第拾ノ参幕前 ― 会 ―
その夢は、ただの夢か、それとも正夢か?年明けての恒例行事【射凧】。それぞれが、つがえた矢の先にあるものとは?
死人還りの都守蒼奘、業丸を継ぐ武官燕倪、幽身であるがこの世に縛られた伯。それぞれが紡ぐ異国絵巻、第十三幕前編。。。
銀の香炉から、細く立ち昇りくゆる、紫煙。
天井へと押しやられた闇へ、じんわりと、溶けてゆく。
まもなく訪れるであろう、暁刻。
締め切られた部屋のいずこから、滲み出す光が満ちんとしている、時分であった。
「、、、、、」
薄闇にくすんで見える、単衣の海。
その中で、紫煙がゆらめく様を見つめていれば、胸元で濡れた音が、した。
柔らかく、温かく。
何度も、何度も。
「、、、、、」
天井を見つめていた男が、胸元を見た。
頬を寄せて眠っていたはずの女の唇が、肌を噛むのが、見えた。
癖の強い、長い髪が、男の痩せぎすな肌を滑ってゆく。
「燈螺、、、」
女の名を呼べば、ゆっくりと、貌を上げる。
白蛇のように、滑らかな肌。
薄闇にくっきりと浮かび上がる、豊満な四肢。
細い眉。
赤銅色の、眸。
その目尻には、黒子が二つ。
厚く、ぽってりとした朱色の唇は、そのまま色気が香立つようだ。
「また、悪巧みを、、、」
華奢な肩を寄せ、男の顎の下に、額を寄せる。
「ひどい言いぐさだな。なぜ、悪巧みと決めつける、、、?」
苦笑交じりの男の呟きに、
「ここへいらっしゃる時は、いつもそう。笑っていらっしゃるけれど、時折、とても怖いお目をされる、、、」
女は、男の肩を擦り擦り、そう言った。
「可憐な鈴蘭を、文と共に頂いた時の胸の高鳴りを、わたくし、今でも覚えておりますわ」
「懐かしいな、、、」
「それから、あなたとお逢いした、初めての日。時が経つのを忘れ、何度、蜜蝋燭を取り換えさせたことでしょう」
「俺も、忘れてはいないよ。望月の下ならば、蝋燭を取り換える時間を惜しむこともないと、貴女の手を引き、御簾の中から連れ出した、あの晩の事を、、、」
男の手が豊かな髪を梳けば、その腕に、しろじろとした手が、絡みつく。
「それが、、、」
「うん?」
女は一度貌を上げ、その眸を、見つめた。
― 遠い昔のように、感じているのは、わたくしだけ、、、? ―
何かを言いたそうに、苦しそうに貌を歪めたが、それも、一瞬の事、
「そう言えば、、、お髭、落とされて随分経ちましたね」
いつもの妖艶な眼差しと、声音であった。
「似合わないかな?」
「ええ。その方が、ずっと幼く見えますもの。わたくしは、以前の精悍な貴方さまの方が、いいのだけれど、、、」
「太刀を振り回すのは、生に合わなくてね。それよりも、貴女とこうして、、、」
上にいた女を、褥に押し倒せば、
「ほほほ、、、」
ころころと、鈴が鳴るように、女が笑いだした。
男の頬に手を伸ばし、顎先を抓めば、
「そのように幼きお顏で見つめれば、他の姫君受けも、さぞ良いことでしょうね」
「今更、妬いてくれるのかい?」
「まさか。ここへ通われる方が、貴方一人とも、思っておられない癖に、、、」
女の手を、男がやんわりととって、口づけた。
そのまま顏の横に押さえつけると、
「燈螺、、、」
そっと耳朶に唇寄せて、名を呼んだ。
女、燈螺は、
「わたくしを、このような鄙びたお屋敷に閉じ込めて、、、本当に、ひどいお方」
言葉とは裏腹に、その広い背中に、自由な方の手を回したのだった。
※
見渡す限りの、雪原。
間近に迫る山稜も、すっかり雪化粧で、淡い色をした高い空には、緋と碧に染められた連凧が、幾つも風を捉えている。
『、、、、、』
姿は見えないが、忙しなく周囲を走っているのは、馬だろう。
その蹄の音が、腹腔を震わせる。
遠く、人々が囃し立てる声も、聞こえる。
具足が触れ合う、音。
風をはらんだ幔幕が、どこかではたはたと、鳴っている。
『、、、、、』
ふいに、【何か】が大気を引き裂いたのか、驚いた風伯が、小さく悲鳴を上げた。
新雪の大地に滲む、不釣合いな ―――、朱。
『、、、、、』
騎手を失った馬が、傍らを駆け抜けていく ―――、気配。
悲鳴と怒号が入り乱れては、風に浚われていった。
鉄錆に似た匂いが濃厚に、辺り一帯に広がる中、
『、、、、、』
ひきつけられるように、血溜まりと化した一画へと、足が向いた。
どこまでも続く、銀の野原。
ここは、刺すような冷気で満たされた、無機質な白銀世界。
『、、、あ』
新雪に足とられることも、足跡を残すこともなかったその歩みが、止まった。
ぐっしょりと血濡れた雪が、広がっている。
雪だけが、赤い。
しかし、瞬きした、刹那、
『!!』
朱の中に、うつ伏してい者が、居た。
見慣れぬ束帯姿でありながら、
『、、、、、』
その背中には、確かに見覚えが、あった。
小さな手が、肩に触れる。
生温かく、濡れた感触と、鼻先に叩きつけられる血の匂いが ―――、同時。
思わず、引こうとした、手。
『むっ、ぃう』
気力で、留めた。
指先から伝わる、温もり。
それが、急速に失われていくようだった。
意を決し、うつ伏せのその身を返そうと、肩を引いた。
『うぅうっ』
奥歯を噛み締め、腕に力を込める。
雪に、半ば埋もれた重い体が、ゆっくりとこちらに起き上がり、
『ッ』
雪の中から現れた、青ざめた顔を見て、絶句した。
よくよく見知った顏が、虚空を見つめている。
硬い黒髪。
日々の警邏で浅黒く焼けた、肌。
そして何よりも、
『ぅ、、あああっ』
見慣れた青鈍の双眸が、この者のすべてを、物語るのだった。
「あああっ」
自分自身の声に、褥から、跳ね起きる。
「は、、、はぁ、、、は、、、ぁっ」
乱れた息を整えながら辺りを見回せば、世界が様変わりしていた。
金糸銀糸の麒麟を縫い取った練絹を、四方にめぐらせた、褥。
御帳台。
暁を迎えたばかりか、朝陽がどこからか忍び込んで、その中は、仄暗かった。
「ふっ、、、ふ、、、ぅ、、、」
薄闇の中、群青色の髪が長く、胸元に流れているのが、見えた。
羽二重の寝着の袖から、おずおずと手を出す。
「、、、、、」
白々とした、象牙色の肌に、血の跡はない。
傍らを、見た。
すでに、家主は褥を出た後のようで、姿はない。
幾枚も掛けられた、袿や唐衣の海から抜け出し、垂らされたままの練絹を潜った。
そのまま這い出すように廊下に出れば、朝陽によって橙に染まった庭に、番いの鶴が睦ましい影を落としている。
つい数日前に飛来してきたのだが、居心地がいいのか、そのまま居ついてしまった。
いつもならば、飽きるでもなく眺める二羽の姿も、
「、、、、、」
今日は目に入らない。
辺りを見回し、気配を伺って軽やかに床を蹴れば、その身は舞い上がり、先の欄干へ。
氷柱から滴る雫が、煌めく中、
「、、、、、」
首を振り振り、その姿を探すのであった。
行燈の明かりが柔らかい。
火鉢に灯る火の色までもが温かい一室に、小気味良い衣擦れの音が、する。
「それでは、夕刻までにはお戻りに?」
漆が塗られた唐櫃から、白色無紋の狩衣を取り出した汪果が、慣れた手つきで肩にあてがえば、
「、、、ああ」
屋敷の主が短く応じ、小袖の襟を正してから、首紙をその細首に掛けた。
流れるような所作で、白狩衣の前を袴に差し込み、腰帯を結んだ時だった。
「ソウっ」
群青色した一陣の風が、外の寒気を共に、飛び込んできた。
帳を跳ねあげ、まだ腕を通していない袖を、引っ張る。
ただならぬその様子に、
「どうした、、、?」
蒼奘が、毀れんばかりに見開かれた菫色の眸を、見返して問うた。
深淵を、そのまま嵌め込んだ黒い眸。
「、、、く」
朱鷺色の唇から、珍しく小さい声が、漏れた。
「ハク、も、、、」
青く、薄い唇が、笑む。
「珍しい。お前も、行くと?」
腕を、袖に通しながら、伯を見つめれば、
「、、、、、」
こくり…
いつものように、感情の一切を伺わせない顏で頷き、応じたのだった。
「、、、、、」
真白の新雪で覆われた庭の、一画。
濃紺の素袍を纏った若者が、大弓を引いている。
ヒュ…ンッ…
風を切る、短い音。
しなやかな指先が、舞うように優雅な弧を描き ―――、止まる。
そのまま、時を止めたかのように、動かない。
長い垂髪を背で束ね、褐色の双眸でもって、三十間離れた的を見つめているのは、天部清親であった。
陽も明けぬうちより、矢を放っていたのだろう。
すでに、何本もの矢が、的に刺さっていた。
「ふぅ、、、」
ゆっくりと息を吐き出したところで、
「お姉さま」
的場に現れたふくよかな娘が、声を掛けた。
額は広く、目は柳の葉のように、細い。
頬は赤く、上を向いた鼻と言い、大きく薄い唇は、清親と姉妹と言われても、首を傾げるものがあった。
「どうした、深優希?」
弓を手に、振り向いた清親。
「昨晩、非番の今日くらいはゆっくりなさるとおっしゃっていたから、、、」
「ああ、すまん。起こしてしまったな」
苦笑し、寒そうに腕の辺りを擦る、深優希の元へ。
「凧射が近いと思うと、ついつい目が覚めてしまって」
「鍛練もいいけれど、体もしっかりと休めねば、お姉さまが壊れてしまうわ」
そっと、母屋へと続く渡殿へと、肩を押す。
「分かった、分かった。まったく、深優希は母上にそっくりだ。だが、お前もお前だ。そのような薄着で、ふらふらするでない。お腹の嬰児に何かあれば、久郁殿に顔向けができん」
「心配ご無用、お姉さま。だってこの子は、武門の誉れ高き、天部家の長子だもの」
「だが、母者は、寒そうだ」
「も、もうっ」
妹とのやりとりを楽しみながら、母屋へ辿り着けば、
「あっ、深優希ッ」
頼りなげな若者が、姿を見つけて駆け寄ってきた。
「義姉上、すいません」
手にしていた長衣を、すぐさま深優希に掛けると、若者は頭を下げた。
「いや、そなたが謝ることではないよ、久郁殿。甘やかした私が、悪いのだ」
「まぁ、お姉さま。それが甘やかしているのよ。あたしが悪いんだから。二人とも、心配かけて、ごめんなさい」
ぺこりと頭を下げると、童女のように笑って二人を、見た。
それだけで、場がすっかりと和んでしまう。
そんな、愛嬌溢れる娘であった。
「でも、お姉さま、右の姫中将ならまだしも、宮中では鬼中将と呼ばれているとか?」
「深、深優希っ、義姉上に向かって、なんと言うことをっ」
久郁が、慌てるが、もう遅い。
「構わんよ、久郁殿。深優希、どうも、そのようだな」
清親当人は、けろりとしている。
女だてらに、近衛府の中将まで昇りつめた者だ。
そのようなことで、一々動じることもないのかもしれない。
深優希の手が、そっと、姉の手を取った。
冷え切って感覚が無い指先に、温もりが、廻ってゆく。
「帝の御前で行われる【射凧】が近いのは、知っているけれど、たまにお屋敷に在る時くらいは、その鍛練の鬼、どこかに置いてきてほしいわ」
豆がいくつもでき、皮膚が固くなった、武人の手であった。
「、、、そうだな。昨年の、左近衛府にしてやられた雪辱を晴らさんと、気負い過ぎているかもしれん。このくらいにしておくよ」
二人を促して、母屋へ上がりがながら、肩の辺りを揉む。
筋が、幾分、張っている。
「、、、、、」
そのまま、空を睨んだ。
昇らんとする、朝日。
その橙に縁どられた、雲の上。
広がる、菫色の大空。
「、、、、、」
その褐色の双眸には、すでに、的となる連凧が見えているかのようであった。
しなやかな手が、無意識に、伸びた。
ゆっくりと長い睫がふるえ、潤んだ黒瞳が開く。
華奢な肩を寄せながら、身を起こせば、
「、、、、、」
既に、陽が高かった。
置かれたままの手が、確かめるように、傍らの褥を、弄った。
あったはずの温もりは、既にない。
眠りに落ちたのを見計らって、いつものように帰ったのだろう。
急に、肌寒くなって、肩を擦った時だった。
「姫様、湯浴みのお支度、整ってございます」
馴染みの侍女の声。
昨夜の逢瀬を思い出し、どこかぼんやりと声のした方を向くと、
「、、、衣緒」
その名を呼んだ。
「はい、姫様」
几帳の向こうから現れた、見慣れた姿に、
「先に、硯箱を、、、」
そう、告げた。
衣擦れの音が遠ざかって行く中、女、燈螺は、見慣れた寝所を見渡した。
空の瓶子と、杯ふたつ。
螺鈿細工を施された盆の上でひっくり返り、枕はどこか、几帳の下。
ただ、
「、、、、、」
銀の香炉だけが、昨夜と同じ位置で変わらず、冴え冴えとした輝きを放ちながら、冷え切っている…
宮中。
左近衛府、社殿。
「燕倪」
真紀列也のどこか間延びした声に、背を向け、文机に向かい筆を持っていた燕倪は、露骨に顏を歪めて見せた。
いつも違った香りのする扇子が、やんわりと、右の肩に触れ、
「今年も、見せてくれるね?」
念を、押す。
「自分が出ればいいだろうが、、、」
「俺?だめだよ。だって、中将になってから、武具の手入れなんてしたことないもの」
袖で口元を隠し、『なぜ今更、そんな事を言うのだ』、と、さも可笑しいと笑う様に、
― それでも武人か、、、 ―
さすがの燕倪も、うんざり顔になった。
烈也の戯言に付き合うのも癪で、
「、、、、、」
書きかけの書面に、向き合う。
墨を吸った筆先が ―――、定まらない。
数日後に迫った【射凧】における、警備の人員を、決めている。
【射凧】
年明けて、吉日を選び、帝の御前にて左右両衛府の剛の者の腕を、競わせるものである。
その年の吉方に当たる、帝都よりほど近い直轄地に赴き、両近衛府から選抜されたそれぞれの射手が、互いの連凧を撃ち落とすというものだ。
燕倪を含め、すでに定数の六名は決まったのだが、帝の護衛はもちろん、その周辺警備を、かねてより犬猿の仲である右近衛府と、連携して行わなければならない。
― 下手に配置すれば、いらぬいざこざが起きそうだ。貴族の子息ばかりとは、まこと、厄介な、、、 ―
貴族間での軋轢はもちろんのこと、私事における対立、拮抗もあり、、、
― しっかし、なんだって俺がこんなこと、、、 ―
誰とでも、分け隔てなく付き合う気さくな性格上、それらを把握していると、多分に洩れず、烈也によって適役とされた次第である。
そんな燕倪の胸中を、知ってか知らずか、
「去年は運よく、旋風によってあの姫中将の矢がそれたから良かったものの、、、」
暢気に、青々と晴れ渡った空を見上げた。
日差しがあっても、息が、白く滲んでいる。
「女伊達らに、散々、脅かされたよねぇ。俺はね、姫君達と賭けをしていたんだよ。俺が勝ったら、姫君の檜扇を一つ貰い受けると、、、、、、って、燕倪、聞いている?」
「煩い。こちとら寝る間も無く、頭を捻っているんだ。邪魔をしに来たのなら、持ち場に戻れよ」
気が散る、と烈也を追い出そうとした時、
「ん?」
視線の端に、白いものが、ちらついた。
「おや、、、」
隣室の机へと追いやられんとしていた烈也が、暢気な声を上げた。
周囲の武官らの、ざわめきの先。
開け放たれたままの戸の向こう。
「、、、ゲ」
軒庇のその下に現れたのは、
「は、、、伯?!」
こちらを伺うように覗く、水干姿の伯であった。
「なんだってこんなところに?あいつは、どうした?」
思わず、膝立ちになって問えば、
「ん」
細い顎先が、来た方を示した。
社殿を繋ぐ渡殿をこちらへと歩んでくる、白い姿があった。
真白の淨衣を纏い、色素の抜け落ちた白い髪を、背でゆったりと束ねた主が、
「お前のところに顏を出すと、言ってな、、、」
腕に抱いた書簡の山を忌々しく、擦ってみせた。
嘆願書の書簡の写しとみられるものの中に、桐箱が一つ混ざっているのが、目についた。
「勅旨を、そんな扱いするな」
皆の手前、燕倪が席を立とうとした時、だった。
「ふわッ」
短い声と共に、伯の体が舞った。
そのまま欄干の上に、猫のように舞い降りて、
「グル…ㇽㇽ…」
喉鳴りと共に、黒髪がざわざわと逆立ち、その目を見開いた。
伯の眼差しの先には、
「いやいや、嫌われた。嫌われて、しまったねぇ。ふふふ、、、」
華奢な肩に触れようと伸ばした手を、袖に仕舞った、烈也の姿。
腕を組みつつ、
「女子供には、これでも、結構好かれるのだけれども。貴方のところの式神殿には、さすがにそうはいかないようだ、都守」
軒庇の下に立った蒼奘を見て、微笑んだ。
「幾分、人見知りでな。左中将、、、」
鬱々とした横顔で応じる様に、
「烈也、ちょっと空けるぞ」
― いかん。左近衛府に、いらぬ火種を撒いてくれそうだ ―
燕倪が、割って入った。
「お前は、おとなしくしてろ」
「まぅー」
うってかわって無抵抗の伯を、小脇に抱えると、
「いくぞ、蒼奘」
その背を押して、二人がやって来た方へと促した。
遠ざかるに従って、
「おい、見たか。あの男童、例の式神とか、、、?」
「ああ。しかし、少将にかかれば、そこいらにいる童と同じだなぁ」
「よせ。相手は、あの都守だ。滅多なことを口に出すな」
「それもそうだ」
ざわつく、左近衛府社殿。
「、、、、、」
一方、欄干に凭れ、その目を眇めていた、左中将。
三人の姿が、社殿の向こうへと消え入るのを見送って、
「嫌われるには、理由があるってねぇ、、、」
細い顎先を撫でながら、そう微笑んだのだった。
人気の無い、近衛府社殿裏。
薄紅色の椿が、凛とした冷たい大気に甘く香る中、
「で、なんだ?」
「んー」
すぐ鼻先に、化身を解いた伯の貌。
燕倪の肩に両手を置き、菫色の大きな眸を、近づける。
「おっ、、、おいおいおい!!ちかっ、近いッ」
思わず、顏をそむけた、燕倪。
「は、伯っ、、、う、ぉいッ」
「むー」
その頬を掴み、こちらに向けさせる、伯。
「どうだ、伯?」
促すように、蒼奘が問えば、
「ん」
顏を覗き込んでいた伯が、燕倪を指さす。
「こ、今度は、なんだよ」
「、、、、、」
伯は、後ろにいる蒼奘を、振り返って、
「、、、しそ」
ぽつりと、言った。
「へ?」
きょとん、とした燕倪を余所に、伯があっけなく、その身から離れた。
「伯、なんだって?」
「、、、、、」
燕倪の手を躱して、そのまま逃げ込むようにして蒼奘の背中へと、隠れてしまった。
蒼奘が背を押すが、出てこない。
代わりに、いつもの薄笑みを浮かべ、漆黒の眸が燕倪を見据えた。
「死相が、出ていると、、、」
「なんだと?!」
濃い眉を、跳ねあげた燕倪だったが、
「って、、、そうはいくか。そうそう、何度も出るようなものなのかよ。馬鹿らしい」
すぐに失笑混じりで、腕を組む。
「、、、、、」
そんな燕倪の顏を一瞥した、蒼奘。
細首に翡翠の連珠を掛けてやると、くるりと背を向け、伯を袖に歩き出した。
「お、おい。その通りだとか、なんとか言ってくれよ」
相変わらずの態度にうろたえれば、
「よくよく、恨まれているようだな、、、」
振り返ったその貌が、いつもの酷薄な笑みを浮かべたまま、言った。
「またか、、、」
項垂れる、燕倪。
「業丸を継ぐ時に、備堂の業を負う覚悟はしていたんだが、、、」
ずしりと、肩が重くなったような気がして、手をやれば、
「どうする。伯が、必要か?」
遠ざかる声が、聞こえてきた。
「む、、、」
肩を揉んでいた手が、【あの時の感触】を思い出させ、
「、、、、、」
自然、力が籠る。
久しく忘れていた、生者の骨肉を断つ ―――、あの感触を。
「冗談、言いやがる、、、」
自嘲気味に呟くと、その感触を払拭するかのように首を振った。
そして、一つ、大きく息を吐くと、
「なぁに、心配いらん」
いつもの快活な笑顏で、こちらを振り返っていた伯に、頷いてみせたのだった。
社殿群を抜け、牛車を待たせてある門へと向かいつつ、
「良かったのか、、、?」
少し後ろを歩く伯に問えば、
「、、、、、」
背後を気にしていた、つぶらな黒瞳が、見上げてきた。
しかし、
「、、、、、」
すぐに俯くと、草履の爪先で、積もった雪を蹴り上げた。
ヒョウ・・・ロロ・・・
二人の間に、影が、落ちた。
蒼奘が見上げれば、ちぎれ雲たなびく空の高みで、鳶が舞っているのが見えた。
伯も釣られて空を見上げ、朱鷺色をした可憐な口元を、開いた。
「、、、約束した、から」
蚊の鳴くような、小さな声であった。
「そうだった、な、、、」
「、、、ん」
以前、自分で落とし前をつけると言っていたのを、蒼奘はそこでようやく思い出した。
― そう言う男であった、、、 ―
再び俯いた、傍らの伯を、見つめる。
「、、、、、」
蒼奘の視線の先、華奢な肩を心なし怒らせて、再び、雪を蹴り上げた。
言葉とは裏腹の感情をもてあまし、何かにあたらずにはいられない様子。
傍にいたい ―――、
―――、自身でけりをつけたい。
伯の胸中を占めるのは、まぎれもなく葛藤だ。
燕倪と言う男、その人となりを、あるいは蒼奘よりも、伯は良く知っているのかもしれない。