計都
ひらひら…
蝶が、舞っている。
闇の中で仄赤く、鱗粉を放ちながら、
ひらひら…ひらり…
甘く鼻孔に纏わりつく、野山に咲く【あの夏花】の香りをさせて。
後を追う者の道標となって、闇を渡る。
ひらひ…るる―――…
ふいに風が巻いたのか、儚いその身が、強い風にさらわれた。
前方彼方。
薄闇に煙る、玉座の主。
頬杖で俯く、その額へと、吸い込まれていった。
睫が、ふるりと、揺れた。
「、、、来たか」
深淵に抱かれ、薄い唇は、深い溜息を吐いた。
連立する、闇色の巨大な支柱群 ―――、その先。
禍々しくも濃き、紅緋の天鵞絨が敷き詰められ、黒金で設えた【奈落の玉座】。
身をゆだねるようにして【座したる者】が、近づいてくる足音に、額の辺りを揉む。
「遠隔ってのは、なかなか消耗する、、、」
そのまま大きく伸びをすれば、さらさらと赤銅の光沢放つ垂髪が、華奢な肩を流れていった。
敬意を払い【竜眼】と呼ぶか、畏怖を込めて【破眼】と呼ぶか ―――、それとも、侮蔑の意をもって【邪眼】とするか。
優美な柳眉の下、血の色の眼球に掛かった深い ―――、望月の翠。
「よぉ。俺の小天狗」
金色の光彩散りばめた瞳孔が、丸くまるく、こちらを仰ぎ見るかつての弟子を、映していた。
「お師さん、、、」
声が、震えてはいなかっただろうか?
【あれから】、どれほどの月日が流れたのだろう。
年月をまるで感じさせぬ、【生前の姿】そのままであった。
「んー」
一方、ヨルの方は、しげしげと蒼奘を見つめている。
ひとしきり眺めた後、甘さの無い薄い唇に、笑みが浮かんだ。
「しかし、こうして改めて見るとどうだ、その身形。【都守】に【冥官】を、兼任するつもりか?とんでもない馬鹿弟子だ」
呆れたようなヨルの呟きに、
「もっとも【都守】の方は、【技比べ】以来、任せっぱなしで、、、」
万年小春日和を体現した声音が、応じた。
どこか懐かしく、その声を聞きながら、ゆっくりと玉座から立ち上がる。
涼やかな、衣擦れの音。
白く、どこまでも白い ―――、浄衣。
この世界の住人にしては不釣合いであったが、これほど似合う者もいないとさえ思わせる、堂々たる立ち姿。
「何はともあれ、お前まで不条理な事になっているようだな、蒼奘」
「ええ。お師さんのお蔭で、、、」
一方、そんな師を前にしても、にこりとして動じぬ様子に、
「、、、そうか」
ヨルは、満足気に頷いた。
― ん? ―
風が、変わった。
蒼奘は、指先の痺れを感じていた。
全身が、総毛立っている。
それまで穏やかだったヨルの眼差しが、
「ならば、【都守】としての見解を問おう、蒼奘。【今の俺と言う存在】だ。今更、お互い、小細工は無しとしよう ―――、聞かせろよ」
俄かに、剣呑さを孕んだ。
挑発的な輝きすら帯びて、ヨルが顎で促せば、蒼奘の闇色の双眸が、その一瞥を受けて、頷いた。
「結論から述べますと、、、」
懐かしい眼差しを感じる反面、蒼奘は、【漂う闇】そのものの緊張を、感覚で捉えていた。
我ながら、下手な前置きだと思いつつ、言葉を選び誤る事すら許されない現実に、一抹の不安を感じながら。
「貴方の全てを、この世界に還元して頂こうかと、、、」
「ほぅ」
ヨルが、少し驚いたように、片眉を跳ね上げた。
「我らの精神は、大龍脈の光子。我らの肉体は、大砂海の粒子。自ら鬼窟へ堕ち、蝕んだとて、貴方もまた等しく、その恩恵にあやかって存在しているのです」
「くく、、、それが、お前の答えというわけか」
ヨルの喉が、低く鳴った。
華奢な肩を震わせながら、
「だが、それは、違う。今となっては、な」
「師よ」
「お前の見解、このヨル、しかと聞いたぞ。蒼奘」
ヨルの手が、半顏を覆った。
「分からねぇか?ヨルであったものは、あの日、とっくに還ったんだよ」
「、、、、、」
「その全てを対価にし得たものこそ、自らの記憶媒体としての ―――、この器」
「それでは、その身こそが、、、」
蒼奘の問いに、ヨルは薄く笑った。
「ああ。この世ならざる星の砂を用い、【大いなる存在】からも見限られ、切り離されし奈落の大気によって、錬成されたものだ。この通り、、、」
その端正な半顏が、どろり、と溶けた。
黒き汚泥が首を伝い、真白の浄衣をしたたか濡らした。
「お前が見ている者は、誰だ?世界とは、何だ?真理に裏付けされた【偽り】に、お前はいつ、辿りつく?」
そのまま足元に蟠らんと、徐々に溶けゆくその身に、
「まあ、その辺りの事を、今世で探究するのは【人それぞれ】と言うものです。お師さん、その辺にしてくださいまし。白黒つける前に、また雲隠れされては困ります。冥府に渡り、無限坂では、これでも酷いめに遭ったのですから、、、」
蒼奘は、微笑んでみせた。
「む、それもそうか、、、」
「ええ」
ヨルの身が、震えた。
時が、遡しまに戻るように、胸元を染めていた黒き泥が、元の形を取り戻し、彩を纏う。
顎の辺り抑えると鈍い音がして、骨格が矯正され、
「まあ、聞いとけ。俺はな、この世界を侵蝕したいんだ。三界も、奈落も鬼窟も、龍脈すらも、すべてを。交じり合い、統合しさえすれば、月並みだが皆等しく【感覚】を、【感情】すらも共有できる。【個】が【全】となり、この世の【然】となる。そんな世界を、お前も見たくはないか?」
「【個】が【全】、、、」
「ああ」
ヨルが、大きく頷いた。
すらりとした指先を伸ばすと、
「この先、俺たちのような異端も無くなる、、、」
「俺、たち、、、」
ヨルは、その破眼でもって、まっすぐに蒼奘を見つめた。
血の色に、深い碧の隈取。
その内側には、この世を遥か高みから睥睨する、望月の金色を宿して ―――、まっすぐに。
「【個】が【全】となり、この世の【然】、、、」
蒼奘は、その言葉を口腔で反芻した。
それは即ち、全ての者がこの世の有様、森羅万象を、共有する事に他ならない。
この世の有様の全てを知った時、【人】が、醜く争うことは無くなるのかもしれない。
そこに待つのは、
― 分かり合える【平穏】か、、、己が未来を、はからずとも見通してしまう【絶望】か、、、 ―
蒼奘の闇色の眸が静謐を湛えると、【師】を、見返した。
― お師さん、、、 ―
暗がりから、陽の下へと、手を引き導いてくれた【人】であった。
それは、無意識。
色の薄い唇に、穏やかな笑みが刷かれた。
「僕は、異端なんて思っていません。少なくとも、かつての貴方のお蔭で、、、」
だからこそ、だったかもしれない。
無我故に、ゆっくりと頭を、振ってみせたのだった。
「現実から逃げ惑っていた僕に、己が生き様を垣間見せ、ありのままを肯定してくれた方こそ、誰よりも真っ当に思えます。破天荒?いいえ、違います。僕が知るお師さんは、この世の【然】に、誰よりも近い方。何よりも、貴方自身が、体現されていたじゃありませんか?」
「ふ、、、」
薄笑みが、ヨルの唇に湛えられ、
「買い被りすぎだ、、、」
一瞬の内に、掻き消えた。
人好きのする表情が、豹変。
瞳孔が、細く細く引き絞られ、朱が散った破眼が宿したのは、
「おしゃべりは、ここまでだ」
あきらかな【殺気】であった。
ゆらりと、陽炎が二人の間に立ち込めて、
「うっ」
蒼奘が、仰け反った。
すぐ鼻先の陽炎の中から、すらりとした腕が、生えていた。
「ぐ、うッ、、、」
凄まじい力で、首を絞められている。
ぼやける視界、陽炎の向こう側。
玉座に深々と腰を下ろし、脚を組んだヨルの肩から先が、消えている。
「お、、師さ、、、っ」
息を求めるよりも、【その名】を呼んだ。
― あゝ、、、僕は未だに、この方を追いかけて、、、 ―
気が、遠くなる。
食い込む、指先。
長く骨ばった師の指は、今、つつましくも愛らしい桃色のその爪を、容赦なく蒼奘の肌にめり込ませてくる。
陽炎の向こうでは、冷たく沈んだ破眼だけが、静かにこちらを見つめていた。
― このまま、師の手に掛かって、魂魄ごと消滅するのなら、、、 ―
「んッ、、、」
そこまで考えて、唇を噛んだ。
ぷつりと食い込んで、柔らかい肉が切れる感触と当時に、温かいものが顎先まで伝い、
「ッ、、、」
陽炎の向こうで、ヨルが手を引き抜いた。
「くっ、、、け、ほっ、、、かはっ、、、はあっ」
大地に崩れ込んだ、蒼奘。
気道に流れ込む大気の感触に、眉を寄せ、息を整える。
「は、、、ぅ、、、ど、ですか、僕の、血の味は?」
淡く微笑んで、見つめた先、
「お、前、、、ッ」
ヨルの顏もまた、苦痛に歪んでいた。
蒼奘の顎先から滴った【それ】は、一筋の赤い蛇のように、ヨルの袖に入り込んだ。
肘まで伝うと、その柔肌に、めり込んだのだった。
血濡れた唇を拭いつつ、
「貴方はその身を、この世の理から外れた【物質】で作り変えた。肉体を持たない【今の僕】にも、【媒体】さえ得れば、それは【可能】と言う事です」
「、、、、、」
蒼奘が、ぞっとする程、低い声で告げた ――― 、眼差しは変わらず、信愛の情を湛えたまま。
「思い出したんですよ。以前、貴方と共に、数百年前に落ちたと言われる妖星の衝突跡を検めに行った時のことを。この身は、土蔵に封じておいた、その妖星の欠片から作った【土人形】。いくら探しても、貴方が冥府を訪れた痕跡は、ないはずです。この【物質】は、この世の理に干渉されず、こうして魂魄に、さもこの世の肉体であるかのような姿を纏わせてくれるのですから。あなたは、最初から、冥府に行くつもりもなかったんだ、、、」
そこまで言うと、今度は蒼奘の体が、どろりと溶けた。
土色と闇色が混じり合い、砂泥となって足元に蟠る様に、ヨルの舌打ち。
傷口から先の腕を、切り落とそうとしたのかもしない。
振り上げた左腕を ―――、ヨル自身の右腕が、押さえていた。
「邪魔を、するな、、、」
犬歯を剥いたヨルの脳裏で、
≪ 僕だけが、黙って見ている訳にもいきません。ほら、立場が立場ですし、、、 ≫
蒼奘の息遣いが、暢気に、そう言った。
体内では、冷え切った血管と言う血管に、蒼奘の魂魄が、根を張ろうとしていた。
一度は失った五感が、徐々に、しかしながら急速に戻ってくる。
ヨル自身の意識の中で、
≪ 嗚呼、お師さん。探しましたよ。【そこ】に、いらしたんですね、、、 ≫
蒼奘は、その人の姿を頭上に捉えた。
どこにもいなかった、【人】だった。
幽世のどこにも、生者の全てが記されると言われる、冥府秘蔵の鬼録にすら、残っていなかった。
どこで生まれて、どこで死んだか。
そのどこにも記されていなかった、【存在した証】すらの無い、それでいて【現実】の人だった。
そもそも【存在】すら、偽りだったのではなかろうか?
何度も何度も、自問自答し、諦めきれず ―――、ただ、信じた。
冥府は深淵のその懐で、来る日も来る日も、気の遠くなるような膨大な【鬼禄】を捲っていた手が、今まさに、【その人】を包み込む ―――、寸前。
≪ このまま【補完】させてもらいますよ、、、ん? ≫
微かに、それでいて確かに、金色の光が、
― なんだ?今、、、何か、、、 ―
見えた気がした。
それは一瞬の ―――、僅かな間ではあったが、
「ふん。若造が、抜かすわ」
ヨルが、虚を突くに十分すぎる【隙】であった。
侮蔑の笑みが、口元を歪ませる ―――、感覚。
凄まじい力で、一度は支配下に置いたはずの全身が抗い、
「両目を抉りとった激痛は、未だこの指先を、甘美に痺れさせてくれるものよ、、、」
≪ お師さん?! ≫
蒼奘の制止も空しく、両の手が、指先が、瞼から眼窩へと向かって ―――、めり込んでゆく。
≪ ちょっ、、、癇癪を起さないでくださ ―――ッ、 ≫
「喚くな。今、お前にも、味わわせてやるからよ」
≪ うッ、ぐっ、、、 ≫
指先が ―――、這入ってくる。
熱く熱く灼熱しては、濡れて染まる ―――、赤紅。
かりそめの【器】を内側から補完、同調せんとしていた意識が、
「こればかりは、くれてやれんのだ ―――、お前にも」
≪ ッ、、、師よッ、、、 ≫
抉りだされる視界もろとも、闇に沈んでゆく。
両の手に、それぞれ包まれた、【破眼】。
血濡れた眼窩もそのまま、無造作に投げたその先に、先程、蒼奘が纏っていた媒体が在った。
コロコロと床を転がる、二つの目玉。
媒体に触れると、
とぷん…ぽっちゃん…
水に落ちる如く、沈んでしまった。
媒体が、蠕動しながら動き出したのは、程なくで、
「【計都】が成るまで、このまま闇に遊んでいろ」
長く伸びた先は指となり、腕となり、豹のしなやかさでもって人の姿となると、真白の浄衣と、以前と同じく地上に存在した彩をその身に纏い、踵を返した。
「師よッ」
崩れゆくヨルの姿で、蒼奘が、遠ざかる背中に向かって叫んだ。
「何があると言うのですか?!かつて、貴方がその身を賭して守らんとしたこの地を、いっそうの苦界へと沈めんとしてまで?!」
「、、、、、」
その答えは、無言であった。
蒼奘は、赤く熱を帯びて痛む眼窩のまま、薄れゆくヨルの気配を辿っていた。
この時、もし蒼奘の視界が封じられていなければ、気づいただろう。
最後の儀式へと臨む、かつての【都守】の背中は、当時のまま、颯爽と風を切っていたことに…
【計都】
それは、現世を呑み込まんとする、異界の幻影。
この世の理を捻じ曲げ、現世と交わり、成り代わらんとする、【絶対負】の領域。
巨大な闇の渦となり、眼下に広がる中央が、山の如く迫り出していた。
奏伯らがいる淵の、さらに、その下。
【さかしまの世】であった。
「何がある、か、、、」
薄笑みが、唇を歪める。
滑るように、その表層を中枢へと進みながら、
「蒼奘」
そこにはいない弟子に向かって、ヨルは語りかけた。
「お前が、辿り着いた通りだ。何も、無かったんだ、俺には。何も ―――、何者でも」
すんなりとした手を、己が胸に置いて。
「それに気づいた時、まだ若かった俺は、これでも人知れず、絶望したものだよ、、、」
一度、穏やかに眇められた、破眼。
「乞われるままに、俺は、いつしか【この方】の孤独に、寄り添っていた。【この方】に許された時間は、かくの如く短かさよ。不老不死とも呼ばれた、この呪われし我が身でも、成せる事があるのならば、それだけで意味があろうと、考えたんだ、、、」
その瞳孔が、極限まで引き絞られる。
吐き出される渦から迫り出す、陽炎。
その陽炎が形作っていた大門が、築地塀が、社殿が、鋭角な角度を持つ物質として姿を現す。
質量を増し、至る所で、隆起し、噴きだす黒き奔流は、中枢へと至るその間に、黒き大湖を形成していた。
ところどころ顔を覗かせた浮島に、優美な曲線の平橋や浮橋が、いくつも掛かってゆく。
その上空を行きながら、
「この方の【想念】に従い、大概のところへは行った。海も渡った。朝も昼も夜も、人々の営みを見、自然の在りようを感じ、【大いなる存在】の意に ―――、触れた気がしたんだ、、、」
どこか、自嘲気味に、そう笑った。
浮橋の果て。
峻嶮な頂きを思わせる山の如きその上に、ヨルは両袖を広げ、舞い降りた。
自然の趣きとは対照的に、不釣合いな真新しい玉座に腰を下ろすと、
「 ―――、だからこそ、幻滅したのかもしれない」
脚を組み、片肘をついた。
「残念なことに、この世は ―――、【俺】よりも歪んでいるってな、、、」
その肘が、背が、足が、ゆっくりと玉座と同化してゆく。
「、、、、、」
ヨルが無言で眼を閉じると、玉座であったものが迫り出し、さながら巨大な咢となって、その身を呑み込んだ。
そして、ゆっくりと蠕動を繰り返しながら、頸部が伸びて、闇色の空を仰ぐと、禍々しい輝きを帯びた破眼の双眸が、現れた。
≪ さぁ、挨拶は済んだ。一息に、呑み込むか、、、 ≫
今まさに、ヨルの声で終焉を告げんと、計都そのものと成り果てた【かつての都守】。
【昏き世界】からの使者さながら、その巨躯を【昏きの大地】から、切り離したのだった。
― 重い、、、 ―
その言葉通り、体が重い。
辛うじて、手を伸ばした。
片腕で体を支え、【意識】する。
――― 、魂魄で描く、己が姿を。
泥状に波打っていた肌が、白々と澄んでゆく。
華奢だった骨格が、ぎちぎちと軋むような音を立てながら、伸びてゆく。
痩せぎすながらも、しなやかな体躯が闇色の袍を纏うと、肩に、白銀の髪が流れた。
辛うじて立ち上がったところで、
「く、、、ッ」
蒼奘は、目元に触れた。。
― 【視覚】を、蝕んだのか、、、 ―
指先の感覚が、無残に落ち窪んだ眼窩であると、伝えてくる。
そこだけは、どう意識しても、感覚を失ったままだった。
― 蝕み、壊す、【絶対負】。紛れも無い。これはお師さんの【竜眼の力】、、、 ―
ぽっかりと、不気味な二つの闇が、覗いていた。
― 行かなきゃ。お師さんとの【約束】は、僕だけのものだから ―
おぼつかない足取りで、蒼奘は歩き出した。
凹凸の大地に脚を取られながら、足場とも取れぬ場所を歩きながら、時に躓き、手とついては、
― 行くんだ、お師さんのところへ。僕が、止めなきゃ、、、 ―
甘い、夏花の香り。
残り香のする、その方へ。
つい先ほど、亡影が、闇に戻ったところ見届けた、一行。
為す術も無く、言葉にできることすら、無かった。
混じり合い、浸食し合いながら、波が引くかのように、闇の大渦と化して、眼下に蟠っていった、【亡影】。
新らたな異変に、真っ先に気づいたのは、
『来る、、、』
鼻を鳴らした、胡露であった。
「まずいぞ」
続いて、銀仁が、低く喉を鳴らした。
全身の毛が、総毛だっている。
羽衣の一端に、奏伯が触れた。
「胡露」
『ええ』
眼下で渦巻いていたそれが、突如、吹きあがる。
凄まじい量の闇が、吹き上がる刹那、
シュル…シュルルル……
奏伯の手が振られ、衣擦れの音と共に羽衣が、金色の球体となった。
その羽衣を内部から支えるべく、奏伯の右手 ―――、刃と化した胡露が、撓る。
ゴ…ゴゴゴ………
ゴッ ォ オオオゴ―――ッ
ガガッガッ ガガガッ
凄まじい震動に、咄嗟に燕倪は、傍らの伯を抱きかかえた。
銀仁の巨躯が胡露の一端に爪を掛け、燕倪の体を支えるために四肢を突っ張った。
「、、、、、」
ただ、一人。
奏伯は、闇の大渦から吹き上がる、その奔流を見つめていた。
『都守』
腕の辺りから、胡露の視線を感じる。
案じているのだ ―――、間もなく訪れる、対面に。
噴き上げる闇の中、巨大な咢と化した、ヨル。
まっすぐに上空を見つめ、闇を引き連れ、舞い上がる。
「、、、、、」
ふと、何かの視線に気がついて、
「、、、、、」
金色の千里眼と破眼が ―――、交錯する。
「うー、ぅ、、、」
震動が収まると、腕の中で、伯が呻いた。
顔を上げれば、奏伯の背中が見えた。
その先に、ぼろぼろになった、羽衣。
刀身を球状に這わせていた胡露が、奏伯の腕に戻ると、役目を終えた羽衣が、微かに甘い霊紫の香りをさせ、粉雪のように、舞い散っていくところであった。
吹き付けた闇の瘴気を祓うように、銀仁がぶるぶると体を震わせる中、
「、、、、、」
伯は、頭上を見上げた。
薄闇に、鮮やかな赤き花弁が、舞っている ―――、甘い香りと共に。
「おい、どうなった?」
奏伯の、傍らに立った燕倪が問えば、
「、、、歌っていたよ」
うっそりと、振り向いた。
青いその唇からは、笑みが掻き消えていた。
「うたぁ⁈」
「あれは、、、いつか、汪果が伯に歌っていた、子守唄だ」
こちらを見つめた金色の双眸は、いつになく怜悧であった。
「それより、燕倪、あまり【この香】を吸い込むな。霊紫の残りがで、相殺されているが、それでも、蝕まれるぞ」
「あ、ああ」
慌てて、袖で口許を覆う。
霊紫とは違い、どこか、甘美に痺れるような、そんな香りであった。
「あゎ」
伯の手が、赤き花弁へと伸びる。
触れた先でそれは、そこか哀しく澄んだ音色をさせて、掻き消えてゆく。
伯の袖が、広げられた。
ふわり…
赤き花弁に触れながら、哀しき音色を奏でながら、その身は舞う。
燕倪が、良く知る人の姿を ―――、映して。
「鳳祥院⁈」
出逢った頃の面差しそのまま、だが、
「、、、いや、違うな」
当人よりもさらに線が細く、どこか幼い。
何よりも、蘇芳の龍袍が、物語る。
「先帝の魂へ捧げる、子守唄だってのか、、、」
茫然とした燕倪の眼差しの先で、龍袍の童が、膝をついた。
闇の侵蝕に、中てられたのだろう。
「あるいは、鎮魂歌、、、」
奏伯が、燕倪の肩を押さえて、歩き出した。
華奢な肩を上下させる童を、腕に抱き上げる。
青ざめた頬に手をやれば、赤子の仕草でもって、首にしがみつく。
震えるその背中を、さすってやれば、
「見失うな。お前は、お前だ。伯よ、、、」
黒髪は群青へ、龍袍は水干へ。
どこか虚ろな昏い眸は、鮮やかな黎明を湛えた。
伯の様子に、ほっと、小さく安堵のため息をついた、燕倪。
その鈍色の眸が、
「ん、、、?」
不意に、眇められた。
前方に、白い人影。
「蒼奘?!」
彼方の人影に気づいた燕倪が、駆け出した。
「や、あ、、、君かい?」
「お前が、なんで、こんなところに。いったい、何がどうなってやがる」
「皮肉だね。胸騒ぎがして、一足先に僕は、帝都に戻ったんだけど。屋敷に、お師さんが現れてね。追いかけてみたものの、この通りさ。まんまとみんな、帝都から切り離されてしまったようだ、、、」
よろめき歩くその人が、力無く言った。
肩を貸そうと、腕を掴んだところで、
「おい、、、お前、、、」
燕倪も、異変に気付いた。
瞼もなく、ぽっかりと闇だけが、眼窩を占めているのだ。
「ははは、、、情けないだろう。自信、あったんだけどなぁ。捕まえる手前で、擦り抜けられてね。おまけに【竜眼】で、やられてしまったんだよ。ふふふ、、、」
力なく笑う相手の腕を、己が肩に回し、
「笑っている場合かよ。無茶するからだ」
歩き出す。
「こんな時くらい、僕にも無茶、させてよ」
「おまえなぁ、、、」
「冥府で、ずっと探していたんだ。どこかに、お師さんの痕跡が無いか、って」
「、、、、、」
燕倪の鈍色の眼差しが、穏やかな口調とは裏腹に、唇を噛む蒼奘を見つめた。
「ここに来て、ようやく見つけたんだ、、、」
唇の端を噛み切ったのか、赤い雫が一滴、顎先へと伝っていった。
「このままじゃ、終わらないんだよ」
「終わらないって、、、」
「、、、、、」
燕倪は、蒼奘の口元が引き結ばれるのを、見た。
― 譲れないもの、か、、、 ―
その胸に抱いた【覚悟】を垣間見て、燕倪は、蒼奘の脇腹に回した腕に、黙って力を込めた。
「、、、、、」
「、、、、、」
言葉を交わさずとも、何を言わんとしているのかは、互いに分かっているのかもしれない。
長らく離れていたが、傍らの男は紛れも無く、燕倪が知っている者、【そのもの】であった。
前を向けば、【もう一人】の蒼奘であった者が、その様子に目を眇め、腕を組むところであった。
「蝕まれた、か、、、」
「誰よりも、手の内を知っているにも関わらず、面目ない、、、」
項垂れた蒼奘を、どこか冷ややかな奏伯の視線が出迎えた。
その背中から、
「んむー」
顏を覗かせたのは、伯。
蒼奘の前に進み出て、見上げる。
両手を伸ばし、
「んっ?ん?なに、何?」
そのまま、よじ登られる蒼奘。
何が起きているのか、さすがに理解できぬ呈でいる所を、
「伯、触れるな。触れた先から、蝕まれるそ、、、」
奏伯が窘めた。
「と、いう事だ、伯。降りろよ。、、ほら、蒼奘から、、、おい、降りろってっ」
燕倪が、未だに興味冷めやらぬとしがみつく伯を、引き離す。
「いぁあ」
短い声をあげたところで、
「そこにいるんだね、伯?」
蒼奘が視線を合わせるかのように、膝を折った。
燕倪に肩を押さえられたまま、伯が顏を近づける。
菫色の眸を、瞬かせては凝らし、ぽっかりと闇が詰まった眼窩のその奥を、見つめた。
視線は感じるのか、蒼奘が苦笑。
「君の視線は、お日様みたいにぽかぽかしていて、それでいて、ちょっとだけ悪戯で、くすぐったいね」
「ぽぁ、ぽか、、、」
小首を傾げる、伯。
「うん、そう。それでね、伯。お師さんの能力の事なんだけれど、とても厄介なんだ。さすがの君でも、呑まれてしまうかもしれないから、十分に気をつけて」
「おー」
その華奢な肩に手を置いて、蒼奘が念を押した。
眼球を抉りだされる感覚は、誰にも味わわせるわけにはいかなかった。
「それよりも、お師さんが、【計都】が成るまで、と言っていたんだ」
「なんだ、その、【計都】って?」
聞き慣れない言葉に、燕倪が困惑するのも無理は無く、
「簡単に言うと、物質的な【都の亡影】、そのものだよ。お師さんは、この世の境界を蝕み、壊すつもりなんだ」
「壊、す、、、」
呻いた燕倪を余所に、大方、最悪の場合を想定はしていたのか、胡露も銀仁も、何も言わなかった。
「先代都守だったヨル殿が、どうしてそんなことを。第一、先代は、もう、、、」
燕倪の呟きにも似た、言葉。
先代を知る燕倪にとっても、俄かには想像できない事であった。
「それを可能にするのが、【竜眼】の力だよ」
蒼奘が、襟を正しながら、応えた。
「どうやら、肉体は滅びても、色褪せぬ宝玉のように、その力は存在しているようなんだ。事実、その魂魄が、冥府を渡った痕跡は無かった。師の魂魄は今や、力の象徴たる竜眼と同化し、魔境の先兵となって、この地を覆いつくさんとしているんだ、、、」
「かつては、守っていた都を?」
「、、、それだけじゃないとも思うんだけど。ごめん。僕にも、分からないんだ」
― いや、、、そう思いたいだけ、なのかもしれないな、僕は、、、 ―
溜息が、蒼奘の唇をすり抜けていった時、
「、、、、、」
一人、金色に染まった双眸で、闇色の大渦が消えた頭上を見つめていた、奏伯。
闇を従え、力強い馬蹄の音が、近づいてきた。
頭上の淵より、白銀の轍を刻み、赤い鬣を振り乱した鋼雨が、駆け降りてくるところであった。
グル…ブルルッ…グググッ…
落ち着きなげに、銀の蹄で大地を蹴る仕草をする。
宥めるように、その鼻先を撫でると、鞍上へ。
「その【計都】が、【奈落】の底から切り離された。ほどなく、ヨルが地上に到達する。外からは兎も角、内部からともなると、この質量だ。塞ぎ切れまい。天狐が気がかりだ。追うぞ。蒼奘」
「あ、うん」
蒼奘を、鞍上へと引き上げ、馬首を返す。
「壱岐媛」
燕倪が、その名を呼べば、闇を滑るように、一角屍魚【壱岐媛】が泳ぎ寄って、
ォオオオ…オォ…ン……
背びれを広げた。
鋭い棘に手を掛け、前方を駆ける鋼雨に追いつけとばかりに、壱岐媛が泳ぎだす。
どうするのか、などは、誰も口にしなかった。
奏伯は、頭上を睨み、伯は、銀仁の背で、細く息を吐き出した。
胡露は、遙絃の気配を探る為、より五感を研ぎ澄まさんとして目を閉じ、燕倪は、業丸の柄に手を置いた。
一方、蒼奘は、
「、、、、、」
真っ直ぐ、前を、向いていた。
仄暗く、それでいて濃密な闇が層となり、質量を持ち、どこまでも延々と続く、果てなき、奈落の一画。
隆起を繰り返す、不安定な闇の大地に刻まれる、鮮やかな白銀の輝き。
一行の軌跡が、暗海を漂う夜光虫の如く、淡く発光しては、消えてゆく。
遠ざかる、馬蹄の音。
水面の如く、闇を掻く、鰭の動き。
向かう、その先に、未だ、【光】は見当たらぬと言うのに、、、
それでもなお、前進する一行の歩みは力強く、【奈落の底】まで轟かんとばかりに響き渡るのだった。
迫りくる、闇の大波。
焼き尽くし、近づかせまいと、鬼神の焔は勢いを増し、押し包まんと、高く迫り出せば、天狐が放つ閃光が、大波のどてっ腹に風穴を空けた。
「、、、、、」
それまで、天狐の背で、鬼神らを指揮していた黒髪黒瞳の遙絃が、振り向いた。
愛くるしい横顔から、笑みが消えていた。
― やはり、影を祓うことなど、できはしないか、、、人が、人である以上、、、 ―
漆黒の双眸を眇め、舌打ちしたのは、遥か眼下の異変を感じ取ってであった。
闇の蠕動は渦となり、今、【もうひとつの帝都】を呑み込もうとしていた。
遙絃の右手が、伸びた。
八重の羽衣が、長く長く、頭上へと伸びてゆく ―――、光の粒子を振りまきながら。
― このまま抑え込んでいては、内部と呼応しあって、いずれは反転する。口惜しいが、、、諸共、塞ぐッ ―
何の変哲もない、異国の娘然としたその身が淡く発光する ―――、
「コォォオオオ………」
―――、光の粒子を、可憐な唇から吸い込みながら。
ギㇽルル……ッ
「‼?」
天狐が、不意に、身を捩った。
それは、一瞬の出来事であった。
――ッ、―――――ッ……
大気が、闇に支配された空間が、音も無くざわめき ―――、世界は震えた。
大きな闇の渦が、柱となって噴き上げる衝撃とほぼ同時に、
ガッ、ガガアアァギギ―――ッ
予期せぬ、まさに頭上から赤き雷 ―――、奔る。
ケケェエエ…ン……
目を凝らすよりも先に、遙絃の身は吹き飛ばされ、
「ぐ、ぅうッ、、、」
淵へと転がった。
辛うじて、とっかかりを、手にした時、
「!!!」
噴き上げる衝撃と瘴気に耐え抜いた遙絃は、その赤き輝きの正体を、知ることとなった。
赤き月光。
それが頭上から降り注ぎ、突如、その隙を突いて結界を敷いたのだと理解した時、遙絃は、考えが甘かったことに、唇を噛んだ。
「ヨル――ッ‼‼」
噴き上げた闇の突先、闇の咢。
それが、彼方で薄く笑ったようだった。
もとよりここに、地仙級を繋ぎ置くつもりだったのだろう。
「む、、、鵡吾守!?」
赤き光に囲まれた陣の中で、巨狐が、もがいていた。
眼を凝らせば、足場となっていた闇の質量の中に、玉が見えた。
優勢に見せかけ、【削らせられた】と言う方がいいだろう。
それを、いつの頃かしれぬ襤褸を纏った何かが、抱いているようであった。
― 厄介だな。ここは、それなりに古い都。恨み辛みを募らせた人柱には、事欠かないということか、、、 ―
ガッ…ァアアアアア―――ッ
赤き陣の中で、鵡吾守が咆哮。
足場であった闇色の大地に、亀裂が生じ、
ゴゴ…ゴゴゴゴ………ガッ…
ギギ…ギギ…ィイ…
重力を無視して、上へ下へ。
大小様々の大地の欠片が、触れ合い、擦れ合い、ぶつかり合ってゆく。
「何をするつもりだ、鵡吾守ッ!!」
グッ…カフッ…
額に浮かぶ、鮮紅の吉祥紋。
苦しげに口を開ければ、紺碧が覗くその紋から、青紫の血潮が滴っていく ―――、香しい香りと共に。
― 霊紫に、分解されているッ ―
とっかかりを握り、体を起こさんとする手が、熱い。
久しく見なかった、赤い鮮血。
したたか、全身を打ったのか、大気でさえも、のしかかるように重く感じられた。
「ぐ、、、ふッ」
肺と呼ばれる辺りが、軋む。
骨と言う骨が砕け、内腑に、気道に傷をつけたのか、
「ごッ、、、か、ハッ、、、」
血泡が、唇を濡らして毀れた。
人の脆弱極まりない肉体が齎すその痛みを、【かつての遙絃であった者】は、よく知っていた。
― あたしを助けるために、契約を無視して、振り払ったというのか、、、 ―
黒髪黒眸、浅黒き肌。
異人の若い女。
華奢な素肌に纏いつく、金色の羽衣だけが、辛うじて人の身を守っているようであった。
ギ…ギシュ…ッ…ルルㇽ…ッ
鋭い牙の羅列から毀れる、苦鳴にも似た声音に、
「今更、馬鹿なこと言うなッ!!契約を、神意を違えれば、お前の方こそ【禍神】ぞッ」
ルルㇽ………
「鵡、、、吾守、、、ッ」
ありったけの力を、腕に込めた。
重い体を、引きずり上げる。
痺れる、脚。
足首から先が、あらぬ方を向いていた。
浮かび上がる、瓦礫の上、
「、、、、、」
遙絃は、佇んでいた。
見回せば、八火業焔衆ら、鬼神の動きに、陰りが見え始めた。
【追従する者】を失い、連携が保てなくなっているようだった。
火焔の間をすり抜け、砕け連立する瓦礫を盾に、縫い入るように伸びる、闇色の触手。
無数の触手が帯のように、編まれる中、一筋の煌めきが、遙絃の頬を伝った。
「あの日、確かに、あたしは死んで ―――、」
その身が、くらり、と倒れた。
無防備に、落ちてゆく。
触手にぶつかれば、肉が爆ぜ、瓦礫にぶつかれば、骨が砕ける鈍い音が、体内に響いていく。
キルルルッ…ギイッ…
いつもは、胸のずっと奥の辺りから響く、その声音。
いつからだろう ―――、耳に、心地良くなったのは?
「 ―――、お前と共に、生まれ変わった」
遙絃にとって、人の身の痛みすら、今となっては、懐かしいものかもれない。
額の辺りから滴る血潮が、視界を赤く染めて、
― お前の受肉に応じ、荼吉尼として、、、 ―
遙絃は、目を閉じた。
ギュルッ…ルルㇽッ…
四肢を踏ん張って、首を擡げた、天狐鵡吾守。
赤き光の陣へと身を投じた、遙絃。
クォオオオ…ンン…ッ
どこか哀しげな声が響き渡る中、二つの魂が再び、重ろうとしていた。
辛い事。。。
ええ、、、
ついに、出てしまったんですよ。。。
僕は、無類の犬好きなのですがね。。。
犬アレルギーが。。。