大白鷹
天を仰ぎ、地を見据え、
「こんなもんか、、、」
赤き結晶に手を置いて、ヨルが目を眇めた。
鮮血よりも鮮やかで、禍々しくも美しい、巨大な多面体。
赤き月夜に、茫洋と、陽炎の如く浮かぶ ―――、城。
月を待つ、星空の天蓋の下、その多面体を見つめ、
「ヨル。それは、、、?」
黄金を敷き詰め、設えた玉座。
幾重にも垂らされた御簾の向こう側で、【皇帝】が問う。
浄衣の袖を翻し、優雅な仕草でもって、拱手。
さらさらと、赤銅の光沢放つ髪が、肩から背へと流れていった。
「まもなく穿つ、楔にございます。我が君」
「楔、、、」
皇帝の視線の先で、すらりとした手指が伸ばされ、【楔】に触れる。
「我が君の威光を知らしめる、赤き剣。天地を統べる ―――、オベリスク」
「、、、ああ。いつか、異国で見た」
「ええ。マギの国よりも、遥か西。その大陸で、、、」
ヨルのその手が、そっと表面を撫でる ―――、愛しげに。
「この浮城では、我が君の尊き勅旨も、満足に発せませんので、、、」
「難儀なことだ」
皇帝の言葉を受け、薄く笑った、ヨル。
「今は、一柱でございますが、近いうちに、その数は増しましょう。皇帝の威光と共に、、、」
「うむ。そうか、、、」
闇獅子を従え、玉座の肘掛けに凭れながら、
「ふぁ、、、ふ、、、」
眠たげな様子で、瞳を擦る。
腰に下げた玉佩が、金色の輝きを放ちながら、澄んだ音色を響かせた。
その様子に、かすかに目を眇めた、ヨル。
「、、、そろそろ、お休みになられますか、我が君?」
玉座へ至る、青き天鵞絨の階段。
月を抱く竜神、鳳凰といった透かし紋様を施された御簾が、ひとりでに巻き上がってゆく中、皇帝の足元に、跪く。
「ヨル」
差し出された、白い手。
幼さを残したその手は、紛れもなく、生まれながらにして竜玉を掴みし者の手だ。
すべらかな玉の如き、肌。
両の手で包み込めば、生前のまま、温かった。
花の蕾が、春の陽光の元でほころぶように、ふんわりと微笑む。
「余の志、この地で、しっかりと生きておったよ、、、」
「ええ。そうでしょうとも、、、」
ここは、夢か、現か?
目覚めた、いつかのあの日から、記憶は曖昧に前後して、今となっては、皇帝自身、よく分からなかった。
とろりと、睡魔に潤んだ、瞳。
傍らに控えている【己が都守】を見つめると、
「余は、そなたに、無理を言ったのだろうか、、、」
ぽつりと、そんなことを言った。
「ふっ、、、はははは、、、なんのなんの」
ヨルは、快活そのものの笑い声で、首を振った。
「我が君。このヨルに、無理、不可能はございませぬぞ。ある時は、陽のあるうちに流星を呼び、また貴龍を従え、鬼共に化粧を施し、舞いを披露させましたのを、お忘れで?」
「ああ、そうであったな」
思い出せば、自然に表情が和らぐ。
「この世の無理難題すらも、そなたは超越してしまうのだった。まこと、余に過ぎたる者だ、、、」
ヨルの指先を握り返せば、
「勿体なきお言葉でございます」
破眼を、伏せた。
物心ついた頃より、身近にあった人であった。
乳母よりも ―――、あるいは、産みの母よりも。
「ヨル」
その指先を、今は、力強く掴んだ。
「夢で逢ったあの日から、余の心は晴れやかで、あんなにも重かった体も、まこと羽が生えたかのように、軽い、、、」
「我が君、、、」
「ただ今は、ひどく、眠たいのだ、、、」
「、、、、、」
そっと指先ごと、ヨルを引き寄せると、
「こんなことは、、、今まで、無かっ、、、た、、、」
その胸に、頬を預ける。
冷たい指先に、指を絡めれば、手がしっかりと組まれた。
「余は、怖い。眠るのが、怖い。誰もいない闇に、独り、取り残されるのじゃ、、、」
幼い仕草で、いやいやと首を降るその肩を見つめ、
「ならば、このヨルが、何度でも見つけましょう。黄金の眩い翼で、包み込んで、、、、」
微笑んだ。
そっと、頬に触れれば、【皇帝】が、涙で潤んだ瞳で見上げてきた。
淡い輝きが、その胸の辺りから放たれる ―――、
「余の都守、、、」
―――、虹色に揺らめく、魂の輝き。
ヨルの朱金の髪が、風も無いのに、靡く。
その背に、金色の双翼が現れると、薄れゆく【皇帝】を包み込む。
やがて、その輝きが収束すると、
「これは、あの日から続く、夢の続き。【闇】なんぞに、染めさせはしませんよ。我が君、、、」
ヨルは、掻き消えた温もりの余韻を残す己が掌を見つめ、一人、そう呟いた。
その掌に残されたのは、無機質な輝きを放つ ―――、金の小匣。
― ぐぬぅッ、、、天狐を、地に縫いつけたかっ、ヨルッ ―
赤き光の中で、身動きを封じられた、緋龍。
口から、細く火を噴きながら、
― あれは、まずいぞ ―
遥か眼下を、睨んだ。
真下に移動してきた、浮城。
そのぽっかりと空いた天蓋の中央に、赤き結晶がちらついている。
二柱の地仙によって増幅させた霊紫を集め、三界を、一つ世に縫いつける儀式をするのだろう。
姿こそ見えぬが、亀裂の底に、気配があった。
― それも、最も帝都に縁深い【相手】を、まんまと中枢に送り込むとは、、、 ―
憤懣極まりない、舌打ち。
緋色の双眸で、見上げた夜空。
赤き望月が掛かっていようとも、新月の夜と同じく、満点の星空であった。
― 星の並びは、やつの専売特許。人ぶぜいと、甘く見ていたようだ、、、 ―
赤き月明かりを浴びて、地上と緋龍の間には、ちぎれ雲を纏う、浮城の姿。
― もとより、この宇宙のはじまりは、闇だと言う。現実のものとなるのか、【計都】、、、―
紅蓮の焔がちりちりと、ため息となって大気を焦がす。
角こそ無いが、龍鱗や鬣、髭の辺りから、深紫の燐光。
神通力の源と言うべき ―――、霊紫。
その光の粒が、蛍のように頼りなげに、けれど、無数の光の帯となって、向かってゆく。
眼下では、地下より吸い上げられた霊紫が、届いていることだろう。
ククルォォオ……
喉鳴りが、低く低く、響き渡たる。
「いかんな、、、」
鬱々とした呟きに、燕倪と蒼奘が、揃って振り向いた。
視線の先では、奏伯が、金色の双眸を眇めたまま、中天を仰ぎ見ていた。
「あの赤き凶星が、中天に掛かる時、御座に据えた先の帝を楔に、緋龍、天狐の両地仙を早贄として、現実のものとして計都を成さんとしているようだ、、、」
「おいおい。昇り切るまで、そんなに時間がないぞ。あの分じゃ、四半刻を切っている。どうするんだ?」
燕倪の問いに、奏伯の青い唇が、不遜の薄笑みを刻む。
「結界と呼ばれるものは、そもそも楔を穿ち、外殻さえ固めてしまえば、内部から崩す術が無い、、、」
「笑っている場合か」
さすがに、むっとして眉間に皺を寄せた、燕倪。
しかし、
「あ」
ふと、何かを思い出した様子で、ぽかんと口を開けた。
「あれはまだ、、、そうだ。伯が来たばかり頃だ。確か、結界を破った事があったろう?伯ならっ」
帝都が、【夜都】と化した時、胡露によって半ば強引に覚醒させられた伯は、水脈を渡ることで、内部から結界に風穴を開けた事があった。
すぐ傍らにしゃがみ込んで、亀裂を覗き込んでいる伯の肩を叩いたところで、澄みきった黎明の空色を湛える菫鳳眼が、無心に見上げてきた。
「ムリ、、、」
「無理?!」
「、、、、、」
こくり…
あっさりと頷く、伯。
燕倪の視線から逃れるように踵を返すと ―――、何を思ったのか、【庭木の枝】に手を伸ばしていた奏伯の袖を掴んだ。
一度だけ、空を仰ぎ、
「キシャアア、、、、、」
感情の赴くままに犬歯を剥くと、そのまま、無言で背中に隠れてしまった。
【手折った枝】を懐にしまってから、群青の柔らかな髪を、優しく撫でる。
「幼神と言えど、伯はまだ、名乗りを挙げておらん。ここは、異界とは違う。森羅万象、真理、【大いなる存在】とでも言おうか、それらが支配するこの世では、加護を得ない未熟な神体なのだ。凶星は、その力の及ぶところの、さらにその果てにいる、、、」
「さっぱり分からんが、さっきみたいには、いかないってわけだな」
「まぅ、、、」
伯の漏れ聞こえてきた小さな声が、燕倪の言葉を肯定した。
己の力の限界を測れぬ程、幼くも無いのだろう。
その心情を、今更になって酌んでしまえば、伯の歯痒さも手伝って、燕倪は業丸の柄に置いた手を、握り締めた。
― 俺は、何もできないまま、黙って帝都が乗っ取られる様を見ているしかできないってのかッ ―
ジジ…ジジジ……
逸る業丸の鞘鳴りが、掌から伝わってくる。
幾代もの武士と共に、多くの死線を越えてきた大業物だ。
業丸もまた、燕倪の心に、共鳴しているかのようだった。
風が、出てきた。
甘い、夏花の香りをさせて、今、帝都を吹き抜けてゆく。
「その辺りまで用心して【あの方】は、この地に戻られたんだよ。さすがに【万全】と言うわけだ、、、」
失った視覚で何を視ていたのか、膝をつき、大気に耳を澄ませていた、蒼奘。
静まり返り、赤々と染まらんとしている世界の中で、真白の髪が、夜風に靡いていた。
燕倪は、未だ、薄笑みを浮かべたままの奏伯の横顔を、見た。
黒白 ―――、二人の都守。
「ねぇ」
「なんだ、、、?」
黒衣の都守の問いに、淨衣の都守が応じた。
「外殻外の凶星、、、月を染めるだなんて、僕には思いつきもしなかったけれど、貴方でも不可能?」
眼差しを、赤き新月、【凶星】に据えたまま、
「、、、この【人の身】では、な」
奏伯が嘯いた。
「それじゃ、地仙級ならどうかな?」
「やってやれないことはないだろうが、それを為す意味が無い。【大いなる存在】の意思、その範疇を越えている、、、」
その答えに、蒼奘が、大きく頷いた。
ゆっくりと立ち上がると、蝕まれた視覚でも、その禍々しくも赤き光気は感じるのか、凶星を仰ぎ見る。
「凶星は、まだ、完全に蝕まれてはいない」
それは、確信であった。
「いかにお師さんであろうと、地仙級を使役するなんてことはできないはず。ましてや、実体を持たない闇の眷族では、外殻にすら辿りつけない、、、」
「その通りだ、、、」
蒼奘の言葉に、奏伯が頷いた。
口元に刷いた薄笑みが、深くなっていた。
「燕倪。どこかに、媒体があるはずなんだ。恐らく、、、神鏡」
「神鏡、、、鏡だな?!」
辺りを見回し始めた、燕倪。
― 鏡、鏡、、、って、この広い世界のどこを探せってんだよッ ―
あても無く見回したところで、見つかるはずもないのだが、それでも、動かずにはいられない。
苛立ちを募らせながら、あちらこちらに目を凝らしてみる。
こんな時でさえ、そんな朴訥な人柄さえ滲ませる燕倪を、
「燕倪よ」
「あ?」
一見冷ややかだが、今では見慣れた、思慮深い金色の双眸が、見つめていた。
「【媒体】は、【楔】のより近くに在る方が、威力が増す、、、」
「【楔】、、、は、先の帝の?」
奏伯が、首を振った。
すんなりとした指先が、空を指し示す。
そして、いつもと寸分変わらぬ、鬱々と響く声音で、
「【刺し貫きて穿つ】が、【楔】。この場合の【楔】は、凶星。恐らく神鏡は、空に在る、、、」
告げるのだった。
「空って、お前、、、」
唖然とした、燕倪。
雲も霧散し、星達も形を潜めた、赤き夜空。
「こんな時に、謎かけはやめろッ」
さすがに声を荒げた、燕倪。
業丸を抜きこそしないが、握り締めた拳が、ぶるぶると振るえている。
鈍色の眸に、赤き凶星の月明かりが差し込んで、錆が噴いたようだった。
赤き月光は、人々の心までもを蝕んでいるのかもしれない。
伯の視線が、燕倪の足元へ注がれ、
ゾゾ…
「‼」
群青の髪が、ざわりと波打った。
菫色の眼差しの先で、燕倪の影の端が、蠢いていた。
当人が気づかぬうちに、それは、無数の触手を伸ばし、足首に絡む。
「っ‼」
「、、、、、」
視線を逸らせぬまま、無言で、奏伯の袖をひっぱるが、問題ないとばかりに首を振られた。
「時間が無いんだぞ」
一方燕倪は、今にも、感情の赴くまま自棄を起こしてしまいそうな己自身に、困惑しつつも、
― なんだ?込み上げる【これ】は、、、怒り?俺は、、、 ―
腹腔深くから込み上げる【それ】を、抑え込む術を知らなかった。
そんな鬩ぎ合い、葛藤する心中を察してか、
「言葉通りだよ、燕倪。僕もね、そう思うんだ。それに、、、」
蒼奘が、燕倪の肩に手を置いた。
仮初めの体故に、温かさこそないが、それでも、じんわりと染み入るようなぬくもりが、不思議と、こみ上げる痞えを溶かしてゆくようだった。
にっこりと、人好きのする笑顔で微笑むと、
「僕らは、一人じゃないよ。君達が、培ってくれたものが、【ここ】には、ちゃんと在るからね。一人で抱え込まなくていいって、教えてくれたのは、君だよ?」
同じく赤き空を、指さした。
揺らめき、空を覆わんとする赤き光の雲気。
そのまっただ中を、美しくも禍々しい薄明りの幕を切り裂くように、一筋の白銀の閃光が横切って行く、、、
これより、少し前。
赤き、月の光。
その月明かりを受け、茫洋と発光する ―――、帝都。
中枢とも言える御所の上空には、禍々しくも美しく、黒赤に輝く浮城が覆い、深い影を落としていた。
隆盛を極め、忙しなく鳴いていたであろう夏虫らすら、声を潜め、赤き世界は、静寂に沈んでいた。
帝都を一望できる、山間の街道。
その一画に、天狗が戯れに立て掛けたと言われる、大天狗岩。
見上げる程に巨大な白き岩が、隆々と崖から聳え立っている。
古びた注連縄が廻らされたその巨岩の上に、罰当たりな人影が、あった。
「これはまた、とんでもないことになったなぁ」
菅笠を外し、どこか間延びした、声。
現れたのは、一対の角を持ち、落ち窪んだ眼窩は鮮赤を湛え、ばさらに背に流された髪は金色の ―――、異形。
左腕には、白き大鷹が、羽を休めている。
一見、泣く子も黙りそうな風体であったが、真新しく彫りだされたばかりの簡素な鬼面の眉は八の字、口は大きく笑い、なんとも言えぬ愛嬌がある。
その癖、身形は修験者然とした旅装束で、背に簡素な荷を負っていた。
傍らには、黒髪を楮で束ねた水干姿の少年。
「実敦様が心配されていた【怪異】って、、、」
爪先が、ぴりぴりとする。
破魔の能力を生まれ持つその器官が、何よりも饒舌であった。
「やはり、帝都から遠く離れず、正解だった、、、」
大鷹の首の辺りを撫でやりながら、傍らの少年を見つめた。
「悠霧。ここはいいから、お前は、一人でも多くの悪鬼を祓いにゆけ」
「さ、実敦様は?!」
「おれは、ここでやるべきことがある。おれと阜嵯弥にしかできないことだ」
「それじゃ、俺も手伝うッ」
実敦は、鬼面を外した。
鬼の面とは似つかわしくない、柔和な優男が、微笑んでいた。
「実敦様は、俺が、守るんだっ」
意気込む、悠霧
その華奢な肩を掴むと、
「それじゃ、お前にひとつ頼み事をしよう」
「頼み事?」
「ああ、、、」
そのまま、大きく骨ばった手で、悠霧の髪を撫でやった。
「ここには、おれの大切な者達がいる。家族や古い友、仕事仲間達、、、」
「、、、、、」
それは、悠霧には、未だ持ち得ぬものばかりだった。
込み上げる感情のまま、噛みつきこそしないが、眉を寄せ、口をへの字にした、悠霧。
「これから、お前も出会い、知だろう人々だ」
「、、、、、」
「その上で、お前にもできるであろう【まだ見ぬ者達】が、この倭にはたくさんいる。おれは、それを守りたいんだ」
「実敦様、、、」
「おれたちのような者は、【あの方】が導く【闇に堕ちた世界】にこそ、【救い】を見るのかもしれない。だが、、、」
赤き帝都を、東の大岩から眺めながら、
「おれは、誰よりもお前に、見せたいのだ。人が、迷い、立ち止まりながらも、築き上げてきた【今】を、信じているから、、、」
そう、悠霧の背中を押した。
悠霧は、駆け出していた。
「暗いのは、もうまっぴらだ」
猿の速さで、木々を伝い、斜面を降りはじめる。
濃い、夏の深緑に、華奢な体が掻き消える、その前に、
「だから、俺も賭けるよ。実敦様が信じる【人の未来】にやつにさっ」
若さ弾ける、悠霧の元気な声が、響き渡った。
「さて、、、」
鬼面を懐に仕舞った手が、別のものを指に挟んで出てきた。
真白の御幣。
その袖が、振られた。
カッ…
短い音と共に、大岩に突き刺さった、白き御幣。
その御幣は今、実敦の影の真ん中に在った。
「【軋】」
その名を呼べば、影が蠕動。
無数の、瞬く星明かりを宿し、伸びあがったのは、そのまま【影】であったもの。
やや希薄な存在感ともなった、実体の実敦。
自らの影を媒体にして作り出したそれは ―――、式神。
滑らかな褐色の肌。
骨ばった長い指先を、色の薄い唇が、強か噛んだ。
結ばれた、鮮紅の ―――、血の珠。
自らの式神の顏の辺りに、横線が引かれ、自らの左目は閉じた。
「、、、、、」
その瞼の上から、縦に引かれた、赤き線。
キィイイイ………ンン……
軋が、仰け反った。
頭部の中央に引かれた横線が剥かれ、開かれた。
鮮やかな真紅の単眼が現れ、ぎょろぎょろと蠢き、
「、、、ま、こんなものかな」
実敦は、左腕を空へと掲げた。
「阜嵯弥、頼んだよ」
白き大鷹が、力強く羽ばたいた。
一度、舞い上がり、大岩に立つ実敦の頭上から滑空せんとして、
キキ…イイィイ………
それに斬が合わせて、本体から離れる。
そのまま、大岩から身を躍らせると、軋を背に負った、阜嵯弥。
重さを感じさせることなく悠々と、眼下に広がる樹海群を滑空した後、煌めく星空を持つ軋を背に、高く、一際高く、舞い上がっていく。
大きく伸びをしながら、赤き夜空に鮮やかに映える白き軌跡を見送って、
「さあ、どこに隠れているのかな?」
実敦は、その場に車座になったのだった。
「あれは、、、」
目を凝らしたところで、
「実敦殿の、【阜嵯弥】か?!」
燕倪は、その名を、思い出した。
「んー」
伯が、大きな眸を瞬かせた。
燕倪と伯には、見覚えある、その姿。
白き翼は、一羽では無かった。
背に、負うものがある。
【それ】は、人の形に近く、それでいて闇の色で、その身に無数の星の輝きを宿していた。
ゆらめく、【陽炎の如き者】。
「実敦殿の式神、【軋】、、、」
「影、、、」
伯も思い出していたのか、口に出した通り、実敦の影から錬成した式神【軋】であった。
「自らの影を媒体に、か。人は、無茶を思いつくものだ、、、」
鬱々とした奏伯の物言いたげな呟きに、
「好意は、甘えるものだと言うしね。楔の件は、実敦殿に任せ、僕らはお師さんと先帝を追わなきゃ」
蒼奘の ―――、いまいち緊迫感に欠ける声が、掛かったのだった。
「壱岐媛」
蒼奘が呼べば、人知れず大内裏の傾いた屋根の上にいた屍魚が、その元へ。
「鋼雨」
奏伯の元には、死馬還りともいうべき、異形の駿馬。
鞍上で手綱を握ると、
「伯は、燕倪と行け」
短く、そう言い放って、馬首を返した。
「八火よ」
その名は、属性であり、荒御魂。
亀裂の底から、八色の輝きが、そのまま焔と化して飛び出した。
ゴゴォ…ウウ…
シュォオオ…オ…
焔が広がり、互いの焔と絡み合えば、天空へと至る道が出来上がった。
臆することなく、鋼雨が、駆け出した。
壱岐媛は羽ばたき、宙に舞い上がる。
二人の都守に続かんと、
「エンゲ」
伯が、燕倪の袖を引いた。
「ああ。頼んだぞ、伯」
「ん」
ざわざわと、群青の髪が、巻き上がる。
それまで、足元に蟠っていた影が ―――、広がった。
そのまま、押し包むように迫り出して、伯を呑み込む ―――、刹那、
「うッ」
【何か】が、吹きつけてきた。
風にも似た、白き神気。
反射的に、顏を庇って目を閉じたその耳に、
ザァアア…ン…
確かに聞こえた、波の音。
鼻孔をくすぐるその香りに、顏を上げれば、
クキュ…ン…
すぐ鼻先に、大きな菫色の円らな眸とぶつかった。
「は、伯、、、」
キュ…
のっぺりとした吻の辺りで、燕倪の胸を押す。
初めて見た頃に比べれば、角や長くなった鬣など、若干の成長が垣間見えるにしても、全体的にはずんぐりむっくりなままで、お世辞にも龍とは程遠く、声ともども実に愛らしい。
口が裂けても、そんなことは言えないと思いながら、
「早く乗れってか、、、よし」
だらりと伸ばされた、透明でいて、気泡が浮かぶ、鰭。
うっすらと、同色の鱗で覆われるそこを足掛かりに、群青色の鬣を掴んだ。
そのまま、首の辺りによじ登れば、枝珊瑚にも似た、翡翠の立派な角に両手を掛ける。
額の辺りに浮かぶ、閉じられたままの吉祥紋。
その下で、黎明を宿した大きな眸が、こちらを窺っているようで、
「行こう、伯」
燕倪は、上空に浮かぶ【計都】の中枢を、睨んだのだった。
赤き月光が、降り注いでいる。
息を潜めるかのように霞む、夜空の星明かり。
その中を、力強い羽ばたきが、夜気を切り裂き渡っていく。
白く気高い、猛禽王の翼。
どこまでも高く飛翔する、その姿は赤き空に在って、さながら白き流星【箒星】だ。
みるみる遠ざかる地上を顧みる事もなく、千切れ行く薄雲を縫い、北辰を背にして、高く高く ―――、どこまでも。
今まさに、その頭上へ掛からんとする、赤き月を双眸に宿すと、
キキィェェェエエ―――――っ
大気を劈く、一声。
細く引き絞られた、瞳孔。
獲物を見つけた、捕食者の眼。
大鷹が、速度を上げた。
彼方前方に、【霞む星】、ひとつ。
何のたわいも無い、他と同じ―――、星読みであっても見落としてしまうであろうそれは、彼方の星のひとつの姿をしていた。
赤い蝶が、不意に、幾重にも舞上がった。
その星の裏側にでも、隠れていたのだろうか。
押し寄せる、禍々しくも美しい蝶の群れ。
臆することなく、白き王鳥は、その渦中へと身を投じる。
純白の体毛が、爆ぜた。
ギェエアッ…ギギッ…
儚くも散る羽毛に、赤いものが混じった。
キシャァアア―――ッ‼
力強く羽ばたく白き大鷹が、赤き蝶に纏わりつかれ、不意に失速した。
体勢を崩し、右へ左へとよろめき ―――、落ちる。
千切れ雲の中へと落ちゆく、その背から ―――、揺らめく陽炎が立ち昇った。
それは、白き翼を蝕まんと追随する赤き蝶の反応を、遅らせるにたるものであった。
無数の星の輝きを宿した憑代にして、実敦の半身 ―――、【軋】。
闇色の腕を裂き、つがえたのは、白金の大矢。
赤き蝶が舞上がり、その身に吸いついた時、
「遅いよ、、、」
地上では実敦が、巨岩の上で微笑んだ。
夜気を切り裂き放たれた、白金の一矢。
千切れ雲に風穴を開け、夜空を奔る一筋の流星となって、【暗き霞星】へ。
地上で、もしも夜空を見上げている者がいれば、そのまま通り過ぎる ―――、はずであった。
ヒョウ―…―………ッ
音鳴き澄んだ音が、響き渡った。
白金の嚆矢が、黄金の火球となって、四方八方に飛び散った時、赤き月夜は再び、この星影に沈んでいったのだった。
「ッ‼」
帝都へ駆け込み、往来で出会った雑鬼らを蹴散らしていた悠霧が、上空を見上げた。
「阜瑳弥―――っ」
白い大鷹が、落下してゆく。
矢も楯もたまらず走り出して、
「軋、、、さ、実敦様ッ」
青ざめたのは、その式神にして半身である、魂の憑代。
「くそっ、、、どけったらッ」
鋭く伸ばした爪が、活性化され、暗がりから次々と湧き出す雑鬼らを切り裂き、
「どけよッ‼ちくしょーッ」
駆け出す。
「阜瑳弥っ‼あっ、、、」
赤き月が、輝きを失い隠れてゆく。
闇に眼を凝らし、千切れ雲の中、何かが落ちてゆくのが見えた。
「軋ッ‼?」
赤い蝶を道ずれに、燐光を放ち、落ちてゆく。
― あのまま大地に落ちたら、実敦様の魂が、壊れちまうッ、 ―
じわりと、弱い涙が、滲んだ。
構わず、雑鬼らの群れに突っ込むと、がむしゃらに爪を揮った。
「どけよっ‼どいてくれよッ‼」
米粒ほど彼方だ。
間に合わない。
間に合うはずが、なかった。
― いやだっ、、、もう、一人は、絶対に嫌だッ‼ ―
悠霧の叫びとは裏腹に、赤い月明りに浮かれたように犇めきあっていた雑鬼らは、蝕の力を失い、その動きを鈍らせ、無限に連立する障害物然と立ちはだかった。
横たわる、一際巨大な雑鬼をよじ登りながら、
「実敦様―――ッ」
弱い涙が、幾つも毀れては、背中へと消えていった。
視界の端で、白いものが、不意に反転した。
ひらり、ひらりと、身を捩り、再び舞上がったのは、
「ああッ」
阜瑳弥であった。
そのまま上空で一度、体勢を立て直すと、滑空。
舞い寄る赤き蝶らを引きちぎって、軋を掴むと、大岩の方角へと飛んでいった。
「、、、、、」
雑鬼を足場に、築地塀の上へと登った、悠霧。
阜瑳弥の勇士を見送って、どこか憮然と鼻をすすった。
袖で、力強く目の辺りを擦ると、賢すぎる大鷹を思い出して、にっ、悪戯っぽく笑う。
「くそーっ、、、あいつめ、さては演技だったなッ」
弱っているように見せかけて、赤い蝶を引きつけたのだろう。
悠霧が、両の手を構える。
往来には、今だ雑鬼や、憑かれた者達が犇めいている。
辻の向こうで、具足の音が聞こえてきた。
怒号にも悲鳴似た声に、大きく頷く。
「ありゃ、武官だけだな。この中に生身の人間も混じってるの、気づかないだろうな。って、この状況、そんな余裕はないか。よし、俺様が、世話を焼いてやるか」
築地塀の上から、雑鬼を伝い、向こうの塀へと、猿のように渡りながら、逸りはじめた心に、ようやくいつもの自分を取り戻したようだった。
純白のその羽が、ところどころ血濡れていたのは気がかりだが、
「あいつのほうが、俺より実敦様と長いしな。今日だけは、譲ってやる」
悠霧は、信じようと思うのだった。
一人では無いのだから、と。