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第弐幕後 ― 夜都 ―

 業丸の対を探し当て、帝都に戻った燕倪と伯だったが、、、


 死人還りの都守蒼奘、業丸を継ぐ武官燕倪、幽身であるがこの世に縛られた伯。それぞれが紡ぐ異国絵巻、第弐幕後編。。。

 

冴えた月が、中天にて煌々と銀波を放っている。

星は影を潜め、千切れ雲は薄くたなびいては、山の向こうへと流れ去った。

 ひっそりと静まり、門扉固く閉ざされた家々の合間に、蠢くものがある。

 凍える夜気の中、青や白の輪郭を持った、鬼。

 列を成し、舞い踊りながら辻々に姿を現す。

 帝都中に溢れた小鬼の群れ、その中を用心しつつ馬を進めながら、

「本当に危害が無いんだろうな、伯?」

 胸の前で、干し柿を練って餅状にした柿餅を暢気に頬張る伯が、こくり、頷いた。

 口の周り、打ち粉で白くなっている。

「しかし、これが噂の百鬼夜行とは、なんとも愉しげな、、、」

 ある小鬼は手に古い扇を持ち、また、草や枝、箸やら鳥の羽でもって舞っている。

 どの小鬼も、口の端を一様に上げて牙や舌を出し、実に愉しげ。

 さわさわ、、、

 足元から聞こえるのは、重く実り枝垂れた稲穂が、風に揺れ擦れたような、音。

 人外の化生達の嬌声だ。

 その小鬼の邪魔をせぬようにと、千草を小鬼の群れに添って進めてしばらく、辻に白い人影が浮かんだ。

 それまで大人しく柿餅を頬張っていた伯が、舞い上がる。

 宙を蹴って、その人影の広げた腕の中に飛び込み、

「ぁぁあぅ」

 胸元に顔を押し付けた。

「伯、、、」

  口元の粉を、赤子にするように袖で拭いながら、千草の前に立っているのは、

「蒼奘。おまえ、こんな晩に立っていれば、化生と見紛うぞ」

「構わんよ。この世に在れば、どれもこれも似たようなものだしな」

  白い髪を長く背に垂らした蒼奘、その人。

「どうやら、間に合ったようだな」

「ああ。遠野に住む愛智姫の末に、この篠笛を借り受けてきたぞ」

「ほぉ、、、」

 包みを懐から出すと、蒼奘に手渡した。

 漆黒に輝く艶やかな篠笛がその繊手によって取り出されると、蒼奘が眉を寄せた。

「業丸が、鞘鳴りで知らせてくれたのだ」

 千草から降りた燕倪が、鼻息荒く業丸をかざす。

「、、、、、」

「ぬっ?!」

 業丸は、鞘鳴りはおろか、何の変化もしない。

「ソウ、、、」

 伯が、蒼奘の腕に手を掛けてしばし、

「そうか、、、」

 そっと頭を撫でやった。

 篠笛を包み直し、

「これでは無い」

 唖然とした燕倪の鼻先に突きつけた。

「た、確かに業丸が、、、」

 業丸と篠笛を交互に見やり、燕倪は頭を振った。

 蒼奘は顎先に手を当てつつ言葉を選んでいたが、やがて、

「其れは媒体に過ぎぬようだ。どうやら遠野の末である姫でなければ、この笛が業丸に番う事は出来ぬようだ」

「つまり、羽琶殿でなければならないと?」

「愛智姫と共に葬られた桧扇。おそらくは、姿を失った後もその血宿り、受け継がれたのだ。元はといえば、妹の幸せを願い贈ったもの。その想いこそ、桧扇の真価」

「想いが、鬼を祓う、、、?」

「この笛を奏でる時、其の音が羽琶殿の中で眠る大太刀として数多の鬼を葬りし真の姿を、呼び起すのだろう。生半可な鬼では、浄化を免れまい、、、」

「それでは、羽琶殿を都に連れて参らねばならなかったのか、、、」

「そうなるな、、、」

 腕を組んだまま、そのまま黙り込んでしまった。

「いずれにせよ、鬼が闊歩する都をこのまま放置しておくことできん。今戻れば明日、陽のある内には戻れる」

 再び千種の鞍に手を掛けた燕倪に、

「それでは間に合わんのだ、、、」

 蒼奘の白い溜息だ。

「間に合わぬかどうか、行くしか道が無いのだろう」

 見つめる友に、都守は顎で促した。

「あ?」

 振り返ればその向こう。

 闇の深みより、今までの小鬼とは明らかに格の違う化生が這い出していた。

 その引きずる巨体。

 あるものは暗緑色の体液を振り撒きながら、またあるものは体中の触手を蠕動させながら、道いっぱいに広がり滲み出す。

「これは、、、」

「今宵、夜は明けぬ、、、」

「どういうことだ?!」

「都は、夜都となった。槇廼尭元の怨念ここに極まった、とでも言おうか、、、明日の正午、この月満ちれば怨敵槇廼尭元、復活を遂げるであろうな」

「悠長な、、、」

「結界は張った。万が一、この都が呑まれたとしても、槇廼尭元は都を出ることは出来ぬよ」

「だが、都自体が槇廼尭元の体を基に構成された結界では、無駄じゃないのか?!」

「都の周りに住む神共に、動かぬように言い置いた。元々神というものは、己の神通力の及ぶ範囲を統括していてな。それらが存在しているというだけで、結界として機能するのが、この世の習いだ」

 のらりくらりと近づいてくる巨大な化生に、千早が嘶く。

「だがいずれにせよ我らは、槇廼尭元が結界内にいるという訳だ。夜都となった今、外界とは別次元だと考えるといい」

 手綱を取って押さえながら、業丸の柄に手を置く燕倪の前に、腕に伯を座らせた蒼奘が立った。

「中々戻らぬ故、都守の名で戒厳令を敷いておいたのは正解だったようだ。妖星による蝕だと言う事にしてあるが、さて、いつまでもつか、、、?」

 いつの間にかその手には、鈴が連なった房が下げられていた。

 一見したところ、白銀に輝く大粒の葡萄の房だ。

「鈴?」

「ああ、、、」

 袖を振ると、朗々と大気に澄んだ音を立てた。

「おお、、、」

 それまで洋々と前進してきた巨体が、ゆるりと向きを変える。

 一行の傍らを通り過ぎるのを見送って、

「風鈴、錫丈、寺の鐘。金の気はどれも、化生が嫌うのでな」

 蒼奘の屋敷へ向かって歩き出した。

「なぁ、俺ができることはないのか?」 

「そうさな、、、」

「何かしていなければ、夢見が悪い。遠野まで出向いても、役に立つどころか、、、」

「無い事もないが、、、」

「おう」

「だが、今は休め。すぐに動いてもらう事になるやもしれぬ。部屋を用意した。煩い女が居るが、、、」

「煩い女?」

 屋敷に着いて門を潜ると、

「お帰りなさいませ」

 見慣れた水干姿の若者が頭を下げた。

 琲瑠であった。

 千種の手綱を取って何処にあるとも知れぬ厩に連れて行くのに任せ、奥の母屋へ向かう途中、見慣れぬ牛車が屋敷内に留まっていた。

「このこもり雪の紋は、勝間の山の箏葉殿か?」

「汪果」

「燕倪様、お部屋にご案内致します」

 汪果が現れた時、琲瑠が別の馬を連れて戻ってきた。

 青乳色の鬣を振り乱した、赤紅の瞳の肥馬。

 蒼奘の愛馬、鋼雨。

 琲瑠に伯を預けると、馬上の人となる。

 錫杖を受け取ると手綱を手繰り、馬首を門へ。

「おい、俺も、、、」

「正直なぁ、燕倪。この先、少しばかりどうなるか分からぬ。もしもの時は、お前に都中の鬼を斬ってもらうやもしれぬ。だから、休んでおけよ」

 腹を蹴って、鋼雨が走り出すのを、

「ひぁぁ」

 手を伸ばす伯が呼ぶが、すぐに道の向こうへ見えなくなってしまう。

「むぃっ」

 一呼吸して、琲瑠の腕を振り払った伯。

「若君」

 ふわりと水干の袖を広げて舞い上がると、塀の上。

 そのまま道の向こうへと消えてしまう。

「は、伯っ」

 髪を結わえていた青い綾紐だけが燕倪の足元へ。

 追いかけようとしたその背に琲瑠の声。

「若君なれば、この程度の百鬼夜行、問題はありますまい。神在れば、そこは浄域となりますから」

「しかし、、、」

「燕倪様はお休みくださいませ。後は、わたくしめが、、、」

 しかし燕倪、足元のその紐を拾うと、業丸の柄に手を掛け、

「あいつはまだ子供だ。ほうっておけるかよっ」

 そのまま走り出てしまった。

 複雑な表情を浮かべる琲瑠に、

「神を、人の仔とおっしゃるか、、、」

「そこが、あの御仁が主様の友であられる所以なのでしょう」

 汪果が憮然とした様子で腕を組み、月明りの下。

 二人、それぞれの帰りを待って、いつまでも佇むのだった。

 

 鋼雨が手綱を引かれ、大きく前脚を上げて立ち上がり、止まったのは帝都の外れ。

 南東にある青梅池。

 低い塀に囲まれたその池は、凍りつくこと無く、青緑に沈んでいる。

 錫杖をついて蒼奘が湖面に浮かぶ浮御堂に進むと、湖面が波打ち、渦巻いた。

 底が覗き、漆黒の櫃が浮かび上がるのを見つめ、

「緋皇」

 金色の光を纏った漆黒の肌を持つ鬼神が、茫洋と蒼奘の傍らに現れ、手にした漆黒の櫃を持って宙を渡り、櫃を入れ替えた。

 鬼神は蒼奘の傍らに戻るとその櫃を捧げ持ち、膝を付いた。

 蒼奘が櫃の蓋に触れると、それはひとりでに開き、その中身を蒼奘に晒す。 

「確かに、、、」

 一人、目を細めて頷くと緋皇は蓋を閉め、姿を消した。

 蒼奘が背を向けた時、青梅池はいつもの静寂を湛えていた。

 

 くん・・・

 鼻を鳴らし、屋敷の塀の上で立ち止まった伯。

 くんくん・・・

 夜気に潤んだような瞳が開き、水干の袖を翻して舞い上がり、ふわりと路の真ん中に降り立ったのだが、

「ううっ」

 その体は、蒼き衣の袖に抱かれていた。

 ― うろう ―

 身じろいで恨めしげに見上げた相手は、長い砂色の髪を肩に垂らし、穏やかに微笑む美丈夫。

 その耳は、銀毛で葺かれた獣の耳で、その寛衣からは銀糸の太い尾が伸びていた。

 くわっ・・・

 小さな犬歯を剥く伯の口を、やんわりと長い袖で押さえながら、その髪に頬擦り。

 手足をばたつかせるその耳元で、

「貴殿にしか、出来ぬことをなさいませ、、、」

「がぁぅうっ」

「夜都に堕ちた以上、都守は、その名に縛られております。さすがの蒼奘殿も、それ故、この都から出ることはできますまい」

「うーうっ」

 さらりと袖から腕が覗く。

 白々としたそれが、見る見る鉛色に変化し、鈍色の光沢を宿す刃と化す。

「結界を敷く動けぬ地仙に代わって、夜都の結界に風穴を開けることが出来る者は、貴方を置いて他にいませぬ」

「かぅっ」

 もどかしく、胡露の手首に伯が歯を立てる。

「僭越ながら、その道、この胡露が開きましょう、、、」

 赤く滲んだ血が衣の袖を染めても、胡露は眉一つ寄せる事もなく、

「其の秘された名、導くままに、、、」

 左手を上げ、そのまま睨み続ける伯の胸に向けて振り下ろす。

 

「おや、、、」

 鋭く伸びたその手の甲を、貫く一閃の輝き。

 脇差によって大地に縫い付けられた腕の主は、肩で息をする男を見つめた。

「エンゲっ」

 伯が叫ぶが、もう一方の腕が緩まる事は無かった。

「残念でしたね」

「はっ、、、がっ、、、」

 脇腹に入っていた五指が、伯の水干に食い込む。

「伯ッ」

 仰け反った伯の体内へめり込むその五指。

 業丸を抜き、駆け寄る先、大地が渦巻く。

 漆黒の闇を集めたかのような、深淵。

「は、ぁっ、、、ぁっ、、、え、、げっ、、、」

 既に肘まで体内に含んだ伯が、苦しそうにその名を呼んだ。

 舌を出し、溢れた涙が頬を濡らす。

「どこに隠しても、封じたそのものを刺激してしまえば、其の記憶、溢れてしまうもの、、、」

 体内を大きく探るように腕を深く入れる。

「いぎッ」

 ひきつけを起こし、痙攣を繰り返す幼い体。

「伯ッ」

 渦巻くその中へと足を踏み込んだ燕倪。

 業丸を突き刺しながら進むその姿に、

「馬鹿な、、、人間が、瘴気の渦を渡れると?」

 眼を剥いた。

 地下深くを巡る帝都の水脈は今、瘴気そのものと化している。

 生身の人間が触れれば、ひとたまりも無く、発狂する。

 そこを、その男は突き刺した太刀を頼りに進んでくるのだ。

 しかし、その足掻き虚しく、

「ぐぬっ」

 中程で足を取られ、そのままズズッと腰まで呑まれてしまう。

「大したものだ。が、それまでだ、、、」

 端正な貌が、冷酷な笑みを刻み、

「ああ、こんなところに、、、」

 胡露は腕に力を込めた。

「あ、、、ぁぁ、、、」

 伯の瞳が、裂ける。

 赤い涙が頬を伝う時、燕倪の高く突き出された手は漆黒の水に呑まれてしまう。

「少々、手間取ってしまいましたが、これで、、、」

 胡露が、勢いよく腕を引き抜いたのは、伯の全身に細やかな亀裂が生じた後だった。

「ぁ、か、、、ぅ、、、」

 まるで卵の殻が剥れるかのように、その身は亀裂が走り青い光が漏れ出した。

「都、鎮まったあかつきには、いかような罰もこの身に受けましょう」

 腕に抱いた水干姿の伯。

 胡露はその体を、悲痛な面持ちで渦の中へと投げ込んだのだった。

 

「ッ、、、」

 ふとその方角を睨み据えた。

 渦に呑まれる直前の、か細く儚い声を聞いたのかもしれない。 

 鋼雨の手綱を絞った蒼奘。

「八火業焔衆」

 金色の炎を纏う鬼神衆。

 陽炎のように宙に浮かび、膝をつく。

「冥府、御苑淵を開け」

 八人の鬼神がそれぞれ印を結ぶと大気が裂け、漆黒の闇が覗く。

「蒼奘」

 その闇の前へと進み出ると、己の名を呼んだ。

 応えるはずなどない闇の向こうが、小波を刻んだかと思うと、闇の彼方から人影。

「帳簿と居並ぶ面々が一致して、久々の余暇だったのに、、、」

 眼を擦りながら現れたのは、白々としたばさら髪の、どこか飄々とした男。

 深い黒瞳が、揺らめく小波の向こうを見つめる。

「久しいね、都守、、、」

 着ているものこそ漆黒の狩衣だが、その面差しは瓜二つ。

「そういえばこの間、無限坂の辺りまで来たんだって?挨拶も無いなんて、つれないなぁ」

「蒼奘、後は任せる」

「後はって、、、僕はまだ、すべてを理解したわけじゃ、、、」

「時間が無い」 

 低く、腹腔に轟く声音。

 鋼雨から降りると、右手を伸ばす。

「僕に体を還して、貴方はどうするつもり?」

 小波の向こうではもう一人の蒼奘が、小首を傾げた。

「汝の友、冥府に流れ着くぞ」

「状況が読めないんだけれどな、、、」

 困ったようなそうでないような、どこか漠然とした表情。

「蒼奘」

 己自身に睨まれて、しぶしぶ左手を伸ばした。

 二つの指先が小波の狭間に、融けた。

「まだ、この世の真理には、程遠いんだけれどね、、、」

 潜るようにこちら側に現れたのは、漆黒の狩衣を纏った蒼奘。

 澱む瘴気に靡く髪を、うっそりと掻き揚げるその背に、闇の中に現れたものは一瞥を与える。

 ― ただ成せ。最後にその櫃を治める場所、知らぬとは言わせぬ ―

 金色の双眸。

 翡翠色の紋様を細やかに全身に刻んだ、白銀の巨獣。

 それが銀の軌跡を残して、闇の向こうへと駆けて行く。

 闇の淵が塞がれると、鬼神の一人が漆黒の櫃を差し出した。

 それを小脇に抱え、ひらりと鋼雨に跨ると、

「心を砕く相手でも、出来たとか?まさかねぇ、、、」

 蒼奘は馬首を廻らせる。

 其の先、御所のある辺り。

 禍々しくも赤々と、噴出す瘴気。

 それと呼応するかのように、震える櫃の蓋を押さえ、

「だめ。」

 鋼雨の腹を蹴る。

「まだその恨み、吐き出してはいけないよ」

 夜都と化した帝都に都守、舞い戻る。

 

 ― ぐっ、、、 ―

 漆黒の流れの中。

 眼も開けられぬ瘴気の奔流。

 その中で、燕倪は途切れそうになる意識を手繰り寄せる。

 握り締めた業丸が、ただ一つの感覚。

 口腔から腹腔へと流れ込む冷たい瘴気。

 ― このままで、終るものかっ ―

 握り締めていた手を、刃へと滑らせる。

 熱く、手首にぬらりと滴るのは、己の血潮。

 それが、唯一四肢とを繋ぐ感覚。

 ― ぬぐぉおおおおッ ―

 気力と共に太刀が振られる。

 手応えなど無いまま、何度も、何度も。

 意識を、痛みで縛りつけた。

 ― 伯ッ ―

 僅かに零れる青い光を頼りに進み捉えたものは、

「ぁ、ぃ、ぃい、、、っ」

 蹲って苦鳴を上げる伯。

 腕を伸ばせば、

 ― がぁあ゛ッ  ―  

 指先が瞬間に凍え、骨の髄に響く、激痛。

 ― はあぁぁくくッ ―

 胸に抱えるようにして、軋む体そのまま、伯を抱きしめた。

「かぁっ、、、ぁぁが、、、、っ」

 伯の体から零れる青い光は強烈で、眩む目を伏せ、痛む体に最後を覚悟した刹那、

「伯」

 その声。

 その声の主を、燕倪は知っていた。

 否、知っているつもりだった。

 意識を手放す寸前、瘴気が晴れる。

 神の光臨に。

 

 燕倪の周りには、金色の輝きを纏う鬼神。

 囲むように佇めば、一帯の瘴気が霧散。

 鬼神の一人が燕倪の肩に触れると、ゆっくりと仰け反りつつ、宙に浮かんだ。

 その腕の中から、

「ぎ、ぁあ、、、ぐぐっ、、ぅっ、」

 青い光を放つ亀裂を、無数に肌に刻んだ伯。

「か、、、かぁぅうッ、、そっ、そ、、ひッ、ぅうっ」

 頬を伝う紫玉。

 いくつもいくつも堅い漆黒の大地の上。

 欠片となって砕け、散らばる。

「ぁぁぁあぅっ」

 力の限り腕を伸ばし、差し伸べた首にしがみつく。

 ― 私を待っていたのか、伯、、、 ―

 頬を寄せると、

「んっ、んッ」

 顔を埋め、しゃくり上げながら呻く。

 銀の毛並み巨虎を思わせる存在が、前脚で優しく体を摩り、そして伯の背に鼻先を近づけた。

 ― お前に、名を還そう、、、 ―

 触れたその背が割れ、光が溢れる。

 ォオォォオオオオオオ、、、

 溢れ出したのは、翠の透明な巨体となり、鱗と紫の背鰭を併せ持った。

 ぐぐ、と頭部を伸ばすと、か細い声を上げ、身震い。

 そして、巨虎に寄り添って項垂れた。

 ― これで、誰もお前を縛ることはできぬ。この狭き大地に縛りつけ、辛い想いばかりを、させてしまったな、、、 ―

 巨虎は、その首の辺りに頬を寄せて言った。

 ― 行くがいい。その名が導くところへ、、、 ―

 その言葉を待っていたのか、巨体が羽を広げるように鰭を動かした。

 深い闇へ。

 その彼方に消えた巨体を見送って、巨虎はようやく燕倪の方へ。

 ― 燕倪、、、 ―

 気を失ったその体。

 それでも放さぬ業丸を見つめ、巨虎は体を低くした。

 燕倪の体がふわりと舞い上がり、巨虎の背に負われると、咆哮。

 瘴気が払われ、開かれたその先へと進む。

 ― 後は蒼奘が、万事巧くやるだろう、、、 ―

 帝都を流れる栖葉川が割れ、巨虎が背に負った燕倪を土手に降ろす。

 銀色の粒子が、燕倪の体を包み込み、ゆっくりと吸い込まれていく。

 すぅ、と呼吸が正常に戻ったのを見届けて、巨虎は開いたままの闇の中へ。

 都を背に立ち止まり、一度だけ振り返った。

「、、、、、」

 見つめた先は、滔々とした栖葉川の流れ。

 彼方に在る大海原を、その金色の眸は映していたのかもしれない。  

 

 鋼雨がその銀の蹄にて、路に溢れる鬼共を四散させながら走り込んだ先。

 己が屋敷であった。

「おや、随分と様変わりしたものだ」

 繁々と屋敷を眺めると、轡を取った者を見下ろした。

「新しい顔だね」

「琲瑠と申します。都守」

「琲瑠、宜しくね」

 蒼奘が櫃を抱えたまま、鋼雨を任せた。

「都守、久闊です」

 汪果が長い袖口を合わせて異国の礼をすると、

「久しいね、汪果。君は変わらないのだね」

 慈愛を含んだ穏やかな眼差しが見つめる。

「主の力が及ぶ限り、我等が老いる事はございませぬ」

「分かっているのだけれど、どうもこの感覚だけは冥府でも捨てられないのだ」

「お察し致します」

 行灯でもって蒼奘の足元を照らし、先を行く汪果。

「この櫃を納めたら、まだ目覚めの時までには時間がありそうだから、少しばかり状況を説明してくれないかな?あちらの暮らしが長くて、どうも、、、」

 淡く微笑み、こくりと頷いた。

 白い玉石を踏み鳴らせば、

「お」

 ふと、片隅に止められた牛車に目が止まった。

「参ったね、いったい今更どんな顔をすればいいのか、、、」

 どこか照れているような、少し緊張したような、そんな苦笑いを浮かべ、蒼奘は渡り廊下へ。

 嗅ぎ慣れた、総檜の芳しい香り。

 飴色に濡れ光る廊下の、素足で感じるしっとりと冷たい感触。

 どれも懐かしく、けれどどれも他人行儀な、己が屋敷。

 寝所のある母屋への廊下。

 その途中に在る来客用の離れに、灯り。

 通り抜けようとして、戸口に控えていた侍女が戸を開いた。

 揺れる部屋の灯火。

 御簾越しにぼんやりと、浮かぶ華奢な女人。

 思わず眼を細めた蒼奘。

「箏葉、、、」

 唇をついて出た、名前。

 振り向いたその顔は、歪んでいた。

 鬱々と日々を過ごす箏葉が、自ら御簾を上げる。

「箏葉様」

 侍女が立ち上がり、手を貸すその前にその眸は濡れ、蒼奘の胸の中。

「蒼奘様っ、、、」

 腕から零れ落ちる櫃。

 床に当たって緩む、紅の綾紐。

「蒼奘様っ」

「箏葉、、、」 

「いったいどれ程、わたしを待たせれば気が済むのです?あなたでないあなたを、わたしは夫と呼んでいると言うのに」

 蒼奘は、腕の中で震えるその人の肩を摩りながら、

「僕ではない僕を、夫と呼べるのなら、僕はあなたを妻と呼ぶ。そう、約束したものね」

 強い力でしがみつくその人の髪を撫でた。

 二人を交互に見やる侍女に、

「何も心配ないから、そなたは、もうお休み」

 穏やかな眼差しで微笑んだ。

 一礼して下がる侍女の背中を見送って、

「何も聞かないでくれるあなたに、僕は甘え過ぎている。苦労をかけるね、、、」

「いいんです。あなたがあなたで居てくれるのなら、いつまでだって待つと己に誓いましたもの、、、」

「箏葉」

 しばしの間、二つの影が溶け合ったままでいるのを、行灯を手に渡り廊下にて控えていた汪果が見つめていたが、

「都守、櫃が」

「あ」

 蒼奘、ふと落とした櫃に眼をやれば、赤い綾紐が解け、長く伸びている。

 見れば、蓋が開いた櫃から覗く袱紗が、濡れていた。

「これは、厄介な、、、」

 点々と庭へと続く紅の染み。

 それを見つめても、蒼奘はただ肩を竦めただけだった。

 

 ― 、、、、、 ―

 闇の中で何かを感じたのか、巨虎は首を擡げた。

 そして小さく呟いた。

 ― 蒼奘、、、しくじったか、、、―

 

 巨影がうねる。

 馬の頭を持つ四腕の鮫龍ウンベク、ウイベルは、手にした三叉の槍を伏せ、膝をついた。

 軋むような声を上げ、闇から姿を現したその巨影は、水の感触を愉しむかのように舞い、ゆらゆらと集まる朧げな魂魄等と共に海面へ上がっていく。

 重く立ち込めた雲が、夜が明けるのを拒んでいるような、そんな空模様。

 体を水面に叩きつけるように飛び出したのは、翡翠色の鱗を持つ、紫紺の背鰭も巨大な存在。

 何度も何度も、水面に体を打ちつければ、空が泣き出した。

 雷雨となって激しく海面を穿つと、その体、海水を巻き上げながら雨の中を舞い上がる。

 無数の魂魄を纏いつかせ、悠々と体をうねらせながら。

 ― おお、ようやくお戻りになられた、、、 ―

 ― 見よ、あの空を舞うお姿、、、喜ばしい限り、、、 ―

 海面にて見上げれば、渦を巻く雲間へと登って行く。

 ― ぬ、、、 ―

 ― どう言うことだ? ―

 巨影がぐぐ、と体を捩ったのだ。

 クォオオオオオオオ・・・

 そのまま身震いして纏っていた無数の魂魄を振り払うと、そのまま雲間に紛れてしまった。

 千切れ雲となって四散するその雲をウンベク、ウイベルはただただ呆然と、見送るしかできなくて、、、

 

「都守、、、」

 珍しく不安気な汪果の表情。

「困った、、、」

 腕に筝葉を抱いたまま、蒼奘が眼を細めた。

「この屋敷自体が結界だから、ここからは出られないだろうけれど、、、」 

「夜都となった今、屋敷に張られた結界は微力。内側に歪が生じれば、簡単に呑まれます」

「あ」

 苦笑していた笑み、次の瞬間深くなる。

 懸念していた事が、起こった瞬間であった。

 凍りつく、汪果。

「破られちゃった、、、」

 緊迫した様子など欠片も見せず、その手は愛しい者の髪の中。

「ひっ」

 怯えたように小さく鳴いたのは、筝葉。

 塀の向こうに、大きな目玉が浮かんでいた。

「筝葉、、、」

 目が合った事により、瘴気に当てられ気を失ってしまったその人の体を抱きなおし、

「せっかくの逢瀬の邪魔を、してくれたね、、、」

 それまで屋敷を避けていた鬼共のいくつかが、結界が破られ、屋敷の存在に気がついたのだ。

 塀、囲い、屋敷、そのものが結界であったのだが、それが一度内側から破られると、そこは彼等の住まう土地と同等になる。

 半透明、粘塊質の巨大な鬼が、這うように体を進めた瞬間、

「だめ。」

 蒼奘が眉を寄せて、拒絶。

 言葉は、無より力を取り出すための、鍵。

 それだけで巨大な鬼は、瘧にかかったように震えはじめた。

「やはり。まだ僕が戻る時ではないから、こんなことに」

 ― 御託はいい ― 

 それは、不機嫌この上ない声であった。

 ― 最後の詰めを誤るとは、都守の名も無いな、、、 ―

「素直に役立たずとお言いよ」

 のほほん、と言うその鼻先の空間が歪んだ。

 闇の中に、巨虎の姿。

 ― すべてが、我の手から滑り落ちてゆく、、、汝のせいだぞ、、、 ―

「それも承知で、僕に手を貸したんじゃないの?」

 ― 黙れ。さっさと我に明け渡せ、、、 ―

 うんざりしたように、巨虎が片手を差し出した。

 駆けつけた琲瑠に筝葉を任せると、鼻から息を吐き出しつつ、手を伸ばした。

 その異なる二つの体が、境界線で揺らめき重なると、背を向けあった二人の蒼奘。

 白い髪が靡き、闇から舞い降りる。

「やれやれ、、、」

 怜悧な眼差しが、辺りを睥睨。

 屋敷の塀や壁を抜けてきていた鬼が、粒子となって宙に散った。

 結界が、張りなおされたのだ。

「都守」

 閉じようとする揺らめきの中で、黒い狩衣の蒼奘が呼んだ。

 一瞥だけを与えた都守へ。

「頼りにしているよ」

 その言葉、背中越しに聞いた。

「汪果」

「はい、主様」

「真の名をもって、その身を解放する。凰火」

 コォォォォオオオオ・・・

 抜け落ちた唐衣。

 その姿はすんなりとした首を持った、炎纏う真紅の化鳥の姿へ。

 紫紺に揺らめくのは、全身に渡る細やかな紋様。

「趣くままに、食らえ」

 ォオオオオォオ・・・

 明らかにそれは歓喜の声。

 四枚の翼を一度窄めると、その体は上空へと跳躍し、滑空。

 雲間から、その神々しくも禍々しい姿を見え隠れさせながら遠ざかった。

「八火業焔衆」

 揺らめく八つの金色の焔の中で、鬼神が膝をついた。

「内側より、外界に張られた結界の強化に当たれ」

 音も無く、散り散りになる。

 それを見送って、蒼奘は門の方へと歩き出した。

 その背中に、

「主様、、、」

 琲瑠の声。

「その女を、頼む」 

 返ってきたのは、そのまま不機嫌そうな、声音だった。

 

「燕倪、本当に、久しぶりだね」

 それまで、秋の山に鹿狩りに出ていたのに、急に耳元で間延びした、それでいて聞き覚えのある声がする。

 振り向けば、色鮮やかに紅葉した森は闇に埋没してしまったのか、辺りは漆黒に包まれていた。

 見れば跨っていたはずの馬も、引き絞っていたはずの矢も弓も、共に駆けていたはずの友の姿も無い。

「燕倪」

 顔を上げれば、

「蒼奘、、、」

 漆黒の狩衣を纏った長身の、よく見知った顔が穏やかに微笑んでいる。

「逢えて、嬉しいよ」

「なんだか、薄気味悪いが、、、俺もだよ、蒼奘」

 死人還りとなる前、確かにその人はどこか飄々として、暢気を絵に描いたような若者であった。

 しかし以後、他人を寄せ付けぬ雰囲気を纏い、目付きや言動も変化した。

 それだけではなく、妙な術も使う。

 当人が蒼奘であるのならそうなのだろうと片付け、気がつけば、昔と変わらぬ付き合いを続けているのは、己一人くらいなものとなってしまったが、

「せっかくの御指名だったのに、少しばかりへまをしてしまってねぇ。彼だけではきついから、君に手伝ってもらいたいんだ」

「手伝う?」

「ああ。ちょうど良かった。ちゃんと持っているじゃないか、、、」

 指された指先を見つめると、右手。

 手の中に、感触。

 白銀に鈍く輝く大太刀、業丸。

「人柱、槇廼尭元は、手足首胴、六つに切り分けられ、さかしまにして都に埋められた。彼は、正午、槇廼尭元が復活を遂げる前に、御所に埋めた胴にかつての大太刀にて、一太刀呉れて封じ直すつもりだったんだろうけど、、、」

「俺が、狂わせたんだ、、、」

「そうそう。で、今度は胴以外を一つづつずらしておいて復活させ、肉体定まらぬ隙を狙って、魂魄に直接一太刀くれようとしていたみたいだけれど、、、」

「へまっていったいお前、何をしたんだ、、、?」

 蒼奘は、肩膝を抱え、闇の中にたゆとい、

「その一つを逃がしちゃってね」

「あ、、、」

 苦笑を浮かべている。

 合点した燕倪に、

「そうするともう、子供騙しは通用しなくなっちゃうんだ。逃げたそいつは、すべての部位と繋がっているし、櫃から出た時点でこちらの手の内は筒抜け。封印は解かれたようなものだから」

「都守が、とんでもない事を、、、」

「各封印は点と線で封じられていたのだけれど、その一つがその点と線を廻ればいとも容易く解けてしまう。槇廼尭元が魔王となって夜都に現れるのは、もう時間の問題なんだ」

「相変わらず、お前の言う事はよく解からないが、、、」

 燕倪、右手に握った柄を引き寄せた。

「とにかく、業丸で斬ればいいんだな」

「うーん、ちょっと違うけれど、まぁ、そういうこと」

「おいっ」

 にっこりと微笑んだその人は、闇の向こうに歩き出した。

「蒼奘ッ」

「君なら分かるよ。ほら、ちょうど迎えも来たようだ。これで役者が揃ったね。夜都となった結界に戻れるのは、大穴を開けられたその結界の縫合部を抉じ開けられる、つまりは当人くらいだから」

「待てっ、、、お前は?!」

 大丈夫。君ならきっと上手くやるよ。

 

「はぁッ」

「っ、、、」

 大きく口を開け、見開いた先に、ぽっかりと月が浮かんで見えた。

 そして、驚いておもわず口元を袂で覆ったのは、

「う、、、羽琶、殿?!」

 跳ね起きた燕倪の目と鼻の先に、紛れもない羽琶の姿。

 まだ所々に白々とした雪が残る川添いの土手。

 枯れ草が茫々と生い茂った一画であった。

「どうして、こ、こんなところに?!」

「燕倪様、、、その、、、」

 言葉を選ぼうとしているところに、

 くんくんくん・・・

「んな、、、?!」

 燕倪の背中辺りから、ほんのり漂う潮の香り。

 鎌首を寄せ、燕倪の胸元に鼻面を近づけたのは、

「いいぃッ?!」

 さすがの燕倪。

 手にしっかと握った業丸を振りかざそうとして、

「いけませぬっ」

 羽琶の細腕に腕を取られた。

 その巨大な半透明の生き物は、鬼にしては酷く優美な曲線を持ち合わせていた。

 つんつん、と鼻先を押し付けてくるその仕草。

「こいつ、、、」

 漂う、どこか空虚で、けれど子供じみた雰囲気。

「ひょっとして」

 かぷ・・・

 甘咬みしたのは、合わせた襟。

 ひっぱられると、ころりと包みが覗いた。

 羽琶がそれを手にすると、包みの中から篠笛を取り出した。

「夜半に、胸騒ぎがしまして外にでましたら、雲間より下りてくるのが見えました。みずはは怯えておりましたが、潮の香りがいたしましたので、、、」

 羽琶は差し出されたその鰭に抱かれ、空を渡って来たのだと言った。

「は、伯?」

 こくり、羽琶が頷いた。

「どうしてまた、こんな姿になって、、、いや、、、これが、お前そのものなのか?」

 チュキュチキィキキ・・・ 

「伯、、、」

 そっと鼻 ― 先なのだろうか? ― の辺りを撫でやれば、大人しくしている。

「何よりも無事で良かった、、、」

 首の辺りを馬にするように軽く叩けば、其れを察したのか、

「あたたた、、、」

 ぐいっと押しのけた。

 ― 伯 ― であったものはそのまま土手を滑るように降りて行き、滔々と水を湛えた栖葉川の川面を覗き込んだ。

 波打ち渦巻いたのは、瘴気そのもの。

 ギリギリギリ・・・

 苛立たしげな音を出しながら、じっとその先を見据え、体を伸ばす。

 ぬらぬらと妖しく濡れ光る紫の背鰭が迫り出し、半透明の表面にははっきりと翠の鱗が刻まれた。

 深紅の鬣のようなものが、尾の辺りまで伸びると、四枚の鰭の内、右前の一つを折った。

「行きましょう。燕倪様」

 何を成すのか、それを語るわけでもなく、羽琶が篠笛を抱いて立ち上がった。

「ああ、羽琶殿」

 鞘に戻した業丸。

 微かに震えるその振動を確かめてから、燕倪は羽琶の手を引いて、その鰭に掴まった。

 左腕に羽琶の華奢な体を抱くと、ゆるりと巨体が前にのめった。

 ぎゅう、としがみつく羽琶の温もりを感じながら、再びあの忌まわしい瘴気の渦へ。

 

 百鬼夜行が練り歩く辻に、赤々と点々と続く血痕。

 尾を引くように蠢くのは、極彩色に彩られた人の腕。

 時折のたうつようにしながら進み、橋の手前で跳ね上がった。

 高く、高く。

 赤々と、青々と、仄白くも黒々と、瘴気が渦巻くと、鬼達が吸い上げられる。

 くるくる、ようよう、、、

 巻き上げられる鬼達の唄。

 オォォオオオ・・・

 その中から漆黒の煙が飛び出すと、勢い良く辺りを駆け巡り、帝都の中枢へ。

 

 青梅池。

 浮御堂の先。

 湖面が渦巻くと湖面が割れ、納めたはずの漆黒の櫃が浮かび上がる。

 そのまま瘴気渦巻く空に吸い込まれると、漆黒の煙となって空を駆ける。

 

 帝都の中枢。

 御所。

 広大なその宮。

 篝火を焚き、武装した検非違使が絶えず弓を鳴らしていた。

 祭壇でもって、祈祷と続ける陰陽師。

 護摩壇にて経文を唱え続ける僧侶。

 見えぬ空に星を追う星読み師。

 その誰もが瘴気に怯え、それでも成すべき事に追われている時だった。

 グググガガガガァァァ・・・

 耳を押さえ、一様に地に伏す者達。

 渦巻く瘴気から、一閃。 

 紅の雷。

 黒煙を上げた場所は、

「み、み、帝はご無事か?!」 

「寝所でお休みでは?!」

 最奥にある寝殿。

「も、もうだめだぁぁぁああっ」

「うわわぁっ」

「持ち場を離れるなッ」

 ばらばらと弓を投げ捨て、逃げ出す者達。

 俄かに混沌としたその最中、漆黒の影が黒煙に飛び込んで蟠る。

 ギゥグゴエゴググガガガッ・・・・

 帝都中に響くは、紛れもない怨嗟の声。

 化生には免疫のあるはずのさすがの陰陽師達も、地に伏す中、

「気をしっかり持て。動ける者は、倒れた者を建物の中へ。鈴の音をけして絶やすなッ」

 凛と響く声の主。

 緋色の戦袍鮮やかな、女武者。

 その弓を背負い、腰に下げた鈴の房を鳴らしながら、片腕で地に伏した者を引きずり上げては軒下へ。

 頭を押さえつつも、他の武者の幾人かが同様に鈴を鳴らしつつ動けぬ者を引きずりはじめる。

「皆、きばれぃいッ」

 弱々しくも弓鳴り、鈴の音が響く中、再度の轟音。

 同じところに再び雷。

 そして、頭を劈くような高い音。

「くうッ」

 さすがに耳を押さえて膝を付く中、

「天部、軒下からでるな。死にたいなら別だがな、、、」

 錫杖の音と、どこか冷ややかな男の声を聞いた。

 重い瞼を抉じ開けた先に、白い髪が、揺れた。

 

 天も地も、禍々しいまでにどんよりとした煙の渦の中。

 風が巻くその中央へと飛び込む黒煙。

 その数、五つ。

 深く抉りつけられた寝所の一画。

 辛うじてその原型を留める黒墨の欄干より、目を凝らせば、赤光が蠢いた。

「槇廼尭元、、、」

 眉を顰めた蒼奘の眼差しの先。

 甲冑を纏い、ばさら髪の大男の姿が浮かび上がる。

 ギィイイイイゥゥグググ・・・

 声にならぬ音を絞りだしながら、腕が伸びた。

 すると靄のような瘴気が晴れ、極彩色に彩られた顔が覗いた。

 ぬめぬめと輝くのは蛇のような光沢を放つ甲冑。

 深緑、橙、群青。

 そして腕、足、首、胴との繋ぎ目から滴るのは、紛れもなく、かつての傷跡から止めどなく溢れる、赤紅。

 落ち窪み、赤光を放つだけの眼窩が、錫杖を手に見上げる者を捉えると、咆哮。

 ひょう、と風が巻いてその体が靄から抜け出し、

「っ、、、」

 蒼奘がよろめいた。

 その左肩に、生首が食らいついていた。

 靄の中には、今だ繋がれずにいる体が、取り残されている。

「邪魔をするな、か、、、月並みだな」

 肩にめり込む牙の感触。

 ギギギギギィギギ・・・

 怨々と喉の奥を鳴らし、肩の骨を軋ませる。

 足場にしていた大地が、めり込んだ。

 瘴気が重力となり、増したのだ。

 鈍い痛みと重みに膝を付く中、白い狩衣が、赤々と染まって行く。

「貴様の怨み、この程度か?」

 蒼奘の左手が伸ばされると、大地がうねる。

 撓りながら迫り出したのは、橘の古木の根だ。

 それは蒼奘の手に触れると、鋭い切っ先を持つ槍と化す。

「この都に在るものを使役できぬで、都守が務まるか、、、」

 今だ、定まらぬ肉体に投擲。

 四肢を貫き、突き出した切っ先は大地を穿つ。

 撓りつつ、大地に縫い止めようと古木は、しかし、

「ぬ、、、」

 次の瞬間、腐乱した。

 首に掛かる重力が、増す。

 前のめりになり、辛うじて錫杖をついた時だった。

「これは」

 彼方で、奏でられる旋律は、、、?

 もの悲しく、響き噎び泣く。

 重みが半減し、赤光を放つ眼窩が、宙を彷徨う。

「おい、、、」

 青い唇に笑みを湛え、蒼奘は赤光を受け止めた。

 深い闇色の黒眸。

 さすがの鬼も、その最果てを見通すが出来ぬのか?

 赤光は、捉われた。

「私が立つこの場所は、絶対浄域。神の末である代々の帝が休む地だ。其処に、その首を埋めたのは、時の結果師の功績であり、今に残る失態、、、」

 錫杖、澄んだ音を響かせた。

「悪いが、もう一度逆しまに、この都に繋ぎとめるぞ、、、」

 蒼奘の右腕が上がると、ばさらの髪を掴んでいた。

 その手と頭部の間には、三枚の札。

「ぐっ」

 力ずくで引き剥がせば、その口に肩の布ごと蒼奘の肉。

 手を放すと同時に札は、両目と口を覆っていた。

 肩を押さえ、見つめる先に、宙を彷徨うその生首。

 

 漆黒の瘴気渦巻く帝都の一画。

 辻であった大地が波打ち、辺りに溢れた鬼共を跳ね除けて空へと抜けたのは、

 ォオォオオォオオ・・・

 優美な曲線。

 長く伸びた背鰭と、緑の鱗を浮かばせた巨体。

「これはっ」

 ぐるぐると上空を回るその前肢に抱かれた燕倪が見たものは、瘴気に煙る夜都。

 眼下に広がる光景は、いたる所で黒煙が上がり、心の弱い者から病んでは狂い、百鬼夜行の列に連なる者達の姿。

「燕倪様っ」

 羽琶が指差した方向彼方には、真紅の輝き。

 紅の炎を纏った化鳥は空を弄い、巨大な鬼共にその屈強な鉤爪をつき立てては食らっている。

 そして、点在する八つの輝く金色の柱は?

「あの光は蒼奘の鬼神、、、だが、あの鳥は、、、」

「鬼を、食べて、、、」

 青褪めた羽琶の声が、震えていた。

 

 その化鳥の眸が、一瞥。

 コォォオ・・・

 静かに宙に停滞した巨体は、微かに声をあげただけだった。

「伯ッ、どこに蒼奘がいるか、分かるか?!」

 くんくんくん、くんくん・・・

 鼻を鳴らし、

 クァォオオオオオッ・・・

 体をうねらせた。

 頬に当たる風の冷たさが増す中、

「怒りを、感じます、、、」

 羽琶が、その手の平を巨体の胸元へ。

 優しく摩る羽琶に、

「怒り、、、蒼奘に何かあったんじゃ、、、」

「もどかしさのような、、、でも、後悔のような、、、あ、、、」

「羽琶殿?!」

 溢れ出すのは、何故?

 その眸から零れる涙。

「ごめんなさい。こんな時に、何故かしら、、、」

 燕倪は、何も言えず、ただ、そのたおやかな手を握った。

「燕倪様」

 止めどなく溢れるそれを、肩袖で押さえた。

「どうして、、、」

 ― 心が、、、ひどく揺さぶられて、、、こんな、、、こんな、、、 ―

 込み上げる、切なさ。

 羽琶は、怖くなって、繋いだ手を握り返した。

 そして、そっとその手を引くと、鹿皮の包みから篠笛を取り出し、唇を寄せた。

 溢れる涙と共に紡がれる旋律。

「羽琶殿、、、」

 燕倪は、焦げ臭いその臭いの先に、

「宮が、、、鳳祥院、、、」

 黒々とした煙と、瘴気に煙るこの国の中枢を見た。

 

 錫杖が、金色の閃光を放つ。

 その度に生首は打ち据えられ、声無く咆哮する。

 靄に煙る体は為すすべなく、しかし、その度に靄の濃さは増してゆく。

 増長する憎悪が、そうさせるのだろう。

「、、、、、」

 飛び散る深紅の雫が、貌に撥ねても、その表情は変わる事は無い。

 鈍い音が響く中、

 ォォォオオオオォォ・・・ 

「蒼奘ッ」

「何故、戻って来たのだ、、、」

 クゥキチチチ・・・

 巨体が、宮中上空に現れる。

 その屋根にべたりと体をつけると、鎌首を廻らせ蒼奘に近づこうとし、

「寄るでない」

 血塗れた錫杖の切っ先を向けた。

 クギュギュ・・・

「燕倪、そこで見ていろ。人の都に必要なのは、他でもない人柱だ」

「蒼奘、、、」

 再び錫杖を振りかざし、返り血に染まる都守。

「この都が、百八十年の間、大した天災に悩まされる事が無いのはな、たった一人の想いがそうさせているのだ。この地に仇為すのは、己のみ。その怨念が結界と生り、退けている」

 淡々と、錫杖を振る。

「封じ直す前に、思い出させねばなるまい。かつての屈辱をな、、、聞こえるか、ここに居るは、土師業鴛が末ぞ」

「蒼奘っ」

「、、、、、」

 怪訝な顔を向けた。

「もうやめろ、、、」

 その先に錫杖を押さえた燕倪が、憮然としていた。

「離せ、、、」

「もう、充分だろう」

「手足をこのまま打ち砕き、再び封じ直す」

「だが、これではまるで、、、」

 ― お前が、悪鬼のようだ、、、 ―

 そう口に出そうとして、

「勝者は都合良く敗者の口を封じ、史実は後から文字として創られ、後世に残る、、、」

 蒼奘が顎で指し示した方へ、眼をやった。

「羽、羽琶殿ッ」

 篠笛を奏でながら巨体の腕を伝って舞い降り、生首に駆け寄る羽琶。

 それを止めようとして、

「何をッ」

 後ろ襟を凄まじい力で引き戻された。

「魔王も、元は人であった。燕倪よ、魔王足るを知れ」

「どういうことだ?!」

「ああ言う事だ、、、」

 札で目と口を塞がれた生首のすぐ前。

 可憐な娘が、長い髪を瘴気によって起こる風に靡かせながら歩み出た。

 その姿が青白い燐光を帯びると、粒子が羽琶の前にもう一人の女を形作る。

 面差し良く似た、しかし、まるで別人だと知れるのは、纏っている衣が、今よりも遥か昔の時代の衣。

 麻の織の衣と、黒々とした髪を結い上げたその女が、手を差し伸べた。

 生首が声無く震え、血涙と共に項垂れた。

 すると首の後ろの辺りから、黒い粒子がゆらゆらと立ち昇り、男の姿へ。

 その眼窩は赤い光が占め、額には一角が突き出し、唇からは人外の牙が覗いていたが、その眸の奥から零れるのは、紛れもない感情の欠片。

 魔王と呼ばれた怨敵、槇廼尭元。

 その中の人であった記憶を、呼び戻せるのは、

「愛智姫、、、」

 愛智姫の手が赤い涙を拭うと、その顔が、穏やかな容貌の男のものへ。

 男は、愛智姫の手を取って、唇を寄せた。

「まさか愛智姫が愛した男は、槇廼尭元、、、だと?」 

「真相は、愛智姫を内に宿した羽琶殿が知っている」

 見れば、篠笛を胸に抱いて、羽琶が咽び泣いていた。

「羽琶殿、、、」

「時間が無いぞ、燕倪」

「なんだと?」

「愛智姫を斬れば、槇廼尭元は再びこの地に縛られる。それができる大太刀は、今、お前の手の中だ」

「、、、、、」

「それで、終る、、、」

 チキキキキ・・・

 巨体が鰭を伸ばし、一行を覆うように抱え込んだ。

 辺りで瘴気の嵩が増した。

 ガガ、ガガガァァア・・・

 角が生じ、牙が覗き、黒眸は赤い光を帯びて、男は両手で頭を押さえて髪を振り乱す。

「斬れ。このままでは、羽琶殿が持たぬ。槇廼尭元が愛智姫を拒絶し真に魔王となれば、この都どころか、全土が鬼に巣食われるぞ」

「くそッ、、、」

 先程から、鞘鳴りが止まぬ業丸の柄を握り締めた。

 頭を抱える槇廼尭元を、抱きしめる愛智姫。

 無言だが、漆黒の眸が燕倪を見つめていた。

 憐憫を、湛えて、、、

「おぉおおッ」

 唇を噛んだ燕倪が、短い呼吸と共に、刃を抜く。

 

 空が、晴れた。

 中天に昇っていた白い太陽で、人々は長い夜の終わりと、厄災が過ぎ去ったのを知ったのだった。

 

「果たして、良かったのか、、、」

 眩しそうに、眼を細めた燕倪。

 その腕には、羽琶。

 傍らには、蒼奘。

 揃って眺める先に、白い燐光が二つ。

 重なり合いながら昇り、やがて、太陽の光の中に溶けてしまった。

「何、心配はないさ。人は、お前が思っているよりも、ずっとしぶとい生き物だ」

「そうだな、、、」

 蒼奘は、空の櫃を拾い上げるとそれを結わえ懐から出した札を張ると、抉れた大地の亀裂へ押し込んだ。

「おい、蒼奘」

「器だけの見掛け倒しだが、案外、効果があるやもしれん。無いよりは、マシだろう」

 業丸の一閃で解放されたのは、二つの魂だった。

 羽琶の中に残っていた愛智姫と、槇廼尭元。

 燕倪は愛智姫の深い哀しみと、想いを知った。

 槇廼尭元の中に眠る孤独を知り、無念を知った。

 そしてその涙にうたれ、大太刀を振ったのだ。

「愛智姫は、この日のためにずっと、この世に留まり続けたのですね、、、」

 篠笛を胸に抱いて、羽琶が微笑んだ。

「羽琶殿、、、」

「槇廼尭元は生来、穏やかな気性の御方。ただ、それ故に心が弱かったとも、、、」

 態良く、側近等に担がれたのだろう。

「愛智姫は、意に添わぬ相手との婚姻の後、一人、娘を産んだと聞くが、、、」

 羽琶は、蒼奘を見つめた。

 白々とした髪を揺らし、頷くと、

「愛智姫が、私の中で教えて下さいました」

 燕倪の手を借りて、立ち上がった。

「愛智姫は難産で死んだとされていますが、その実、お産の床に就き自らに刃を突き立て、取り出したる仔こそ、槇廼尭元が忘れ形見」

「その刃こそ土師業鴛が大太刀で、折れた鋼を研ぎ出したものだったわけか」

「はい。生来見鬼であった愛智姫は、護身用にと桧扇に仕込める小刀を、その鋼で打ってもらったのです」

 そっと、亀裂を手で辿った。

「だが、よく槇廼尭元の子であることを隠し遂せたものだ。普通、生かしてはおかないんじゃないのか?」

「土師業鴛も人の子だ。槇廼尭元が挙兵すると聞くや否や、身近な配下に妹を嫁がせることを決めたのだろう。それが唯一、愛智姫を守る手立てだったのだ」

「帝位定まってすぐに婚儀を挙げたけれど、度重なる戦の傷が災いし、程なく夫まで失った。遠野に庵を構え隠棲したその愛智姫から、どうして子まで奪えましょう?」

「仔を守るため、己が命と引き換えに潔白という偽りを、演じきったというのか。当人の口でなくば、実際、誰の子とも知れぬしな」

「まったく、人の想いとは、凄まじいものよ」

「だが、業丸の対になる刃そのものは、、、」

「ふ、随分と粋な事をした割には、鈍い男だな、燕倪、、、」

「もったいぶるなよ」

 蒼奘が、薄い笑みを佩きながら、

「緋皇」

 金色の輝きを纏った鬼神が現れ跪くのを静かに見つめる。

 視線を注いだ先に、大地の亀裂。

「羽琶殿、退いていられよ」

 後ろに下がると鬼神が進み出て、両手を亀裂の両側へ。

 その深紅の爪が揃って伸びると、そのまま大地に穿たれた。

 深々と手首までをめり込ませると、次の刹那、大地が震動。

 一息に亀裂を塞いでしまった。

「ご苦労だったな」

 再び跪いた鬼神、緋皇。

 金色の輝きと共に失せると、

「刃に宿った退魔の力は、愛智姫の魂と共に代々その仔へと引き継がれていったのだろう」

「それでは、、、」

「魂は解放されたが、今尚、羽琶殿の中に息づいておるのさ」

 肩を押さえたままの蒼奘。

 くんくん・・・

 鼻先を、その肩に近づけたままの巨体へと向き直る。

「私は心配無い、、、」

 キュキュゥ・・・

 項垂れるように鎌首を垂れたその鼻先に、蒼奘は手を伸ばした。

「、、、そうか」

 しばらくその額を撫でやって、

「其を、お前が望むのなら、、、」

 眼を細めた。

「伯」

 そう呼んだ。

 コォォォオオオォォオオ・・・・

 甲高く澄んだ声音。

 その巨体はみるみる縮み、白々とした象牙色の肌を持った。

 鬣は、群青深い髪と成り、鰭は細く華奢な手足へ。

 その体が大地に付くよりも先に、

「痛む所は無いか、、、?」

 片腕で抱き留めた。

「あ、、、あぅ、、、」

 菫色の眸。

「そうか、腹が減ったか、、、」

 微笑むと、その裸躯に燕倪が己の上着を掛けた。

「え、、、エンゲ、、、」

「お前にまた、借りだな」

「あぐぅう」

 強い力で、燕倪に髪を撫でられ、呻く。

「さて燕倪。私の代わりに、もう一仕事してくれるか?」

「おう」

「恩鼓寺へ」

「恩鼓寺?遠野の手前じゃないか。そこに何があると言うんだ?」

「帝がおわす」

 万が一の事もあると、極秘裏に帝を都の外へ落としたのだ。

「よくもあの鳳祥院が都を出たな、、、」

 小声で言えば、

「ふん、あの程度の正義感。どうとでも、、、」

「お前、帝を脅したのか?」

「さて、な、、、琲瑠」

 いつの間にやら細い眼の男、琲瑠。

「車を廻してございます」

「羽琶殿、貴殿も参られよ。煩わしい事に巻き込まれる前に」

「あ、、、蒼奘殿、、、燕倪様」

 蒼奘を見、燕倪を見つめた羽琶。

「遠野には、すぐにでも使いをやらせます。みずは殿も、さぞ心配なさっているでしょう」

「お心遣い感謝致します」

「いえ、こんなことしかできず。心細いでしょうが羽琶殿、俺の友は信用に足る男。帝を都にお連れしたら、直ぐに遠野までお送り致します。それまで、蒼奘の屋敷に」

「伯も世話になった。当方に遠慮はいらぬ」

 戸惑いながらも、― お言葉に、甘えて ― そう羽琶が頷いたのを、漆黒の眸が見つめ、

「都守ッ」

 凛と響く女の声。

 見れば、緋色の戦袍を纏った女武者。

「天部清親、、、」

「帝のおわすこの御所で、一体何が起きたのだ?!説明しろッ」

 瓦礫の中を突き進んでくるのを尻目に、

「燕倪、貴様ッ!!このような一大事に、どこをほっつき歩いていたっ」

「き、清親っ」

 燕倪が襟首を掴まれたところで、

「く、、、ま、待て、、、」

「妖星だと?!嘘偽りも大概にしろッ!御所に群がった鬼共はなんだったんだ?!っそれに、この有様はッ」

「清親っ」

「埒があかぬッ!都守ッ!!ぬっ、、、どこにいった?!」

 燕倪の指差す方。

 そこにいたはずのその人の姿、今はもう忽然と、無い。

 

「い、つっ、、、」

 寒さも陽射しに緩んだ、午後。

 梅香るその庭に面した庇の下。

 諸肌脱ぎの男が、端正な顔を歪めた。

「我慢なさいませ」

 少しばかり憮然と、しかし、どこか穏やかな眼差しの女は、

「このように深い傷、熊と喧嘩でもなさったのですか?」

 箏葉である。

「かぁぁう」

 伯がくんくんと鼻をならし、すぐに涙目になって顔を背けたのは、筝葉手ずから調合し、練り合わせた御山の薬草。

 たっぷりとそれを含ませた晒しを傷口に当て、引き絞っているのだ。

「そなたが、冗談を言うとは思わなかったが、このような事も得意だとは、知らなかったぞ」

「夏になれば御山を駆け、よく切り傷をつけて戻ってきた頃からのわたくしの勤め、、、」

 手馴れたもので晒しの端を咥え、きつく引き絞って結わえた。

「汪果」

「はい。奥方様」

「今の要領で、包帯が汚れたらこれを摺って当てるのよ」

「かしこまりました」

「箏葉様」

 廊下に現れた侍女。

 それに二人ばかり、水干を纏った若者が控えていた。

「御山より、迎えの者が参りました。出立の仕度、万事整ってございます」

 分かったと頷き、漆黒の眸が、蒼奘を見つめた。

「あなたでないあなたに出会えた。それだけでも雪深い中、来た甲斐もあったというもの」

「そうか、、、」

 当人は、目を伏せた。

「筝葉様、、、」

「羽琶殿も、どうか息災で、、、」

 傍らで、晒しを蒔絵の付いた箱に片付けていた羽琶。

「はい。筝葉様も、どうかお健やかに。道中、お気をつけて」

 手をついて、頭を下げた。

「羽琶殿も、、、そうそう、燕倪様は、とても良い御仁ですのよ」

「え、、、」

 はっと顔を上げた。

 幼さ残る可憐なその顔、ほんのり、鴇色。

 単の袖を翻し、踵を返した時だった。

「送ろう」

 低い、鬱々としたいつもの声。

 見れば、袖に腕を通し、肩紐を結びつつ立ち上がった。

 少し驚いた表情は、

「、、、、、」

 すぐ、微笑みに変わった。

 

 ことことこと・・・

 こもり雪の紋の牛車が二台。

「緋皇」

 金色の輝き纏う鬼神が、蒼奘の傍らで膝を折った。

「檎葉の結界まで」

 両手を組んで応じたそれは、そのまま光りとなって上空へ昇った。

「ひとつ、お伺いしても」

「構わぬが、、、」

「あなたでないあなた、と、、、」

 羽琶の呟きに、

「人とは、人が測る以上に複雑に出来ているものだ、、、」

 低い声が、応えた。

 数名の若者に守られながら、箏葉が乗る牛車が遠ざかっていくのを、白い髪の主が二人と、

「あふ、、、」

 羽琶の袖を掴み欠伸の伯が、彼方の辻を折れてなおしばらく、見送っている。

 

 恩鼓寺。

 屈強な門構えの寺はかつて、亡き翠孔天皇の后がその菩提を弔うために晩年を過ごした所である。

 帝都から西にしばらく、皇族の避暑地としても利用されている。

 平素閑散とした山裾にあるこの寺が、俄かに物々しくなったのはここ、ニ、三日であった。

 その警備の中、銀色の雪を蹴散らし、白い息と体表から湯煙を立たせた馬が、寺の門を潜って走り込んた。

「御上」

 武装した武官らが守る、奥座敷。

 御簾を垂らしたその先に、ゆらゆらとゆれる灯火に浮き上がる人影。

 寒々とした寒気差し込む、深更であった。

「ああ、燕倪。それに、清親、、、」

 穏やかな、若い男の声音であった。

 御簾を上げさせ、出てきたのは、蘇芳色も鮮やかな鳳衣を纏った男。

 縁側にて蹲踞する二人に、

「そこは寒いだろう。早く中へお入り」

 さっさと二人を招き入れると、人払いをして戸を閉めた。

 四隅に置かれた火鉢の暖がじんわりと、冷え切った手足を包み込む。

「皆、わたしに伏せているが、民は大丈夫なのかい?」

「多少の被害が出ているが、都守が怪異の方は鎮めてくれた」

「多少だと?御所に雷が落ちたのだぞ?」

「清親、建物は、また直せば良い」

「だが、鳳祥院、、、」

 燕倪と清親は、帝がまだ鳳祥院と呼ばれ、双子の兄と打って変わって、冷遇された幼年期を過ごしていた頃からの友だ。

 当時三人は年頃も、屋敷も、近かった。

「噴出した瘴気のせいで発狂した者等は、陰陽師や星読みが祓って回っているが、幾つか都に落ちた雷で、倒壊した建物の下敷きになった者も多い。人手を出して救助に当たっているが、、、」

「そうか、、、そんな時にわたしはのうのうと、、、」

 俯いたその目の下に、深い隈。

 ややこけた頬。

 彼なりに、帝都を案じていたのだろう。

「だが、正直、御所から煙が上がっているのを見て肝が冷えたぞ、鳳祥院」

「そうだ。私もあの時ばかりは声も出なかった。いったい、どうしてお忍びでこんなところへ?」

 友二人に詰め寄られ、再び顔を上げたその切れ長の眸は、少年のように輝いていた。

「りゅうを見たんだよ」

「竜って、、、」

 話題が変わると、とたんににっこり。

 手振り身振りを交え、二日前に都守が来た事を話し、

「わたしにも見えると言ってね。ちょうど、明日の恩鼓寺辺りが通り道だと」

「見たのか?」

「うん。竜と言うよりも何というのか、、、翠の鱗が遠くにきらきらと見えたけれど、、、ああ、大きな紫紺がかった背鰭が見事で、でもどこかずんぐりむっくりで、滑稽な、、、」

「そのようなもの、この世の中に存在するものか。ん?燕倪、どうした?」

「あ、いや、、、それで?」

「本当に見たんだよ、わたしは。清親、燕倪」

 うっとりしつつ、溜息をつくその人を見つめ、清親は眉を顰めたまま。

「そんな顔をしないでおくれよ。本当なのだから」

 脇息に凭れ頬杖を付き、灯火の頼りない明かりの中、漆黒の眸が穏やかに見つめる。

「わたしも燕倪も武官。鬼や神など、俄かには信じられぬ。まして竜など、、、」

「燕倪は、そうでもないみたいだけれど。ねぇ?」

 当人、腕を組んだまま、まんじりともしない。

「燕倪っ」

「んぁ、と、すまない。何だって?」

「都守とばかりつるんで、最近は、わたしにろくに顔も見せに来ないじゃないか」

「我侭を言ってくれるなよ」

 溜息混じりに吐き出して、

「とにかく、御所の修繕が落ち着き次第、帰ろう。直に後発部隊も着く」

「答えになっていないよ、燕倪。わたしを差し置いて、面白いものをたくさん見ているのだろう?」

「どうなんだ?」

 二人に詰め寄られた。

「今はそんな話をしている場合では、、、」

「この騒ぎ、妖星が近づいた為に引き起こされたとか聞いたけれど、都守と行動を共にしていたのなら、ちゃんと納得できるようにわたしに説明してくれなきゃ」

「うぬぬ、、、」

 腕を組んだまま後退さったところで、遠くに馬の蹄の音を聞いた。

 後発部隊が着いた事を知らせる使いよりも早く、戸に寄ると、

「鳳祥院、清親、実際のところ、俺もよく分からん。都守を召喚してくれ」

「燕倪ッ」

 清親の声を背中に聞いて逃げ出した。

 吹き込む寒気に、清親が戸を閉めれば、くすくすと笑い声。

「鳳祥院」

「分かりやすいんだから」

「ああ。昔から、嘘がつけない男だったな、燕倪は」

 束の間ではあったが、いつかを懐かしむ穏やかな時間が、流れていた。

 

 白い風花が、ちらほら舞う、昼下がり。

 雲が、ゆっくりと流れていた。

 

 枝に可憐な花蕾を散らせたのは、枝垂れ白梅。

 あまやかに香るその枝に、手を伸ばしていた男は、

「蒼奘ッ」

 一直線に歩み寄ってくる者に次の瞬間、襟を掴まれていた。

「ご挨拶だな、燕倪」

 微笑むその男に、

「帝を恩鼓寺に送ったってのは、伯を見世物に釣ったのか?!」

「そうだとしたら、どうなんだ?」

「おまえっ」

 拳を握ったところに、ひやりとした小さな感触。

「エンゲ、、、」

 ずしりときて見やれば、両手を腕にかけてぶら下がる、伯の姿。

「おま、、、少し、太ったんじゃないか?」

 そのまま手を下ろすと、伯は腕を胸に抱いたまま、燕倪にくっついてしまう。

「伯、、、」

 くしゃくしゃと、その髪を撫でれば、

「オレ、それキライ、、、」

 上目使い。

「伯っ?!そ、そうか、そうか。今日はよく喋るんだな」

「、、、、、」

 すぐに口を噤むと、蒼奘の背中へ。

 手を伸ばすその先に、

「夜都となれば、その結界外に出る事は至難でな。それが可能なのは、この都では伯くらいなもの。都が完全に槇廼尭元に掌握される前に、伯だけは逃がすつもりではあったのさ。まぁ、余計な輩が強引にそれを成したがな、、、」

「輩、、、あの獣の耳と尾をつけた男、あれはなんだ?」

「この都が都である以前から、産土である神の眷族。今回の騒動で保険として伯に目をつけたのだ。いずれ、お前も会う事になるかもしれぬ」

「恩鼓寺を通ると言ったのは?」

 手折った花枝を渡してやると、たっ、と母屋に向かって駆けて行く。

「伯の生まれが、その向こう。神体となれば、己が成すべき事を思い出すため、最初の地に還るものだが、、、伯は、戻った」

「あ」

 緩んだ大地に足を取られたのか、伯が転んだ。

「あいつ、案外、どんくさいな」

 むっとしながらも、すぐに起き上がった伯。

 白い水干が泥に汚れていた。

「羽琶姫が勧めるがまま、食事を摂るようになってな。地に、足が着き始めたというのか、、、」

「これからも都で生活するのなら、その方が都合がいいんじゃないのか?」

「そうかもしれん、、、」

 軒先で心配そうに見ていた羽琶の元に駆けつけると、袖で泥がついた枝を拭いてから、差し出した。

「わたしに、くれるの?嬉しい」

 たおやかに微笑んで、両袖で花枝を抱いた。

 その光景を、穏やかな眼差しで見つめている蒼奘に、

「お前も、素直になればいいのに」

「何をだ?」

「昔は鳳祥院に似て、お前が地に足着いていなかった、、、」

「ふん、、、」

「伯が戻って、本当は嬉しいんだろう?」

 庭先に琲瑠が現れ、燕倪に気づいて会釈をした。

 それに手を振って応えれば、

「出立の準備が出来たようだ、、、」

 蒼奘は、そちらに歩き始めていた。

「今から出れば、美津辺りに宿を取れる。明朝に出れば充分昼には、遠野に着くだろう」

「おい。話を逸らすなよ」

「なんなら私が、遠野まで送ろうか?」

「いやいやっ、俺が行くっ!羽琶殿、仕度は出来ていらっしゃるか?!」

 伯の顔についた泥を懐紙で拭っている羽琶の方へ。

 その光景を見つめる蒼奘の傍らに、琲瑠。

「緋皇が戻りました」

「そうか。では、遠野までの警護は、、、」

 オォォォォン・・・

 何処からとも知れぬ、狗の遠吠え。

 真昼の寒空に響くその声を聞けば、蒼奘が青い唇が微かに吊り上った。

「償いの足しにもならんが、、、天狐の連れ合いが、負うと言うのなら、任せてみようか」

「ではそのように、、、」

 伯に手を取られ、土産の入った漆の櫃を担いだ燕倪の後ろ、羽琶が母屋から渡り廊へ。

 門前に用意しておいた牛車に乗り込む羽琶に手を貸し、

「道中、気をつけていかれよ。羽琶殿」

「お心遣い、感謝致します。都守蒼奘様」

 梅の花枝を抱いて、牛車の中へ。

「伯様も、健やかに。また、遠野にいらしてね」

「うわ、、、」 

 こくん、と頷いた伯。

「燕倪、頼んだぞ」

 見上げた先には葦毛の肥馬、千草に乗った燕倪。

 胸を叩きながら、

「ふんっ、任せておけよ。さぁ羽琶殿、参りましょう」

 鼻息荒く、ゆるゆると動き出した牛車の傍らに寄り添った。

 往来に消え行こうとするその姿を門前で見送っていれば、

「ふぉぉおっ」

 伯が、小さな犬歯を剥いた。

 右前脚に赤い布を巻まれた白い大きな狗が、上目遣いで現れた。

「かぁぅぅぅううっ」 

 菫色の双眸を見開いて、前に出ようとした伯の肩を掴み、

「いぁぁっ」

 抱き上げれば、狗はたっと駆けて、早々と活気取り戻しつつある往来に掻き消えた。

「赦せ、伯。全ては、私がいたらず招いた結果だ」

「まううう」

 がじがじと肩の辺りを噛むその髪を撫で、

「呑もうか、伯。お前の好きな梅の花を愛でながら、一晩でも、二晩でも、付き合おうぞ」

 宥めながら、母屋へと消えていった。

 

 開け放たれたままの門を閉じていた琲瑠がふと、顔を上げた。

 先ほどまで晴れていた空が、薄雲に覆われ、ちらほらと白いものが舞い降りる。

 思わず微笑んだのは、頬に当たって溶ける雪に、懐かしい海の香りを微かに感じ取ったからかもしれない。

 

 薄雲は、見る見るうちに、本格的に雪を降らす厚い雲へと変わっていった。

 今尚、傷跡を残すこの都を、真っ白な雪が包み込んで行く様に、、、


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