第拾ノ四幕前 ― 忘神 ―
山間の村から、帝都へ運び込まれた、山車。それは、ひとつの村が閉じることを、意味していた。それから一月の後、思わぬ相手から依頼が一つ、蒼奘の元へ舞い込んで、、、
死人還りの都守蒼奘、業丸を継ぐ武官燕倪、幽身であるがこの世に縛られた伯。それぞれが紡ぐ異国絵巻、第十四幕前編。。。
ギシギシ…ィィ…ギギギ…
木製の車輪が、悲鳴を上げる。
ギギ…ギ…シシ…
さすがに耳障りになってきた、その音に混じって、
ロン…リ…ィィ…ィィ…
往来の雑踏の中、掻き消えそうなほど小さき【音】が、聞こえてきた。
「兄ぃ、何が、落ちたぞ」
後ろで、押していた男が、思わず顏を覗かせ、先を行く者に声を掛けた。
「構うかよ」
師走だと言うのに、額に滲んむ汗を垢じみた衣の袖で拭い拭い、
「山奥の村の山車だ。飾りが壊れたところで、金目のものなんかじゃねぇよ。それにどうせ、ばらされちまうんだし、、、」
やや、いらだっているのか、語尾が荒くなった。
「そ、そうか、、、」
その様子に、後ろの男は、顏を引っ込めた。
無心で、腕に力を込める。
草履で大地を捉え、体全体で、押す。
陽も明けぬうちから、【押し通し】。
帝都の門を潜って、ほっとしてはいたが、さすがに、疲労困憊の呈だ。
他愛もない事で、言い争いになる。
― いかん、いかん ―
自らに言い聞かせたところで、
「一息、入れるか、、、」
相手も、悪いと思ったのか、思いがけない言葉が聞こえてきた。
二人は、押し運んでいた【もの】を、往来に面した屋敷の築地塀に寄せると、揃って背を預けた。
どちらかと言えば、二人とも大柄の若者だったが、それでも手足が、棒のようだ。
肩を揉む連れに、懐から取り出した包みを勧める。
白い粉を吹いたそれは、依頼主に手渡された、今年の干柿だ。
口に入れれば、懐かしい味が、広がった。
自然、棘々した気持ちも、凪いでゆく。
「しかし、なんだ、、、」
忙しなく、行き交う人々を眺めながら、
「しばらく帰らねぇうちに、えらく、寂れていたな、、、」
そんな事を、改めて思い返した。
「元々、あんな感じじゃなかったのかい?俺は、おふくろに連れられて婆ちゃんを訪ねた時、小さすぎて、よく覚えてないよ」
「あのな、長峰の銅山っていやぁ、色里もあってよ。それは賑やかだったんだ。だが、閉山になって、今はもう廃村同然。崇めていたお山の神さんですら、この有様だ、、、」
男が、山車を振り返った。
漆は剥げ、剥き出しになった材木には、ところどころ孔があいている。
そのまま、大の大人が二人、後ろと前で押せば、なんとか動く大きさの山車であった。
「そんときゃ、綺麗だったんだろうよ。神さんを、この山車にお迎えして、村中を練り歩いたんだ」
「まるで、全盛期のこの山車、見ていたみたいだな。真兄は」
傍らの兄貴分に言えば、
「、、、実は、ガキの頃、すぐ上の兄貴に連れられてさ。初めて見上げたんだ。この山車を。その時のことは、不思議なもんだ。今でも、よく覚えてるよ」
干柿の包を懐に仕舞いながら、苦笑した。
「もっとも、その後すぐに、帝都に出てきちまったけどよ。村に残ったばあさんから、こんな事を頼まれるとは、思ってもみなかった」
予期せず、男の指先が、先に入っていたもう一つの包に、触れた。
ズシャ…
指先に硬質な感触と、重い音が、した。
「、、、、、」
その感触に、反って男の顏が、曇ってみえた。
空を、見上げた。
重い雲の先に、太陽の姿は無い。
強い吹きおろしが、北稜から、降りてきている。
「丸三日間も、付き合わせちまって、悪かったな。この先の布津稲荷さんで、無事お焚き上げが済んだら、この銭で温かいもんでも食おう」
自分を、兄とも慕う従兄弟の肩を叩けば、
「うん」
昔と寸分変わらぬ笑みが、向けられた。
その頃よりも、随分と逞しくなった、背中。
俄然、やる気を取り戻した従兄弟は、今以上に、力を入れて押し出した。
程なくして、屋敷群の向こうに、冬空に青々と茂る鎮守の森が、見えてきた。
山車を前で引く男の手にも、力が入る。
目的地は、もう目前だ。
白い息が、大気に滲む中、
― しかし、手離すとは、、、 ―
苦々しい感情が、込み上げてきた。
過疎が進めば、それどころではなくなるのかもしれない。
山岳信仰も、閉山と共に薄れていってしまったのだろう。
― 人間の都合で祀られ、人の都合で、打ち捨てられる、か、、、 ―
そう思うと、やはり少しだけ哀しい気も、するのだった。
ギシギシギシ…
ぐっと冷え込む冬の季節に鮮やかな、唐紅に蘇芳を合わせた、出衣。
往来を、一際煌びやかな牛車が、通る。
ギシギシギシ…
道を開けた、往来の者達が目を丸くするなか、屈強な随身に護られ、
ギギギ…ギ…シシ…
牛飼童が、鞭を振る。
退屈だとばかりに開け放たれた、その物見窓。
『おお、あれに。人目を気にするでもなく、頬杖をついて、物憂げに遠くを眺めるあの美姫は、誰ぞ?』
『その瑯たけた貌に、緑の黒髪が映えること、、、』
『薔薇色の唇と言い、すらりと伸びる雪色の手指を、見よ』
『む、あの紋は?』
人々は道を空け足を止める、囁くその視線の先。
雲に乱れ波の、家紋。
『おお、あれが浮海の姫か、、、』
『これは眼福じゃ。浮海のゆあら姫と言えば、知らぬ者はいまい。代々参議を務める名家に加え、当代都守まで輩出した家柄よ』
羨望の眼差しの中、牛の歩みに合わせて、ゆっくりゆっくり、牛車は行く。
ころ…り…りり…ン…
残雪を積み上げた、とある屋敷の塀の下。
錆びついた鈴が、ひとりでに、鳴いた。
コ…ロ…、ロンン…
ゆ…あ…、ゆあら…
もう一度、もう一度。
小さき声を、鈴の音に乗せて。
「、、、ん」
それまで、さもつまらなそうに、便乗する侍女の小言を聞き流していた姫は、辺りを見回した。
長く、屋敷に仕える古参の随身の向こう。
呆けたように、こちらを見ている人々の姿が、あった。
「わたくしがお仕えする年頃の姫君が、下々の者の視線に晒されていると言うだけで、静養されております大旦那様に合わす顔が、、、 姫さま?いかがなされました?」
辺りを見回す様子に、さすがに気になって問うたが、
「何か聞こえたような気がしたけど、気のせいだったみたい、、、」
気が重いのか、こめかみの辺りを擦りながら、物見から離れた。
仄暗い、車内。
梔子の香が、立ち込めている。
「お顔の色がすぐれませんわ」
「お父様にお会いすると、いつも頭が痛くなる。辛気臭い田舎は、つくづく性に合わないんだわ」
「姫さま、なんてことを、、、」
「だって、本当のことよ。お兄様は、文も、垣間見の殿方も追い返すけれど、それでも感謝しているわ。そうでしょ?都には、恋文をくれる殿方だって、綺麗な衣も、甘いお菓子も、たくさんあるもの」
「姫さま」
窘めるように言えば、
「牛の歩みを、ちょっと早めてちょうだい。気分が優れないの」
煩いとばかりに、手を振るのだった。
鞭を振るう、牛飼童。
遠ざかる牛車を、
リリ…ロロン…
小さな小さな鈴の音が、見送っている、、、
※
宮中、星読寮社殿への渡殿。
年明けて、梅の蕾が膨らむ如月近づく、ある日のことであった。
「鷸哉、、、」
聞き慣れない呼び声が、掛かった。
「ん?」
朝陽が差し込む、渡殿の一画。
腕に書簡を抱えた【星読】と、【束帯を纏った武官】が、肩を並べていた。
武官の方が声に気づいて、先ほどから気のない相槌を打つ星読の肩に、手を置いた。
「おい、蒼奘。呼ばれているぞ」
「、、、、、」
欄干に凭れたまま、うっそりと眺めた先に、三十路をいくらか越えたであろう恰幅の良い男が、一人。
渡り廊下を、こちらへと向かってくるところであった。
一瞬、訝しげに眼を眇めたが、
「御無沙汰しております。浮海の参議」
「、、、これは、、、哉彬殿」
その挨拶で、ようやく相手が誰か、分かったらしい。
会釈して、蒼奘の傍らから一歩下った燕倪には目もくれず、
「相変わらず、水臭い奴だな、お前は。鷸哉」
まろやかな白い肌にやや甲高い声が、白い吐息と共に、掛かった。
炯々と良く光る細い眼が、ひどく印象的な男である。
「私を、探しておられたか、、、?」
抑揚に欠けた声音で、いつものように鬱々と尋ねれば、
「ああ。ろくに宮中にも顔を見せんで。たまには屋敷に顔を出せ」
「、、、、、」
闇色の眼差しが、物憂げに相手を眺めれば、
「やれやれ、、、」
これ見よがしな溜息が、毀れて、漂った。
「そう言ったところで、お前は、いっこうに足を運ばん。だがな、鷸哉、、、」
「、、、、、」
「耶紫呂家に入ったとて、そなたは浮海の人間に変りは無い」
「、、、、、」
言葉とは裏腹に、冷ややかに澄んでいく、切れ長の双眸。
― むぅ、、、 ―
男は、とっかかりの無さに、内心、舌を巻いていた。
頬を一筋、冷たい汗が、流れていく。
― 場が、もたぬわ。本題を切り出した方が、いいか、、、 ―
袖の中で、拳を握ると、
「そうだ。ゆあらがな、お前に会いたがっているのだ」
細い目を、糸のようにして、問いかけた。
「、、、、、」
しかし、怜悧さを増した闇色の眼差しに遭って、
「うっ、、、」
男はたまらず、身じろいだ。
が、そこは長子らしく、失いかけた威厳を、辛うじてその身に纏い直すと、咳払いを一つ。
「じ、実は、少しばかり、厄介なことになっていてな。とにかく、近いうちに必ず顔を出せ。いいな?!」
気力を振り絞って一瞥を投げ与えると、返事も聞かずに早々に踵を帰した。
「、、、、、」
蒼奘は、さもつまらなそうに眺め、
「浮海哉彬殿、か、、、」
足音を響かせ、逃げるように遠ざかるその広い背中を、燕倪の呟きが、見送った。
社殿を折れ、見えなくなったところで、
「相変わらずのようだな」
燕倪が腕を組み直し、欄干に背を預けつつ、そう言った。
「相変わらず、とは、、、?」
細い銀の髪を背に払い、書簡を抱き直す。
どこか、緩慢な仕草に、迷惑千万と言いたげだ。
人目がなければ、この男の事。
腕に抱いた書簡も、先ほど男の申し出も、放り出しかねない。
「決まっているだろ?お前が実家に寄り付かない事だよ」
「それは、お前も同じだろう、、、」
「お、俺の事はいいっ」
図星された燕倪が呻くのを他所に、蒼奘は書簡を肩に、哉彬が去った方向とは反対へと、歩き出した。
白い玉砂利が、冴えた陽射しの照り返しで、眩しい。
赤く色づいた南天がその葉が広げ、これからじきに迎える、凍える夜のその前に、太陽の光を取り込まんとしているようだった。
傾き始めた太陽が、頭上遠く、白く遠く、輝いている。
寒々とした大気に、柔らかな乳色の陽射しを落とすその中を行く、白い背中。
自然、その背に続きながら、
「で、いつ行くんだ?」
「、、、、、」
その声音に、どこか浮かれたような声色が混じったのを、蒼奘は聞き逃さなかった。
久しく目立った怪異も無く、平穏な宮勤めをしていたのと、
「、、、、、」
「なぁ、お前の事だ。素気無くしても、行くんだろ?」
明らかな【興味】が、隠せない。
背を向けたまま、
「お前は、連れていかぬ」
きっぱりと、そう言い捨てた。
「ああ?!」
納得行かないとばかりに、声を上げれば、
「ゆあら、か、、、」
「うぐっ」
この男、隠し事はできない性質らしい。
蒼い唇から、侮蔑を含んだ溜息が、白く吐き出された。
「、、、、、」
「う、、、浮海の末姫と言ったら、美貌で知られている。俺だって、それなりに、、、興味はある」
「、、、、、」
その沈黙に、返って開き直ったのか、
「それなのにお前ときたら、頼んでも頼んでも、俺に引き合わせてはくれないじゃないか?」
本心を吐露した。
「お前が、興味、、、?」
今度は、確実に失笑が、鼻から抜けた。
「なんだよ?」
恨めしげに睨む、その背が、
「はなから気の無い者に、引き合わせる労力はかけぬよ、、、」
しれ、と言ってよこした。
一瞬、憮然とした燕倪が、
「気が無い訳じゃない。御簾越し、女房伝えと言うのが気に食わぬのだ」
「世の倣いに慣れぬ無法者を、引き合わせられるか、、、」
「む、無法者?!」
この時ばかりは鼻息荒く、今にも飛び掛らんばかりに背を丸めた。
警邏で無法者相手にしている分、引き合わせる引き合わせない云々よりも、その呼び名が気に障ったのかもしれない。
少し先を行く、白い背に掴みかからん勢いで、足を速めた時、
「うん?」
長身の白袍纏った男が、社殿の向こうから現れた。
二人の姿を見つけると、憂いの晴れぬ眼差しでもって、
「都守。それに、燕倪も」
微笑んだ。
大陸特有の、彫深い容貌、
「お前からも一言、言ってくれよ。なぁ、銀仁」
虎精銀仁である。
「一言とは、、、?」
突然の申し出に、眉を寄せた銀仁。
「美姫と聞けば、是が非でも垣間見たいもの、だとさ」
燕倪は構わず、同意を求めた。
銀仁は、腕を組みながら、
「そう言うものか?我は、別段惹かれんが、、、」
首を傾げた。
一瞬あんぐりした燕倪であったが、蒼奘の冷ややかな眼差しに、
「ま、、、、まぁ、お前にはあとり姫がいるものな。無理も無いよ」
繕った。
その言葉に、おもわず銀仁の眉間に皺が、寄った。
「燕倪、あとりはそのような相手ではない。あの子は、我が守るべき大切な者だ」
「お、そ、うか?そうだよな。でも、それは、、、」
それは、燕倪が言わんとしている事ではないのか?
銀仁は、頭を振った。
「燕倪。我にとってはあとりは、恩人であり、我がこの世に据えた指針。あとりが在る限り、我はその傍に従うまで」
「お、おお、、、」
「大体、我が居る時間軸は、人のものとは異なるのだ。そのためには、まずは虎精と言うものを理解しなくてはならん。虎精と言うものは―――」
珍しく、熱が入ったもの言いの銀仁に押され、助けを求めてその人の姿を探すが、
― あ、あいつっ、、、 ―
その姿、寒空の下に深い伽羅の香りだけを残し、すでに無し。
「ほ、、、わ、、、」
池に、雲が映っている。
ゆっくりと行き交うその様を、水面越しに、大人の一抱えはあろう巨石の上から身を乗り出して、眺めている。
苔蒸した、石造りの大鳥居。
瀟洒でいて、重厚感にあふれる拝殿が水面に映り込んでいる。
その一画。
こぽ…
気泡がひとつ、上がってきた。
「んんんー」
湖面に顏を近づけ、目を凝らせば、
コポポ…コポ…
ピシャッ…
「わひぁっ」
大きな鯉が、鼻先を掠めて、深みへと戻っていった。
思わず、仰け反ったところを、
「所詮、この世は、まがいものだ」
いつの間にか、湖畔に佇んでいた若者が、くすくすと口元を袖で隠しつつ、声を掛けてきた。
海老色の狩衣をさらりと纏い、薄紅の布を首に巻いている。
黒髪垂髪、涼しげな眼差しと、どこか蠱惑的でさえある厚い唇に、
「、、、ヨーゲ」
すぐに、ぴんと来たようだ。
「む。何故、分かった?」
言い当てられた当人は、さもつまらなそうに、狩衣の袖を引っ張ってみた。
「んー、、、」
「、、、ま、いい。しかし伯よ、一人で稲荷詣でとは、感心感心」
伯が、石から飛び降りて、池の畔へ。
つぶらな黒瞳でもって、相手を見上げる。
「ん?私、か?」
若者に化身した、天狐遙絃。
伯に、くるりと背を向けると、
「まあ、ついて参れ」
木立に向かって、歩き出した。
拝殿とは、逆方向。
その先は、鬱蒼とした鎮守の森が、広がっている。
夜半に降った雪が溶け固まり、重なった、大地。
薄氷の層となったそこを行けば、ぱりぱりと、小気味良い音が、する。
「、、、、、」
遙絃の背中に続きながら、辺りを見回した。
広葉樹によって日光は遮断されてしまうせいか、薄暗い。
賑やかな参道から、随分と離れたところで、
「うぷっ」
周りに気を取られていた伯は、先を行く遙絃の背に、顏をぶつけて蹲った。
「これじゃ。放っておくと、この有様、、、伯、聞いておるか?」
したたか、鼻を打ったらしく、両手で押さえる。
思わず滲んだ涙目で、見やれば、
「、、、、、」
藁でできた人形に、五寸釘がいくつもいくつも、打ち込まれていた。
その一際太い、杉の巨木へ近づき、
「おっと、触ろうと思うなよ、幼神。人の念に中てられて、寝込みたいのかぇ?」
「、、、、、」
伸ばしかけた手を、水干の袖にしまった。
「恨み、妬み、嫉む。それらが想念となって残れば、それだけ、魂が衰弱する。自らを蝕む覚悟のある者だけが、人を呪う対価を払うことができるのだ。だが、、、」
遙絃が、息を吹きかけた。
「おあっ」
青き焔が、上がった。
そのまま木肌を舐めるように炎が広がると、藁人形だけを焼き尽くして、四散。
それが、狐火となって、四方で揺れるのを、
「人の心は、【うつろう】ものだ。それを繋ぎ止めんとしたようだな。他にも、あるやもしれぬ。境内の澱みは、全て祓うのじゃ」
短く、命じた。
狐火が、くるりと回って、四匹の野狐に姿を変えると、それぞれが、それぞれの方向へと走り去っていった。
「澱み、氣の廻りが滞れば、雑鬼が寄る。これでも私は、【ここ】の祭神だ。仮とは言え、神域を保つためにも、こうして時折、足を運ぶのだよ」
伯の背を押して促し、拝殿へと続く参道に面した池へと、歩き出す。
薄暗い鎮守の森から、明るく開けた池の畔へ。
雲間から、青空と、高い太陽が、覗いていた。
少し風が出てきたのか、湖面が、きらきらとしている。
「、、、、、」
伯が、目を眇めるのを、
「、、、胡露から、お前が白鷺の羽根を欲しがったと聞いた。水面に映った空を熱心に見ていた事といい、大地に縛られたその身が、いよいよ窮屈になったかぇ?」
遙絃は、そっとその肩に手を置いて、そう言った。
「、、、ワカラ、ナイ」
手の下で、珍しく伯が、項垂れていた。
【分からない】のだ。
何を、すべきなのか。
それは、確かに、生まれ出でると同時に得たものであったが、今となっては、どうしても ―――、思い出せない。
そして、
「ワカラナイ」
【どうしたい】、のか。
次々と湧き上り、込み上げ、入り乱れる。
それで、【ワカラナイ】のだ。
遙絃の手が、そっと、伯の髪に触れた。
幼子にするように、ただ、優しく撫でながら、
「他と関われば、【感情】が生まれるのは、必然。焦るでないよ」
諭すように、そう言った。
「それとも、あの【偏屈】から、己が【真名】を奪い返すか?」
「、、、、、」
伯が、顏を上げた。
遙絃を見上げるその眸は、深く、澄んでいた。
その眸を、
「手を、貸そうか、、、?」
「、、、、、」
遙絃は、まっすぐに見つめ返す。
「なぁに、神意は、お前の存在意義そのものだ。お前のものなのだから、取り戻すことになんの不足もないさ。調度、退屈していたところだ」
指先が、緩んだ髪紐に、触れた。
それを結び直してやりながら、
「どうだぇ?」
そう、耳元に、囁いた。
「、、、、、」
伯は、湖面を眺め、そして、空を眺めた。
遥か上空を、弧を描いて舞う、鳶。
その姿は、どこまでも、自由に見えた。
優美に舞う鳶の飛翔が、ふいに、流れた。
予期せぬ上空の突風に、千切れ雲の向こうへと、追いやられたのかもしれない。
自由の先には、何があるともしれない。
誰も、知らない。
きっと誰も、ワカラナイ。
「、、、、、」
それから、いつまでも姿を見せない鳶に苛立ったのか、
「、、、いい」
髪に触れていた遙絃の手を、払った。
それどころか、ぷいっ、とそっぽを向き、池の畔に遙絃を残し、伯は一人、歩き出す。
華奢な後姿に、やるせなさを見て取って、
「その強情。それすらも、あやつの手の内か、それとも、、、」
残された遙絃は、一人、苦笑したのだった。