鬼百合
「お、師、、、」
ふるえる、唇。
血潮がとめどなく、滴り落ちてゆくのに、目の前のヨルは、笑っていた ―――、満足げに。
かつての姿で、かつての顔で。
血濡れた手で、蒼奘の頬を擦る。
輪郭を、刻みつけるように。
「いや、、、です、、、」
じわりと滲んだ涙を、力強い、その指先が拭って、
「泣くんじゃねぇよ」
頬を寄せ、耳元に囁いた。
ヨルは、ゆらりと立ち上がると、蒼奘に背を向けた。
天地へと突き抜けている黒き刃 ―――、鞘無しへと向かいながら、
「俺は、永劫の闇に還ろう。檀の根を張り、【亡影】を抱き眠る。寄る辺もあれば、常闇もまた、愛しきものよ、、、」
歌うように、そう言った。
【破眼】を失ったその身に残された時は、僅かなのだろう。
枯れ枝のように、急速に痩せ細り、赤き髪は、白く抜け落ちてゆく。
「ここは、じきに崩れるぞ。早く、行け、、、」
鞘無しに背を凭れた、ヨル。
土気色になった肌に、落ち窪んだ眼窩は、そのまま、蝕まれたものと同じ様相を呈していた。
かつての姿すら保てない、ヨル。
腹から突き出た、檀の枝。
枝からは、新たな枝が伸び、緑の葉を結んでいた。
背中の鞘無しへと突き刺すように、押せば、その力を吸いとらんと新たな枝を伸ばし、
ピシッ…キシシ……ビキッ…
亀裂が、大きくなった。
貪欲な、太古の破魔の樹木、【檀】。
パッ…―――ァアアンッ…
鞘無しが砕け、脆くも、弾けた。
細やかな闇の粒子が、さらさらと落ちてゆけば、ぐらりと足場が揺れ、一度は、天帝の力を獲て、現世に現れた【紫微城】が、傾き始める。
「今は、八火が支えているが、時間の問題だ、、、」
奏伯が、踵を返した。
そのまま、伯の元へ。
頭上から、崩落をはじめた瓦礫が、降り注ぎはじめて、
「お師さんっ」
「来るなッ」
「ッ」
有無を言わさぬ、強い言葉であった。
さすがに、びくりと身を竦めた、かつての愛弟子。
青ざめた顏、平素穏やかたる表情が、いつになく強張っている。
ヨルの、失われた双眸は ―――、【慈愛】を、湛えていたことだろう。
「今更、なんだ?そもそも、還元すると、お前が言ったんだろうが、、、」
「うっ、、、た、建前というやつですっ」
「くくく、、、」
苦笑しつつ、その声を聞いた。
― このまま言葉を交わし続ければ、未練と言う想念が形を成しそうだ、、、 ―
蒼奘に向かって、ただ、ひらひらと手を振りながら、
「まぁ、あれだ、、、縁があれば、また逢おう。愛しき、この世で、、、」
ヨルは、その言葉が終わらぬうちに、鞘無しの粒子が渦巻く闇の淵へと、身を投じた。
ゆらり…
「おっ、お師さ―――ッ」
「ばっ、、、蒼奘ッ」
身を投じたその人を追って駆け出した、蒼奘。
闇の淵に、身を乗り出さんとした寸でのところで、
「気は確かかッ!?」
階段を駆け上がってきた燕倪が、肩を掴んだ。
「嫌です、お師さん!!僕は、まだまだ、あなたに遠く及ばないッ!!このまま勝ち逃げなんて、あんまりだッ」
他でもない想いの丈が、声の限り紡がれる。
「お師さんっ」
その想いの深さに打たれながら、しかし、
― もう、充分なはずだ。冥府の深みで、こいつの事だ、自らを責め続けたはず。これ以上、どこにもこいつを、行かせはしないッ ―
燕倪は、肩を掴むその手に、力を込めずにはいられなかった。
遠く、どこまでも心地良く、最愛にして最後の弟子の言の葉が降り注ぐ中、ヨルは、狭まりゆく視野の真ん中へ、手を伸ばした。
視覚は、ほぼ無いが、明るさは薄らと感じていた。
― さらばだ、俺の片翼。蒼奘、、、 ―
その名を想えば、脳裏に、眩く、どこまでも広がる清らかな青き空が広がった。
手を伸ばしても、けして届かぬ、遥かなる高み。
闇に愛され、闇に甘んじ、闇に身を投じた者が ―――、見出した者。
その翼は、青く ―――、どこまでも澄み渡たる意は、自ら焦がれながらも、相容れぬ運命≪さだめ≫にあるという、決別と言う【対極の意】でもあった。
だが、
― その名を与えた、この眼に、狂いは無かった、、、 ―
ヨルの口元に、満足気な笑みが、浮かんだ。
― 終われるのだ。これで、ようやく、、、 ―
万冠の想いで、意識を、感覚を、自我を手放し、闇に沈まんとする、その身。
亀裂へと吸い込まれながら、脳裏に浮かんだ眩さにすら目を背け、瞼を、命を閉じようとして、
≪ ヨル、、、 ≫
聞き覚えのある声が、鼓膜を打った。
「ん、、、?」
閉じかけた瞼を、気力で押し上げた。
髪の間から、白き一陣の風が、現れた。
それは、小さな龍の姿をして、頬の辺りを擽るものだから、
「風伯か、、、?この先の伴は無用。すぐに空へとお戻り、、、」
空へと差し出されたヨルの指の間を、すり抜け ―――、漂う。
常闇の大渦、見果てぬ深淵へと落下してゆくその痩躯に、ぴたりと寄り添い、離れようとはしない。
すぐ鼻先で、こちらを見つめる白き風の精霊 ―――、【風伯】の気配。
≪ まったく、お前の眼は、いつだって俺以外に注がれていたものな、、、 ≫
呆れたような、それでいて、少しだけ責めているような ―――、聞き覚えのある声であった。
「お前、は、、、そう、だったのか、、、」
穏やかに、眇められた。
「ふふ、、、」
それは、蒼奘ですら知らない柔和な表情で、
「死した後も、風伯となって、ずっと側にいてくれたのか ―――、真砂」
その名を受けた風伯が、白い光の粒子となった。
闇に彩られた、白く、遠ざかる世界。
その狭間で、さながらそれは流星群のように尾を引いて四散し、
≪ 無茶ばかりをする、、、 ≫
白袍を纏った、精悍な若者となった。
なんとも言えぬ表情で、ヨルを静かに見つめている。
― あゝ、そうだ。俺は、ずっとこの眼差しを、背中に感じていたんだ、、、 ―
いつになく、安らいでいる自分がいる。
「まったく、貧乏籤ばかり引くよな。お前って奴は、、、」
さすがに観念した様子で肩を竦めてから、ヨルにしては、おずおずと手を伸ばした。
≪ お前に関わった時から、とっくに覚悟の上さ。今更何度、言わせるつもりだ? ≫
焦れた若者の手指が、その手を迎えて絡めとると、頬へもってゆく。
確かな温もりと、ひどく懐かしい感触に、
「そうさなぁ、、、」
観念した様子で、ヨルは、瞼を閉じる。
「これからは何度でも言おうか。物好きな【覚悟】だ、と、、、」
その身を強く掻き抱かれながら、ヨルが、【いつか】と同じ顏で、笑って応えた。
「あれは、、、」
燕倪が目を凝らす中、
「真砂殿、、、」
蒼奘が、呟いた。
燕倪は、蒼奘の体から力が抜けるのを、肩を掴んでいた手の感触で知る。
「真砂っていやぁ、、、右近衛府の、あの筆頭中将だった?」
ゆっくりと、その肩から手を放す。
ヨルを追いかけ、飛び降りる不安は、ひとまずなさそうだった。
「燕倪ッ」
見れば奏伯が、人型となった伯を抱き上げ、後脚を引きずる鋼雨の背に乗ったところであった。
「おうッ‼蒼奘、一先ず、出るぞッ」
蒼奘の体を引き上げれば、
オオォォオオ…ン…
瓦礫を撥ね退け、
「おお、なんとか無事か、壱岐媛」
「血が出てるけど、大丈夫かい?」
紫の血で、左の鰭をしたたか濡らした、屍魚。
勢いよく、鰓蓋と背鰭を広げると、
「問題なさそうだ」
「うん」
二人は、その鋭い棘を持つように、左右へ。
宙を滑るように舞い上がると、鋼雨が駆け出してゆくのが見えた。
「下は、危険だ。俺達は、上から抜けよう。しっかり掴まってろよ、蒼奘」
「うんっ」
「よし、行こう。壱岐媛」
オオオオ…ン…
降り注ぐ瓦礫を避けながら、空洞となった頭上へ。
時折、身を翻しながら上昇して、
「危ないッ」
あともう少しと言うところで、一際巨大な天蓋の縁が、崩落するのが見えた。
逃げ場も無く、身を捩じり、背中の二人を守ろうと身を楯にする、壱岐媛。
「壱岐媛ッ」
一角を向け、その身を賭しても突き崩さんとする気迫が伝わってきて、
「行けッ」
燕倪は、重力に引かれ反らしていた体を、前へと倒す。
ウォオオオ…オオオッ…
壱岐媛の咆哮。
ドゴォオオ―――ッ…
肌をしたたか打つ、細かい礫の雨、その先へ。
「う、わっ、、、」
開けた、視界。
広がる世界は、満天の天の川が迎えてくれた。
息を呑む、その星の瞬きの中で、平衡感覚が麻痺した錯覚に陥る二人。
ゆっくりと壱岐媛が旋回し、水平を保ったところで、
「なんか、妙だな、、、」
燕倪は、首を傾げた。
蒼奘は、ぐるりと辺りを見つめて、
「星の地軸が、ずれているからね、、、」
「地軸?」
「うん。北極星を中心に回っていた世界を、一時的に別の星、金輪星に委ねて、術を跳ね除けたんだよ」
蒼奘が指を指すと、北斗七星が見えた。
もとずっと高いところで、赤い雲気が、幾重にも帯になっていた。
蒼奘は、その雲気の中に、緋龍の姿を見て、
― 世話を掛けたね、檎葉、、、 ―
ほっと、小さく安堵のため息だ。
「おい、蒼奘」
黙ってしまった蒼奘を心配してか、燕倪が鰭の向こうから顔をのぞかせた。
星明かりを吸ったその眸は、美しい青鈍を湛えていた。
「ああ、えっと、、、北斗七星はね、陰陽道では、八つの星から成るとされているんだ。この世を独楽に見立てると、他の星々の影響で、その軸が、反対側に振れることがあるんだ。その時に、天帝とされる北極星の位置にね、ほら、あの星がくるんだよ」
「それが、金輪星、、、」
「うん。八人の天女の末姫、金輪星」
北斗七星、第六星の外側にある、輔星。
かつての、人の世に舞い降りた、慈愛の天女。
「天空に張り巡らされた龍脈を統べたのは、勝間の地仙。元は天津国から下った、天仙。地仙の天狐は、地中に潜り、地脈に根を張って、冥仙である【彼】は、二柱の【聲】を神呪に変えて、加護を乞うた、、、」
「壮大すぎて、俺にはよく分からんが、、、」
燕倪は、巨大な亀裂へと吸い込まれてゆく、紫微城の残骸を眼下に眺めながら、
「なんとかなった、ってことだよな、、、」
袖で、ところどころ血が滲む顔を拭って、笑ってみせた。
「、、、うん」
頷いた、蒼奘。
壱岐媛が、下降を始める。
深い闇を湛えた、巨大な亀裂。
その奥底へと消えた、【師】。
― 潮が引くみたいに、戻ってゆく、、、お師さんを【人柱】に、、、 ―
仮初めの体では、そのぬくもりの記憶すらも曖昧だったが、その人の感触だけは、腕に残っているようであった。
「なあ、蒼奘」
「ん、、、何?」
沈黙が怖くて、燕倪は、声を掛けた。
再び、どこかに行ってしまいそうな、そんな不安に駆られたのかもしれない。
「その、、、あ、そうだ。あの、真砂殿の事なんだが、中将ってのに、白袍を纏って現れたよな?」
燕倪が見たのは、武官ではあまり馴染みの無い、白袍姿の男の背中であった。
「ああ。真砂琉斐殿に、間違いない。若かりし頃、陰陽寮より近衛府に転属した、見鬼にして剣聖と謳われる、先の【都守の随身】だった方だもの」
「そうか、、、やはり、あの一太刀は、真砂殿だったのかっ‼ガキの頃、伯父上の屋敷で、一度だけ、お相手してもらった御仁だ。だが、それがなんだって、その、ヨル殿と、、、死してなお、随身を務めていたってことか?」
「相変わらず、そこは鈍いね、君って、、、」
苦笑した蒼奘が、
― お師さんを、偲ぶどころではなくなってしまったよ。でもまあ、これも、燕倪、君がここにいる、お蔭かな、、、 ―
帝都を見つめた。
地上が、近づいていた。
往来に犇めいていた、魑魅魍魎の気配が、薄まっていく。
己が影に支配されつつあった者達も、じきに我に返ることだろう。
「都守付きとして、宮中に出入りしたての頃、お師さんが、真砂殿を【昔の男】と言ったことがあったんだ」
「そ、うなのか、、」
「お師さんは、あの通りの【異形の竜眼】。かたや琉斐殿は、名門真砂家の嫡男。互いに、忍ぶ仲だったのかもしれないね」
音も無く、壱岐媛が、地上へ舞い降りた。
大地を感じながら、降りれば、
「そうだったのか。けど、そんな御二方ならば、、、」
傍らに立った燕倪が、人好きのする顏で、笑って言った。
「どこだろうが、きっと、寂しくはないはずだな」
「それも、そうだね」
大きく頷くと蒼奘は、亀裂の淵に立つ、奏伯の元へ。
ゴゴ…ッ…ゴゴォオオッ…ォオ…
大地が、胎動する。
ゆっくりと、巨大な亀裂が、閉じようとしていた。
「天狐が、地脈を制したようだ、、、」
「ヨーゲ、、、」
その傍らでは、翡翠の角、やや癖のある群青の髪を背に流し、肩に長衣を掛けただけの童が、その手を握って佇んでいた。
今まさに、閉じゆかんとする亀裂を前に、
― お師さん、、、 -
またしても、込み上げる想いが、溢れてしまいそうになる。
それは、心で呟いたつもりだったが、
「、、、、、」
黎明を宿した大きな眸が、己を見上げていた。
【蝕み】の傷はすっかり塞がってはいたが、ところどころ、擦り傷や切り傷だらけであった。
その伯の小さな手が、伸びてきた。
「う、、、」
じわりと弱い涙が、黒い双眸に浮かぶが ―――、堪える。
真名を得て、短時間のうちに同調を幾度も繰り返した、伯。
活性化してしまったその感覚は、傍らの蒼奘の心とも、重なってしまったのかもしれない。
蒼奘が、伯と手を繋ぐと、見通せぬ闇の最果てに向かって、
「さようなら、お師さん、真砂殿、、、」
小さくそう、口に出して呟いた。
とたん溢れる想いに、奥歯を噛んで、感情に決着をつけようとして、
「、、、何?」
燕倪の視線に気づき、慌てて目元を拭った。
友の前で、さすがに、恥ずかしかったのかもしれない。
さも不思議といった呈でもって、その横顔を眺めていた、燕倪。
「いや、、、お前の事だから、諦めきれずに、ここで、てっきり追いかけるかと、ちょっと身構えていた」
「お師さんを?、、、ああ、冥府にまで、渡ったから?」
「ああ」
「、、、ふふ」
小さく肩を竦めてみせた。
「あの時の僕は、何もかもが、無くなってしまった気がしたんだ、、、だけど、今は違うよ。君達が、教えてくれたんだ。大丈夫。もう、見失わない。帰らなくちゃ」
大きく、息を吸い込む。
もう、あの夏花の香りはしないけれど、湿気を帯びた暁刻の、帝都に満ちる空気は懐かしく、感じた。
蒼奘は、傍らに佇んだ奏伯を、見上げた。
「僕も ―――、あなたも」
面差しは同じだが、まったく別人に映るその横顔は、
「、、、そうだな」
金色の双眸で、黎明に染まる空を見つめたまま、静かに頷いたのだった。
「ぃ、、、アっ」
喉の奥、小さく漏れた苦鳴に、―――、伯は両の拳を握った。
蒼奘の言葉は突然で、奏伯の応えは当然であった。
同調する以前に、その意味を、分からない伯ではなかった。
慌てて口を噤んで、呑み込む ―――、言葉。
そんな伯の前で、
「伯、、、」
奏伯は、膝をついたところであった。
「うう、、、」
たまらず、視線を反らせば、冷やりとして、それでいて触れれば温かな手が頬を包み、優しくさすってくる ―――、宥めるように。
輪郭に沿って流れる、群青の髪。
顎先へ伸びた指先が、耳へと掻き上げる。
促されるまま、真っ直ぐに前を向けば、
「、、、、、」
「、、、、、」
金色の双眸が、こちらを見つめていた。
星月夜の今居の浜で、初めて目にした、【世界】。
その世界で、一際精彩を放っていた ―――、あの時と同じ眸で。
顕現したばかりの幼神に、自らの真名を冠して【伯】と名付け、【世界を告げた声】が、
「私は、ここまでだ、、、」
「ッ、、、」
【世界の終焉】を、告げたようだった。
見つめあった先から、凍りついてしまう。
一段と能面のような、感情の一切を失った、伯の貌。
しばしの沈黙の後、可憐な朱鷺色の唇が震えて、
「、、、ゥ」
小さく、その名を呼んだ。
呼んで ―――、それだけだった。
髪に触れていた奏伯の手が、離れていった。
澄み渡った、黎明。
紫水晶の深みを宿して、伯は拳を震わせ、ただ、静かに立っていた。
強情で ―――、繊細。
さまざまな感情が入り混じって、言葉を選べずにいるようだった。
その伯へと、
「だが、共に【冥海】を渡ると言うのなら、歓迎しよう、、、」
奏伯の手が、差し出された。
「、、、、、」
菫色の双眸が、手と顏を、何度も行き来する。
一度だけ、伯が、後ろを振り向いた。
視線の先に、燕倪。
目が合えば、
「、、、、、」
燕倪は、伯に向かって、黙って頷いた。
伯の手が、胸に置かれた ―――、心の赴く先を、自らに問うために。
「ふ、ぅ、、、」
息が、吐き出された。
差し出されたままの、指先を見つめた。
そこから、視線を腕、胸、肩、細い神経質そうな顎先へ。
いつでも不遜な笑みを刷く、青い唇。
高い鼻梁。
そして、憂いを帯びた切れ長の ―――、金色の双眸。
その眸を真っ直ぐに見つめ返したまま、伯は、胸に置いていた手を、握り締めていた。
「オレ、、、」
気持ちを表す、言の葉。
「ここに、残ル、、、」
探して、組み立てた。
簡潔故に、その言葉は強い響きを帯びた。
一呼吸置いた後、燕倪が、伯の背中に何か言いかけて、蒼奘の眼差しによって我に返ったのか、頭の後ろを掻いて肩を竦めてみせた。
一方、奏伯は、
「、、、そうか」
袖に手を仕舞いながら浅く頷き、小さく ―――、笑ったようだった。
立ち上がった長身の主が、蒼奘を見つめた。
その手には、金の小匣、
「【鬼録者】たる我が務めは、果たされた。後は、汝の役目だ。【都守蒼奘】、、、」
その人を、呼んだ。
黒き冥衣の裾を靡かせ、真白の浄衣の奏伯の元へ。
淡く、青き燐光を放ち、二人の姿が重なり、
― くれぐれも、頼む、、、 ―
― うん -
想いを交わし、擦り抜けた。
闇色の眸で、空を見上げた、浄衣の蒼奘。
その傍らを、金色の光の柱が、擦り抜け、
― これは何というか、伯とは、迫力が段違いだなぁ、、、 ―
燕倪は、眩く発光する、その白き巨躯を見上げだ。
迫り出した牙と鋭い鉤爪、白虎にも似た体躯に、孔雀にも似た極彩色の尾翼が、澄んだ音色を奏でながら、広がってゆく。
金色に、虹色を砕き散りばめたかのような光彩が、細く引き結ばれ、燕倪に焦点を結んだ。
≪ 燕倪 ≫
神体に戻った奏伯が、名を呼んだ。
「おう」
にっ、といつもの人好きのする笑みで応じたところで、多面体の小瓶が鼻先へ。
「なんだ?」
その中に閉じ込められ、煌めく青紫の ―――、霊紫。
「おお⁈」
音も無く割れたその中から、馨しい香りと共に、青き風が、燕倪の左手へ。
≪ 最後の霊紫だ。伯が、お前にと、、、 ≫
「これは、、、、ははは、驚いたな、、、」
滴っていた血潮の下で、砕けていたはずの骨は繋がり、肉は芽吹いて、肌が張る。
痛みが消えた掌を、握ったり、開いたりする燕倪。
≪ 次は、私がお前を訪ねよう、、、 ≫
かつて、門扉を開き、迎えた時から始まった【縁】であった。
「ああ。いつでも来いよ。浴びる程、呑もうぜ」
大きく頷いて、手を上げた、燕倪。
死線を、種の垣根を越えて、かけがえのない揺るがないものが、そこに生まれたようだった。
≪ 八火よ、、、 ≫
いずこからともなく、色とりどりの火焔らが集まり、金色の光の中へと吸い込まれてゆく。
陽炎のように、一度だけ大きく揺らめくと、前方に、突如現れた霧が、幾重にも立ち込めて始めた。
壱岐媛が、大きく鰭を動かした。
風を捉え、一足先に、その先へ。
≪ なかなかに、面白き日々であった、、、 ≫
溜息のような、そんな呟き。
波紋のように刻まれる、銀の軌跡。
名残すらも振り切るように、その姿は、揺らめく白き霧の奥津城へと遠ざかって行った。
「ぁ、、、」
華奢な背中が、走り出した ―――、その姿を、追って。
しかし、
「く、、、っ」
ぴたりと、足が止まった ―――、深い霧へと掻き消えたその姿を、目に焼きつけているかのようだった。
握った、小さな拳が、震えている。
「伯、、、」
燕倪が、たまらず手を伸ばそうといて、
「、、、、、」
浄衣の袖が、翻った。
燕倪の目の前で、その袖は大きく広がり、
「、、、、、」
震える華奢な体を、抱きしめていた。
伯の眸には、涙こそ無かったが、
「、、、、、」
蒼奘の腕を強く掴んだのは、今はまだ、幼く小さな手。
黎明を宿し、どこまでも澄み渡る ―――、暁の菫鳳眼。
能面のような貌には、表情こそ無いが、その手は何よりも饒舌で、ありったけの力でもって、自らの言葉を自らに戒めん、としていたのかもしれない。
※
宮中、内裏。
梅雨が明け、照りつけるような太陽が覘いた、その日。
定例会の合図が、空に弾けた。
「民の不安は、わたしの憂慮そのものだ。大祓の儀、盛大に執り行うように、、、」
『ははッ』
束帯姿の重鎮連中が頭を垂れる中、御簾越しに退出する、帝。
やや上体を起こしていた蒼奘に、
― 頼んだよ ―
それとなく、一瞥。
― 責任、重大だなぁ、、、 ―
薄い口元に、小さく笑みを刻むと、一同共に、立ち上がった。
「、、、、、」
まだ、ところどころに、歪や傾きが見えるが、一流の職人によって、僅か五日目にして、ほぼ修繕の目途は立っているとのことであった。
彼方の築地塀、新しく塗り込められた漆喰の眩さに、目を眇めていると、
「蒼奘」
「あ、はい」
すぐ傍らにいた初老の男に、声を掛けられた。
「大丈夫か?顔色があまりよくないようだが、、、休めているのか?」
「ははは、ええ、いえ」
「どちらなんだ?」
あきれ顔の天羽充慶であった。
「この大祓の日取りさえ決まれば、少し落ち着くかと、、、」
「うむ。午後は時間が取れるか?」
「はい。大丈夫です」
「ならば、神祇官と共に、そちらに伺おう。星読頭には、、、」
「僕の方から」
大きく頷くと、
「たまには、屋敷に戻ることだ」
肩を叩かれた。
「はい」
縮こまりがちだった背筋を、伸ばす。
実際、都守の豹変ぶりは、一時、宮中の話題になった。
怪異を鎮めた反動と言う者もいれば、危険にさらした罪滅ぼしとも言う者もいて、二人の姿を目にした者までもが、錯覚であったとばかりに、これに加わったのだが、日々の激務に忙殺され、一大事にまで発展することは無かった。
人がはけてから、蒼奘は、星読寮への社殿へと向かった。
白い玉砂利が、夏の日差しを眩く反射し、椿の濃い緑が、一層鮮やかであった。
窮屈な冠をとれば、癖の無い白い髪が、長く背に流れた。
― 暑い、、、燕倪みたいに、短くしようかな? ―
日差しが、こんなにも暑いものだったのだと、風が、こんなにも心地よいものだったと、この世に舞い戻って、改めて思う。
遠く、眩い、その太陽を感じていると、
「相変わらず、融けてしまいそうな程、白いねぇ」
「あ、、、」
水干姿の童を連れた、異形の若者が、社殿の脇に、立っていた。
滑稽な鬼面に、癖のある金髪が映える。
無造作に外した鬼面の下から、真紅の双眸も涼やかな優男が現れた。
「ようやく会えた、と言うべきかな、都守?」
「これは、実敦殿。【僕】とは、御前試合ぶりでございますね」
深々と頭を下げた蒼奘に、挨拶はいいと手を振った。
負け試合だった分、その実、あまり思い出したくないのかもしれない。
「先代の遺言、果たせたと言うわけだ」
「そう、なるのでしょうか、、、」
俯いた蒼奘の肩を、実敦が叩いた。
「おれを負かした男が、俯くなよ。【都守代理】に倣って、堂々としているといいぞ。ほとんどの者は、いまだに、気づいちゃいないんだから」
「はあ、、、」
苦笑。
「しかし、帝都から遠く離れず、正解だった」
「その節は、大変助かりました」
向かいの実篤は、腕で大人しく抱かれている白鷹を、撫でている。
そんな白鷹同様、
「けれど、実敦様こそ、だいぶ心身共に消耗されているようですが、大丈夫ですか?」
見つめた先の実敦の影が、薄い。
顔などは、大分、やつれて見えた。
「何、これくらい問題ないよ。当分、屋敷で静養することにしたからね。今日は、初出仕で、各関係部署に、挨拶回りの最中さ」
「それでは、こちらに籍を?」
「いや、まだ、当面は各地を見回るつもりだよ」
「、、、、、」
「誤解しないでくれ、蒼奘。君には、感謝しているんだ。今が在るお蔭で、おれは、見えなかったものに気づけるようになったし、悠霧とも出会えたからね」
「へへへへ」
実敦の傍らで、悪戯小僧が、照れたように笑っていた。
「夜中、悠霧が伯を連れ回しているから、それも詫びなきゃと、、、」
「僕は、まだ、まともに屋敷に戻ってないので、伯と話してないのですけれど、その話は、いろんなところから聞いています。魑魅魍魎だけじゃなくて、大きな犬を追い払ってくれたり、盗人を掴まえたり、と。伯が寂しがっているんじゃないかと思う反面、なかなか戻れないので、助かります。悠霧、ありがとう」
「お、俺が勝手にしたくて、伯を連れ回しているから、お礼なんて、、、」
ぶんぶんと、首を振る悠霧。
「伯はね、嫌だと梃でも動かないみたいだから、悠霧と出掛けるのは、好きなんだと思うよ」
「そ、かな?俺と遊ぶと、愉しいのかな?」
今度は、頭を掻きながら、実敦を見上げた。
その肩に手を置いた、実敦。
「でもね、危険だと判断したら、ちゃんと武官に助けを求めること。分かったかい?」
「はーい」
悪戯小僧も、師の教えは絶対のようで、大きく頷いた。
「それじゃ、また」
「あ、はい」
師と、その後ろを纏わりつくように続く、弟子。
「、、、、、」
眩しく見つめながら、かつては、自分もそうであった日々が回想されて、
「蒼奘」
澄んだ声に、振り向いた。
さらりと、癖の無い長い髪が、日差しの中で翻る。
悪戯なそよ風が、甘い、あの夏花の香りを運んできて、蒼奘は、おもわす目を見張った。
向かいの社殿から、颯爽と歩いてきたのは、
「お師、、、」
「探したぞ」
褐色の双眸の女丈夫。
「、、、清、親?」
「呆けた顔をして、幽霊か何かに見えたか?」
「いや、、、少し、疲れているみたいだ」
苦笑しつつ、額の辺りを揉むと、
「ん」
鼻先に、何かが突きつけられた。
「こ、れは、、、?」
竹で編まれた、手のひら大の箱。
開くと、見るからに武骨な握り飯が、並んでいた。
「私が握ったのだ」
「清親が‼?」
思わず、変な声が出た。
さすがに、むっとした、清親。
「そんなに驚くことか?あとりが、元気になるからと、教えてくれたのだ。まともに、食べてないだろう?」
「あ、ありがとう。嬉しいよ」
けれど、その言葉に、満足げに頷いて、
「うむ。鳳祥院も、案じていたぞ。有事の後とは言え、無理はするな」
蒼奘の肩を叩くと、颯爽と右近衛府の社殿へ。
「ふ、、、」
握り飯の入った竹の箱を腕に小さく笑うと、蒼奘は、視線の端に弾けた橙の花に気がついた。
「、、、そちらでしたね、お師さん」
どこからか種が飛んできたのか、橘の古木の根本に【あの夏花の香り】 ―――、鬼百合が、幾つも花を、咲かせていたのだった。
虎目石で設えた、四阿屋。
螺鈿の円卓を前に、
「そうかぇ、、、あやつは、そのまま古巣へ戻ったか、、、」
眸と同じ紺碧を、侍女に爪に塗らせ、長椅子に肩肘をついて寝そべっている。
若い侍女が扇ぐ白孔雀の羽で、爪を乾かしながら、
「、、、さみしかろうなぁ」
ぽつりと、呟いた。
「伯のことだ。あの子の性格では、【行くな】とも、【行く】とも、言えぬだろう」
「そうでしょうか?」
遙絃の後ろに回っていた胡露の、どこか無機質に響く言葉に、
「む、、、伯はな、いっそ、我儘などを言わぬ子なのだ」
以前、布津稲荷の境内で、池に映る空を見つめていた伯の背中を思い出した。
「あのように幼くして、真名を奪われたも同然の環境下で、自らの意味を直視させられ続けてきたのだ。子が親に甘えるように、神霊とて、生まれ出でたばかりは、【後見】に甘えるものだ。それがどうだ?生まれ出でてすぐ、自らを凌駕する強大な力へのやるせなさを知った。抗う術を探すために、じっと耐えることにしたのだ」
「それは、健気でございますねぇ」
「、、、出掛ける」
急に立ち上がる、遙絃。
金色の輝きがさらりと流れ、足元に散らばった。
「あぁッ、、、地仙、御髪に、鋏を入れている最中ですから、動かないでくださいまし」
珍しく、声を荒げた、胡露。
立ち上がったはいいが、耳をぴんと伸ばし、思わず強張ったままの表情を一瞥して、
「お座りください、地仙。無理は、お体に障ります」
「、、、、、」
やんわりと、窘める。
四尾が揺れ、長椅子に座り直せば、肩の辺りで、蜂蜜色の髪が揺れた。
肩に落ちた髪を払い、侍女らに片付けさせながら、胡露は、侍女頭である一星によって運ばれた、茶器の元へ。
様々な種類の茶葉を混ぜ合わせながら、ぽってりとした白磁の急須に湯を張る。
「天津国より、仙桃が届いております」
薄い茶碗が、馨しい香りと、やわらかな勿忘草色で満たされる。
「上にも醜態が知られたとは、気が重いな、、、」
肩の辺りを揉む遙絃に、茶碗を差出す。
「よろしければ、飲ませましょうか?」
「まだ、ほんの少し、体に違和感が残っているだけだ。病人扱いするな。咬みつくぞ」
長い指先で、茶碗をすくいとる。
丹色の蠱惑的な唇を、その縁に寄せるのを見守ってから、
「わたしは、肝が冷えました。戻られなかったら、と、、、」
黄金色に輝く仙桃の一つを、手に取った。
あの日、屋敷の裏側に流れる龍脈群の間を、漂っていた者は、【胡露が知る遙絃であって、無い者】でもあった。
共に居た、古参の一星でなければ、遙絃だと言い切れたかどうか。
半身半獣神。
それも、胡露が知る金髪ではなく、黒髪であった。
当人の意識が、地脈から徐々に切り離され、胡露だと気づいた時には、いつもの姿に戻っていたが、
― その実、空狐と天狐を兼任していると聞いたことはあったが、、、わたしが知らない事の方が、多い、、、 ―
小さなため息だ。
居並んだ、精巧な細工を施された短刀の数々。
薄紅に染まった、金剛石の刀身を選んだ。
やわらかな皮に、刃を当てたところで、
「戻るさ。コツは掴んだ。霊紫に分解されたところで、再構成してみせようよ」
胡露は、その秀麗な横顔を見つめた。
戻ってからと言うもの、九尾は四尾のままであった。
一星などは知っていた様子で、特に何も触れる事がないため、胡露もあえては口には出さない。
薄絹の襲を纏い、虹の羽衣を肩にかけた姿は、いつもと何も変わらないはずなのに、
― いつか、わたしにも、話してくれるだろうか、、、 ―
放たれている神通力の量は、共に屋敷を出た時の比ではなかった。
見渡す限りの花園の世界は、今、金色の稲穂に覆われ、薫風を、涼やかな音色で奏でている。
遙絃の波動に舞い寄るのは、青鸞や鳳凰、飛龍や麒麟。
彩雲流れる雲間で、甘い雨を、呑んでは、双子月を背に、羽を休めていた。
翡翠の器に盛った仙桃を、差し出したところで、
チリ…リリン…
小さな鈴の音が近づいてくる。
彼方の母屋の方角、さわさわと揺れる稲穂の間から、
「主様」
首に鈴をつけた、小さな女童が現れた。
「【当代都守】が、いらせられました、、、」
「ご苦労、タオフィ。通してくれ」
「はい」
たっ、と駆け戻る姿を見送りながら、遙絃は尾を振った。
遙絃の背後に控える胡露が、隻眼の一瞥。
「、、、、、」
いつのまにか、九尾に戻っている…
※
「伯、いるんだろう?」
楓の木の上。
夏の木洩れ陽が、眩いその新緑の中から、
「エンゲ」
腕が、伸びた。
抱き留めて、そのまま、肩車。
群青色の髪が、長く長く、燕倪の頬をくすぐる。
蝉の声もけたたましい、昼下がり。
「大祓の儀が終わっても、明後日の夏越しの祓の準備で、大忙しだろ、あいつ?」
「、、、、、」
御所の修繕も目途が立ち、大祓の儀も恙なく終わり、一先ず、宮中も落ち着いてきた頃であった。
まったく顔を見なかった蒼奘も、最近は、帰ってきたり、来なかったり。
燕倪にしても、疲労困憊の部下達を休ませ、ようやくの非番が回ってきたのは、あの日から、半月以上が過ぎていた。
陽の光に煌めく、大池を眺めながら、浮き橋を渡り、四阿屋へ。
無人のそこにも、屋敷の内にも、無数の思い出があり、
「、、、、、」
「、、、、、」
ついつい、燕倪まで、無言になってしまった。
【かつて】を回想する日々を、伯は過ごしていたのだろうか?
もっと早く訪れるべきだったと、込み上げる想いに、押し潰されそうになって、
「、、、いてッ」
ふいに、伯が、燕倪の髪を引っ張った。
「いきなり、何するんだよ」
「、、、、、」
上を見上げれば、細い腕が差し出された。
手首に、青い紙紐が、巻かれている。
燕倪が、大人しく膝に入った伯の、やや癖のある髪を梳く。
体は小さいものの、翡翠の角は立派になったし、以前は薄かった隈取が、鮮やかに赤く、鳳眼となって浮かび上がっている。
象牙色の肌、額に結ばれた金色の吉祥紋と言い、異形っぷりに拍車が掛かっていたが、
「なぁ。切ろうぜ、伯」
「やー」
「少しだけだ。腰まであるから、いっそ、首の後ろくらいで、ばっさり、、、」
「やっ」
「冗談だよ。背中くらいまでは、どうだ?このままじゃ、お前、あとりよりも長くなっちまうぞ?」
「、、、まぅ」
やりとりは、まったく同じであった。
気が変わらないうちに、琲瑠が小刀を持ってくる。
くるりと手の中で回しながら、
「毎晩、雨ん中、悠霧と、夜間警邏してくれてたんだってな?」
「、、、、、」
「ありがとな、伯」
「、、、、、」
群青の艶やかな髪に、刃を入れる。
さらさらとこぼれてゆくと、どことなく、波や潮騒の音が聞こえてくるようだった。
「けど、無茶はしてくれるなよ」
「、、、、、」
「危なければ、一緒に行くからさ。そりゃ、お前に比べれば、俺は太刀を振り回すだけかもしれないが、それでも少ないよりは、人数は多いに越したことはないだろう?」
「、、、、、」
しばしあって、
こくり…
頷く。
「お、約束だぞ?」
「ん」
その様子を、微笑ましく見守っていた、汪果と琲瑠。
水鳥が遊ぶ大池で、鯉が跳ねた。
驚いた雨蛙は、苔むした岩から飛び込み、碧に煌めく糸蜻蛉が水面を飛んでゆく。
近づいてくる馬蹄の音に、琲瑠が門前へと歩いて行った。
心得た汪果は、蔵へと向かう。
「家主が、帰ってきたかな」
伯の髪を、梳りながらまとめていると、
「燕倪っ」
忙しなく駆け込んでくる足音に続いて、
「ずるいよ。僕が切りたかったんだからっ」
丸三日間ぶりに、屋敷に戻ってきた、蒼奘。
やや、やつれた頬。
赤く充血し、目の下の隈も、濃い。
「馬鹿言え。俺と伯はな、付き合いが長いんだ」
首の後ろ辺り、綾紐で髪を束ねてやる。
いいぞ、と肩を叩けば、伯は燕倪の膝から立ち上がった。
ふるふると頭を振ってから、
「、、、がと」
「おうよ」
小さく、礼を言う。
石の階に腰を下ろしたところで、汪果が、露を結んで良く冷えた酒器をもってきた。
「僕はまだ、髪だって梳いたことないのに、、、」
「お前の事だ。伯を、追いかけ回しただろ?」
「そんなこと、な、、、ぃ」
「大人気ないぞ。お前だって見ただろう?見てくれは子供かもしれんが、伯は、いっぱしの神霊なんだ」
「分かってるよ。でもね、本当の弟ができたみたいで、つい嬉しくって、、、」
伯に盃を持たせながら、蒼奘が、にこりと笑った。
「、、、、、」
面食らった伯は、能面のような貌を、わずかに顰めたようだった。
― 無理も無いな。少なくとも、あいつは、こんな顔で笑わなかったし、、、 ―
今はまだ、お互い、どう接していいのか戸惑っているのかもしれない。
けれど、
― それもきっと、懐かしく感じる日がくるんだろうなぁ ―
瑠璃盃を、満々と満たす、冷たい酒。
酌み交わした数だけ、その日が近くなるような気がして、
「伯、いつでも俺の屋敷に来ていいからな」
そう、嗾けてみた。
「、、、、、」
きょとん、とした、伯。
一方蒼奘は、だめだとばかりに、伯の袖を抓むと、
「なんてこと言うんだよ、燕倪。伯は、うちのこだから、保護者の僕も行くんだから」
白い髪を振り乱して、駄々を捏ねる。
師との別れでぽっかり空くはずだった寂しさは、伯の存在が、すんなりと埋めてしまったようだった。
「お前は、確か、この屋敷から離れちゃだめなんだろ?水脈がどうとかで、、、」
「僕だってね、強力な結界くらい張れるんだから、、、あ、今、笑ったね、伯?」
「、、、、、」
伯が、ぷい、とそっぽを向く。
「これからは、都守命令で、君を宮中に同行させるから」
「職権濫用。無理強いは、良くないぞー」
「でも、宮中に連れていけば、皆、いるでしょ?」
「、、、ああ、まぁ、そうか」
「きっと、愉しいよ」
そう言うと、伯の盃に、酒を満たしてやった。
「、、、、、」
逃げ出すことも無く、否定する様子もない。
伯にとっても、まんざらでもない申し出のようだった。
「そういえば、妙な時間に帰ってきたな、蒼奘」
「あ、うん。今日は、箏葉を呼んだからね。先に着いてるかと思ったんだけど、、、あっ、ほら、来た来た」
こもり雪の紋を刻んだ絢爛たる牛車の姿に、琲瑠と汪果が出迎えに行く。
「暢気に、酒を呑んでいる場合じゃないだろう。まったく、早く言えよ」
「ふふふ、、、これから、忙しくなるぞ」
衣擦れの音をさせて、出迎えに加わる背中を見送って、
「、、、、、」
伯が、立ち上がった。
屋敷に張り巡らせている結界に、異変を感じたのも束の間、山野草が植えられた小路の向こうに、人影が立った。
チリ…リリン…ッ…
小さな鈴の音をさせて、伯の元へと走り込んできたのは、
「狐?」
小柄な狐であった。
ふわふわとした尾を、伯の脚に巻きつけて懐く。
「久々に訪れては見たが、改めてみると、ヨルの趣味にしては、なかなか良い仕立てだ」
「ご無沙汰しております。若君、左近の少将」
髪と目の色こそ、栗色だが、その秀麗でいてどことなく不遜な立ち振る舞いの唐衣の女性と、その連れの隻眼の若者。
「あッ」
燕倪が思い出したよりも先に、
「ヨーゲ」
伯が駆け出した。
思わず目尻を下げて、その身を抱き上げると、
「、、、私なら、大丈夫だ。しばらく養生したからな。ようやく、地脈との接続も抜けて、この通りだ」
「、、、、、」
「お前も、髪を切ったのだなぁ?私もだ。良く似合っておるぞ。先日、【都守】だけが挨拶に来て、案じておったのだ。遠慮はいらん。何かあれば、いつでも屋敷を訪ねよ。よいな?」
「、、、、、」
こくり…
素直に頷く姿に、遙絃がたまらず、頬ずり。
キキュッ…
裾を引っ張るのが、焼餅を妬いた、野狐。
「いけませんよ、タオフィ」
胡露が抱き上げると、観念したのか、項垂れて、大人しくなった。
階を上がり、腰を下ろせば、
「ここしばらく、どう過ごしていたのかぇ?」
「、、、、、」
「ふむ、そうか。それなりに、か。寂しさ募れば、いつでも私に甘えよ。冥府へと、龍脈を繋いでやろうに、、、」
「、、、、、」
燕倪の傍らに、伯が座った。
心得た燕倪が、遙絃に盃を差し出し、酒器を傾ければ、
「宮中も、帝都も、落ち着いてきたようだな。左少将」
「ああ。おかげさまで、平和な日々を取り戻せた」
「なあに、我ら地仙を動かしたのもまた、人だ。現世は、人の力に因るところが大きいものさ。なあ、檎葉?」
頭上に舞い寄った、一羽のオオムラサキ。
青い鱗粉を放ちながら、
≪ その通りだ。我らは、望まぬ者には応えぬでな、、、 ≫
伯の指先で、美しい翅を休めた。
「眷族の娘が、山から降りるのが心配の呈で、その実、そなたらを案じておったのだ」
挑戦的な流し目に、
≪ 相変わらず、配慮に欠ける狐じゃな ≫
「すいません」
しかし、蝶は、翅を閉じたり開いたりを繰り返しただけだった。
すかさず詫びた胡露が、良かったのかもしれない。
「相棒ッ」
「っ、、、」
聞き覚えのある声に、背筋が伸びた、伯。
そろりと燕倪の背中に隠れてすぐ、忙しない足音と、大池の老松に舞い降りた、白い大鷹の姿。
「待つのじゃ、悠霧‼」
水干姿の二人が、駆け込んでくる。
「お、燕倪のおっさん、、、それに、、、なんか、神様?」
よく陽に焼けた健康的な少年と、色の白い、青みがかった黒瞳の少女。
「お邪魔します」
悠霧を背中から羽交い絞めにしつつ、にっこりと笑って挨拶したのが、あとり。
「こりゃまた、揃いも揃って、、、」
渡り廊下を、実敦と共に銀仁が歩いてくる。
地仙らに目礼すると、車座に加わった。
「あとりが、伯に会いに行くと言い出してな。出掛けに、所用を済ませた実敦殿と、門前でばったり、、、」
「おれは、宮中に詰めているよりも、最近は、もっぱら気楽な外回りで、今日は、午後から用事がなかったから、ちい姫と銀仁に、ついてきたんだよ」
滑稽な鬼面を外すと、赤眼の優男が微笑んでいた。
「なあ、相棒ッ‼あとりに言ってやってくれよっ‼俺達、夜遊びしてんじゃないってよぉ」
「伯は夜遊びせずとも、そなたがしておるのだろう!?わらわが、夢路で伯と遊べぬではないかっ」
「俺はだめで、自分はいいのかよっ」
「うむ」
「おい、じゃじゃ姫。なんつー理屈だッ」
賑やかな、やりとりの中、
「邪魔するよ」
涼やかな浅葱の襲を纏った箏葉の手を引いて、蒼奘が現れた。
「かように屋敷が賑やかなれば、亡き師も喜びましょう。酒席を用意しますので、みなさま、どうぞ、ごゆるりと、、、」
荷を運び終えたのか、琲瑠が肴の膳を運び込み、汪果は、酒の他に、甘酒や果汁の入った瓶子を並べ始めた。
手伝いを、と胡露が、嫌がる野狐を連れて出ていった。
風が湖を吹き抜け、鐵風鈴が、涼やかな音色を奏でる。
そこに、子供の声が、弾けた。
青空の下、庭に連れ出された伯が、あとりと悠霧と共に、蹴鞠に興じている。
「昔の僕らみたいだ」
「ああ、、、」
年頃同じ子供達の姿が、微笑ましい。
「この子等の姿は、この世の未来だ」
膝に野狐を入れた胡露によって、杯を重ねながら、遙絃が眼を眇める。
「人と神霊、、、」
銀仁の呟きに、
「異形と謗られ、一度は恐れられた者までもが、共に笑い、こうして今を生きていることを、これ程までに体現しているものはないね」
眼福眼福と、盃を干した実敦が応じた。
≪ かつては、これが、日常であったのだがなぁ。時代が変わると、淋しくもあるものじゃ、、、 ≫
蒼奘の盃で翅を休めていた、檎葉。
「御老体、眷族を遣わすのではなく、山から降りてきたらどうだぇ?」
≪ 簡単に言うな、女狐め。儂の焔は、原始の火焔ぞ。一度滾ると、そうそう鎮まりきらんのじゃ ≫
「ごめんね、檎葉。また、無理言っちゃって。定期的に祝詞で鎮めるから」
≪ む、、、そなたは悪くはない。当然のことを、都守としてしたまでだ。気にするな ≫
「勝間の地仙、差支えなければ、おれも伺わせてもらってもよろしいですか?」
≪ そなた、御前試合の時の、、、 ≫
「ええ。あれから多少、修行を積みましたので、お役に立てるかと、、、」
≪ そうか、そうか。あの時の小僧が、なかなか良い面構えになったものよ。儂は、滝の祠におる。そなたとは、話したいこともあるでな、、、 ≫
地仙らを交えて話が弾む中、檜扇で風を送っていた箏葉が、
「燕倪様」
小さく、名を呼んだ。
吊眼がちな眸を眇めて、差し出したのは、
「これを、、、」
一枚の文であった。
鼻孔を懐かしく、くすぐる香りが、焚き染められていた。
「こちらで出会った日より、文のやり取りをしておりますのよ。つい先日、遠野から届きましたの」
「あ、、、」
帝都の様子を案じる様が、文面を覆っていた。
「殿方は、女子に心配させまいと何も言わないものですが、女子と言うものは、それゆえに、余計に心配に感じますのよ」
「五日とあけず、文を送ってはおりましたが、、、」
「女子は文よりも、一目、逢いたいものですわ」
「燕倪、、、」
それまで黙って聞いていた銀仁が、笑って燕倪を促した。
「あ、ああ。すまん、蒼奘、皆さん。俺、ちょっと、行ってくるわ」
草履をひっかけ、駆け出す背中を見送って、
「走っていくつもりなのかなぁ ―――、琲瑠」
「はい、都守」
心得た琲瑠が、その後を追っていったのだった。
門から、往来へと飛び出そうとしたところで、
「燕倪さま」
追いついた琲瑠が、声を掛けた。
振り向いたところで、
「こちらへ」
厩の方へ。
「都守が、お出しするように、と、、、」
手前に繋がれていた月毛の浮葉。
優しげで、愛らしい、つぶらな眸。
その鼻面を撫でながら、
「琲瑠。気持ちは嬉しいが、浮葉の脚では、明日の始業に間に合わんよ」
苦笑。
ごめんな、と首筋を撫でてやると、浮葉も心地良さそうに、鼻面を燕倪の肩に押し当ててくる。
「いえ、浮葉ではなくて、、、」
琲瑠の手が、奥の閂を外す。
ブルル…グググ…
一際、大きい蹄の音。
悠然と、姿を現したのは、
「鋼雨です」
漆黒の体躯に、乳青色の長い鬣、何よりも真紅の眸は野生を滲ませ、立派な体格といい、獰猛な獣の様相であった。
ブシュルル…
「なんか、機嫌が悪くないか、、、?」
手際良く、鞍をつけながら、
「はい。最近、鈍ってますからね」
「ん?鈍って、、、」
「都守に従って、御所と、ここの往復だけでしょう?」
「ああ、それでか、、、」
「それだけじゃなくて、、、」
琲瑠は、鋼雨を見つめた。
踏の調子を確かめながら、
「走りたいと、言っているんです。どうしても、あの花の香りを、【先代都守】を、忘れられなくて、、、」
「、、、、、」
琲瑠は、主の事を考えていた。
忘れることなどできないから、何かにぶつけて、踏み出してゆく。
いつか、懐かしい思い出に変わるように、時を、重ねてゆくのだ。
「ですから、思いっきり、走らせてやってください」
鋼雨が、銀の蹄の調子を確かめるように、大地を掻く。
「分かったよ」
鞍上の人となった燕倪に、
「お気をつけて」
「ああ」
長衣を渡す。
「行こう、鋼雨」
力強く、馬蹄の音を響かせて、往来へと向かう背を見送って、琲瑠は一人、空を見上げた。
海と同じく、どこまでも蒼い空。
― まだ当分、帰ることはなさそうですね、、、 ―
どこかで期待していた自分がいたことを、今となっては少しだけ、恨めしく思うのだった。
その夜。
「、、、、、」
昼間の喧騒が嘘のように、屋敷は静かであった。
柱に凭れて、半月が、水面に映るのを眺めていた、伯。
干されることのない盃だけを手に、ぼんやりとしていた。
彼方で見守っていた汪果と、琲瑠。
その場所に、かつて【彼の人】が、そうして座っていたのを知る、二人であった。
衣擦れの音が、近づいてきた。
「伯」
二人が息を呑んだのは、その姿が、【彼の人】と同じであったからだった ―――、声を掛けるまでは。
「眠れないの?」
「、、、、、」
菫色の眸が、物憂げに、こちらを見つめてきた。
少し、酔っているのかもしれない。
「ああ。僕もね、今日はなんだか、心が忙し過ぎて、目が覚めちゃって。ここに座っても、いい?」
「、、、、、」
こくり…
階に腰を下ろすと、羽二重の寝着の肩を、さらさらと銀の髪が滑ってゆく。
ぼんやりと伯がその横顔を眺め、目を擦る。
「、、、、、」
良く似た、面差し。
その視線の先には、
「、、、、、」
月が、あった。
西へと傾く半月を見上げる蒼奘が、誰を想っているのか。
母屋の暗がりの中で、汪果が、傍らの琲瑠の袖を引いた。
無言で微笑むと、琲瑠も頷き、そのまま姿を消した。
白鷺が空を渡り、夜露を結んだ庭の草木の奥では、蛍が刹那の輝きを放っていた。
碧の鬼灯が淡く、ほんのりと橙に色づいて、浮島の向こうで風に揺れる。
暗紫の紫陽花の、柔色をした葉の裏にいた蝸牛までもが、月を見上げているようだった。
薄い雲が行き交い、星々が時折、流れては消えてゆく。
伯の手から、盃が零れ落ちた。
音も無く、ふわりと立ち上がると、
「、、、、、」
「、、、、、」
伯は、蒼奘の背中に、背を凭れるように、座った。
蒼奘が後ろを窺うと、先ほどまで盃を手にしていた手が、袖を、しっかりと握っていた。
帝都の上空に掛かった、月。
二人の姿を、遠く、いつまでも、見守っているようだった…
タイガーリリー。。。その花言葉は、【嫌悪】や【侮蔑】だそうです。。。
一方、聖母マリアが描かれた絵画には、必ずと言っていいほど、処女性の象徴である白いユリが描かれているそうな。。。ヨルさんには、ただ単純に鬼百合のイメージがあったので、深い意味はありません。。。夏の萌える緑に、負けじと弾ける強烈な橙が、ルウシャさんの【金魚草】同様、その生命力の強さを表しているようだと。。。
響きが好きです。漢字にすると、カッコイイ。もう、【鬼】がつくだけ、ただそれだけで、なんかいい。。。鬼神と書いて【ものかみ】、鬼灯【ほおずき】などと読ませてみたり。。。僕の場合は、単純に、映画でメカが出てくるだけで、カッコイイと同じ扱いでして。。。いつか、メカ用語満載、アマコアのインスパイア系も書いてみたい。。。
檀については、古来、奈良の古墳などに魔除けとして、植えられていたとか。。。