第拾ノ伍幕前 ― 滝守 ―
血濡られた歴史を、白き霧で鎖す、哀しき里が在った。雪解けを待っての来訪は、里の滝守の願いを、果たすためでもあった、、、
死人還りの都守蒼奘、業丸を継ぐ武官燕倪、幽身であるがこの世に縛られた伯。それぞれが紡ぐ異国絵巻、第十伍幕前編。。。
霧が、たち込めている。
白い濃霧。
目を離せば、すぐ先を行く背も、見失ってしまうだろう。
陽の光も遠い、白い世界。
刻々と変化するのは、青々とした葉を茂らせ、透明な雫を、つつましく結んだ木々だ。
それらが行く手を阻む中、不規則な馬蹄が響く。
先を行くのは、毛並も見事な葦毛。
後方を行くのは、漆黒の体躯に真紅の眸の異形の肥馬。
二頭からやや遅れて、一回り小柄の月毛が続く。
一歩一歩と、歩みを進める度に、霧が深くなっているようでもあった。
道なき斜面を進み、大きな岩の間を抜け、小川を渡る。
ろくに休まず歩いてきたのか、さすがに馬にも疲労が窺える。
首を振り振り、道を急くのが、葦毛。
時折、道を示すかのように、低く鳴いて窘めたのは、漆黒の肥馬であった。
川の音が近づいてきた。
一行は、蛇行を繰り返す急流に、出た。
急流に添って、上流へとしばらく上る。
聳えるように、白くなめらかな巨岩が、幾つも姿を現し始めた。
岩場に脚を取られ、躊躇する葦毛の傍らを、漆黒の肥馬が通り過ぎた。
葦毛よりも、体は一回り、大きい。
大きな岩から、岩へ。
飛び移っては、もっとも川辺へと突き出している、巨岩の先端へ。
ブルッ…ブルルル…ッ
腑に落ちないと言う足踏みに、
「飛び石が、流された、か、、、」
乗っていた主が、目を眇めたところであった。
「帝都でも雨が続いたからな。山間のこの有様、無理も無い。後は、この山を迂回するしか、、、」
葦毛を労いながら、傍らに馬を寄せると、
「、、、いや」
対岸の彼方を見つめていた相手が、青い唇の端を、吊り上げたところであった。
「おいおい、この急流、泳いで渡るつもりか?」
葦毛に乗っていた男が、濁流を、憮然とした面持ちで、睨む。
― こりゃ、さすがに、千草でも、、、 ―
飛び越えるには距離があり、泳ぐにしては、流れが速すぎる。
それでまで、男の膝で、大人しく馬の鬣を結んでいた童が、
「、、、、、」
ふいに、身を乗り出した。
その人差し指が、上流を指し示す。
「ん?」
よくよく目を凝らせば、遥か上流の対岸で、人の形をした【霧】が、幾つか動いた。
その一つが、こちらに向かって、手を振った。
それは、紛れもなく【人】そのもので、
「おおっ」
懐かしさを隠しきれない様子で、大きく手を振り返した。
それから程無く、
「何するつもりだ、あいつら?」
【何か】が、樹海から岸へと運び込まれ、無造作に川へと投げ込まれる。
やがて、濁流に揉まれつつ、一行の前へと流れてきたのは、伐り出されて間もない、青々とした葉の茂った樹木であった。
それらが、巨岩と巨岩の間に挟まる。
さらに、もう一本。
また、もう一本。
最初に引っかかった枝ぶりも頑丈な橡の木に、次々と引っかかって行く。
ついには、
「即席の橋、ってわけかよ」
やや水が木々の上へ乗り上げぎみだが、足場ができた。
「あれは、、、?」
二頭の後ろをついてきていた、月毛。
その背で若者が、霧に掻き消えてゆく人影を見送って、問うた。
「ああ、白霧の里の若衆だ。里を知らぬ者らが、悪戯に迷い込まぬように見回っているのさ。彼らがいるって事は、里は、もうすぐってことさ」
「もう、すぐ、、、」
若者は口に出して、川の向こうを見つめた。
「、、、、、」
白霧がたちこめた樹海が、変わらず広がっているだけであった。
― この先に、帝の直轄地が、、、 ―
慣れない馬での、旅。
ところどころ痛む、体。
同行している幼子が何も言わぬのに、医官の自分が弱音を吐いてどうするのだ、自分を叱咤する。
ただ、それだけで精一杯で、ここに至った。
今更、込み上げる、不安。
思わず背に負った包みを、弄った。
布越しに、手に伝わる書物の感触。
「ふ、ぅ、、、」
それは、新米の医官で自分が、寄るべきものだ。
不思議なもので、たったそれだけで、胸の痞えが、溶けてゆく。
視線の先。
濁流に、今にも押し流されそうな即席の橋を、漆黒の肥馬が渡る。
その鞍上にて、
「行くぞ。川の機嫌を、損ねぬうちにな、、、」
白き髪の異形の男が、白霧の誘いを受けて一行を、促したのだった。
無事に、帝都からの使者一行が、濁流を渡り終えたのを見届け、
「すまない。先に里に戻る」
振り返った。
麻で織り紡がれた、揃いの白き衣。
見るからに屈強な男らが数人、佇んでいた。
「ああ。後は、任せておけよ、呉巴」
「お前さ、もう少し、俺らを信用しろって」
「そうだよ。兄貴達もいるし、結界だってある。それに、里の民の大半が、先見に夢見だ。自分達の身は、自分達で守れるんだから」
口々に言われてしまえば、苦笑するしかできなくて、
「ああ、そうだったな。では、よろしく頼む。斑鳩、鎖爬斗、矛斐」
二十歳を幾ばくか越えた若者が、一足先に、樹海のその奥へと、歩み去って行った。
その姿が、衣と同色の霧に溶けて行くのを見送って、
「青褪めた顏、しやがって、、、」
一人が堪えきれず、呟いた。
「斑鳩、、、」
仲間の窘めにも、その気は治まらず、
「心の整理ってもん、できてんのかよ。何でも一人で決めちまいやがって」
ぎりり、と奥歯を噛み締める。
その厳つい肩を叩いて、
「ま、俺たちは俺たちで、見届けよう」
一際長身の若者が、大きく伸びをする。
「相変わらずの楽観、だね。鎖爬斗兄」
少し離れた岩に、腰を下ろしていた年若な少年が、男を見上げる。
その傍らでは、斑鳩が逞しい腕を組んで、
「こんなところで油売ってねぇで、俺は見回りに行くぞ」
そっぽ向いたところであった。
肩を怒らせ、樹海へと消えゆくその背を追いかけて、
「待ってよ、兄貴」
弟分の矛斐が、駆け出した。
一人、川辺に残されたのは、鎖爬斗。
凍える程に冷たいその流れに、
「、、、、、」
片腕を、差し入れる。
何かを撫でるような仕草をすると、何事もなかったように立ち上がり、踵を返す。
程なく、少し下流で、木々が擦れる鈍い音が、した。
一際大きな流れが、大波となって木々を一呑みに、押し流したのだ。
背中越し、その轟音を聞き届けると、鎖爬斗は二人の後を追いかけるべく、樹海へと歩きだした。
しっとりと、肌に冷たい白霧が吹きつける中、
「皆、想いは同じ。ただ、やり方が、それぞれ違うだけなんだから。そうでしょう?滝守、、、」
どこか哀しげに眸を伏せて、ひとりごちた。
白々として薄暗い、空の下。
斑鳩に向かって言っているとも、自分自身に言い聞かせているようでも、あった。
四方八方を深い山に囲まれた、けして、地図には【記されることなき里】が、あった。
山々を知り尽くした近隣の村々の猟師らでさえ、その正確な位置は分からず、生半に近づくことなかれと、先人から言い含められている者がほとんどだ。
【その里】は、今、芽吹きの時を、謳歌していた。
身を寄せ合うようにして佇む、民家。
田圃には水が引かれ、植え付けが済んだ新緑の間から、陽射しを受けて小波が眩い。
その間を、風が奔り、影が一つ、横切っていった。
獲物を見つけた、隼の滑空。
抜けるような青空の下、賑やかな声が、する。
「来たッ!!来たよっ」
「早く早くッ」
「お馬の音が聞こえてくるよっ」
子らの笑い声だ。
木陰や草叢、木の上、石垣の向こうから、着物の裾を翻し、子供達が現れた。
「夢でみたね」
「昨日、見たね」
「あたしも、見た」
「ぼくも見たよ」
一斉に駆け寄ると、
「もうすぐ、もうすぐだねっ」
「いろんなお話、聞かせてもらうんだ」
「でも、難しいお勉強は、いやだなぁ」
思い思い口々に言っては、子供達が笑いあう。
そのまま一団となって、斜面に伸びた杣道を、覗き込むことしばらく、
「ようやく、霧が晴れたな。不思議なもんだ。ここだけすっぽりと、お天道様が覗いているんだからなぁ」
目的地に到着し、さすがに気が抜けたのか、あくび混じりの声が、聞こえてきた。
「、、、蜘蛛の巣が、髪についているぞ」
鬱々とした忠告に、己が髪を掻きやれば、手にべたつく感触があった。
「あーあ。、、、と言うか、道中思ってたことなんだが、なんでお前が先に行かないんだ?普通、案内が先を行くってもんだろ?」
「誰が、決めた、、、?」
「、、、もういい」
『今更だった』と鞍上で脱力しつつ、蔦を這わせた木製の門を、潜った。
視界。
急斜面の連続だった獣道が、一転、なだらかな傾斜の杣道へと姿を変えた。
薄暗い霧の樹海の果てに、整然と、新緑眩い田畑が広がっている。
その杣道に、三頭の馬が姿を見せると、
「夢で視た通りだっ」
「えんにいちゃんだッ」
待ちわびた子供達が、我先にと走り出した。
随身役を務め、先を歩いていた葦毛の肥馬から、たまらず降り立ったのは、
「おおーッ、みんな、久々だなぁっ!!筑紫、迅兎、千鳥丸に椰枝、どれ、去年よりも大きくなったか?!おうっ、一稀、兄ちゃんはどうした?!」
備堂燕倪。
子供らに駆け寄り、両手に抱き上げては、いっせいに口を開く子供らの声に、にこにことして頷く。
続いて、
「皆、息災のようだな、、、」
白い髪を肩に垂らし、白袍を纏った男が、馬を寄せた。
「せんせっ」
「先生、いらっしゃい」
燕倪の腕から、子供達が精一杯の挨拶。
この時ばかりは、闇色の双眸が穏やかに眇められた。
「蒼奘。子供達にその仏頂面は、よくないぞ」
「、、、、、」
燕倪にだけ、冷ややかな一瞥を与えると、そのまま子供達の一団を抜け、最奥の民家へと【鋼雨】を、進めた。
その背を見送って、
「あれぇ?一人、多いよ?」
「子供、、、子供だぁっ」
背中に隠れるように座っていたもう一人に、気が付いた。
顏を見合わせる子供達の頭に、手を置いて、
「ああ。去年は、連れてこなかったからな。伯って言うんだ。多少人見知りするが、一緒に遊んでやってくれよな」
【また後で】、と千草の手綱を手に、歩き出した。
前方では、白い背中が、人々に囲まれているところであった。
遥か、頭上。
白く輝く太陽が、眩しかった。
後ろに続く、もう一頭の馬。
振り返ったところで、
「いいところだろう、医官殿?」
落ち着かなげに辺りを見回している若者に、問うた。
「あ、、、はいっ」
少し恥ずかしそうに、肩を竦めつつも、大きく頷いたのは、
「しかし、奇遇だな。あれは、いつだったか。遠野の先の検問で、足止め食ってたお前さんが、まさか、宮中に転属になってたとはなぁ」
まだ年若い、いつかの医官であった。
「郡司様の推挙があってこそです。まだまだ新米ですが、こうして、都守と左少将に同行させて頂けるなんて、なんと言う誉れでしょう」
そう言って、胸の前で手を合わせる様子に、
― 【鬼の里】ってだけで、貴族の子弟らは震えあがっちまうから、お前さんには可哀そうだが、大抜擢というよりも、呈の良い人身御供と言ったところか、、、、 ―
燕倪は、無言で苦笑した。
二人の間を、黄色と白の胡蝶が、横切って行った。
ひらひらと、風に弄われながら新緑の園を舞う、その姿。
幾分冷たい風も頬に心地良く、春を謳歌する鶯の声が、聞こえてくる。
畦道には、山から下りてきたのか、雉の姿。
今年生まれた雛らとともに、餌を探すのに忙しそうだ。
大きく伸びをしながら、深く息を吸い込む。
大地の香りが、肺腑を満たしてゆくのを感じながら、
― 霧が晴れると、どことなく、遠野に似ているなぁ、、、 ―
そんなことを思えば、ついつい目尻が下がって、笑みが毀れてしまう。
帝都の喧噪からほど遠い、この里。
仔細あって、容易く訪れることはできないが、それでも、どこに行っても変わらぬ子供達の笑顔は良いものだと、燕倪は思うのだった。
田畑の向こう側。
寄り添うようにして、山々の裾野に連なる、茅葺きの屋根。
桑の垣根には、薄紅色した小さな咲き、最奥の屋敷へと続いている。
馬を預け、敷き詰められた石畳を行けば、
「むぁ、、、」
水の音が聞こえてきた。
それまで、物珍しいのか、垣根を覗き込んでいた伯が、少し先を行く蒼奘の元へ。
袖を引いて、
「、、、、、」
深い黒瞳でもって見上げて、問うた。
「この先にあるのは、長の屋敷だ。その裏手に、滝がある、、、」
「たき、、、?」
正面から目を凝らしても、張り出した木々の枝が邪魔をして、目視することはできなかった。
ただ、水の匂いはするらしく、鼻先をしきりにひくつかせている。
そこへ、
「白霧の里の七霧滝は、帝都の阿智川の源流の一つとも、言われているんだ。水が、生まれるところってな」
追いついた燕倪と医官が、合流。
「みず、、、うまれ、ㇽ、、、」
「ああ。ちょっと寄り道だ。ほら、伯、こっちこっち」
燕倪が先を行き、脇道へ逸れた。
石畳の脇に溝が設けられ、燕倪が指を指す。
伯が覗き込めば、
「ふぉ、、、」
調度、そこから水が沁み出し、張り巡らされた溝によって、各家々へと導かれていた。
「こっちも見てみろよ」
少し先で、燕倪がまた、手招いた。
道端に、石の囲いができていた。
同じように覗き込めば、
「ゆーせん、、、?」
水が、湧き出しているところであった。
「ああ。湧泉だ。耶紫呂の屋敷に、あるだろ?あれと一緒さ」
そう言って、燕倪は、手で水を掬う。
そのまま、飲み干して、
「うん、甘いっ」
口を、手の甲で拭った。
伯も真似して、手を伸ばす。
肌を刺すほどに冷たい、水。
そっと口をつければ、
「ふぅ、、、」
思わず、吐息が漏れた。
まだ暗いうちに帝都を出、馬の背に揺られること、道無き山を、丸一日半。
乗っているだけとは言え、幼神である伯も、消耗するものはする ―――、ようだった。
そんな伯の頭を、当人が嫌がるのも構わず、大きな手で撫でて、
「とりあえずは、こんなところか。よし、戻るぞ」
「うー」
燕倪は伯を連れ、蒼奘と医官の元へ。
葉を茂らせた、山桜の木々の並木。
一行は揃って、その先にある簡素な造りの門の前に、立った。
「ここが、里の長の屋敷だ」
蒼奘が、医官に短く告げると、
「お待ち申し上げておりました、都守。それに、少将。長旅、お疲れでさまでございました。堅苦しい挨拶は、抜きに、お上がりくださいませ。さ、そちらの医官殿も、、、」
腰の曲がった翁が一人、屋敷の扉を開き、現れた。
医官の背筋が、伸びる。
挨拶をすべく、緊張した面持ちで、
「あ、白霧のお、、」
「待て待て。この方は、副長殿だ。長はな、別の方だぞ」
「え?」
燕倪に、手で制された。
苦笑を浮かべたきり燕倪は、翁の背に続いて屋敷に上がった蒼奘の後を追った。
自然、医官も後に続く。
薄暗い、屋敷であった。
ひっそりと冷たい大気で満ち、飴色に磨かれた床は、僅かに濡れているように見えた。
「おぁー」
蒼奘の袖を掴んでいた伯が、辺りを見回しながら、声を上げた。
仕切りの無い、部屋。
そこここに、水の音が、反響していた。
「これは、す、凄いですね、、、」
すぐ後ろにいる医官の感嘆の声に、
「まったくだ」
燕倪が笑いながら、賛同。
床下からはせせらぎが、天井からは飛沫によって結ばれた雫が、一滴一滴したたり奏でる、音色。
そして、真正面からは、力強い滝の轟音。
苔生した庭石らは、滝の水飛沫によって、煙って見えた。
ぐるりと屋敷を回り込むように、庇の下へ出る。
先にある角を曲がると、
「なんと、、、っ」
医官は、おもわず足を止め、その光景に、息を呑んだのだった。
「平素は、二,三からなる細い滝でございますが、長雨の後、顕現される白霧の里の【本質】、とでも申しましょうか。七霧滝でございます」
しゃがれた声でもって、副長が説明した。
雪解け水が、剥き出しになった岸壁から沁み出し、幾筋もの滝となって、滝壺へと流れ落ちている。
その数が、ちょうど、七つ。
飛沫で煙る滝に、陽が差し込んで、金色の虹が架かってみえた。
「ぁ、、、ふ、、、」
小さい欠伸が、聞こえた。
水の音に同調したのか、伯が目を擦っている。
眠たそうだ。
「伯。挨拶済むまで、我慢しろよ」
燕倪が小声で言えば、
「、、、、、」
こ、、、くり、、、
かろうじて、頷いてみせた。
先を立っていた翁が、
「滝守は、あちらに、、、」
そう言って、脇に退いた。
石造りの小さな四阿屋が張り出すそこに、人影があった。
年若い医官の口から、
「白、い、、、」
思わずといった呟きが、漏れた。
立ち止まったその視界を、蒼奘の白い背が、遮った。
しばし、呆然とした医官の肩を、
「若人、頭で考えるな。見たままを受け入れろよ」
燕倪が叩いて、先を行く。
その苦笑は、無理も無い、と言いたげであった。
初めて訪れた際、燕倪も、医官と同じ反応をしたのかもしれない。
「あ、は、、、はいっ」
我に返って、医官は、二人の後を慌てて追いかけた。
一方、
「お、、、」
それまで袖を掴んでいた伯が、一足先に、駆け出した。
水飛沫で煙る浮橋を渡り、その人の元へ。
石でできた長椅子に寄り掛かるように、滝の音に耳を傾けていた長である【滝守】が、振り向いた。
「どうりで、水音が騒いでいると思うた。その潮騒の波動。そなたじゃな?」
「んー」
小首を傾げた、伯。
その頬を、冷たい手が、包み込む。
「ほほほ、、、これは、眼福」
さらりと、総角に結った真白の髪が、肩から流れた。
同じように、白い肌。
長い睫が揺れ、こちらを見つめるのは、右に金、左に銀。
毀れんばかりの、鈴張り目であった。
淡い翠の光沢を放つのは、山絹で紡いだ衣に、裳。
肩に掛けているのは、蜉蝣の羽根のように透ける、薄い領布。
年の頃と言えば、せいぜい五つ、六つ。
伯よりも、ずっと幼い童女の姿で、医官の目には、映った。
「うー、、、むー、、、」
その童女に頬を包まれたまま、顏を覗き込まれている伯が、さすがに呻き声を上げた。
しかし、当人はどこ吹く風だ。
「懐かしいのぉ。潮騒など、こうして聞くのは、いつのことか、、、」
遠い眼差しで、伯の事など、気にする様子すらない。
その【童女】に、
「白霧の滝守、彗鼓殿。息災のご様子、何より、、、」
「帝都より、今年も参りましたぞ。久闊でございます、彗鼓殿」
蒼奘と燕倪が、声を掛けた。
「お、、、あっ」
一瞬、気が逸れた隙であった。
伯が、首を振って、逃れた。
そのまま、距離を置けば、
「どこに、行ったのじゃ?もう少し、聞かせて欲しかったというに、、、」
不満げに唇を尖らせた、白霧の【滝守】、彗鼓。
辺りを見回す様子に、
― お、お目が、、、見えて、、、 ―
医官は、眉を寄せた。
伯は、浮橋のところに立っている。
彗鼓からは正面だ。
彗鼓の視線は、宙を彷徨っていた。
やがて、細く息を吐くと膝に手を重ね、
「悪路を遥々、よう来てくれた。都守、少将、それに、、、」
色違いの双眸が、ゆらゆらと、こちらを見つめた。
眼が、合っているわけではない。
ただ、気配を辿っているようだった。
慌てて背筋を伸ばしたが、
「あ、あ、、、ご挨拶が、遅れました。医官の伊那瞪樹と申します」
案の定、声は裏返った。
思わぬ緊張感に、心臓が、早鐘を打つ。
道中、死人還りである蒼奘と共に在ったが、ここへ来て、更にもう一人を前にすれば、さすがに平静ではいられない。
それほどまでに、この白霧の里の情報は、少なく ――― 、
「伊那どの、か。よう、参ってくれた。この地は、かようなところにある故、病ともなれば、なかなか難儀でな。里に自生する薬草で対処できればと、兼ねてより都へ願い出ていたのだ。じきに案内の者が戻る故、後程で、薬房へ、、、」
「は、はいっ」
――― 、それほどまでに童女は、美しくも人外の【何か】を、纏っていたのだった。
滝の音も近い、村長の屋敷の離れ。
簡素な造りであったが、燻された檜に、実に趣きがあった。
「、、、、、」
縁側に腰を下ろし、伯が足をぶらぶらとさせている。
させながらも、視線は、庭先に現れた若者に注がれている。
「お変わりなく、何よりでございます。都守、少将」
うやうやしく、膝をつくのを、
「よせよせ、呉巴。せっかくの霧衣が、汚れちまうぞ」
燕倪が、相変わらず堅いやつだと、止めさせた。
苦笑しつつ顏を上げたのは、川の上流で顏を合わせた相手であった。
赤みが強い、短い髪。
透けるように、白い肌。
彫深く、鷹のように鋭い双眸は、翡翠の深緑。
霧の中でも目立たぬようにと、麻で織られた白い衣を、纏っている。
「瞪樹、呉巴だ。この里の若衆を束ねている」
「宮中より派遣されました、医官の伊那瞪樹です」
「伊那どの。我ら、里の民は等しく白霧を名乗ります。どうぞ、呉巴とおよび下さい」
「なれば、僕の事も、瞪樹と、、、」
そう請うて、笑って会釈を交わした。
大地に伸びた呉巴の影法師に、一回りも二回りも小柄な人影が、並んだ。
「あの、こちらは、、、」
能面のような顏で、じっと見上げられている。
「私の連れだ。水神の末でな。伯と言う、、、」
蒼奘の言葉に、呉巴が腰を折った。
視線を合われば、
「さようでございましたか。ご挨拶が遅れました。水神様、、、」
「ん」
気が済んだのか、伯は、縁側に戻って腰を下ろした。
呉巴と共に、一度、預けた馬の様子を見に行き、少ないながらも幾らかの荷物を運んだところで、
「さて。随身の俺の役目は、ひとまずここまで、だ。これから、お前はどうする?」
大きく伸びをした燕倪がまず、蒼奘に問うた。
草履の鼻緒を確かめ、
「、、、里の自然結界を、検めてくる」
「おう。随身は要りようで、都守?」
揉み手しそうな勢いの燕倪に、冷ややかな闇色の一瞥。
「、、、夕暮れには、戻る」
立て掛けておいた錫杖を手に、蒼奘、煩わしいとばかりにさっさと歩き出した。
その白い背中を見送って、
「で、お前さんは?」
「え、あ、、、僕は ―――、」
一際大きな荷を解いていた医官、瞪樹は、燕倪を見、すぐに、手元に視線を戻した。
書物の山が、できていた。
「これを、薬房に届けてから、少し、里を見せていただこうかと、、、」
「へぇ。【倭生薬全書】か、、、」
燕倪の手が、一冊を取り上げた。
分厚い綴りを捲ると、簡単な薬草の挿絵に、見分け方や効能が記されていた。
「こりゃ、紙が妙に新しいな。、、、って、これ、まさか、、、」
燕倪の鈍色の眼差しに、瞪樹は肩を竦めつつ、頬を赤くした。
「やっぱり、分かりますよね。原本は、持ち出しを禁じられていますから。これは、写しのそのまた写し、なんです。まだまだ、ありますよ。養静録に、薬餌法を記したものも。えっと、これとか、、、」
「えらい荷物だとは思ったが、これも全部、写しの写しか?!」
数十冊は下らない書物の山を指させば、
「はい」
瞪樹は、はにかんだように笑って頷いた。
「ほー。若いのに、大したもんだなぁ、、、」
手にした一冊を戻し、燕倪、おもわず感嘆のため息だ。
瞪樹は、照れ臭そうに首を振り、
「駆け出しの僕にできることは知れていますから、できることを、精一杯やるだけです」
何冊か取り出した後、いまだ一抱えはある大きなその包みを、華奢な肩に背負った。
「お、っとと、、、」
「おいおい、ふらついているぞ。慣れない馬での道中だったからな」
燕倪が手を貸そうとするのを、
「だ、大丈夫です、少将。これくらい、なんとも」
瞪樹がやんわりと断った。
ふらつきながら、
「僕、も、夕暮れには戻りま、すかっ、、ら、、、わっ、とと、、、」
瞪樹は、呉巴を待たせている門へ向かっていった。
「さてさて。それじゃ、俺も、、、」
体を捩じり、固まった筋をほぐしながら、
「、、、、、」
視線を感じた。
直ぐ足元を見れば、
「、、、、、」
物言いたげに見上げてくる、黒瞳とぶつかった。
「伯、お前、あいつについていかなかったのか?」
「ん」
「それじゃ、俺と来るか?子供達のとこだけど」
しばしあって、
「、、、ん」
、、、こくり
伯が、小さく、頷いた。
昼下がり。
柔らかな乳色の光が、明り取りにと設けられた天窓から、差し込む
ごり…ごりり…ごり…
腰の曲がった老婆らが数名、薬草らを擦る規則正しい音も、耳に心地良い薬房に、
「瞪樹殿」
静かな声が、響いた。
「あ、ああ、すいません。目新しいくて、ついつい、、、」
呆けたように口を開け、室内を眺めていた若者は、恥ずかしそうに首を竦めてみせた。
天井や床、竈の向こう、壁に打ち付けた棚といい、足の踏み場も無い程に、所狭しと居並んだ薬草。
思わず目移りしていた医官、伊那瞪樹。
戸口に現れた相手は、案内してくれた若者、呉巴であった。
苦笑しつつ、
「文献でしか見たことのないものばかりで、正直、驚いてしまって。話には伺っておりましたが、この里は薬草の宝庫ですね」
思わず、二の腕の辺りを擦った。
何度も何度も読み返した、文献。
そこから抜け出したものが、幾つも在る。
宮中の薬房でも、まだまだ駆け出しの医官が、おいそれとお目にかかれぬものも、豊富に積み上げられているのだ。
その喜びに、総毛立っていた。
平素、鷹のように鋭い深緑の双眸に、穏やかな色が、宿った。
「陽が傾く前に、薬草園にご案内しましょう。霧が深くなれば、わたしどもとて、道を誤りますので」
「そ、そこには、ここの薬草が、栽培されているんですよね?!」
【薬草園】から後の話は、耳に入っていないのか、瞪樹の眸が子供のように輝いた。
「どうしても根付かないものもありますが、大抵の薬草は、揃っております。興味がありましたれあ、天候が許す限り、里周辺に自生している草木の紹介を兼ねて、多様な鉱物が採れる祠にも、案内致しましょうか、、、」
「あああぁ、ぜひぜひお願いしますっ」
「こちらです」
老婆らに一礼し、その背に続き、外へ出た。
民家の外れにある、薬房。
裏手は、小高い丘陵が続き、二人は土が盛られた細道を、登り始めた。
その脇を、しょろしょろと、水が流れている。
澄んだ水面に、鮮やかな朱が映えている。
過った人影に驚いた沢蟹らが、岩の隙間へと隠れるところであった。
石で組まれた、段々畑を左手に、
「どなたが、手入れされておられるのですか?」
問えば、
「子供達ですよ」
「え?!」
思いもよらぬ返答が、反ってきた。
瞪樹に大きく頷くと、
「我々は、畏れ、忌み嫌われる存在。人と違う、ただそれだけで捨てられ、または、神々への供物などの口実で殺されもします。霧に守られたこの隠れ里から、外界に触れるとすれば、【怒りよりもまず、許されることから】との、先人の教えでございます」
畝に添って整然と草が取られ、あるいは、添え木も新しい、薬草園を眺めた。
「薬草の心得は、一重にそれで、、、?」
瞪樹が、思わず、感嘆のため息。
「はい。我らに残された生きる術の一つ、とでも言いましょうか」
生きる、術。
― この里の人々は、僕よりも、ずっと、、、 ―
そこに、並々ならぬものを感じ取って、瞪樹は言葉を失った。
深い霧に守られた白霧の里は、その昔、【人外】とされた【異形】の者達が、隠れ住んで拓けたと言われている。
姿形はもとより、先見や透視、人より抜きんでた才などは、時代によっては【巫】や【生神】などとして崇められ、そして、人の都合によって、【供物】として捧げられる者もいたという。
そんな彼らの多くが、先住者の【視えない導き】によって里へ至り、あるいは、山伏らの助けによって、命からがらこの里に逃げ込んだ歴史がある。
ここに住む者らは、その子孫であり、現在は、先の都守の時代に朝廷の庇護を賜った【不可侵の地】と、されている。
「先の都守は【破眼】、当代都守は【死人還り】。宮中に在るというだけで、どれほど心強いことか、、、」
「あ、、、」
どちらも、人の世で言うところも異形に変わりないが、そこは、【都守】。
遠巻きながらも、その姿を見つめる人々の畏敬の念を、宮中で瞪樹は、確かに感じたものだ。
「いつか我々も、人々に受け入れられ、この里へと至る道が敷かれる時が来る事を、信じています」
呉巴は、そう言って、薬草園に降りた。
「、、、、、」
一方、瞪樹は言葉を失い、唇を引き結んだ。
白霧の里の興りを、何も知らぬ己が、軽々しく賛同できるような言葉ではなかった。
彼らの暮らしは、過酷な歴史の上に、ようやくの安寧を見せている。
それだけは、初めてこの里を訪れた瞪樹も、肌で感じていた。
「瞪樹殿」
視線の先。
いつまでも畦道にいる瞪樹を、呉巴が呼んだ。
手招きされるまま、瞪樹も足を踏み入れる。
濃い緑の香りが、一層、強く漂ってきた。
「朝な夕な、子供達が水をやり、草を抜く。そこの石垣も積むんですよ。そうして、自然と、ここの暮らしを覚えていくのです。薬草の多くは、山菜として、食卓に並ぶものですから」
そう言いながら、傾いていた添木を直し、手際良く、弱った葉を摘んでゆく。
花芽を結んだ枝を手に取り、土に触れる呉巴の眸は、山の中で垣間見た時とは印象が違って、慈愛に満ちたものだった。
「、、、っ」
瞪樹は、その呉巴の姿勢に、
― 医官は、せいぜい薬房に赴くぐらい。実際に育て、知りうる事の方が、遥かに多い。僕、は、、、 ―
【ある思い】を、抱いたのだった。
里の外れ。
苔生した、悠久の樹海が広がる、その入口。
大の大人の背丈をゆうに超す、大岩があった。
その前に、白い人影が立っている。
錫杖を鳴らし、場を清めると、大岩の裏へと回る。
小石が積まれたそこにしゃがみ込むと、石をひとつひとつ、よけていった。
最後の石がどけられると、大岩と大地の窪みに、符が見えた。
「、、、、、」
闇色の双眸が、冷ややかに眇められる。
そこにあるはずの古びた護符は無く、白さも眩しい真新しい護符が、張ってあった。
そっと石を積み直しながら、
「天羽の、、、」
青い唇から、その名が毀れた。
国中を行脚し、霊場や陵墓を検めて回っている男の顏が、浮かんだ。
この分では、他の結界も、すべて張り直してあるはずだ。
「無駄足であったか、、、」
鬱々と呟き、樹海の彼方を眺めた。
白く煙る、樹海のしじま。
夕暮れを待つそれは、霧の姿をしていた。
晩秋更新と書いた割に、気がつけば、すっかり季節は立冬も迎えて、師走でございますな。おかわり、あざーす。。。
体力よりも、精神力が奪われたリハビリを経て、書けると言うのは、マジで嬉しいものだとひしひしと痛感中。。。ガテン系の仕事で、こんな趣味。。。こっそりひっそりむっつりと、生きているうちは続けたいものだと、ふと感慨に耽ったりしている、ここ最近。。。