帰還
― 久々に戻ってきたと思えば、蒼奘め、ろくな頼み方をせん。帝都の上空の【守護】を兼ねろ、か。儂を、そこいらの式神か何かと思うておるのか、、、 ―
中空で、緋色の巨躯が、人知れずうねった。
可憐な女童の姿とは、打って変わっての猛々しい、その姿。
雲海の中に在って、触れれば蒸発する程に赤々と輝き、その身は熱を発する。
― この身が清流で鎮まるまで、どれほどかかるか。【いつぞやの御前試合】の際の火焔も、今だ、この身に燻っておると言うのに、、、 ―
口を開けば、赤黒き焔が溜息となって吐き出され、大気を焦がした。
苛立たしげに、尾を振れば、雲が短い悲鳴を上げて、蒸発してゆく。
紫電すら纏いながら、
― 、、、だが、あやつに乞われると、どうにもこう、揺さぶられてしまうのじゃ ―
身悶えた。
未だ耳に残る、心地良い祝詞の調べを思い返しながら、
― 【あやつの師】とは腐れ縁だが、我らへの祝詞を奏でる種族は、希少。最古参の地仙として、此度は、肩を持つわけにはいかぬのだ、、、 ―
夜の帳に抱かれた帝都を、雲を掴みし巨躯が、天上より睥睨している。
「、、、、、」
平凡な身形の牛追いが、群青に雲を敷き詰めたような空を、仰ぎ視ていた。
― 地脈に、仕掛けをしておいて正解だったな。すんなりと辿りつけたところを見ると、水底に、意識を向けさせた甲斐はあったということか、、、 ―
細い顎先を擦り見回せば、宵の口を迎えてもなお、人通りの絶えない、大路。
時折、感じる揺れなど何のその、行き交う人々の喧噪が、そのまま帝都の活気となって漲っているようであった。
なんの変哲もない、牛車が一台。
牛追いの鞭によって大路を横切ると、御所に程近い路地に、滑り込んだ。
築地塀からは、見事な白藤を結んだ棚が窺い見える、その辺り。
ちらほらと、白い花弁が舞うその下で、
「本当に、お一人で大丈夫でございますか?」
二頭の牛を追っていた牛追いの若者が、手を差出す。
「いつまでも、余を子供扱いするのだな」
すんなりとした月白の手が、その手を取った。
牛車から現れたのは、濃色の衣を纏った、まだあどけなさすら残す ―――、少年。
「ああ、こちらを、、、」
若者が、懐から袱紗を差し出す。
手早く開けば、眩い、黄金の輝きが毀れた。
緻密な金細工の龍神の下には、翡翠に藍玉、紅玉、瑠璃らが、黄金の糸によって連なっており、それらが触れあうと、玲瓏と澄んだ音を放った。
その【玉佩】を、帯に通しながら、
「そりゃしますよ、、、」
「むっ」
目を伏せたまま、ぶつぶつ言う従者。
「何度も同じことを言わせるでない。案内は無用だ。ここは、余の庭も同然。そちは、そちのすべきことをせよ」
「あー」
こちらの言葉も聞こうともせず、そう言い放つと、白き花びらを共に舞うように歩き始めた。
どこか頼りない、そんな後ろ姿を見送って、
「、、、ラトリ、シンハよ」
それまで、大人しく口をもごもごさせていた、二頭の牛。
身震い一つで、留め具を引きちぎると、
フシュルルル…
ブル…グルㇽ…
赤き眸、闇色の体躯を持つ獅子の姿へ。
その頭を撫でやって、
「今まで、ご苦労だった。もう少しだけ、付き合ってくれ」
両手を合わせた。
白々とした光がその掌から漏れると、若者は、両手を二頭の背中へ。
そのまま、手首まで沈む。
「これより先、我が君の命に従い、その身をお守りせよ」
真名還し。
傷一つ残さず、手を引き抜けば、
クー…
ウルルㇽ…
澄みきった真紅の眸が、若者を見上げていた。
「頼んだぞ」
クォンッ
オォオゥッ
風が巻いて、二頭が駆け出した。
不意に、大地が、蠕動した。
「、、、、、」
何事も無かったかのように、微笑みすら浮かべ、
「さて。王の帰還に、この空模様では、不吉だ。晴らしてゆくか、、、」
サラ…サラサラ…
それは、風を奏で、風に溶ける ―――、音。
「ふむ、勝間の地仙がそこにいるのなら、挨拶ついでだ。似せようか、、、」
その身を、勝間の地仙の使い羽 ―――、無数の赤き蝶へと変えると、強く吹いた風に、一足先にさらわれた白き花びらを追いながら、高く高く舞い上がったのだった。
― む、、、 ―
檎葉の鼻先を、掠めていったものがある。
鼻孔に纏わりつく、夏花の香り。
― 早速、来おったか、、、 ―
倭古来の竜体故に、角こそ無いが、立派な長い髭が苛立たしげに動くと、緋色に燃える竜鱗が逆立った。
靡く金色の鬣から、火花が舞う。
赤光放つ、真紅の双眸。
鋭い牙の羅列を曝け出し、突き出した吻に皺を寄せると、
コォオオオオ――――――ッ
紫電が四散し、紅の火球が放たれた。
ひらひら…
上空に舞う、赤き蝶の群れ。
その一団が、焔に呑まれると、辺りを覆っていた薄雲も同時に蒸発し、
― 何?! ―
【勝間の地仙】檎葉は、見る。
火球が焼き払ったその先に現れた、禍々しくも美しい ―――、赤き望月を。
「はははは、、、」
どこからともなく、からからとした笑い声が降ってきた。
残り香が、そのまま赤き蝶の姿を取ると、
「あいつが考える事だ。そんなことだろうと思ったが、これはこれで、手間が省けたよ。勝間の、、、」
確かに聞き覚えのある声が、そう告げた。
「動けまい。そこを動けば、帝都ごと、あの【赤き蝕】が人々を蝕み喰らうことになる、、、くくく」
それだけ言うと、蝶の群れは、再び舞い降りてゆく。
― むう。何たることだ。月の裏側に、呪を掛けるとは。我らに気づかせぬよう、異国で鬼道を仕掛けてきたのか?! ―
薄雲晴れた、東の空。
凶星と化した、新月。
忌々しくも、その赤き月光を受けた巨龍は、人知れず燦然と上空に、囚われている…
同時刻。
帝都、裏鬼門、耶紫呂邸。
「しかし、よわりましたねぇ、、、」
腰に手を当て、何とも言えない表情で、空を眺めているのは、琲瑠。
雨が上がったと思ったら、赤い赤い月が、顔をのぞかせているではないか。
しかも、その月明かりに囚われたかのように、朱き巨躯が今にも憤懣募らせ、火を吹かん勢いで、紫電を纏っている。
― けれど、わたしには、特に何もできることが、、、 ―
度重なる不気味な予兆に、流石に足早に家路に急ぐ、往来の人々。
宵闇の中、屋敷の門前で、日課となっている篝火に、一先ず薪を足しながら、
― 人々が、赤き月の陰気に中てられはじめたら、その時は、なんとか祓って回りましょうかねぇ、、、 ―
小さなため息だ。
ブルㇽ…グ…ルㇽ…ッ
聞き覚えのある蹄の音と、低い嘶き。
「、、、ん?」
煌々と燃える篝火の傍で、群青と赤き月明かりとが鬩ぎ合う往来に眼を凝らせば、
「鋼雨、、、いや、千草?!」
こちらへと歩いてくる連銭葦毛の巨躯に、目を丸くしたところだった。
無人の、その鞍上。
よくよく意識を集中させれば、茫洋と、
「みっ、、、都守!!」
「やぁ。琲瑠、だったね。久しぶり。気づいてもらえて、嬉しいよ」
見知った顏が、はにかんだように笑って、片手を上げた。
思わぬ事態に、額を揉む、琲瑠。
「あのね、こんな姿で何なのだけれど、、、」
遠慮がちに言葉を選ぶ、その人に、
「この非常時、泣き事など申しません。何なりと、【当代都守】、、、」
琲瑠は、困ったようないつもの顔で、申し出た。
鞍上では、
「ここに向かいながら、勝間の地仙にも助力を乞うたんだけど、あの通り、僕の考えなんて、後手後手さ。それでも、君にも頼み事があってね。僕は、ちょっと蔵で【探し物】をしなくてはいけないから。これじゃ、不便でしょ?」
「はあ、、、」
危機を、大して危機とも思っていないような、そんな物言い。
篝火の明りにも、【影を落とさぬ】その人が、肩を竦めての片手拝み。
宵の口のことであった。
細い路地。
人気のない、やや入り組んだ、そこは、さながらどこまでも続く迷路のようであった。
クルル…
ククク…
やや不安気に喉を鳴らす、闇の獣、黒き獅子。
庭と言った割には、やれ猫がいた、童の鳴き声が聞こえると、あちらへふらり、こちらへふらり。
目的地には程遠く、ついに、しびれを切らした一頭が、その前へ。
「ん?」
オウウ…
ククルルㇽ…
首を傾げたところで、もう一頭が、袖を咥えて、引っ張った。
「なんじゃ。そちら、余に遊んで欲しいのか?」
ぶんぶんと首を振ったところで、濃色の衣の袖が翻った。
「よい香りがするぞ」
くん、と鼻を鳴らし、ふらり。
顔を見合わせた二頭が、仕方なさそうにうなだれ、その後に続く。
やがて、
「この向こうじゃ、、、」
古びた屋敷の塀の前で、立ち止まる。
しかたないといった呈で、一頭が、先に塀に舞上がる。
辺りを窺うと、もう一頭が、少年を背に乗せ、跳躍。
音も無く、舞い降りたそこには、
「なんと、このように美しいところが、、、」
花園が、広がっていた。
朽ちはじめ、苔を結んだ築地塀の足元には、可憐な勿忘草が咲き群れていた。
色鮮やかな薔薇に皐月、儚げな桜草や金鳳花、撫子。
松虫草、桔梗に、季節を感じさせる菖蒲、杜若や芍薬、風に揺れる矢車草…
それらが等しくやわらかな風に揺れ、あまやかに香り立っていた。
「シャ、、、宵藍、、、?」
不意に、しゃがれた声が掛かった。
俄かに殺気だつ、獅子。
土の香り、緑の伊吹、花の香気に、気を取られていたのだろう。
「よい、、、」
手で制され、二頭はその存在を知られることなく、そろりと花の群れの中へと姿を隠した。
主の声によっては、瞬時に、その老躯を食いちぎることだろう。
血の色にも似た双眸を炯々と光らせながら、人知れず、二頭は息を殺している。
古びた屋敷の廊下に、白髪白鬚の、枯れ枝のような老人が立っていた。
「つい、花の香りに誘われてしまった。ご老人、非礼は詫びよう、、、」
ぺこりと頭を下げられれば、
「ほほほ、なんのなんの。わしも、かつて預かっていた愛し子に、見えた気がしたわ」
顔を合わせ、互いに、にこりとした。
「この辺りだけは、それでも見知っておったはずだが、かように美しき花々が集まり咲く事は、知らなかった、、、」
宵闇の中、蒼さが際立つ矢車草に触れれば、しっとりとしてやわらかな感触が、手に心地よい。
「時に野山に分け入り、愛しみ、育てたる、花々。季節を違えることなく、芽吹き、葉を茂らせ、蕾を結ぶ。花開き、種を残して朽ち果てても、春になれば再び、見えることができる。この花園は、老い耄れの【夢】」
赤き月夜の珍客に、花守は、そう語り、
「愛しみ、育てたから、こうして再び咲く。【呼吸する夢】じゃ」
珍客は、花守に、そう語った。
御所にほど近い、花守の屋敷、永寿宮であった。
「呼吸する、夢、、、」
「ああ。そちは、余にその愛し子を見たと言った。愛しんだ花々の想い、今は離れて暮らすその愛し子の想いが、見せた現実じゃ」
それは、宵藍を失った哀しみに差し込んだ、一筋の光明だったのかもしれない。
花守が、大きく何度も頷いた。
今となっては、誰も語らないその愛し子への想いを、束の間だったが、共有できたかのようで、嬉しかったのかもしれない。
少年が、大きく息を吸った。
花々の放つ香気が、体の隅々にまで、満てゆくようだった。
「、、、、、」
大きく手を広げ、目を開けた視界いっぱいに、赤き月が見えた。
少年は、ようやく目的を思い出したかのように、
「あ」
あんぐりと口を開けた。
やや恥ずかしそうに、頬の辺りを掻いてから、
「邪魔をしたな。あまり遅くなると、怒られてしまう」
「お母上かな?」
「うむ、そのような者だ。しかも、怒るとなかなか怖い」
「はははは。では、はよう帰らねばいけないのぉ」
「うむ」
漂わせていた大人びた雰囲気から一転、年相応の顔で、破顔した。
門を開け、送り出すために、こちらへと歩き出した、花守。
花園の只中で、佇んでいた少年が口を開き、
「御老人、今宵は、、、」
「む、、、?」
ためらい、首を、振った。
「いや、なんでもない。再び、愛し子に見える日のために、御老人、体を厭え」
おかしな事を言う若者だと、花守が眼を凝らし時、一際強い風が、巻いた。
思わず目を閉じ、再び、見慣れた花園を皺深く落ち窪んだ眸に映した時、若者の姿は忽然と、掻き消えていたのだった。
響き渡る、規則正しい蹄の音。
― また、地震、、、 ―
無遠慮に飛ばしているせいか、往来を行き交う人々の罵声を余所に、北へと駆け上がる鞍上で、琲瑠は、目を眇めた。
体に感じぬ無数の揺れまで含めれば、屋敷を後にしてから、何度感じたことか。
疲れを感じさせぬ、千草の力強い走りを感じながら、
― 若君、、、 ―
ただただ、その身を案じていた。
疎らながらも、幾重にも重なる人垣の果て、宵闇に沈む、築地塀。
篝火の明りの中、堀を廻らせた門を守る衛士らの姿に混じって、白袍の若者の姿も窺える。
― さすがに、陰陽寮からも人出を出しているか。銀仁殿、芳蘇殿ならば、、、、 ―
鞍上で目を凝らし ―――、すぐに苦笑。
そんな都合の良い事は、実際、滅多に起きないものである。
一方、往来を疾駆する馬に気づいて、幾人かが、鞍上の姿を確かめんと手庇だ。
「少将、、、?」
「、、、いや、左少将ではないぞっ」
が、すぐに、違うと気付き、太刀の柄に手を置いたまま、橋を渡ってくる。
「そこの者、止まれいッ」
「止まらぬかッ!!」
声を張り上げられても、尚、その速度は変わらず、
「やれやれ、、、」
千草の首筋を、労うかのように擦れば、澄みきった大きな眸が、こちらを見つめた。
その眼差しに浅く頷いて、琲瑠は、手にした手綱をしっかと握り込み、
「ぬッ」
「おわッ」
ヒッ…ィイ―――ン―――ンンッ
仰け反る衛士らを他所に、引き込んだ。
前脚立ちになった連銭葦毛、燕倪の愛馬【千草】。
橋の上、その欄干に背を預けるようにして、腰を抜かした衛士らの眼前で、鮮やかな【青】が、舞った。
宵闇ですら染められぬ ―――、深く、それでいて澄み渡った【青】。
その青き母衣を肩に掛け、
「都守が御使い、【琲瑠】。その命により、至急、右近衛府中将天部清親殿に、御目通り願いたい」
朗々と響く声音で、告げたのだった。
「、、、仔細、確かに」
清涼殿に程近い、宿居の詰所。
行燈の一つ灯りで、充分な程度の一室で、清親は、都守の青母衣の使い番と対峙していた。
幾度か見かけただけの、特になんの特徴も無い若者であったが、
「何よりも、燕倪の千草が従ったのだ。信じよう」
青母衣よりも何よりも、友の愛馬が、ことの真偽を決めたらしい。
「それでは、逸早く、帝を御所より、、、」
「ああ。すぐに、手配、、、むッ」
灯火が、微かに揺らめいたと思えば、
ゴゴ…ゴゴゴ…ォオゴゴゴッ…
北の山稜の向こう辺りから、こちらへと近づく地鳴りに続き、ぐらり、ときた。
「また、かッ」
清親が、素早く行燈の灯りを吹き消した。
どこか遠くから、怯える女御衆の悲鳴が聞こえてきた。
みしみしと、梁を軋ませながら、二、三度揺れた後、すぐに治まったかに見えた刹那、
「、、、、、」
からり、と襖を開け放った、琲瑠。
闇の中で、炯々と光る細い眸が、いつになく鋭く、廊下の向こうへ。
眼差し、そのまま、
「、、、清親様、どうやら、遅かったようです。すでに、【いらせられた】模様にございます」
いつものおっとりとした風情など、微塵も感じさせぬ、琲瑠の低い声音。
「む、ぅ、、、」
琲瑠の視線の先を辿った、清親の褐色の双眸が、見開かれる。
今だ、重く、垂れ込めている、空。
夜の闇が深く、帝都を包み込む中、篝火の灯りに、玉砂利の上へと影が長く伸びた
悠々と歩く、小柄な人影。
今し方、起きた揺れによって、注意力散漫な衛士や近衛を尻目に、篝火の脇をすり抜け、階を上がる。
橙に燃えさかる、焔の灯りに照らされた、その横顔は、
「ほ、、、鳳祥院?!」
まぎれもなく、若かりし頃の、その人と同じであった。
「、、、お」
ゆらりと、大内裏は清涼殿に現れた、その人影。
陽炎の揺らめきを纏い、しかし、確かな足取りで上座に向かってくる。
濃色の龍袍を纏い、どこか茫洋とした眼差しで、辺りを見回しながら、
「不届き者めっ、御座の間であるぞッ!!」
年嵩の側近の一人が、太刀の柄に手を掛け走り出て、
「ぬぐっ、、、」
ろくに近づかぬうちに、ひとりでに後方に吹き飛んだ ―――、かに見えたに違いない。
柱で強か背を打ち、呻くその姿に、
「だれぞッ」
「近衛は何をしておるかッ!!」
「ヒィッ、、、あ、あれにッ」
グルㇽ…
フシュルル…
黒々とした物陰から、そのまま黒きものが姿を現した。
闇獅子らが、赤き双眸を血走らせ呻けば、辺りは、戦々恐々。
一瞬の内に、騒然となった。
逃げ出す者、腰を抜かす者。
それでも、幾人かは歴戦の勇ともあって、正気を保ち、
「ええいっ、矢をつがえよっ」
太刀に手を当てたまま、鋭く命じる。
震える手で、矢をつがえる、若き衛士達。
照準を合わせようとして、
「お、、、」
「あ」
手にしていた矢が、ぽとりと落ちた。
「何をしているかッ!!」
叱咤したところで、
「で、すが、、、ですがッ、」
若者が、声を荒げた。
震える声で、
「み、帝にございますればっ」
「何?!」
皆の視線の先。
見慣れた顏が、こちらを見つめ微笑んでいた。
折しも、天上では、檎葉によって放たれた火球によって、赤き月がその全貌を現した瞬間であった。
都守の直轄地、青梅池。
廻らされた紙垂の一つに、闇夜に舞う赤き蝶が、ひらりと、止まった。
そのまま、白き紙垂が、赤く染まる。
赤く赤く染まって、どす黒く変色すると、赤き蝶もろとも、崩れて道端に蟠った。
風に乗って、現れた、無数の赤き蝶。
蟠った死骸の上に舞い降りると、群れて溶け合い ―――、闇の球体となった。
力なく垂れた荒縄の合間、朽ちかけた築地塀の裂目を、黒き獣の姿をした闇が、擦り抜けていった。
しなやかな歩みで、茂みを抜け、青梅池の湖畔へ。
どこか懐かしそうに、辺りを見回してから、黒き獣が ―――、立ち上がった。
視線の先には、崩れかけた、浮見堂。
そこへ至る、浮橋を、飄々と渡ってきたのは ―――、そのまま目も鼻も無い、【黒き人型】であった。
浮橋の橋桁に身を乗り出すと、
「娃斐螺姫」
湖面に向かってその名を、呼んだ。
「、、、、、」
鏡面のように凪いだ、湖面。
そのまま、闇が沈んでいるような場所であった。
「娃斐螺姫」
もう一度、澄んだ声音が、その名を呼んだ。
青梅の娃斐螺姫。
曰くつきの、幽鬼の姫の名であった。
人影が、浮見堂へ。
張り出した濡れ際に膝をつくと、湖面すれすれに顏を近づける。
「娃斐螺姫」
一度、二度、三度。
その呼び掛けは、応えれば、その者を支配できると言う鬼道の術の一つ。
「、、、、、」
表情を窺わせない、黒き人影のすぐ鼻先。
湖面に、吐息が波紋を刻んだが ―――、それまでであった。
暗い水面は、いつまでも静寂を湛え、草木は、吹き込んだ夜風にさわさわと、優しい葉擦れの音を響かせていた。
「、、、、、」
がしがしと、頭の後ろを掻きながら、
― 昇華したと言うのか?水底に眠る、凍てついた【あの強き想念】が? ―
俄かには、信じがたいとばかりだ。
― 、、、いや、昇華させられた、と考えるべきか、、、 ―
大きく伸びをしながら、
― 、、、【あいつ】に、そんな甲斐性があるとは思えねぇが、まあ、あれから数年。年月は、時に思いもよらぬ事を引き起こすでな。こちらは、おそらく、あの冥府の、、、 ―
初夏の夜に、白き吐息を吐き出した。
それが宙に蟠り、一枚の符の姿となると、赤き月の光を受け、
― 新月に映したる、我が半身、、、 ―
禍々しく、染まってゆく。
しなやかな手を伸ばせば、掌に、ぴたりと吸いついて、
「この点を染めれば、てっとり早かったが、仕方のないことだ。ここは一度、古巣に戻るとしよう」
あくび混じりの【黒き人影】を、中空へと誘うのだった。
「んっ、、、」
生暖かい風が、宵闇に馨しく香る、翡翠の垂髪を揺らす。
それまで鳴いていた、夏虫らの喧騒も、どこへやら。
可憐な月見草の原に立っていた二人は、その仄白い花弁が、薄紅色に染まったのを見た。
「まあっ、、、」
見上げた夜空に ―――、赤き望月。
「先ほどの地震と言い、なんと不吉な、、、」
怯えた様子のうら若い女御の傍らで、
「大気に、水氣が満ちていると、こうして赤く見えることがあるとも言うけれどね」
「水氣が?どうしてですの?」
「さあ」
くすりと小さく笑って、男はその背を押した。
「御上は、恐ろしくないのですか?」
ところどこに置かれた、幻想的な行燈の灯り。
赤き月見草の原を抜け、社殿へと続く階へと向かいながら、
「恐ろしくないわけではないよ。ただ純粋に『美しい』と、そう思うのだよ」
「美しい、、、」
「ふふふ。帝ともあろうものが、不謹慎だろう?」
穏やかな眼差しでもって、女御を見つめる。
「御上、、、」
そうしてまっすぐに見つめられると、どうにも弱いようで、初々しく頬を染めて、女御は俯いた。
その手を引きながら、
― しかし、これはいったい、、、 ―
鳳祥院は、辺りを見回した。
白から薄紅、そして今、赤々と染まった、月見草。
― まるで、血の色だ、、、 ―
今にも滴らんとする、その赤き可憐な花の園。
今宵は、より一層匂い立つ、その花の香りに、目が眩む。
「失礼するッ」
「、、、、、」
足音を忍ばせる事も無く、肩を怒らせ、後宮の一画へと駆け込んだ者達がいる。
「きゃっ、、、」
「何事ですッ」
「き、清親さま!?」
地震に続き、荒々しく庭先から現れた、ただならぬ清親の様子に、怯えた女御や女房、その侍女ら。
構う間もなく、気に入りの女御と龍袍の主の姿を、階の上に見つけると、
「御上」
清親は、大地に跪いた。
すぐ後ろでは、琲瑠が同じく蹲踞したところであった。
鳳祥院は、にこりとして、傍らの女御を振り返った。
腰に下げた、鳳凰を象った白銀の玉佩。
翡翠と瑠璃の玉環が触れ合って、澄んだ音を、響かせる。
「珠雪の君。箏に、弦を張っておいておくれ、、、」
「仰せとあらば、御上」
衣擦れの音をさせ、侍女らを下げさせると、
「もっと近くへ、右中将」
涼しげな黒眸が、友を見つめた。
軒庇へと続く階へにじり寄る、清親。
構わないとばかりに、帝自ら階を降りると、そのすぐ傍に腰を下ろした。
そっと、肩に手を置いて、
「どうしたんだい、清親?」
琲瑠の姿を見ても、いつもの親しげな様子で問うたのは、清親の様子にただならぬものを感じたせいであった。
「、、、、、」
その気遣いに応えようと、さすがの清親も言葉を選ぼうとして、
「、、、鳳祥院、私を信じて、聞いてほしい」
諦めた。
現実を目の当たりにすれば、選べる言葉など、どこにも無かった。
清涼殿の方で、誰かの叫び声が聞こえた。
何かにぶつかる、鈍い音を聞きながら、
「崩御されたはずの、先の帝が現れた。幽鬼と化して、、、」
「、、、、、」
清親の褐色の眸は、一瞬、大きく目を見張った帝を、まっすぐに見つめていた。
「、、、兄上が」
清親の言葉を、そのまま噛み砕こうとして、何とか呑み込もうとしている様子であった。
僅かに、視線が泳ぎ、
「鳳祥院、、、」
その様子に、さすがに不安げに柳眉を寄せた、清親。
見つめるのは、疑惑、動揺に揺れる、友の眸であった。
「、、、大丈夫、だよ」
しばしあって微笑んだのは、清親がよく知る、かつての飄々とした鳳祥院そのもので、
「鳳祥院。私も、実際に目の当たりにして驚いた。困惑するのも、無理は無い」
「困惑などしてない、と言えば、、、そうだね。嘘になるよ」
清涼殿の方を向いた横顔に、いつもの凛と張りのある声音に、一先ず、安堵した。
説明を求められたところで、今の清親には、それを為す自身がなかったが、
「君が、わたしの元に来たのは?」
それは、的確な問いであった。
清親は、冷静さで言えば、平素、策謀渦巻く宮中の最奥で評議に明け暮れるこの男には、敵わないと思った。
振り向いた先で、都守の使いである琲瑠が、無言で頷いた。
「鳳祥院。恩鼓寺へ」
ただならぬ物音や、怒号を聞きながら、
「このまま帝都を出て、わたしだけ、そこへ行けと、、、」
その薄い唇に、珍しく侮蔑の笑みが刷かれた。
「鳳祥院、、、」
清親は、無意識に己が右肩を抱いていた。
― 怯えている、、、この、わたしが? ―
ぞくりと不快な泡肌が立ったのは、清親でさえも見た事の無い、鏡子として生まれ、不遇の時を過ごした皇子の翳、そのものであったのかもしれない。
言葉を失った清親の傍らで、背後に控えていた人影が、膝をついた。
深々と頭を垂れたまま、
「恐れながら申し上げます。御上」
琲瑠の淡々とした声が、乞うた。
「これは、当代都守からの言伝だけではございませぬ」
その身の安全の為、早急に、ここから帝を離す必要があった。
「ひとえに、御上の御身を案ずる友、耶紫呂蒼奘としての【お願い】でございます」
後宮から、最も近い門前に、一行の馬が並べられている事だろう。
「、、、、、」
鳳祥院は、しばし、赤き月を見上げていたが、
「わたしの頑固なところも、彼ならきっと分かっているのだろう、、、」
踵を返して、歩き出した ―――、清涼殿に向かって。
「鳳祥院ッ?!」
慌てて立ちあがった清親が、土足も構わず、階を駆け上がる。
「どうするつもりだ?!」
肩を掴んだところで、その歩みは、止まらない。
「お会いする」
「危険だッ」
清親が、声を荒立てるが、
「帝は、いつの世も、ただ一人。二人も、要らないものだ」
「鳳、、、」
見上げたその横顔は、清親ですら、声を掛けるのを躊躇う程の覇気を纏っていた。
「右中将は、わたしと共に。そこの者は、その青き母衣を肩に、後宮の者達を退避させよ」
「はっ、、、あ、しかしっ」
つい、その覇気の呑まれた、琲瑠。
返事をしてしまった事に、慌てて顏を上げたところで、強い眼差しとぶつかった。
穏やかな表情で、琲瑠を一瞥すると、
「いつだって、そうだ。手を、尽くしてくれているのだろう。わたしの【都守達】のことだ。必ず、我が元に現れる」
そう言い放って、清親を従え、歩み去った。
「御上、、、ん!?」
― 今、都守達、と、、、? ―
一瞬、目を丸くした琲瑠であったが、忙しなく近づいてくる衣擦れの音に、振り返った。
「あっ、そこの方」
単衣も重そうな、別棟の女御であろうか。
― 若君以外の者に、指図を受けねばならんとは、、、 ―
騒ぎに、侍女を従え、こちらに向かってくるのを、腹の内では苦々しく思いながら、
「帝の命にございます。皆々様は、速やかに後宮の裏手門へとお集まりを。これは、都守の意思でもございますれば」
青き母衣を肩に掛けた琲瑠が、制したのだった。
「陰陽頭っ」
内裏での異変を聞きつけ、陰陽師である芳蘇稀水が駆けつけた時、陰陽頭天羽充慶は、
「、、、、、」
観測台の上に立ち、式盤を手に、雲間から覗いた赤き望月を睨んでいた。
― 地仙が、天地を支えていると言うのに、抑えられてはおらん。この大気に漲る、鬼気はどうだ。これ程までに大気がざわつくなど、観測史上、ありえぬ、、、 ―
その眼には、上空を覆うようにして、五指を広げ、玉を抱くようにして、帝都を掴まんとする、緋色の巨龍が視えていた。
その身を挺しても、赤き望月の影響を半減させるのが、やっとの様子。
― あの妖星が、作用しておるのだ。遥か高みから月影に映しし、禍々しくも赤き、邪神の、、、邪神、、、まさかッ ―
「陰陽頭ッ」
その手から、式盤が零れ落ちた。
ぐらりと傾いだ、充慶の体。
駆けよった稀水が支えた矢先、二人の足元では式盤が、からり、と割れたところであった。
「大丈夫ですかっ」
「、、、問題無い、稀水。少し、鬼気に中てられたようだ」
深く息を吐き、観測台から下りたところで、
「陰陽頭、急ぎ、清涼殿へ」
「む、、、」
稀水の青ざめた顏に、気がついた。
「先の帝が、突如、現れたとの事、、、」
「ッ」
充慶が、走り出していた。
噛み締めた唇が切れて、鉄錆の味が、舌の上に広がってゆく。
蒸し暑く、生暖かい風が吹く、そんな夜であった。
平素は、静かな一帯に、物々しい雰囲気が漂っていた。
具足の音が響き、喧噪近づく、内裏に向かいながら、
― 何故、気がつかなかった!!あの月は、【破眼】。いや、【邪眼】だ。夭折された先の帝が現れたとなれば、この怪異の主は、一人しか、、、一人しかっ、おらぬではないかッ ―
心がざわつくのを、抑えきれずにいた。
いつになく、静まり返った、屋敷。
耳に心地良い衣擦れの音が、する。
大陸渡来の薄硝子を張った燭台を手に、汪果が、唐衣の裾を引いて、歩いていた。
いつ帰るとも知れぬ帰還ではあったが、それでも、行燈に火を灯して回る。
毎日の日課でもあり、手元で揺らめく小さな炎と向き合えば、先刻小波だった心も、穏やかに凪いでゆくようだった。
ふと、見慣れた庭を眺めた。
雨が止んで、草木は露を結んでいた。
「、、、、、」
しっとりと湿った大気に、土の香りが滲んでいる。
あちらこちらに点在する、苔生した石灯籠。
一足先に灯したその灯りが、湖面に映り込んでは、ゆらゆらとしていた。
軒先の吊り行燈に、火を移そうと手を伸ばした時だった。
「ッ」
汪果は、ぞくりと悪寒に身を震わせ、顏を上げた。
ゴゴ…ゴゴゴ…―――…ゴゴ…
遠く地鳴りが聞こえ、
「く、っ、、、」
大気が、歪んだ。
「は、、、ぁっ」
次の瞬間、足元がぐらぐらとして、汪果は近くの柱に縋りながらも、燭台の炎を吹き消した。
「こ、れは、、、」
しばらくの間、横揺れが続き、急速に収束。
ゴゴ‥ゴ………
揺れは、すぐに治まり、
― ここしばらく、地震が続いている。紛れも無く、【亡影】の蠕動、、、 ―
汪果は、欄干に手を置き、空を見つめた。
先刻まで、薄雲に覆われた空には今、赤き望月が掛かっていた。
― 主様達が地に潜られて、もうそろそろ、一刻程は経つかしら。空に昇った勝間の地仙の様子も、おかしい、、、 ―――
ほう、と溜息が漏れた。
― 【あの方】が、本当に生きておられるのなら、戦況は、芳しくは無いはず、、、 ―
胸の辺りが、ちりちりと焦がれるように ―――、熱い。
― 生きて、、、 ―
かつては共に在り、その傍らで過ごした、満ち足りた日々。
過去となった今も、思い返せば、こんなにも胸を熱くする。
― 、、、馬鹿馬鹿しい。【あの日】、わたくしだけは、この眼で、この腕で、確かに【あの方】の亡骸を、掻き抱いたと言うのに、、、 ―
こめかみの辺りに奔る頭痛に、頭を振った。
「、、、、、」
五感を研ぎ澄ませ、細く細く息を吐いては、腹腔深くまで吸い込む。
そうして耳を澄ませば、見知った式神らとの、かつての賑やかな喧噪すらも聞こえてきそうで、汪果は、様変わりした庭を、ぼんやりと眺めていた。
― 、、、静かすぎる ―
汪果が、目を眇める。
目尻が切れ上がった、琥珀色の双眸が、鋭さを増す。
「、、、、、」
次の瞬間、汪果は、音も無く、駆け出していた。
華美な緋の色の唐衣を脱ぎ捨て、薄紅の小袖の袖を翻し、緋色の裳は流れる尾となって、母屋は最奥、北の対へ。
軒庇の下を抜け、主の寝所に程近い、母屋左翼棟の角を曲がった。
棟同士を繋ぐ、回廊の下には、湧泉からの湧き水が流れており、
「いけないッ」
汪果の青き刺青が蠕動し、可憐な口元からは、
コォオオ…オオオ……ッ
どす黒い火焔が、噴き出した。
「む、、、」
短く呻いた【それ】は、文字通り、頭上から生えていた。
闇色に染まった、しなやかな体躯。
坪庭のように設えた、湧泉地のその真上。
禍々しも赤黒き符を、僅かな足場にして、その手を伸ばしているところであった。
火焔は、湧泉の水面に広がり、闇色の人型の指先を、したたか焦がしたようだった。
― 先程の地震に紛れて、侵入したかッ ―
野猫の如くしなやかさで、その身を丸めると、次の瞬間、汪果は右手を振って跳躍。
長く伸びた爪が、白銀の刃となって閃光を送り、
「ふふふ」
「ぬッ」
黒き人型は、おおよそ人の動きとは思えぬ関節の動きでもって、身を捩った。
踵のあたりに、後頭部がついている。
「、、、、、」
石の階の上。
火焔で覆った、湧泉のその傍らに降り立った汪果は、頭上の異形を睨み据えた。
さかしまの蜘蛛のように手足を宙について、首だけをこちらに向けながら、
「ご挨拶だな」
「!!」
異形は、汪果の知る声で、からからと笑うのだった。
すらりとした、細い手足の黒き人型。
くるりと身を翻せば、宙に立ち、
「久々だと言うのに、随分と荒っぽいなぁ。【尾長】の頃とは、違うと言うわけか」
高みより、汪果を睥睨。
その一切が、光をも吸い込む黒き肌であるのに、背に流した髪の一筋、睫の揺れまでもが、不思議と見て取れるのだった。
その【黒き異形】を見上げ、
「ヨ、、、ヨルさ、ま、、、」
汪果の声が、震えた。
噎せかえるように甘い、夏の野に咲く、鬼百合の香り。
不敵で、それでいて凛として澄み渡る声音が、
「俺を見間違う、お前か?汪果よ」
名を、呼んだ。
平素の沈着冷静の姿は、どこへやら。
打って変わって怯えた様子で、己が肩を抱いた、汪果。
― あゝ、、、何も、お変わりない。わたくしが帰依した、ただ一人の御仁、、、 ―
感極まれば、全身が泡肌立ち、同時に第六感は、ずきずきとこめかみの辺りに信号を送ってくるのだった ―――、危険だと。
― こんなにも胸が切なく、懐かしく、愛しいのに、、、腹腔から湧き上る、この悪寒は? ―
思慕にも恋慕にも似た想いと、一目散に逃げ出したい本能が、鬩ぎ合っている。
― 、、、それでも、わたくし、は ―
細く、暗き焔の吐息を吐き出しながら、汪果の琥珀色の双眸が、【黒き異形】を見上げた。
薄い唇に、笑みを刷いて、
「お久しゅうございます。先代都守」
拱手。
「うむ」
満足そうに頷くと、【先代都守】と呼ばれた【黒き異形】は、宙にしゃがみこんだ。
ぶらりと腕を膝に置き、指先でもって汪果を差すと、
「あのよぉ、ここだけの話なんだが、、、その、達者に暮らしていたか?」
小さく、問うた。
「今更、気に掛けていただいても、遅うございます」
ぷい、と汪果にそっぽ向かれれば、
「う、、、すまん」
【黒き異形】は、肩を竦めて詫びた。
その口ぶり、声、仕草、すべてが、汪果も良く知るものであり ―――、とうの昔に失われたはずのものだった。
甘美な一時に、素直に酔いしれてしまえれば、幾星霜の気鬱も晴れることだろう。
― そう、一時だけは、、、 ―
汪果は、湧泉に火焔結界を敷いたまま、
「かつての都守ともあろう御方が、堂々とご自身のお屋敷の門を潜らず、忍び込むなど、前代未聞ですわ」
にこやかな笑みは絶やさず、口元に手をやった。
冷たいものが、背中を下ってゆく。
表情とは裏腹に、汪果は顕現して初めて、【寒さ】を体感していた
「おいおいおい。お前こそ、穏やかじゃないぞ」
黒き異形、先代都守、ヨル、
その眼差しの先では、汪果が手に、口元から噴き出す火焔の一端を、掴んだところあった。
そのまま引き抜けば、
「今は、このお屋敷を預かる身ですので ―――、」
ブブンッ……
身の丈よりも長き、紅蓮の火焔を帯びた薙刀を、軽々と頭上で旋回させた。
ぴたり、とその切っ先を天へと向けると、
「阻みましょう。例え、あなたさまであろうとも、、、」
艶然と、笑って言った。
ヨルは、胡坐をかいた膝に片肘立てての頬杖だ。
「そう言うなよ、汪果」
焦るでもなく、からりとした声が、
「時間が、無いんだ、、、」
「ッ」
一変、低く低く、呟いた。
同時に、ざわざわとヨルの髪が巻き上がり、
ブォオォオオ――――ッ
突如として風が、巻いた。
火焔の結界が揺れ、吹き消されまいと返って炎の触手が勢いづく。
薙刀を石の階に立て、左手で印を結ぶ、汪果。
「なんの、この程度、、、ッ」
屋敷の軒先を、したたか炙りながらも、業火は水面に張り付き、燃えさかる。
汪果を見下ろしながら、ヨルの指先が、暗く重たい空を、指さした。
「お前が耐えると言うのなら、俺は雨を喚ぼう、、、」
呟きにも似たその言葉が、終わるか終わらぬかのうちに、
ザザ…ァァア…――――…ザァ……
辺りを、白い雨が、包み込んだ。
― 魔道に落ちて尚、自然神霊が応えている?! ―
蕭々と、まっすぐに降りしきる、白き雨。
さしもの迦楼羅の業火も、式神として真名を封じられているせいか、威力は半減しているようで、
「汪果。無駄な足掻きはよせ。そこの【大水脈】を、こちらに明け渡すんだ」
「わたくしが、そう易々と頷くと、お思いでして?」
白き雨に打たれ、萎縮してゆく焔を眺めながら、ヨルは歌うように囁く。
汪果の琥珀色の双眸が、頭上を睨め上げた。
「だろうな。ついでに、もう一つ ―――、俺に仕えろ」
「ッ」
その眼差しを受けて、白き雨の中、闇よりも黒き、そして昏い異形の唇が、笑みに歪む―――、無邪気に。
「、、、いや、従わせようか。力ずくで」
ヨルの両腕が、上がった。
結界を補完している火焔を、汪果は優先して安定させる。
自らを穿つ、白き雨。
火の神霊に連なる汪果の体力を、じりじりと削る【蝕みの雨】だ。
汪果が、薙刀を旋回させ、
― この身を焔に焚けば、多少の時間稼ぎには、、、ッ ―
切っ先を、己が身に向けた。
「あ」
ヨルが、汪果の覚悟に、たまらず声を上げた。
「堕天した迦楼羅にも、意地はございます。屋敷ごと、須弥山の火焔に呑み込みますわ」
薄い唇に、蠱惑的な笑みすら浮かべ、その切先を、ふくよかな胸の間へ。
か細い女の痩身を、紅蓮の薙刀が刺し貫く ――― 刹那、
「お師さんも、お人が悪い」
張りつめた空気に、能天気この上ない声が、響き渡ったのだった。
赤々と燃えさかる、火焔。
その明りに、長く影を引いて、母屋の暗がりから現れたのは、
「師よ。お変わりなく、、、」
白き髪を肩から垂らした、黒き衣の若者。
ぺこりと頭を下げる様に、
「何が、『お変わりなく』だ。物陰から、伺っていただろう ―――、蒼奘」
ヨルが、唇を尖らせる。
苦笑した蒼奘が、腕に掛けていた緋色の唐衣を、
「都守」
無言で、汪果の頭上へ広げる ―――、雨から守るように、
「そう言うお師さんこそ、随分前から気がついていたのでしょう?師が師ならば、弟子も弟子、と言うやつです」
「相変わらずの減らず口だな。それすらも、俺に似たと言い張るつもりか?」
「ええ」
にこりとして、蒼奘が腕を組んだ。
「真名を、解放するよ。『凰火』」
「はい。【当代都守】」
金色の光帯が、蒼奘の唇から言霊となって現れて、汪果に吸い込まれる、【真名還し】。
同時に、
ドッ…オオォ――オッ……
「馬っ、、、」
焔が、白き雨だけを蒸発させた。
白き煙となって、空へと立ち昇る水蒸気の中、赤き巨躯が、湧泉の上に、寝そべっていた。
コォオオ…ココォオ―――…
汪果の神体、迦楼羅。
「熱ッ、、、あちちっ、、、」
ぱたぱたと体のあちこちを払いながら、
「まったく、せっかく錬成したのによぉ。やりやがったな、、、」
体のあちこちに大小の孔を空けたヨルが、舌打ち。
「大池に、【海水】を引き込みやがって。懐かしいと眺めていたのに、跳ねていたのは鯉ではなく、鯔だったのかよ」
「いやぁ、任せた【都守】が、有能で良かった。お師さんには、僕の手の内など、筒抜けですものね」
「えばるな、馬鹿者。てっとり早く、済ませたかったんだが、まったく、調子が狂う」
ぶつぶつ言いながら、手が振られた。
赤黒い符が、床に張り付く。
その符に従い、黒き体が吸い込まれるように、床に闇色の染みを作った。
「ついて来いよ、蒼奘。【俺】に、逢いたいんだろ?」
人が一人、辛うじて入れる、暗き穴。
その奥から、声だけが響いてきた。
細い溜息の後、
「凰火。火性の君には酷だけど、【大水脈】を、頼んだよ」
短く声を掛けて、蒼奘は躊躇する事無く、その穴へと足を踏み入れた。
底無し沼のように、ずぶずぶと沈んでゆく
赤黒い符を、白い指先で抓めば、
≪ 都守 ≫
結界を敷き、動けぬ迦楼羅が、首だけを向けた。
「うん?」
どこか間延びした、緊張感の欠片も無い返事に、
≪ くれぐれも、お気をつけて ≫
それでも、帰還を乞うのだった。
「、、、、、」
闇色の双眸が、眇められた。
汪果に見た ―――、揺るがぬ想い。
師の横顔に見た ―――、かつてと変わらぬままの姿。
― 汪果。お師さんが何も変わってないと、君なら分かったはずだ。だから、僕が負わせてもらうよ。その覚悟も、すべて、、、 ―
符を抓んだ指先が、染みと共に沈んでゆく。
ちゃぷん…
水が跳ねる音と共に、染みが掻き消える ――― 寸前、
「ああ。すぐに戻るよ」
薫風、麗らかな春の野に、朗らかに響く如き声音で、蒼奘が確かに応じたのだった。
つい今し方、本編を書き終えることができました。。。もう少し、タイトルを見直しながら、残り数話を、時間を置いて投稿する予定です。。。
僕的には、それなりに時間が掛かったけれど、一先ず、着地地点を得られた事に、正直、安堵しています。
中途半端な物語、飽き性で、一過性も無く、暴力的、、、ただ、本能のままに書き殴ったものが多かった中で、内容はどうあれ、僕の人生の中では珍しく、一つの完結を見た作品ではあります。
どうしようもなく臆病で、触れた先から誰かを不幸にしてしまう、、、そんな根暗な僕の片隅で、、、真剣に向き合い、読んでくれるかけがえのない存在によって、この物語は突き動かされ、くすぶっていた僕の中の情熱のベクトルを、まっすぐに向けさせてくれた成果だと思っています。