雨音
その日は、雨が、降っていた。
空色の紫陽花は俯いて、水黽は、鯉の口を避けながら、水面を渡っていく。
辺りは、沸き立つような大地の香りと、楽しげな雨音で、満たされていた。
彼方の、高い築地壁の向こう。
背の高い庭木や鐘楼の彼方に、いつも見える山稜が、今日は白々とした空に塗りつぶされて見えた。
雨季を迎え、帝都中が、雨に煙っているようでもあった。
「、、、、、」
白き髪から滴る、雨のひとしずく。
灰浅葱だった狩衣は、雨を吸い、深く沈んだ鼠色へと変わっていた。
雨空の下、湖畔に佇んでいた男は、
「、、、、、」
大地の香りを惜しみ、雨音すら、その記憶に刻もうしていたのかもない。
庭へと続く、階から程近くの、欄干。
飴色に磨きこまれたその欄干に、両腕を掛けているのは、
「、、、、、」
伯。
爪を噛み、食い入るように見つめる先には、雨に打たれる蒼奘の姿があった。
側に行きたくても ―――、行けない。
ただ、佇んでいるだけなのに、その背中には、何人をも寄せつけぬものがあった。
「くぁ、、、」
もどかしさに、檜の香りも清々しい欄干にあたろうとして、小さな牙を剥いた ―――、時だった。
玉砂利を踏む音が、近づいてきた。
口を開いたまま、
「、、、、、」
伯の視線は自然と、木立から現れた者を、追っていた、、、
湖畔に添って歩きながら、
「、、、、、」
まっすぐに、蒼奘の元へ。
菫色の眸が、こぼれんばかりに、見開かれる。
その歩みが、蒼奘の傍らで、止まった。
「、、、、、」
どこか遠くを眺めていた、蒼奘の頭上に、
「何やってんだよ。伯に、あんな顏させて」
「、、、、、」
雨傘が、差し向けられた。
「ふぉ、、、」
伯は、張りつめていた空気が霧散したのを、感じていた。
「、、、早かったな」
青い唇が、鬱々と言った。
― この、辛気臭い口調。また、一昔前に、逆戻りだな、、、 ―
燕倪は、蒼奘が死人還りとなって戻ってきた頃を、思い出した。
終始、その貌から憂いは晴れなかったが、それでも伯が来てからは、少なくともこんな事はなかった気がする。
憮然とした顏になって、
「なんとなく、気が急いた。さすがに騒然としたぞ。お前が俺に、式神を言伝に寄越すなんぞ、今まで無かったろうが」
「そうだったか、、、」
気の無い返事に、ますます、濃い眉を跳ねあげた。
「で、こんな雨ん中突っ立って、風邪でも引くつもりかよ?」
苛立たしげな燕倪を、雨に濡れた闇色の眸が、うっそりと眺めた。
「禊だ、、、」
「禊?」
燕倪を伴い、蒼奘が、階を上がる。
待っていたかのように汪果が、手に布を持って、現れた。
白い髪を拭かせながら、
「ここは海から遠いが、雨は気化した海の水を、運んでくれるでな、、、」
欄干に座って、伺うようにこちらを見つめている伯に、手を伸ばす。
そっと、頬に触れれば、
「、、、、、」
伯の手が、濡れた袖を、掴んだ。
そのまま、何を思ったのか、腰に腕を回す。
濡れるのも構わず、顏を押しつけ、いやいやをする。
「若君、、、」
その様子に、思わず汪果が、目を眇めた。
「【時】を惜しむのは、誰しもが、平等なようでございますね、、、」
「汪果?」
意味深な言葉に、燕倪が汪果を見るが、彼女はそれ以上語らず、
「さ、若君。主様は、お召し換えなさいますので、燕倪様と、お待ちくださいまし。琲瑠が、蜂蜜の蒸し菓子をお持ちしますから」
やんわりと、引き離す。
穏やかな眼差しに、
「、、、、、」
こくり、、、
伯がしぶしぶ頷いて、離れた。
二人を見送って、
「お前まで、なんて顏してんだよ」
燕倪が、苦笑。
いつもの能面の如き顏だったが、当人には、思い当る節があるようで、
「、、、、、」
先ほど、触れられた頬の辺りを、無言で擦った。
一方燕倪は、そんな言葉しか思い当らない自分自身に、呆れていた。
― こんな時に、気の利いた言葉一つ、思い当らんとは、、、 ―
いつもながら、事情は知らないが、【何かが】いつもとは、違っているのは、すぐに分かった。
今回の呼び出しが、それに通じていることも。
― あいつのことだ。語ることでもないから、同行させるんだろうな、、、 ―
それが分かるだけ、まだ、平静でいられる気がした。
先に座った、燕倪。
ふと、長く垂れた青い紐が、見えた。
やや癖のある、群青の髪。
「伯、ほどけかけているぞ。髪紐、、、」
「、、、、、」
「お、、、」
とことこと、燕倪の膝に、珍しく伯が入った。
片膝に腰を下ろし、廊下の方を、見つめている。
緩んだ綾紐を抜き取って、手で梳けば、しっとりと冷たく、まるで花弁にでも触れているような感触が、指先をすり抜けていく。
いつだったか、まだ伯が来て間もないころ、同じように髪を束ねてやったことを、思い出しながら、
「ずいぶんと、伸びたな」
「、、、、、」
「ん、ああ、、、髪だよ」
「、、、、、」
「なんだよ。伸ばしてるわけじゃないだろ?」
「、、、、、」
相変わらず、反応がある時と無い時がある。
けれど、
「これから暑くなるから、帰ってきたら、切ってやろうか?」
「やー」
「いや?そう言うのは、反応早いな、、、」
浅葱と藍を織り交ぜた、綾紐。
いつものように、首の後ろで束ねてやっていると、
「お待たせしました」
琲瑠が、盆を手に現れた。
「まもなく、主の着替えも終わりましょう」
二人の前に置かれたのは、涼やかな銀杯に揺れる、よく冷やされた、ほうじ茶であった。
ほのかに黄みがかった、ふんわりとした蒸し菓子が、添えられている。
「わたしは、馬に鞍をつけねばなりませんので、後程、また、、、」
問われる事を避けるかのように、琲瑠は、すぐに下がっていった。
手が、伸びた。
燕倪の膝で、菓子を食べ始めた、伯。
その様子を、茶で喉を潤しつつ眺めていれば、
「待たせた、、、」
背でゆったりと銀髪を束ねた、浄衣姿の蒼奘が、部屋の奥から入ってきた。
「、、、急ぐのか?」
座るでもなく、燕倪に言われたところで、伯を見た。
「、、、いや」
燕倪の前に腰を下ろせば、静かに、目を閉じた。
雨音は、続いている。
燕倪は、何ともなしに、庭を眺めた。
渡殿の脇に咲き群れる、菖蒲。
水面に浮かぶいくつもの蓮の葉は、雨粒を受けて重たそうだ。
その間を、悠々と水黽が泳ぎ、庭石の影では、小さな蛙が雨空を謳歌して、鳴いている。
雨に煙る庭もまた、いいものだった。
「、、、、、」
「、、、、、」
その日、この瞬間、屋敷は、静かすぎた。
雨がもたらす音は聞こえるのに、流れているはずの【時】は、あたかも止まっているかのようであった。
沈黙を破ったのは、
「んっ」
伯だった。
燕倪の膝から出て、軒庇の下に伸びる廊下へ。
燕倪の菓子も、すっかり平らげていた。
「お、行くか?」
置いておいた業丸を掴むと、
「ああ。行こう、、、」
蒼奘が、続いた。
伯の華奢な背中を、追う
門へと続く、長い廊下。
その途中、燕倪は、後ろの蒼奘を振り返った。
蒼奘は、やはり庭を、眺めていた。
「、、、、、」
見慣れたその横顔が、別人のようにさえ、見えたが、
「どうした?」
「いや、、、」
いつもの闇色の眼差しでもって、逆に問われ、首を振った。
この時の蒼奘が、【時を惜しんでいた】と燕倪が気づくのは、これから始まる長い夜の、後の事であった。
一行を見送った後、門の内へと戻りながら、
「琲瑠」
「はい、なんでしょう?」
傍らの汪果に問われ、琲瑠は、異相の美姫を見た。
つり上がり、ややきつい印象を受ける汪果の眸が、まっすぐにこちらを見つめていた。
その奥に、汪果の気性とも言える【赤き焔】が揺れているようで、水氣に連なる琲瑠は、思わず肩を竦めてみせた。
「あなたは、これから、どうするの?」
「これから、ですか、、、」
なんとも言えぬ、いつもの顔で首を傾げた、琲瑠。
「わたしは、従者。我が君に、従うまででございますよ」
おかしな事を聞くものだと思いつつ、答えれば、
「我が君、、、そうね、、、そうでしょうとも」
いつも艶然とさえしている汪果の貌に、憂いが過った。
― 、、、ああ、そうか ―
何を思い当ったのか、
「今からでも、遅くは、、、、」
琲瑠は、汪果の腕を掴んでいた。
そのまま、往来へと戻ろうとして、
「いいの、、、」
首を振って、笑った。
「代々の都守を【主】と仰ぐことで、空の高みから、この大地に帰依したのだから。これくらい、なんともない」
「汪果、、、」
それは哀しくも、前向きな、微笑みだった。
「繕いものが残っていたのを、思い出したわ。【都守】が戻られれば、それはそれで、目が回るくらい忙しくなりそうね」
「、、、、、」
琲瑠は、その後ろ姿を見つめた。
今にも崩れ落ちてしまいそうな、華奢な背中。
「汪果」
琲瑠は、たまらず、
「貴女は、それでいいんですか!!本当に?!」
叫んでいた。
琲瑠の視線の先、その歩みは ―――、
「、、、、、」
―――、 止まらなかった。
杜若色の雨傘。
燃えたつような緋色の唐衣が凛として、雨空の下に、よく映えていた。
いろとりどりの花びらが、胡蝶のように風に舞う、花野原。
上空に巻き上がれば、その姿は、極彩色の龍となって、雲に遊ぶ。
何処から迷い込んだ麒麟は、膝を折って眠り、舞い降りた番いの鳳凰は、互いの羽根を広げて、舞い踊る。
その様子を眺めつつ、
「賓客のもてなしもそこそこに、屋敷を空けたと知れれば、天津国の連中に何と言われるか、、、」
「天狐遙絃たるや、でございましょうか、、、」
その答えに、くつくつと喉を鳴らした。
大きく伸びをして、
「結構、結構」
遙絃は、後ろを振り返った。
侍女達や野狐ら、管狐までもが、屋敷のあちこちから、一様に心配そうな眼差しでこちらを見つめている。
その眷族らを見回して、
「揃いも揃って、まったく、なんという顏をしているのだぇ?」
思わず苦笑。
無理も無いとは思いつつ、この時ばかりは、さすがの遙絃も、
― このような目で見つめられると、反って何も浮かばぬな、、、 ―
気の利いた言葉を見失って、舌を巻いた。
「地仙、花切鋏を、、、」
傍ら胡露が差し出した、手にすっぽりと収まる花切り鋏。
遙絃の手に戻れば、武骨な大太刀となった。
しなやかな左の手の五指が開かれると、
ズズ…ズ…
切っ先から、吸い込まれるようにして、掌から体内へ。
腕を、一振りしたところで、
「羽衣を、、、」
胡露が、短く命じた。
「わ、がきみ、、、」
小さな子供が、遙絃の前へと進み出た。
リン…チリリ…ン…
小さな鈴の音をさせて現れたのは、甘栗色の髪を巻き上げた、女童。
「どうぞ」
蚊の鳴くような声で、七宝の蒔絵の盆に捧げ持つ、虹色の羽衣を差し出した。
小さな体が、心なし、震えている。
その姿に紺碧の双眸を細めると、
「赤狐の娘よ」
遙絃は、その女童を抱き上げた。
「あっ」
咄嗟のことに、腕の中で、もっとずっと体を小さくする、女童。
驚いて飛び出してしまった、小さな獣の耳。
その耳を伏せながら、
「あ、、、お、きをつけて、、、」
伺うように遙絃を見つめてくる。
「ふふ、ついに化身の術を会得したか。大したものだ」
その髪に頬ずりすると、そっと大地へ。
虹色の羽衣を肩に纏うと、
「皆、すぐに戻る。留守中、後は、任せたぞ」
にこりと笑って言った。
一様に頷いたのを見て、背を向ける。
寄り添うのは、白き隻眼の大狗。
その背に乗ると、
「行くぞ、胡露」
「ええ、遙絃、、、」
二人の姿は、白い軌跡を残しながら、花野原の彼方へと遠ざかって行くのだった。
恵堂橋。
やや水嵩を増した阿智川に掛かる川辺に、青鷺が一羽、雨に打たれて佇んでいた。
「、、、、、」
傘を手に眺めるは、青磁色の狩衣を纏った長身の若者。
馬蹄の音が近づく中、顏を上げれば、
「お、、、」
漆黒の肥馬の後ろ、連銭葦毛の鞍上にいた燕倪が、声を上げた。
「銀仁じゃないか、、、」
「都守、燕倪。それに、伯。待ちくたびれたぞ」
薄く笑った銀仁が、一行と共に、歩き出した。
「、、、あとり姫か?」
肩越しに、忙しなく辺りを見回す伯を見兼ねて、蒼奘が問えば、
「ああ。今日は、胸騒ぎがすると、あとりに送り出された。借りは、返す性質でな、、、」
銀仁が、金虎目でもって闇色の双眸を見返した。
「、、、そうか」
ただ、短く応じるのを、
― あとりの胸騒ぎとは、この先、一体何が、、、 ―
燕倪は、業丸の柄に手をやりながら、聞いていた。
雨は、霧に変わり、見慣れた黒き水の葦原を、しばらく行った辺りであった。
いつの間にか増えた気配に気づき、ぐるりと周りを見回した、燕倪。
「蒼奘」
その呼びかけに、
「なんだ、、、?」
うっそりと応じるのは、鋼雨の手綱を持つ蒼奘。
白い髪を背で結い、浄衣を纏い、膝に錫杖を置いている。
それまで黙っていた燕倪が、さすがに問うたのには、それなりの理由があった。
「なんだ、じゃない。こんな大所帯で行くのか?!」
視線の先で、金の髪を結い上げた美丈夫が、白銀の毛並みの巨狗の背に寝そべっていた。
「不満かぇ、左少将?そなたよりは、腕は立とうよ」
虹色の羽衣を纏った、天狐遙絃。
「わたしは、ただ、遙絃に従うだけですので、、、」
巨狗はその伴侶、胡露。
先程、墨依湿原の中程で、蒼奘一行と、合流を果たしたのだった。
一瞥も与えず、霧に煙る前方を見つめたまま、
「これより向かうは、無限坂の暗がりに広がる【魔境】だ。頭数は多いに越したことは無い、、、」
さらりと、とんでもない事を口にする。
「ま、魔境⁈だ、だが、しかしだ、、、何もこんな」
魔境と言われたところで、燕倪には想像もつかなかったが、いつもとは違うのだけはひしひしと伝わってくる。
そんな最中、
「危険だからって、巻き込むのは、、、」
少し後ろを振り向いて、声を掛ければ、
「我の事なら気にするな。言ったはずだ。あとりも、快諾してくれた、と」
朱金の毛並の巨虎と、
「ソウと、いく、、、」
水干を纏った、伯。
恵堂橋にて待ち受けていた銀仁、巨虎と化したその首に、つかまっている。
「伯には、万一の事もあると言ったのだが、それでもついて来る者を、拒めぬよ、、、」
「拒めよっ」
瘴気が濃くなるのを感じ取ってか、千草が低く鳴くのを、首を撫でて宥める。
「少将、人の身で魔境に入れば、そなたもただでは済まぬかもしれぬぇ?そなたこそ、引き返すのなら、今のうちだ」
遙絃の言葉を聞きながら、燕倪は、視線を感じていた。
傍らを伺い見れば、蒼奘の闇色の眼差しが、静かにこちらを見つめていた。
「俺は構わん」
燕倪の声音は、いつになくからりとして、良く通った。
遙絃の紺碧の双眸が、おもしろいとばかりに、眇められる。
「運良く戻ったところで死人還りじゃ。そなた、それに耐えうるかな?」
「髪が白くなろうが、見鬼になろうが、俺は俺。生きて戻れれば万々歳だ」
「失うかも、しれぬのに?」
遙絃の、辛辣な響きさえ含んだ言葉を、
「俺の性分でね。昔馴染みの誘いは、断らない事にしているんだ。それに、一大事ならばなおさらだ。固く門扉を閉じて祈るより、悪あがきして力尽きる方がよっぽどいい。もっとも、死ぬ気はさらさら無いが」
「ふふ、、、我らに、任せておけば可愛いものを、、、」
「生憎と俺は、そんな都合の良い言葉を信じないんでな」
鼻で笑い、燕倪は、業丸の柄に手を置いた。
燕倪の一蹴を受けて、青い唇が微かに歪んだのを、伯の菫色の眸だけが、見つめていた。
「ソウ、、、」
ふわりと、伯が蒼奘の肩に飛び乗った。
くん、くん、、、
鼻を鳴らしている。
紺碧の双眸が、白い背中を見つめた。
― しかし、妙だな。都守よ、何故、あの泉から渡らずに?さては、、、 ―
大きな耳が、くるりと動いた。
「遙絃?」
遙絃の様子に気づいた、胡露。
「いや、とるに足らぬ事だ、、、」
― まったく、、、 ―
その頭を撫でやり、小さくため息だ。
それまで葦原を歩んでいた一行は、やがて、深い霧に包まれた。
黒く濁った水が跳ねては、馬の足を取る。
「燕倪、、、」
黙っていた蒼奘が、鋼雨の綱を引いて、立止った。
前方に、一際濃い霧が白々と、蟠っていた。
傍らに、馬を寄せた、燕倪。
「これより先は、幽界の入口、【無限坂】。その先に、天津国も不可侵の地、【鬼窟】がある。魔境へと続く、いわば参道だ」
「ああ。さっさと行こう」
にっ、と笑んで、前を見据えた。
「ふ、、、」
蒼奘の青い唇から、思わず笑みが、毀れた。
― 最初から、仕方の無い奴だったな、、、 ―
忠告も、ろくに聞かぬ男であった。
自分の身を顧みず、他を守ろうとする男であった。
そして、
― まったく、不思議な男よ、、、 ―
どこまでも蒼奘を、信じてきた男であった。
手綱を弛めると、
「ああ、参ろう、、、」
鋼雨の脾腹に、踵をくれたのだった。
まだまだ、ずるずる長いでっせ。。。