第参幕前 ― 孤夢 ―
先の怪異から一月。帝都では、また人々を震撼させる事件が起こっていた、、、
死人還りの都守蒼奘、業丸を継ぐ武官燕倪、幽身であるがこの世に縛られた伯。それぞれが紡ぐ異国絵巻、第参幕前編。。。
上へ、下へ。
揺らめきながら差し込む、月明かり。
深い海を、力強く穿つ、陽の光。
そのどれをも、瞼を通して見ていたのかもしれない。
上へ、下へ。
体に刺ささったままの、無数の矢。
黒い帯となって流れ出る、忌々しくも赤い、己が血潮。
一滴残らず、染み出てしまえ、、、
そうすれば、まだ少しは、気が晴れるような気がした。
上へ、下へ。
冷たく傷を舐める、海の水。
このまま漂い続け、この身が朽ちれば、もう、あの人を想わなくて済むのに、、、
それは良く晴れた、しかし風の強い秋の終わりの事だった。
黒々とした葉をつけた、松の並木。
その先に広がるのは、ごつごつとした石ばかりの海岸。
そこに、小さな人影が立った。
眸に、強い光を宿す、女童。
若草色に染められた小袖の裾を摘み、石から石へ。
白い波が激しく打ち寄せる波打ち際までくると、
「、、、、、」
青く滲む漆黒の眸が、足元に打ち上げられた者を、見下ろした。
強い風に、結っていた綾紐が飛ばされて濡羽玉色の髪が、靡いた。
「、、、、、」
女童の足元に伏すは、その身に矢を無数に受けたままの、長身の男。
衣であったものは、波風に晒され襤褸としか見えぬ有様で、細く息をしているのが、不思議なくらいだ。
凄惨極まりない男を前に、しかし、
「、、、、、」
女童は、目を背けはしない。
むしろ、その眸は炯々と、輝きを増す。
「聞こえて、いるのだろう?」
強い風の中、その澄んだ声音は、凛として、放たれた。
浜に、打ち上げられたままのその男へ。
「、、、、、」
その姿、異形。
朱金の髪は、斑。
腕から先は、びっしりと同様の体毛で覆われ、爪にいたっては漆黒の鉤爪であった。
「そなたの夢を、視ていた、、、」
恐れなど、微塵も感じさせぬ、女童の声。
その言葉に導かれるように、微かに、瞼が動いた。
覗いたのは、瞳孔鋭い金色の双眸。
そしてその眸に映るのは、陽の光の中に立つ、女童の姿。
鼻腔に甘い、人の匂い。
それも、骨柔らかく、上等な…
飢餓に、紅へと色を変えた眸は、
「、、、、、」
しかし、すぐに元の色に落ち着き、異形は、目を閉じた。
「夢の中。ずっと、そなたの声を、聞いていた、、、」
「、、、、、」
「冷たい海を漂っても、その声が途切れることはなかったのは、、、」
冷え切って、感覚の無い四肢を貫いたのは、
「生きたいから、だろう?」
女童の、言葉。
瞼が、動いた。
「、、、、、」
もう一度、声の主を探し彷徨う、眸。
女童が、光の中で手を、差し伸べる。
※
頭を掻きつつ御所に上がったのは、鈍色の眸にどこか愛嬌のある男。
片腕には、書簡を抱えている。
「やれやれ、、、」
燕倪である。
陰陽頭不在を見計らって、蒼奘が左大臣と共にでっち上げた妖星騒ぎ以来、昼は宮中に上がり、夜ともなれば御所を見回り、
― 何でいつも、俺ばかり、、、 ―
ろくに屋敷にも帰れぬ、忙しい日々を送っていた。
溜息混じりに見上げた空に、煙が爆ぜている。
定例会、召集の合図だ。
今日は、見回りの合間に見聞きした文官、武官、はては後宮の女御達が直面している御所の内での怪異や、彼等から寄せられた修繕の手が行き届いてない箇所等々、帝をはじめ重鎮連中に諸事諸々報告する日であった。
直属の上司であり、従兄弟の左近衛府中将真紀烈也によって、
『先の一件で、お心病み、お休みになれぬ方も多いと聞く。よって当面は御所を見回り、不安の種を見極めてくるのだ』
『何で俺なんだ』
『お前は女運は無いが、妙に女御受けが良い』
『余計なお世話だッ』
『月末の定例会にて、御上に御報告奉る。しっかりやれよ』
押し付けられた次第である。
それでも性格柄、手は抜けぬようで、目の下の隈がこの男の仕事振りを物語る。
大内裏と内裏を繋ぐ渡り廊に差し掛かった辺り、
「ん?」
視界に入ってきたのは、冠を頂いた束帯姿の長身の男。
欄干に肘をついてうっそりと、遠い眼差し。
どこか物憂げで、それでいて、冷たさを湛えた黒瞳。
春先の、からりとした雲一つない空の下が、此れほど似合わぬ者もいない、
「おい、蒼奘」
その人である。
「珍しいこともあるものだな。お前、定例会に出るのか?」
「いや、、、」
平素、各寮の長や諸将集まるこの会にはこの男、出席した試しが無い。
都守は星読寮、陰陽寮、稀に神祇官の中から選出されるが、帝直属の扱いになるため、待遇が異なる。
元々は、代々の帝の傍らに在ってその身を災いから退ける、またはその肩代わりをする帝の形代の色合いが強かったが、『民在る都を守ってこその安寧』を掲げた当代より数えて六代前の剛珪帝の御世に、今の都守の位置に定まった。
帝付きではあるが、その存在は帝都安寧のため。
その安寧守るためならば、いかなる者にもその所業阻むこと、裁くことが出来ない、と言うことになる。
「今日は、先の件で、ついに呼び出しを食ってな。帝直々に、こっぴどく搾られた後だ、、、」
「そうか。まぁ、それも御上の御公務の内さ。酌んでやれよ」
「竜に、いたくご執心だったが、、、」
「ははは、、、」
憂鬱な表情の原因を垣間見て、これはまた面倒なことをねだられたのだろう、と悟った燕倪は、それ以上聞くことをやめた。
「ところで、肩の調子はどうだ?」
「御山の薬草はひどく沁みるだけで正直、芳しくは、無い」
「さすがの箏葉殿も、異形の鬼から受けた傷に効く薬草は知らないか、、、」
「こればかりは、な」
「ん?」
ふと、見れば意味深に蒼奘の繊手が弄んでいるものがある。
書簡だ。
「それは?」
「お前の好きな厄介事よ」
「別に好き好んでは」
「私もだ、、、」
「何やら上の空だな、さっきから。いったい何を見てるんだ?」
視線の先。
御所正面の広い庭に、人が出ている。
忙しそうに右往左往するのは、白き袍で身を包んだ陰陽師達。
「明日の大祓えの儀。祭祀の仕度か。まあ、あの規模の百鬼夜行。鎮まったとは言っても、さすがに民が不安がるのも無理はないよな」
「におうのだ、、、」
「あ?」
「ひどくあまく、な、、、」
ふわり・・・
蒼奘が傍らを通り過ぎると、瑞々しい椿の香り。
「焚き染め過ぎたのか?」
「読んでおけよ」
「お?あッ」
いつの間にか懐に捩じ込まれたのは、紫紺に染められた綾紐で結わえられていた。
「おまっ、これ勅旨じゃないか?!」
すでに彼方を歩くその人が、
「お前の名を出しておいた」
言い捨てて手を振った。
その背を見送って、
「まぁ、いつも俺が持ち込む事の方が多いか」
諦めて渋々、懐に仕舞ったのだった。
「銀仁、どうした?」
「いや、、、」
足を止めていた若者が、首を振った。
先を行くのは初老の男。
御所には、珍しいものもあろうと、視線を追った先には、
「ああ、都守か。宮中で会うなど珍しい」
特徴的な、白い髪の主。
「都守、、、?」
「帝都を預かる者だ。占星術、仙術、呪術を能くする者が選任されるのだが、我々が勤める陰陽寮ではなく、当代は星読寮の出でな。とにかく、気難しい男よ」
「だが、あの髪の色は、、、」
「死人還り。生きながら幽世を彷徨い、戻った者は、見鬼になって戻ると言われている。その者は、一様に髪の色素が抜け落ちて、あのように白くなってしまうのだ。あの男は、先代の都守が死んだ後、幽世に渡り、死人還りとして現世に戻った。異形の力と共にな、、、」
「、、、、、」
「今となっては無愛想な奴だが、あれでも昔は、可愛げのある奴だったんだが、、、」
公達らが道を開ける中、遠ざかるその背が、二人の視線の先で立ち止まった。
振り返り、
にこり…
会釈を送ると、そのまま社殿を星読寮の方へと消えてしまった。
「聞こえていたかな?」
「何やら笑って、、、」
「気にするな。嫌がらせのようなものだ」
「はあ、、、」
二人が立つそこへ、浄衣姿の陰陽師が駆け寄った。
「陰陽頭、砂庭用の浜砂が着きました」
「ああ。これで全て揃ったか、、、」
手にした古い書物を閉じると、
「銀仁、稀水と共に見て回れ」
「分かった」
「頼んだぞ、稀水」
頷いた弟子に預け、陰陽頭は大内裏へ向かって歩き出した。
若者を連れた陰陽師は、
「陰陽寮は昨今、年寄りばかりで、当てにできませんからね」
「できる事があるのなら、なんでもしよう」
「助かります。清めた後に、この一帯に浜砂を敷き、祭壇を設置しなくては。こっちですよ、銀仁殿」
師が連れてきたこの新入りに、人の良い笑顔を見せたのだった。
屋敷の門前で、ちょうど出くわしたのは、包みを抱いた琲瑠。
「燕倪様、今、案内を、、、」
「いいよ。勝手知ったるなんとやらだ。庭から回るよ」
「ではすぐに、お酒をお持ちいたします」
山野草が植わる母屋への小道。
鼻腔をつく、深く芳しい香り。
その正体は、闇の中に仄白く浮かぶ銀涼草だ。
「ん?」
その群生した辺り。
植えられた楓の老樹が、ざわついていた。
見上げた先の新緑の中から、白い袖。
「伯、そこで何をしているんだ、、、?」
重さで垂れ下がる枝を手にして、覗き込めば、
がじがじ・・・
幹を、齧っている。
「また、おかしな遊びを。降りてこい、ほらっ」
「いぁっ」
手を伸ばし、袖を引いて下ろせば、伯が転がり落ちた。
抱きとめたところを、
「がうっ」
「ぎぇッ」
肩に食いついた。
「やめよ、伯、、、」
首根っこを摘みあげて引き離したのは、蒼奘。
「なんなんだっ?!」
「乳歯が、生え換わる時期らしくてな、、、」
「だからと言って、口に入れるものは選べ」
「あむぅう」
上唇を摘むと、歯茎から小さな犬歯が覗いている。
「楓は他のどんなものよりも甘く、都合が良いらしい。私も、この通りだ、、、」
たくした袖。
白々とした右腕に、点々と赤い痕。
「躾しろ」
手にした小太刀を抜くと余分な細い枝を切り払い、手を伸ばすその人へ。
大人しくなった伯を小脇に抱え、母屋へ。
ほどなくして汪果と琲瑠が、酒肴を運んでくると、蒼奘の膝で枝を齧っていた手がさっそく伸びた。
その手に杯を持たせ、瓶子を傾ける。
蜂蜜色の液体が、細やかな泡と共に注がれた。
ほんのりと甘い香りが、鼻腔をくすぐる。
舌をつけ、刺激に小さく震えた伯を見つめてから、よく冷えた瑠璃の杯に二つ、なみなみと注ぐ。
一息に飲み干して、
「後味が、変わっている」
「牛の乳を醗酵させ、取り出した酵素で作られた異国の酒だ」
「牛の、、、」
二人が飲み干したのを見てから、もう一度唇をつけた伯だが、
「ふやっ」
杯を置いてしまう。
その口に、蜜を絡めた胡桃を入れてやる男へ、
「しかし、傷も癒えぬと言うのに、また、畳み掛けて来たな」
「私を都守の座から、引きずり下ろす口実にでもしたいのだろう」
「どうせまた、何かしたんだろ」
疑惑の眼差し。
「陰陽頭不在の内に、帝と都を危険に晒したのが気に食わないのだ、、、」
「夜都となったのを良いことに、あれが妖星近づいた兆しであったと言い張ったんだってな?そのおかげで対応遅れたと、陰陽寮と星読寮は帝の御前で、面目丸潰れ。当の陰陽頭など黙ってこそいたが、露骨に首を傾げていたと、父上が言っていた」
「幸い、瘴気が目に見えて噴出し始めたのは、陰陽頭が諸用で都を離れた後であったな。備堂家の悪運、大したものだ」
「それだけじゃない。清親が、御所に落ちた雷四箇所の内の一つに、陰陽寮の碑文の間があったと嘆いていたが、、、」
「ふ、、、」
「やはり、お前の仕業か。あの大事の最中に、よくもそんな事が、、、」
「お前も何も言えまいよ。秘されたままの碑文がこの先世に出る事あれば、今の備堂の権威、失墜するぞ。土師氏の末、、、」
「むうう」
相変わらず、涼しい顔で、
「人柱を解放した今、これから先、碑文も必要なかろう。四神に守られた神都と、思わせておけばいい。真実は、代々の都守が知っておればそれでいいのだ」
青い唇に杯をつける。
「そういうものかねぇ」
「知らぬ方が、心安く生きられる場合もある」
「んー」
次の胡桃を欲しがる伯に、杯を再び箸に持ち替えた。
その鼻先に、勅旨である書簡を突きつけて、
「で、富紀の山へはいつ行くのだ?」
「人喰い鬼の棲まう山、か、、、」
勅旨は、こうだ。
帝都の南東にある、富紀の山。
峻険な山として知られ、修験者らの霊山でもある。
人を拒むかのように滅多に霧が晴れる事が無いため、原初の森がそのまま残り、麓の里の住人達らは、それ自体をご神体として崇めている。
その山で、しばし血生臭い事件が起こっているらしい。
夜更けに獣のような、声。
山に点々と立つ、焔。
山肌を疾駆する巨大な、影。
そんな目撃が寄せられてしばらく経ったある日、ついに犠牲者が出た。
麓の里から人らが攫われ、ずたずたの衣と共に腹を割かれて見つかったのだ。
それだけではない。
その事件を皮切りに都の周辺で、通りがかった貴族や、旅人も餌食となり、そのことごとくが腸を出され、惨殺され始めた。
届出が出されているだけでも、五件。
怪異から、一月足らずの事である。
「検死に向かった者の中に、星読寮の坂枝某という者も同行していてな。そやつが言うに、斬り殺されたな者には、同様に四つの揃いの傷が、深々と残っていたそうだ」
「四つの揃いの傷?」
「爪で引き裂かれたかのような、抉られたかのような、凄惨極まりないものだったらしい」
「ん?」
懐から取り出した、紙の束。
何気なく受け取って目をやれば、
「お、おいおい、、、」
燕倪が顔をしかめた。
「一枚目と二枚目は、実際に坂枝が見て描いたものだ。後は、発見した者達の証言を元にしてある」
髪を振り乱し、目を剥いた女の姿。
襤褸と化した衣、生々しく抉られ覗いているのは明後日の方向を向いて晒された、太腿の骨か?
黒墨一色だが、事細かに、発見された子細を描いている。
「とても、酒の席で見るものじゃないな、、、」
さすがに眉を顰めた燕倪。
「星読などやめ、いっそ宮廷絵師、孔雀殿の書生にでもなった方が良い腕前だ」
「お前、それ、当人に言ったのか?」
「ああ」
「おい」
そんな燕倪の窘めも、どこ吹く風で、
「里の者の目撃例やこの遺体の有様を見るに、相手が人外の鬼であるのなら、陰陽寮の管轄。名うての陰陽師が数名向かったらしいが、現れたのは狐狸ぐらい。とんと手掛かりを得られなかったらしい」
「で、おまえにお鉢が回って来たと、、、」
「先の騒動で宮中も民草も、過敏になっているからな。それに例の騒ぎを予見できなかったとして陰陽、星読、神祇の連中も先の怪異を重く受け止め、祭祀や暦の見直しで、手一杯だ」
「暇なのは、どこを探してもお前だけか、、、」
「手負いの者を労わらぬとは、世も末だと思わぬか?」
蒼奘は、嘯いた。
「それが、お前の負った都守の責。諦めろよ」
「ふん、、、」
「手勢が必要なら、俺が揃えるが、、、」
「いや、構わん。ぞろぞろと、お前のような大男らに囲まれてたまるかよ」
「出立は?」
「明日の大祓えの儀、さすがに顔を出さぬわけには行くまい。その後、だな」
「ちぇっ」
「何だ、えらくやる気だな?」
蒼奘の言葉を受けて、燕倪が瓶子を取り上げた。
「いやさ、つまらぬ宮勤が長かったからな。お前との鬼退治の方が、性にあっているのさ」
「の、後の酒だろう、、、」
苦笑しつつ、空の杯を満たしてやりながら、
「伯は、どうするすんだ?」
「、、、、、」
膝で眠るその童を見つめ、
「今回は、置いていこう」
静かに言った。
「そうか、、、」
先の一件で、蒼奘は伯に、その身が張り裂ける恐怖と痛みを、与えてしまった。
それを、引きずっている。
燕倪は、空の杯を置くと、立ち上がった。
大きく伸びをしながら、
「もう行くよ。ようやく定例会も終って、引継ぎをしたところだ。ゆっくり休みたい」
「ああ、そうだったな、、、」
いつものように、脱いだ草履を引っ掛けて庭から小道を抜けて門へ。
篝火の明りの中、提灯を持った琲瑠が、微笑んでいた。
「いつも、悪いな。琲瑠」
「いえ。道中、お気をつけて」
提灯を受け取ると、人気の無い往来に出る。
ふと、恵堂橋まで中程のところで振り返れば、彼方に赤々と篝火見えるは、蒼奘の屋敷のみ。
その篝火の下で、ぽつねんと見送っているその人の姿。
「相変わらず、律儀な、、、うう、寒っ」
辻にさしかかり、吹き込んだ風にぶる、と身を震わせると、襟を掻き合わせ走り出した。
月の高い、薄雲たなびく、そんな夜であった。
屋根の上。
彼方に星を頂き、黒々と鎮座する勝間の山裾の少し、上辺り。
とろりとあかい、十六夜月夜。
ここで聞こえるものと言ったら遠く、野犬の遠吠えくらい。
あんなに耳に障った潮騒の音が、今はどこか、懐かしい。
潮で焼けた喉も目も、体の傷も皮肉なもので、半年も経てば元通り。
病の癒えた主と共に朱央門を潜ったのは、帝都のあちらこちらに材木が運び込まれ、人夫行き交う、騒ぎの後だった。
― この都は、多田羅の浜の辺りと違って、物々しい ―
また今日も、どこかで人の死臭がする。
嗅ぎ慣れたその、匂い。
飢えを覚える、匂いだ。
月色で綺麗だ、とよく主が覗き込む眸が、赤々と染まって行く。
「銀仁」
声。
主の、声。
あとり。
首を振った。
「、、、、、」
金色の眸は、声の主を探して屋敷の内に視線を彷徨わせる。
軒下で探す幼き人の、主。
音も無く、舞い降りれば、
「寒の戻りか、今宵は冷える。はよう中に、、、」
その寝所へ。
「おやすみ、銀仁」
「ああ。甘い夢を、、、」
幼い主は、腕の中で眠る事が当たり前になって、
「、、、、、」
あとりの傍らで眠るのが、いつしか男の当たり前になっていた。
しとしとと、氷雨に煙る都を、出る牛車があった。
「散々だったな、、、」
窓から外を眺めていた燕倪に、
「人の祈りが、空を行く竜に届いたのだ。竜によってもたらされる雨は、浄化の雨」
さもつまらなそうな、声音。
薄暗い闇の中、天井より提げられた燈明の灯りで、書物を読んでいるのは、浄衣姿のままの蒼奘だ。
「竜ねぇ、、、あの一件以来、何も見えぬが」
「あの時は都中、瘴気で満ちていたからな。今は、例の一件で結界も弱まった。上空を化生や自然神霊が容易に行き来できるようになったのだ。精進せねば、星も暦も、読み違う」
「ううむ」
「別に、お前をせめてはおらんさ。人で拵えた結界などというものは、いつかは綻び、歪む、、、」
それっきり、二人の間に沈黙が満ちた。
聞こえ来るのは車輪の軋みと、雨、そして、書物を捲る音。
「なぁ、さっきから読んでいる、それは何だ?」
「大陸の古い書物だ。昔、大陸から来た高僧が妖に関する伝承を記したものを、勝間の御山に納めたそうだ。これは、それだ」
「箏葉殿の、、、」
「ふと、思い出してな。朝の内に、琲瑠に使いに行ってもらったのよ」
「今回の鬼騒動に、関係しているのか?」
「それは分からん」
「あ?」
「ただ、暇潰しにはなろうよ」
「おまえはいいさ。暇潰すものがあって。あぁあ、俺はこんな湿気の多い狭い所で、後何刻も過ごさないといけないのが、憂鬱だ」
再び、顔を窓の外へ。
辺りには、長閑な田園が広がっていた。
水を引き入れたばかりの田には、規則正しく稲の苗が植えられ、水面には雨蛙が我が物顔。
それを狙って、大きな青鷺がじっとしていた。
ぬかるむ道には、ちらほらと菰を被った者達が行き来しているだけで、彼方に見える小屋の戸は、固く閉められている。
そんな中を、ぎしぎしと、牛車は行く。
牛車を先導しているのは、琲瑠。
水干の裾をたくし、傘を差している。
顔を出している燕倪と目が合って、にこりとした。
「寒くは無いか、琲瑠?」
「ご心配無く。冷たい水に慣れ親しんでおりますから」
意味深なその言葉に何の疑問も抱かず、
「そうか。でも、無理すんなよ」
再び、中へ。
「しかし、良いのか?琲瑠を連れてきて」
「伯なら、預けてきた」
「預けるって、どこに?」
燈籠の灯りの薄暗がりの中で、燕倪は青い唇が吊り上るのを、見た。
「貸しのある、近所の屋敷にな」
一面に咲き狂うは、撫子、紫苑、鬼百合、虞美人草に芍薬、木蓮、露草、杜若。
一歩古びた門を抜ければ、外は雨だと言うのに、その庭は花と言う花で覆いつくされている。
その花咲く庭に、金色の髪を長く背に流し、獣の耳と尾を持つ者が立っていた。
天狐遙絃の屋敷である。
「ほ、、、泣き疲れて眠ったか?」
主が望まねば、けしてその門は開くこと叶わぬ、屋敷の内。
花に囲まれ指を咥えて丸くなっているのは、群青色の髪を乱した、伯。
紫紺の玉、泪の欠片が、あちこちできらきらとしている。
それを辿れば、容易く見つけることが出来た。
「寝顔だけ見ていれば、まぁ、仔も悪くは無いな」
長く赤い爪で頬を突くが、僅かに身じろいだだけで、起きない。
「遙絃、、、」
そこへ、腕に綺羅の織物を持った砂色の髪の美丈夫が歩み寄った。
「言っただろう。私は探し物が得意なのだよ、胡露」
「助かりました。若君にもし万一の事あれば、都守に申し訳がたたない」
手にしていた織物で包み、抱き上げれば、
「しかし、この天狐が子守とは、」
「すみません。お手を、煩わせるような事に、、、」
「気に病むな。思えば長く生きて、仔を持つ事だけは無かった、、、」
遙絃が覗き込む。
「余程、離れるのが辛かったのだな」
時折、スンスンと鼻を啜っている。
「健気よな。名を、存在意義を封じられても、縋る先には、全てを歪めたあの男しかいないのだから」
紺碧の双眸を細め、群青色の髪を一房、手にとって口付けた。
「いずれにしても」
胡露に背を向けて、歩き出した遙絃の腕が振られる。
降り注ぐ陽射しに煌いて、胡露の手に収まったのは、
「これは?」
多面体の小瓶。
「鈍いヤツだな」
「遙絃?」
「瑠璃宮を使え」
瑠璃宮。
屋敷と対になって、その逆しまに存在する遙絃気に入りの水宮の一つ。
「よろしいのですか?」
「ああ。はぐれ神とは言え、元々海皇の眷族だ。その方が心休まるだろう」
母屋へと続く渡り廊下で、控えていた侍女が手を差し出す。
その手を取って、階段を上り、
「蒼奘が戻るまで、上等な酒でも、食事でもいい。とにかく、霊紫を吐いたら、その小瓶にいれておけ」
艶然と微笑んだ。
「一体、何にお使いに?」
「霊紫は、若返りの秘薬よ」
珍しく、二つ返事で子守に応じたのはその為であったかと、今更ながらに気づいた胡露であった。
肩を、揺さぶる者が居る。
競い合いで、弐の香と伍の香が何か、悩んでいる所で目が醒めた。
「む、、、」
灯りの中に茫洋と浮かぶ男が、
「着いたぞ、、、」
先に出て行った。
開け放たれたその先には、闇が塗り込められていた。
「暮れたな、すっかり」
「今、猪の刻を少し回った辺りです」
雨も止み、空には遠く星々だけが輝いている。
「ここは?」
「里の裏にある富紀の祠への入り口です」
火を、燈籠に移しつつ、琲瑠が言った。
緩やかな勾配の道を、上がってきたのだろう。
その視線の先、眼下に闇に蹲る里が見えた。
「こんな時間から、御山に入るのか?」
「さっさと終らせるに限る」
「ああ。次の犠牲者の事を思えば、そうも言ってられんか」
「鬼への手掛かり、得られるかどうかは分からんがな」
「夜の時分、参道の辺りで火柱を見たとも言うしなぁ」
その参道が、細く、木立の中に伸びている。
錫杖をついて、手に燈籠を持った蒼奘と燕倪が、歩き出す。
「お気をつけて」
二人の背を、いつものように琲瑠がにこやかに見送っている。
牙の先の皮膚の下。
弾けんばかりに膨張して、脈打つのが分かる。
押さえ込んだ体の下で跳ねていたしなやかな四肢。
生暖かく胸元を濡らしながら、大地に蟠ったものは、甘く鼻腔をくすぐった。
やがて細かく痙攣した体は弛緩して、獣は獲物から牙を引き抜いた。
鼻先を近づけた先に、細かく柔毛が密集した腹部。
腹腔で湧き上がる微かな、苛立ち。
その日の獲物は、雌の鹿であった。
それを前にして、より一層浮き彫りになる浅ましき、性質。
脳裏に浮かんだ、かつての記憶。
思いのままに、人を狩っていた頃の自分。
その味を、この舌が忘れる事は無いだろう。
そして、
「シユエ、、、」
愛した人の名も…
規則正しく鳴る錫杖の音だけが、響いていた。
深く苔生した原生林に入ったと思えば、奇岩覗く岩山になる。
山の中程にある祠へは、富紀の山を西側から回り込み、海に面した南側に出なくてはならない。
幸い、この辺りは雨が降らなかったのか、足を取られるような事は無かったが、薄く霧が立ち込め、二人の衣はしっとりと水分を吸って重くなっていた。
霧は徐々に深くなり、そのせいで、目安になるはず景色も見えない。
「まだ先なのか?」
「さてな。そろそろだと思うのだが、、、」
「霧が深すぎて、何も見えないぞ」
額の汗を拭い、息を整え、
「御足労、願ってしまったようだ、、、」
低いその声を聞いて、顔を上げた。
少し先を歩いていた蒼奘が、佇んでいる。
「お、、、」
その先に、金色の紋様を刻んだ肩耳赤毛の、狼。
灰鼠の双眸が、二人を静かに見据えている。
ざわり…
全身が総毛立つ。
― 遠野で見た青い猪以来だ ―
狼が、たっ、踵を返した。
その背に続き、
「てっきり、斬りかかると思っていた」
「遠野で見てなきゃ、な」
「遠野の辺りを縄張りにしている地仙、青角を見たのだったか」
「地仙?主みたいなものか?」
「まあ、そうだ」
燕倪は、まじまじと先を行く狼を見つめた。
「富紀の山の主、か、、、」
「ああ。夜都となった都の周りに、結界を敷いた神の一つさ」
霧の中に、古びた注連縄を架けられた巨岩が姿を見せた。
大地から突き出したその巨岩の付け根に、木製の古い祠。
狼は赤い軌跡を描き、巨岩の上に舞い上がると、前肢の上に顎を乗せた。
蒼奘は祠の前に進み出ると、
「 掛巻も、綾に畏き富紀の――― 」
― これは、祝詞? ―
朗々と低く、奏上を始めた。
― 霧が、、、 ―
穏やかな風が巻き、眼下に開けた視界に占めるは、黒々とした大海原。
巨岩の彼方前方には、峻険な頂が天に聳え、箒星が幾つも通り過ぎた。
富紀の山の主は、目を閉じてじっと耳を傾けている。
― お、、、主は、、、? ―
しばらくして、蒼奘が頭を上げた時にはその姿は忽然と、消えていた。
「、、、、、」
しばし黙って、巨岩を見つめていたが、
「帰るぞ」
「帰る?」
「一つしかあるまい。都だ」
来た道を戻りはじめる。
その背を追って、
「何しに来たんだ、一体。用は済んだのが?」
「結界の返礼を述べに来た。祝詞はな、それ自体に力が宿る。神や主と言うもの、この世で必要とされなければ、忘れ神となる運命。人知れず、消えていくものもいる、、、」
「消えて、、、」
「人が寄る神社の神が、何故肥え太っているか知っているか?人の想いで、力を得るのだ。憎しみが鬼と成るように、願いや想いは時に、万物を支配する影響力を持つ。力を手繰り寄せる詞となるのだ」
「だか、この山の祠には祭りの時くらいしか、人が入らないだろう?富紀の山の主は、消えるのか?」
「いや。地仙は、領域を持っているのがほとんどだ。そこに棲む動植物を育み、領域を守っている。この森は、人を寄せ付けぬが、、、」
二人の前方を横切るのは、鹿の群れ。
木の梢で休む、梟。
緑の苔蒸した大地で跳ねるは、兎の親子か。
「これらがいるでな、、、」
山の民と、言うわけだ。
「主が居ると知れば、これから狩りするところを選ばにゃならんな」
「随分と、殊勝な事を言うな。自然というものは、気にするほど心は狭くはないよ。礼を尽くし、欲さえ出さねば、恵みとして惜しみなく与える。そういうものだ」
傍らの燕倪は、
「そういうものか、、、」
露骨に安堵した様子。
「平素お構い無しな癖、おかしなところで気を回す、、、」
つい、唇を突いて、零れてしまう。
「俺の事か?」
それには応えず、
「鬼の件だがな」
「ああ」
「鬼ではないようだ」
「鬼ではない?!」
太い腕を組んで、首を傾げる燕倪。
「そう言っていた。それしか告げてはくれなかったが、偽りではあるまいよ。私も人を喰らったにしてもあの絵、少々不自然な点があってな。鮭が揚がる川に行ったことはあるか?」
「ああ。兄上の別宅近くに良い川があってな。夏は鮎やハヤ、ウグイも獲れる」
「熊は出るか?」
「おう。あいつら、鮭がたくさん遡上してくる時期には、卵が詰まった腹ばかりを食べて散らかすんだ」
「うむ。獣も鬼も、獲物は内臓を喰らう。一番柔らかく、温かいところだからな。だが、あの絵で見る限り、腹は裂かれているが、食われている形跡は見受けられなかった」
「そう言われてみれば、確かに。書き忘れたってのはないか?」
「あれだけ克明に描く者だ。その観察眼に、狂いがあるとは思えん」
「だが、あの爪痕は?人の者ではないぞ」
今だ、納得できぬ様子で憮然としている。
「それを確かめたくてな。死に切れぬ幽鬼に聞くのが早いかと思っていたが、死んで間もない者は彷徨う。何処にいるのか分からぬ者を掴まえるより、居場所が知れる者を訪ねよう」
「当てがあるのなら、最初からそこから当たれば早かったじゃないのか?」
「口実が見つかれば、良いと思っていたのだが、、、」
「だが、なんだよ。何を、企んでいる?」
それには応えず、
「私はそちらを当たるが、お前の方は手っ取り早く、餌が必要か、、、」
「餌って、鬼のか?」
「見てくれもそれなりの姫で、万一に備え、腕の立つ者でなければ、、、」
― 式神で繕えばどうとでもなるが、当の人喰いを討つとなれば少しばかり、この男に動いてもらっている方が、都合良い、、、 ―
そんな思惑を廻らせているなど露知らず、
「天部清親」
すぐに思いつくのは、その人くらい。
「手を貸してくれるかどうか、、、」
「あいつは、鳳祥院のために武官に成ったようなものだし、今回はその帝が民を案じての事だからな」
「話が早い。おそらく物盗りの線は薄い」
「金に困っている者でも無いとすれば、単に、人を、、、」
「いずれにせよ、通常通り宮勤めし、内密に天部と打ち合わせておけ。今回の一件で、我々が調査に来ていると知っている者は僅かだ」
「お前はどうするんだ?」
「私の相手は化生だ。人ではない」
しれ、と言いのけた蒼奘の燈籠の炎が、揺れた。
「なんだっ!?」
「、、、、、」
風が巻いて、燈籠が斜面を転げ落ちていくのを視線が捉えた時、燕倪は黒い巨大な影が上空から降りてくるのを確かに、感じた。
ゴグァガガぁア―――ッ
全身朱金の体毛。
見上げる程に巨大な巨虎が眼窩に赤光を湛え、牙を剥き、二人の目前で、咆哮。
「ぐっ、、、なんて声だッ」
びりびりと肌を泡立たせる、威圧感。
「こいつッ」
抜き放った大太刀、業丸。
燕倪が、次の瞬間、巨虎の懐に飛び込んでいた。
ガガ――ッ
前肢の一閃。
「いぐっ」
鈍い衝撃が、燕倪の腹部にめり込んだ。
そのまま吹っ飛んで、斜面を転がり落ちていく。
「、、、、、」
燕倪が彼方の木に引っかかったのを、視線の端で捉えていたのかどうか定かではないが、蒼奘は変わらず同じ場所に佇んでいる。
漆黒の深い眸は、赤光湛える巨虎の乾いた双眸を、静かに受け止めていた。
ガガッ
その視線に耐えかねたのか、巨虎が風を巻いて跳躍。
ガグぐぁあああああアア――ッ
空を覆う古木をざわつかせ、彼方に飛び退った。
静寂が、辺りに戻った。
「燕倪、生きているか?」
道から目を凝らせば、彼方で男の呻き声。
仕方なさそうに道を外れ、腐葉土と苔に足を取られながらも、原生林の中を慎重に降りていけば、鳩尾を押さえて咳き込む燕倪が、横たわっていた。
「あ、あれは、、、?」
咳き込む燕倪が蒼奘の手を借りて、よろよろと体を起こした。
「富紀で目撃されたていた鬼だな」
「結局、鬼じゃないかよ」
「肋がいったか?」
燕倪は、胸を軽く叩き、首を振った。
腰を強か打ったが、敷き詰められた枯葉のお陰か、どれも掠り傷程度の軽症で済んだ様だ。
「頑丈な男だ」
「感心している場合か。早くなんとかせねば、次の犠牲者が」
「心配無い」
「なんだ、式神にでも追わせたか、、、」
ほっとした燕倪に肩を貸ししながら、
「いや」
暢気な返事。
「なんだとぉッ」
拳を握る男に、
「居場所も知っている。それにあれは、人を喰ってはおらんよ」
「あの形で、よくもそんな事が言えるな?!そんな保障が、どこにあるッ」
「喰らうつもりなら、あの一撃お前はでどうにかなっているはずだ」
「あ、、、」
呆れた一瞥。
先を行く蒼奘の歩みが、心無し速くなる。
幸いこの辺りはまだなだらかだが、木々の枝に邪魔され、中々参道に近づくことができない。
小枝が跳ねて、その頬に当たるものなら、舌打ちだ。
それでもなんとか、参道に燕倪を引きずり上げたところで、
「重い、、、」
不機嫌この上なく、放り出した。
「怪我人を放り出すかよ、普通」
「減らず口を叩くヤツを、怪我人とは言わん。さっさと立て」
近くに落ちていた木の枝を杖代りにして、立ち上がった。
憮然とする二人。
無言で歩き出してすぐ、参道の先に灯りが見えた。
見知った顔が、微笑んだ。
「良かった。ご無事でし、、、」
明りの先で、所々赤く滲みんだ狩衣姿の燕倪の苦笑。
袖や裾が切れた燕倪と、白い髪は乱れ、浄衣の裾も土で汚れた蒼奘の姿に、
「そうでもないようですねぇ」
琲瑠は肩を竦めたのだった。
「獣の咆哮がしたので、牛を落ち着けてすぐ、飛んできたんですよ」
燕倪に肩を貸しながら、燕倪の視線の先を辿る。
「、、、、、」
黙々と、先を行く主の背。
「主と何か?」
「いや、なんだか相当苛立っててさ、あいつ」
「先の一件以来、主様も都中に足を運ばれ、瘴気に中てられた方々を祓って回ってらっしゃったので、お疲れが溜まってらっしゃるのでしょう」
「あ、、、」
道中からずっと、思い返せば質問攻め。
挙句、何も知らぬのに、食ってかかった。
「あの、燕倪様?」
― 俺ときたら、どうも体が先に動いちまう。あの時だって、あいつには策があったのかもれないのに、、、 ―
打ちひしがれている男に、さすがの琲瑠も慌てたのか、
「主は、燕倪様の真っ直ぐ過ぎるところが、頼もしくあるんだと思いますよ」
「鈍感なだけだ。子供じみているのさ」
上げてみるが、逆効果。
ますますうなだれた。
「あの方は、負った責務に忠実であろうとしていらっしゃいます。この御気性ですから、いらぬ誤解を招くでしょう。でもどうか、燕倪様は、あの方を信じてください」
「おう、、、」
琲瑠は縋るような眼差しで、当人を追ったのだが、
「、、、、、」
苛立たしげな主の背中は、彼方。
かたり…
その音に、女童は目を覚まし、寝床を抜け出した。
微かに板戸から差し込む、外の薄闇。
張り詰めた夜気の中、戸に手を掛けて開けると、赤毛の獣が丸くなっていた。
時折、ふらりと出て行っては戻ってくる、獣。
女童は、掛け布を持ってくると、その体に寄り添った。
体の割に小さな耳が折れ、薄く金色の眸が覗き、
「、、、、、」
獣は、小さな体を包み込むようにして抱えると、前足に顎を乗せ直し、目を閉じたのだった。
空が、白々とした暁刻。
無遠慮にも、屋敷の門を叩く者が居る。
居間で侍女に爪を磨かせていた女主人は、
「よい。我が行く」
虹色の羽衣を肩に立ち上がった。
扉に手を伸ばせば、呼応するかのように開く。
その先に、憮然とした男が立っていた。
「おや、、、」
腕を組み、微笑んだ。
「ずいぶんとまた、男前が上がったじゃないか、都守」
汚れた浄衣そのまま、
「渡来の化け猫とやりあったか?」
「真の鬼か、かつての鬼、いずれを狩るか。公正を欠く調伏は、都守の名において、許されておらんのでな」
「面倒だと、顔に書いてあるぞ。不精なそなたの事、さぞ、歯がゆかろう。それもこれも、人に情けなど掛けた己を恨めよ。案内しよう」
手にした錫杖を琲瑠に渡し、敷居を跨いだ。
天狐遙絃の後に続き、玉砂利が敷き詰められた屋敷正面に立つと、足元から湧き出す清水。
空を写す水鏡になると、二人はその中へ沈んだ。
「ようこそ、都守。瑠璃宮へ」
開けた視界に飛び込んだのは、深い藍の世界。
宙に龍魚が遊ぶそこには、群青に沈む屋敷が逆しまに存在していた。
「昼夜の無い水底だが、これはこれで落ち着くものだ」
地上の屋敷とは違って、瀟洒な佇まい。
足が着いた先が、屋敷の正面。
「む、、、」
異変はすぐにあった。
屋敷の調度品と言う調度品が倒れていたり、衝立があさっての方角を向いていたり、果ては、
「マギの国で作られた香炉が、、、」
無残に砕かれた香炉や壺。
「一体、胡露は何をしておるっ」
何やら騒がしい物音に、遙絃の歩みが速くなる。
最奥の一室。
細やかな七宝の細工も鮮やかな扉を開いた時、
「こ、この有様は、、、」
卓子はひっくり返り、玉で造られた牡丹の花は無残に毟り取られ床に転がり、もはや何であったか分からない。
掛け軸は破られ、茶器や酒の入った瓶子は、辺りに散乱。
その真ん中で、放心状態の胡露。
瀟洒な概観とは裏腹に内装に贅を凝らした、遙絃自慢の寛ぎの空間であっただが、
「わうっ」
白い小さな影が、立ち尽くす遙絃の足元を抜けた。
両手を床につけて、走り出て来たのは、
「伯、、、」
口に引き千切った胡露の衣の袖を銜えた、伯。
その前方で足を止めた蒼奘を、菫色の双眸が捉え、
「あぁぁっ」
その人の腕へ舞い上がる。
「がうっ」
白く小さな、それでも一目で牙と分かる犬歯が、煌いた。
「ッ、、、」
「かうっ、がぁうっ」
古傷の左肩。
「、、、、、」
菫色の眸が睨む先、
「遅くなった」
骨張った手が、群青色の髪を、優しく梳いた。
「、、、ああ、琲瑠も戻った」
「くぅ、、」
するとそれで満足したのか、そのまま胸に顔を埋めてしまう。
「ああ、そうだ。渡すのを、忘れていた、、、」
袖から楓の枝切れを差し出すと、伯の手がそれを引き寄せた。
おとなしくなった伯を抱き直すと、
「世話になったな」
放心状態の二人をそのまま、来た道を戻っていった。
砂色の髪を毟られた胡露は、溜息と共に立ち上がり、
「申し訳ございません、遙絃、、、」
主の前で項垂れた。
「起きたとたんに暴れだして、食事も酒も、玩具も、この有様、、、」
「れ、霊紫はどうだったのじゃ?!」
「、、、、、」
胡露が指し示す先に、粉々に砕け散った、小瓶。
「これでは割りにあわんぞ、都守ッ」
しかし振り向いたその先に、その人の姿、もはや無し。
今回の蜂蜜色の酒は、チリのリコール デ オロ《金の酒》。。。
色が鮮やかな金色なのだが、なんてゆーのか独特で癖が非常に強く、甘い酒。。。
プエルトモン辺りで試しに一本買い、酒好きの友人と共に試飲したが、結局その一口で終わり、後は観賞用。。。
日本では中々お目にかかれない代物だが、チリに行くことがあれば、是非一口、お試しあれ。。。