「先生、昆布に興味がおありで?」
稀代の都守が、興味を引かれるにしてはあまりにも的外れな、とでも思ったのかもしれない。
怪訝な顔の若者に、
「可笑しいかね?」
一瞥。
すると、若者は背筋を正し、
「めっそうもないっ」
ぶんぶんと顔を横に振ったのだった。
「するべき事は成した。後は、連れが戻るまでの間、好きにさせてもらうぞ」
長い袖を握る伯をそのまま老松の並木道、丘陵を下る。
穏やかな海面の大海原を右に、黒壁の家々が左。
道行く者達が、畏怖の眼差しを込めて会釈する中を、悠然と浜の中程に見えた干し場へ。
「あぉ、、、」
ふと、伯が袖を引いた。
見れば、赤い鳥居が点々と続き、その奥に小さなお社の姿。
村の中程に建てられた、産土神社のようだ。
伯が、ぱっと走り出す。
― 産土に訊ねるのが、早いか、、、 ―
その後姿に、蒼奘の長身が続く。
細い参道の脇には長い年月、潮風に耐えた石灯篭が幾つも並んでいた。
「ほぉぉ、、、」
社の前に立ち、伯が首を左右に傾げている。
すぐに追いつき、
「どうやら、宿っていないようだ」
忘れ神となって他へ流れたか、消えてしまったか、その運命を知る術は無い。
伯の頭に手を置けば、
「んんっ」
そうされるのがあまり好きでないのか、ぶるぶると首を振ると、またたっと走り出して浜の方へ。
「琲瑠が戻れば、話が早いが、、、」
頼みの綱の琲瑠はこの辺りに縁が深いのだが、村に着いた一昨日から暇を出していた。
召喚する程のものでもないか、と浜辺へ出ると、
「あっ、都の先生っ」
浜に出ていた子供の一人が、興味をそそられたのか駆けてくる。
他の子供もそれに続き、俄かに腰程までしかない子供達に囲まれた。
「ソウ」
腰の辺りにしがみつかれて見れば、伯がいつの間にか逃げ込んでいた。
「この子、先生の子供?」
都から偉い先生が来る、そう聞かされているため、蒼奘を知らぬ者はいないらしい。
「伯と言う。皆、仲良うしてくれ」
こんな時、ふと過ぎる友の顔。
燕倪がいれば、子供の扱いは容易かろうと思いつつ、伯を引き出した。
「オレ、エータ」
「カナだよ」
子供達が次々と名乗り、
「おいでよ、伯」
伯の腕をひっぱって行った。
しばらく伯の様子を見守っていた蒼奘であったが、一緒に貝殻を拾ったり、小石を投げたり、浜に出ている子供らがする遊びを真似て、すぐにその輪の中に入れてもらった。
そのまま伯を子供達に任せると、干し場の方へと一人歩き出したのだった。
干し場では、忙しなく昆布をひっくり返し、満遍なく陽を当てる作業に追われていた。
長い昆布を返す作業は、漁師の女房の役目。
二人で組み、謡いながら行う。
一番端で作業していた頬被りのお里は、相方の美江が昆布を返さなかったのを手応えで感じ顔を上げ、
「あれ、、、」
堪らず頬を赤らめた。
それもそのはず、美江の前に立っているのは、白い髪を長く垂らした蒼奘。
帝都屈指の星読師でもあり陰陽師、都守。
「こりゃ、都の先生」
「あれまっ」
慌てて平伏してしまった二人に、
「そのように畏まらずとも、、、ニ三、尋ねたい事があるのだが、、、」
そう切り出して、蒼奘は二人が顔を上げるのを待った。
「へぇ、なんでしょう?」
「人を探している。今朝方、私の連れがこの浜で昆布を取る老婆に会ったようだが、誰か心当たりはないか?」
「この村では洪水のお陰で今じゃ人出不足。力のある若衆は皆家屋の補修に回り、あとの残りの者は大抵浜に出て、昆布を拾うものですからねぇ。村の者だけでも八百はいますから」
「そうか、、、」
仕方ない、とばかりに視線を上げた彼方に、細く煙が上がっていた。
長く伸びる入り江の彼方。
海に突き出した岬の上。
「あれは、、、」
「江汰岬です。石で組まれた祠があって、何か祝い事や不幸があると、竜神様に村で獲れたものを社の前で火にくべて、その灰を海に流すのです」
「ほぅ、、、」
「先生はすでにご存知かも知れませんがね、この村には古くから天災時に、巫女を海の竜神へ捧げる儀式があったんですよ」
「初耳だ、、、」
「ああ、でも先生、古くと言っても、もう何十年と昔のことですよぉ」
「そうそう。この村は時化に旱に疫病、そりゃ酷い時期がありましてね。今考えれば、倭中が同じ有様だったそうで、当然、先生のような方が来てくださるようなこともありません。皆、耐えるべきでしたのに、その時ばかりは、盛んに逆さ舟で人を送ったと言います」
「中々、穏やかにはいかんな、、、」
「へぇ」
破顔した二人に礼を言うと、蒼奘は浜辺を彼方の岬の方へ歩き出した。
そこへ、走り寄る、童。
狩衣の袖を掴んだのは、
「伯」
どうやら、もう子供達との遊びに飽きてしまったらしい。
「先生、どこ行くの?」
そのまま、わらわらと子供達が集まってきてしまう。
「岬の祠だ、、、」
行く先を告げようものなら、
「あそこは松が茂って、道も細いよ」
「オレ、近道知ってる」
「こっちこっちっ」
どうやら子供達が案内してくれるようで、、、
見上げる程に急勾配の、険しい獣道。
村の子供達は、そこを猿の如く駆け上がる。
「、、、、、」
村人が祭りの際に使う比較的穏やかな道があるそうだが、子供達は慣れ親しんだ近道に、蒼奘を案内した。
伯も、ふわりふわりと、舞い上がって、それに続く。
「先生、早く早くっ」
「遅いよぉ」
「、、、、、」
一歩一歩、歩を進めるのは蒼奘くらいなもの。
足元の頼りは、突き出した松の根で、それに手を掛け、足を掛けることしばらく、ようやく岬へと続くなだらかな細い道に出た。
「やれやれ、、、」
一息ついて、うっそりと視線を、まだ見ぬ松の先へ。
強い潮風に長年晒されたためか、松の背はことごとく低く、身を屈めねば通り抜け出来ぬ程。
とっくに子供達は先に行ってしまったようで、一休みとばかりに背を松の木に齎せた。
一方伯は、その足元にしゃがみ込み、暢気に松笠を拾っている。
「、、、、、」
ひとつ、ふたつ、、、
大振りのものより、小振りの松笠を探して、袖に入れる。
その様子を眺めていれば、
「む、、、」
賑やかな声音が、戻ってきた。
「鴉婆だッ」
「逃げろぉおっ」
子供達が勢いそのまま、獣道を下り、浜を走っていく。
それに驚いたのか、伯が蒼奘の肩によじ登る。
肩にそのまま、頭上に這う松の枝を手に先へと歩いていく。
程なくして、開けた視界。
「ふあ」
伯の漆黒の眸が、大きくなった。
白く細波刻む、大海原が広がっている。
両側には所々石が積み上げられ、どこか荒涼とした雰囲気。
その先に一際大きく、眼を引く石組み。
長い時間をかけ、村人の手によって築かれた、祠。
その祠の前。
細くたなびく煙を背に、一人の老婆が立っていた。
皺深い顔、虚ろな眼窩。
引き結ばれた唇。
枯れ枝のように細いその体を、棒切れの杖を頼りに、ゆっくりと歩を進める。
鴉婆。
墨色の襤褸とも思える衣が、そう呼ばせるのか?
「伯、、、」
肩から飛び降りると、そのまま老婆の前へ。
皺深い顔が、上がった。
「こ、江汰、、、」
再び、目の前に現れた、童。
あの日、枯れたとばかり思っていたのに、、、
滲む涙の中、
「そうか、、、この者が、、、」
もう一人の呟きが、聞こえた。
「久闊でございます。ウンベク様、ウイベル様」
紺、群青、藍、碧。
交じり合う色彩の中、彼方に茫洋と白亜の宮殿が聳えている。
その広大すぎる庭の一つに、琲瑠は蹲踞していた。
上へ、下へ、、、
揺らめく、無数の虹色の輝きと共に。
その庭に面した大回廊。
見上げる程に巨大な柱の列。
彼方の宮殿へと繋がる回廊の一つ。
「御子に、お変わりないか?」
柱を背にして四腕を組むのは、馬の頭を持つ鮫龍ウンベク、ウイベル。
「はい。健やかに、お過ごしでございます」
「そうか、、、」
「すぐにそちを都へ使わしたのは、正解だったようだ、、、」
久しぶりに戻った眷族の言葉に、安堵した様子。
「御子のお世話には、わたしのような水気の者が要りようだと、快く眷族に加えていただきました」
「人の形ではあるが、神に名を連ねる者。幸いであったと、言うべきか、、、」
「だが、ウンベク。海皇よりあの男、異端と聞いた事がある」
「ああ。確かに、冥皇が配下には違いないが、、、」
二人の溜息に眼を細め、
「こうしてわたしを海皇宮へ伺わせたのも、都守の配慮でございますれば、ご懸念されていた『神砕』《かみくだき》などと言う最悪の事態は、万に一つとしてありますまい」
つい、口をついて出てしまう。
「無論、あってはならんことだッ」
「おいそれと口にするでないッ」
「軽率すぎました。どうか、ご容赦下さいませ、、、」
再び深く、頭を垂れる琲瑠に、
「重ねて訊ねるが、御子に不自由はないのだな?」
やはり不安を払拭できない、その声音。
「はい。私は、お仕えしてまだ日が浅うございますが、幸い、都守の御子へのお心の砕きよう日に日に深く、御子はその導きで現世に在る神の習いと見識を、深めておいでです」
「幸い、な、、、」
「引き続き、頼むぞ」
「はい」
結果、都守を擁護する形になってしまった事に、琲瑠は内心首を傾げていた。
― 私も、人の世に慣れ過ぎたか、、、 ―
ふと、脳裏を過ぎったのは、都守の友の顔。
「しかし、、、」
そんな琲瑠の心境を他所に、
「海皇が眠る今、この海皇宮の『一の庭』へ辿りつく魂魄は、朽ちること叶わず、蟠りつづける」
「それが、海皇に捧げられた魂魄の宿命、、、」
点在するのは、沈んだ船の数々。
荒波にもまれ朽ちたものもあれば、出港した時そのまま、朱色の塗装鮮やかなものまで様々。
ウンベク、ウイベルは、一の庭と呼ばれる、広大な庭を見つめた。
見通せぬ彼方の暗がりへ、延々続く船の原。
しかし、その荒涼とした様よ、、、
― 魂魄の宿命か、、、 ―
無数にたゆとう輝きは、海で命を落とした者や人柱として流された者達の、魂魄。
「白暈を潜り、冥府への魂送りが出来るのは、今となっては御子のみ」
「海皇が紡いだ夢。産まれ出でたその瞬間に、よもや戯れに攫われようとはな。海皇に合わす顔が無い、、、」
肩を落とすウンベク、ウイベルに、
「猊下の御目覚めは?」
「それが知れれば、苦労は無い」
「御心知れぬ今、我らはただ、海皇の帰還を待つのみ」
「左様で、、、」
こうなると最早、掛ける言葉もない琲瑠であった。
「この調子じゃもう一晩くらい、駆けれそうだなぁ、、、」
褐色の狩衣。
頬を弄る風は今だ冷たいのだが、捲くった袖から、太い腕。
愛馬、千草を駆る、燕倪である。
どこから聞きつけたのか、左大臣である父備堂真次が遠野の羽琶姫と燕倪の仲を取り持とうと反物や櫛やと、世話を焼き始めた。
燕倪にしても、先の騒動で大層迷惑を掛けたというのもあるのだが、その実、様子が気になるようで、夜通し馬を走らせる事も厭わない。
今日は、父が仕立てさせた春物の袿を届けた、その帰りであった。
燕倪も仕事柄、長く屋敷を空ける事もできないため早々に馬首を返しが、不思議と体中には精気が満ちている。
このまま、まっすぐ帰るのもどうか、馬上にて頭を捻ると、
「そう言えば、あいつ、確かこの辺りの、、、」
ふと、思い浮かんだ。
富紀の鬼の件が片付いて間も無く、二、三日留守をすると帝都を出た都守。
「寄ってくかッ」
悪戯を思いついた子供のような笑顔で燕倪は、街道を南へ下るのだった。
村外れにある、古びた庵。
長年の雨風に傾き、修繕の手も回らぬその家は、所々隙間風が吹き込んでくる。
辺りは雑草が生い茂り、朽ちた板の間から、緑の葉が覗いていた。
そんな、囲炉裏と寝床である筵が敷かれただけのこじんまりとした居間に今日は、来客があった。
「白湯しか、ありませんが」
「お構いなく、、」
竹を割っただけの椀に、囲炉裏に掛けた鍋から湯を注ぐと、枯れ枝のような手が震えながら差し出した。
それを受け取ると、青い唇をつけ、
「んー、、、」
袖を引かれ見れば、膝に入った伯が、見上げていた。
「熱いぞ、、、」
椀を受け取ると、両手で包み込み、暖を取る。
少しずつ口へ運ぶのを見つめ、黒衣の老婆は、
「都の先生が、おいでになるとは聞いておりましたが、このように村から離れて暮らしていますので、なんのお構いもできず、、、」
しっかりとした物言いで、口を開いた。
「勝手に出向いたのは、当方。お気になさらず、、、」
老婆は山に在る畑で作物を育て、季節の山菜を採り、この時期はまだ村人が出てこない朝の早い時分から昆布を拾って、暮らしていると言う。
岬では毎日、いくばくかの供え物をし、手を合わせているのだと、語った。
その老婆の視線の先に、伯がいる。
「この仔は、人のように見えてその実、神霊の一つ」
「人では、ないと、、、?」
「仕事柄、鬼を祓うため、自然神霊の力を借りる事があるのだが、契約を交わす事で常に側に置くこともできるのでな」
首に掛けていた翡翠輪を外すと、その髪は深い群青色に、眸は菫色に。
「ひと、では、、、ない、、、」
どこか寂しげで、それでいて安堵したかのような、複雑な表情が浮かんだ。
「だが、心が無いわけではない。今朝方出逢った貴殿を、気にかけていてな、、、」
伯は、老婆を見つめている。
時折、その頬を伝う涙の意味を、心の声で問うているのだ。
やがて老婆は、擦れた声で語り始めたのだった。
「江汰は、嵐に遭って漁に出たきり戻らなかった夫との間に出来た、一人息子です」
蒼奘の視線が捉えたのは、部屋の片隅の古びた文机。
「今から、もう五十年以上も昔のこと。その年は旱続きで川も枯れ、海に出ても魚が取れず、皆その日生きるのが精一杯な時でした。わたしが、隣村の親戚の家に食べ物を分けに行った日。陽が暮れて戻ってみれば、江汰が居ませんので、探しに出ようとしましたら、隣に住む者がわたしの留守を待って、村長が江汰を連れて行ったと言うのです」
文机の上には、黒く塗りつぶされた巻物が床へと伸びていた。
「あの子は、少し先が見える子で、それまでも幾度となく洪水や、嵐を予見していましたから、度々そういった事はあったのですが、、、」
写経に、写経を重ね続けたのだろう。
「胸騒ぎがしまして急ぎ、浜に向かいました」
文机の横には、粗末な作りの仏壇。
小さな手彫りの仏像の前には、薊の花が供えられている。
「けれど、わたしがついた時には、江汰はすでに供物と一緒に、さかしまの船に結び付けられ、沈められた後、、、」
あだ名の由来でもある鴉婆が、その身に纏う黒衣は、
「江汰が、竜神様に頼んでくだすったのか、翌日から時化はぴたりと無くなり、漁は大漁。雨は豊富に田畑を潤し、お陰で村は、飢饉から脱したのです。それから竜神を祀る祠のある岬は、江汰岬なんて呼ばれているのです、、、」
我が子と夫を、弔うための僧衣であった。
「わたしは、打ち捨てられたこの庵で、菩提を弔っているのです、、、」
人柱となった江汰は、齢九つ。
浜に現われた童は、年の頃も近く面差し良く似た、、、いや、似すぎていた。
何十年経っても、色褪せぬ我が子の姿。
「だから、その子を見た時、嬉しかった、、、っ」
岬より何度身を投げても、海は懐に母親を抱こうとはしなかった。
飛び降りる毎に波は、彼女を浜に押し戻したのだった。
今朝その姿を見た時、海から戻って来たのかと、それともようやく己を連れに来てくれたのかと、我を忘れて泣き崩れてしまったのだ、と語った。
滲んだ涙を擦り切れた袖で拭いながら、
「すみません。都の先生に、こんなところを、、、」
「いや、、、」
「こうして、よくよく見ればそうでは無いと、分かるのに、、、」
浜で見たこの童は確かに、江汰そのものであった。
だが今は、違うのだと分かるのが、皮肉でもあった。
「冷たい海の底で、寂しくしてやしないかと思うと、、、」
菫色の眸が、老婆を見つめ、
「ソウ、、、」
伯の手が、蒼奘の腕を掴んだ。
しばらく、内なる声に耳を傾けていた蒼奘は、伯の背に手を置いた。
その姿は、赤茶け髪と栗色の眸の、よく陽に焼けた童の姿へ。
「こ、、、」
「確かに、良く似ている、、、」
「これは、、、」
江汰が、座っていた。
「貴殿の想いが、この仔をそう見せるのだ。この仔は浜で、貴殿の想いを、映したに過ぎん、、、」
「嗚呼、先生っ、、、我が子に一目会いたいと、願わぬ母が、おりましょうか、、、」
「子も、そうであろうな、、、」
ふと、いつぞやの母子を思い出した。
子は、母の腕に抱かれたいと願い、母は、子に応えた。
その身を鬼に喰われても、、、
「その想い、しかと見せていただいた、、、」
いつの間にか、菫色の眸と群青の髪に戻った伯が、戸口に立っている。
開かれたその先には、宵闇が迫っていた。
うっそりと視線を彷徨わせた先に、月は無い。
新月だ。
「ん、、、」
くん、くん…
伯が、鼻を鳴らし、
「奇遇なものだな、、、」
蒼奘は、袖を振った。
現われた白い繊手の指先から、札が一枚滑り出すと、ひとりでに複雑奇怪に折れ曲がり、
「おお、、、」
細かく折れ刻まれた翼の部分が延びると、羽毛が生え、その姿は白い雉へ。
「ほんの手慰みだ、、、」
夜の闇に出て行くのを、唖然として見送る、老婆。
「先生、いったいあなたは、、、」
その問いに、青い唇はただ、いつものように薄く笑みを刷くだけ。
しばらく、遠ざかる雉の聲に耳を澄ましていたが、
「この村を訪れたのには、もう一つ用があってな、、、」
腰を上げた。
「調度、連れが来たようだ、、、」
見れば伯が、戸口から体を乗り出している。
喧しい白い羽ばたきが一枚の札となって手に収まるのと、荒い息遣いの男が現われるのが、同時。
戸に手をかけて、肩で息をしているのは、
「エンゲ」
伯が、腕にぶら下がった。
「お、お前、、、ッ、いきなり現われて、急かすなッ」
どうやら式神に、相当急かされたらしい。
「こんな所で何をしているとは、問うまい。大方、遠野に寄った帰りだろう?」
「うっ」
闇色の切れ長の双眸が、細くなる。
「ふん、、こんな時間に現われるなんぞ、まだ、指一本触れてないと見た、、、」
「余計なお世話だっ」
二人のやり取りに、老婆はすっかり口を挟めず、
「あ、燕倪と申します。都守の古い友でして」
ようやく苦笑しつつ会釈した燕倪に、機会を得た。
「り、理亜です、、、」
庵の外に出たところで、蒼奘が振り向いた。
闇色の眸で老婆を見つめると、
「貴殿も、来るといい」
「え、、、」
「この男、武官故、人一人背負って行く事になんの苦もない、、、」
しれ、と言ってのけた。
― 俺に背負わせる気で、急かしたのか?! ―
一瞬、口を突いて出そうになって、
「心配無用。どうぞ俺の背に」
呑み込んだ。
訳も分からぬのだが、いつもの成り行きに抗えぬ燕倪であった。
宵闇の中、伸びた枝に注意しながら、道を行く。
「すみません。こうも暮れるとすっかり目が、、、」
「お気になさらず、甘えてくだされ」
白い後姿を先頭に、老婆を背負った燕倪と、
「ぁあう、、、」
「お前は、降りてくれないか、伯?」
ぶらりぶらん…
腕に掴ったままの伯が続く。
静寂に時折交じるは、波の音。
しっとりと湿気を帯びた夜気は、潮の匂い。
「もうすぐ、岬に出る頃ですが、、、」
老婆の呟きの後、一行は松の林を抜けた。
「これは、、、なんとも、、、」
黒々と広がる大海原に突き出した、岬。
両側に積み上げられた無数の、石の塔。
左手には切り立った崖が迫り、右手には弓型に伸びる浜と、灯火の輝き漏れる集落が、闇の中に蹲っていた。
薄雲が出てきたのか、ぼんやりとした星の輝きの先に、月は無い。
「んん」
伯が、燕倪の腕を離れ、祠の前に立った蒼奘の元に、走り出す。
「おい、伯。足元に気をつけろよっ」
ふわり、またふわり。
群青色の髪を靡かせ水干の袖を翻し、
「ソウ、、、」
伯は、差し出された蒼奘の手を取った。
そして、次の瞬間。
「伯ッ」
「ひ、、、」
静止の声も聞かず、岬の向こうへ。
断崖絶壁。
まるで吸い込まれたかのような、一瞬の出来事であった。
「蒼奘ッ」
眼を見開き、駆け寄る燕倪と、
「あぁぁあ、、、」
うろたえる、老婆の声。
飄然と、祠の向こうを見つめる蒼奘の背。
その肩に手が届いた刹那、
コォォオオォオ・・・
「んなっ!?」
翠深い透明な巨体が、その姿を覗かせた。
刻まれる巨大な、鱗。
紫紺の背鰭が長く伸び、深紅の鬣が広がる。
その神々しいまでに巨大な体が、一行を見下ろしている。
「これは、どういう、、、」
老婆を背中から下ろしたけれど、燕倪はうまく説明できず、
「あの仔は、竜の化身、とでもしておこう、、、」
その先は、蒼奘が引き継いだ。
「これより先、貴殿が目にした事、他言無用に、、、」
一の庭に、まだ琲瑠は居た。
すでに鮫龍の姿は無く一人、船縁に腰掛け、たゆとう輝きを見つめている。
手には、懐っこい魂魄が一つ、纏わりついていた。
それの好きにさせながら、
― 懐かれてしまった、、、 ―
つい陸に戻る機を逃してしまったようだ。
魂魄の中には何百年も、そのままたゆとい続けているものも在る。
己のような者が、そのような事情を考えても、仕方が無いと分かってはいるのだが、、、
― 俄か仕立ての式神の私には、何も出来はしないけれど、、、 ―
時折、長い尾鰭くねらせ、上半身は人の体を持つ鮫人が、回廊を渡って彼方の宮殿へと急ぐのを、視線の端捉えては、
― 猊下がおわせばこの魂魄らは、鮫人としてお仕えすることも、冥府に渡ることも出来る、、、 ―
酷く、感傷的になっている自身を、不思議にも思う。
― 若君がお戻りになれば、これらの魂魄は、、、 ―
考えて、肩を竦めてしまう。
伯自身がここに戻るそれ自体を、望んでいないと、琲瑠は知っているのだ。
掌で、ころりと収まる、魂魄。
「私を、心配してくれてるの、、、?」
眼を細め、
「優しいコだね、、、」
そっと表面を撫でてやった時だった。
「ッ」
頬に、強い波の揺れ。
顔を上げた時、琲瑠は微笑んだ。
「お行き。あの御方がそう、望まれた、、、」
頭上で、ゆらゆらと長い尾鰭が辺りを覆っていた。
紫紺の背鰭は隆々として、どこか睥睨するかのように、琲瑠を見下ろしている。
深紅の鬣、翠の透明な鱗煌めく、その巨体。
透明な鼻先が琲瑠に近づき、
キュゥゥ…
掌にいた魂魄を、突いた。
押されて一度は離れたが、すぐに傍らに添う。
一帯に漂っていた魂魄が、吸い寄せられるかのように巨体に纏われると、巨体は無数の輝きと共に舞い上がった。
「お、、、おおっ」
「御子がッ」
宮殿から急ぎ現われた、鮫龍。
「これは、どう言うことだ」
「魂送りを、、、?!」
琲瑠は、ふわりと舞い上がり、
「御子が、そう望まれ、都守が応えたのでしょう」
突然の御子の来訪に呆然とする二人をそのまま、琲瑠は、泳ぎ去る伯の後に従ったのだった。
それまで吹いていた風が、ぴたりと止まった。
所々、青白い細波を刻んでいた海原は、今、鏡のように凪いでいる。
伯が、体をうねらせ、大海原の底に消えてすぐのことだった。
「一体、何が始まるんだ?」
祠の前、蒼奘の傍らに燕倪。
眼を凝らしたところで、その先には暗い海がどこまでも広がっているだけ。
「この海域は、神が絶えて長くてな。そうなると、海に漂う魂は彷徨う、、、」
「それじゃあ、やはり江汰もあの人も、海の底で、、、」
「、、、、、」
袖に縋った老婆をそのまま、闇色の眸は伯が消えた海域を見つめている。
啜り泣きが、漏れた。
こればかりは燕倪も、その背を擦ることしか出来ず。
やがて、
「来たか、、、」
低いその呟きに。燕倪が顔を上げた。
「八火業焔衆、白暈を映せ」
金色の陽炎を纏った褐色の肌の鬼神衆。
四散し、上空に舞い上がると空に陣を敷いた。
八柱の鬼神が描く八角の陣。
藍色の夜空を切り取るかのように闇が渦巻くと揺らめき、波打った。
その中に茫洋と浮かぶのは、
「白い、月?」
燕倪は、冴えた輝きを放つそれを、見た。
「月が無ければ、喚べはいい、、、」
それまで凪いでいた海の一画が朧げに輝き、水柱が太く伸びた。
離れるのが名残惜しいのか、まるでそれ自体が生き物であるかのように、とろりと剥がれる海水の欠片。
オォォオオオオオン・・・
その水柱の中から姿を現した巨体は、無数の小さな輝きを纏っていた。
巨体自体が淡く発光しているようにさえ、見える。
ゆっくりと海面を旋回する巨体の、胸鰭の辺りから一つ。
一際強い輝きを放ちながら離れたのは、
「これは、、、」
「長らく、絶えていた魂送りだ、、、」
ゆらめく、魂魄。
「こ、、、」
老婆の頭の中に直接届いたのは懐かしい、声。
顔を上げ、見つめた先に、
「江汰っ」
その子の笑顔があった。
祠の先から、老婆の胸に飛び込む童。
燕倪の目には、白く朧げに縁取られているに過ぎないが、老婆の目には生前の姿が映し出されているようだった。
蒼奘は、老婆が我が子を抱き、髪を撫でる様子を、ひっそりと見守っている。
やがて、
クゥオオォ・・・
伯の呼び声に、童は母に頬を摺り寄せると、にっこりと微笑んだまま、踵を返す。
その先に、佇むのは、
「あなた、、、」
いつも潮の香りをさせた、姿変わらぬ良人の姿。
江汰と手を繋ぐと、二人は魂魄の輝きとなって、旋回する伯の元へ。
傍らに合流したのを見届けるとその身をくねらせ、白い月の元へ舞い上がり、
オオオオォオォ・・・
頭ごと、前のめりに結界陣へと、消えていった。
「海の神に捧げられた者達は、その懐に抱かれ、冥府へ渡る時を待つと言われている。波、穏やかで温かく、静寂に満ちているところともな、、、」
「江汰の笑った顔が、あの人の穏やかな眼差しが、それを、教えてくれた気がします、、、」
深々と頭を下げる老婆に、
「出来ることなら、肩の荷を少し、下ろされることだ、、、」
「はい、、、」
珍しく穏やかな眼差しと、口調であった。
「燕倪、先に庵へ、、、」
「ああ。お前は?」
「伯の帰りを、待たねばならんよ。我らも、すぐに行く、、、」
「おう。さ、理亜殿。夜風は体に悪いですから、、、」
燕倪が老婆を背負って、松林に消えた後、程なく、、、
白い月が波打ち、巨体が姿を覗かせた。
その姿に眼を細めた、蒼奘。
キュキュ、チュキチュキ・・・
のっそりとどこか緩慢に、岬に身を寄せると、鼻先に蒼奘の手が置かれた。
「伯、、、」
急速に収縮する、巨体。
まず鱗が消え、紫の背鰭と深紅の鬣は背にしまわれた。
尾鰭がのたうち、鰭は華奢な象牙色の四肢へ。
深い群青色の髪が現われると、伯は蒼奘の腕の中へ。
とろりと潤んだ菫色の眸。
「眠れ、、、」
その言葉に安堵したかのように小さく鳴くと、眼を閉じた。
安らかな寝息を腕に、踵を返した時、空には星だけが輝き、風が白い髪を弄っていた。
老婆を庵に送り届けた後、蒼奘と燕倪は、一旦街道と合流して村へ入る道を下っていた。
松の木の根や、頭上を脅かす枝はなりを潜め、比較的平坦な勾配を下って行くことしばらく、樫の木に結えられた葦毛が一頭、草を食んでいる。
そしてそのすぐ近く、
「主様、出立の準備は出来ております」
馬二頭の轡を取った琲瑠が、待っていた。
無人の街道を、三頭の馬が東へと向かっている。
「しかし、いいところあるんだな、お前も」
精悍な頬に笑窪を刻み、葦毛『千草』に乗るのは、燕倪。
そのすぐ隣、一瞥をくれたのは、
「ただ、伯がそれを望んだのだ、、、」
腕に眠る伯を抱いた、蒼奘。
青乳色の鬣、赤紅の瞳の異形の愛馬『鋼雨』の手綱を取っている。
「燕倪様こそ、どうして奈七戸にお寄りに?」
「俺は、その、、、」
二頭の少し後ろを、荷を乗せた月毛に乗った琲瑠が続く。
「琲瑠、野暮な事を聞くものじゃない、、、」
「ああ、すみません」
「人をなんだと思っているんだッ!!羽琶殿がいなければ、今の都も無いんだぞ?それに、そ、そんなよこしまな思いを抱いているんじゃない、、、」
だんだんと語尾が小さくなっていくので、
「ふ、、、」
青い唇が歪んだ。
続いて、琲瑠もくすくすとやってしまい、
「お前ら〜〜ッ」
耳まで赤くなった燕倪。
しかし、その先の言葉が見つからない。
ううう〜、と睨むその男に、
「よこしまな思いも、結構」
助け舟と、
「そうですよ。人生に張りは、大切です」
追い討ち。
「奈七戸になんぞ、寄らなければ良かった、、、」
からかわれてしまえば、純朴な燕倪に勝ち目などない。
そっぽ向いた先には、ぽつりぽつりと夜の帳に包まれた民家。
耳には、田植えが済んで、水を張った田圃で鳴く、雨蛙。
萌えて、頬にぶつかる、羽虫の音。
遠く彼方の山で吠える、狼。
不規則に響く三頭の馬の、蹄の音。
そして、体の納まりが悪いのか、蒼奘の腕の中で身じろぐ伯の、声。
ふと、
「なぁ、伯って一体、何者なんだ?」
「お前が、珍しい、、、」
顔にかかる髪を払い、包んでいた衣を首まで引き上げながらの、蒼奘が低い声音。
「どうして?」
「あまり、重きを置かないものと思っていた、、、」
「俺だってな、さすがに疑問に思うさ。魂は映すし、帝都の結界に風穴開ける。魂魄まで冥府へ送ったんだぞ?」
「そうだな、、、」
淡々と応じ、蒼奘の闇色の眸は、傍らの男を見つめた。
「だがお前は、その答えを知っているはずだ、、、」
「ああ。でも、こんなに小さくて幼いのにさ。生まれてすぐに、随分と過酷なもん、背負ってんのな、って」
伯を見つめていた燕倪は、顔を上げた。
「お前も、だ。月まで呼んじまって、、、」
「、、、、、」
「何者だ?」
鈍色と闇色の双眸が、交錯し、
「その答えを、望むのか、、、」
燕倪はその眸に、深い闇を見た。
そのまま待てば、この男は己が望む答えを、口にする。
燕倪は、漠然とだが、それを確信していた。
しかし、
「ま、いいさ」
すぐに、眼差し緩めて、
「酒の相手は、お前に限るしな」
苦笑い。
それに、応えたのか、
「正直、私にも、分からぬのだよ、、、」
冗談とも、本音ともつかぬものが息と共に、吐き出された。
その蒼奘が見上げた先の、夜空。
濃紺から、藍色へ。
自然、馬の歩みも速くなる。
帝都が近いと、分かっているのかもしれない。
藍から、菫色へ。
どこかで鶏が、鳴いている。
「夜明けが、近いですね、、、」
琲瑠の声音。
「急ごうか、、、」
「おう」
鞭をくれた二頭が、揃って走り出す。
その様を、終始にこやかな琲瑠が、変わらぬ速度を保ち、見送っている、、、