第参幕後 ― 虎精 ―
燕倪と清親が、富紀の山の鬼を追う中、蒼奘は、大陸渡来の人喰い虎と対峙する、、、
死人還りの都守蒼奘、業丸を継ぐ武官燕倪、幽身であるがこの世に縛られた伯。それぞれが紡ぐ異国絵巻、第参幕後編。。。
くわぁぁああ…
大きな鈍色の眸に、薄らと泪。
伸びをしつつ、さすがに寝不足だな、と昼下がりの雲一つ無い空を見上げていれば、
「宮中で、不謹慎な奴だな」
澄んだ、それでいて低い声音が掛かった。
束帯を纏った、天部清親。
備堂と並ぶ名家、天部家の長子であり、右近衛府中将を勤める、女丈夫。
妹に婿を貰うと、かつて右大将を勤めた父に代わり近衛府に入り、その腕を買われて今に至る。
「一体、何の相談だ?」
燕倪は、勅旨を差し出し、
「何の真似だ。この紫紺に銀糸の綾紐は、都守宛であろう?鬼退治ならば、私の管轄ではない。先の一件で、鬼には懲りている」
「鬼だけならな、、、」
事の次第を、燕倪は手短に説明した。
「それなら、仕方あるまい。御上も、さぞお心を痛めておられることだろう」
勅旨を畳むと、人目を気にして早々に燕倪の懐に捩じ込んだ。
「もう一度あんな化け物が出てきたら、さすがに勝てる気がしれんが、、、」
「都守が管轄外と言ったのだ。威信に掛けても、その化け物では無いのだろう」
真っ直ぐな、褐色の双眸。
「そ、そうか、、、そうだよな」
「それに、もし仮にその化け物であったら、あのいい加減な蒼奘を都守の座から引きずりおろせる訳だ」
「おいおい。その前に俺達が無事で居られるか、、、」
「鳳祥院が、竜やら何やらに躍らされ、二度と遊山なんてしないようにな」
眸の奥の、狂気じみた輝きを見て取って、
― やっぱり、そこを引きずっているのか、清親、、、 ―
燕倪は、思わすこめかみの辺りを押さえた。
そんな彼の胸中を、知ってか知らずか、
「燕倪、手を貸すぞ」
端正な口元を歪め、清親は、燕倪の申し出を二つ返事でもって、請け負ったのだった。
毎月、決まった日に朝市が立つのは、帝都の南東にある布津稲荷の境内。
早朝より集められたのは、新鮮な野菜だけではない。
活きの良い魚介類から、職人がこの日のためにと腕を振るった、螺鈿細工も細かな櫛や、蒔絵を施した文机。
日用品から嗜好品、贅沢品まで、ありとあらゆるもので埋め尽くされたその活気は、さながら縁日のようだ。
その一画。
大小様々な桶が、所狭しと居並んでいる。
その一つ。
水の中、人々の喧騒なんぞどこ吹く風。
長い尾鰭をゆらゆらとさせて、金魚らが優雅に泳いでいる。
飽きるでもなく、その様子をしゃがみ込んで覗き込む女童が、一人。
「?」
その傍らにもう一人、並んだ。
顔をうかがうより先に、水干から手が伸びて、
「ああ、触ってはいかん」
咄嗟に、先にいた女童が、その手を押さえた。
刹那、
「え、、、」
海辺の別邸で養生していた時に嗅ぎ慣れた潮の香りが、鼻腔をくすぐり、女童は、思わず手に、力を込めた。
ひやりと滑らかな、象牙色の肌。
腕の先、黒髪を青い紐で結い、大きな眸でじっと金魚を見つめる童の姿。
女童は、咄嗟に目を瞑った。
茫洋と、瞼に映し出されたのは、良くは晴れた日の大海原を思わせる群青の髪と、黎明を思わせる菫色の眸。
その奥。
何かが、霞みがかったその先に、在る。
「っ」
不意に、掴んでいた手を振り払われた。
目を開けると、漆黒の眸が、見つめていた。
「そなた、いったい、、、」
「ハク」
「ハクと、言うのか?」
「、、、、、」
こくり…
頷いた。
「わらわは、あとりだ」
「あ、と、り、、、」
大概の鬼や幽鬼は見慣れていて驚かないのだけれども、この童は、まだ何かある様な気もするのに、見通せない。
― こやつ、人ではない、、、? ―
底知れぬ癖に、
「やめよ。それは、水から出ては生きてはゆけぬ」
人の子のように、無邪気にまた手を伸ばすものだから、気が気でない。
伯が、桶の前から離れるまで、あとりは、その目を離せず、、、
境内に、一際大きい椿の木が、在る。
既に盛りは過ぎたのか、色褪せた椿の花は大地に散り、今は誰もその木の存在を気にも止めない。
ただ、その木の前には、人だかりが長く左右に伸びていた。
人々の視線の先。
組まれた格子に無数に結び付けられ、竹で編んだ籠から、
ピチチ…
リ…ロロ…
クィ…イイ…
賑やかな囀りと、落ち付かなげな羽音が、聞こえる。
色鮮やかな、小鳥達。
春を告げる鶯から、川の宝石と呼ばれる翡翠、喉から腹にかけて橙が美しい駒鳥、藤色がかった体色も珍しいカケス。
忙しなく羽ばたくものもいれば、疲れたようにじっと動かぬものもいる。
「、、、、、」
地味な褐色の直衣を纏った長身の若者が、その籠の一つに手を伸ばした時だった。
「虎精、一夜で千里を駈けるとは、あながち嘘ではないらしい」
背で束ねた、白い髪。
鶸色の直衣。
見間違えようのない、その姿。
「都守」
慌てて、辺りを見回した。
肩もぶつかる人ごみにあって、しかし、誰もその人に気づくことは無い。
それどころか、今の今まで、己自身でさえも、、、
辺りを素早く伺えば、皆、一様に歩をゆっくりと進めている。
音も、羽ばたく小鳥達も、明らかに異なる時間軸に存在していた。
― うかつだった。既に、術中か、、、 ―
若者の胸中を他所に、
「挨拶が遅れたな、陰陽頭の式殿。耶紫呂蒼奘と言う、、、」
鬱々とした声音が、名乗った。
「、、、、、」
それまで鳶色に沈んでいた双眸が、俄かに殺気立ち、深い紅へと染まっていく中、
「これは、いつぞやの。お初におめもじつかまつる。銀仁と、申す」
掠れた声が、応えた。
冷たい汗が、背を流れる。
咄嗟に探るのは、あとりの気配。
― あとりだけは、、、 ―
本懐遂げる前に、その人だけは、、、
まんじりともしない若者、銀仁の胸の裡を察してか、薄笑いと共に、
「いつでも参るがいい、我が屋敷へ、、、」
呆気なく背を向けた、蒼奘。
「伯」
名を呼ばれ、小さな童が人込みを抜けて駆け寄ると、衣の裾を握って寄り添った。
緩やかだった【時の流れ】が、戻る。
人々の喧騒が、どっと、押し寄せてきた。
「銀仁」
すぐ傍らで、その人の声が、した。
見上げてくる、あとりの青みがかった、黒瞳。
「そなたも、あの童を見たのか?」
そして、銀仁の手を包み込む、熱い両の手。
それを握り返しながら、
「いや、我は何も、、、」
探すその姿は、気配は、すでに忽然と、消えている。
その後、数日間。
大した騒ぎも無く、穏やかな日々が続いた。
そのまま、何事も無く過ぎるかと思っていた、矢先。
事態は、急展開を見せる事となる。
『心配すんな。何かあれば、俺もすっ飛んでいくから、な?』
― こんな事なら、受けなきゃ良かったっ ―
主にどうしてもと頼まれ、連日連夜狩り出されているのは、何も知らされぬまま巻き込まれた、籐那。
まだ、あどけなささえ覗える容貌に滲むのは、明らかな恐怖。
しかし、すぐ傍らにいる相手は、穏やかとは無縁の日々を送っている者のようで
「案ずるな。私が付いている」
市女笠を被っている旅装束の女が、低い声音で応じた。
風体からすれば、雨風凌げる軒先を探す、親子。
「でも、ここら界隈はついこの間、惨殺された遺体が見つかった辺りですよ?巡回に清親様だけとは近衛府の方々、随分と軽率過ぎやしませんか?」
「ああ」
「、、、、、」
あっさりそんな事を言うのが、市女笠の中で目を光らせる女丈夫、清親だ。
連日場所を、姿を変えては、疲燕倪れ知らずに目を光らせている。
先の一件と言い、人喰い鬼の出没と言い、どの家々も固く門扉を閉ざし、こんな夜更けに姿を現すのは、野良猫や犬といった動物くらい。
「今日は、もう、、、」
「静かに、、、」
帝都東、碧亜門を抜けた先には、北へ抜ける街道に合流する道が、ある。
御所を回りこむ事を考えたら、家路を急ぐ旅人は皆、この道を通る事で知られている。
帝都の築地壁が左手に延々続く中、右手には鬱蒼とした竹林が広がっている。
北の街道との合流地点まで、半刻程。
臥待月がようやく顔を出した時分、動きがあった。
「、、、、、」
清親の視線の端。
茫洋と、炎が竹林の奥で揺れた。
耳障りな、衣擦れの音。
踏みしめる落ち葉の音の、忙しなさよ。
素早く前後を挟んだのは、
「ひっ」
額に一角、裂けた口、赤々とした形相の鬼。
「お、、、おっ、おにっおにっ」
きらりと籐那の顔を照らした銀光は、鬼達が手にしている抜き身の輝き。
「昨今の鬼は、随分と良い刀を持っているな、、、」
腰を抜かした籐那の片腕を取って、築地壁を背に後退る、清親。
薄ら笑いすらさせて、じりじりと近づく二人の背後に、朱華色に銀糸で花鳥と縫い取った直衣姿の男。
左手に松明。
その右手に、何やらごついものがついているのを確認して、
ピゥウ―ッ
清親の口元から、甲高い音が響いた。
「ぬんッ」
咄嗟の事にも同ずる事無く、刀を振りかざす二人のうち一人に笠をぶつけ、
「遅い」
もう一方の太刀の下を掻い潜り奔る、閃光。
その瞬間、闇夜に噴き上がり、
「あ、、、」
ピッ、と籐那の頬に撥ねた、生ぬるい雫は?
一呼吸置いて、
ぼと…
鈍い音と共に、籐那の足元に転がったものが、ある。
「はひっ!?」
人の、手であった。
恐る恐る手をやって、拭ったその指先が、赤く、濡れた。
― ち、、、血ぃいッ!? ―
錆び付いた匂いが立ち込める中、籐那は目眩を覚えた。
同時に、
「ぬぐぁあああッ」
劈くような、野太い悲鳴。
それまで呆気にとられていた鬼の眼差しは、転がった手首と血濡れた肘から先を交互に見つめた。
無理も無い。
鬼の手首は、清親の袖に仕込まれた小太刀によって、刀もろとも跳ね飛ばされたのだ。
腕を押さえ、のたうつ一人をそのまま、胸の前で血塗れた小太刀を構えなおし、籐那の前に立った清親は、
「フ、、、」
頬に飛んだ返り血を、舌先で舐め取った。
「この女ッ」
鬼面を金繰り捨て、刀を八双から突きを繰り出す構えへ ――― 刹那、
「うぉおらあッ」
「ぬあぁっ」
見上げる程高い築地壁から、男の頭上めがけて飛び降りてきたのは、燕倪。
どうやら二人が行くのとほぼ同じ速度で、壁の向こうを梯子片手に歩いていたらしい。
「、、、、、」
清親が、無言で走り出す。
燕倪は、肩に掛けていた荒縄でもって、後ろ手に縛ると、
「手加減ってもんがないな、あいつ」
のた打ち回るその惨劇に、溜息。
その当人は、竹林に逃げ込んだもう一人を追って行った。
「これじゃ、助からんかもしれんが、、、」
流れ出す手首を止血するべく、襷掛けをしていた紐で肩を圧迫すると、
「籐那、大丈夫か?」
青褪めたまま、咳き込む籐那の背を擦ってやった。
― こんな、、、事、平気な主様って、、、ううっ ―
目の前に落ちているのは、先程清親が斬り飛ばした、手首…
― だ、、、だめかもっ、、、 ―
むかむかと込み上げるのを耐え切れず、道端に蹲ったのだった。
「、、、、、」
巨虎は、胸騒ぎに、瞼を押し上げた。
傍らの、温もり。
琥珀色の眼差しの先には、安らかな寝息を立てる幼い主の姿。
その頬に掛かる、黒髪。
「、、、、、」
そっと、傷つけぬように鉤爪で払った。
掛け布を肩まで掛けて、褥から抜け出すと、足音を忍ばせて廊下へ出た。
四日前、都守との邂逅から、あとりにも陰陽頭にも何も伝えられないまま、いつものように昼は陰陽頭に仕え、夜は結界の張られていないこの屋敷で、あとりと過ごしていた。
それに、終止符を打とうとしている。
「富紀の鬼、、、か、、、」
帝都から少しでも遠くの山で、この飢えを獣で凌ぎ、結果、人に利用される結果となった。
事件が明るみになり、陰陽師を差し向ける事になっても、陰陽頭の態度は変わらなかった。
いつか、得体の知れぬ鬼の噂に、名うての祓い屋が討ちに来れば、自身こそ、その鬼だと首を差しだそう。
人が演じる鬼を、餌に。
『いつでも参るがいい、我が屋敷へ、、、』
その者は、すぐに現れた。
あの日から、あの男の声が、耳から離れない。
全てを見透かし、この魂までもを、滅ぼせる者。
それでもいざとなると、あとりの寝顔を見る度、もう一日、もう一日と、心が、揺れた。
― それも、今日まで、だ、、、 ―
巨虎は、いつものように屋敷の裏手から、塀を越えた。
彼方から漂う、嗅ぎなれた香り。
舌に甘く、喉に暖かく、腹腔に蟠る、人の血肉。
その渇望も、あとりへの想いも、全て振り払うかのように身震いをすると、四肢に、力を込めた。
全てを見透かしたその者の元へ、向かうために。
「燕倪、拝んでみろ。鬼の顔をな」
後ろ手に縛った小太りの男の右足首を蹴り上げ、清親は顔色一つ変えずに、燕倪の前に突き出した。
「ヌグッ、ムグウヌグ――ッ」
燕倪の前に突っ伏す主犯格と見られる男は、右足を小太刀で射抜かれていた。
乱れた髪を掴み、顔を上げさせると、
「お前、、、」
白塗りに、置眉。
鈍痛に濡れ縋る、目尻の下がった眸に、見覚えがあった。
「知っているのか?」
「瑪甲の伊禮正賢先生の門下で確か、三条、、、成由」
― 先生の屋敷で会う度に、業丸を見せてくれとせがまれたこともあったな、、、 ―
「刑部の三条成辰殿の縁者か何か、か。いずれにせよ、後でたっぷりと話してもらうぞ」
冷やかな眼差しを注がれ、後退る成由。
その脇腹に手をかけて転がせば、
「これは、、、」
男の手に不釣合いなもの。
「鬼の爪」
差込式になっているのは、四つの鋭く長い刃を持った、鉄爪。
しかも、
「この焦げは、、、」
不恰好に黒々とこびりついているものがある。
「こいつッ」
察した清親の顔が、俄に険しくなる。
握りしめた拳が、何度も何度も成由を打つのを、
「なんて、惨い仕打ちを、、、」
この時ばかりは燕倪も、止める事が出来なかった。
傍らにいた巨虎が出て行ってすぐ、あとりも褥を抜け出した。
寝着も髪もそのまま、庭に降りれば、
― いつもは、もっと早い時分に出ていくのに、、、 ―
隣の屋敷の上を越え、南西の方角へ駆けて行くその人に、
「銀仁」
その小さな呟きは、届かない。
籐那を先に帰らせ、三人を連れ、一先ず近衛府へ向かう途中、
「む、、、?」
ふらりと辻から現れた者がいた。
― 伯? ―
白い寝着。
纏う雰囲気に、一瞬、目を疑ったが、
「あれは、確か、、、」
清親が、しきりに辺りを見回すその者に、近づいていった。
「天羽殿のところの、あとりではないか」
「清親様、、、?」
はっとして、一向を見つめたその深い眸。
― 天羽と言えば、陰陽頭の、、、 ―
さすがに、いぶかしむ燕倪を他所に、
「こんな夜更けに、一体どうしたのだ?お父上が心配されるぞ」
「、、、、、」
「夜気は冷える。屋敷まで、送ろう」
清親は、あとりの肩に手を置いた。
その時であった。
「主さまッ、主さまァァアっ」
甲高い、叫び声に続き、血相を変えて駆けてくるのは、
「どうした、籐那!?」
先ほど、先に帰したはずの、籐那。
「鬼、鬼がッ」
息も絶え絶えに指を差す、その方角。
「あとりっ」
走り出す、女童。
燕倪が追いかけ、すぐにその腕を掴んだ。
「は、放せッ」
暴れるあとりを、咄嗟に小脇に抱えると、
「籐那、どこで見たっ」
「恵堂橋の向こうですッ!!赤くて、とにかく大きいんですッ」
「どうする、燕倪。本物の鬼のおでましだ」
― あの時の鬼かっ ―
富紀の山で会った巨虎の姿が、脳裏を過ぎる。
「俺が行く。厩舎のお前の馬、借り受けるぞ。それと、いったん、この娘は左近衛府で預かる」
「ああ。こっちは任せておけ」
「すぐに何人か、人手を回させよう。籐那、応援が来るまで、そいつらを連行する清親を手伝ってくれ」
「え、ええ〜ッ」
じたばたするあとりをそのまま、御所へと走り出す。
寺院や公家の屋敷が居並ぶ界隈を抜けると、堀に囲まれた御所の高い築地壁に出た。
篝火の焚かれた門の一つに向かおうとして、
「わらわも連れていってくだされ」
袖を引かれて見れば、深く青味がかった眸にぶつかった。
「何かあってからでは、遅い。人をつけるから、屋敷に戻るんだ」
「一人では戻れぬッ」
微かに震えながら、あとりは燕倪に告げた。
「わらわは、その鬼の主なのじゃ」
ひっそりと夜の静寂に包まれた界隈。
しかし、一つだけ煌々と篝火焚かれたままの屋敷が、ある。
「お待ちいたしておりました。主が、お待ちかねです。どうぞ」
「、、、、、」
門前に立った男は、間髪入れずに開いた扉より現れた、柔和な笑顔の若者の背に、無言で続いたのだった。
くん…
それまで大人しく、膝枕で眠っていた童が、鼻を鳴らした。
ひどく鼻腔につく、その香り。
人は少しも嗅ぎ取れないのに、人外の者の鼻はごまかせないようだ。
目を擦りながら、蒼奘を見上げたのは、伯。
「、、、、、」
「伯」
見下ろした先に、菫色の眸。
見つめる先で、菫色の眸が、大きく黒目がちになる。
蒼奘の右手を引き寄せ、
かぷっ…
小さな犬歯が、親指の付け根をしたたか噛んだ。
「、、、、、」
じわりと手の甲へと滴る、赤い血潮。
そのまま、
ぽた…ぽたた…
伯の唇を染め、白い顎先を伝い、滴る。
「ぶぶっ、、、」
とたんに眉を寄せて首を振り、両袖で口を覆って身悶え。
「人は、お前が思うほど、美味なものではないよ」
「ぁぅぶぶっ、ぁえぷぷっ」
じたばたと暴れる伯を支え、口を懐紙で拭ってやりながら、
「神と虎精では、発生の過程が異なる。なぁ、銀仁」
腕組みをしたまま、庭に佇む異国の男。
朱金のばさら髪。
長身で彫り深く、金の双眸鋭い偉丈夫。
臙脂の長袍を、その身に纏っている。
「我らは人に似て、けれど獣に近く、そして人と対極の存在」
「我らはそれに比べ、万物の中に在って、万物の外郭を成すもの」
「我らは、我らの祖を蹂躙し続けた人への憎悪、その過程で、発生した」
「その通りだ」
「人を喰らう事で我らは、その憎悪という飢えを癒し、その恐怖の対象となる事で、大陸で棲み分けを可能にした」
「そんなお前がこの国に辿りつき、人の中で暮らしている。しつこくも甘く、鼻腔深くに蟠る人の腐臭を、その身から漂わせて」
「、、、、、」
「その匂いは業と同じだ。いくら人を絶ったところで、今生、消えることはない」
銀仁の瞳に宿った、翳り。
「この先、人を喰らわぬ保障はない。御所でそなたを見た時、できる事なら早急に何も知らぬ燕倪の刀に斬られてしまえばいいとさえ、思っていた」
「我も、其れを望んだ。我はかつて、人を喰らい過ぎた、、、」
銀仁は、視線を落とした。
「そして、その業故にただひとり、愛した人までも、失った、、、」
「虎精が人を、な、、、」
女は、人だった。
怪我をして山で動けなくなっている所を、助けた縁。
目を放した隙に、何も知らぬその人を、何も知らぬ他の虎族が、喰らった。
逆上し、我を失った銀仁は、その虎族を狩ったのだった。
「この身を裁くのは、人の太刀では生温い」
それが出来るのは、愛した女の最後の叫びであり、断腸の想いで眷族の汚名を晴らすために立ち上がった実の弟の牙であり、そして、家族として共にあり続けた者達の爪だ。
しかし、それですら、虎精の命は紡がれた。
「だが、我を滅ぼすのなら、貴公のような者でなければ、」
眷族に、実の弟に、屍を晒すことで与える痛みを恐れ、海に身を投げたのに…
幾日も海に漂い、流れ着いた先で拾われた、命。
何よりも異形の虎精を恐れる事無く、献身的な介護で看病を続けた幼い人の、主。
― 赦されるのなら、あとりの傍らに在りたい ―
今でも、その思いは変わらない。
変わらないが、
― それを望んでは、、、 ―
「我が牙に掛かった者達は、報われぬ」
差し出すように、伸べた、頭。
刹那、
「銀仁っ」
その人の、声がした。
可憐な単の袖を翻し、山野草が植わる小道から現れたのは、紛れもない、
「あとり、、、」
その人。
手を広げて銀仁の前に立つと、
「都守、わらわは陰陽頭天羽充慶が娘、あとり。わらわこそ、銀仁の真の主じゃっ」
異形の都守、蒼奘を睨み据える、勝気な黒瞳に、恐れはない。
真っ直ぐなその視線を、蒼奘の無機質な闇色の眸が、受け止める。
「銀仁を、斬るというのか?!」
「あとり、我は海の向こうで、、、」
「赦されぬから、死んでもいいとは、おかしい。赦されるいつかのために生きようと、わらわの手を取ったのではないのか?!」
あの日、死ねぬ自身を呪い、自ら幕を引こうと目を閉じた。
それを見透かしたかのように現れたのは、あとり。
人を憎み、そして人を愛し、眷族から追われた異形の鬼とも等しい存在に、幼いこの娘は、手を差し出した。
何も畏れぬ、魂。
目が眩む程の陽の光の中、銀仁は、あとりの手を取ったのだ。
― 赦されたい ―
ただ、そう望んで。
「銀仁がこの都に仇なしたのなら、主であるわらわの責。わらわも共に、その報いとやらを受ける所存だ」
「あとりっ」
「面白い、、、」
欄干を手に立ち上がった蒼奘は、青い唇を吊り上げた。
そのまま裸足で庭に降りると、腰ほどまでしかないあとりの前で膝を折る。
「姫、生まれながら、そのように深い眸を持つのか?」
こんな時に、随分おかしな事を言う男だと、あとりは思ったのかもしれない。
首を傾げながら、蒼奘の眸を見据え、
「生まれながら、わらわは鬼と共に在った」
可憐な唇は、への字になった。
「さすが、天羽殿の血を引く姫だ、、、」
「鬼にも人にも、耳があるのは、悔い改めるためじゃ。母上が言っていた」
「良い母君をお持ちだ、、、」
蒼奘の笑みが、深くなった。
「いんじん」
ふわり、、、
白い袖が、翻る。
軽やかに宙を蹴り、銀仁の肩に幼い手。
ぺろ…
「っ」
頬にぶつかった、生暖かい感触。
細まったままの瞳孔が、まぁるく琥珀色の瞳に滲んで、銀仁は、頬に手。
「あまぁく、、、ないっ」
ぷいっ…
身を捩ると、伯は、同じように宙を蹴り、そのまま蒼奘の首にしがみついた。
その群青の髪を梳きながら、
「私は、ただの都守。この小さき国の都一つでも手に余る。ましてや大陸で犯したお前の罪とやらを裁けるほど、万能ではないよ」
眼差しは、小道の先へ。
「燕倪よ、富紀の山に棲む鬼、どうなった?」
暗がりから現れたのは、燕倪。
あとりに乞われ、連れてきた張本人。
「お前の推察の通りさ。やんごとなき姫君に化けた清親に、捕らえられたよ。無類の刀剣好きで知られる三条成由と、その屋敷の若衆だ」
手にした包みを解けば、
「これが、鬼の爪だとよ」
四本の鋭い鉤爪を持つ鉄爪。
赤銅色のそれは禍々しく、
「お前が里の人に目撃されたのを隠れ蓑に、都の周りで犯行を重ねたんだ。富紀の山で聞く噂に乗じて、新刀試し。その後は、鉄爪を焼いて押し付け、鬼の仕業と見せかけた」
すぐに包みに仕舞った。
「腹を裂いたのだって、人喰い鬼の仕業に見せかけるためだ」
「どういうことじゃ、銀仁?」
「、、、、、」
真っ直ぐに見上げてくる、その青みを帯び澄んだ、眸。
「黙っていては分からぬ」
「、、、、、」
「飢えをしのぐため、鹿や猪を狩ったのだろう。都からおまえの足なら、すぐの山に」
「夜半に抜け出していたのは、そのせいだったのか」
「、、、、、」
項垂れる、銀仁。
「虎精は元々肉食だ。我等と同じ食事では、命を紡ぐことができん」
富紀の山で腹部だけを喰われ、放置された動物の屍骸を見つけた山伏が、まことしやかに語り、怖いもの見たさの人によって、さらに尾鰭がついたのだろう。
それを聞いた三条成由らがさも人喰い鬼の仕業であるかのように、大胆に事を成したのだ。
事件を知った銀仁は、それを己の所業であると甘んじて、自らの生に終止符を打とうとしていたのだ。
「いずれにせよ銀仁、お前は潔白だ」
「それでは、困る」
眉を寄せ、牙を剥いた銀仁に、
「これでも一応、役職持ちでな。理なき調伏は、許されておらんのだ」
しれ、とそんな事を言う蒼奘。
「、、、、、」
ぬけぬけと言ってくれる、と、黙っていた燕倪は蒼奘を睨んだ。
「この先など、我には無い」
「その命投げやる前にそなたを、そっくりそのまま受け入れた姫の想いを、考える事だ、、、」
「銀仁、、、」
その人の手が、銀仁の手を握った。
温かく、小さな手だった。
「あとり」
銀仁は、膝をついた。
「我は、やはり赦されるべきではないのだ、、、」
首を差しの出すように伸べたその肩に、あとりが、もう一方の手を乗せた。
「それなら何度でも、わらわはそなたに、手を差し伸べよう」
振り払われようが、何度でも。
「肺の病い深く、多田羅の浜の屋敷で鬱々と鬼と共に暮らしていたわらわを、屋敷の外へと導いたのは、そなただ」
生来、鬼を寄せ付けやすい体質。
それ故に、病にも蝕まれてしまったその身を案じ、忙しい合間を縫って訪れては訪れてくれた、父。
先月、一年振りに母が待つ帝都に父に連れられ、傷も癒えた銀仁と共に、あとりも病を克服して戻ってきたのだ。
「そなたがおらねば、あとりも、もうこの世に在らぬ身であったかもしれぬ」
願わくば、強く在りたい。
水底で叫ぶまだ見ぬ魂に、勝手にそう誓った。
何でも、良かったのかもしれない。
折れそうになる心を、強くこの体に繋ぎとめるものが欲しかった。
そして“何か”が、二つの異なる魂を、引き合わせた。
「銀仁が、わらわをこの世に繋ぎとめる楔だったのじゃ、、、」
欠けたものを、互いに補うかのように導かれた二つの魂は、あの日、あの場所で、出逢った。
「だから、わらわは生きたい。銀仁と共に、、、」
共に、生きよう。
「あとり」
銀仁の金色。
その双眸から溢れ出すのは、
「こ、、、れは、、、」
涙。
おろおろと、頬に伝うそれを拭い見て、そしてようやく、
― これが我が、生きる意味、、、 ―
その言葉が欲しかったのだと、銀仁は魂で思い知る。
赦されたい…
赦されない…
赦せない…
その中で漠然と、しかし確実に育くまれていったのは紛れもない、あとりと過ごす ― 安らぎ ― であった。
握り返す、小さな手。
「あとり、我は、何度おまえに救われるのだろう、、、」
この小さな温もりは、
「何度も、言った。これからも、銀仁が立ち止まる度に、言う」
いつかの力強い目を、していた。
「ああ」
涙を拭うと姫を抱き上げ、腕に座らせた。
「都守、ここに誓おう。この先、我が、人を喰らう事は無い」
「陰陽頭の式殿だ。万に一つも、その言葉に偽りはあるまい」
銀仁は、深く頷いた。
「なぁ銀仁。鹿や猪が必要なら、俺が狩りに付き合うぞ。都周辺の山なら、俺が知らぬ所はないからな」
なんともいえない感情が、その顔に浮かぶ。
俯きながら、両手を胸の前で組んで膝を折る、異国の礼。
「、、、、、」
次の瞬間、銀仁は高く跳躍し、塀を飛び越えていった。
刹那、風が巻いて、三人は二人が消えた方角に、朧月を見る。
「お酒を、お持ちいたしました」
汪果と琲瑠が現れなければ、三人はそのまま庭に出ていたままだったかもしれない。
どこか哀しげに滲んだ、そんな月夜であった。
人気の無い道を選んで疾駆する巨虎の背で、あとりが、首にしがみついて言った。
「銀仁、生きていればいつかは、そなたを恨む者より、想ってくれる者の方が多くなる」
「想って、、、」
「そうだ。だが、忘れるな。わらわが、その一人目だ」
― いつか、わらわがいなくなっても、、、 ―
あの日、手を取った時と、何ら変わらぬ温もり。
あとりは、巨虎の首に頬擦りした。
「ああ、あとり、、、」
巨虎は、大きく頷いた。
その憂いは、まだ晴れない。
この先、晴れることは無いのかもしれない。
それでも今は新しいこの土地で、この人と共に在りたいと、そう想えるのだった。
「なぁ、本当に、俺に斬らせるつもりだったのか?」
汪果が月琴爪弾く、阿四屋。
それぞれが杯を持ち、琲瑠が酒を、満たしている。
「私はいつも、合図を送るだけ。斬るも、斬らぬも、お前次第さ、、、」
「いい加減な事を」
「それを斬れと言えば、そのどれをもを斬る。まったくお前は、いつも好き勝手やってくれる」
「先の一件を言うのなら、聞かんぞ。一人を残すなど、後味が悪すぎる」
「そうだな、、、」
― あの男なら最初から、お前と同じ選択をするだろう、、、 ―
「等しく揺ぎ無い答えを、いとも容易く見出せるお前達が、私は少し、羨ましい、、、」
「あ?なんだって?」
「いや、、、」
傍らの伯が膝に入り、杯を手にうとうとし始める。
杯を取り上げると、そのまま丸くなって、蒼奘の手を胸に抱く。
すぐに琲瑠が気を回し、着物を一枚持ってきて掛けてやれば、もうすやすやと寝息が聞こえた。
「なぁ、あいつ、大丈夫だよな?」
燕倪の、どこか不安気味な声。
「万年の時を生きると言われる虎精。人を喰うその業薄れれば獣に戻るか、人に成るか、はたして、、、」
「憎しみもまた、純粋な想いの一つ、か、、、」
「ああ。その想いをも超越した者を、私は今だかつて見たことがないが、あの姫なら、あの男、その業から解脱できるかもしれぬ」
「あいつが大陸で何をしたのか、何を背負っているのか、俺はよくは知らないが、、、」
静かに、
「生きて欲しいと思うよ」
そう、言った。
鬱々と沈んでいた銀仁の顔が、燕倪の脳裏に蘇る。
― あんな顔、誰だって見たくないじゃないか、、、 ―
その燕倪の横顔を一瞥して、
「そうだな。異なる種の中にいれば、失うものもあるが、そうやって得るものもある。そうして分かり合うのなら、その罪とやら、悪くないのかもしれない」
青い唇に、杯を当てた。
「いずれにしても、陰陽頭の式神としてこの都に在るのなら、心強いさ」
「お前、楽できると思ってるだろう?」
「いいや、、、」
琲瑠が、瓶子を傾ける。
「陰陽寮に在るだけ、厄介な手駒には、違いないが、、、」
じょうじょうと、爪弾かれる月琴の音に誘われて、
「ほ、これは風流。花精も来たことだ。ほら琲瑠、汪果も呑めよ」
「はぁ」
「では」
何処からか舞いこんだ、薄墨色の桜の花弁。
杯二つに酒、満ちて…
浮かび、ゆらゆらとして、月、映す…
「都守の座、手放すつもりはないよ」
小さく、ひとりごちだ。
「あ?何か言ったか?」
ことりと杯を置いた燕倪に、
「いや。ところで、左少将殿」
長椅子の肘掛に置いた腕に、細い顎を預け、流れる長い銀糸の髪の間から覗くのは、うっそりした闇色の眼差し。
「なんだ、改まって、、、」
「こんなところで、油を売っていても、いいのか?」
「あッ」
思い出したのは、清親の顔。
「は、琲瑠っ、馬を出してくれ!!と、取調べが残っていたっ」
「はい。ただいま」
たっ、と走って行くその人に続き、鬼の爪の入った包みを抱くと、
「また寄る」
庭に出て、門へと抜ける小道の暗がりに走っていった。
「主様、もう一献、、、」
砂利を踏む足音が遠ざかるのを見計らって、汪果が瓶子を持ち上げた。
空になった瑠璃の杯を満たすと、青い唇が杯に触れた。
「相変わらず、騒々しい男だな、、、」
「ええ」
白く細い喉を晒して、一息に飲み干すのを、琥珀色の瞳が見つめている。
細く息を吐いて、杯を置き、
「万年を生きる者にとって、人の一生など刹那。それでも、その刹那を共有できる者が在れば、万年の孤独にも、耐えうるかもしれない、、、」
「主様は、見つけられたではありませんか、その腕に。万年の時をも、共に歩める者を、、、」
闇色の眸が見つめる先には、寝息をたてる、伯。
「この仔の心を欺く私には、その資格はない、、、」
穏やかな、その寝顔。
群青の髪を梳きながら一人、蒼奘は杯を重ねる。
そして汪果は、主に乞われるまま、いつまでも月琴を爪弾くのであった。
虎精銀仁
もう十年以上になるだろうか?
昔、ノートに書きなぐっていたものを、帝都の登場人物として移植。
シユエとの悲恋の話は、外伝で書き足せればいいのだけれど、なかなか、時間が許さず。。。
元々、彼は主役で、現在という設定で、日本と中国を舞台に書いたんだっけなぁ。。。もちろん、あとりも出ていた。ちなみに名前は、【コサクラ】。って、どーでも、いいか。。。