邂逅
白々とした世界の中。
延々と続くなだらかな坂は、細やかな白い砂の粒子で出来ており、見果てぬ白い空へと融けている。
その頂から零れ落ちる砂によって、立っているだけで足元は砂に埋れてしまうほどだ。
無限坂。
幽界は冥府の、始まりの地。
― ここが、冥府?葦の原に沈んだと思ったのに、、、 ―
冷やりとした水の感触さえ残っているのに、衣も髪も、濡れた形跡など無い。
濛々と立ち込める濃霧の中、沈むようにして葦原の水面を渡り、一瞬にも似た瞬きの間に、白い世界が広がっていたのだった。
どこから出てきたのか。
ぐるりと見回せば、四方八方、やはり見渡す限りの白い世界。
ただ、斜めの大地が、延々と延びていた。
あたかも、重心が傾いてしまっているかのような錯覚すら覚える、空間であった。
伯と共に、一度だけ足を踏み入れたことのある燕倪は別として、
「ここが、無限坂、、、」
さすがに銀仁は初めてのようで、しげしげと辺りを見回す中、
「おやおや、、、」
遙絃が眼を細めた。
延々と続く、斜面の中。
忽然と、その人は ―――、居た。
視線の先に佇んでいたのは、
「蒼奘?!」
闇色の束帯を纏った、紛れも無い、その姿。
「どういう、事だ?」
「、、、、、」
傍らの男は、何も応えなかった。
一方、
「やあ、燕倪。久しぶりだね」
のほほんと微笑む、物腰の柔らかさ。
燕倪の勘が、紛れも無く【蒼奘】であると告げてくるのだが、
― 二人?!だが、この雰囲気を、俺は知っている。ああ、くそッ、何だってんだよッ!!今は、そんなこと気にしている場合じゃ、、、 ―
それでは、鋼雨に乗る蒼奘は?
仰ぎ見た先、浄衣を纏ったその人は、
「、、、、、」
物憂げな眼差しを、伏せた。
今、明らかにならんとする真実を、肯定しているようでもあった。
闇色の衣を纏った物腰穏やかな蒼奘が、鋼雨の鼻先を撫でながら、鞍上の蒼奘を見上げた。
「都守、蛮器翁が掛け合ってくれたんだ。壱岐媛さえいれば、大砂海も穏やかに凪いでしまうからと、ね」
「珍しく段取りがいいな、【蒼奘】、、、」
「それ、褒めてないでしょ?」
冥官の装いの【蒼奘】が指笛を鳴らすと、屍魚が一匹泳ぎ寄る。
その背鰭を掴むと、一行は坂を下らずに、彼方まで延々と延びる斜めの大地を、上がらず下がらす、進み始めた。
「燕倪、こう言うことだ、、、」
頭では理解しようとしていながら、胸中に渦巻く問いを振り払う燕倪に、【蒼奘であった者】が、静かに告げた。
見つめた、先。
そこに見慣れた闇色の眸はなく、暁刻の太陽にも似た金色が、一切を占めていた。
「お前が二人、、、いや、、、お前が、別の、、、別で、、、ッ」
濃い眉を寄せ、奥歯を噛みしめた、燕倪。
複雑な感情が入り乱れ、言葉に詰まった、そんな友の姿を見かね、
「燕倪」
黒衣の蒼奘が、話し始めた。
「彼が、この無限坂で力尽きた僕の体を、預かっていてくれていたんだ」
「預かる?そ、それじゃ、お前は、、、ずっと冥府で、、、」
燕倪の問いに、頷いた。
「ここで僕は、この世の有様を知り、呑み込んできた。人ならざるものの叡智で、人ならざるものの脅威から、人々を守るための仕組みを、、、」
「脅威、、、仕組み、、、」
「人は脆弱じゃ。その上、揃って身勝手で、罪深い、、、」
それまで静観していた遙絃が、口を挟んだ。
憮然とした横顔は、まるで自らも含まれているような、そんな感さえあった。
黒衣の蒼奘が、己が胸に手を置き、布地を掴んだ。
「僕はね、燕倪。ずっと、この力を疎んでいたんだよ」
「蒼奘、、、」
「幼少の頃、誰も皆、薄気味悪がって、腫物扱い。そのせいもあって、母は屋敷を出た、、、」
自嘲気味な笑みが、口元に刷かれて ―――、
「母が亡くなって、お師さまを頼って、、、それから、毎日がめまぐるしく過ぎた。疎ましさすら、忘れてしまう程に。その日々が、ぷつりと途切れた時、僕はここへ逃げ込んだんだ、、、」
―――、掻き消えた。
「お師さまを探して、なんて口に出してみたところで、ちゃんと分かっていたんだよ。僕は、現実なんかそっちのけで、本当は、お師さんに縋っていたんだって、、、」
「縋って、、、」
燕倪の声が、掠れていた。
鈍色の双眸は、俯くその横顔に揺れる【翳】を見た。
帝都で出会った頃、微塵も見せなかった、その【心】を。
「待てよ、蒼奘」
たまらず握りしめた拳を、震わせた。
「縋って、何が悪いんだ?誰だって、その人しかいないのなら、縋るだろ?!お前は、何にも間違っちゃいねぇよっ」
「燕倪」
「だって、そうだろ?!あの人がいたから、今のお前が在るんだ。失ったから、ずっと孤独でいなきゃならないなんて、そんな道理は、誰の上にも無いッ」
声を荒げた燕倪を見上げて、
「、、、うん」
黒衣の蒼奘は、心底安堵した様子で、頷いてみせた。
長年抱え込んでいた痞えが、少しだが、解れてゆくような気がした。
「ここに来たお蔭で、少しだけ分かったんだ。かつて、死人還りとして現世に戻った者は皆、それを少しずつ後世に伝えてきた歴史を。この世には、人とそうでない者達が、共に暮らしている真実を。僕が見ていた世界は、間違っては無いんだって、、、」
千草のすぐ傍らへ。
「人はその存在に眼を向ける事も、耳を傾けることも、しようとはせなんだ。その癖、縋るのは、己の都合勝手次第だからな」
「遙絃、、、」
胡露が、遙絃の気紛れを小声で嗜めている。
「ほんの一昔前までは、当たり前のように共存していたのに、いつしか自分達の事ばかりで手一杯になって、見えなくなったものは存在すらも忘れ去られ、勝手な呼び名をつけられてしまう。それはね、その存在意義すらも否定し、消し去ろうとする事なんだ」
その想いが、この世の有様にまで、多大な影響を及ぼすのだと言う。
「この世の有様を学び伝える為に、僕は、、、」
「蒼奘」
堪りかねたように燕倪が、口火を切った。
「悪いが、今はそんなこと、、、そんなこと、どうだっていいんだッ」
低く、それでいてよく透る声が、辺りに響いた。
いや、それは喚き声に近かったのかもしれない。
「み、、、皆、知っていたのかよ?!お前が、その、【その異形そのもの】だってことを?」
「、、、、、」
鞍上の蒼奘は、表情も変えず、ただ視線を彼方に据えたままであった。
伯は、燕倪のその声に怯えたのか、その背に隠れてしまった。
「筝葉殿も、銀仁も、伯も、あんたたちだって、皆、、、っ」
「、、、、、」
一行の沈黙が ―――、応えだった。
「そうか、、、やっぱり、俺だけが、、、」
どこかで、割り切っていたはずだったのに、
「俺だけが、知らなかったのかよッ」
一つの事実に、溢れ出しまう。
噛みしめた唇に、錆の味が滲む。
握り締めた拳は白く、込み上げるやるせなさと怒りを、どうしていいか分からずに、
「うっ、、、ぐッ、、、」
沈黙を、迎かえた。
そして、気づく。
金色の ―――、一瞥に。
色こそ違えど、いつの間にか見慣れてしまった、怜悧な眼差し。
それでいて、どこか物憂げで憂いを帯びた、その眸。
「、、、、、」
浄衣を纏った蒼奘は無言で、鋼雨の手綱を首筋に打ち据えた。
燕倪の傍らを通り過ぎる ―――、刹那、
「お前の存在に私は、人の世に在って、確かに救われていた、、、」
そんな言葉を置きざりに、いとも容易く、走り去った。
その背に、白き巨狗と巨虎が続く。
― なんだよ。それ、、、 ―
彼方に滲む紫煙の中へと、消えゆく様をぼんやりと見送ると、
「ねぇ、燕倪、、、」
黒衣の蒼奘が、声を掛けた。
怒りとも哀しみとも違う感情に、後味の悪さを噛みしめていた燕倪が、
「、、、、、」
顏を上げた。
ひっそりと佇んでいた、もう一人の蒼奘が、
「【僕】が【僕】じゃないって知っていたら、君は今、ここにいなかったのかな?」
深く、艶やかな漆黒の眸でもって、微笑んでいた。
「ソウ、、、」
後ろを気にしていた、伯。
腕を伸ばして、その群青色の髪を一撫ですると、
「これでいい、、、」
穏やかな声音で、そう言った。
傍らに従う巨虎、銀仁。
「他に、いくらでも方法があったのではないか?」
どこか呆れたような物言に、なった。
鋼雨を挟んで、巨虎の反対側。
「それもこれも、人に化けていたこの男が悪い。人ではないのに、人たろうとするから、襤褸がでるのよ」
「遙絃、、、」
巨狗の背に寝そべった、遙絃を窘めるのは、胡露の役目。
「否定はせん、、、」
男は、静かに、応じた。
「それに、種明かしは、あの場でなければなるまい。さすがに人の身では、この瘴気だ。燕倪とて、発狂は免れぬ、、、」
「だがせめて、お前のその人の身も、あの坊やに返しておくべきではなかったか?」
遙絃のその問いに、男は額の辺りを揉んだ。
珍しい事もあるもので、
「そんな余裕も、無くてな、、、」
「ふ、、、」
― 可愛いやつめ、、、 ―
意外な一面を垣間見た、遙絃。
無言で頷くと、それっきり何も言わなくなった。
底知れぬ闇の中へ、疾走を続ける一行の中、ただひとり。
「、、、、、」
菫色の眼差しだけが、後方彼方を、見つめている。
一行を霧の彼方に見送って、しばらく、
「情けねぇよな、俺。ははは、、、今更、何、格好つけてんだか、、、」
蒼奘の言葉を受けた燕倪は、眼頭を押さえながら、吐き出した。
沈んでいた鈍色の眸が、青みを帯びる。
意志の ―――、光。
「ここまで来て、指咥えて、待ってられるかよ。まったく、俺が知る【あいつ】らしい、別れの言葉だよなぁ」
馬首を向けながら燕倪が、苛立たしげに吐き捨てた。
「【お前のまま】でいるはずだって、できたはずだ。それなのに、あいつ、、、最後の最後で、俺の身を案じたんだろう」
「燕倪、、、」
「ああぁっ、水臭ぇ!!水臭ぇなぁッ」
がしがしと、頭を掻きながら、
「蒼奘、お前の言う通りだよ。俺は、あいつらに返しきれない借りが、あるんだ」
「借り?」
「、、、いや、違うか」
燕倪は、首を横に振った。
本当は、借りなどではない。
それは、言葉にするには少しばかり、勇気のいるものだった。
「俺も、あいつに、、、あいつらに、救われていたんだ、、、」
駆け出しの、武官となったばかりの頃。
若くして崩御した先の帝の事もあり、宮中の権力争いは、混沌を極めていた。
逆賊とは名ばかりの制裁に狩り出され、太刀を振るっていた頃、道を行けば、何も知らぬ人々が、その実、浅ましい己の姿を知っているような気がしてならなかった。
― 今の俺があるのは、あいつがいてくれたからこそなんだ、、、 ―
自責の念から逃れるように、蒼奘の屋敷に入り浸っては、酒の相手に付き合わせた。
無愛想で怜悧な物言いでも、人殺しと蔑まぬ相手に救いを見たのは ―――、他でもない己自身だ。
― 俺の方が、あいつを必要としていたんだっ ―
政局も落ち着きを見せると、蒼奘に付き合い、自然と、その任に同行するようになった。
ぶつかり合いながらも背を預け、やがて、その背を預かるようになったある日、蒼奘が一人の童を連れてきた。
人の童の姿に封じた、神霊にして異形 ―――、伯。
時に、その身を挺する事も恐れぬ姿に、燕倪も多くを学ばされた。
「ああッ」
回想する程に、いても立ってもいられず、
「悪ぃ、蒼奘。俺、【蒼奘】を追いかけるッ」
千草の馬腹を蹴ろうとして、馬首を向けた。
「待って。これに乗って行くといいよ」
蒼奘は、屍魚の鋭く長い棘を擦った。
「その子じゃ、鋼雨の脚には敵わないから」
轡を取る蒼奘に、
「そんな事は無いぞ」
燕倪は、露骨にむっとした。
しかし、相手は万年小春日和の友。
まるで子供のような眸で、鞍上の燕倪を見上げてくる。
「あるんだよ。鋼雨は、先代の都守が墨依湿原から連れてきた野生の馬なんだけれど、あの子も死人還りならぬ、死馬還り」
「式神じゃないのか?」
「それがね、どうも現世と幽世を行き来していたみたいで何を食べていたのか、歳も取らない。脚力はあの通り。並大抵の馬では、この先の瘴気に狂ってしまうけれど、鋼雨はその瘴気にも順応できるからね」
蒼奘が、優しく千草の首筋の辺りを擦ると、
「お、おおっ」
初めて尻込みするかのように、後ろに下がった。
「本当は、もう一歩だって進めないのに、よくここまで燕倪を連れて来てくれたね。主人想いの、強い子だ、、、」
その頭を抱きしめると、千草は蒼奘の腕の中で、
ブル・・・ブルルル・・・
鼻を鳴らした。
「千草、、、」
水も恐れず、炎にも動じない燕倪の愛馬。
傍らに立つと、千草の栗色の眸が燕倪を見上げてきた。
さすがの燕倪も、今まで見たことの無い、縋るようなその眸に、
― 結局俺は、なんにも、気づけなかったな、、、 ―
この先へと進む ―――、【怯え】を見た。
鼻筋を撫でてやると、
「すぐ戻るから、ここで蒼奘と待っているんだぞ。千草」
「え?僕も行くよ」
蒼奘が、どこかけろりとして、応じた。
「馬鹿言え。第一、お前の体は蒼奘が、って、、、紛らわしいな。とにかく、あいつが使ってるって事は、お前は、幽霊みたいなものなんだろ?」
「幽霊って酷い言い草だね。魂魄体って呼んでよ」
「尚更、絶対に、だめだッ」
「ちえっ、、、」
「ちえっ、じゃないっ」
千草を任せ、一角屍魚の背に攀じ登った。
突き出した背鰭の一つを掴むと、
「その子は無限坂の守。名を、壱岐媛」
「こいつが、ひめ?虎魚の間違いじゃ、、、ぬおっ」
オンン……―――ン……
不意に壱岐媛の体が高く跳ね上がり、燕倪は背鰭にしがみつかねばならなかった。
その様子を、おっとりと見つめたまま、
「契約によって、冥府に召抱えられた人であったものだ。あの世とこの世を開いてしまった最初の人で、太古の巫女、、、」
蒼奘が、のほほんと言った。
「巫女、、、」
「人でありながら、生まれながらにして自然神霊を従える者が稀にいるんだよ。彼女は傲り、故に【森羅万象】をも覆そうとした。その罪を贖うため、無限坂の守となったんだ、、、」
足の下にある、めくれ上がった固い鱗の感触。
棘鋭く突き出し、骨ばった巨大な骸骨魚。
複雑な表情で、まじまじと見つめる燕倪を、落ち窪んだ眼窩の闇が蠢いて見上げている。
「こんな姿となってまで、、、」
見かねた蒼奘が、
「もう、その頃の自我はほとんど残っていないだろうけど、ここでの暮らしは、それなりに充実したものだと思うよ。ああ、そうそう、今君が手にしている第一棘ね。それを通じて、意思が伝わっているから」
「そうなのか、、、」
ひやりとした象牙の如き棘を擦り、
「壱岐媛、頼むぞ」
一声掛ければ、
オォ・・・オ・・オ―――ン・・・
緩やかに尾鰭をくねらせ、細やかな砂の上を泳ぎ始めた。
「ちょっと、燕倪っ」
「まだ何かあ、、、おっ!?」
振り返ったその胸元に、投げ渡されたものがある。
腕に抱いたそれは、白き世界でよりいっそう鮮やかに青く、それでいて、見たことも無い花の束であった。
「冥府に咲く花だッ!!たぶん、鋼雨が食べていたものだよっ」
流れに乗ったのか、どんどん小さくなる蒼奘の声が、聞こえた。
燕倪は大きく手を降ると、片膝をついた。
そうせねばならぬ程に、砂の上を泳ぐ壱岐媛は、速かった。
吹きつける風に、己が黒髪が頬を打つ中、燕倪は花を毟ると躊躇することなく、口へ放り込んだ。
まるで水でも噛んでいるような、無味無臭の青き花。
それを噛みしめ呑み込みながら、ふと手にした、その花を眺め、
「しかし、蒼奘の奴、随分と用意がいいな。俺がこう言い出すのを、分かっていたのか?」
ご丁寧に、組紐で束ねてある枝の部分を見つめた。
オォオ・オ・・・
それを肯定するかのように、壱岐媛が、小さく鳴いた、
「ま、そうだろうな。俺は、昔からなんら変わっちゃいないんだろうよ」
壱岐媛の棘を強く握ると、燕倪は前を見つめた。
深い霧が、蟠っている。
壱岐媛の鰭が、力強く大地を叩いた。
背に仕舞われていた全ての鰭が跳ね上がり、風を捉らえると、滑空するかのように霧の中へ。
吹き付ける砂の粒子に、肌をしたたか穿たれながらも、
「あいつに、あんな言葉を言われたままの俺で、いられるかよっ」
燕倪の青鈍の双眸は、闇色に染まった霧の彼方を、見据え続けている。
壱岐媛と共に遠ざかる燕倪を、見送って、
「千草、こっちにおいで」
蒼奘は、燕倪の愛馬、連銭葦毛の千草を伴い、一行に背を向けて歩き出した。
緊張感の欠片も無く、大きく伸びをしながら、
「結局、どこを探しても、お師さんが冥府を渡った痕跡は無かった。前世すら、その一切が、鬼灯録にも、、、」
そう、一人ごちた。
ついでに、あくび。
「ふわぁあ、、、んー、やっぱり、確信を得なきゃ、なんとも」
涙目で、
「後、思い当ることいったら、【あの出来事】しかないんだけど。うーん。この勘が外れたら、もー、どうしよう。ますます、お師さんに合わせる顏が無いなぁ」
苦笑。
片手で、千草の首筋を擦りながら、
「だから、燕倪の代わりに僕に付き合っておくれよ、千草?」
闇色の袍、その片袖が、振られた。
ひら…ひらり…
舞ったのは、一枚の白き懐紙。
風ものないに鼻先まで舞い上がると、ひとりでに折り込まれてゆく。
細やかな、羽根の重なりまでもが見事に再現されたそれは、
「冥官の名において命ずる。【冥刃】を模して、この世とあの世の境目を、抉じ開けよ」
一羽の鶴となった。
幾度か、翼を動かすと、そのまま高みへと飛翔。
その身が白い一閃となり、立ち込めた薄闇を斬り裂いて ―――、分断された、薄闇の空。
俄かに雨雲のように渦を巻くと、その先に、ぽっかりと白い月が顏を覗かせた。
淡く燐光を放ちながら、頭上に現れた【白い月】。
その輝きに、闇色の眸を眇めつつ、
「ああ、そういえば、幽鬼の目線で現世に戻った事って、さすがに無いなぁ」
ふわりと袖を広げると、鞍上の人となったのだった。
風を切る銀狼の背で、
「賑やかな奴だな、お前の連れは」
遙絃が、くつくつと喉を鳴らし、追い抜いていく。
その反対側。
「先に行っているぞ」
傍らを並走していた巨虎が、駆け抜けていった。
主の心境を察したのか、鋼雨の脚が速足から並足となり、やがて、ゆっくりと止まった。
首を抱いていた伯が、ふわりと舞い降りて、
「んー、、、」
「、、、、、」
裾を引いて、促した。
闇の大地を泳ぎ寄るこの音を、【男】は知っていた。
「蒼奘ッ」
一歩も動こうとしない鋼雨の背から降り、その首を擦りながら、いつしか聞き慣れたその名にすら、どうしても後ろを振り向く気にはなれなかった。
形容しがたい、なんとも複雑な胸中が、そうさせていた。
一方相手は、鋼雨に寄せた壱岐媛の背から駆け降りると、
「おい、蒼奘っ」
振り向かぬその【男】の肩を、構わず掴んだ。
金色に染まったままの双眸が、うっそりと、その姿を映し出す。
「燕倪、、、」
「それだッ」
鼻先に近づく、彫りの深い、燕倪の顔。
「情ねぇじゃないかよ、今更。俺は、未だにお前の名を、一度だってちゃんと呼んじゃいない!!」
感情そのまま、燕倪は声を張り上げた。
「私の、、、名、、、」
「ああ。お前の名だ」
「、、、、、」
鈍色の眸が、まっすぐに見つめてくる。
「蒼奘が現れたんなら、お前を蒼奘って呼ぶのは、おかしいだろ。それとも何か、同じ名だって言うのかよ?」
瞳孔鋭い金色の眸には燕倪が映っており、肩は掴まれたままで、視線を逸らす事すら赦さない。
薄闇の中、その双眸は青鈍に澄み渡り、澱みの無い、真っ直ぐな眼差しでもって、こちらを見つめている。
「、、、、、」
やがて、
「、、、奏伯」
「奏、伯、、、?」
「ああ、、、」
根負けしたかのような呟きが、低く、漏れた。
「エンゲ」
「お?」
菫色の眸の主が、
「ソウは、、、カナデル、、、」
いつの間にか燕倪の肩に、顏を寄せていた。
― 伯、、、そうかっ、伯を奏でる者の意か。だが、自らの名で封じた者を、、、? ―
そのまま腕を伸ばして、伯が、燕倪の首に縋りつく。
ひとつ、息を吸い込むと、
「ソウ、は、、、ハクを導くト決めテ、ま、真名、クレた、、、」
「それじゃあ、お前は、【伯】と名づけた者のために、、、?」
「【伯】ハ、そのまま神の意、デ、、ハクは、真白」
伯の腕の温もり感じながら、燕倪は、金色の眼差しを見つめ返す。
男は、燕倪の眼差しに、
「冥府の深淵におわす、双冥皇。私はな、その双肩を喰らい顕現した、生まれながらにして【神意を持たぬ者】だ。名も無ければ、神にも、人にも、鬼にもあらず。お前が言った異形は、あながち外れてはいない、、、」
首を横に振って、そう言った。
「神を喰って、、、」
「ああ。私が何者なのか。その答えを知る者に、今だかつて出会った事が無い。だから、この世に在っても冥府に在っても、その実、この憂いは晴れぬのだ、、、」
辺りに、鬱々とした声音が響いた。
「始まりは、冥府に転がり込んだ蒼奘の意に同調し、人の都に降りた。人の世で、お前に必要とされ、そして、、、」
蒼奘、いや、奏伯は、
「私は、弱い、、、」
伯を見つめた。
「このような幼神にまで、乞うたのだよ」
それは懺悔のような、告白であったのかもしれない。
自嘲気味な笑みを口元に湛えると、
「それが、この私だ、、、」
細い溜息と共に吐き出した。
「この幼神に出会って、私は、初めて自らに名を冠した、、、」
伯のしがみつく腕の力が、ずっと強くなる。
「伯、、、」
燕倪は、大きな手でその髪を撫でてやった。
いつもは嫌がる伯が、今日は手の下で小さく、震えていた。
― 嗚呼、そうか、、、 ―
その震えの意味を、燕倪は痛いほど感じていた。
― これは怯えだ。伯は、まだ【別れ】を知らない、、、 ―
いつか訪れる奏伯との別れに、怯えているのだ。
燕倪は、伯の体を片腕で強く抱きしめた。
「俺には、お前が必要だ、奏伯。伯にも、お前が必要なんだ、、、」
顔を上げた伯が、
「ソウ」
その人を見つめた。
繋がっていた筈なのに、誰よりも近くにいた筈なのに、噛み合わない歯車は無限の不安を生んだのだ。
それを、この男は、
「難しい事なんて、考えるなよ。お前にもわからない事は、結局、誰も分かっちゃいないさ」
いとも容易く、ぶち壊す。
「いいじゃねぇか。それがお前だ。それが俺で、それが伯だ。それ以外に、何がある?」人好きする、いつもの笑顔で、
「契約、理?俺たちが俺たちらしく生きるのに、そんなもの必要あるかよ。この世の有様なんて、そんなのは二の次だ。重要なのは、【今、どうしたいか】、ただそれだけさ」
蟠りを、払拭する。
「、、、ああ」
この男は、出会った頃から、そうであった。
溜息のような、そんな相槌に続いて、奏伯の眸に、呆れたような感情が滲んだ。
「単純な男であったな、、、」
青い唇に、不遜な笑みを刷けば、
「お前が、難解なんだよ」
燕倪の手が、肩から離れてゆく。
「、、、そうかもしれぬ」
燕倪と伯は、奏伯が頷くのを見た。
「おっしっ、俺は、行くぞっ!!ひと暴れしなきゃ、気が済まんしなっ」
拳を打ち付けるその肩で、
「ソウとエンゲと、行く、、、」
小さな伯の声。
奏伯の手が、群青の髪に触れ、
「お前の望みが、私の意味だ、、、」
金色の双眸は、魔境と呼ばれる闇の彼方を見据えた。
「都守。この名を負うた、責務、果たさせてもらうぞ、、、」
傍らの、燕倪が、
「おうさ」
低く応じると、大太刀に手を掛け、歩き出す。
肩で風を切りながら、颯爽とした歩み。
いつの間にか、見慣れた背中であった。
今も変わらずに、そこにいる。
それだけで、強く在れるのかもしれない。
燕倪の背に続きながら、
「、、、、、」
奏伯は人知れず、青き唇の端を、吊り上げたのだった。
書き始め当初から、決まっていた彼の名を、ここでようやくあかせた感がwww
かなり長いこと、この作品に時間を割いてきてしまった感もあります。。。
昔、ノートに書き溜めた様々な物語りを、今、整理しています。。。大半は処分したつもりですが、まだ、大学ノート30冊以上はある哀しさ。よくも悪くも、飽きもせずに書き溜めたなと感慨に耽りつつ、、、シュレッダーが、昨夜はオーバーヒートwww
とてもとても、人様には見せられないそれらを、心に留めながら、今の僕の筆があるのだとしたら、まぁ、内容はともかく、書ける歓びを思えば、悪くはなかったのかな、と。。。
そんなことを思って、書いてます。。。