表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
31/56

第拾ノ弐幕後ノ後 ― 緋牡丹簪 ―

 蒼奘一行は、鬼窟を開き待つ導師の元へ、天藍を送り届けんと帝都を発つ。運命に翻弄され続けるは、姉妹か、それとも、、、


 死人還りの都守蒼奘、業丸を継ぐ武官燕倪、幽身であるがこの世に縛られた伯。それぞれが紡ぐ異国絵巻、第十二幕後の後編。。。



 月の無い、夜の闇。

 白い輝きが、仄白い光源となって幾つも、揺れている。

 夜露に濡れた、細い刃のような、花弁。

 甘く肺腑に染み入る、芳香。

 新月の夜に咲いた、月下美人。

 その花の向こう、蒼や翠に煌くのは、螺鈿の花鳥だ。

 藍玉、紅玉、黄玉、瑠璃、真珠、金剛石、緑柱石に、柘榴石。

 それらの玉環をふんだんに通した、飾り紐の艶やかさ。

 その玉の並びが、まさに夜空の星の並びを表したものだと、気付く者はいるだろうか?

 車から、そのまま生えているかのような―――、月下美人の花枝には、睦まじく嘴を寄せあう、極楽鳥の番いが、その金色の羽を休めている。

 張り巡らされた淡い色合いの薄絹が、風に遊んでは、重なり合い、また、別の色彩となる。

 別世界を、そのまま虹色の繭で包み込んだ、車。

 天狐遙絃の【花車】だ。

 今まさに、花嫁を迎えんとする、その両側には、対照的な二人が佇んでいた。

 右には、華奢な造作の優男。

 その痩躯に似合わぬ大剣を、背に負っている。

 左には、見るからに屈強な若者が、大太刀を腰に佩いていた。

「なあ、どうしてあんたが、ここにいる?」

 いつだったか、出逢った際に感じた柔和さが、今日は無い。

 嶮しい表情でもって、ひっそりと車の脇で控えている優男に声を掛ければ、

「こちらの姫君に、少なからず縁が、ございまして」

 優男、胡露が視線を大地に落としたまま、口を開いた。

「むぅ、、、」

 そう言われてしまえば若者、燕倪は、顔ぶれが気に喰わないとは言えず、

「、、、、、」

 黙るしかなくなってしまった。

 視線の端に、小柄な人影が、映った。

 首には、雪豹の毛皮、手には牛を追う鞭、山絹を紡いで作られた深靴。

 月夜に遊ぶ胡蝶と雪兎を縫い取った水干を纏い、群青色の髪が乱れるのも構わず、飛んだりはねたりしていた、男童。

 ふわりと、花車の屋根から舞い降りた。

 燕倪のすぐ鼻先に降りると、くるりとこちらを向いて、

「あぉお」

 膨らんだ袖に突っ込んでいた手を、開いた。

「わっ、、、お、俺にかけてどうするんだ、伯っ」

 いろとりどりの花弁が、可憐な手から、燕倪に向かって降り注ぐ中、

「早い早い。無駄使いすんなって」

「、、、、、」

 尚も、撒き続けようとするその手首を、掴んでやめさせる。

 いつものように燕倪の小脇に抱えられれば、

「きぅう、、、」

 不満げな声を上げはしたが、大人しい。

 案外、こうして燕倪に抱えられるのが、嫌いではないのかもしれない。

「しかし、今日はまた一段と、冷えるな」

 燕倪は、夜空を見上げた。

 ちらほらと粉雪が舞い降りて、すでに大地に薄っすらと積もり始めていた。

 ここへ来るまでの足跡も、轍も、掻き消えようとしている。

 重い雲に覆われた空に月は無いが、新雪の大地が仄白く発光し、ぼんやりとした光源となって辺りを満たしているようだった。

「ん」

 抱えられていた伯が、身じろぐと、

「お」

 燕倪の耳に、大地を踏みしめる草履の音が、聞えてきた。

 重く軋む扉を、押し開いた主が、

「胡露」

 短く、その名を呼んだ。

 それまで俯いていた、胡露。

 弾かれたように顔を上げ、

「、、、、、」

 真白の浄衣を纏った、蒼奘の元へ。

 差し出された傘を受け取ると、蒼奘はその場を離れ、待たせてある牛車の方へと歩き出す。

 胡露は一度だけ、屋敷の内を伺うと、傘を、開いた。

 傘が開く軽やかな音と共に、凍える冬夜に、艶やかな薔薇そうびが、咲いた。

 紅、薄紅、雪白、淡黄、花紫、紫紺に臙脂。

 精緻な筆使いによって、命を吹き込まれた花々の向こうでは、鳳凰が、遊んでいる。

 傘を差し向ければ、老いた花守に付き添われ、屋敷の内から姫が、一人。

 介添えに汪果を伴い、姿を現した。

 ― 花が、人の形を成したか、、、 ―

 燕倪が目を瞠り、抱えられていた伯は、その拍子に、

「むー、、、」

 腕から、大地へ。

 小さく息を吐き、

「、、、、、」

 微かな音色に、小首を傾げた。

 シャラ・・・ラ・・・

 背に流れる濡羽玉色の髪には、大輪の緋牡丹が挿され、いろとりどりの綾紐で結われた髪の房には、翠玉の玉環が、通されている。

 それらが互いに触れ合って、一歩、一歩と足を踏み出すごとに、澄んだ音を響かせるのだ。

 雪が放つ、冴え冴えとした明かりの中、ほんのりと金色に輝く、生絹すずしの白無垢姿。

 銀糸の鶴が舞う、打掛。

 空の色、【天藍】と名づけられた眸が、胡露を見つめ、

「、、、、、」

 黙って、頭を下げた。

 宵藍の、傍らに寄り添う、介添えの汪果。

「、、、、、」

 無言で下がると、花守をよく助け、骨が浮き出た手が、おずおずと差し出された。

 胡露の手が、そっと指先に、触れた。

「、、、、、」

 あの日よりも、ずっと冷たい手であった。

 宵藍、いや、天藍は、その手に引かれるようにして、屋敷の外へと、足を踏み出した。

「、、、、、」

 敷居の先。

 苔むした石段の感触を、草履の底が、捉えた。

 ― 、、、ああ、そうだった ―

 今となっては懐かしくも、恥ずかしい記憶が、溢れてきた。

 親元を離れ、異国の都に足を踏み入れた時、見知らぬ土地での不安に駆られ、身が竦む思いだったのを、覚えている。

 天藍を温かく迎えてくれた花守は、大好きだった祖父に似て、すぐに不安は掻き消えたが、それでも故郷を、家族を、恋しいと思う日々は、しばらく続いたものだ。

 改めて、それを思い出せば、

 ― わたしは、まだいい。ここには、思い出がいっぱいある。けれど、草藍は、、、 ―

 今更になって、後悔の念が、胸に押し寄せるのだった。

 一族を、妹を想い、病身を押して神皇の後宮に入った、草藍。

「、、、、、」

 握り締めた、拳。

 その中に、

 ― 草藍、、、 ―

 一族の誇りが、あるような気がした。

 一つ、大きく息を吐くと、背筋が伸びた。

 別れも、済んでいる。

 もう、振り返らない。

 花車へ至る白い大地に、いろとりどりの花が、咲いた。

 伯が、花を、撒いている。

 その中を、行く。

 長いようにも、短いようにも感じたのは、何度も、涙で視界が滲みそうになったためだ。

 溢れそうになる感情を、瞬きで、堪えた。

「わたしめが、、、」

 短い断りと共に簾が上げられ、引戸が開かれると、芥子香が、香った。

 胡露の顔を見れば、

「これより先、鬼窟を渡られるとあって、都守が手ずから調香された破魔の香。僭越ながら、わたしが焚かせて頂きました」

 道中、不自由せぬようにと毛氈が敷き詰められ、火桶を備え付けられたその心遣いが、沁みた。

 天藍が、腰を下ろしたのを確認して、胡露の手が離れていった。

 胡露が、引戸に手を掛けた時、

「今なら、まだ、、、」

「胡露さま、、、」

 声が震え、天藍は、唇を噛み締めていた。

「一言、嫌だと、そう口にされれば、、、」

「っ、、、」

 本当は、今すぐにも、その腕に縋ってしまいたい。

 重い扉の中で暮らす日々に慣れたとはいえ、自らそれを望む者はいまい。

 心が―――、鬩ぎ合う。

 そのまま揺れて、壊れてしまえば、いっそのこと楽になれるのだろうか?

「、、、、、」

 握り絞めたままの拳。

 胸の前に置けば、

 ― ティエラン ―

 その人が呼ぶ声が、聞えたような気が―――、した。

 天藍は、首を振った。

 涙が一筋、堪えきれずに頬を伝ったが、口元は、微笑んでいた。

 心配そうな胡露を、今度こそ、まっすぐに見つめると、

「遅くなりましたが、姉を、迎えに行ってきます」

 笑って言った。

 強がりだ。

 それでも、誇りと共に在りたい。

 今生、共に暮らすことが叶わないのなら、せめて心だけは、一族と共に、在りたい。

 ― 草藍、今、行くから、、、 ―

 その人を想えば、揺れ、ざわつく心も、静まっていくようだった。

「、、、そう、ですか」

 胡露が、わずかに眉を寄せながらも、

「宵藍殿、、、いえ、、、」

 穏やかな眼差しそのままで、眼を眇めた。

 そして、

「天藍殿、緋牡丹の花簪、、、その、、、良く、似合っておいでですよ」

 ゆっくりと、引戸が閉められる。

 世界が、閉じられてゆくようだった。

 花車の花々が光源か?

 白々と、月光のように差し込む、僅かな灯り。

 その隙間が、

 カタリ・・・

 短い音を立てて、閉じられた。

 刹那、

「ッ、、、」

 取り縋るようにして、天藍は、閉じられたばかりの引戸に、頬を預けていた。

 ― 胡露さまっ、、、本当は、わたしっ、、、わた、、、しっ、、、 ―

 込み上げる想いを、唇を噛み締め、ぐっと飲み込んだ次の瞬間、

 ― 嗚呼、、、っ ―

 溢れ出した涙を、天藍は、もう、どうすることもできなかった。

 

 

 

 あぁぁああッ…

 牛車の中から聞えてくる、天藍の声。

 心を定めたとは言え、行き場の無い想いが、彷徨って紡がれているのだ。

 啜り泣きとは、違う。

 これは、魂の叫びだ。

 一瞬、浮かせた手を、再び引戸に戻した、胡露。

 しかし、

「、、、、、」

 ゆっくりと引戸から手を、離した。

 それは、これから待ち受けるであろう運命を乗り越えんとする、生者の誓い。

 簾を下げて合図をすれば、心得た琲瑠が、牛に鞭をひとつ、くれた。

 先を行く、蒼奘が持つ錫杖。

 その遊環が跳ね、

 シャンッ…

 張り詰めた大気を、震わせた。

 傍らで花を撒くのは、伯。

 左右に随身、燕倪と胡露。

 そして、付き従うように、暗がりから現れた狼の群れ。

「、、、、、」

 その中から現れ、後方に続いたのは、淡い色の寛衣を纏った、青目であった。

 望まぬ輿入れとは言え、雪の中へと消えて行くその姿が纏う寂しさは、拭えない。

 ぎしぎしと、重苦しい音を残し遠ざかる牛車を、皺深い眼で見送りながら、

「、、、、、」

 老いた花守はただ、天藍の決意を、その目に焼き付けるのだった。

 

 

 

 燐光放つ、蓮の池。

 その中に、簡素な湖亭が一つ、浮かんでいる。

 蓮池に突き出した一画で、いつものように、しどけなく長椅子に寝そべった遙絃は、

「、、、近い」

 額を揉みながら、呻いた。

 遙絃の力が及ぶ範囲に、触れるか触れぬかの位置に、居る。

 夢路での顛末は、蒼奘の屋敷を訪ねた胡露より、聞いた。

 この気配は、

 ― 今回の騒動と悪夢に端を発している、元凶、、、 ―

 に、違いない。

 びりびりと泡立つ肌が、それを伝えてくる。

 紺碧の双眸に、剣呑な輝きが過ぎった。

 ― しばらく、この屋敷に篭り過ぎたか。大陸は神都【黄威】の守。天津国におれば、多少はその話を耳にしたであろうが、、、 ―

 女主の舌打ちに、爪を磨いていた侍女の肩が、跳ねた。

 もういい、とばかりに手を引くと、

「長衣を。出掛ける」

 長い髪を背に払いながら、立ち上がった。

「ただいま、お持ちいたします、地仙」

 侍女が袖を合わせ一礼すると、張り詰めた空気から逃げ出すように、湖亭から走り出て行った。

 遙絃は、置かれたままになっていた象牙の煙管を咥えると、池に面した欄干に背を預けた。

 細く、東雲色の煙を吐き出せば、千切れ雲のように湖面にたなびいては、消えていく。

 蓮池に映る、己が姿。

 鏡面のように凪いだその水面を見て、

「ひどい顔だ、、、」

 やつれた頬を擦りながら、思わず苦笑したのだった。

 

 

 

 胡弓が、噎び泣いている。

 墨色の湖面を渡る白き魚影も、枯れた葦の陰で息を潜める、墨依湿原。

 湖面を渡るその音に聞き惚れて、あるいは共に、泣いているのかもしれない。

 すでに石化しつつある、巨大な倒木。

 いつの時代のものか定かではないが、横倒しになった幹に腰掛け、弓を操っているのは、

「、、、、、」

 闇色の布を体に幾重にも巻きつけた若者、【導師】。

 イィイイン――、ビィ・・・ヒュァァ――・・・

 そして、膝に入れた胡弓は、あの日、後宮で息絶えた娘のものであった。

 甲高く、大気を震わせたかと思えば、ひらりと手首か返され、腹腔深くに響く低音が、鼓膜を突く。

 導師が操る、弓の先。

 艶やかな紫檀の棹に張られた三弦の下には、血塗れた胴がある。

 そこから奏でられる旋律には、ついつい聞き入ってしまう【何か】が、宿っていた。

 ― ここは死の淵に、近い、、、 ―

 絃を押さえる指先を、細やかに震わせれば、胡弓が喚く。

 ― それだけ、無に近いと言う事。常世、鬼窟、現世が交わる【真理への起点】、とでも呼ぼうか、、、 ―

 力強く、弓を引き上げれば、

 ヒユィイイ―――ッ!!

 引き攣るような高音と共に、わんわんとした余韻が、辺りに響き渡った。

 感情の一切を窺わせない貌とは裏腹に、その音色は哀しくもあり、怒りに打ち震えているようでもあるようだった。

 雲が晴れ、星々が連なるのを見上げれば、

「っ、、、」

 左目が、灼熱した。

 思わず弓を取り落とし、布の上から左眼球を押さえつければ、じんわりと熱く、どす黒いものが、瞼の境目から滲む感触に、顔を歪めた。

 左目の奥。

 そのずっと奥底から、嗤い声が、聞えてくる。

≪ 蝕メ、、、 ≫

 鼓膜を掻き鳴らす、声ならぬ、【内なる声】。

≪ 我ハ餓エル、、、混沌ヲ、、、絶チ切レヌ怨嗟ノ楔ヲ、、、穿テ、、、奈落ヘ、、、堕トセ、、、 ≫

 破眼をもってすれば、鬩ぎ合う三界の狭間を、蝕みの力で破壊することもできるのかもしれない。

 ぎりりと、噛み締めた奥歯が不快な音を頭蓋に響かせる中、

「この身は既に、死した身。それとも、左目共々、今度こそ火口に身を投げてやろうか?」

 低く、吐き捨てた。

「貴様は、この身体に執着し過ぎ、それ故―――」

≪ 、、、、、 ≫

「それ故、一度は死した器に、根を張った。それが、そもそも間違いだったのだ。貴様もこの身も、既にことわりから外れた存在。あの獣神に破れ、肉体を失ったとき、既に貴様は、負けていたのだ」

 黙っていた気配が、体の深いところで、身じろいだ。

≪ クク、、、 ≫

 沈黙と打って変わって楽しげな、

≪ 若造ガ、、、言ッテクレルワ、、、 ≫

 声音。

 くつくつと喉を鳴らし、導師の神経を、逆撫でする。

 抉り出したい衝動が、全身を、突き抜ける。

「再び現世へと舞い戻りたいのなら、こちら側の器が必要不可欠。それすらも、同調が成されなければ、真の受肉は不可能だ。邑が滅び、【贄】が絶たれた今、貴様が手に入れたのは、現世でこの左目だけ、、、」

≪ ソレデモ、汝ノ左目ハ、我ガ求メニ応エタ、、、 ≫

「勝手な、解釈を、、、」

 耳障りな嗤い声に続き、

≪ 人ハ、口デハ何トデモ繕ウ、、、ソノ実、欲深イ生物ヨ、、、 ≫

 声は歌うように続ける―――、饒舌に。

≪ 実際ドウダ?汝ハ、求メテイタ、、、死ニタクナイ、死ニタクナイ、、、【生キタイ】ノダト、、、 ≫

「違、う、、、」

 脳裏を、彼の日の遠い記憶が、過ぎった。

 忘れもしない、あの日。

 長き時の流れの中、消え入りそうな、その顔は?

 ― ・・、さん、、、  ―

 あの時、あの瞬間、その人への慕情が、

「、、、、、」

 募ったのだろうか?

 現世を離れるその時を前に、やはり【生きたい】と、思ったのだろうか?

 悪鬼に蝕まれようとも、【生きたい】と、迷ったのだろうか?

 闇色に染まる、世界の中。

 頭上彼方で、白い光が頼りなげに揺らめいていた。

 その先へ、還らなくてはいけない。

 悪鬼を―――、道連れに。

 ― あの時、、、本当は、、、 ―

 今となってはもう、はっきりとは思い出せない、遠い遠い、【あの日】。

 沈黙した導師に、

≪ 我ラハ、似テイル、、、 ≫

 猫撫で声が、囁いた。

「違うッ」

 弾かれたように咆えれば、

≪ 思イ出セ、、、汝ヲ、我ラヲ、滅ッサントシタ、女ノ顔ヲ、、、 ≫

「っ、、、」

 次の瞬間、息を呑んだ。

 ― 左目を抉り出せば、少しは気が休まるのだろうか? ―

 そう何度、同じ問いを繰り返してきただろう。

 悪鬼が今日のように饒舌な時は、大抵ろくなことが無い。

「、、、、、」

 相手に、してはいけない。

≪ 今更、人ノフリハ、ヤメロ、、、堕チテ、コイ、、、 ≫

 隙を与えればつけ入られ、呑まれる。

 冷たきこの身の深いところで、悪鬼はいつでも手招いているのだ。

 ― 折れれば、こちらが蝕まれる、、、 ―

 一度、眼を閉じて、冷たい大気を吸い込んだ。

 冷え切った、身体。

 白さを滲ませない、冷たき吐息を、細く吐き出す。

 熱いものなど、想いなど、もうどこにも無いのだと、現実を突きつけてくるようで、

「、、、ふ」

 反って、安堵した。

 改めてそれに気付けば、自嘲気味な薄笑みが、唇に刷かれた。

≪ ム、、、 ≫

 冷静になりさえすれば、悪鬼が困惑するのが、手に取るように分かる。

「ああ。もう、人ではない」

 左目を押さえたまま、

「だから、これからも貴様のこの力、我が王のため、存分に使わせてもらうぞ」

 力強く、導師は言い放った。

 弓を拾い、枝に掛けてあった絹布に胡弓を仕舞っていれば、

≪ 気ノ長イ、根競ベニ、ナリソウダ、、、 ≫

 呆れたような、そんな嘯きが、聞えてきた。

 悪鬼とは、長い付き合いだ。

 導師は、今回は悪鬼が引いたのを、感じていた。

「導師、、、」

 不意に、声が掛かった。

 いつの間にか葦の茂みに、涅色の布をすっぽりと被った者が、蹲っていた。

「皆、指揮下に戻りました」

 神都より放ち、帝都に集まらんとしていた鵺らの統率をとらんと、向かわせた鴎弩だ。

「花嫁一行は、予定通り、帝都を、、、」

 抑揚に欠ける声音に、浅く頷くと、

「、、、、、」

 一度は、帝都の在る方角を向いた導師が、振り向いた。

 何も無い。

 相変わらず、闇が嵌めこまれた葦の園に、それまで無かったはずの濃い霧が、立ち込めようとしていた。

 その中に、ぽつり、またぽつりと、青き炎が揺れている。

 導師は、

「持っていろ」

 手にしていた胡弓を、鴎弩に預けた。

 そのまま、ぬかるむ大地に足を踏み入れる。

「導師、どちらへ?」

 さすがに怪訝に思った、鴎弩。

 帝都に背を向け、葦の茂みへと分け入っていこうとする背に問えば、

「すぐに戻る、、、」

 その身をあっと言う間に押し包んだ霧の中から、短く、応じたのだった。

 

 

 

 深い霧の中。

 誘うようにして、先導する青き炎。

 それを頼りに、進むことしばらく、

 ― 入った、、、 ―

 靴底に、微かな違和感を、感じた。

 ぬかるんでいたはずの大地の感触が、硬質なものへと変わったせいもあったが、何よりも漂う大気が、変わった。

 張り詰めて。

 術者の結界に、入ったのだろう。

「、、、、、」

 前方、彼方。

 眼を凝らせば、薄明るい世界に、人影が窺えた。

 一歩一歩と、徐々に色を纏う、その姿。

「!!」

 一瞬、導師は目を見開いた。

「あ、、、」

 思わず駆け寄ろうとした、足。

 それを、なんとか、押し止める。

 逸る気持ちすらも押さえ込んで、見覚えのあるその姿に、

「、、、、、」

 眼を、眇めたのだった。

 

 

 

 それは、少しばかり諌めんと招いた、大陸からの【招かざる使者】。

 人の手によって拓かれ、創られた、【神都の守】。

 互いの顔など、知るよしもない相手――― 、のはずだった。

「嗚呼、、、」

「、、、、、」

 腕を組み、結界の中程で佇んでいた者は、その【音】に、貌を上げ、

「逢いたかった、、、」

「?!」

 思いも寄らぬ言葉に、目を凝らした。

 次の瞬間、

「お、、、」

 見開かれる、紺碧の眸。

 顔からは、血の気が引き、冷たいものが、血管の中を、這ってゆく。

 ― 神都の、守、、、だと、、、 ―

 遙絃の心中を他所に、薄い唇が、ゆっくりと、動いた。

「姉さん、、、」

「ッ、、、!?」

 遙絃は、息を呑んだ。

 霧を抜けて現れた【導師】は、天狐遙絃を、確かに【姉】と、呼んだ。

 その証拠に、

「、、、、、」

 いつもならば、尊大な態度で凄みを利かせるであろう遙絃が、じっと動けずにいる。

 膨らんだ九尾が、その緊張の度合いを物語る。

 遙絃の困惑を他所に、

「まさか地上で、あなたと再び、まみえるとは、、、」

 導師は、淡く微笑んだ。

「ビュー、ラ、、、どうして、、、どうして、お前、、、」

 紺碧の視線が素早く、導師の頭頂部から足の先までを、何度も行き来する。

 そして、布で覆われ、隠された左目の辺りを見据えた。

 鼻先に皺が、寄る。

 嫌な匂いが、そこからした。

「その、眼、、、」

 動揺のためか、思わず震えそうになる声を、勘繰らせまいと必死に押さえた。

「ああ、これ、、、」

 ぞっとするほど無邪気に、導師は笑った。

 【あの頃】と、寸分変わらぬ顔と、笑みで、

「姉さんと同じ、、、。いや、少し、、、違う」

 固く閉じた瞼の上を、擦ってみせた。

「あの時、お前は確かに、、、この手で、、、。その、死臭は、、、」

 問いたいことは、山ほどある。

 それが整理できぬまま、口を突くのは、、、?

「ふ、、、」

 導師の笑みが、深くなった。

「びゅ、、、ら、、、お前、、、」

 遙絃は、冷たいものが背筋を這う感触に、確信した。

 導師の言葉を待てないのは、【恐怖】故、だと。

 喉が、渇く。

 思わず、己が手首を強く、掴んでいた。

 最悪の結果が、脳裏を過ぎった。

「魅入られた、のか、、、」

 掠れた声に、

「まさか」

 導師は、横に首を振った。

 そして、

「貴女が、その身に荼吉尼ダキニを宿しているように、奴を、この目に封じたんだ、、、」

「封じた、、、?憑神を、、、悪鬼を、お前は、お前の意思で、使役できると言うのか?」

 動揺を隠せぬ遙絃の口ぶりに、導師は、静かに、頷いてみせた。

「姉さんは、、、」

 今度は、

「違うの?」

 幼い仕草で、首を傾げる。

「貴女なら、分かるはず、、、」

 喉仏の辺りに手をやった。

「荼吉尼に憑かれ、囁かれるままに、実の弟を、、、その手で、、、」

「やめ、、、ろ、、、やめ、、、っ」

「そして、生まれ育った邑まで―――、焼いたのだから」

「!!」

 紺碧の眸が、見開かれる。

 脳裏を過ぎるのは、紺碧に染まった邑だ。

 天山の頂をも焦がさんと燃え上がった、紺碧の炎。

 その青白い焔に巻かれ、折り重なるように倒れてゆく、人々。

 そして、

 ― あ、、あああッ、、、 ―

 手に残る、あの感触。

 何度も何度も、夢に見た、

「ッ!!」

 あの感触だ。

 青ざめた頬を、嫌な汗が滑っていく。

 小刻みに震える顎先から、いくつも滴り落ちては、大地に吸われていった。

「痛かったよ、姉さん、、、」

「ちが、、、」

 喉が餓えて、声が出ない。

 とうに口腔は、からからに乾いていた。

「覚えている最後の記憶は、貴女の手だ、、、」

 喉の辺りを擦るその様子に、

「ちがう、、、お前がっ、、、お前が、・・してくれ、と、、、望んだ、から、、、っ」

 声が、掠れた。

 もう動揺は、隠せなかった。

 平素、自信と余裕に溢れた遙絃のうろたえようは、幼い人の子の仕草にも似ていた。

 耳を塞ぎ、顔を背けたくとも、一度導師に吸い付いた視線は、瞬きも許さない。

 それどころか、

 ― いかんっ、、、呑まれてはっ、、、 ―

 辺りを覆い尽くさんと、導師のその左目の辺りから、黒い霧が広がってゆくのを、感じる。

 細くなって、からからに乾いた、喉。

「思い出せッ、、、お前が、私に、、、っ」

 搾り出した声は、苦鳴に変わっていた。

 ぎりり…

 それ以上言えず、たまらず唇を噛み締める、遙絃。

 ぷつり…

 犬歯が、唇に刺さった。

 滴る、赤い血潮。

 それが、鉄錆の味をさせつつ、とろりと喉へと下り、喉を潤せば、

「思い、出せっ、、、ビューラッ!!」

「、、、、、」

 笑みを湛えていた導師の表情、その言葉を受け、俄かに曇った。

 長い間、彼も思い出すまいと封じていた、記憶。

「思い出せ、あの時を!!」

「あの、時、、、」

 遙絃の叫び。

 皮肉にもそれが、先ほどまで錆ついていた記憶の泉に、一石を、投じることとなる。

「あの時の、姉さん、、、」

 額に、冷たい指で、触れた。

 重く痛む、その奥。

 記憶。

 あの日、馬乗りになって首を絞めていた女の顔は、

「、、、あ」

 濡れていた。

 その顔は、怒っているようでもあり、苦しんでいるようでもあり、哀しんでいるようだった。

 ― そうだ、、、そうだった、、、あの日の姉さんと、同じ、、、 ―

 ひどくしゃがれた声が、ぽつりと、口を突いて、出た。

「姉さんに殺された、あの日。この通り、続きがあったんだ、、、」

「、、、、、」

 遙絃は、導師を食い入るように見つめたまま、視線を外せずにいた。

「呼び名すら消された、【邑】、、、」

 その邑について唯一残された記述には、隣接する大国Magiをも恐れさせた、【最初で最後の邑】とだけある。

 神々が降り立ったとされる、峻嶮な天山の頂き。

 そこに程近い高地に、【邑】はあった。

「あの日、死にゆくこの身共々、ラクタヴィージャを、道連れにするつもりだった、、、」

「、、、、、」

 ラクタヴィージャ。

 それが、その邑を脅かした、魔物の名のようだった。

 心当たりがあるのか、遙絃は、導師の言葉に耳を、傾けている。

「ラクタの血筋は、獣憑きの血筋。長に仕える依巫よりまし。人外の英知に触れんと、儀式の度に差し出される、生贄、、、」

 邑には、長がおり、一切を取り仕切っていた。

 そしてその傍らには、

「あなたも、生神であった頃の記憶があるのなら、覚えておいででしょう?」

 神託を告げるとされる生神の姿が、あったと言う。

「、、、、、」

 

 遙絃は、重く圧し掛かる負荷に耐え切れず、額を揉んだ。

 ゆらゆらと、その身が、ぶれ始める。

 ― 同調が、、、 ―

 陽炎のように、遙絃の体から闇色の人影が揺らめいては、重なる。

 心の動揺が激しければ、それだけ、波長が乱れる。

 遙絃の姿に、雪色の体毛で覆われた獣神体、巨狐の姿が重なって、現れ始めた。

 背後には、黒い人影が、濃淡を繰り返しながら、揺れている。

 遙絃とは似ても似つかわぬ、小柄な造りの―――、女のようだった。

 徐々に、前のめりになった遙絃の姿が薄れてゆく中、

「姉さん。あの時、貴女は確かに、この心の臓を、止めたんだ」

 淡々とした、その声だけが、響き渡る。

 聞きたく、ない。

 思い出したく、ない。

 どうしようもなく、叫び出したい。

 それでも、

 ― ビューラ、、、っ ―

 その哀しげな眸に、遙絃はかつての弟を、確かに見た。

「、、、、、」

 紺碧の眼差しの先で、導師は左目を覆った布を、解く。

 衣擦れの音と共に、赤黒い布が、大地に落ちた。

 閉じられた瞼に指が添えられると、鈍い輝きが、数本、引き出された。

「!!」

 見覚えのある、細い針、であった。

 ゆっくりと、長い睫毛が揺れると、

「っ、、、」

 遙絃は、息を呑んだ。

 血の色に染まった、眼球。

 禍々しくも、朱金の散った白銀の眼には、針の如く引き絞られた鋭い瞳孔。

「破眼、、、」

 遙絃が呻くと同時に、その眸から赤い血泪が、頬に伝った。

 一筋、二筋、、、

 その泪が、止まることはないのだろう。

 それは、封じられたラクタヴィージャの、怨嗟の泪だ。

 ― 布の色は、、、枯れることの無い血涙を、吸わせるため、か、、、 ―

 遙絃の動揺を他所に、導師の手が左目を、押さえた。

「だから、この身は、もう、、」

 そのまま、その手を顔の前へ。

 ゆっくりと下ろされる手の下から現れたのは、

「!!」

 滑らかな薄墨色の肌―――、ではなく、赤く爛れ腐敗した、見るも無残に変わり果てた人であったもの、そのなれの果て。

 暗い、眼窩。

 青黒く変色した皮膚は顎先から垂れ、ぬめぬめと、緑の膿で濡れている。

 赤く濡れた肉のその奥で、白々と見えるものは、頬骨だろう。

 その上で、殺気立つ破眼だけが、健在であった。

 足元に、右の眼窩から、削げ落ちた鼻腔から、剥きだしになった歯茎の辺りから、白いものが幾つも、零れ落ちた。

 その白い粒状のものが、蠢いている。

 腐乱した肉体に湧いた、蛆だ。

 固く握り締めていた遙絃の拳が、

「くッ、、、」

 堪らず震えた。

 吹きつける腐敗臭の中、陽炎が震え、霧散した。

 それまでぶれていた天狐と陽炎が、遙絃の姿に定まると、

「あ、、、、、」

「、、、、、」

 導師が小さく声を、あげた。

 肩に、遙絃の顔があった。

 痩せぎすなその体は、今や遙絃の腕に、しっかと掻き抱かれていた。

 骨が軋む程に、力強い腕であった。

「もう、いい、、、もう、、、いいんだ、、、」

 あまりにも、無防備。

 細首が、

「、、、、、」

 すぐ、そこにあった。

 その首を、縊ってしまえば、

 ― 荼吉尼を屠れば、この死人の身体は受肉を迎え、在りし日の姿を、取り戻せる、、、 ―

 ラクタヴィージャの宿願が、成される。

 導師の手が、上がった。

 漆黒の、長き爪を持つ指先が、

「、、、、、」

 触れたのは、首―――、ではなく、その肩、であった。

 手は、滑らかな薄墨色で、姿は、現れた時と同じ、若者の姿に戻っていた。

 そっと、骨ばった肩を擦れば、体に回されている腕に、更に力が込められ、

「あ、、、嗚呼、嗚呼、本当に、、、姉さんだ」

 掻き抱かれるままに導師は、天を、仰いだ。

 腹腔深く、熱く熱く、灼熱しながら込みあげる―――、感情。

 押し寄せ、全身を包んだそれは、寂しさ、やるせなさ、恋しさや、憤り、歓喜もまた、在った。

 怨嗟に煙る冷たいこの身にも、まだ熱いものが宿っていると知って、魂が、どうしようもなく、打ち震えていた。

「、、、、、」

 遙絃は、ただ黙ってその肩に、顔を埋めた。

 どこまで冷たい、体であった。

 その耳に、呟きにも似た、

「本当に、嬉しかったんだ、、」

「?!」

 思いもしない言葉が飛び込んでき時、遙絃はようやく、顔を上げた。

 ― 青い。この【青】を、わたしは、知っている、、、 ―

 忘れるはずもない、天山の雪解けと共に現れる、氷湖。

 その氷湖が湛える、鮮やかな水縹の―――、眸。

 凍てつかせたはずの、胸の奥。

 その深みに、郷愁を呼び覚ます懐かしい眼差しは、あの頃と寸分変わらぬ色を、そのまま湛えていた。

 ― だが、、、わたしは、、、 ―

 眼差しから逃れるように伏せられた、紺碧の眸。

 奥歯を噛み締める、鈍い音が、続いた。

 導師は、触れていた遙絃の薄い肩を、

「姉さん、、、」

 擦って言った。

「嘘じゃない」

「、、、、、」

 本当だと言い聞かせるように、その声音には、遙絃が無言の裡に抱いた疑念を宥めるような、そんな響きさえあった。

「嬉しかったんだよ、姉さん、、、」

 憎んでなど、いない。

 誰にも、頼めなかった事だ。

 それを、成してくれた姉を憎むことなど、どうしてできよう。

「あの日、ずっと、見ていたんだ。魂が、この身を離れても、、、」

「、、、、、」

「離れたくなかった。離れ、られなかった。姉さんが、姉さんでなくなっても、、、姉さんが、僕らが育ったあの【邑】を―――、焼き払っても、、、」

「、、、、、」

 肩を擦る、その手。

 冷たいその手が、変わらず、あやすように肩に触れている。

 それが、

「姉さんが、邑を焼いている頃、魂魄が抜けたこの体をラクタヴィージャが、乗っ取ろうとした、、、」

 止まった。

≪ ビューラ、、、≫

 鼻の上に皺を寄せ、溢れる激情をも隠さない、導師。

「ラクタヴィージャは、必ず荼吉尼を、、、姉さんを、殺そうとする。だから、もう一度―――、戻った、、、」

 無我夢中だった。

【約束された安息】に背を向けることに、何のためらいもなかった。

 たとえ、朽ちた身で彷徨うことになると、知っていたとしても。

≪ お前は、、、 ≫

 再び、遙絃の背後に立ち上った陽炎が、導師のすぐ鼻先で揺らめきながらも、口を開いた。

≪ お前は、、、いつだって、一人で決めてしまう。昔から、あたしの意見なんぞ、聞きはしなかったものな、、、 ≫

 その声は優しく澄んで、それでいて呆れたような、ありのままを包み込むような、そんな柔らかい声音であった。

 弟の心の強さを誰よりも知っているから、姉は、苦渋の決断を下したのだ。

≪ 共に逝く道も、あったと言うのに、、、あたしは、昔も今も――― ≫

 透明な輝きが、闇色の頬を、伝っていった。

≪臆病だ、、、 ≫

 陽炎がそう呟いた時、遙絃がゆっくりと、体を離した。

 陽炎は、遙絃を取り巻くように、吸い込まれた。

 一柱と一人は再び、同調を果たしていた。

「、、、、、」

 長い睫毛が、ふるりと、揺れた。

 朝凪を思わせる、紺碧の眸。

 天狐遙絃は改めて、導師を見つめた。

 おずおずと、伸ばされた、手。

 躊躇いながらも、導師の左目へと伸びれば、構わない、とばかりに、破眼が伏せられた。

 そっと、瞼に、触れる。

 指先から、突き刺すように【記憶】が、流れ込んでくる。

 断片的ではあったが、

 ― 燻る、煙、、、折り重なる、屍、、、蒸発し、枯れてしまった、小川、、、燃える、蒼き天山、、、 ―

 遙絃が邑を去った後、辛うじてラクタヴィージャを左目に追い込み、封じた導師は、冷たい体を引きずって、変わり果てた邑を見、生まれ育ったそこを、後にしたことが、読み取れた。

 何度孤独に、震えたころだろう。

 それを思うと、今更ながら罪悪感が、込みあげてきた。

「、、、、、」

 遙絃の手が、瞼から頬、肩へと下り、腕を擦って指先へと、滑ってゆく。

 ― 嗚呼、しかし、、、 ―

 遙絃も知らぬ、孤独をも従えた男の姿が、そこにあった。

「ビューラよ、、、」

 遙絃は、そっと指先から手を、離した。

「大陸に、居場所はあるのか、、、?」

 俯いたまま、遙絃が呟いた。

「あ、、、」

 少し、驚いたような顔をした導師であったが、

「、、、ああ」

 何かを思い出したかのように、頷いてみせた。

 その様子に、それまで伏せられていた獣の耳が、大きく、広がった。

「そうか、、、」

 遙絃は小さく何度も頷くと、それ以上は何も聞かず、導師に背を向けた。

 その背中は、いつもの尊大な天狐遙絃のものであった。

 ― 姉さん、、、 ―

 その人もまた、数奇な運命に翻弄され、人ではなくなった相手であった。

 導師は、その背を目に焼きつけ、踵を返した。

 これから鬼窟を渡り、蛮姫を一人、神都まで送り届けなくてはならない。

 蛮姫は不可侵の代償、とどのつまり人質でもあるが、その尊い犠牲により、多くの者達の安寧もまた確保されているのも、事実。

 導師は左目を、覆った。

「、、、、、」

 布の上から軽く、押さえる。

 静かだが、息づく確かな気配が、あった。

≪ 、、、、、 ≫

 ラクタヴィージャは、荼吉尼を前に、結局一言も、発さなかった。

 今度こそ滅せられる、と、怯えていたのだろうか?

 、、、いや、そうではないだろう。

 荼吉尼と姉がそうであったように、相対していた間、彼らもまた、同調していたのかもしれない。

 ふいに、ラクタヴィージャが先刻、【似ている】と言っていたのを思い出した。

 もしかすると導師の言葉は、そのままラクタヴィージャの言葉であったのかも、しれない。

「、、、、、」

 そのことを少し苦々しく感じつつも、思い当たってしまった事実に、内心、舌を巻いた。

 頭を切り替えようと、顔を上げる。

 そろそろ、花嫁が随身を伴い、現れる頃合だ。

 せっかく首を立てに振った、花嫁。

 時と共に、里心と言うものは、首を擡げる。

 気が変わらぬよう、早急に、この地を離れなければならない。

 ― 急がねば、、、 ―

 佇む遙絃との距離が、一歩、一歩と、離れてゆく。

 立ち込める霧のその向こう側へ、消え入らんとして、

「姉さん、、、」

 導師は、足を止めた。

「、、、、、」

 返事は無かったが、背中越しに、変わらず同じ場所に佇んでいるだろう気配が、あった。

 一つ、息を吸い込んだ。

 冷たく湿った大気が肺腑に染み入る、そんな感覚が、まだ残っているような気がした。

「もし、、、」

 姉を目にした途端、ずいぶんと気が弱くなったものだと呆れながら、

「この先、ラクタヴィージャに呑まれてしまったら、、、」

 眼を閉じた。

「、、、、、」

「、、、、、」

 案の定の沈黙に、そのまま足を踏み出す。

 視界が、薄霧に白々と染まってゆく中、

「その時こそ、、、」

 問いは、誰に宛てるでもない呟きに、変わっていった。

 霧が、深くなった。

 足に、ぬかるむ泥の感触と、水が跳ねる音が、聞えてくる。

 やがて、白い世界の中の片隅に、大地に伏した倒木群が、見えた。

 そこが、天狐遙絃が敷いた結界と現世との、境界線。

 太い幹と幹が、互いに枝を絡め、折り重なるその間を、潜る。

 倒木と言っても、その幹は独特な光沢を放ち、触れれば、掌に石の感触を伝えてくる。

 いつの時代に在ったものか、それらは化石に近い。

 複雑に絡み合った木の枝の天蓋の下を、しばらく行くと、急に視界が開けた。

 葦の茂みが広がり、見上げた空には、星が瞬くのが見える。

 やがて天蓋が途切れ、遠く、帝都の方角から、狼の遠吠えが聞えるのをその耳に捉えると、

「ああ、無論だ」

「ッ、、、」

 曇りの無い、澄んだ声音が、響いてきた。

 思わず振り向いた、導師。

 そこにはもちろん、その姿は無く、今し方まで眼にしていたはずの倒木群も消え、

「、、、、、」

 千切れ雲のような霧だけが、漂うばかり。

 その名の由来となった、墨色の水を湛えた湿原が、闇夜に延々と続いているだけだった。

 

 

 

 静寂が、満ちている。

 それまで、腕を組んだまま微動だにしかった遙絃が、ゆっくりと眸を開いた。

 大海原を思わす紺碧が、墨を落としたように沈んでいた。

 結界から消えた、今は懐かしい、気配。

 胸に手を置き、遙絃は、深く息を吐いた。

 ― 、、、終わったとばかり、思っていた ―

 だが、実際どうだ?

 終わってなど、いなかった。

 まだ―――、続いている。

 手にかけた、その日から。

 ― これも、私が負わねばならぬもの、、、 ―

 遙絃は、皮肉な因果に、唇を歪めた。

 耳に残るのは、

『その時こそ、、、』

 底知れぬ暗闇から、こちらに手を伸ばす、弟の声。

 彼の中に残る、【人で在りたい】という、叫びだ。

≪ ククェケケヶ… ≫

 腹腔深く、【獣】が、低く鳴いた。

 全身に反響するその声は、

 ― ああ、お前も共に在ると、言ってくれるか、、、 ―

 優しかった。

 遙絃は左肩を、強く抱く。

「、、、、、」

 内なる声に耳を傾ける、遙絃。

 やがて、閉じられていた長い睫毛が、揺れた。

「、、、、、」

 再び開かれた紺碧の眸に、曇りは無い。

 己への戒めと共に、

「ああ、無論だ」

 その言葉を舌に乗せた。

 あの時と、寸分変わらぬ想いを、胸に。

 青い狐火が一筋、そのことばを乗せて、導師の後を追っていった。

 ― 私も、戻らねば、、、 ―

 人間に棲みかを追われ、行き場を失った野狐らの顔を、思い出した。

 今更、立ち止まるわけには、いかない。

 ふわりと、九尾が広がる。

 耳が跳ね上がると、背筋が伸びた。

 虹色に変化する羽衣を纏い直すと、自らもまた、霧の中へと歩き出す。

 長い時を経たと言うのに、【大いなる存在】の悪戯か、宿星か?

 踏み出したはずの足が―――、止まった。

 振り向いた、その先。

 遙絃は、紺碧の眸を、

「、、、、、」

 眇めた。

 大地に点々と残された―――、足跡。

 再び交わった、互いの道。

 繰り返さる過去をも受け入れん、と、自身に言い聞かせるようでもあった。

 

 

 

 ギ…ギギ…、キ…シシ…

 一面の葦の原を、車輪が軋む音が、渡る。

 昼間でも薄暗く、気味が悪いと近づく者さえいない、墨依湿原。

 そこを、仄白く発光する牛車が、進んでゆく。

 月下美人特有の芳香が、辺りに漂えば、不思議と闇色の水は引き、大地は固く、車輪を迎える。

 疲れを見せぬ、堅牢な巻角を持つ、巨牛の足取り。

 随身を伴い、風狼らを従えた【花車】が止まったのは、葦に囲まれ、石と化した倒木らが乱立する、一画であった。

「、、、、、」

 辺りに、素早く視線をやった、燕倪。

 業丸の柄にかけていた手を、握り込む。

 ― いる、、、 ―

 茂みに隠れた気配を、燕倪の六感が、捉えた。

 ― 多い ―

 細く、息を吐き出す。

 全身が、びりびりと泡肌立つ。

 爪先まで気を廻らせ、不可視の一刀を警戒する。

 じりり…

 靴底が、大地に擦れ、鈍い音を立てた。

「、、、、、」

 葦原の向こう。

 眇めた眸に、星明かりが差し込む。

 鈍色に、青鈍が滲めば、剣呑な色を宿す。

「、、、、、」

 先を歩んでいた蒼奘が、振り向いた。

 俄かに張りつめた大気が、そうさせたのだ。

 鬼気を纏い、神経を研ぎ澄ます、燕倪。

 張りつめた、大気そのものと同化し、潜む輩の、一挙一動を逃すまいとする、修羅の域。

 現れ出でれば、たちまちに、その太刀の露となる。

 鬼気すなわち、殺気。

 潜む者達への威圧でもあり、宣戦布告、でもあった。

 花車を挟み、反対側。

 ひっそりと、影のように付き従う、もう一人の随身、

「、、、、、」

 胡露の一瞥。

 自らも、いつでも背の大太刀を抜けるよう、肩を落としつつも、その灰恢の眼差しには、諌めるような感情が、伺えた。

 しかしながら、当人が気づくよしも、ない。

 シャン… 

 錫杖の遊環が、跳ねた。

 巨牛の背に揺られていた伯が、背筋を伸ばし、

「、、、、、」

 袖を広げた。

 ふわりと舞い上がると、腕に抱いていた花弁が、舞った。

 風を纏って、

 ひらひら…はらはら…

 宙に、遊ぶ。

 そのひとひらが、燕倪の頬を打つ―――、刹那、

「、、、、、」

 ゆらり、、、

 燕倪の姿が、揺らいだように見えた。

 大地に舞い落ちたひとひらが、ふたひらに。

 手には、抜き放たれた大太刀、業丸。

 冴えた輝きが、闇をも跳ね返すようだった。

 伯が、両手を広げ、大気を抱きしめると、

「ふぅー」

 細く、吐息を吐いた。

 ― 、、、花の ― 

 燕倪の鼻孔を、伯が集めた花々の香りが、擽った。

 花の色、香りは、死者の目にも届くと言う。

 死線に臨む者も、また、然り。

 虚空を睨んでいた眸に、焦点が戻り、

「、、、、、」

 ゆっくりと顔を上げれば、牛に揺られながら、こちらを見つめていた伯が、首を、横に振った。

 ― 放って、おけって、、、? ―

 濃い眉を寄せた、燕倪。

 思わず問いただそうと、前方を行く、白い背中を探し、

「む、、、」

 広い、空き地に出たことを、知ったのだった。

 

 

 

 シャ…ン…

 遊環が跳ね、澄んだ音を響かせた。

 葦や、巨木の倒木の上を、かすめるように漂っていた霧が薄れると、

「、、、、、」

 闇が人の形となって、現れ出でた。

 腕に胡弓を、抱いている。

 闇色の布を靡かせながら、連れを残し、歩み出ると、

「大陸の夜明けまでには、神都にお連れできそうだ、、、」

 花車に向かって、拱手。

 そして、手にしていた胡弓【銀王】を、蒼奘へ。

「検めるか、、、?」

 短く、そう問えば、

 首を、振った。

 蒼奘が、腕に抱いた胡弓の包みを持って、花車へ。

 紗の幕を払い、物見を軽く叩けば、しばしあって、そろりと開いた。

「しばしの間、暗き途を行くことになる。抱いてゆかれよ、、、」

 その中へと差し入れれば、天藍の手が、包みを迎えた。

 とん…

 短く、戸が閉まる音と共に、

「む」

 燕倪が、腰を落として身構えた。

 葦原の奥から、涅色の衣で頭から爪先までもをすっぽりと包んだ者達が、現れる。

 一人、二人と数を増し、風をはらんだ衣は、その身をより大きく見せ、その色は、同系色の闇に、今にも溶け込みそうだ。

 一見して無防備だが、一行を、数でもって押し包まんとしているようにも、見て取れた。

 背に、翠姫の乗る花車を負えば、

 ― まずいな。あいつは何にも言わねぇが、こいつら、奪うことを、なんとも思っちゃいねぇ連中だ、、、 ―

 姿を現した者達への警戒を、強めずにはいられない。

 感情すら読ませまいと、隠された【鵺】の眼差し。

 青鈍の眸に、剣呑さを滲ませながらも、

 ― もっとも俺も、他人の事、言えた義理でもないか、、、 ―

 燕倪の顎先からは、冷たい汗が、滴った。

 妙な動きを見せれば、問答無用。

 斬る。

 それが、随身を請負った者の覚悟だ。

 先ほどまでも、不可視の相手に対する凛とした鬼気とは打って変わって、好戦的で、高揚感さえ覚えるものが、体の中心から湧き上ってきていた。

 全力で抗おうとしても無駄な事を、燕倪は知っている。

 太刀を手にしている限り、逃れられない、その感覚。

 奪う事へのやるせなさ ―――、

 ――― 種としての優越感。

 それらは、鬩ぎ合うものだ、と、、、

「、、、、、」

 燕倪に一瞥だけ送ると、蒼奘は、導師の前へ。

「鬼窟の楔は?」

「既に。神都に戻るまでは、持たせる」

「なれば、鬼窟を、、、」

 浅く、導師が、頷いた。

 薄墨色の手が伸ばされると、前方の大地が、波打った。

 コ…ポポ…コポ…ン…

 拳大の気泡が、大地を押し上げる。

 葦の原が、深みに沈むように呑まれてゆけば、闇がぽっかりと、口を空けた。

 地底へと誘う洞窟のようでもあり、幽世へと繋がる黄泉比良坂のようでもあった。

「、、、、、」

 そこから吹きつける生暖かい風が、蒼奘の銀≪しろがね≫の髪を、靡かせる。

「導師よ」

 闇色の眸が、ひた、と、導師を捉えた。

 腹腔深くを震わせる、低いその声音で、

「この地を、大陸の血で穢したことに変わりはない。翠姫の覚悟でもって、此度は目を瞑るが、、、二度は、無いと思え」

 手にした錫杖の切っ先を―――、導師へ。

 俄かに、取り囲んでいた【鵺】らが、身構えるように腰を落とせば、胡露は低く喉を鳴らし、燕倪は柄に置いていた手に力を込めた。

 両袖に、手を隠した伯もまた、菫色の双眸でもって、導師を見つめている。

 後方で、ひっそりと佇んでいる青目だけが、天藍の声に耳を澄ますように目を閉じ、風狼達は、炯々と光る眸で、鵺らを見つめている。

 しばしの沈黙の後、

「、、、しかと、心得た」

 導師が、細首の辺りを、擦った。

 伯、燕倪、胡露、そして、青目を見、

「元よりこれでは、分が、悪すぎる、、、」

 薄笑みを、口元に、刷いた。

 先ほど見≪まみ≫えた、懐かしい顔を、思い出したのだろう。

「一つ、尋ねてもいいだろうか、都守?」

「、、、、、」

 倭では珍しい、水縹の隻眼が、まっすぐに闇色の眸を、見返す。

 夢路で見えた時よりも、この時ばかりは、幼く見えた。

「ヨルは、どうしている?」

「、、、耶紫呂、ヨル」

 青い唇が、その名を、紡いだ。

 耶紫呂ヨル。

 蒼奘と同じ【姓】、であった。

「交易が盛んだった、一昔前。当時の使節団に在った、【風読】。破眼の双眸を持つ、稀有な女だ」

「、、、、、」

「酒を、呑んだ事がある。【都守】を継ぐと、それっきりだ。大陸古来種の化鳥を、使役しているはずだが、、、」

 蒼奘が、錫杖の切っ先を戻し、導師へ差し出す。

「先代は、すでに、、、」

「、、、そうか。そう、だろうな」

 水縹の眸が、僅かに、揺れたようだった。

 それも、一瞬の事。

 導師の手が、錫杖を受けると、

 シャンッ…

 遊環が、跳ねた。

「これより先、この一臂を賭して、翠姫を御守り致す」

 その言葉を受け、蒼奘がまず、大きく口を開いた鬼窟の脇へ。

 伯が、その傍らへと続き、燕倪が、柄に手を置いたまま、上体を起こした。

 胡露が、下げていた肩を戻し、青目は、風狼を伴い、一歩、下がる。

 彼らの傍らを、鵺らが、通った。

 花車に従うように寄り添えば、

 ヒュィ…イイイインッ…

 細く、甲高く、胡弓が、鳴いたのだった。

 

 

 

「泣いていたな、、、」

 事情を知らぬ燕倪が、ぽつりと呟いた。

「、、、ああ、泣いていた」

 傍らで、鬼窟が閉じゆく様を見守る蒼奘が、頷いた。

「、、、、、」

「、、、、、」

 それから、沈黙だけが、漂った。

 事情を知らぬ上、随身に借り出され、若い娘の啜り泣きを聞かされたのだ。

 さらには、大陸の【鵺】に、異形の女。

 尋ねたい事が、無いと言えば嘘になる。

 ― 、、、言いたくない、か ―

 傍らで、夜空を見上げた。

 薄雲が、風で掻き消えつつあった。

 暁は、まだ遠く、鮮やかな星々の帯が、空を滔々と流れている。

 蒼い星団の近くで、箒星が幾つも、流れた。

「ん?」

 ふいに、袖を引かれた。

 見れば、伯が片手で目を擦っているところであった。

「眠いのか?」

「んんんー」

「ったく、、、」

 屈んでやれば、両手を燕倪の肩へと伸ばす。

「、、、、、」

 そこで、いまだに業丸の柄に、手を置いたままだったと、気がついた。

 苦笑しつつ、伯を肩に抱き上げる。

 鼻腔に、ふんわりと甘い、花の移り香。

 布地越しに伝わる、温もり。

 群青の髪が、頬を擽るに任せ、

「冷えてきたぞ。そろそろ、、、」

 口に出して促したところでようやく、傍らの蒼奘が、浅く頷いた。

 帝都へと戻る、二人のすぐ後ろ。

「、、、、、」

 無言で、胡露が続く。

 ― 息苦しい夜だ、、、 ―

 夜道を行きながら、ついつい、肩を落としたくなる。

 伯の手が、硬い燕倪の髪を弄っている。

 ― 不安、か、、、 ―

 慟哭に、触発されたものだろう。

「、、、、、」

「、、、、、」

 見れば、すぐ鼻先で、菫色の眸とぶつかった。

 感情こそ窺わせないが、そのまま不安が揺れているように、大きな眸は、潤んで見えた。

 星明りに、鈍色から青鈍へと澄んだ双眸を眇め、

「寝ろよ。いいから、、、」

 あやすように背中を叩いてやれば、ようやく、頬を肩に預けた。

「、、、、、」

 じっとしているが、傍らを歩く、蒼奘を見つめているようだった。

 白い吐息が夜気に滲む中、大地を踏む足音だけが、規則正しく聞こえてくる。

 いくらか、落ち着いたのかもしれない。

 葦の原を抜ければ、ようやく視界が開けた。

 休田か、野放図に生えては枯れた草木についた夜露が凍り、荒涼とした氷像の原。

 その向こう。

 星明りに、黒々と煙る帝都が、見える。

 

 

 

「ふ、ぅ、、、」

 先を行く二人の背中を見つめ、胡露は、小さく息をついた。

 急ぐでもないその足取りにも、遅れをとっている。

 背に負った大太刀【花切鋏】が、ずしりと重く肩にのしかかる。

 いっそ、抜き放ってしまえば、気が済んだやもしれぬ。

 柄に触れ、一撫すれば、太刀は、手の中にすっぽりと収まった。

「、、、、、」

 振り返れば、一面の葦の原に、夜霧が薄く漂っていた。

 冷たい風が吹ければ、葦が乾いた音を立てた。

 その先に目を凝らし、

 ― 青目、、、 ―

 青目の姿を探すけれども、荒涼とした葦原に、風が吹き抜けているだけだった。

 

 

 

 ※

 

 

 

 暖かな陽光が、降り注いでいる。

 百花繚乱。

 眩くも香しい、その上。

 薫風と戯れるは、いろとりどりの蜂鳥だ。

 その一画。

 蔓薔薇を茂らせた四阿屋で、賑やかな声が、する。

「ふわ、、、」

 顎の下を、細やかな毛束に擽られ、伯が仰け反る。

 弄うように九尾が、無防備に晒された喉や胸元を擽るものだから、

「がーうッ」

 腕を大きく広げ、九尾を抱きしめた。

 そのまま、腕の中でふわふわ暴れる尾にじゃれついて、押さつけるのを好きにさせつつ、

「青目とは、逢ったのかぇ、都守?」

「、、、、、」

 遙絃は、向かいで、薄い翡翠の茶碗に唇を当てた美丈夫に、問うた。

「、、、ああ」

 一呼吸置いて応じると、碗を卓に置いた。

 そのまま、卓の上で手を組むと、細く白い湯気が立ち上る様を眺めながら、

「しばらくは、天津国へは戻れぬだろう、、、」

 ぽつりと、言った。

 珍しく、相手を気遣うような物言いに、

「まぁ、此度の一件、不問と言うわけにもいかぬだろう。だが、その方が、地に縫い取られたそなたにとって、好都合なのでは?」

「、、、、、」

 闇色の、冷ややかな一蔑が、遙絃に投げられた。

 後日、事の顛末を話す条件にて、花車を借り受けたのだが、さすがの蒼奘も、どうやら今日は、分が悪い様子。

 真珠色に染めた蟲惑的な唇を、笑みに歪めつつ、

「おお、怖いな。そう睨むな。空は、神々が別ち、無数に点在するが、この大地は一つだ。繋がっている」

「、、、くだらん」

 気分を害されたのか席を立つ男を、遙絃は面白そうに上目で見上げる。

 背を向けた蒼奘の傍らに、伯が駆け寄った。

「、、、、、」

 不思議そうに、その横顔を覗き込んでいる。

 

 

 

 古びた扉を、往来へと出た。

 昼時に程近い、日差しが眩く、顔を顰めた時だった。

「あぉ」

 チリリ…ィ…リリ…

 傍らにいた伯が、小さな鈴の音を共に、走り出す気配があった。

 目が慣れ、その姿を探せば、行き交う荷車や、人々の合間を縫い、

「、、、、、」

 一際、長身の男の背中に飛びつくのが、見えた。

 足早に、その男へと寄れば、己が屋敷のちょうど前辺り。

「よ」

 見慣れた顔が、首に伯を纏わりつかせたまま、破顔した。

「非番か、燕倪?」

 まだ、陽の高い時分だと、中天に掛からんとしている太陽を見上げて問えば、

「お前こそ。どこほっつき歩いてやがった?」

 燕倪の手が伸びて、肩のあたりに、触れた。

 すぐ鼻先で、開いた手には、桃色の花弁。

「こんな季節に、海棠の花なんか、髪につけて、、、」

「一足先に、春の野に、、、」

「そうかい、そうかい」

 不可思議なことなど、この男にあっては、なんてことないこと。

 深くも聞かず、揃って門を潜った。

 大池へと続く、小路を行けば、すっかり葉を落とした楓が出迎えた。

 枝に結ばれた、いろとりどりの鳥の羽根が風を捉え、鈴は、軽やかな音色を響かせる。

 燕倪の肩で、伯が小さく、手を振ったりしている。

 彼には見えないものを、視ているのだろう。

 もしかすると、自然の在り様を、自らの方法で学ぼうとしているのかもしれない。

 暢気な水鳥らが、嘴で、池を探るのを横目に、

「今朝方、花守に会ったよ」

「、、、、、」

「声を掛けたがな。さすがに、気落ちされている様子だった」

「そうだろうな、、、」

 抑揚の無い言葉を、聞いた。

 母屋へと上がる、階を上がれば、

「いらせられませ、燕倪様。ただいま、お酒≪ささ≫の支度を、、、」

「これは、燕倪様。すぐに毛氈のご用意を」

 花器に、南天、蘇鉄、綿の枝を合わせ、生けていた汪果と、炭桶を手にした琲瑠が、出迎えた。

 大池に面した、いつもの部屋。

 車座に座れば、

「お待たせ致しま、、、まぁ、若君?」

「ん」

 伯が、汪果から、瓶子を受け取った。

「お。珍しいこともあるもんだな」

 たどたどしい手振りで、燕倪の杯に酒を満たせば、

「一通りのことは、なんでもこなす、、、」

 蒼奘の杯へ。

 漆黒の闇の中、螺鈿の鯉が酒を受け、杯の底で、揺らめいた。

「お、あっ」

 燕倪が、思わず手を差し伸べる。

 勢い余った鯉が、酒を跳ねんとして、溢れ―――、

「あむー」

 伯のうめき声と同時に、蒼奘の手が、すんでのところで瓶子を取り上げたところだった。

 置かれたままの伯の杯を満たしてやると、ようやく、手が伸びた。

 鯉が遊ぶ、楕円の杯。

「揺らいだ、か、、、」

 伯が、一息に飲み干す様を、眺めながら問えば、

「、、、、、」

 燕倪が、手にした杯を、無言で置いた。

 鈍色の眼差しの先で、青い唇に触れた杯が、干される。

 燕倪が、瓶子を差し出せば、

「お前ならば、あるいはと、、、」

 薄笑みを浮かべれば、杯が満たされた。

「なんだ。お前、期待してたのか?」

 むっとした、燕倪。

「どうだろうな、、、」

 うそぶきを、聞いた。

 武骨な拳で、膝を叩き、

「さらりと言いやがって。そう簡単に、斬るか。夢見が悪い。こちとら事情も知らねぇんだ」

 首を、振る。

 ぎり、と、噛み締められた奥歯が、耳障りな音をたてた。

「事情を気にするとは、知らなんだな、、、」

 冷ややかな物言いに、

「おい」

 向かいの蒼奘を、睨む。

 変わらぬ、臈たけた横顔が、そこあった。

「茶化して、いいことじゃねぇだろっ!!あんな泣き声を、聞かされりゃ、―――ッ」

 ドッ…

 床板が、軋み、その拍子に、

 カラ…ン…

 床に置かれた杯が、ひっくり返った。

 片膝を立て、今にも、蒼奘の襟首を掴まんとして、

「んー」

 伯に、膝に乗られた。

「うっ、、、」

 鼻先に、澄み渡った黎明が、在る。

「ゲ、、、」

「お、おう、、、」

 手に、ひやりとした、感触。

 伯の杯が、握らされていた。

「ん、、、」

 ふわりと潮の香りを残し、伯が、離れた。

 同時に、蒼奘から、瓶子が差し向けられる。

「大陸は、広い。様々な一族が、暮らしている、、、」

 杯に酒を注がれながらも、燕倪の視線は、階へと向かう伯の背中へ。

 袖に入れた翡翠輪を、首に掛けると、今しがた、琲瑠によって揃えられたばかりの草履に、足を突っ込んだ。

「遥か、古の時代。【人】と【人ならざる者】達が、共に肩を並べた時が、あったと言う。互いを身近に感じていた、そんな時代が、な、、、」

 大池の湖畔を歩く、華奢な背中が、遠ざかっていく。

「ある者が、言った。【人】は、旺盛だ。大地に根付き、その根を、何千、何万里と、伸ばす、と。【人ならざる者】は、その勢いに押され、淘汰され、あるいは決別するだろう、と、、、」

「伯、、、」

 そのまま、木立の向こうへと消えたのを見届け、燕倪は、蒼奘を見つめ、杯を、見た。

 満々と酒が、揺れていた。

「史実は、語る。やがて、【人】は、【人】へと、矛先を向けた。いくつもの一族が滅び、また、交わり、今の世がある、、、」

「あの姫も、その一族の礎と、なるって言うのか?」

 ぽつりと、言えば、

「その覚悟を、我らが測ることなど、どうしてできよう、、、」

「、、、、、」

 もっともな言葉が、降ってきた。

 ― あの声は確かに、悲観した者の声では、なかった、、、 ―

 膝を、戻す。

 苦々しく、胸に蟠ったままの苛立ちを、酒と共に、干した。

「、、、、、」

 空になった、杯。

 言葉を探そうとして―――、見つからなかった。

 俯いたままの、燕倪。

 その鼓膜を、

「、、、あの時、姫の言葉を待っていたのは、お前だけではない」

「あ、、、」

 蒼奘の声音が、打つ。

 脳裏を過ったのは、沈んだ表情の、胡露。

 突如現れた、青き眸の異形。

 寒空の下、いつまでも見送っていた、老いた花守。

 そして、もしかすると―――。

「、、、、、」

 燕倪は、再び満たされた杯を置くと、

「損な、役回りだな。お前も、、、」

 瓶子を取り上げ、ため息交じりに、そう言った。

「、、、、、」

 無言で、杯を干した、蒼奘。

 彼もまた、その言葉を待っていた一人、だったのかもしれない。

「そういや、伯が戻ってこないが、、、?」

 ふと、思い出して庭先を探すが、寒空の中に、姿は、無い。

「伯ならば、約束を、思い出したらしい、、、」

 長衣を、肩に羽織り直しながら、闇色の眼差しが、北の山稜を眺めた。

 灰鼠の雪雲に、冬化粧の山々が、溶けていた。

「約束?」

「夢見の姫との、約束らしい、、、」

「夢見、、、天羽殿の末姫、あとり、か」

 珍しいこともあるものだと、燕倪、何やら顎先を撫でている。

 そして、

「なぁ、それって、もしかすると、、、」

 何を、思いついたのか、燕倪が、厚い口元に笑みを刷く。

 すぐに思い当ったのか、薄く、ため息を吐くと、

「伯の恋路を案じている場合か、燕倪よ。お前こそ、遠野の姫とは、どうなったのだ?」

「うぐっ」

 痛いところを突かれたとばかりに、燕倪の顔が、ひきつった。

「こ、恋路などッ、では、なな、、、ぃ、、、」

「ほう、、、」

 そのまま、冷ややかな眼差しが向けられると、

「ただ、純粋に、その、、、若い娘御が乳母と二人、深い山に隠棲していれば、気に掛かって、、、と、とにかく、俺のことはいいっ」

 耳まで赤くしたその様は、とても、豪腕で知られる左近衛府少将とは、思えない。

 鼻息荒く、こちらを睨む燕倪を余所に、蒼奘は、庭に面した欄干へ。

 軋む音をさせ、床が鳴れば、辺りが少しだけ、暗くなったような、、、

「む、、、」

 庭先に視線をやれば、太陽に、薄雲が掛かったところであった。

 杯を片手に、欄干に凭れた、蒼奘。

 同じく、空を見上げれば、白々とした長い髪が、肩を滑り落ちていった。

「今夜辺り、雪が深くなりそうだ、、、」

 吐息が、白く大気に滲むのを見て、

「ああ、そのようだな」

 燕倪が、応じた。

 幾らも呑まぬうちに杯を置くと、

「それじゃあ、雪が深くなる前に、あいつを、迎えに行かなきゃな」

 高坏に積まれた干柿を、手に取った。

 指先にひやりとして、それでいてしっとりとした、感触。

 粉を纏ったそれを、口に放り込めば、ぐっと、大きく伸びを、一つ。

 そのまま、欄干に凭れる蒼奘の傍らを通り、階を降りると、

「琲瑠、雪吊りの点検か?俺も手伝うぞ」

「あ、、、それは、わたしが致しますから」

 寒空の下、腕捲りをしながら、冬囲いを終えた庭木を見回っていた琲瑠の元へ。

「結びが甘いと、雪に負けちまうからな」

「あ、あ、そのように、きつく縛っては、、、」

 水鳥が逃げ出し、俄かに賑やかになった、庭。

 おろおろと、助けを求めて、こちらに視線を送る琲瑠を余所に、いつもの薄笑みを刷くと、

「汪果。夕刻前までに、鋼雨と浮葉に鞍をつけさせておくよう、琲瑠に、、、」

「畏まりました、主様」

 杯を渡し、蒼奘は一人、奥の書院への渡廊へと歩きだした。

「、、、、、」

 広い背中を見送って、汪果は、板の間に置かれた杯を、見つめた。

 それぞれの、席の前。

 置かれたままの杯、二つ。

 そっと、先ほど袂で受けた杯を置くと、

「今宵の夕餉には、何を供しましょうなぁ。今夜は冷えるようですし、雉鍋と、、、後は、、、」

 あれは、これは、と言いながら、台盤所へ向かって歩き出した。

 板の間には、杯、三つ。

 主が揃うその時を、ただじっと、待っている、、、

 

 

 

 絢爛と咲き誇る、季節を忘れた花々の楽園。

 長椅子の背に凭れたまま、客を見送った、遙絃。

 その気配が、屋敷の内から消えた後、

「地仙、お人が悪い、、、」

 控えていた胡露が、苦笑交じりで、残された茶器に手を伸ばした。

 ― 気づかれては、いないようだな、、、 ―

 遙絃は、胡露を見た。

 長き時を生きる者たちも、人の世と同じく、心を砕く。

 目には決して見えぬが、確かに在る―――、絆。

 長すぎる生に、精神が疲弊する者も多いが、

 ― 孤独では、なかった、、、 ― 

 それが垣間見えたことが、何よりも嬉しかった。

 一方、胡露は、

「我らの知らぬところで、何か、ございましたか?随分と気前よく、花車を御貸しになられて、、、」

 いつになく穏やかな眼差しで、遠くの青く縁どられた山稜を眺める遙絃に、問うた。

「お顔が、緩んでますけど、、、」

 螺鈿の細工を施された盆に、残された碗を受ける伴侶へ、

「どうとでも言え。今日は、気分が良い」

 大きく伸びをし、長椅子の背に凭れた。

 盆を片付けるため、一旦、円卓から離れようとして、

「遙絃、、、」

 袖を、掴まれた。

 心得て傍らに座れば、その膝に、遙絃が、上半身を投げ出す。

 ― 少し、お休みになられるか、、、 ―

 胡露が手を取れば、軽く握り返す。

 そこにいろと、甘えているのかもしれない。

「ん、、、」

 あまやかに、包み込むように、眠気が押し寄せる。

 長い睫を揺らし、紺碧の眸を閉じるのが、見えた。

 薄く開いた唇から、細い吐息が、聞こえてくる。

 豊かに流れる、蜂蜜色の髪。

 そっと触れれば、

 ― そういえば、、、 ―

 久しく、触れてなかったような気が、した。

 胡露の手が、そっと、髪を撫でた。

 温もりが、そこから溶け出してくるようだった。

 手の下で、大きく、息が、吐き出された。

 遙絃が、眠りに落ちる瞬間、

「、、、ュ、、、ㇻ、、、」

 胡露には聞き取れなかったが、何かを小さく、呟いた。

 かつて、記憶ごと封じてしまおうとした、名であった。

 

 

 

『その時こそ、、、姉さん、ビューラを、殺してくれますか?』

 ああ、無論だ…

 それが、お前を手にかけた、私の罪

 何度でも、何度でも、殺してやろう…



 生きていると言う事に、目を背けたくない時期があったりした。。。

 

 今は、パック詰めされ陳列、売られている。。。

 それは、すでに処理されたものであって、、、

 そこに至る過程は省略されてて、、、

 それを知らないことが、妙に引っかかって、、、

 俺は、銛や釣竿を使うことをやめてしまった。。。

 素手で獲物を獲り、絞める。。。

 素のままで生きるその命に、最大限の敬意を。。。

 手の中に残る、命の躍動。。。

 絞める時は、躊躇わない。。。

 感情を殺し、目に焼き付ける。。。

 命の蠕動。。。

 それすらも、糧にしよう、と。。。


 そんなことを、ガキの頃から実践したやつが筆なんつーものを取ると、こんな、ろくでもない話になってしまうんでさ。。。---(o_ _)o




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ