表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
34/56

第拾ノ参幕中   - 離れ -

 射凧の儀を前に、燕倪の元に届けられた、差出人不明の文。死相晴れぬまま、燕倪は、射凧へと臨むことに、、、


 死人還りの都守蒼奘、業丸を継ぐ武官燕倪、幽身であるがこの世に縛られた伯。それぞれが紡ぐ異国絵巻、第十三幕中編。。。

 燕倪が千草を駆って、明日に迫った【射凧】の舞台となる北の直轄地、その見回りから戻ったところを、

「ああ、お帰りなさいませ、主様。待ちくたびれましたよっ」

 すっかり陽も暮れ、寒さも一段と厳しくなっているというのに、律義にも門前で待っていた籐那が、出迎えた。

 慣れたもので、千草の轡を取り、首の辺りを擦って労いながら、

「吉報も吉報ッ!!今朝方、いずこの使いの者とも名乗れぬ方から、文をお預かりしましたっ」

「文?」

「はいっ」

 燕倪に向かって、大きく頷いてみせた。

 ― はて、俺に、文?羽琶殿ではないと言うと、、、? ―

 訝しげな顏になった燕倪に、

「姫君の間では、主様は、帝都に跋扈する魑魅魍魎を斬り祓うって、有名みたいですからね。やんごとなき姫君からの、恋文では?!」

 興奮を隠せない籐那が、きらきらと眸を輝かせ、文を手渡した。

「お車の用意は、いつでもできておりますよ。お孟さんには、直衣をいくつか出しておいてもらいましたし、明日は、大切な【射凧】が催される日でございますが、主様が今日の今と申されましても、それはもう、つつがなく、、、」

 燕倪は、籐那の気遣いを他所に、文を開いた。

 移り香が、甘やかに香る中、

「、、、、、」

 燕倪は、繰り返し繰り返し書かれた、短い言葉を読んで、鈍色の眸を眇めた。

 

≪ お気をつけ下さいませ お気をつけ下さいませ ≫

 

 ただ、それだけであった。

 素性を伺わすものすら、ない。

 濃厚な移り香、それだけだ。

「あの、主様。それは、その、、、」

 燕倪の様子に、艶文ではなかったのかと、肩を落とす、籐那。

 大方、父である備堂真次に、『縁談が決まれば謝礼を弾む故、見合いをそちからも勧めろ』と、言い含められているのだろう。

 燕倪は、文を懐に仕舞いながら、

「籐那」

「はい。なんでしょうか?」

 にこりと、笑った。

「実に、可愛らしき文であった。あと、数年の内には、美しき姫となる故、その時は、と書き記されている。残念だが、母上の直衣に袖を通すは、まだまだ先に、なりそうだ」

「ええ?!童女の悪戯でございますか?!」

 ブルㇽㇽル…

 千草が低く喉を鳴らし、鼻面を寄せてきた。

 優しく撫でてやりながら、

「駆け通しで、疲れたろう、千草?今日は、ゆっくりと休んでくれよ」

 その大きな眸を見つめて言った。

 ひとしきり撫でられ、満足したのか、厩のある方へと首を向ける。

 千草に寄り添う、落胆の色の濃い籐那の背中に、

「その声援が、明日の俺の一矢となる。籐那、後は、頼んだぞ」

 ぐっと、大きく伸びをしながら、夜空を、見上げた。

 白い吐息が、夜気に、流れてゆく。

 ― やはり、、、 ―

 何かに思い当って、燕倪は、首を振った。

 母屋へと向かう足取りが、心なし ―――、重い。

 その姿を、空の高みに在る幾千もの星々が、静かに見つめている。

 燕倪の心とは裏腹に、皮肉にも明日は、良く晴れそうだ。

 

 

 

 ※

 

 

 

 青空の元、物々しい警備に守られ、張り巡らされた幔幕。

 平原に設えた、帝のための一席は、切り出されたばかりの総檜で組まれ、清々しいその香りを、辺りに漂わせる。

 左大臣、右大臣らはもとより、神祇官、各寮長ら、錚々たる顔ぶれが居並ぶ中、帝のそのすぐ傍らには、浄衣を纏いし【死人還り】の姿が、在った。

 本来、帝に降りかかる禍、その一切を負うべくして設けられた、

「浮かない顏だねぇ、都守?」

「、、、、、」

【都守】と言う名の、帝の【形代】。

 御所を出てからここまで、その傍らに無言で控えていたのだが、不意に帝に顏を覗きこまれ、

「、、、いや」

 さしもの蒼奘、顎先を撫でつつ視線を外した。

 子供のように無邪気な輝きを放つ、黒き眸であった。

 武人達が腕を競う様を楽しまんとする者、両近衛府の力関係に一喜一憂する者、または、帝に取り入らんとし、その一挙一動に目を凝らす者。

 そのどれとも違う妙な空気が、

「、、、、、」

「、、、、、」

 先ほどから二人の間に、流れている。

 その実、互いに昔馴染みであるはずと言うのに、燕倪、清親と居る時とは違った【距離】が、ある。

「雲一つない、晴天なのに、、、」

 ため息のように呟いて見上る空は、その通り、どこまでも空色であった。

 西の空に掛かる白い月だけが、くっきりと浮かんでいる。

 平素、大内裏に在って、この国を治める、帝。

 柔和な物腰。

 穏やかな、その面差し。

 禁色、濃紫の龍袍の袖を払うと、毛氈に座した。

「あふぁ、、、」

 そのまま、あくびを、ひとつ。

 黄櫨染の御袍の袖を払い、大陸の虎の毛で作られた脇息に凭れれば、蒼奘が、緋色に金糸で鳳凰の浮織を施した長衣を、その双肩に、掛けた。

 端正な口元に、淡く笑みを刷くと、

「今朝からずっと、大気がね、ざわついているよ」

「、、、、、」

 傍らの蒼奘を見て、そう言った。

 四方に張り巡らされた、幔幕。

 こちら側からは伺えないが、その向こうでは、警備の者や野次馬らが、犇めいていることだろう。

「もっと気楽に、近衛府の勇姿を、楽しんでくれないかなぁ、、、」

「、、、、、」

 その喧噪のお蔭か、二人がいる上座の会話は、他には聞こえぬようだった。

 和やかに、隣席の者と言葉を交わしながらも、その意識は常にこちらに向いているようで、時折、伺うような視線が、投げかけられる。

 無理もない。

 その実、この先一年間、宮中を二分するといっても過言ではない両大臣の、宮中での発言力が、この【射凧】の勝敗によって左右されるのだ。

「こんな事で、一喜一憂するなんて、なんとも、、、」

 あくびを噛み殺した涙目で、遠く、淡い藍色に空を縁どる山稜を眺める。

 つまらないわけではない様子だが、帝ともなると、様々な思惑に雁字搦めにされている現実に、憂えずにはいられないのかもしれない。

「、、、、、」

 蒼奘は、ただ黙って、傍らに控えている。

 白い太陽が、まもなく中天へさしかからんとする、頃合い。

 間もなく、射凧開始の合図が打ち鳴らされることだろう。

「ねぇ、都守。君でも、この勝負の行く末、気になる?」

「、、、、、」

 無言の、闇色の眼差しを、

「暇だから、【賭け】でもしないかい?」

 肯定ととって、かつて、鳳祥院の名で呼ばれていた男は、無邪気に笑った。

「賭け、、、と?」

 青い唇が、白い吐息を吐き出せば、

「うん」

 帝が、嬉しそうに何度も何度も、頷いた。

「君が勝てば、、、そうだなぁ。私の権限でもって、こういった公の場への同席も、免除しようか?」

「、、、、、」

 それは、悪くはない提案であったらしい。

 それに対し、蒼奘が異を唱えることはなかった。

 しかし、

「、、、じゃ、決まりだね。こっちはねぇ、、、んんー、いつか見た【竜】が、欲しいな」

「、、、、、」

 こればかりは、闇色の眸がなんとも言えぬ感情を湛え、帝を一瞥した。

 どこか、真摯な感情すら宿した眼差しを受けて、帝が、小さく肩を竦めてみせた。

「、、、冗談だよ。さすがの君でも、あんな大きな【竜】を捕まえるなんて、無理だろう?」

 そう苦笑するその人に、

「無理、と言うか、、、手に、負えぬと言うか、、、」

 蒼奘、小声でひとりごちた。

 いつか、恩鼓寺へ帝を逃がした際、その上空を通った【竜】であり、式神と言わしめて、養っている、その相手の顏が、脳裏を過った。

「まぁ、いいんだ。どのみち、あんな大きなものを飼ってしまったら、世話が大変だろうし。後は、、、そうだなぁ、、、」

 何も知らない帝が、ひらひらと手を振って、脇息に預けた腕に、顎を乗せる。

 しばらく、首を左右に傾げていたが、

「うん。決めた」

 急に、姿勢を正す。

 拳を、膝につけると、

「ずっと、ずーっと、気になっていたことがあるんだ」

 手にした扇を、開いたり閉じたりしながら、蒼奘の横顔を、眺める。

 肩に流れる、白銀の髪。

 陶器のような、滑らかな肌。

 彫像のような、その端正な横顔に、

「君が君で無くなった謎を、教えておくれ」

「、、、、、」

 かつての耶紫呂蒼奘をよく知る【友】の一人が、そう告げた。

「都守を決めた、御前試合。陰陽寮推挙の天羽実敦どのとの一戦は、今でもよく覚えているよ。あれは、わたしが知る【君】じゃなかった、、、」

「、、、、、」

 穏やかな眼差しに、強い光が、宿り始めていた。

 それは、普段、その柔和な容貌の奥底に隠している、炯々と光る熾火の如き激情であった。

 ビョウッ…ロロロォ――…ッ

 不意に、上空に向かって、鏑矢が放たれた。

 オォオオッ…オオオオッ…

 人々の歓声と呼応して、俄かにざわめき震える、大気。

 五色の綾紐。

 その軌跡を残し、両近衛府大将が放った二本の鏑矢が、優美な弧を描いた。

 幔幕の内。

 居合わせた誰もが、上空に目を凝らしていた ―――、上座の二人を、除いて。

「わたしが知る【君】は、大衆の前で、絶対的な力を誇示するような、そんな男じゃない。いくら、【先代】の遺言だとしても、【彼】は ―――」

 視線を反らすことを許さず、帝は語った。

 ここにはいない、かつての【友】を。

 オォオオ―――ッ

 再び、歓声が上がった。 

 緋と翠の連凧が、幾つも空に舞い上がる。

 暢気に手を叩き、空を仰ぐ、重鎮ら。

 直前まで、帝の身辺に意識を向けていたはずだが、この様子では、上座で交わされている会話など、到底、耳に入らぬことだろう。

 帝の長い睫が、ふるりと、揺れた。

「――― 、その力を、誰よりも畏怖していたのだから」

「、、、、、」

 蒼奘は、否定も肯定も、しなかった。

 ただ一言、

「、、、左様か」

 そう嘯いて、空を見上げた。

 薄く、青い唇元に、いつもの薄笑みを、刷いて。

 帝も釣られて、顏を上げた。

 風をはらんで、百八となる連凧―――、十八枚からなる連凧が六本、それが一対、この国の民の安寧を願って、鳴弦の音を共に、帝都の空に舞いあがる。

 風を得て身をくねらすその姿は、まるで、生き物のようだ。

 上空の連凧に向かい、いよいよ矢が、放たれる。

 広大な大地を、縦横無尽に駆け巡る、騎乗の射手。

 無数の馬蹄が雪原に轟けば、大地が蠕動しているかのようだった。

 弓を手に馬を駆る、揃いの束帯。

 その中で、緋色の表衣を纏った武官が、雪原に在って一際鮮やかに、視界に飛び込んできた。

 帝、鳳祥院は、その双眸を眇めて、

「わたしはね、右近衛府だ。いいね?」

 子供のように、そう笑ったのだった。

 

 

 

 そこ、ここに、幔幕がめぐらされた、広大な帝の直轄地。

 普段は、狩りなどで利用されぬ限り、人など立ち入らぬ野原が、今日ばかりは人々の熱気で満ち満ちていた。

 一目見て、出自が分かる身形の良い僧侶や、手や顔に染粉をつけ、仕事を放ってやってきた若者ら、白粉の剥げた眠気眼の女達から、枯れ枝を手に襤褸を纏った子供まで。

 老若男女、都中の人々が一堂に集まっているのではないかと言う人垣が、延々と伸びている。

 連凧を揚げる【揚手】と呼ばれる者らが風を捉え、撃ち落とされまいとする中、総勢十二名の射手らが騎乗にて弓を構え、上空を揺らめく的に狙いを定め ―――、矢を放つ。

 オォオ―――ッ

 ウワァアア―――ッ

 大気が歓声でどよめく中、見事、風穴の空いた連凧が、揺らめく。

 煩悩の数、総数百八もの相手側の連凧を、総てを射ち抜くか、あるいは、その凧糸を射ち抜く速さを競う。

 人々が待っているものは、武官らの勇姿ももちろんのこと、その流れ矢や、切り放たれたはぐれ凧だ。

 切っ先を潰された儀式用の矢や凧は、いつしか縁起物とされ、それ目当てで、厳重な警備の目を掻い潜り、茂みに潜む者も少なくないと言う。

「、、、、、」

 露店までも居並ぶ、人々の最後尾に、ややくせのある黒髪を背で束ねた童が、供を一人連れ、現れた。

 黒々とした人だかりの、遥か彼方。

 簡易の竹柵の前、警備の武官らが居並ぶ中、押し寄せた群衆の熱気で、降り積もった雪も溶けてしまいそうで、

「、、、けほっ」

 一目、その勇姿を見るつもりだったが、琲瑠を連れて訪れた伯は、思わず咳き込んだ。

「若君、だから申しましたでしょう?このような人出では、その氣に中てられると。主様も、そう申して、、、」

「けふっ、、、ぇふっ、、、ふー、、、ふ、、、」

「大丈夫でございますか?」

 肩を怒らせつつ、なんとかこらえたところで、

「ああっ、やっぱり、そうじゃっ」

 露店の間を縫って、角髪を結った小柄な童が、姿を現した。

「あ、、、」

 青味がかった、黒瞳。

 つん、とした鼻に、薄桃色の口元。

 纏った水干の袖を抓んで、

「兄上のお古だ。どうじゃ?似合うか?」

 くるり、と回ってみせた。

「むー、、、」

「そっけない態度じゃの」

 返答に困って、思わず呻いた伯に、苦笑。

 いつ見ても、快活そのものの姿に、

「すっきりと晴れ渡った、良い日和で、なによりでございますね、あとり姫」

 伯のすぐ後ろで、琲瑠が一礼した。

「ああ。さぞや、左少将の腕も冴えることだろう。もちろん、右の鬼中将も、負けてはおらんぞ。こっちじゃ、こっちじゃ」

 大きく頷いてから、あとりは、伯の袖を引いた。

 露店が居並ぶ、その裏手には、枯れ草の茂み。

「嗚呼、姫さま、そのようなところへ、、、ッ」

 いきなり茂みに分け入ったと思ったら、細い獣道が現れた。

 見失わないように、遅れて入った琲瑠も、その白い背中を負う。

 狩衣の袖で顏を庇いながら、頭上まである枯草の原を渡る。

 右も左も、同じ光景。

 前方を行く、その背中を見失えば、方向すらも分からなくなりそうだ。

「おっ、、、と」

 そうこうしているうちに、

 ― いやはや、見失ってしまった、、、 ―

 琲瑠は、苦笑。

 茂みを渡る足音も、人々の歓声で掻き消えてしまいそうだ。

 ― なんとも情けなや。どうしたものか、、、 ―

 一息ついた、時であった。

「従者殿、こちらへ」

 腹腔を震わせる声音と共に、大きな人影が、現れた。

「これは、銀仁殿。お手を煩わせてしまして、、、」

 若草色の狩衣に、浅葱の長衣を合わせた、虎精銀仁。

「無理もない。このような深い茂みだ」

 切れ長の双眸。

 化身してはいても、その細い瞳孔で見降ろされると、

 ― 身が竦むとは、このこと、、、 ―

 小柄な琲瑠が、更に、小さく見えてしまう。

 大きな背中についていく事しばらく、

「お、、、来た来た」

「むー」

 視界が、開けた。

 竹柵の果て。

 雑木林が広がる、その辺り。

 床几が四脚、用意されていた。

 揃って座っているが、伯の袖は、

「、、、、、」

 あとりの手に、掴まれたまま。

「昨日、燕倪が、見るならここで、と言ってくれてな。お前たちもくるだろうからとも、言っていた。警備の者にも、話を通してくれてある」

「左様でございましたか。燕倪様は、ここしばらくお忙しくされておいでか、当屋敷に寄られずじまいで。水臭い方、、、」

 琲瑠が、なんとも言えぬいつもの表情で、雪原を眺める。

 どれもかれも、似たような形のせいで、同じに見えた。

 蹴り上げられた雪と、馬の吐息。

 上空に吹く風は気まぐれなようで、揚げる者達も、射抜かれまいと額に汗だ。

 居合わせる誰もが皆等しく、空を見上げては、矢が突き抜け、連凧が揺らめくさまに、歓声を上げずにはいられない。

 琲瑠に、床几に腰を下ろすよう勧めてから、

「見ての通り、この人だかりだ。幸い、ここから土手の上を歩く姿が見えた。迎えにと言った時には、すでに、、、」

 そう、穏やかな眼差しで、伯に向かって楽しげに話す、あとりを見つめた。

 口に出したら最後、銀仁も見失う程の速さで、『迎えに行く』と、茂みに紛れてしまったらしい。

 格好もさることながら、高坏に盛られた薄紅色の干菓子を、揃って齧る姿は、姉弟のようにさえ見える。

 会話が成立しているかは、ほとほと怪しいものだが、こうして改めて二人の姿を見ると、存外、仲が良いのかもしれない。

 かりかりと、干菓子を齧りながら、伯が、彼方の雪原を掛ける射手らを眺める。

「、、、、、」

 つぶらな、その眸。

 視線の先を追おうとして、

「下見やらで、ここまで何度も足を運んでいた。責任感は人一倍だ。決して、見せはしないが、、、」

 銀仁が、一点を、指さした。

 葦毛の肥馬、【千草】を駆り、最奥に陣取って、まさに矢を放つところであった。

「ええ。けれど、燕倪様ならば、きっと、、、」

 目にも止まらぬ速さで、黒き矢が、奔った。

 オァォオアア―――ッ

 歓声が、物語る。

 目を凝らして、よくよく見れば、

「おお、、、」

「ふ、、、さすが、左近衛府きっての、豪腕。見事なものだ」

 緋色に、右の字。

 その右の口の中に、風穴が空いていた。

 ウワアアァア―――ッ

 今度は、別のところから、歓声が沸いた。

 首をめぐらせるその前に、

「二枚同時の射貫きじゃッ!!清親様も、冴えておるわ」

 はしゃいだような、あとりの声音が、響いた。

 大弓を手にした、緋の色の表衣も鮮やかな、束帯。

 烏羽玉の髪をきりりと結い上げた、凛とした、その横顔。

 褐色の双眸は、風に揺らめく標的を、的確に捕えていることだろう。

「ほほ、あのような遠くからっ!!銀仁、あの御仁は、誰ぞ?」

 警備の者達も、思わず声をあげつつ、身を乗り出さん勢いの中、あとりが、指を指す。

 今しがた、最も上空の凧を、射抜いた者だ。

「あちらは、左少尉。筒井克永殿だ。お若いが、遠的を良くする」

「筒井殿、か、、、それでは、あちらの朱塗りの弓の御仁は?!」

「右の四中将の一人、兼益直祐殿だ。早射ちの名手として、名高い」

 勝負はまさに、一進一退。

 誰もが皆、その意識が空に在る中、

「若君、、、」

 琲瑠が、そっと、伯に耳打ち。

「燕倪様が、心配で?」

「、、、、、」

 先程から、じっと、一点だけを見つめている。

 その貌は、心なし青ざめているようにも、見えて、

 ― このような、人目のあるところでは、万に一つも、、、 ―

 そう言ってやりたいところで、ぐっと、堪えた。

 ― わたしも、長く陸に上がり過ぎたようだ、、、 ―

 自身も、伯同様、この土地に在って、変わったのかもしれない。

 上空の的に狙いを定め、大弓を引く、その勇姿。

 ― 不思議な方だ、、、 ―

 琲瑠は、幾つも点在する幔幕を眺めた。

 雪原の中央。

 その幔幕で、主も同じように、その姿を眺めているのだろうか?

「、、、、ぉ」

 微かだが、傍らで声が、漏れた。

「あ、、、若君っ」

 まさに一瞬の事。

 水干の袖が翻ると、深藍の肩掛けが、舞い落ちた。

 

 

 

 茂みが揺れる、その向こう。

 広がる雑木林を見て、

「お待ちをっ!!わたしも、、、っ」

 琲瑠が、たまらず駆け出そうとする。

 華奢なその肩を、

「は、離してくださいっ」

 銀仁に、掴まれていた。

「銀仁」

「ああ」

 短い、あとりの声に、銀仁が茂みへと飛び込む。

 後を追おうとしたところで、

「琲瑠どの。銀仁は、皆に借りがある。どうか、任せてはくれないか?」

「あ、とり姫、、、」

 一人、青みがかった黒瞳で空を眺めるあとりを、振り返った。

「わらわは、夢見。他人の夢を垣間視るだけの、ただの夢見だ。悪夢を、覆す方法も知らぬ。それでも、、、」

 その眼差しは、まっすぐに、彼方の燕倪に注がれる。

「それでも、あんな結末は、、、夢見が悪すぎる、、、」

「では、あとり姫も、その夢を視て、、、?」

「うん。あの日は、気づいたら夢の深海に漂っていて、伯が見えたような気がして、、、。そう思った時には、、、」

 血濡れた雪原に伏した見知った顔と、劈くように響き渡った声なき叫びを、聞いていたと言う。

「、、、、、」

 琲瑠は、言葉を探し、あとりを見つめた。

 将来を約束された家柄の、末姫。

 寒さや飢えに怯えることなどない、名門天羽家の一人。

 しかし、その華奢な肩に課せられたものは、時として、現実世界をも凌駕する【残酷な人間の本質】を、目の当たりにすることだ。

 華やかなものばかりではない。

 人間がこの世に在る限り、悪夢もまた、夢路そこには、存在する。

 ― この、幼き人の子に、【大いなる存在】は、いったい何を思し召しに、、、 ―

 胸の痛みに、たまらず、眉を寄せたところで、

「だが、あの御仁の事だ」

 こちらを振り返った屈託ない笑顔に、はっとさせられた。

「そんなものには、負けぬ。負けるはずがない。わらわは、そう信じている。そうではないか、琲瑠どの?」

 強い光を宿した、眸であった。

「ええ、ええ。そうですとも」

 気が付いた時には、琲瑠は、力強く頷いていた。

 陸の上では、存分に発揮できぬ己の無力を呪いつつも、死霊、悪鬼に狙われる自らの護衛を顧みず、すかさず銀仁を向かわせたあとりの前にあっては、

 ― 陸には、しがらみが、多いと聞いていた、、、 ―

 琲瑠もまた、気づかされる。

 ― そのどれもが、煩わしいものだとばかり思っていたけれど、これはこれで、今となってはなんとも、心地良い、、、 ―

 そのしがらみこそが、幼き主君を突き動かんさんとしている本質であり、この地でこそ築かれ得た、【かけがえのないもの】で、あるのだと…

 怒らせていた肩から、ようやく力を抜けば、肺腑に冷たい大気が、流れ込んできた。

 冴え冴えとして、凛と張りつめた、冬の大気。

 琲瑠は、あとりの傍らに、腰を下ろした。

 気掛かりであったが、銀仁と一緒ならば、と、そう思えるのだった。

 

 

 

 張られた幔幕。

 その裏手から、僅かに【何か】が見えた瞬間、

「、、、、、」

 伯の足は、大地を蹴り、茂みへと飛び込んでいた。

 その先に広がる、雑木林。

 昼間でも薄暗い。

 誰も足を踏み入れた跡の無いそこを、身を低くした、伯が、駆ける。

 木立を縫う旋風のように、時折、枯れ草の茂みを揺らし、開けた雪原の喧噪を右手に見れば、さすがにこの雑木林内には、兵を置いていないようだった。

「ふっ、、、ふっ、、、」

 息が、上がり始める。

 雑木林の落ち葉が堆積し、雪で覆われた、大地。

 柔らかく足をとられれば、それだけで体力を消耗する。

 化身したままの姿では、常人よりははるかに身軽とは言え、行動に限界がある。

 もどかしく、胸元の翡翠輪に手を掛け、

 ― 伯 ―

 短く名を、呼ばれた。

 頭の中に、思念が響いたと思えば、

「くむっ」

 羽交い絞めにされ、そのまま頭を押さえつけられる。

 ― 静かに。その先で、人の臭いがする。気づかれるぞ ―

 雪に埋まった鼻が、じんわりと冷たい。

 息、苦しい。

 身じろいだところで、ようやく

「、、、、、」

 ゆっくりと、伯の体に覆い被さっていたものが、退いた。

 両手を大地につけたまま、上半身を起こせば、肩先に、後ろにいる男の髪が、長く落ちてきた。

 息を整え、鼻先についた雪を払いながら、苛立ちまぎれに、髪を引っ張った。

「っ、、、」

 伯を押さえつけた男、銀仁が、顏を顰めた。

 横顔を伺えば、小さな牙が薄い口元から、覗いていた。

 ― 、、、すまん ―

 以前、無理矢理、伯の口を、抉じ開けた過去がある。

 伯の傍らに、そのまま巨虎如き仕草で身を伏せれば、銀仁を一瞥した伯が、前方に、目を凝らす。

 右手から、沸くような歓声も、ここでは、どこか遠くに感じる。

 獣達の姿も、無い。

 平素、ここでは静寂が、占めることだろう。

 人が滅多に入らない場所は、帝都にも、幾つかある。

 蒼奘について、伯も訪れたことがあった。

 一度、喧噪から外れれば、内なる声が聞こえてきそうで怖くなり、散策もそこそこに、蒼奘の袖を掴んだものだ。

 ― 伯、何を見た? ―

 傍らの、銀仁が思念を送ってくる。

 こうして会話するのは、久々だとでも思ったのかもしれない。

「、、、、、」

 しかし、伯は黙ったまま、顎先を右手へ。

 銀仁の眼差しが、こちらを背にして居並ぶ、警備の者達を伺い見た。

 その中で、

 ― あの男、、、 ―

 一際雅な飾太刀を刷く、束帯姿の武官に、目が吸い寄せられたのだった。

 

 

 

 ― あの者を、追って、、、?だが、あの者は、、、 ―

「、、、、、」

 伯の唇から、小さな牙が覗く。

 今にも、低く喉を鳴らしそうな勢いに、銀仁が、参ったとばかりに片手を上げた。

 ― 腕は立つと、伺い聞いたことがあるが、、、。ここしばらく、目立った武功は無いとも聞いている。目下、左近衛府の折衝役に、徹しておられるとか、、、 ―

 そこまで思い返して、銀仁はふと思った。

 ― しかし、、、腕が立つのに、【折衝役】とは。近衛府の花形ともいえる、この舞台からも降りて、事務仕事、、、 ―

 そう考えると、確かに、きな臭い相手ではあった。

 それでも、警備の者達を見回って、時に談笑する姿は、穏やかな優男然として、俄かには信じがたいものがあった。

 シャ…ㇻ…

 小さく、石が触れ合う音が、した。

 見れば、伯の手が、翡翠輪を外すところであった。

 止めることもできず、その黒髪が、群青に染まる。

 翡翠色をした、一対の角。

 菫色へと澄み渡る、眸。

 異形の半神体へとその姿を変えると、伯は、音の出る翡翠輪をその場に残し、茂みから茂みへと音も無く、跳躍。

 その眼差しの、先。

 起伏に富んだ、雑木林。

 背の高い常緑針葉樹らが、競うように生い茂れば、昼でも薄暗いその果ては、尚、昏い。

 その一点を、睨んでいる。

 ひとまず、翡翠輪を茂みに隠し、伯の後に続く。

 待てと言っても、聞きはしない。

 その眸は、何を視ているのか?

 銀仁の鼻は、先ほどから、いずこからか漂う臭いを、捉えている。

 幸い、半神化した伯の身軽さなら、相手が音に敏感だとしても、気づかれることはないだろう。

 酒を主食としているうちは、文字通り、真綿の如き【軽さ】だ。

 酒を断ち、米や雑穀、魚鳥を食べぬ限り、そう言うものであるのは、虎精の銀仁も知っている。

 過去、それを伯に勧めることができたのは、遠野の羽琶姫くらいなものであったが、それも、当人が屋敷に滞在した、数日のみだ。

 ― 風伯が、、、 ―

 銀仁の鼻先を、白いものが、掠めていった。

 瞳孔が細く絞られた、【虎目】で視れば、風のかみの名を冠した精霊が、水干の袖を巻き上げるところであった。

 実際、木々の間を吹き抜ける風伯らを従え、舞い上がるその姿は、地に足をつける人とは、ほど遠い。

 異形の身軽さ、だ。

 ギ…ギ…リリ…

 どこかで、何かを引く音がした。

 前方を行く伯を追っていた銀仁が、顏を上げた。

 ― 上か、、、!! ―

 はたと気づいた時には、少し前方で、木の陰に身を預けた伯が、その手を雪に突っ込むところであった。

 伯の、眼差しの先。

 檜や杉、樫や椎といった常緑樹が、頭上を覆う、その中。

 ― いた ―

 銀仁は、黒い塊を、確かに見た。

 異様な鬼気を纏いつつも、それでいて、ひっそりと辺りに溶け込んでいる。

 垢じみた直垂に、地味な紺の括袴。

 民衆の中に紛れ込まれれば、見つけるのは容易ではないだろう。

 そのまま、ありきたりな風貌であった。

 ― こやつの臭い、、、 ―

 銀仁の高い鼻梁の上に、皺が寄る。

 染み付いた、特に血脂の臭いは、なまなかなものでは落ちはしない。

 殺めるという行為に麻痺し、血臭に慣れ、無精にも身を清めない者は、まだいい。

 ― 薄い。自らに染み付いた血の臭いを、意識している証拠だ、、、―

 厄介なのは、こう言った手合の連中であった。

 分厚い唇を舐る、どす黒い舌。

 炯々と光る、目。

 獲物を前にした時にだけ見せる、獰猛な本性。

 銀仁は、その姿を、自らに重ねていた。

 人を糧としていた、かつての自分に。

 だが、この男は人だ。

 人でありながら、人を斬ることを生業としている。

 ― 、、おぞましく、浅ましい ―

 それも狩りのように、愉しんでいるようにさえ、伺える。

 風向きが変わらぬうちに、と銀仁がいつでも跳躍できるよう、背を丸める。

 足に力を入れたところで、

 ぬらり…

 視線の端を、水の揺らめきに似た輝きが、揺れた。

 無色透明の、朝陽に濡れ光る氷柱に似た、輝き。

 それでいて、陽炎の羽根のように、薄い。

 投擲氷刃。

 伯の肘まであろう長さの氷刃が、数枚、雪に差し込まれた手指に、挟まれている。

 ― 使役元素の物質化。幼神とは言え、神に名を連ねるだけはある、、、 ―

 ギシ…リリ…

 力の限り引かれ、撓る、大弓。

 黒金の細く、それでいて長い矢が、禍々しくも木漏れ日にぎらつく。

 その切っ先は、誰を狙っているのか?

 伯の指の間から、刃が滑り出す。

 蛇行しつつ、上昇し、

「!!」

 ビィイ…ンッ…

 弓糸が、弾き飛ぶ。

 仰け反った、男。

 同時に跳ねた、血潮。

「ッ」

 銀仁が、身構えた。

 男が、手で半顏を覆い、振り向いた。

 切れた糸でしたたか顏を切ったのか、顎先から滴る ―――、血潮。

 白い雪の上に、染みを作り、

「ギュルギギッ」

 到底、人とは思えぬ喉鳴り、ひとつ。

 見開いた眼は、血走り、獲物を奪われた憎悪と殺意で塗り込められていた。

 異形であろうがなかろうが、関係無い。

 その手にはすでに、凶器が、ぎらついていた。

 細く、長い。

 刃と言うよりは、突刺すことだけを目的にした、針だ。

 その針が、濡れている。

 男が、ましらの如き身のこなしで大地に降りたった。

 そのまま、こちらに向かって走り寄ってくる。

 雪を蹴り、ぶつぶつと口を動かし ―――、笑いながら。

 伯が、迎え討たんと身を低くする。

 その手が、再び雪の中に差し入れられ、

「ッ」

 伯が纏った鬼気に、銀仁が息を詰めた。

 己の脚なら、伯を抱えたままでも、その男から距離をとれる。

 銀仁が伯に向かって、跳躍。

 腕を伸ばし、その肩に触れたところで、そのまま人気の無い雑木林の奥へと駆け込む ―――、つもりだった。

 男が、血走った眼で、

『獲物』

 と、言った。

 伯が牙を剥き出し、長い氷刃を引き出し、

『ギググ』

 不快極まりないと、喉を鳴らした。

 走り込む勢いのまま、男が振りかざす ―――、針。

「ッ!!」

 銀仁の手が届くよりも先に、伯が動いた。

 その手が氷刃を抜き、男の懐へと飛び込むと同時に、男の胴を横薙ぎにせんとして、

 ドッ‥ス…ッ

 妙な音が、した。

「、、、、、」

 ピッ…

 朱い雫が、伯の頬に跳ねた。

 朱の滲んだ菫色の眸が、青く、澄んでゆく。

「行くぞ」

 銀仁に腰を抱えられ、引き離される。

「お、あ、、、かっ、、、ぐ、ぷっ、、、」

 男が、針を取り落す。

 その手を、違和感のある、喉へ。

「げ、、、ぱッ、、、」

 首に、矢が刺さっていた。

 喉から勢いよく跳ねあがった血潮が手を塗らし、顏を塗らし、視界を、赤く赤く、染め上げる。

「、、、、、」

 伯は、銀仁の肩越しに、男が雪に伏すのを見ていた。

 水の音がしてきた。

 銀仁が駆けるその先には、沢があるのかもしれない。

 緩やかな勾配に差し掛かった時、大地にのたうつっていた男の元に、具足の音に続いて、人影が幾つも現れた。

 その中で、一際雅な表衣の武官が、一人。

 血溜まりと化した雪上に、飄々と現れた時、

「、、、、きら、ぃ」

 互いの顏も判別できぬ距離でありながらも、確かに伯は、目が合ったような気が、したのだった。

 

 

 

「こ、これは、いったい、、、」

 武官らを伴い、現れた【男】は、

「おおよそ、宮中に恨みでもある者の仕業だろう。御上の恩前で、何をやらかすつもりだったのか、、、」

 手にした弓を、武官に返した。

 冷ややかに一瞥したのは、大地に伏す、男。

 じわりじわりと雪を溶かす血潮と、死へと向かう痙攣。

 その首の後ろに、矢が生えている。 

 木立を縫って、寸分の狂いなく射抜いたその腕は、並の者ではない。

 若い武官らの、羨望の眼差しから逃れるよう背を向けると、

「この件は、俺が直に対処する故、お前たちは、この者の遺体を隠せ。左近衛府の威厳に関わる。動かすのは、引き上げ後だ」

「は」

「他の部署の者に、けして、気取られるな。いいな」

「わかりました。ですが中将、先ほど、雪の中を逃げる者が、、、」

 見れば、点々と足跡が雪の上についている。

「これ以上、警備をおろそかにはできん。やむおえまい」

 苦々しく、吐き出した。

 直属の部下数名に、念のため、辺り一帯の巡回を命じ、その場を離れる。

 弓を引いた余韻が残る指先を揉みながら、林を出た。

 歓声が上がっている。

 誰も彼も、空を眺めていることだろう。

「ちっ、、、」

 降り注ぐ日差しに、短く舌打ちが出た。

 幔幕へと戻りながら、雪原を眺めた。

 視線の先には、

 ― どいつも、こいつも、俺には眩しすぎる、、、 ―

 最後となった連凧を射抜かんと弓をつがえる、燕倪の姿。

 

 

 

 弓が引かれ、矢が放たれる。

 次々と射抜かれ、あるいは糸を断たれ、舞い落ちる、連凧。

 緋に翠。

 その勢いは、互角だ。

 ― 今年こそはっ、、、 ―

 弓を数本手に掛けて、清親が短く息をつく。

「ハッ、、、ハッ、、、ハッ、、、ハッ、、、」

 その吐息の数だけ、矢が放たれる。

 破れ、千切れ、撃ち抜かれる中、

「やぁッ」

 燕倪は馬を駆り、遠き的や、射ち洩れの的を重点的に射抜いてゆく。

 風が収まれば、糸を狙い、風が出てくれば、凧を狙う。

 右近衛府が優勢か、遠的を良くする武官が、二本目の糸を切った。

 歓声が上がる中、展開する左近の武官らは、淡々と持ち場を守り、数を重ねてゆく。

 人々の目には、序盤から、糸を射抜く右近衛府が、優勢に見えた。

 しかし、

 ― 大分、射ち損じがあるな。千切れた凧が、後方の凧を隠している。この調子で糸を切り放てればいいが、この数だ。集中力が、保てるかどうか、、、 ―

 額に浮かんだ汗が、目に入るその前に袖で拭いながら、清親の胸中は、終始、苦々しいものだった。

 それにくらべ、左近衛府は、地道に数を稼いでいく。

 しかも、

「筒井少尉、上を頼みますッ!!」

「かしこまりました」

「ほほほ、右近の揚手も腕を上げたもんじゃ。こりゃ中々、面白いわい。なればわしは、この辺で、小童こわっぱ共の援護に回ろうかい。少将、この連、後は、頼むぞ」

「はっ、梁瀬中将、お任せをっ」

 密な連携で、苦手なところを補いあっている。

 持ち場は変えず、個々の能力の向上を目指した右近衛府と、得手、不得手を互いに曝け出し、協力して事に当たる左近衛府。

 その結果は、後半、歴然としたものとなったのだった。

 

 

 

 西側の射手と、入れ替わった時だった。

 ― これで、決める ―

 そのまま駆ける馬上から、狙いを定め、

「っ」

 首筋の辺りが、ちくちくとした。

 嫌な感じだ。

 顏はそのまま、視線だけを、林へ。

 緑濃いその中を、無意識のうちに探ろうとして、

 ― むっ、、、 ―

 数名の武官を引き連れ、一人の中将が、林へと消えた背を、目にした。

「、、、、、」

 首筋の違和感は、消えていた。

「こら、燕倪!!ぼさっとするでないわいッ」

「!!」

 古参の中将、梁瀬晴冲の叱咤に、自然、背筋が伸びる。

 ― 今は、集中せねばッ ―

 一度は緩んだ気を、弓と共に、引く。

 千草と呼吸を合わせれば、時が、緩やかになる、感覚。

 そして、

 ― 視えたッ ―

 金色の線で描かれた軌跡が、残った一枚の凧へと結ばれる。

 ヒュ…ッ

 耳の横を掠める、小気味良い、音。

 指先にじんわりと残る、余韻。

 放たれた矢は上空で、清親の放った矢と、交差した。

 オオオ―――ッ

 大気がどよめき、それぞれの揚手は、思わず目を、瞬かせた。

 同時に、射抜かれた、緋と碧の凧。

 一方の揚手は落胆し、もう一方の揚手は、空を仰いだまま、歓喜した。

「ほほッ!!それ、残りの凧を、射抜こうぞ!!」

 左近衛府きっての射凧の顏、梁瀬中将が、皆に、号令をかけた。

 左近衛府の射手が、揃って弓を引く。

 その先には、緋の色の連凧二枚が、手持無沙汰然として、冬空に漂っていた…

 

 

 

「ここまでくれば、、、」

 銀仁が伯を降ろしたのは、北に位置する墨依湿原に程近い、葦原であった。

 一息に駆け抜け、振り返れば、

「顏に、血が、、、」

「む、、、ぁむー」

 象牙色の頬に、一滴。

 袖で、拭ってやりながら、

「どこか、痛むところはないか?」

 菫色の眸を覗き込んだ。

 乾き始めて、なかなか落ちない、血の跡。

 思い切り顏を顰めた伯が、

「うぅうっ」

 銀仁の腕を掴んでやめさせようとするが、そうはいかず…

 頬を力任せに抓まれれて、痛いとばかりに、顏を背けようとする。

 以前、口を抉じ開けられた時があった。

 それを思い出したのか、体を揺すって抵抗。

 しかし、

「人の血は、穢れ。その身を、いよいよ大地に縛りつけるぞ」

「っ、、、」

 銀仁の虎目に合えば、伯も大人しくなるより他はない。

 雪で濡らし、ようやく取れたところで、

「さすがにその姿のままでは、琲瑠の元には戻れぬ。封神具を取りに戻るにも、警備の目がある。屋敷に向かおう」

 鶸色に染めた長衣で、伯を頭から覆う。

 一度は、目深に被った伯であったが、

「、、、、、」

 まっすぐな菫色の眸でもって、銀仁を見上げた。

「心配するな。燕倪なら、大丈夫だ。夢で見た【死相】は、お前の一投で、消えているだろう」

「、、、、、」

 伯が、自分の手を、見つめた。

 見慣れた、手であった。

「あ、、、」

 ふいに、その手に、氷刃を放った感触が、甦る。

 体が覚えている ――――、感覚。

 一投目、矢をつがえていた絃を、狙った。

 見事断った、次の瞬間は?

「ぅ、、、」

 冷たい汗が、額から伝って、顎先へと滑り落ちる。

「伯?」

 銀仁が、屈んで、視線を合わせる。

「が、、、あ、、、あ、、、っ」

 何か言葉を紡ごうとして、がちがちと奥歯が耳障りな音を、頭蓋内に反響させる。

「あっ、ぎっ、、、」

 殺気を纏い、こちらへと向かって来た、男。

 伯の手が、震え始めた―――、今更になって。

 狙ったものは?

 狙ったものは?

 狙ったものは?

「うっ、、、ひぎっ、はっ」

 男の首を突き抜け、生えたのは、武骨な矢。

 視界に飛び散った、鮮紅色の粒。

 脳裏の光景が、現実のことのように、視界に展開していた。

「伯?!」

 異変に、銀仁が頬を叩く。

 青ざめた、頬。

 焦点定まらぬ、菫色の眸。

 その目は、投げたはずのない、氷刃の二投目を、追っていた。

 優美な曲線を描きながら、吸い込まれるように、男の首へ。

 真白の雪を染める、その血潮。

 ―――、倒れ伏す前に、剥かれた、その眸。

「はっ、、、ぁぁあっ」

 青鈍に、透けて見えたところで、伯の視界は黒く黒く、覆われていった。

 

 

 

「、、、、、」

 北の空を見つめていた、浄衣姿の男が、

「早速、行くのかい?宴までとは言わないけど、わたしが皆に、労いの言葉を掛けるまでは、同席してほしかったなぁ」

「まこと、日々の鍛練の成果、その腕、冴え渡った射凧の儀でございますれば、当方の、都の守とは、名ばかりかと。歴代が負うた【都守】の名に恥じぬよう、つきましては、今この時より、いっそうの精進を致したく、、、」

 そう、退出を願い出た。

「ま、賭けは君の勝ちだ。好きにおしよ」

 にこりと、柔和な笑顔で応じれば、

「御上、形代である都守が、射凧の儀の最中に御側から離れるなど、前例がございませぬっ」

「御上、それだけは、なりませぬっ」

 さすがに、大臣や各寮の長官、参議らが、ここは諌めんとばかりに口々に喚き始めた。

 しかし、

「いいじゃないか。大体ね、都守がわたしの形代だけで終わるようじゃ、貴君らも、困るだろ?」

 帝は、どこ吹く風だ。

 居合わせた者達が、あんぐりと口を開ける中、蒼奘は錫杖を手に、幔幕を後にした。

 物々しい装備で居並ぶ、武官達の前に現れたのは、真白の浄衣を纏った、死人還り。

 その姿は、いささか目立ち過ぎた。

 近衛府だけではなく、衛門府、兵衛府、検非違使らの姿もある。

 彼方で警備に当たる者や、縁起物の矢や凧を拾わんと待ち構える民衆らを宥める者。

 都中の人々が、お祭り騒ぎで集まったかのような、この人出だ。

 警備に当たる者達も、あって、足りないことはないのだろう。

「、、、、、」

 他の皇族ら幔幕の間を縫い、車止めの方へと向かう。

 幔幕の中から、興奮冷めやらぬ声が、聞こえてくる。

 それとは対照的に、一目、その姿を目にした者達は、思わず背筋を伸ばし、訳も無い緊張感に襲われることとなった。

 異質な存在だけあって、一様に声を掛けられぬ中、

「あ、、、」

 袖が払われ、ひらりと何かが、舞い落ちた。

「あ、あの、、、」

 薄紅色の、懐紙であった。

 ひっくり返りそうになりながらも声を掛け、武官の一人が、雪上に落ちたその懐紙に触れようとして、

「わっ」

 風が、巻いた。

 はたはたと舞い上がる、懐紙。

 太陽の陽射しで、一瞬、その姿が眩んだかと思えば、

「か、懐紙が、、、!?」

「なんと、、、っ」

 優美な羽ばたきを残し、南西へと飛び去った。

 唖然としたのも束の間、

「み、都守は?」

 居合わせた者達は、顏を見合わせた。

「むっ、さっきまで、そこにいなかったか?!」

 その白い姿は忽然と、辺りから消え去っていたのだった。

 

 

 

 勝敗が決し、帝の幔幕へ、射手らが集まろうとする中、

「少将、、、」

 燕倪の元に、一人の武官が、駆け寄った。

憂瑜ウイユ、何があった?」

 白い息を吐き、まだ駆け足りないと逸る千草を宥めつつ、馬上から問えば、

「それが、不審な輩を一人、林の中で討ち取ったようで。調度、付近を巡回しておりまして、ただならぬ様子に駆けつけましたところ、中将の麾下きからで片付けると、締め出されてしまいました。後には、大量の血痕が、、、」

 まだ、顏に幼さを残す若い武官が、燕倪を見上げた。

「そうか。警備の配置に不備があったということか、、、」

 苦々しく吐き出せば、幔幕設営時に使用された荷車が一つ、無い。

 左近衛府の沽券に係わるため、表沙汰にならぬよう、気を回してくれたのだろう。

 それにしても、不審者に、まんまと警備網を潜られるとは…

 燕倪が、額を揉む中、

「それでも、と思いまして、周辺を探して見ましたら、こんなものが、、、」

 武官が袖から、なにやら取り出した。

 ジャ…ラㇻ…

 硬いものが擦れ合う音とともに、陽射しを浴びて煌めいたのは、

「、、、これは」

 深緑の翡翠と瑠璃硝子の管が、交互に通された、首飾り。

「、、、、、」

 見覚えがないはずが、無かった。

「雪の中に、埋めてありました。手掛かりには、ならないかもしれませんが、一応、少将にお渡ししようと、、、」

 燕倪の武骨な手が、それを受け取った。

 膝に落いて眺めれば、

「少将、心当たりが?」

「、、、いや、ない」

 何とも言えぬ心持になった。

 ― 俺は、いい。いいんだ。けど、お前は、、、 ―

 今すぐ会って、確かめたいことは山ほどあった。

 巻き込むつもりなど無いのに、渦中に飛び込んでくる。

 その気持ちは、無条件で嬉しい。

 嬉しいが、矢も楯も、たまらなくなる。

 これから帝に拝謁し、御所まで随身として付き従わなければならない。

 それすらも、

 ― お前は、無事なのかっ ―

 翡翠輪と呼ばれる、封神具。

 硬く冷たい翡翠の連珠を、葛藤のまま握りしめた ―――、時だった。

「、、、朱、鷺」

 一羽の朱鷺が、燕倪の視界を横切って行った。

 帝がいる幔幕から、南西の方角へと。

「射凧で騒々しい空に迷い込んだか、誘われたか、、、。それにしても、なんと美しい風切り羽根でしょう」

 張っていた気が緩んだのか、若い武官がその様を、目を眇めて見送った。

「あいつ、、、なんでも、お見通しかよ、、、」

 燕倪が、ひとりごちて、

「は?」

 きょとんとした武官の顏が、振り返った。

「なんでもない。さ、次は帝の随身だ。いつにも増して人出が凄いからな。何があるか分からん。気を引き締めていくぞ」

 翡翠輪を懐に仕舞って、持ち場に戻るよう告げた。

 一騎、二騎と身形を整え、帝のいる幔幕へと集まる中、

「燕倪、おいかけが曲がっているぞ」

 清親が、馬を寄せてきた。

「お、、、そうか?」

 慌てて整えれば、

「他の者の補佐にと、駆けずり回っていたからだ」

 清親が、懐紙で頬の汗を拭いながら、笑って言った。

「お前だって、そうじゃないか」

 黒鹿毛の清親の愛馬【於岐】、葦毛の燕倪の愛馬【千草】、共に、その体から湯気が立ち昇っている。

 どこをみてもその二頭だけで、その運動量は、実際、他の馬の比ではなかった。

「でも、危うかったぞ。清親、あの早射はどこで覚えた?」

「出仕前の早朝鍛練、とでも言っておこう。右近の的場に私が出張れば、皆、萎縮してしまうでな」

「たまには、左近うちの的場に来いよ。若い衆らに、鬼中将のなんたるかを見せてやってくれ」

「ふふ。怯えて、的場に出てこなくなるぞ。うちのようにな」

 そう、遠くを眺めた。

 くっきりと青空に映える、白き山稜。

 彼方には、霊峰斗々烏の頂きまで、見える。

 蠟たけた横顔は、少しだけ憂いを帯びているようだった。

「上が優秀だと、反って下が、ついてこなくなるもんだ。右近は、お前に、頼り切ってるんじゃないか?」

「私は、そのような評価を、自身に下した事はない。怠れば、死に遭う。それに皆、私の元で、本当によくやってくれている」

 褐色の眸が、困惑気に燕倪を一瞥すると、

「一重に、私の力不足、、、」

 そう短く、胸の内を吐露した。

 さまざまなことが、思い起こされているのかもしれない。

 今更、女伊達らを気にしているのかと、燕倪が言葉を選んでいると、

「、、、ない」

「あ?」

 小さな呟きが漏れ、思わず聞き返した。

 ぎり、と唇を噛んだかと思えば、

「足りないのだ。精進がっ」

「お、おいおい」

 清親が、吠えた。

 一瞬、沈んだかに思えた表情が、俄かに生き生きと輝きだしたかと思えば、

「今宵の宴席、酒では負けぬ。久々に付き合えよ、燕倪」

 にっ、と笑って、馬腹を蹴った。

 一足先に駆け出した、その背中。

 凛として、からりとした風を纏う、右近衛府きっての麗人。

 ― その弛まぬ努力が、人を惹きつけてやまないんだよな、、、 ―

 数多の困難や壁を打ち壊して今に至る、友であり、好敵手。

 ふと、かけがえのない顏が、脳裏を過った。

 誰も彼も、失いたくはない者達だ。

 だからこそ、奔走することを厭わない。

 ― きっと、お前もそうなんだろうな ― 

 懐に在る、翡翠輪。

 衣の上から、触れた。

 来るなと言えず、さりとて、来ないとも思えず。

 せめて、告げまいと心に決めて ―――、事は起きた。

 死相は、還ったことだろう。

 刺客の死に、よって。

 ― だが、、、 ―

 と、燕倪は思う。

 死相の元となった根源は、何も絶たれていない、と。

 これまで通りならば、また、狙われかねない。

 皆を、巻き込んでしまうかもしれない。

 ― いつまでも見過ごして、いいわけがねぇ。絶たなきゃ、ならん ―

 燕倪は、帝が待つ幔幕へと急ぎながら、自分自身に言い聞かせたのだった。

 

 

 

 白い月が掛かる、冬空の下。

 神祇官によって、閉幕を告げる鏑矢が雪原に、放たれた。

 それから程なく、帝を乗せた煌びやかな唐車が、物々しい警備に護られ、御所へと向かう中、

「この人出では、さすがの銀仁殿の鼻も、利きませんでしょう。お屋敷まで、お送り致しますよ、姫様」

 琲瑠が、そっと手を差し伸べた。

 土手の上にて、雪原を眺めていたあとりが振り向き、

「そうじゃな。では、従者殿、ゆるりと参ろうかの」

 にこりとして、その手を取った。

 案の定、現れぬ二人の事は心配だったが、あとりが心配掛けまいと笑っている以上、琲瑠も、顏には出さなかった。

 手に手に、矢や凧を持ち、家路へと急ぐ人混みの中、

「のう、従者殿?」

 傍らで、あとりの青みがかった黒眸が、見上げてきた。

「はい、なんでしょう?」

 いつもの、困ったような、なんとも形容できぬ表情で問えば、

「齢、百を数える大海鼠と聞いたが、どうじゃ?そなたから見て、この地は、住みよいか?」

 予期せぬ問いが、投げかけられた。

「ほ、、、これはこれは、考えたことも無かったですが、、、」

 苦笑しつつ、その手を引いて、橋を渡る。

 川には、青鷺が数羽、水面を睨んでいた。

「そうですねぇ、それなりに、不自由もありますが、住めば都。いいものですよ」

「、、、そう、か」

 ほっと、安堵した、その顏。

「、、、、、」

 垣間見た琲瑠の目にそれは、妙に印象的に映った。

「ああ、なるほど」

 くすり、と小さくと笑うと、

「あとり姫、、、」

 琲瑠は、前を向いた。

 興奮冷めやらぬ、人々の話し声。

 矢や凧を、大事そうに抱えている者達もいる。

 その人混みの中、

「ここで、わたしは、たくさんの方と出会いました。【人らしく】とは行きませんがね、それでも、この地でこそ育まれたものも、同じだけあります。姫の側に在って、銀仁様もきっと、それは同じでございますよ」

 あとりは、琲瑠の背中を見つめた。

 どこにでもいるような、平凡な若衆の姿をしているが、やはり、それなりに年を経ているのかもしれない。

「はゎ、、、う」

 何かを返そうとして、口ごもる。

 上手く言葉にすることができなくて、代わりにあとりは、強く、その手を握った。

 肚の内を読まれたようで、恥ずかしいやら、それでいて安堵したやら、妙な心地にだった。

 そんなあとりの心境を、知ってか知らずが、

「ですから、お屋敷で銀仁様をお待ちしましょうね。あのお方の帰る場所は、【見出した者】である、あとり姫が、いるところなのですから。そうですねぇ、、、一言で表すと、そう、【太陽】」

「太陽、、、わらわが?」

「はい。太陽でございます」

「わらわ、が、、、」

 琲瑠が、背中越しに掛けた言葉は、あとりにとって忘れられない言葉に、なったのであった。

 

 

 

 伯の額に手をやっていた蒼奘が、その手を引いた。

 金色に染まった眸が、深い闇色へと、沈んでゆく。

「やはり、毒に?」

 銀仁の険しい表情に、

「いや。あの人出だ。人々の渦巻く熱気に、中てられただけだ。眼前で、射ち取られたのは、きっかけにすぎん」

 首を振って応えた。

「、、、そうか」

 安堵で肩を落としたのは、銀仁。

 南西は、帝都の裏鬼門に位置する、都守の屋敷。

 その門を、伯を腕にくぐったのは、半刻程前。

 程なくして戻った蒼奘が、気絶したままの伯の意識、その在処を探っていたところであった。

 伯の胸元まで、掛布を掛けてやりながら、

「琲瑠が、あとり姫を送っていることだろう。陽のあるうちに、戻るといい、、、」

 空を眺めた。

 太陽が、西の空へと傾いている。

 帝都をだいだいに染める、逢魔が時も、近い。

「すまない。また近いうちに、様子を見に寄らせてもらう。相手は、伯だ。あとりも、案じている」

 そう言うと、階を降りて、庭へ出た。

 塒へと急ぐ、白鷺の群れの下。

 銀仁の影が長く長く伸びて、その姿は、門へと続く木立の小路へと、消えていった。

「、、、、、」

 欄干から、その姿を見送った、蒼奘。

 カ‥タ…

 物音に、振り返れば、

「、、、、、」

 ただ、風が、帳の裾を弄っただけだった。

 眇めたその眸には、

「案じて、ついてきたか、風伯よ、、、」

 気まぐれで知られる風の精霊が、見えていたのかもしれない。

 ふわりと、白き髪が一筋、巻き上がった時だった。

「、、、主様」

 衣擦れの音をさせ、廊下をこちらへと向かって歩いて来たのは、異相の美姫、汪果。

 火の色の唐衣の裾を払い、控えると、

「禊の準備、整いましてございます」

 そう、告げた。

「、、、、、」

 屋敷に、潮の香りが満ちようとしていた。

「、、、主様?」

 すぐさま、禊を執り行うとばかり思っていた汪果は、蒼奘が再び伯の傍らに坐したのを、訝しんだ。

 そのまま、火桶に炭を足しはじめ、

「よろしいんですの?」

 思わず尋ねれば、

「ああ。問題は、なかろう、、、」

 物憂げな、いつもの眼差しで、伯を見つめた。

 噛み締められたままの、奥歯。

 握りしめられた、小さな拳。

 目尻に浮かぶ、菫色の欠片は、涙。

 胸中に湧き上っては渦巻く【感情】を、持て余しているのかもしれない。

「、、、若君、苦しそう」

 ぽつりと、呟けば、

「芽吹いたものを、取り除いていいものとは、思えぬ。そなたもそれは、身を以て知っているはずだ、、、」

「、、、、、」

 蒼奘の言葉を受けて、汪果が、俯いた。

 地に降りて、命ある者らと関わるというのは、望むと望まざるとに関係なく、様々な変化を生む。

 少なくとも汪果には、心当たりがあるようだった。

 ― 我が君、、、 ―

 何ともやるせなく、庭先を、見た。

 大池の畔。

 苔蒸し、雪を頂いたままの庭石のすぐ傍に、可憐な花が揺れていた。

 冬色にも染まらぬ、淡い蒲公英色。

 満ちんとしている潮の香りに負けぬ、甘やかに香る、その冬の花。

 汪果が、立ち上がった。

 庭へ降りる階へと向かいながら、部屋を、振り返った。 

「水仙でも、生けましょう。それと、甘いお菓子」

 にこりと微笑んで、手を合わせれば、

「ああ、、、」

 蒼奘も、頷いた。

 生まれ出でた潮の香りではなく、花の香りを辿って、季節移ろう、もどかしくも愛しいこの大地へと、還ってくるように、と…


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ