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第拾ノ参幕後   ― 残心 ―

 射手を労う、宴。死相は晴れても、心は晴れない、燕倪。それは、【相手】も同じであった…


 死人還りの都守蒼奘、業丸を継ぐ武官燕倪、幽身であるがこの世に縛られた伯。それぞれが紡ぐ異国絵巻、第十三幕後編。。。



 空に月が、掛かっている。

 白かったそれは今、冴え冴えとした銀波を放ち、西の山稜に掛かっていた。

 開放された、内裏の一画。

 紫宸殿の北にある、仁寿殿。

 篝火が焚かれた舞台の脇では、箏に笙、龍笛、琵琶を手にした楽師らが、たおやかに舞う舞手らを彩っている。

 射凧の儀、その労いの内宴。

 上座の帝を筆頭に、政務の中枢とも言える二官八省の長官ら、主要な面々が居並んでいる。

 張り出した庇の下、車座になって酌み交わす酒の香りが、そのまま大気に滲んでいるようだった。

 程よく場も和めば、話題は、射凧から外れだすものだ。

 今後のこの国の行く末を憂う者も居れば、最近手に入れた鷹、垣間見に訪れた某家の姫君、先日呼んだ白拍子の見目、帝都の貧民区で流行っていると言う魔よけの札など、皆、今日のこの日は、日頃の憂さも忘れて、思い思い気の合った者と談笑している。

「、、、おお、それはいいっ」

 左大臣である備堂真次に呼ばれ、傍らに控えていたのは他でもない、

「近いうちに、瓜生神祇官の末姫様の元へ、寄らせて頂くように。よいな?」

「はい」

 燕倪であった。

 顏を合わせれば、事あるごとに、この有様。

 場を壊さぬ程度に合わせ、上座を伺えば、

 ― ありゃ、、、 ―

 ここぞとばかりに取巻き連中に囲まれている、鳳祥院の姿。

 挨拶もできそうにないと苦笑したところで、

 ― んん? ―

 帝に仕える、うら若い采女達が、控えている廊下から顏を覗かせ、どこかを見つめているのに気が付いた。

 その、何やら熱っぽい視線に、さては見目良い楽師でもいるのかと、視線の先を追えば、

 ― やはり、お前だったか。清親よ、、、 ―

 何故か、年配の参議、書博士らといった文系の官吏に囲まれる天部清親の姿があった。

 この分では、呑み比べはまたの機会。

 末席へと下がれば、

「お、、、」

 見覚えのある背中が、宴を抜け出すところであった。

 

 

 

 甲高い龍笛が、どこか遠くに聞こえる。

 月明かりに、白々浮き上がる玉砂利の上を歩きながら、

「、、、、、」

 黒貂の肩掛けを、首に回した。

 無人の社殿群。

 白い吐息が滲めば、まだ、痺れが残る指先を、袖にしまった。

 冷えている。

 ― 少し、酒が過ぎた、、、 ―

 僅かだか、足が、重い。

 いつもの何てことない笑い声すら、耳障りだった。

 宴の篝火に背を向けて、冬夜の深みへと向かえば、ようやく一息つけた気が、した。

 その声が、掛かるまでは。

「どこ、行くんだよ」

「、、、、、」

 振り返れば、良く見知った顔が、内裏正面、承明門の前に立っていた。

 仁寿殿の篝火に照らし出された紫宸殿を、背に負って立つ、その姿。

「左近一の舞手が、出番を待たずに雲隠れか?お前の倭舞、帝は楽しみにしておられるってゆーのに」

「、、、、、」

 ぐっと、奥歯を噛み締めて、歩き出した。

 ― 帝が、俺の舞を?、、、どうでもいい ―

 口元に薄笑みを刷くと、自然、速足になった。

「おい」

 肩を怒らせるその様子に、こちらに向かってくる、気配。

 すぐ、傍らに並ばれれば、

「具合でも、悪いのか?」

 気遣うように、顏を覗きこまれた。

「、、、いや」

 かろうじて、いつもの顏を作った。

 口元が、僅かに引きつる感覚があった。

「そうか。それなら、いいが、、、」

 にこりとされた。

「お前こそ、筆頭射手だろう?悪い事は言わない。宴にお戻り、燕倪」

 いつもの顏で、いつもの声で、そう言ったつもりだった。

「、、、、、」

「、、、、、」

 沈黙に、顏を上げた。

 月明かりの下、

「、、、、、」

 その相手は、ただ、静かに、こちらを見つめていた。

 忌まわしくも、美しい、青鈍の眸で。

「烈也」

 その低い声は、いつになく、腹腔を響かせるほどの重さでもって、左近衛府四中将が一人、真紀烈也の鼓膜を、穿った。

「射凧の儀の最中、妙な輩を一人、討ち取ったと聞いた」

「ああ」

 烈也は、頷いた。

 そのまま、視線を反らす。

 指先は、まだ、痺れていた。

「内宴が済んだ後、俺の部隊で詮議し、報告しようと思ってな。何はともあれ、未然に防げて、良かった」

 さすがに堪えたと、ため息を吐けば、

「聞かせてくれないか?何があったのかを、、、」

「、、、、、」

 そう請われ、辺りを、見回した。

 人の気配は、無い。

 野犬の遠吠えが、いずこからか遠く、聞こえる。

「、、、簡単な事だ。帝に仇為す手段なんて、腐るほどある。騒ぎを起こそうとした輩は、身元の一切が不明だ。潜んでいるところを、たまたま、俺の部隊が見つけた。以上だ」

「それだけ、か?」

「他に、何がある?」

 侮蔑を含んだような笑みが、鼻先を抜けていく。

 顏を突き合わせる気分では、無かった。

 早々に、この場を立ち去ろうと、背を向けようとして、

「潜んでいるところを見つけただけで、射殺いころしたのか?」

 肩を掴まれた。

「仕方ないだろう。帝の御前を、血で穢す事だけは避けねばなるまい。矢を構えていれば、尚のことだ」

 振り払えば、

「だから、背を向けた者の首を、射抜いたのか?」

「くどいぞ、燕倪」

 腕を跳ねあげ、振り向いた。

「あの木立の中で、首を射抜いた腕だ。お前ほどの射手が、何故、みすみす殺したのかと、、、」

「何が、言いたい?」

 平素、人当たりの良い、優男。

 しかし、眉間に皺を寄せたその形相は、まるで、別人であった。

「刺客が狙ったのは ―――、俺だろう?」

「、、、何を、戯けた事を」

 失笑が、その薄い唇を歪めた。

 話にならないと、社殿裏の壁に背を預ける。

 腕を組み、社殿の月影の中、炯々とした眼差しで、こちらを見ている。

 さすがに、この場から立ち去る気は、無くなったようだ。

 懐にある、【文】の存在。

 ― 使えない。送り主に、何があるか、、、 ―

 突きつけてやりたい衝動を抑えれば、

 ジャ…ㇻㇻ…

 袖の辺りから、聞きなれた音が、小さく聞こえた。

 冷え冷えとした大気を、肺腑深くにまで吸い込むと、

「以前、黒狗で仕立た式神を、送られた事があった。間一髪、都守とその連れによって、今の俺がいる。その騒ぎは、不浄門での一件として、都守との連名で、報告書を出した」

 反って、淡々とした口調となった。

 それが、烈也の気に、障るようで、

「ほう。で、今回も、同じ相手と?」

 薄笑みを讃えた唇が、吐き捨てた。

 燕倪の青鈍の双眸は、腕を組んだ烈也の拳が震えているのを、見た。

「、、、ああ」

 静かに頷けば、

 ギッ…、と、奥歯が擦れる音が、した。

 そして、

「燕倪」

 その声はもう、怒りを隠そうとはしなかった。

 低く、唸るような声でもって、

「同族の好として、お前を弟のように思っていたが、このような形で、汚名を着せられるとは、思わなかったぞッ」

 烈也が、咆えた。

 わなわなと震える拳が物語る ―――、憤り。

「俺も、だ。備堂の業は、俺が継ぐ。始祖より賜った業丸を継いだ時に、覚悟していたつもりだった。だが、それは、外部からのものだとばかり思っていた。実際は、、、違っていた」

「燕倪ッ」

 震えた拳が、振りかぶられた。

 そのまま向かってくるのを ―――、

「ぐッ、、、つッ」

 燕倪は、甘んじて、受け止めた。

 鈍い音に続いて、その長身がよろめいたかに、見えたが、

「そうだ。回りくどい事なんか、ねぇよ。直接、来いよっ」

「あぐッ」

 次の瞬間、燕倪の拳が、その頬を捉えた。

 長身から繰り出される一発は、烈也を壁へと押し戻した。

 壁に手をやり、血走った眸で燕倪を睨めれば、

「俺は、良い友を持ったと、思ったよ」

 その鼻先に、袖から出した【もの】を、突きつけた。

 シャ…ラ…

 月明かりに透ける、翡翠の連珠に、煌めく瑠璃の管。

「なん、だと言うんだ。それが、何だとッ」

 口が切れたのか、血の混じった唾を吐く烈也に、燕倪は、

「血痕を残さぬようにするのに、気を取られたんじゃないのか?現場の近くで、俺の部下が見つけてくれたんだよ。これは、都守の連れのものだ」

 封神具である翡翠輪を、袖に戻しながら、言った。

「先ほどから、連れ、連れと、、、式神と称して連れまわしている、寵童の事か、、、」

「実際、この童は、俺たちが言うところの異形だ。だが、以前も今回も、その童が、俺の死相を予見し、その身を賭して防いでくれたようだ。俺にとっては、かけがえのない友だ」

「ふん。異形が、友、だと?都守について、異形に情でも湧いたか、、、」

「どうとでも言え。誰になんと言われようとも、覆す気は、ない」

 侮蔑を含んだ一瞥を、燕倪はまっすぐに見つめ返した。

 一点の曇りのない、澄んだ眸であった。

「きに、く、な、、、よ、、、」

 対峙している烈也の喉が、低く鳴った。

 と、次の瞬間、

「くっ、、、」

「殴り合いは、ここに至るまで散々嗜んでな」

 烈也の拳は、燕倪の手によって弾かれた。

 笑みすら浮かべた、その顏を、

「気に食わないんだよ。それが、、、」

 怒気をはらみ、赤々と見開かれた眼が、睨んだ。

「俺は、、、俺は、ここまで来るのに、やっとだと言うのに、、、お前は、【まがつ色】の眸を持ってしても、本家筋であるが故に、ここにいる。本来ならば、精々、諸国の追捕使止まりの、【お前】が、だ。それが、どうして、、、こうして宮中に、のさばっている」

「、、、、、」

「挙句、俺の目の届く所にばかり転属し、ここにいる。、、、次は、左大将か?」

「馬鹿な事を、、、」

「馬鹿な事、だと?兄共が良い例だ。必ずしも実力だと、お前は言うのか?俺は、呪ったよ。本家筋から外れた、己が出生をな、、、」

「、、、、、」

 燕倪は、烈也の陰をようやく、目の当たりにしている気が、した。

「お前は、知っているはずだ。知っていて、なお、受け入れている。俺からしてみれば、お前も、所詮、兄共と同じだ」

 手を払うと、烈也が、歩き出した。

 玉砂利を踏みしめる、足音。

 燕倪は、言葉を探し、

「、、、、、」

 思いつかずに、沈黙した。

「ふ、、、」

 俯いた烈也が、小さく、笑ったようだった。

 燕倪の傍らを通り過ぎ様、

「反論は、なし、か、、、。俺は、そんなお前が、反吐が出る程、嫌いだ、、、」

 どこか寂しげに、呟いた。

 

 

 

「、、、、、」

 遠く、人々の嬌声が、聞こえる。

 乱れた、笛の音。

 宴もたけなわ。

 誰かが、舞を披露しているのかもしれない。

「嫌い、か、、、」

 残された、燕倪。

 よろめきながら、社殿の壁に、凭れこんだ。

 ― 備堂の血、、、業、、、まがついろ、、、 ―

 考えたところで、今更、どうにもならぬ事ばかりが、頭を占めていた。

 ― 烈也、、、 ―

 年が近いせいもあって、上の兄よりも、親しみを覚えていた相手だった。

 それが、

 ― どこで、歪んだ?、、、いや。俺が、、、歪めたのか、、、 ―

 遠くに、感じた。

 今しがたまで、そこに居たのは、燕倪も知らない【相手】だった。

 ― 俺が、、、 ―

 今更ながら拳が、痛む。

 その痛みか、そのまま腕へと回り、肩から、胸へと廻って、心の臓が早鐘を打つ。

 鼓動が早く、熱い。

 目が、眩みそうになって、膝に手を置いた時だった。

 先の社殿の暗がりから、ゆらりと現れた、白い人影。

 壁に背を預けていた燕倪だったが、

「なんだよ。お前、いつからいた?」

 反って力が抜け、そのままずるずると座り込んだ。

 目の後ろ。

 後頭部は、まだ、くらくらする。

 玉砂利の上を歩く足音が近づき、

「今しがた、着いたばかりだ、、、」

 そう、嘯いた。

「嘘つけ、、、」

 項垂れたところで、

「、、、伯は、大丈夫か?」

 我ながらまともな言葉が、出た。

 頭よりも、口が勝手に動いているような、それは妙な感覚だった。

「銀仁が共に在った。今は屋敷で、眠っている」

「そっか、、、」

 ため息が、毀れた。

 少し、落ち着いた気がした。

 肩から力が抜き、脱力したまま顏を上げれば、見慣れた不遜な貌が、こちらを見下ろしていた。

 その闇色の眼差しにあって、

「あの感触は、もう、懲り懲りだ、、、」

 つい弱音が、漏れた。

「ふ、、、」

 蒼奘が、青い唇の端を吊り上げて、いつもの薄笑みを、浮かべた。

 手にしていた扇が、ぱちり、と鳴いた。

「伯は、恐れるよりも、向かっていくことを選んだ」

「向かって、いく、、、、?」

「お前だからだ。まこと、不思議な男よ、、、」

 灰鼠の直衣の袖が、翻る。

 烏帽子から毀れる、銀糸の髪。

 大内裏の一画に設えた宴に臨むのか、松明の明かりに赤く燃える夜空の元へと、歩き出す。

「宴に出るのか?大体、こういった場に、出たためしがないだろう?」

「左近の少将に中将が、揃いも揃って戻らぬとなれば、いらぬ噂もたとう」

「あ、、、」

 さすがに、皆の手前、顏の怪我そのままで戻るのは、まずいと思われた。

『だからと言って、場をぶち壊す気つもりか?』と、喉まで出て、呑みこんだ。

 これで相手は、気を回してくれているのだ。

「衆目を集めるくらいは、できようよ」

 遠ざかる白い背中を見送って、

「参った。参ったなあ、、、」

 燕倪は、頭の後ろを掻いた。

 膝に力を込めて、立ち上がる。

 白壁伝いに、千草を預けてある馬寮へと向かって歩き出した。

 幸い、人気は無い。

 ひっそりと静まり返った社殿群を、月だけが照らしている。

 ジャ…ㇻ…

 不意に、袖に入れた翡翠輪が、鳴った。

 同時に、懐に在る【文】を、思い出した。

 ― 烈也、お前にだって、、、 ―

 胸中は相変わらず、複雑だ。

 後ろめたいような、こそばゆいような。

 それが、入り混じっている。

 それでも、今は、

 ― 悪くはない気分だ、、、 ―

 と、素直に思えるのだった。

 

 

 

 梟の低い鳴き声を、夜風が運んでくる。

「、、、、、」

 女は、一人、月を眺めていた。

 千切れ雲が、ゆっくりとその影を、大地に落とす。

 薄氷が張ろうとしている池に、月明かりが滲めば、少々手狭な庭の姿が、浮き彫りになる。

 築山一つに、この季節には、まだ寒々しい、老桜。

 苔むした、庭石の間を流れる水の音。

 大して広くも無いが不自由も無い、山間に程近い、屋敷であった。

 濡縁に、長く広がった、癖の強い濡羽玉色の髪。

 痩せぎすなその身に、紅葉色の唐衣を纏って、いる。

 薄く、紅をさしただけでは、どこか幼さを感じさせる、容貌。

 まもなく、西の山に消えてしまいそうな、まろやかな月を、童女のように無心に眺めているせいなのかもしれない。

「あ、、、」

 ふと、その顏が、上がった。

 いつかは待ち焦がれ、今となっては、聞きなれた蹄の音が、近づいてきた。

 やがて、庭の向こう。

 簡素な垣根に、嵌め込まれるようにして作られただけの戸が、開いた。

「む、、、」

 その姿を見て、現れた男は、驚いたようだった。

 女は、暗がりから、月明かりの下へと歩いて来た男を見て、

「まぁ。ひどい、お顏、、、」

 くすくすと、笑った。

「ひどい、か、、、」

 頬の辺りを撫でながら問えば、

「ええ。それに、無精なお髭、、、」

「ん?」

 顎の辺りに手をやった。

 明け方に近いだけあって、ざらついた感触が、あった。

「おぐしも、乱れて、、、」

 ころころと笑う女に、

「そうか。それも、そうだ。ひどいものだな」

 釣られて男が、苦笑。

 女の隣に、腰を下ろした。

 月は、西の山稜に、沈みかけていた。

「こんな夜更けに、月なんぞ眺めて、風邪でもひく気か?」

 肩に掛けていた黒貂の肩掛けを、女の華奢な肩へ。

 そのまま、男の肩へ凭れれば、温もりがじんわりと伝わってきた。

「あなたこそ。こんな夜更けに、馬を駆って、、、」

「ここは、いい。都の喧噪が、程遠い」

「その喧噪を、持ち込まないで欲しいわ」

っ」

 女の手が、赤く腫れている頬骨の辺りを突いた。

 さすがに、端正な顏を顰めたところで、

「わたくしだって、たまには静かに、月を愛でたい時だって、ありますもの」

 すっかり月が沈んでしまった西の空を、眺めた。

 星が流れ、瞬いた。

 天の川が、天の高みに、奔っている。

「邪魔を、したかな?」

 機嫌を損ねたかと、横目で女の顏を伺えば、女の手が、腕に絡んだ。

 そのまま、指が絡めば、自らの腿の上へ。

 そして、

「本当に。わたくしと、この子の、邪魔を、、、」

 緩く、結わえられた、袴の結び目の辺りで、止まった。

「っ、、、」

 男が、一瞬だが、びくりと身を竦めた。

 この手の類を理解するには、僅かだが、時間が必要なのかもしれない。

 男が、女の貌を見た。

 こちらを見て、幸せそうに微笑む、その貌に、

「、、、、、」

 結局、気の利いた事など何も、言えなくなった。

 微笑みが、すべてを物語り、男は、思わず手を引こうとした。

 ― 俺、は、、、 ―

 血で薄汚れた手だと、思ったのかもしれない。

 怖くなったのかも、しれない。

 立ち上がろうとさえした男の手を、

「、、、燈螺とうら

「、、、、、」

 けれど、女は、離そうとはしなかった。

 それどころが、両手でもって、その手を包み込む。

 観念したのか、女の隣で男が、座りなおした。

 そして、空いている手で、頬の辺りを掻きながら、

「、、、髭、伸ばそうかな」

 そう、言った。

 

 

 

 嫌だと喚いたところで、目を背けたところで、耳を塞いだところで、【それ】は指先から、零れ落ちてゆく。

 繋いだ温もりも、掴み取った安らぎも、その時が来れば、すべて。

 風にさらわれたかのように、擦り抜けてゆく。

『、、、、、』

 これから、幾千、幾万と、目の当たりにするものなのかもしれない。

 そうかと思えば、幾千、幾万と、奪ってゆくものなのかもしれない。

 胸の辺りを、押さえた。

 痛い。

 そこから、体が裂けてしまうのではないか?

 それならば、いっそ、裂けてしまえばいい。

 何も感じなくなれば、生まれ出でる以前の暗闇に、まどろむだけだ。

 押さえた手の下で、白銀の砂が、

 さらさら…

 と、鳴いた。

 胸元から、闇に還ってゆく。

 見開いた視界に、何かが過った。

【目】だ。

 狂気に染まった、あの男の目だ。

 その目に、吸い込まれる。

 広いと思えない、あばら屋が、視えた。

 見た事のない農器具が吊り下げられ、渡された梁の辺りからは、鼠がこちらを伺っている。

 高く感じる、天井は、己自身が小さいからだ。

 足裏に感じる、冷たい、土の床。

 赤茶の泥。

 垢じみて薄汚れた衣には、顎先から滴る血潮が、新たな染みを作ってゆく。

 鉄錆と土の味が広がる、口腔。

 泥にまみれた手が、床に転がっている鍬の柄を、掴んだ。

 竈の脇。

 欠けのひどい水瓶の前に、男の背。

 振り上げた、手。

 男の頭上へと振り下ろされる、鍬。

 手に、鈍い感触。

 何度も、何度も。

 ふいに場面が、変わる。

 野外に、いる。

 人気のない山間の街道に吹き抜ける、風。

 白がんだ、空。

 暁が近い。

 芒野を揺らす風の代わりに、血の臭いが濃厚に漂っている。

 血濡れた獲物から滴る、朱。

 荒い、息遣い。

 足元で、ぴくりとも動かぬ、人々。

 朝一番に、市場に持ち込まんと運ばれた反物が、荷車から散らばっている。

 場面が、変わった。

 めまぐるしく、一様に血生臭い、男の歴史。

 一瞬、

『ッ』

 見知った顏が、見えた気がした。

 しかし、それも一瞬の事。

『、、、、、』

 気づけば矢を、つがえていた。

 大陸の鉱物からとった、毒の矢。

 運良く掠めたとて、ただでは済まない代物だ。

 大衆の面前で、狩る。

 それは、悪くない話であった。

 この辺りの地形は、熟知している。

 山懐に逃げ込めば、捕まることはない。

 男の目は、縦横無尽に馬を駆る武官を、追っている。

 こちらに向かってくる、その隙を ―――、狙う。

 人々の視線は、空に在る。

 警備の者も、当人も。

 大衆の目が在って、これだけ無防備な事も、ないだろう。

 歓声が、阿鼻叫喚に変わると思うと、妙な高揚感すら、覚えた。

 来る。

 近づいて、来る。

 目を眇め、腕に力を込める。

 息を、吐く。

 獲物の呼吸を感じ、重なり合う。

 優越感へと至る、至福の時。

 しかし、

『、、、、、』

 その視界は、赤く弾けた。

 仰け反り、半顏を押さえた手が、濡れてゆく。

 気配は、無かったはずだ。

 辺りを、探す。

 いた。

 異形の獲物だ。

 群青の髪に、翡翠の角。

 美しい、獣だ。

 欲しい。

 誰でもいい。

 何でもいい。

 ただ、欲しい。

 懐から、針を取り出す。

 突刺し、抉って、鳴かせてみようか。

 自らの姿を前にし、臆する素振りがない。

 向かってくる。

 心が、踊った。

 こちらに気づいたのか、具足の音が、耳に遠く、聞こえてくる。

 どうでもいい。

 邪魔をするな。

 腕を、振り上げる。

 その、綺麗な紫色に、しよう。

 紫の目に、、、。

 、、、、、、

 喉が、熱い。

 指先、爪先まで奔った、痺れ。

 濡れる。

 涙で、濡れるように。

 世界が、滲んで見える。

 手足に力が ―――、入らない。

 いや、だ。

 いやだッ

 死にたくない。

 死にたく、ないっ

 まだ、死にたくないッ!!

 死にたく、、、な、、、あ、、さん、、、

 

 

 

「、、、、、」

 見慣れた褥の天井が、見えた。

「か、さん、、、」

 涙が頬を、転がっていった。

 目を介して、最後に男が望んだ者の顏が、瞼に焼き付いていた。

 呼んだことなど、一度としてないのに。

「かあさん、、、ッ」

 氣に中てられ、同調したこの時ばかりは、【その言葉】が舌先に ―――、哀しく残っていた。

「どうした?」

「ッ!!」

 急に側で声がして、反射的に逃げようと体を起こしかけ、

「怖い夢、見たのか?」

「あ」

 頬を包んだ温もりに、力が抜けた。

 ざらついた硬い手であったが、涙の欠片を拭う、その指は、優しいものだった。

「、、、エ、ンゲ」

 掠れた声で、小さく呼んだ。

 すっかり日は暮れて、辺りは冬の夜の静寂で、満ちていた。

 どうしてここに燕倪がいるのか、伯には分からなかったが、

「しそ、、、も、なぃ、、、」

 行燈を背に、傍らで座っているその顏は、伯がよく見知った男のものだった。

 男の指が、頬を抓んで、

「無茶、したんじゃないだろうな、お前」

 茶化すように、睨んで寄越す。

 そして、

 シャㇻ…ン…

「忘れ物だ」

「、、、、、」

 翡翠輪を一瞥すると、伯はもう、何も言わなかった。

 甘い水仙の香り、火桶の暖、酒が入った大ぶりの瓶子の白さ、どこからか忍び入ってくる夜気。

 ここにいるのだ、と、自身に言い聞かせる。

 言い聞かせ、目を閉じようとして、

「ッ」

「おい、どうしたってんだ?」

 跳ね起きた。

 行燈のすぐ傍らに寄ると、

「、、、、、」

 小さく、燕倪に向かって牙を剥く。

 血の臭いが、していた。

「ああ、これだ、これ、、、」

 燕倪が苦笑しながら、頬の辺りを擦った。

 赤く腫れ、目の上が切れている。

 見れば、その傍らに、氷が入った桶。

 患部を冷やしていた布が、その氷の上に掛けられていた。

「なんつーか、珍しく泥仕合でさ」

 燕倪は、伯を座らせると、杯を持たせた。

 持ち込んだ瓶子を、傾けながら、

「お前には、話したこと無かったな、、、」

「、、、、、」

 菫色の眸を、見つめた。

 大きなその眸に、感情の揺らぎはない。

 ひた、と、燕倪を見返してくる。

 そんな伯が、理解できるかどうかは分からなかったが、

「備堂ってのは、権勢を欲しいままに、とか言われているんだ。ま、兄上らも、親父の引立てもあって、いい役職に就いたからな。嘘とも言い切れん事は、確かにあって。どこに行っても、誰に会っても、末っ子の俺は、その影から抜け出せない。それが、ガキながら、嫌でね、、、」

 手酌で、杯を満たすと、一息に杯を干した。

 すきっ腹に、沁み渡るのを感じながら、

「情けない話、この青鈍に透ける、【まがついろ】の眸も手伝って、早いうちから、伯父貴の屋敷に逃げ込んでさ」

 燕倪が、ぽつりぽつりと、話しはじめた。

「剣を振り回していれば、日が暮れた。何も考えなくて良かった。何にも、知らなかった。知ろうとも、しなかったよ」

 空になった杯を、掌で包み込みながら、かつての自分を思い起こす。

「先の帝が、崩御したのを機に、検非違使になり、衛士を経て、今の左近衛府に入った。傍から見れば、とんとん拍子。正に、親の七光りってやつさ」

 伯の手が、伸びた。

 高坏に積まれている干菓子を抓み、齧りはじめた。

「備堂の権勢、ここに極まり。凶色の眼の四男坊まで、見事宮中に上げたと言われている。俺はただ、与えられた部署で、がむしゃらにやってきたつもりだった。だが、近衛府に在るとな、いろいろ見えるんだ、、、」

 かりかりと、小さな音が響く中、

「実際、その通りだった、、、」

 自嘲気味に、燕倪は、笑った。

 どこにいても、何をしても、その名はついて回る。

 燕倪は、伯が無心で菓子を齧る様を見つめながら、

「何を言われても、いい。今の職以外に、務まるものはないと思っている。だが、、、」

 ため息、一つ。

「俺が構わなくとも、俺がいるだけで、煙たがる者もいる。俺が、お前を斬った時の事、覚えているよな?」

「、、、、、」

 伯に変化は、ない。

 もうひとつの干菓子を、口に運んだところだった。

「黒狗の式神を差し向けたのも、そうだ。今日は、痺れを切らしたのか、帝の御前で、刺客を送り込んだ」 

 行燈の薄明かりに照らされた沈んだ横顔に、顏の怪我が、痛々しい。

 口に出した通り、さすがに参っているのかもしれない。

「本当は、見当、ついていたんだ。それでも、と思って、何もせずにいた。けどな、死人まで出ちまって、お前らも巻き込んじまった」

「、、、、、」

 干菓子を齧る音が、いつの間にか、止んでいた。

 菫色の大きな眸が、もの言いたげに燕倪を見つめていた。

「斬っちゃいないさ。そいつを一発、ぶん殴ってきたところだ。もっとも、この通り。一発貰っちまったけど」

 懐から、【あの文】を取り出すと、

「相手側にも、その身を案じる者がいる。早く、気づくといいもんだな」

 燕倪は、行燈に差し入れ、火をつけた。

 火鉢の中に落とせば、

 ジジ…ジ…

 あの移り香が、ほんのりと香って、消えた。

 それは、

 ― 香道なんて嗜んでなきゃ、確信せずに、済んだかもしれない、、、 ―

 いつか、烈也から香ったものと、同じものであった。

 自嘲気味に、嗤ったところで、

「、、、、、」

 伯の視線が、未だ、向けられている事に、気が付いた。

「、、、なんだよ、伯。まだ心配、継続中か?」

「あ、ぅっ」

 嫌がる伯の髪を、がしがしと撫でながら、

「逃げも隠れもしないから、直接、俺に向かって来いって。宣戦布告、効くといいけどな」

 燕倪は、瓶子を傾けた。

「あぎゅー」

 引き寄せられるまま、その腕の下で呻けば、鼻先に酒。

「こんな時だからこそ、朝まで付き合えよ」

「、、、、、」

 伯の手が、うんざりとした様子で、杯を持った。

「なぁ、あいつ、どこにいるか知っているか?」

 だが、話題が、ここにはいない蒼奘の事になると、

「、、、、、」

 じっと、燕倪を睨んで寄越す。

 やはり、姿が無いと、不安なのかもしれない。

「お、気になるよな?」

「、、、、、」

 ぷい、とそっぽ向いた。

 表情こそ変えないが、仕草が子供じみてみえた。

 その様子を、どこか楽しげに眺めつつ、

「御所で開かれている、労いの宴だ。今頃、俺の代わりに、清親に絡まれているころだろうよ」

「、、、、、」

 今度は、背を向けられた。

 これでは、伯が燕倪に、絡まれているようなものだ。

 煩いとばかりに、褥に戻ろうとするのを、

「なんだ、寝るのか?すぐに寝ると、また、怖い夢、見るぞ?」

「、、、、、」

 燕倪の一言が、止めた。

 明らかにむっとした様子で、燕倪の前に座ると、

「んッ」

 杯を、突き出した。

 付き合う気に、なったらしい。

「そうこなくちゃ」

 破顔した燕倪が、瓶子を傾ける。

 とくとく、と、良い音をさせながら満たされる、塗りの杯。

 杯を重ねるほどに、じわりと喉を焼き、腹腔に熱となって蟠る。

 特に話題も無く、琲瑠も汪果も姿を見せなければ、じきに話題が尽きて、

「、、、なんか、喋れよ」

「、、、、、」

 伯の当然の反応に、それでも嫌な気はしなかった。

 伯も、席を立とうとは、しなかった。

 律義に付き合うつもりだったのか、燕倪の向かいで睡魔に負けるまで、杯を放さなかった。

 やがて、うつらうつらと、向かいではじめた伯を、穏やかな眼差しで見つめつつ、

「ありがと、な、、、」

 燕倪は、小さく礼を言った。

 脇息の上へ、崩れ落ちるその前に受け止めて、そっと、褥に寝かせた。

 無防備な、その寝顔。

 何よりもそれが、ささくれだった心を、じんわりと溶かしてくれるようだった。

 

 


 後、3話で終わらせるつもりが、燕倪や、当の蒼奘の構成を、まったく書いてなかった煬でございます。次は、最近影の薄い蒼奘をメインに書く予定ですが、毎度ながら、更新は未定。。。気長に、覘いていただけると、書き手冥利につきますな。。。


 帝都を書き始めた当初より、烈也の役回りは決まっていたのだけれど、我ながら、ずいぶんとひっぱってきてしまった。。。ひとまず、これで、烈也は完結。。。清親の、容姿が残念、でも気立てが良い妹さんも、少し入れ込めたし。。。


 昔読んだ、柴錬の作品に、とある女好きの男が、残念な娘を前に、≪オコゼのようだ・・・≫という、セリフがあった。この文章が妙に好きで、いつか俺もそのようなキャラを、ってんで、書いてしまった。。。でもね、結局、このドンファンは、そのオコゼ娘を、母に似ている、と口説くんだけどね。。。


で、結局、手を出すのかよッ!!∑(゜ω゜ノ)ノ

でもさ。。。そんな時期って、あるよなっ、てwww

学生時代の共感話っすけどねorz。。。


 と言うわけで、報われぬ想い人を、友として守る愛を選んだ清親姐さんは、妹に婿を迎え、家を盛り立てているのであります。。。


。。。。。


毎度ながら、更新直後の後書きって、何、書いてんだか・・・

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