茜月
東の山稜に浮かぶ、赤き望月。
雲を従えたその姿は、さながら、こちらを睥睨している異形の眼を思わせた。
湿度を帯びた、生暖かい風に、ばさらに伸びた髪をなぶらせながら、
「、、、、、」
男は、そそり立つ大立岩のその上に、立っていた。
深い、樹海の切れ間。
隆々とした体躯に、行者然とした衣を纏った、鷹のように鋭い眼差しの男。
逞しい腕を組む、その足元で、黒き毛玉が蠢いた。
鼻をひくひくとさせ、大立岩の上に駆け上がる。
その可憐な体に、大きな手が伸びた。
「玄兎」
掬い上げるようにして、手に包み込まれてしまえば、
チチチ…キキキ…キュィ…
男を見上げて、忙しなく鳴くのだった。
「、、、ああ」
黒くつぶらな、その眸。
男は、この時ばかりは、どこか優しげに眼を細めると、指先で、柔毛に覆われた頬を擦ってやった。
「長く、青角の御使いをしている、お前のことだ。さすがに、落ち着かぬか、、、」
チキキ…
前肢で、腕を掻く仕草をする黒き鳴き兎【玄兎】。
白き衣の下で、その二の腕の辺りが、蒼く青く、光を発していた。
男は、袖を捲った。
血管が浮かび上がった、逞しい腕。
そこに、埋め込まれるように沈むは、淡く燐光を放つ、青き結晶であった。
「勝間の大神は、大気を掴み、帝都の天狐は、地に降りたようだ。それに ―――、」
玄兎を腕に抱いたまま、
「それに、彼の地には、あの者達もいる。今は、信じよう、、、」
青角に代わり、西方を治める地仙、慟杏は、帝都の方角を見つめたのだった。
カロン…カンカン…カロン…カロン………
薄闇の炊事場に、こうばしい香りが立ち込めている。
赤々した原始の色を宿した炭の上、和紙を敷きつめたその中で、シャラシャラと茶葉が躍っていた。
カン…カロ…カ…………………………
「、、、、、」
焙じていた女は、途切れた音に、顏を上げた。
先程まで、機織りの規則正しい音が、聞こえていたのだが、
「どうなされたのかしら」
ぷつりと止んで、久しい。
別の竈では、湯がふつふつと沸く音がして、尼僧みずはは、思考を中断した。
手際良く、茶器に茶葉を移すと、湯筒と干菓子と一緒に盆の上。
飴色に磨かれた廊下を行けば、庵に隣接するように、小さな機織り小屋があった。
階を降り、草履を突っ掛けて、開け放たれたままの戸へ。
小屋の中を覗き、
「あれ、姫様?」
行燈の灯りに照らされた室内に、その人の姿は無い。
庵の縁側を回り込んだところで、
「どうかされました、羽琶姫?」
庭先の飛び石に立つ、庵の主。
夜の闇ですら染められぬ、白き髪が、湿気を帯びた風に、弄られていた。
淡い、萌木に鶸色を合わせた、襲。
「みずは、、、」
華奢な己が肩を抱いたまま、雲間から覗く、赤々とした月を見上げているところであった。
「新月のはずなのに、かように赤い月。美しくも、何やら、不吉な、、、」
肩を抱く手に、手を重ねようとして、
「ひ、姫様?!」
その冷たさに、みずはは、背筋に冷たいものが落ちてゆくのを感じていた。
心の中で、御仏に加護を乞いながら、
― こんなに冷たくなってっ、、、姫様ッ ―
みずはが、羽琶の肩を抱きしめる。
衣を通しても、氷のように冷たい体であった。
一方羽琶は、赤き月から、視線を外せぬまま、
「嗚呼、姫様っ、、、」
頬を濡らし、静かに泣いていた。
行く筋もの涙が、羽琶の頬を滑り落ちてゆく。
堪らず、息を詰めたみずはであったが、
「お、願い。笛、を、、、」
か細い声に乞われてみれば、帯の辺りに挿している笛が、足元に転がっていた。
すぐに拾い、その手をとって握らせれば、
「う、、、」
「あ、ああっ、羽琶姫っ」
呪縛から解放されたように、くらりと倒れ込んだ。
辛うじて、その身を受け止め、二人飛び石の上に座り込めば、
「そう、、、今宵は、新月、、、なのに、、、あの、現れた月、は、、、」
「ひ、姫さまっ?!しっかりしてくださいましっ」
みずはが、強く強く、羽琶の華奢な体を抱きしめる。
僧衣から、仄かに香る白檀と、ぬくもり。
手の中で、冷たく、漆黒の光沢を放つ篠笛の感触に、
「、、、大丈夫よ、みずは。大丈夫だから」
羽琶が、淡く微笑んだ。
すっくと、立ちあがった、羽琶。
涙を袖で拭うと、裾を払い、手にした篠笛を可憐な薔薇色の唇に当て、
「やはり、不吉でございます、羽琶姫。中に、入りましょう」
みずはに、袖を引かれた。
羽琶は、頭を振ると、
「赤い月が、哭いているの。大気を、大地を震わせて、哭いているのよ」
再び、赤い月を見上げた。
「分かるのですか?」
みずはの問いを、背中に聞きながら、
「ただ、そんな気がしてならなくて、、、そう思ったら、急に哀しくなって、、、でも、もう、大丈夫」
羽琶は、白銀の光沢を放つ長い髪を、背中に払う。
「大丈夫だから、一曲だけ、奏でさせて、、、」
陶器のような肌を持つ、瑯たけた、その横顔。
長い睫が、ふるり、と揺れた。
― 赤い月よ。あなたが哭くと言うのなら、わたしも共に、哭きましょう。独りには、しないわ。独りなんて、この世のどこにも、いないのだから、、、 ―
細い吐息が、篠笛に命を吹き込む。
ヒョウ…ロロォ―――…ヒヒュㇽ…ロロ…―――
魅入られてしまいそうな美しくも禍々しい、赤き月の下。
奏でられる破魔の旋律が、風に乗って蕭々と、遠野の里に響き渡っている…
雲間が晴れると、それは静かな赤き夜であった。
陰陽頭である充慶は、未だ戻らず、心細さに母と姉は屋敷の奥へと籠ってしまった。
「銀仁、、、」
赤き月を見上げ、母と姉の制止を振り切ったあとりは、一人庭先で、送り出した虎精の身を案じていた。
「ちぃ姫」
「ッ」
懐かしい声に振り向けば、
「あ、、、智敦兄上?!」
僧形の若者が一人、渡殿へと続く、母屋の大柱の向こうから、顏を覗かせていた。
「不用心だねぇ。門番もいなけりゃ、出迎えも無い。式神が、、、まあ、いたところで、おれは気づかないけどね。ふはははは」
「どうして、二の兄上がここに?御山で、修業なさっておいででは?」
優しげな面差しも、実敦に良く似た、あとりの兄。
つるりと、剃りあげた頭を撫でながら、
「いやぁ、実敦兄がね。珍しく、文をくれたもんだから、降りてきたのよ」
にこりとした。
「近々、帝都が異変に見舞われるかもしれんとね。そうなると、屋敷は、皆、出払うことになる。あとりのことだから、頼みの綱の虎精も送り出してしまうだろうから、母上と妹たちが心細かろう。その時は、ついてやっていてくれと、頼まれたんだ。おれにゃ、父上や実篤兄、あとりのような霊力も皆無だけどさ、ほら、能天気だけが取り柄だから」
このような状況下でも、けらけらと笑う。
「二の兄上が来たとあれば、母上も姉上も、喜びましょう」
「うーん。でも、おれができる事って言ったら、御供え物をくすねるか、お経を唱えるくらいしか、、、」
「兄上!!」
「うふふ。ごめんごめん。冗談だよ」
縁起でもない、と目を吊り上げるあとりの背中を押しながら、二人は北の対へ。
廊下を渡りながら、
「あ、良い事思いついたよ、あとり。ひとつだけ、おれにもできることがある」
智敦が、手を叩く。
あとりが見上げると、長身の兄は、
「挨拶が済んだら、握り飯をいっぱい作ろう」
「は?」
こんな時に、何を言っているのかと、さすがに首を傾げた、あとり。
その額を突いて、
「考えてもごらんよ。帰ってきたら、きっとみんな、すごく腹が減っているよ?二の兄はね、握り飯だけは、得意中の得意なんだぞー」
真顔で、そんな事を言うのだった。
「ぷっ、、、ふふふっ」
思わず噴き出した、あとり。
― ようやく、笑ったな、あとり、、、 ―
智敦の、どこまでも優しげな眼差しの先で、
「はい、智敦兄上。いっぱいいっぱい、作りましょう」
あとりは、弾けんばかりの笑顔で、頷いたのだった。
余暇と言うものは、素晴らしいものです。ストレスと無縁の世界ですからね。。。
そんな、、、
最近、国内外を旅して回わり、おまけに祭りで羽目を外し過ぎた結果、とても辛いことが起こりました。。。