第拾ノ四幕中 ― 禍神 ―
浮海の屋敷を訪ねた、蒼奘と伯。末姫、ゆあらの口から、思いもよらぬ言葉を聞くことに、、、
死人還りの都守蒼奘、業丸を継ぐ武官燕倪、幽身であるがこの世に縛られた伯。それぞれが紡ぐ異国絵巻、第十四幕中編。。。
まだ、夜も明けきらぬ、時分。
ぐっと冷え込んだせいか、池に張った薄氷。
その表層を彩るのは、迷い込んだ木の葉の錦だ。
葉を落とした木々の枝には、夜露が揃って、透明な氷玉を結んでいる。
その日、暁刻を待つ深藍の空には、満天の天の川が煌めいていた。
早起きの鶏の鳴き声が、どこか遠く聞こえた時、背に矢筒を負った武官は、居間の刀架に手を伸ばしたところであった。
「、、、む。いかん、いかん」
いつもの調子で、白鞘の飾大太刀拵えを腰に佩こうとして、首を振った。
寝ぼけているつもりはないが、
― 今日は、さすがに業丸を帯びるわけにはいかんな、、、 ―
苦笑して、頭の後ろを掻いた。
優美な飾太刀とは対照的に、下の段には武骨な太刀が一振り、掛けられていた。
禍々しくさえ映る、ややくすんだ濃赤の柄巻。
業丸とは対照的な、反りの強い、黒拵えの大太刀であった。
手に取れば、ずしりと重い。
「、、、、、」
鈍色の眸が、行燈の灯明に、青鈍へと透ける。
眇めた、双眸。
俄かに、その顏が曇ったのは、
― できることならば、抜きたくはないが、、、 ―
その太刀が、【為すべくして腰に帯びる】、理由からであった。
まだ駆け出しの頃、この太刀に触れ得た高揚感は ―――、無い。
腰に帯び、確かめるように柄に、手をやった。
そのまま握り込み、鯉口を切って、
「、、、、、」
静かに、鞘に収めた。
細く、息を吐く。
青鈍の双眸が、己が手を、見つめた。
かつてのように馴染むようだったが、僅かな違和感が、あった。
刀架に掛かっている、業丸を見つめた。
その白さが、薄闇の中で一層、鮮やかに見えて、
― それで、いい。これで、いい、、、 ―
一人、言い聞かせるように、頷いた。
それが、今の燕倪には、なによりの救いだった。
「お、、、」
首に灰浅葱の布を巻いた童が、馬上より身を乗り出す。
首の後ろで束ねられた癖のある黒髪に、青い綾紐が鮮やか。
陶器のように無機質な象牙色の手を伸ばし、そのまま大地に転がり落ちそうになるのを、
「伯、、、」
異形の愛馬、鋼雨の手綱を取る蒼奘の手が、襟を掴んで、防いだ。
立ち止まった鋼雨が、その青乳色の鬣を震わせ、
グルゥルル…
低く、鳴いた。
時刻は、正午をやや過ぎた辺り。
それまで覗いていた、束の間の晴天が、今はもう曇り空だ。
物々しい具足の音が、する。
「、、、、、」
伯が見つめる先には、背に弓を負い、太刀を佩いた戦袍姿の武官らの姿。
威風堂々と、肩で風を切りつつ歩むその中に、
「エンゲ、、、」
その人の姿が、在った。
「先日、追剥が横行していると言っていた。その警邏だろう、、、」
人気も疎らな、帝都東部の界隈。
十間程、後方の辻で、その一行が通り過ぎるのを見送っていれば、
「お、、、」
当人が、こちらに気づいて、手を振った。
一団を待たせ、一人向かってくるのを認め、鋼雨の歩を進めさせようとして、
「、、、、、」
蒼奘は、手綱を持つ手に、伯の手が置かれているのに、気がついた。
「おう。こんな時分から、どこ行くんだ?」
人好きのする、屈託の無い、いつもの笑顔。
鈍色の眸が、二人を見つめ、鋼馬の鼻面に触れた。
赤紅の眸。
それまで鋭く細まっていた瞳孔が、燕倪の姿を捉えて、丸くなった。
大人しく、その無骨な手に、鼻面を押し付ける。
グッググ…ググ…
珍しい鋼雨の喉鳴りに応えるかのように、優しく撫でてやりながら、青鈍に透ける双眸が、馬上の二人を見上げてきた。
「、、、、、」
それまで鋼雨の首を抱いていた伯は、無言で蒼奘の背中へ隠れた。
「伯?」
怪訝な顔をした、燕倪。
隠れた伯を覗き込もうとして、
「燕倪、、、」
蒼奘が闇色の眼差しで、制した。
― なんだってんだ。伯の、あの眼、、、 ―
能面のような、貌。
しかし燕倪は、その漆黒に染まった眸から、伯が抱いた感情を、瞬時に見抜いていた。
それが、【怯え】であると言うことを、、、
「警邏か?」
「ん、ああ。しばらく両近衛府交代で警邏を強化すると、決まってな。今日は丸一日、陣頭指揮、ってやつだ」
「そうか、、、」
彼方を見やれば、若い武官らの、好奇の眼差し。
けして直接声を掛けようとはしないが、興味と言うものは、隠しようがない。
蒼奘に至っても、慣れたもので、反応する素振りすら見せない。
ただ、いつものように鬱々と視線を燕倪に戻せば、頬を切る冷たい風に、風花が混じった。
夜半には、本格的な雪に変わることだろう。
「ここいらで起きている追剥、物取り騒動、ひょっとしてお前の管轄だったとか?」
生憎と、今日は業丸を持ってきてはいないが、と燕倪は、腰の太刀を叩いた。
白鞘に、七宝を散りばめた華美な装飾の業丸と違い、その太刀は、鈍く光る漆の光沢がぬめぬめと、なんとも禍々しい。
血の様に赤い糸巻きと相まって、異様ともいえる剣呑さを、放っていた。
「、、、、、」
蒼奘の腕の向こう。
顏だけを覗かせた伯が、じっと見つめる先こそ、まさにその太刀であったが、
「なんだよ、伯。言いたい事があるなら、はっきり言えよ」
憮然として腕を組む、燕倪に、
「、、、、、」
伯は、無言で、顏を引っ込めたのだった。
「、、、、、」
「、、、、、」
寒空の下、両者の間に、気まずい沈黙が、訪れた。
― 伯の、あの眼。死相が出た時とは違うようだが、、、 ―
また、よからぬ相が出ているのならば、気を引き締めねばと思っていると、
「そうではない、、、」
「あ?」
蒼奘の青い唇が、呟いた。
馬腹に、踵を当てれば、心得た鋼雨が、ゆっくりと歩を進める。
膝に伯が入ると、白い髪が、背に長く流れた。
「我らはこれより、浮海の屋敷に赴く、、、」
「なっ、、、」
燕倪が、その背を睨めば、
「ああ、それと、もう一つ」
「?」
蒼奘が振り返り、意味深な一瞥。
「当屋敷の門を潜るのなら、その【腰のもの】は置いて来い。燕倪、、、」
「、、、、、」
燕倪はその言葉を受け、思わず腰に佩いた太刀、鐵丸に、触れたのだった。
道を開ける若い武官らの間を抜けると、築地塀が長く延びる人気の無い界隈に、鴉の声が響いた。
伴侶を呼ぶのか、どこかの枝で、別の鴉が応える中、
「伯、、、」
蒼奘は手を、その華奢な肩に、置いた。
漆黒の大きな眸が、蒼奘をまっすぐに見上げてくる。
その菫色がかった黒瞳を、見透かして、
「そう、燕倪を、責めたものではないよ」
「、、、、、」
静かに、諭すように、問いかける。
ゆっくりと蹄の音が響く中、使いの帰りか、主の元へと急ぐ若者が辻から現れ、
「ひっ、、、」
異形の死人還りを、化生と見間違えたのが、慌てて来た道を逃げ帰っていった。
しかし、当人らは、どこ吹く風だ。
「マギの国に、ラクシャーサと言う言葉がある、、、」
はらはらと舞い落ちて来る風花の数が、ひとつ、ふたつ、と次第に増えていった。
細首から肩に落ちてしまった布を、巻きなおしてやりながら、
「この国では、人を喰らう悪鬼【羅刹】と呼ぶが、、、」
蒼奘は、無人の荷船が浮かぶ水路を、左手に眺めた。
穏やかなその流れの中に、鴛鴦が羽を休めている。
貴族や素封家の屋敷群を、抜けたのだ。
水路沿いに植えられた、柳の古木らが閑散とした往来に、長くその枝を伸ばす中、
「生きる者は、一様に、時を等しくする者たちに、影響を及ぼさずには産まれ出ん。良きにしろ悪しきにしろ、それが、生きる上での役割の一つでもある、、、」
白い吐息が、滲んだ。
大気に、すぐに掻き消えてしまうそれを、
「、、、、、」
伯が、ぼんやりと、眺めている。
「燕倪は、お前が生まれ出でる以前、数多の命を斬らねばならなかった。それが、今生の罪であり、斬らねばならなかった命に対する、あの男の役割、、、」
「、、、、、」
闇色の眼差しが、腕の中で大人しくしている伯を見つめ、
「この世では、誰しもが業を負う。あの【太刀】も、同様だ、、、」
その額に掛かる前髪を、払ってやった。
「それでも、、、ハク、わ、、、」
その指先の温もりから逃れるかのように、伯は俯き、
「ぁんな、ェンゲ、、、嫌だ、、、」
鋼雨の首に、しがみついた。
「そうか、、、」
蒼奘は、伯のその小さな呟きに、同意も肯定も、しなかった。
いつも朗らかで、人好きのする雰囲気が、今日は少しばかり違っていたのを、伯はいち早く気づいたのかもしれない。
遠い空に、東へと向かう鴈の群れ。
雪をもたらすであろう厚い雲が、覆い始めていた。
やがて鋼雨は、とある屋敷の前で、脚を止めた。
四脚門の向こうに、壮麗な屋敷が広がっていた。
「ゆあら姫、二の兄上様が、いらせられましたよ」
御簾越しの庭に、風斬り羽を切られた二羽の鶴が、互いの羽繕いを仲睦まじくする様を眺めていた姫は、
「ん、、、」
貌を、その声のした方へと向けた。
年嵩の侍女が控えたその脇を、擦り抜ける者があった。
鞠が転がるかのように軽やかに廊下を駆け、ふわりと欄干に舞い上がったと思えば、
「あっ」
そのまま浮島で蹲る、鶴の元へ。
逃げる事もせず、つぶらな瞳で現れた童を眺めれば、羽を撫でられるまま、再び互いの羽に嘴を当てたのだった。
「あの子達が、騒がないなんて、、、」
思わず御簾を掴み上げれば、簪が落ち、桧扇は転がった。
「まぁ、姫さま、、、」
欄干に手を当てて、白い吐息を大気に滲ませながら、見つめる先の浮島。
視線に気がついた童は、能面の如き貌で、こちらを振り向いた。
いつもは、鴉や野犬の声や姿に敏感に反応する鶴達が、今日は大人しく、騒ぎ立てもしない。
「ゆあら姫。病床に臥せっていると聞いたが、息災で何より、、、」
その傍らに、長身の男が立った。
ゆあらが、ゆっくりと見上げ、
「いつなり兄様、ゆあらは、この通りよ」
まだあどけなさを残す浮海の末姫は、二の兄の姿に、微笑んだ。
聞いていた話とは打って変わって快活そのものだが、目の下の隈だけが、異様に深かった。
ゆあらは、重い長袖を広げると、
「どんなにゆあらが、お兄様にお逢いしたかったかっ」
「、、、、、」
その身に抱きついた。
よく梳られた濡羽玉色の黒髪は、瑠璃や翡翠、銀で造らせた玉環が通され、鼈甲の簪でもって巻き上げられている。
透けるように白い肌は、若々しい瑞々しさで輝き、対照的に堅苦しく、重苦しい単衣を、その華奢な四肢に纏っていた。
長い睫毛に、終始潤んでいるかのような眸は、胡桃色。
あまやかな、韻を踏む名に恥じぬ、たおやかたるその姿。
数え年では、十四、五になるであろうが、纏う雰囲気がそうさせるのが、ずっと幼く見える。
それが、摩訶不思議な美姫として知られる、浮海の末姫の所以だろう。
「今日は、気分がいいの。それよりも、二のお兄様。ゆあらは、ずっとずっと、哉彬兄様にお願いしていたのよ?それなのに、ゆあらがお屋敷から出られないのを知って、意地悪をなさるの?」
可憐な唇を尖らせるのを、
「私はとうの昔に、この家を出た者だ。おいそれと屋敷の敷居は踏めぬ、、、」
やんわりと肩を押して、離した。
「どうして?お兄様は、ゆあらのお兄様だわ」
小首を傾げると、まさに幼い童女のそれだ。
大抵、この姫を前にすると、その仕草に目尻を下げてしまうものだが、
「今日は、都守として参った、、、」
闇色の双眸は、穏やかな口調とは裏腹に、冷やかなものだ。
ゆあらは、その眼差しを受け止めると、
「意地悪な、いつなりお兄様、、、」
ずっと大人びた笑みを、可憐な口元に湛えたのだった。
その笑みを受けて、
「、、、、、」
青い唇が、僅かに吊り上る。
傍から見れば、それは奇妙な兄妹の邂逅であろう。
実際、居合わせた侍女は、そんな二人を目の当たりにして、掛ける言葉も無く、控えていることしが出来なかったのだから。
「あの双鶴は、、、」
「ゆあらの鶴よ。綺麗でしょう?」
ゆあらは、両の手指を口の前で組んで、首を傾けた。
くせの無い垂髪が、肩から胸元へと毀れて行く。
「去年、哉彬兄様が狩りに行って殺めた、母鳥の下から出てきたんですって。葦の原に入って来た狩人にも臆さず、母鶴は、それは懸命に守っていたそうよ」
その眼差しには、同情など欠片も無い。
「小さくて、とても可愛いから、ゆあらが飼う事にしたの。あの子達、ゆあら以外には懐かないと思ったのだけれども、、、」
眺めた先に、二羽に手指を甘咬みされる伯の姿。
一方伯は、されるがまま、手を差し出してはいたが、
ケェンンッ…クククッ…
不意に、大気を劈く甲高い声が、上がった。
「あっ」
眼を凝らせば、長い羽根を一枚手に、伯が階のある岸に舞い降りたところだった。
そのまま、飴色の欄干に登り、腰を下ろす。
浮島で落ち着きなげに歩き回る双鶴を見ると、紛れもない。
伯が力任せに、その羽根を引き抜いたのだろう。
「、、、、、」
蒼奘の眼差しに肩を竦めただけで、悪びれた様子は、無い。
指先で、羽根の付け根をくるくると回しながら、空を透かし、眺めている。
「あの、、、お兄様、、、?」
弓月の形をした眉を寄せ、さすがに困惑顔のゆあらに、
「私が世話を焼いている、式神だ。人の世の習いには、疎くてな、、、」
「式神、、、」
頭の先から爪先まで、まじまじと眺めても、その童は、人の子にしか見えなかった。
当人は、
「、、、、、」
どこ吹く風。
手にした羽根で、暢気に宙を掻いている。
双鶴の鳴き声も収まったところで、
「ところで、姫。私に、相談とは、、、?」
隣室に通された蒼奘は、几帳を背に、脇息に凭れたゆあらに問うた。
薄暗がりの中、俯いたその貌。
長い睫毛が、頬に影を落とす。
可憐と言うよりも、ふっくらとしてどこか蟲惑的な唇が、
「小さな鬼が、来るの、、、」
「鬼、、、」
震えた。
「あれは、鬼よ。ゆあらを、連れにくるの。いつか、ゆあらは、死んでしまうんだわっ」
「その鬼は、どこから、、、?」
ゆあらの指が、庭を指さした。
「分からない。でも、あちらから、、、」
蒼奘は、庭先を眺めた。
「鬼、、、」
揃って水際を歩く、その姿。
落葉浮かべたその中に在って、なんとも哀愁をそそるのだった。
「鷸哉は?」
年嵩の女御に、着替えを手伝わせながら、哉彬はどこか不機嫌そうに、尋ねた。
「いらっしゃっておりますよ。双鶴のお庭に面した、姫さまの隣のお部屋をご所望でしたので、そのように、、、」
「ふん、、、」
「童子をお連れでしたが、、、」
「ああ。【式神】だそうだ。早々に妻帯したと噂を聞けば、遠ざけて。どこの誰とも知れぬ、あのような年端も行かぬ童子を連れ歩いているとは、、、まったく、胡散臭い奴よ」
「哉彬様、、、」
異母弟とは言え、血を分けた相手への物言いかと、眉を顰めた侍女頭であったが、
「夕餉は、ご一緒されますか?」
すぐに、いつもの卒ない微笑みで隠した。
長きに渡ってこの一族に仕えていれば、造作も無い事であった。
哉彬の鷲鼻から、失笑が漏れた。
それだけで、侍女頭は心得た。
「顔をつき合わせれば、酒が不味くなるわ。あやつも、それは心得ておろう」
「畏まりました。お疲れが溜まって、具合が優れないと、お伝え致します」
漆の盆に束帯を畳み重ねると、侍女頭は肩を揉みながら、うら若い妻女が待つ対の間へ急ぐその背を、見送った。
大地を踏み鳴らすような、それでいて忙しない、足音。
遠ざかるその足音を聞きながら、
― まったく、お盛んな、、、 ―
侍女頭は盆を手に、立ち上がった。
屋敷を取り仕切るべき者があれでは、やらねばならぬ事は、山積みだ。
池に面した、渡り廊下。
凪いで、水鏡となった水面に映った、年老いた己が姿を見れば、
「はぁ、、、」
寒々とした溜息が、毀れた。
疲れと焦燥が、自分の姿をして、こちらを見つめている。
どこかで鴉が、鳴いた。
顔を上げ見渡せば、閑散とした屋敷が、宵闇に沈んでいくところであった。
かつて賑やかであった屋敷から、ひとり、ふたりと、姿を消した。
― あの頃は、良かった、、、 ―
充実した日々が、今となっては遠く、懐かしい。
侍女頭は、老いた自分の姿から眼を背けると、背筋を伸ばした。
干乾びたかのような痩躯に、時の参議に目を掛けられた、かつての誇りが戻ったような、そんな気がして。
哉彬、鷸哉こと蒼奘、そして、二人から年離れて、ゆあら。
すでに隠居した、その父。
長きに渡り、参議を務めた、浮海駿哉。
彼を知っている者なれば、どうしても長男の哉彬とを、比べずには居られないのかもしれない。
ちらほらと、雪が降っている。
「、、、、、」
屋根の上。
肌をくすぐっては、落ちて行く。
ところどころ白く、大地を覆い始めた庭では、葉を落とした芙蓉の木陰で、二羽の鶴が身を寄せ合って眠る、そんな時分。
積もり始めた新雪に抱かれ、伯は、
「、、、、、」
飽きるでもなく、灰恢に沈んだ夜空を見上げていた。
闇夜では無いのは、厚い雲の彼方で、煌々と月が輝いているせいだろう。
張り詰めた大気と、ひっそり閑と静まり返った静寂が、心地良い。
どうやら、用意された褥では、寝付けなかったらしい。
一人、褥を抜け出したようだ。
「、、、、、」
細雪が、次第にゆっくりと、ゆらゆらと、舞い降りてくる。
風を、弄うかのように。
白い雨のようであったそれは、無数の羽根の姿となって、今、帝都を覆っていく。
「、、、、、」
明日の朝には、冬色一色に染められるだろう。
空を見上げる事に飽きたのか、伯は、ふと、辺りを見回した。
それまで薄っすらと見えていた、隣の屋敷の塀が、もう見えない。
白い夜。
静謐を、押戴いた、冬夜。
自然、目抜き通りへと、伯は目を凝らした。
漆黒に沈んだままの眸では、白い幕が幾重も重なったその向こうを、見通す事などできはしない。
「、、、、、」
それでも、眼を凝らし続ける。
冷え切ってなお、朱鷺色を保つ可憐な唇が、小さく震え、
「、、、ンゲ」
昼間、擦れ違ったその人の名を、呟いた。
羽二重の寝衣。
背中を預けていた屋根から、身を起こせば、肩に積もった雪が、さらさらと滑っていった。
あの男の事だ。
この雪の中、今だ一人で、警邏を続けているかもしれない。
退屈紛れに、夜歩きでも、と、思ったのだろうか?
獣のように、頭を振り、髪に積もった雪を払い落とす。
肌蹴た寝衣の襟から、翡翠の連珠と瑠璃の管硝子の触れ合う音が、した。
無造作に、首から抜き取る。
俄かに、群青に染まる、髪。
翡翠の一対の角。
漆黒の眸は黎明を宿し、菫色へと澄み渡る。
袖に夜気をはらんで、一歩踏み出そうとした。
その時、
「伯、、、」
呼び止められた。
「、、、、、」
庭へと張り出した屋根から顏を覗かせれば、臙脂に、白菊を縫い取った袿を肩に、その人が、こちらを見上げていた。
「、、、、、」
菫色の眸が、じっと蒼奘を見つめた。
「眠れぬ、か、、、」
白い吐息が、細く毀れて、
「、、、私もだ」
青い唇に苦笑を刷きつつ、呟いた。
タポ…ン…
水が、入れ物の中で揺れたような、そんな、音。
その腕に、抱えているものがあった。
「、、、、、」
ふわりと、袖が翻った。
ゆらゆらと舞い込む、ぼたん雪と共に、差し出したその手を取って、蒼奘の傍らへ。
異形の、身軽さだ。
摂るものと言えば、酒ばかり。
地のものを摂れば、体重も増すのだが、蒼奘と暮らしていると、食生活を咎める者も無く、今だ、軽い。
肌蹴たままの襟を、合わせてやりながら、
「ただ待つだけでは、ここは冷え過ぎる。呑もうか、、、」
抱えた入れ物、瓶子を、揺らしたのだった。
― 、、、、、 ―
雪の照り返しが明るいのか、意識が浮き上がる、感覚。
ゆっくりと、瞼を押し開ければ、雪月花が描かれた、見慣れた御帳台の天蓋。
まだ、半分意識が夢路に在るようだった。
ゆあら…
名を、呼ばれた。
聞き覚えのあるような、声であった。
ゆあら…
また、呼ばれた。
外からだ。
首だけを、向けた。
気配は、ない。
それなのに、確かに聞こえた。
― 以前も、、、 ―
こんなことが、あったような気が、した。
ぼんやりと、思う。
― 答えちゃ、だめ、、、三回目に答えると、、、 ―
ゆあら…
息を吐こうとして、
「あ、、、」
つい声が、出てしまった。
― いけない、、、だめ、、、でも、、、 ―
茫洋としたままの意識。
今にも、呑まれてしまいそうと、重い瞼をそれでも懸命に開けようとして、
あそぼ…
声が、耳元でした。
一瞬、体が軽くなったと思うと、御帳台の天蓋から垂らされた淡い色の紗が、眼前に迫り、
― !! ―
たまらず、目を瞑った。
しかし、頬に紗が触れる感触は、いつまでたっても、訪れなかった。
― 、、、、、―
恐る恐る、目を開けた。
見慣れた庭が、広がっていた。
辺りを、見回す。
雪は積もっていると言うのに、寒さも風も、感じられなかった。
こっち…、こっちだよ…
塀の向こうから、声は聞こえてきた。
雪がちらつく中、ゆあらの足は、自然とそちらへ、向かっていった。
杯を手に、うつらうつらしていた伯が
「、、、ん」
衣擦れの音に、顏を上げた。
大ぶりの瓶子の隣に、空になった杯が、置かれている。
「、、、、、」
体に掛けられているのは、臙脂の袿であった。
その人の姿を探し、振り返ってみれば、
寝着姿の蒼奘が、蔀戸の間より、外を伺っているところであった。
「、、、、、」
伯もまた、その間を覗き込んだ。
白々と煙る世界の中に、淡い人影が滲んで、掻き消えた。
「ゆあら」
伯が、小さく名を呼んだところで、蒼奘が蔀戸より、離れた。
几帳や帳で仕切られた、部屋。
躊躇なく、帳を引き上げると、隣室へ。
山絹を幾重にも重ねた、豪奢な御帳台。
その中を一瞥すると、蒼奘は、蔀戸を押し上げ、庭へ面した軒庇の下へと出て行った。
伯も同様に、薄闇に透けるその中を見、
「んー、、、」
首を傾げた。
ゆあらと思った、庭の人影。
けれど、どうだ?
当人は、御帳台の中で、眠っている。
伯は、蒼奘に続いて、外へ出た。
世界は、白いままだった。
庭へと降りる、階。
草履に素足を通したところで、
「この雪だ。酔いが醒めぬうちに、戻るとしよう、、、」
待っていた蒼奘が、伯に言った。
「、、、、、」
こくり…
頷いた伯は、その傍らへ。
庭の奥。
潜戸の閂を外し、路地へ出た。
右も左も、新雪が積もり、足跡一つない。
辺りを見回す伯を、
「お前が見たのは、姫の魂だ。離魂状態では、足跡は残らんよ」
蒼奘が、見下ろしつつ、言った。
伯の口が、への時になる。
なら、どうするのだ、とでも言いたげだ。
そんな伯に、
「お前ならば、聞こえるはずだ、、、」
「、、、、、」
蒼奘は、穏やかな眼差しを向けた。
伯が、菫色の眸を瞬かせる。
温かい手が、華奢な肩に置かれた。
伯は、
「、、、、、」
目を、閉じた。
瞼の先が、昏い。
サ…サ…ヮ…サヮ…
そこに、小さな音が生まれた。
折り重なるように、大地に降り積もる、微かな雪の音。
昏い中に、白い大地が生まれた。
髪に触れ、頬に触れ、唇を弄って舞い降りる、冬の音。
風は無く、ひっそりとした、冷たき黒白の世界。
冬夜。
肺腑深くへと、吸い込んだ。
体の隅々まで行き渡る、夜気。
耳に心地良い冬の囁きに、意識が体を補完する ―――、感覚。
同化する ―――、感触。
金色の輝きが、
サヮ…サ…ィイン…シャン…シャリリ…サ…サ…
生まれた。
黒白の世界の奥で、輝く、柔らかくも冴え冴えと澄んだ、祈りの音。
シャン…シャリㇻ…ン…
菫色の眸が、開く。
辺りには、変わらず静寂が、占めていた。
「、、、、、」
伯が、左を見た。
白い世界が、広がっている。
「、、、、、」
無言で歩き出した、その背中に、蒼奘が続いた。
高い築地壁が続く、路地。
貴族の邸宅が居並ぶ、界隈。
その入組んだ路地を行く、伯の歩みは、確かなものだ。
やがて、
シャン…シャㇻㇻ…リィイリン…ッ
常人の耳には、静寂しか聞こえぬ世界の中。
その澄んだ【音】は、現実のものとなって、近づいてくるのだった。
霞がかり、茫洋とした意識の中で、自分の手が、見えた。
灰色の空の下、金色の輝きが、毀れる。
小刻みに、手指を振るわせ、くるりと、回る。
同じように、今度は大地を見つめる。
白々とした新雪の大地に向かって、手指を伸ばせば、
シャㇻㇻ…ン…リリッ…
十五から鳴る神楽鈴が、澄んだ音を、響かせた。
リリリ…、イィリリ、イイン…
あそぼ…、おどって、あそぼ…
声は、鈴から、した。
桃色の可憐な唇が、微笑んだ。
― うん、、、遊ぼう、、、 ―
手首を返せば、
シャ…ンッ…シャㇻㇻ…リィッ…ン…
金色の輝きが雪に宿って、辺りに広がるようだった。
滑らかな、桃色の肌。
淡く発光する薄衣はすっかり肌蹴け、大きく開いた胸元に、すらりとした太腿も露わ。
豊かな垂髪が乱れるのも構わず、夢見心地で舞う、若き娘。
それは、冬夜、天神地祇へと祈りを捧げる舞であった。
リロン、チチリ…、リィン…リリリ…、ロロォン…
ゆあら、きれい…、もっと…もっと…、おどって…
無人の辻で、ゆあらが、舞う。
神楽鈴を手に、舞う。
無邪気なその貌は、幼子の如き無垢な、微笑みであった。
錆びついた鈴が一つ、ころりと、転がった。
ロン…
あっ、、、
小さな聲が、あがった。
伯が、それをつまみあげる。
覗き込んでは、ひっくり返し、振ろうとしたところを、
「そう、乱暴に扱ってくれるな、、、」
「あー」
蒼奘の指先が、さらっていった。
掌で、鈍い輝きを放つ、錆葺いた鈴。
その鈴に向かって、
「いくら舞わせたところで、この娘には、そなたの枯れた氣を満たしうる力は、無いよ、、、」
……
蒼奘が、言い放った。
すぐ傍らには、輪郭もおぼろげだが、それでもゆあらと分かる人影が、浮かんでいる。
うっすらと目を開けているが、意識は夢路に在るようで、潤んで見えた。
離魂状態にある、ゆあらの生霊だ。
「私が、逝くべき先を、開こうか、、、」
……
動きが、無い。
伯は、気が削がれたとでも言うように、袖を翻す。
そのまま、近くの壁に舞い上がり、こちらに背を向けて寝そべると、
「、、、、、」
雪が降り積もる様を、つまらなそうに眺めはじめた。
青い唇から、白い吐息が、滲んだ。
「九十九神と言えば聞こえが良いが、そなたの場合は、複雑だ。使用者の想念をも、取り込んでしまったようだな、、、」
……
「知ってなお、その娘の魂を摂りこみ、憑り殺すつもりなれば、都守の名でもって、私は、そなたを祓わねばならぬ。禍神として、な、、、」
……
鈴は、かたくなであった。
息を潜めたまま、沈黙を守っている。
「、、、、、」
……
ひとひらの雪が舞い降りて、鈴を弄い、掌に舞い降りた。
じんわりと溶けて、一粒の雫を結ぶ。
一瞬の煌めきに、目を眇めた、蒼奘。
「だが、―――」
その冷淡な程、青い唇が、
「―――、そこの幼神には、可能かもしれぬ、、、」
嘯いた。
壁の上で、思わず身じろぐ、気配。
「、、、、、」
長い群青の髪を引きずって、伯が、振り向いた。
小さな牙が、朱鷺色の唇の端から、不機嫌そうに覗いた時、
ジジ…ㇼ…リィ
蒼奘の掌で、鈴が、鳴いたのだった。