第拾ノ弐幕後ノ後 ― 緋牡丹簪 ―
蒼奘一行は、鬼窟を開き待つ導師の元へ、天藍を送り届けんと帝都を発つ。運命に翻弄され続けるは、姉妹か、それとも、、、
死人還りの都守蒼奘、業丸を継ぐ武官燕倪、幽身であるがこの世に縛られた伯。それぞれが紡ぐ異国絵巻、第十二幕後の後編。。。
月の無い、夜の闇。
白い輝きが、仄白い光源となって幾つも、揺れている。
夜露に濡れた、細い刃のような、花弁。
甘く肺腑に染み入る、芳香。
新月の夜に咲いた、月下美人。
その花の向こう、蒼や翠に煌くのは、螺鈿の花鳥だ。
藍玉、紅玉、黄玉、瑠璃、真珠、金剛石、緑柱石に、柘榴石。
それらの玉環をふんだんに通した、飾り紐の艶やかさ。
その玉の並びが、まさに夜空の星の並びを表したものだと、気付く者はいるだろうか?
車から、そのまま生えているかのような―――、月下美人の花枝には、睦まじく嘴を寄せあう、極楽鳥の番いが、その金色の羽を休めている。
張り巡らされた淡い色合いの薄絹が、風に遊んでは、重なり合い、また、別の色彩となる。
別世界を、そのまま虹色の繭で包み込んだ、車。
天狐遙絃の【花車】だ。
今まさに、花嫁を迎えんとする、その両側には、対照的な二人が佇んでいた。
右には、華奢な造作の優男。
その痩躯に似合わぬ大剣を、背に負っている。
左には、見るからに屈強な若者が、大太刀を腰に佩いていた。
「なあ、どうしてあんたが、ここにいる?」
いつだったか、出逢った際に感じた柔和さが、今日は無い。
嶮しい表情でもって、ひっそりと車の脇で控えている優男に声を掛ければ、
「こちらの姫君に、少なからず縁が、ございまして」
優男、胡露が視線を大地に落としたまま、口を開いた。
「むぅ、、、」
そう言われてしまえば若者、燕倪は、顔ぶれが気に喰わないとは言えず、
「、、、、、」
黙るしかなくなってしまった。
視線の端に、小柄な人影が、映った。
首には、雪豹の毛皮、手には牛を追う鞭、山絹を紡いで作られた深靴。
月夜に遊ぶ胡蝶と雪兎を縫い取った水干を纏い、群青色の髪が乱れるのも構わず、飛んだりはねたりしていた、男童。
ふわりと、花車の屋根から舞い降りた。
燕倪のすぐ鼻先に降りると、くるりとこちらを向いて、
「あぉお」
膨らんだ袖に突っ込んでいた手を、開いた。
「わっ、、、お、俺にかけてどうするんだ、伯っ」
いろとりどりの花弁が、可憐な手から、燕倪に向かって降り注ぐ中、
「早い早い。無駄使いすんなって」
「、、、、、」
尚も、撒き続けようとするその手首を、掴んでやめさせる。
いつものように燕倪の小脇に抱えられれば、
「きぅう、、、」
不満げな声を上げはしたが、大人しい。
案外、こうして燕倪に抱えられるのが、嫌いではないのかもしれない。
「しかし、今日はまた一段と、冷えるな」
燕倪は、夜空を見上げた。
ちらほらと粉雪が舞い降りて、すでに大地に薄っすらと積もり始めていた。
ここへ来るまでの足跡も、轍も、掻き消えようとしている。
重い雲に覆われた空に月は無いが、新雪の大地が仄白く発光し、ぼんやりとした光源となって辺りを満たしているようだった。
「ん」
抱えられていた伯が、身じろぐと、
「お」
燕倪の耳に、大地を踏みしめる草履の音が、聞えてきた。
重く軋む扉を、押し開いた主が、
「胡露」
短く、その名を呼んだ。
それまで俯いていた、胡露。
弾かれたように顔を上げ、
「、、、、、」
真白の浄衣を纏った、蒼奘の元へ。
差し出された傘を受け取ると、蒼奘はその場を離れ、待たせてある牛車の方へと歩き出す。
胡露は一度だけ、屋敷の内を伺うと、傘を、開いた。
傘が開く軽やかな音と共に、凍える冬夜に、艶やかな薔薇が、咲いた。
紅、薄紅、雪白、淡黄、花紫、紫紺に臙脂。
精緻な筆使いによって、命を吹き込まれた花々の向こうでは、鳳凰が、遊んでいる。
傘を差し向ければ、老いた花守に付き添われ、屋敷の内から姫が、一人。
介添えに汪果を伴い、姿を現した。
― 花が、人の形を成したか、、、 ―
燕倪が目を瞠り、抱えられていた伯は、その拍子に、
「むー、、、」
腕から、大地へ。
小さく息を吐き、
「、、、、、」
微かな音色に、小首を傾げた。
シャラ・・・ラ・・・
背に流れる濡羽玉色の髪には、大輪の緋牡丹が挿され、いろとりどりの綾紐で結われた髪の房には、翠玉の玉環が、通されている。
それらが互いに触れ合って、一歩、一歩と足を踏み出すごとに、澄んだ音を響かせるのだ。
雪が放つ、冴え冴えとした明かりの中、ほんのりと金色に輝く、生絹の白無垢姿。
銀糸の鶴が舞う、打掛。
空の色、【天藍】と名づけられた眸が、胡露を見つめ、
「、、、、、」
黙って、頭を下げた。
宵藍の、傍らに寄り添う、介添えの汪果。
「、、、、、」
無言で下がると、花守をよく助け、骨が浮き出た手が、おずおずと差し出された。
胡露の手が、そっと指先に、触れた。
「、、、、、」
あの日よりも、ずっと冷たい手であった。
宵藍、いや、天藍は、その手に引かれるようにして、屋敷の外へと、足を踏み出した。
「、、、、、」
敷居の先。
苔むした石段の感触を、草履の底が、捉えた。
― 、、、ああ、そうだった ―
今となっては懐かしくも、恥ずかしい記憶が、溢れてきた。
親元を離れ、異国の都に足を踏み入れた時、見知らぬ土地での不安に駆られ、身が竦む思いだったのを、覚えている。
天藍を温かく迎えてくれた花守は、大好きだった祖父に似て、すぐに不安は掻き消えたが、それでも故郷を、家族を、恋しいと思う日々は、しばらく続いたものだ。
改めて、それを思い出せば、
― わたしは、まだいい。ここには、思い出がいっぱいある。けれど、草藍は、、、 ―
今更になって、後悔の念が、胸に押し寄せるのだった。
一族を、妹を想い、病身を押して神皇の後宮に入った、草藍。
「、、、、、」
握り締めた、拳。
その中に、
― 草藍、、、 ―
一族の誇りが、あるような気がした。
一つ、大きく息を吐くと、背筋が伸びた。
別れも、済んでいる。
もう、振り返らない。
花車へ至る白い大地に、いろとりどりの花が、咲いた。
伯が、花を、撒いている。
その中を、行く。
長いようにも、短いようにも感じたのは、何度も、涙で視界が滲みそうになったためだ。
溢れそうになる感情を、瞬きで、堪えた。
「わたしめが、、、」
短い断りと共に簾が上げられ、引戸が開かれると、芥子香が、香った。
胡露の顔を見れば、
「これより先、鬼窟を渡られるとあって、都守が手ずから調香された破魔の香。僭越ながら、わたしが焚かせて頂きました」
道中、不自由せぬようにと毛氈が敷き詰められ、火桶を備え付けられたその心遣いが、沁みた。
天藍が、腰を下ろしたのを確認して、胡露の手が離れていった。
胡露が、引戸に手を掛けた時、
「今なら、まだ、、、」
「胡露さま、、、」
声が震え、天藍は、唇を噛み締めていた。
「一言、嫌だと、そう口にされれば、、、」
「っ、、、」
本当は、今すぐにも、その腕に縋ってしまいたい。
重い扉の中で暮らす日々に慣れたとはいえ、自らそれを望む者はいまい。
心が―――、鬩ぎ合う。
そのまま揺れて、壊れてしまえば、いっそのこと楽になれるのだろうか?
「、、、、、」
握り絞めたままの拳。
胸の前に置けば、
― ティエラン ―
その人が呼ぶ声が、聞えたような気が―――、した。
天藍は、首を振った。
涙が一筋、堪えきれずに頬を伝ったが、口元は、微笑んでいた。
心配そうな胡露を、今度こそ、まっすぐに見つめると、
「遅くなりましたが、姉を、迎えに行ってきます」
笑って言った。
強がりだ。
それでも、誇りと共に在りたい。
今生、共に暮らすことが叶わないのなら、せめて心だけは、一族と共に、在りたい。
― 草藍、今、行くから、、、 ―
その人を想えば、揺れ、ざわつく心も、静まっていくようだった。
「、、、そう、ですか」
胡露が、わずかに眉を寄せながらも、
「宵藍殿、、、いえ、、、」
穏やかな眼差しそのままで、眼を眇めた。
そして、
「天藍殿、緋牡丹の花簪、、、その、、、良く、似合っておいでですよ」
ゆっくりと、引戸が閉められる。
世界が、閉じられてゆくようだった。
花車の花々が光源か?
白々と、月光のように差し込む、僅かな灯り。
その隙間が、
カタリ・・・
短い音を立てて、閉じられた。
刹那、
「ッ、、、」
取り縋るようにして、天藍は、閉じられたばかりの引戸に、頬を預けていた。
― 胡露さまっ、、、本当は、わたしっ、、、わた、、、しっ、、、 ―
込み上げる想いを、唇を噛み締め、ぐっと飲み込んだ次の瞬間、
― 嗚呼、、、っ ―
溢れ出した涙を、天藍は、もう、どうすることもできなかった。
あぁぁああッ…
牛車の中から聞えてくる、天藍の声。
心を定めたとは言え、行き場の無い想いが、彷徨って紡がれているのだ。
啜り泣きとは、違う。
これは、魂の叫びだ。
一瞬、浮かせた手を、再び引戸に戻した、胡露。
しかし、
「、、、、、」
ゆっくりと引戸から手を、離した。
それは、これから待ち受けるであろう運命を乗り越えんとする、生者の誓い。
簾を下げて合図をすれば、心得た琲瑠が、牛に鞭をひとつ、くれた。
先を行く、蒼奘が持つ錫杖。
その遊環が跳ね、
シャンッ…
張り詰めた大気を、震わせた。
傍らで花を撒くのは、伯。
左右に随身、燕倪と胡露。
そして、付き従うように、暗がりから現れた狼の群れ。
「、、、、、」
その中から現れ、後方に続いたのは、淡い色の寛衣を纏った、青目であった。
望まぬ輿入れとは言え、雪の中へと消えて行くその姿が纏う寂しさは、拭えない。
ぎしぎしと、重苦しい音を残し遠ざかる牛車を、皺深い眼で見送りながら、
「、、、、、」
老いた花守はただ、天藍の決意を、その目に焼き付けるのだった。
燐光放つ、蓮の池。
その中に、簡素な湖亭が一つ、浮かんでいる。
蓮池に突き出した一画で、いつものように、しどけなく長椅子に寝そべった遙絃は、
「、、、近い」
額を揉みながら、呻いた。
遙絃の力が及ぶ範囲に、触れるか触れぬかの位置に、居る。
夢路での顛末は、蒼奘の屋敷を訪ねた胡露より、聞いた。
この気配は、
― 今回の騒動と悪夢に端を発している、元凶、、、 ―
に、違いない。
びりびりと泡立つ肌が、それを伝えてくる。
紺碧の双眸に、剣呑な輝きが過ぎった。
― しばらく、この屋敷に篭り過ぎたか。大陸は神都【黄威】の守。天津国におれば、多少はその話を耳にしたであろうが、、、 ―
女主の舌打ちに、爪を磨いていた侍女の肩が、跳ねた。
もういい、とばかりに手を引くと、
「長衣を。出掛ける」
長い髪を背に払いながら、立ち上がった。
「ただいま、お持ちいたします、地仙」
侍女が袖を合わせ一礼すると、張り詰めた空気から逃げ出すように、湖亭から走り出て行った。
遙絃は、置かれたままになっていた象牙の煙管を咥えると、池に面した欄干に背を預けた。
細く、東雲色の煙を吐き出せば、千切れ雲のように湖面にたなびいては、消えていく。
蓮池に映る、己が姿。
鏡面のように凪いだその水面を見て、
「ひどい顔だ、、、」
やつれた頬を擦りながら、思わず苦笑したのだった。
胡弓が、噎び泣いている。
墨色の湖面を渡る白き魚影も、枯れた葦の陰で息を潜める、墨依湿原。
湖面を渡るその音に聞き惚れて、あるいは共に、泣いているのかもしれない。
すでに石化しつつある、巨大な倒木。
いつの時代のものか定かではないが、横倒しになった幹に腰掛け、弓を操っているのは、
「、、、、、」
闇色の布を体に幾重にも巻きつけた若者、【導師】。
イィイイン――、ビィ・・・ヒュァァ――・・・
そして、膝に入れた胡弓は、あの日、後宮で息絶えた娘のものであった。
甲高く、大気を震わせたかと思えば、ひらりと手首か返され、腹腔深くに響く低音が、鼓膜を突く。
導師が操る、弓の先。
艶やかな紫檀の棹に張られた三弦の下には、血塗れた胴がある。
そこから奏でられる旋律には、ついつい聞き入ってしまう【何か】が、宿っていた。
― ここは死の淵に、近い、、、 ―
絃を押さえる指先を、細やかに震わせれば、胡弓が喚く。
― それだけ、無に近いと言う事。常世、鬼窟、現世が交わる【真理への起点】、とでも呼ぼうか、、、 ―
力強く、弓を引き上げれば、
ヒユィイイ―――ッ!!
引き攣るような高音と共に、わんわんとした余韻が、辺りに響き渡った。
感情の一切を窺わせない貌とは裏腹に、その音色は哀しくもあり、怒りに打ち震えているようでもあるようだった。
雲が晴れ、星々が連なるのを見上げれば、
「っ、、、」
左目が、灼熱した。
思わず弓を取り落とし、布の上から左眼球を押さえつければ、じんわりと熱く、どす黒いものが、瞼の境目から滲む感触に、顔を歪めた。
左目の奥。
そのずっと奥底から、嗤い声が、聞えてくる。
≪ 蝕メ、、、 ≫
鼓膜を掻き鳴らす、声ならぬ、【内なる声】。
≪ 我ハ餓エル、、、混沌ヲ、、、絶チ切レヌ怨嗟ノ楔ヲ、、、穿テ、、、奈落ヘ、、、堕トセ、、、 ≫
破眼をもってすれば、鬩ぎ合う三界の狭間を、蝕みの力で破壊することもできるのかもしれない。
ぎりりと、噛み締めた奥歯が不快な音を頭蓋に響かせる中、
「この身は既に、死した身。それとも、左目共々、今度こそ火口に身を投げてやろうか?」
低く、吐き捨てた。
「貴様は、この身体に執着し過ぎ、それ故―――」
≪ 、、、、、 ≫
「それ故、一度は死した器に、根を張った。それが、そもそも間違いだったのだ。貴様もこの身も、既に理から外れた存在。あの獣神に破れ、肉体を失ったとき、既に貴様は、負けていたのだ」
黙っていた気配が、体の深いところで、身じろいだ。
≪ クク、、、 ≫
沈黙と打って変わって楽しげな、
≪ 若造ガ、、、言ッテクレルワ、、、 ≫
声音。
くつくつと喉を鳴らし、導師の神経を、逆撫でする。
抉り出したい衝動が、全身を、突き抜ける。
「再び現世へと舞い戻りたいのなら、こちら側の器が必要不可欠。それすらも、同調が成されなければ、真の受肉は不可能だ。邑が滅び、【贄】が絶たれた今、貴様が手に入れたのは、現世でこの左目だけ、、、」
≪ ソレデモ、汝ノ左目ハ、我ガ求メニ応エタ、、、 ≫
「勝手な、解釈を、、、」
耳障りな嗤い声に続き、
≪ 人ハ、口デハ何トデモ繕ウ、、、ソノ実、欲深イ生物ヨ、、、 ≫
声は歌うように続ける―――、饒舌に。
≪ 実際ドウダ?汝ハ、求メテイタ、、、死ニタクナイ、死ニタクナイ、、、【生キタイ】ノダト、、、 ≫
「違、う、、、」
脳裏を、彼の日の遠い記憶が、過ぎった。
忘れもしない、あの日。
長き時の流れの中、消え入りそうな、その顔は?
― ・・、さん、、、 ―
あの時、あの瞬間、その人への慕情が、
「、、、、、」
募ったのだろうか?
現世を離れるその時を前に、やはり【生きたい】と、思ったのだろうか?
悪鬼に蝕まれようとも、【生きたい】と、迷ったのだろうか?
闇色に染まる、世界の中。
頭上彼方で、白い光が頼りなげに揺らめいていた。
その先へ、還らなくてはいけない。
悪鬼を―――、道連れに。
― あの時、、、本当は、、、 ―
今となってはもう、はっきりとは思い出せない、遠い遠い、【あの日】。
沈黙した導師に、
≪ 我ラハ、似テイル、、、 ≫
猫撫で声が、囁いた。
「違うッ」
弾かれたように咆えれば、
≪ 思イ出セ、、、汝ヲ、我ラヲ、滅ッサントシタ、女ノ顔ヲ、、、 ≫
「っ、、、」
次の瞬間、息を呑んだ。
― 左目を抉り出せば、少しは気が休まるのだろうか? ―
そう何度、同じ問いを繰り返してきただろう。
悪鬼が今日のように饒舌な時は、大抵ろくなことが無い。
「、、、、、」
相手に、してはいけない。
≪ 今更、人ノフリハ、ヤメロ、、、堕チテ、コイ、、、 ≫
隙を与えればつけ入られ、呑まれる。
冷たきこの身の深いところで、悪鬼はいつでも手招いているのだ。
― 折れれば、こちらが蝕まれる、、、 ―
一度、眼を閉じて、冷たい大気を吸い込んだ。
冷え切った、身体。
白さを滲ませない、冷たき吐息を、細く吐き出す。
熱いものなど、想いなど、もうどこにも無いのだと、現実を突きつけてくるようで、
「、、、ふ」
反って、安堵した。
改めてそれに気付けば、自嘲気味な薄笑みが、唇に刷かれた。
≪ ム、、、 ≫
冷静になりさえすれば、悪鬼が困惑するのが、手に取るように分かる。
「ああ。もう、人ではない」
左目を押さえたまま、
「だから、これからも貴様のこの力、我が王のため、存分に使わせてもらうぞ」
力強く、導師は言い放った。
弓を拾い、枝に掛けてあった絹布に胡弓を仕舞っていれば、
≪ 気ノ長イ、根競ベニ、ナリソウダ、、、 ≫
呆れたような、そんな嘯きが、聞えてきた。
悪鬼とは、長い付き合いだ。
導師は、今回は悪鬼が引いたのを、感じていた。
「導師、、、」
不意に、声が掛かった。
いつの間にか葦の茂みに、涅色の布をすっぽりと被った者が、蹲っていた。
「皆、指揮下に戻りました」
神都より放ち、帝都に集まらんとしていた鵺らの統率をとらんと、向かわせた鴎弩だ。
「花嫁一行は、予定通り、帝都を、、、」
抑揚に欠ける声音に、浅く頷くと、
「、、、、、」
一度は、帝都の在る方角を向いた導師が、振り向いた。
何も無い。
相変わらず、闇が嵌めこまれた葦の園に、それまで無かったはずの濃い霧が、立ち込めようとしていた。
その中に、ぽつり、またぽつりと、青き炎が揺れている。
導師は、
「持っていろ」
手にしていた胡弓を、鴎弩に預けた。
そのまま、ぬかるむ大地に足を踏み入れる。
「導師、どちらへ?」
さすがに怪訝に思った、鴎弩。
帝都に背を向け、葦の茂みへと分け入っていこうとする背に問えば、
「すぐに戻る、、、」
その身をあっと言う間に押し包んだ霧の中から、短く、応じたのだった。
深い霧の中。
誘うようにして、先導する青き炎。
それを頼りに、進むことしばらく、
― 入った、、、 ―
靴底に、微かな違和感を、感じた。
ぬかるんでいたはずの大地の感触が、硬質なものへと変わったせいもあったが、何よりも漂う大気が、変わった。
張り詰めて。
術者の結界に、入ったのだろう。
「、、、、、」
前方、彼方。
眼を凝らせば、薄明るい世界に、人影が窺えた。
一歩一歩と、徐々に色を纏う、その姿。
「!!」
一瞬、導師は目を見開いた。
「あ、、、」
思わず駆け寄ろうとした、足。
それを、なんとか、押し止める。
逸る気持ちすらも押さえ込んで、見覚えのあるその姿に、
「、、、、、」
眼を、眇めたのだった。
それは、少しばかり諌めんと招いた、大陸からの【招かざる使者】。
人の手によって拓かれ、創られた、【神都の守】。
互いの顔など、知るよしもない相手――― 、のはずだった。
「嗚呼、、、」
「、、、、、」
腕を組み、結界の中程で佇んでいた者は、その【音】に、貌を上げ、
「逢いたかった、、、」
「?!」
思いも寄らぬ言葉に、目を凝らした。
次の瞬間、
「お、、、」
見開かれる、紺碧の眸。
顔からは、血の気が引き、冷たいものが、血管の中を、這ってゆく。
― 神都の、守、、、だと、、、 ―
遙絃の心中を他所に、薄い唇が、ゆっくりと、動いた。
「姉さん、、、」
「ッ、、、!?」
遙絃は、息を呑んだ。
霧を抜けて現れた【導師】は、天狐遙絃を、確かに【姉】と、呼んだ。
その証拠に、
「、、、、、」
いつもならば、尊大な態度で凄みを利かせるであろう遙絃が、じっと動けずにいる。
膨らんだ九尾が、その緊張の度合いを物語る。
遙絃の困惑を他所に、
「まさか地上で、あなたと再び、見えるとは、、、」
導師は、淡く微笑んだ。
「ビュー、ラ、、、どうして、、、どうして、お前、、、」
紺碧の視線が素早く、導師の頭頂部から足の先までを、何度も行き来する。
そして、布で覆われ、隠された左目の辺りを見据えた。
鼻先に皺が、寄る。
嫌な匂いが、そこからした。
「その、眼、、、」
動揺のためか、思わず震えそうになる声を、勘繰らせまいと必死に押さえた。
「ああ、これ、、、」
ぞっとするほど無邪気に、導師は笑った。
【あの頃】と、寸分変わらぬ顔と、笑みで、
「姉さんと同じ、、、。いや、少し、、、違う」
固く閉じた瞼の上を、擦ってみせた。
「あの時、お前は確かに、、、この手で、、、。その、死臭は、、、」
問いたいことは、山ほどある。
それが整理できぬまま、口を突くのは、、、?
「ふ、、、」
導師の笑みが、深くなった。
「びゅ、、、ら、、、お前、、、」
遙絃は、冷たいものが背筋を這う感触に、確信した。
導師の言葉を待てないのは、【恐怖】故、だと。
喉が、渇く。
思わず、己が手首を強く、掴んでいた。
最悪の結果が、脳裏を過ぎった。
「魅入られた、のか、、、」
掠れた声に、
「まさか」
導師は、横に首を振った。
そして、
「貴女が、その身に荼吉尼を宿しているように、奴を、この目に封じたんだ、、、」
「封じた、、、?憑神を、、、悪鬼を、お前は、お前の意思で、使役できると言うのか?」
動揺を隠せぬ遙絃の口ぶりに、導師は、静かに、頷いてみせた。
「姉さんは、、、」
今度は、
「違うの?」
幼い仕草で、首を傾げる。
「貴女なら、分かるはず、、、」
喉仏の辺りに手をやった。
「荼吉尼に憑かれ、囁かれるままに、実の弟を、、、その手で、、、」
「やめ、、、ろ、、、やめ、、、っ」
「そして、生まれ育った邑まで―――、焼いたのだから」
「!!」
紺碧の眸が、見開かれる。
脳裏を過ぎるのは、紺碧に染まった邑だ。
天山の頂をも焦がさんと燃え上がった、紺碧の炎。
その青白い焔に巻かれ、折り重なるように倒れてゆく、人々。
そして、
― あ、、あああッ、、、 ―
手に残る、あの感触。
何度も何度も、夢に見た、
「ッ!!」
あの感触だ。
青ざめた頬を、嫌な汗が滑っていく。
小刻みに震える顎先から、いくつも滴り落ちては、大地に吸われていった。
「痛かったよ、姉さん、、、」
「ちが、、、」
喉が餓えて、声が出ない。
とうに口腔は、からからに乾いていた。
「覚えている最後の記憶は、貴女の手だ、、、」
喉の辺りを擦るその様子に、
「ちがう、、、お前がっ、、、お前が、・・してくれ、と、、、望んだ、から、、、っ」
声が、掠れた。
もう動揺は、隠せなかった。
平素、自信と余裕に溢れた遙絃のうろたえようは、幼い人の子の仕草にも似ていた。
耳を塞ぎ、顔を背けたくとも、一度導師に吸い付いた視線は、瞬きも許さない。
それどころか、
― いかんっ、、、呑まれてはっ、、、 ―
辺りを覆い尽くさんと、導師のその左目の辺りから、黒い霧が広がってゆくのを、感じる。
細くなって、からからに乾いた、喉。
「思い出せッ、、、お前が、私に、、、っ」
搾り出した声は、苦鳴に変わっていた。
ぎりり…
それ以上言えず、たまらず唇を噛み締める、遙絃。
ぷつり…
犬歯が、唇に刺さった。
滴る、赤い血潮。
それが、鉄錆の味をさせつつ、とろりと喉へと下り、喉を潤せば、
「思い、出せっ、、、ビューラッ!!」
「、、、、、」
笑みを湛えていた導師の表情、その言葉を受け、俄かに曇った。
長い間、彼も思い出すまいと封じていた、記憶。
「思い出せ、あの時を!!」
「あの、時、、、」
遙絃の叫び。
皮肉にもそれが、先ほどまで錆ついていた記憶の泉に、一石を、投じることとなる。
「あの時の、姉さん、、、」
額に、冷たい指で、触れた。
重く痛む、その奥。
記憶。
あの日、馬乗りになって首を絞めていた女の顔は、
「、、、あ」
濡れていた。
その顔は、怒っているようでもあり、苦しんでいるようでもあり、哀しんでいるようだった。
― そうだ、、、そうだった、、、あの日の姉さんと、同じ、、、 ―
ひどくしゃがれた声が、ぽつりと、口を突いて、出た。
「姉さんに殺された、あの日。この通り、続きがあったんだ、、、」
「、、、、、」
遙絃は、導師を食い入るように見つめたまま、視線を外せずにいた。
「呼び名すら消された、【邑】、、、」
その邑について唯一残された記述には、隣接する大国Magiをも恐れさせた、【最初で最後の邑】とだけある。
神々が降り立ったとされる、峻嶮な天山の頂き。
そこに程近い高地に、【邑】はあった。
「あの日、死にゆくこの身共々、ラクタヴィージャを、道連れにするつもりだった、、、」
「、、、、、」
ラクタヴィージャ。
それが、その邑を脅かした、魔物の名のようだった。
心当たりがあるのか、遙絃は、導師の言葉に耳を、傾けている。
「ラクタの血筋は、獣憑きの血筋。長に仕える依巫。人外の英知に触れんと、儀式の度に差し出される、生贄、、、」
邑には、長がおり、一切を取り仕切っていた。
そしてその傍らには、
「あなたも、生神であった頃の記憶があるのなら、覚えておいででしょう?」
神託を告げるとされる生神の姿が、あったと言う。
「、、、、、」
遙絃は、重く圧し掛かる負荷に耐え切れず、額を揉んだ。
ゆらゆらと、その身が、ぶれ始める。
― 同調が、、、 ―
陽炎のように、遙絃の体から闇色の人影が揺らめいては、重なる。
心の動揺が激しければ、それだけ、波長が乱れる。
遙絃の姿に、雪色の体毛で覆われた獣神体、巨狐の姿が重なって、現れ始めた。
背後には、黒い人影が、濃淡を繰り返しながら、揺れている。
遙絃とは似ても似つかわぬ、小柄な造りの―――、女のようだった。
徐々に、前のめりになった遙絃の姿が薄れてゆく中、
「姉さん。あの時、貴女は確かに、この心の臓を、止めたんだ」
淡々とした、その声だけが、響き渡る。
聞きたく、ない。
思い出したく、ない。
どうしようもなく、叫び出したい。
それでも、
― ビューラ、、、っ ―
その哀しげな眸に、遙絃はかつての弟を、確かに見た。
「、、、、、」
紺碧の眼差しの先で、導師は左目を覆った布を、解く。
衣擦れの音と共に、赤黒い布が、大地に落ちた。
閉じられた瞼に指が添えられると、鈍い輝きが、数本、引き出された。
「!!」
見覚えのある、細い針、であった。
ゆっくりと、長い睫毛が揺れると、
「っ、、、」
遙絃は、息を呑んだ。
血の色に染まった、眼球。
禍々しくも、朱金の散った白銀の眼には、針の如く引き絞られた鋭い瞳孔。
「破眼、、、」
遙絃が呻くと同時に、その眸から赤い血泪が、頬に伝った。
一筋、二筋、、、
その泪が、止まることはないのだろう。
それは、封じられたラクタヴィージャの、怨嗟の泪だ。
― 布の色は、、、枯れることの無い血涙を、吸わせるため、か、、、 ―
遙絃の動揺を他所に、導師の手が左目を、押さえた。
「だから、この身は、もう、、」
そのまま、その手を顔の前へ。
ゆっくりと下ろされる手の下から現れたのは、
「!!」
滑らかな薄墨色の肌―――、ではなく、赤く爛れ腐敗した、見るも無残に変わり果てた人であったもの、そのなれの果て。
暗い、眼窩。
青黒く変色した皮膚は顎先から垂れ、ぬめぬめと、緑の膿で濡れている。
赤く濡れた肉のその奥で、白々と見えるものは、頬骨だろう。
その上で、殺気立つ破眼だけが、健在であった。
足元に、右の眼窩から、削げ落ちた鼻腔から、剥きだしになった歯茎の辺りから、白いものが幾つも、零れ落ちた。
その白い粒状のものが、蠢いている。
腐乱した肉体に湧いた、蛆だ。
固く握り締めていた遙絃の拳が、
「くッ、、、」
堪らず震えた。
吹きつける腐敗臭の中、陽炎が震え、霧散した。
それまでぶれていた天狐と陽炎が、遙絃の姿に定まると、
「あ、、、、、」
「、、、、、」
導師が小さく声を、あげた。
肩に、遙絃の顔があった。
痩せぎすなその体は、今や遙絃の腕に、しっかと掻き抱かれていた。
骨が軋む程に、力強い腕であった。
「もう、いい、、、もう、、、いいんだ、、、」
あまりにも、無防備。
細首が、
「、、、、、」
すぐ、そこにあった。
その首を、縊ってしまえば、
― 荼吉尼を屠れば、この死人の身体は受肉を迎え、在りし日の姿を、取り戻せる、、、 ―
ラクタヴィージャの宿願が、成される。
導師の手が、上がった。
漆黒の、長き爪を持つ指先が、
「、、、、、」
触れたのは、首―――、ではなく、その肩、であった。
手は、滑らかな薄墨色で、姿は、現れた時と同じ、若者の姿に戻っていた。
そっと、骨ばった肩を擦れば、体に回されている腕に、更に力が込められ、
「あ、、、嗚呼、嗚呼、本当に、、、姉さんだ」
掻き抱かれるままに導師は、天を、仰いだ。
腹腔深く、熱く熱く、灼熱しながら込みあげる―――、感情。
押し寄せ、全身を包んだそれは、寂しさ、やるせなさ、恋しさや、憤り、歓喜もまた、在った。
怨嗟に煙る冷たいこの身にも、まだ熱いものが宿っていると知って、魂が、どうしようもなく、打ち震えていた。
「、、、、、」
遙絃は、ただ黙ってその肩に、顔を埋めた。
どこまで冷たい、体であった。
その耳に、呟きにも似た、
「本当に、嬉しかったんだ、、」
「?!」
思いもしない言葉が飛び込んでき時、遙絃はようやく、顔を上げた。
― 青い。この【青】を、わたしは、知っている、、、 ―
忘れるはずもない、天山の雪解けと共に現れる、氷湖。
その氷湖が湛える、鮮やかな水縹の―――、眸。
凍てつかせたはずの、胸の奥。
その深みに、郷愁を呼び覚ます懐かしい眼差しは、あの頃と寸分変わらぬ色を、そのまま湛えていた。
― だが、、、わたしは、、、 ―
眼差しから逃れるように伏せられた、紺碧の眸。
奥歯を噛み締める、鈍い音が、続いた。
導師は、触れていた遙絃の薄い肩を、
「姉さん、、、」
擦って言った。
「嘘じゃない」
「、、、、、」
本当だと言い聞かせるように、その声音には、遙絃が無言の裡に抱いた疑念を宥めるような、そんな響きさえあった。
「嬉しかったんだよ、姉さん、、、」
憎んでなど、いない。
誰にも、頼めなかった事だ。
それを、成してくれた姉を憎むことなど、どうしてできよう。
「あの日、ずっと、見ていたんだ。魂が、この身を離れても、、、」
「、、、、、」
「離れたくなかった。離れ、られなかった。姉さんが、姉さんでなくなっても、、、姉さんが、僕らが育ったあの【邑】を―――、焼き払っても、、、」
「、、、、、」
肩を擦る、その手。
冷たいその手が、変わらず、あやすように肩に触れている。
それが、
「姉さんが、邑を焼いている頃、魂魄が抜けたこの体をラクタヴィージャが、乗っ取ろうとした、、、」
止まった。
≪ ビューラ、、、≫
鼻の上に皺を寄せ、溢れる激情をも隠さない、導師。
「ラクタヴィージャは、必ず荼吉尼を、、、姉さんを、殺そうとする。だから、もう一度―――、戻った、、、」
無我夢中だった。
【約束された安息】に背を向けることに、何のためらいもなかった。
たとえ、朽ちた身で彷徨うことになると、知っていたとしても。
≪ お前は、、、 ≫
再び、遙絃の背後に立ち上った陽炎が、導師のすぐ鼻先で揺らめきながらも、口を開いた。
≪ お前は、、、いつだって、一人で決めてしまう。昔から、あたしの意見なんぞ、聞きはしなかったものな、、、 ≫
その声は優しく澄んで、それでいて呆れたような、ありのままを包み込むような、そんな柔らかい声音であった。
弟の心の強さを誰よりも知っているから、姉は、苦渋の決断を下したのだ。
≪ 共に逝く道も、あったと言うのに、、、あたしは、昔も今も――― ≫
透明な輝きが、闇色の頬を、伝っていった。
≪臆病だ、、、 ≫
陽炎がそう呟いた時、遙絃がゆっくりと、体を離した。
陽炎は、遙絃を取り巻くように、吸い込まれた。
一柱と一人は再び、同調を果たしていた。
「、、、、、」
長い睫毛が、ふるりと、揺れた。
朝凪を思わせる、紺碧の眸。
天狐遙絃は改めて、導師を見つめた。
おずおずと、伸ばされた、手。
躊躇いながらも、導師の左目へと伸びれば、構わない、とばかりに、破眼が伏せられた。
そっと、瞼に、触れる。
指先から、突き刺すように【記憶】が、流れ込んでくる。
断片的ではあったが、
― 燻る、煙、、、折り重なる、屍、、、蒸発し、枯れてしまった、小川、、、燃える、蒼き天山、、、 ―
遙絃が邑を去った後、辛うじてラクタヴィージャを左目に追い込み、封じた導師は、冷たい体を引きずって、変わり果てた邑を見、生まれ育ったそこを、後にしたことが、読み取れた。
何度孤独に、震えたころだろう。
それを思うと、今更ながら罪悪感が、込みあげてきた。
「、、、、、」
遙絃の手が、瞼から頬、肩へと下り、腕を擦って指先へと、滑ってゆく。
― 嗚呼、しかし、、、 ―
遙絃も知らぬ、孤独をも従えた男の姿が、そこにあった。
「ビューラよ、、、」
遙絃は、そっと指先から手を、離した。
「大陸に、居場所はあるのか、、、?」
俯いたまま、遙絃が呟いた。
「あ、、、」
少し、驚いたような顔をした導師であったが、
「、、、ああ」
何かを思い出したかのように、頷いてみせた。
その様子に、それまで伏せられていた獣の耳が、大きく、広がった。
「そうか、、、」
遙絃は小さく何度も頷くと、それ以上は何も聞かず、導師に背を向けた。
その背中は、いつもの尊大な天狐遙絃のものであった。
― 姉さん、、、 ―
その人もまた、数奇な運命に翻弄され、人ではなくなった相手であった。
導師は、その背を目に焼きつけ、踵を返した。
これから鬼窟を渡り、蛮姫を一人、神都まで送り届けなくてはならない。
蛮姫は不可侵の代償、とどのつまり人質でもあるが、その尊い犠牲により、多くの者達の安寧もまた確保されているのも、事実。
導師は左目を、覆った。
「、、、、、」
布の上から軽く、押さえる。
静かだが、息づく確かな気配が、あった。
≪ 、、、、、 ≫
ラクタヴィージャは、荼吉尼を前に、結局一言も、発さなかった。
今度こそ滅せられる、と、怯えていたのだろうか?
、、、いや、そうではないだろう。
荼吉尼と姉がそうであったように、相対していた間、彼らもまた、同調していたのかもしれない。
ふいに、ラクタヴィージャが先刻、【似ている】と言っていたのを思い出した。
もしかすると導師の言葉は、そのままラクタヴィージャの言葉であったのかも、しれない。
「、、、、、」
そのことを少し苦々しく感じつつも、思い当たってしまった事実に、内心、舌を巻いた。
頭を切り替えようと、顔を上げる。
そろそろ、花嫁が随身を伴い、現れる頃合だ。
せっかく首を立てに振った、花嫁。
時と共に、里心と言うものは、首を擡げる。
気が変わらぬよう、早急に、この地を離れなければならない。
― 急がねば、、、 ―
佇む遙絃との距離が、一歩、一歩と、離れてゆく。
立ち込める霧のその向こう側へ、消え入らんとして、
「姉さん、、、」
導師は、足を止めた。
「、、、、、」
返事は無かったが、背中越しに、変わらず同じ場所に佇んでいるだろう気配が、あった。
一つ、息を吸い込んだ。
冷たく湿った大気が肺腑に染み入る、そんな感覚が、まだ残っているような気がした。
「もし、、、」
姉を目にした途端、ずいぶんと気が弱くなったものだと呆れながら、
「この先、ラクタヴィージャに呑まれてしまったら、、、」
眼を閉じた。
「、、、、、」
「、、、、、」
案の定の沈黙に、そのまま足を踏み出す。
視界が、薄霧に白々と染まってゆく中、
「その時こそ、、、」
問いは、誰に宛てるでもない呟きに、変わっていった。
霧が、深くなった。
足に、ぬかるむ泥の感触と、水が跳ねる音が、聞えてくる。
やがて、白い世界の中の片隅に、大地に伏した倒木群が、見えた。
そこが、天狐遙絃が敷いた結界と現世との、境界線。
太い幹と幹が、互いに枝を絡め、折り重なるその間を、潜る。
倒木と言っても、その幹は独特な光沢を放ち、触れれば、掌に石の感触を伝えてくる。
いつの時代に在ったものか、それらは化石に近い。
複雑に絡み合った木の枝の天蓋の下を、しばらく行くと、急に視界が開けた。
葦の茂みが広がり、見上げた空には、星が瞬くのが見える。
やがて天蓋が途切れ、遠く、帝都の方角から、狼の遠吠えが聞えるのをその耳に捉えると、
「ああ、無論だ」
「ッ、、、」
曇りの無い、澄んだ声音が、響いてきた。
思わず振り向いた、導師。
そこにはもちろん、その姿は無く、今し方まで眼にしていたはずの倒木群も消え、
「、、、、、」
千切れ雲のような霧だけが、漂うばかり。
その名の由来となった、墨色の水を湛えた湿原が、闇夜に延々と続いているだけだった。
静寂が、満ちている。
それまで、腕を組んだまま微動だにしかった遙絃が、ゆっくりと眸を開いた。
大海原を思わす紺碧が、墨を落としたように沈んでいた。
結界から消えた、今は懐かしい、気配。
胸に手を置き、遙絃は、深く息を吐いた。
― 、、、終わったとばかり、思っていた ―
だが、実際どうだ?
終わってなど、いなかった。
まだ―――、続いている。
手にかけた、その日から。
― これも、私が負わねばならぬもの、、、 ―
遙絃は、皮肉な因果に、唇を歪めた。
耳に残るのは、
『その時こそ、、、』
底知れぬ暗闇から、こちらに手を伸ばす、弟の声。
彼の中に残る、【人で在りたい】という、叫びだ。
≪ ククェケケヶ… ≫
腹腔深く、【獣】が、低く鳴いた。
全身に反響するその声は、
― ああ、お前も共に在ると、言ってくれるか、、、 ―
優しかった。
遙絃は左肩を、強く抱く。
「、、、、、」
内なる声に耳を傾ける、遙絃。
やがて、閉じられていた長い睫毛が、揺れた。
「、、、、、」
再び開かれた紺碧の眸に、曇りは無い。
己への戒めと共に、
「ああ、無論だ」
その言葉を舌に乗せた。
あの時と、寸分変わらぬ想いを、胸に。
青い狐火が一筋、その詞を乗せて、導師の後を追っていった。
― 私も、戻らねば、、、 ―
人間に棲みかを追われ、行き場を失った野狐らの顔を、思い出した。
今更、立ち止まるわけには、いかない。
ふわりと、九尾が広がる。
耳が跳ね上がると、背筋が伸びた。
虹色に変化する羽衣を纏い直すと、自らもまた、霧の中へと歩き出す。
長い時を経たと言うのに、【大いなる存在】の悪戯か、宿星か?
踏み出したはずの足が―――、止まった。
振り向いた、その先。
遙絃は、紺碧の眸を、
「、、、、、」
眇めた。
大地に点々と残された―――、足跡。
再び交わった、互いの道。
繰り返さる過去をも受け入れん、と、自身に言い聞かせるようでもあった。
ギ…ギギ…、キ…シシ…
一面の葦の原を、車輪が軋む音が、渡る。
昼間でも薄暗く、気味が悪いと近づく者さえいない、墨依湿原。
そこを、仄白く発光する牛車が、進んでゆく。
月下美人特有の芳香が、辺りに漂えば、不思議と闇色の水は引き、大地は固く、車輪を迎える。
疲れを見せぬ、堅牢な巻角を持つ、巨牛の足取り。
随身を伴い、風狼らを従えた【花車】が止まったのは、葦に囲まれ、石と化した倒木らが乱立する、一画であった。
「、、、、、」
辺りに、素早く視線をやった、燕倪。
業丸の柄にかけていた手を、握り込む。
― いる、、、 ―
茂みに隠れた気配を、燕倪の六感が、捉えた。
― 多い ―
細く、息を吐き出す。
全身が、びりびりと泡肌立つ。
爪先まで気を廻らせ、不可視の一刀を警戒する。
じりり…
靴底が、大地に擦れ、鈍い音を立てた。
「、、、、、」
葦原の向こう。
眇めた眸に、星明かりが差し込む。
鈍色に、青鈍が滲めば、剣呑な色を宿す。
「、、、、、」
先を歩んでいた蒼奘が、振り向いた。
俄かに張りつめた大気が、そうさせたのだ。
鬼気を纏い、神経を研ぎ澄ます、燕倪。
張りつめた、大気そのものと同化し、潜む輩の、一挙一動を逃すまいとする、修羅の域。
現れ出でれば、たちまちに、その太刀の露となる。
鬼気すなわち、殺気。
潜む者達への威圧でもあり、宣戦布告、でもあった。
花車を挟み、反対側。
ひっそりと、影のように付き従う、もう一人の随身、
「、、、、、」
胡露の一瞥。
自らも、いつでも背の大太刀を抜けるよう、肩を落としつつも、その灰恢の眼差しには、諌めるような感情が、伺えた。
しかしながら、当人が気づくよしも、ない。
シャン…
錫杖の遊環が、跳ねた。
巨牛の背に揺られていた伯が、背筋を伸ばし、
「、、、、、」
袖を広げた。
ふわりと舞い上がると、腕に抱いていた花弁が、舞った。
風を纏って、
ひらひら…はらはら…
宙に、遊ぶ。
そのひとひらが、燕倪の頬を打つ―――、刹那、
「、、、、、」
ゆらり、、、
燕倪の姿が、揺らいだように見えた。
大地に舞い落ちたひとひらが、ふたひらに。
手には、抜き放たれた大太刀、業丸。
冴えた輝きが、闇をも跳ね返すようだった。
伯が、両手を広げ、大気を抱きしめると、
「ふぅー」
細く、吐息を吐いた。
― 、、、花の ―
燕倪の鼻孔を、伯が集めた花々の香りが、擽った。
花の色、香りは、死者の目にも届くと言う。
死線に臨む者も、また、然り。
虚空を睨んでいた眸に、焦点が戻り、
「、、、、、」
ゆっくりと顔を上げれば、牛に揺られながら、こちらを見つめていた伯が、首を、横に振った。
― 放って、おけって、、、? ―
濃い眉を寄せた、燕倪。
思わず問いただそうと、前方を行く、白い背中を探し、
「む、、、」
広い、空き地に出たことを、知ったのだった。
シャ…ン…
遊環が跳ね、澄んだ音を響かせた。
葦や、巨木の倒木の上を、かすめるように漂っていた霧が薄れると、
「、、、、、」
闇が人の形となって、現れ出でた。
腕に胡弓を、抱いている。
闇色の布を靡かせながら、連れを残し、歩み出ると、
「大陸の夜明けまでには、神都にお連れできそうだ、、、」
花車に向かって、拱手。
そして、手にしていた胡弓【銀王】を、蒼奘へ。
「検めるか、、、?」
短く、そう問えば、
首を、振った。
蒼奘が、腕に抱いた胡弓の包みを持って、花車へ。
紗の幕を払い、物見を軽く叩けば、しばしあって、そろりと開いた。
「しばしの間、暗き途を行くことになる。抱いてゆかれよ、、、」
その中へと差し入れれば、天藍の手が、包みを迎えた。
とん…
短く、戸が閉まる音と共に、
「む」
燕倪が、腰を落として身構えた。
葦原の奥から、涅色の衣で頭から爪先までもをすっぽりと包んだ者達が、現れる。
一人、二人と数を増し、風をはらんだ衣は、その身をより大きく見せ、その色は、同系色の闇に、今にも溶け込みそうだ。
一見して無防備だが、一行を、数でもって押し包まんとしているようにも、見て取れた。
背に、翠姫の乗る花車を負えば、
― まずいな。あいつは何にも言わねぇが、こいつら、奪うことを、なんとも思っちゃいねぇ連中だ、、、 ―
姿を現した者達への警戒を、強めずにはいられない。
感情すら読ませまいと、隠された【鵺】の眼差し。
青鈍の眸に、剣呑さを滲ませながらも、
― もっとも俺も、他人の事、言えた義理でもないか、、、 ―
燕倪の顎先からは、冷たい汗が、滴った。
妙な動きを見せれば、問答無用。
斬る。
それが、随身を請負った者の覚悟だ。
先ほどまでも、不可視の相手に対する凛とした鬼気とは打って変わって、好戦的で、高揚感さえ覚えるものが、体の中心から湧き上ってきていた。
全力で抗おうとしても無駄な事を、燕倪は知っている。
太刀を手にしている限り、逃れられない、その感覚。
奪う事へのやるせなさ ―――、
――― 種としての優越感。
それらは、鬩ぎ合うものだ、と、、、
「、、、、、」
燕倪に一瞥だけ送ると、蒼奘は、導師の前へ。
「鬼窟の楔は?」
「既に。神都に戻るまでは、持たせる」
「なれば、鬼窟を、、、」
浅く、導師が、頷いた。
薄墨色の手が伸ばされると、前方の大地が、波打った。
コ…ポポ…コポ…ン…
拳大の気泡が、大地を押し上げる。
葦の原が、深みに沈むように呑まれてゆけば、闇がぽっかりと、口を空けた。
地底へと誘う洞窟のようでもあり、幽世へと繋がる黄泉比良坂のようでもあった。
「、、、、、」
そこから吹きつける生暖かい風が、蒼奘の銀≪しろがね≫の髪を、靡かせる。
「導師よ」
闇色の眸が、ひた、と、導師を捉えた。
腹腔深くを震わせる、低いその声音で、
「この地を、大陸の血で穢したことに変わりはない。翠姫の覚悟でもって、此度は目を瞑るが、、、二度は、無いと思え」
手にした錫杖の切っ先を―――、導師へ。
俄かに、取り囲んでいた【鵺】らが、身構えるように腰を落とせば、胡露は低く喉を鳴らし、燕倪は柄に置いていた手に力を込めた。
両袖に、手を隠した伯もまた、菫色の双眸でもって、導師を見つめている。
後方で、ひっそりと佇んでいる青目だけが、天藍の声に耳を澄ますように目を閉じ、風狼達は、炯々と光る眸で、鵺らを見つめている。
しばしの沈黙の後、
「、、、しかと、心得た」
導師が、細首の辺りを、擦った。
伯、燕倪、胡露、そして、青目を見、
「元よりこれでは、分が、悪すぎる、、、」
薄笑みを、口元に、刷いた。
先ほど見≪まみ≫えた、懐かしい顔を、思い出したのだろう。
「一つ、尋ねてもいいだろうか、都守?」
「、、、、、」
倭では珍しい、水縹の隻眼が、まっすぐに闇色の眸を、見返す。
夢路で見えた時よりも、この時ばかりは、幼く見えた。
「ヨルは、どうしている?」
「、、、耶紫呂、ヨル」
青い唇が、その名を、紡いだ。
耶紫呂ヨル。
蒼奘と同じ【姓】、であった。
「交易が盛んだった、一昔前。当時の使節団に在った、【風読】。破眼の双眸を持つ、稀有な女だ」
「、、、、、」
「酒を、呑んだ事がある。【都守】を継ぐと、それっきりだ。大陸古来種の化鳥を、使役しているはずだが、、、」
蒼奘が、錫杖の切っ先を戻し、導師へ差し出す。
「先代は、すでに、、、」
「、、、そうか。そう、だろうな」
水縹の眸が、僅かに、揺れたようだった。
それも、一瞬の事。
導師の手が、錫杖を受けると、
シャンッ…
遊環が、跳ねた。
「これより先、この一臂を賭して、翠姫を御守り致す」
その言葉を受け、蒼奘がまず、大きく口を開いた鬼窟の脇へ。
伯が、その傍らへと続き、燕倪が、柄に手を置いたまま、上体を起こした。
胡露が、下げていた肩を戻し、青目は、風狼を伴い、一歩、下がる。
彼らの傍らを、鵺らが、通った。
花車に従うように寄り添えば、
ヒュィ…イイイインッ…
細く、甲高く、胡弓が、鳴いたのだった。
「泣いていたな、、、」
事情を知らぬ燕倪が、ぽつりと呟いた。
「、、、ああ、泣いていた」
傍らで、鬼窟が閉じゆく様を見守る蒼奘が、頷いた。
「、、、、、」
「、、、、、」
それから、沈黙だけが、漂った。
事情を知らぬ上、随身に借り出され、若い娘の啜り泣きを聞かされたのだ。
さらには、大陸の【鵺】に、異形の女。
尋ねたい事が、無いと言えば嘘になる。
― 、、、言いたくない、か ―
傍らで、夜空を見上げた。
薄雲が、風で掻き消えつつあった。
暁は、まだ遠く、鮮やかな星々の帯が、空を滔々と流れている。
蒼い星団の近くで、箒星が幾つも、流れた。
「ん?」
ふいに、袖を引かれた。
見れば、伯が片手で目を擦っているところであった。
「眠いのか?」
「んんんー」
「ったく、、、」
屈んでやれば、両手を燕倪の肩へと伸ばす。
「、、、、、」
そこで、いまだに業丸の柄に、手を置いたままだったと、気がついた。
苦笑しつつ、伯を肩に抱き上げる。
鼻腔に、ふんわりと甘い、花の移り香。
布地越しに伝わる、温もり。
群青の髪が、頬を擽るに任せ、
「冷えてきたぞ。そろそろ、、、」
口に出して促したところでようやく、傍らの蒼奘が、浅く頷いた。
帝都へと戻る、二人のすぐ後ろ。
「、、、、、」
無言で、胡露が続く。
― 息苦しい夜だ、、、 ―
夜道を行きながら、ついつい、肩を落としたくなる。
伯の手が、硬い燕倪の髪を弄っている。
― 不安、か、、、 ―
慟哭に、触発されたものだろう。
「、、、、、」
「、、、、、」
見れば、すぐ鼻先で、菫色の眸とぶつかった。
感情こそ窺わせないが、そのまま不安が揺れているように、大きな眸は、潤んで見えた。
星明りに、鈍色から青鈍へと澄んだ双眸を眇め、
「寝ろよ。いいから、、、」
あやすように背中を叩いてやれば、ようやく、頬を肩に預けた。
「、、、、、」
じっとしているが、傍らを歩く、蒼奘を見つめているようだった。
白い吐息が夜気に滲む中、大地を踏む足音だけが、規則正しく聞こえてくる。
いくらか、落ち着いたのかもしれない。
葦の原を抜ければ、ようやく視界が開けた。
休田か、野放図に生えては枯れた草木についた夜露が凍り、荒涼とした氷像の原。
その向こう。
星明りに、黒々と煙る帝都が、見える。
「ふ、ぅ、、、」
先を行く二人の背中を見つめ、胡露は、小さく息をついた。
急ぐでもないその足取りにも、遅れをとっている。
背に負った大太刀【花切鋏】が、ずしりと重く肩にのしかかる。
いっそ、抜き放ってしまえば、気が済んだやもしれぬ。
柄に触れ、一撫すれば、太刀は、手の中にすっぽりと収まった。
「、、、、、」
振り返れば、一面の葦の原に、夜霧が薄く漂っていた。
冷たい風が吹ければ、葦が乾いた音を立てた。
その先に目を凝らし、
― 青目、、、 ―
青目の姿を探すけれども、荒涼とした葦原に、風が吹き抜けているだけだった。
※
暖かな陽光が、降り注いでいる。
百花繚乱。
眩くも香しい、その上。
薫風と戯れるは、いろとりどりの蜂鳥だ。
その一画。
蔓薔薇を茂らせた四阿屋で、賑やかな声が、する。
「ふわ、、、」
顎の下を、細やかな毛束に擽られ、伯が仰け反る。
弄うように九尾が、無防備に晒された喉や胸元を擽るものだから、
「がーうッ」
腕を大きく広げ、九尾を抱きしめた。
そのまま、腕の中でふわふわ暴れる尾にじゃれついて、押さつけるのを好きにさせつつ、
「青目とは、逢ったのかぇ、都守?」
「、、、、、」
遙絃は、向かいで、薄い翡翠の茶碗に唇を当てた美丈夫に、問うた。
「、、、ああ」
一呼吸置いて応じると、碗を卓に置いた。
そのまま、卓の上で手を組むと、細く白い湯気が立ち上る様を眺めながら、
「しばらくは、天津国へは戻れぬだろう、、、」
ぽつりと、言った。
珍しく、相手を気遣うような物言いに、
「まぁ、此度の一件、不問と言うわけにもいかぬだろう。だが、その方が、地に縫い取られたそなたにとって、好都合なのでは?」
「、、、、、」
闇色の、冷ややかな一蔑が、遙絃に投げられた。
後日、事の顛末を話す条件にて、花車を借り受けたのだが、さすがの蒼奘も、どうやら今日は、分が悪い様子。
真珠色に染めた蟲惑的な唇を、笑みに歪めつつ、
「おお、怖いな。そう睨むな。空は、神々が別ち、無数に点在するが、この大地は一つだ。繋がっている」
「、、、くだらん」
気分を害されたのか席を立つ男を、遙絃は面白そうに上目で見上げる。
背を向けた蒼奘の傍らに、伯が駆け寄った。
「、、、、、」
不思議そうに、その横顔を覗き込んでいる。
古びた扉を、往来へと出た。
昼時に程近い、日差しが眩く、顔を顰めた時だった。
「あぉ」
チリリ…ィ…リリ…
傍らにいた伯が、小さな鈴の音を共に、走り出す気配があった。
目が慣れ、その姿を探せば、行き交う荷車や、人々の合間を縫い、
「、、、、、」
一際、長身の男の背中に飛びつくのが、見えた。
足早に、その男へと寄れば、己が屋敷のちょうど前辺り。
「よ」
見慣れた顔が、首に伯を纏わりつかせたまま、破顔した。
「非番か、燕倪?」
まだ、陽の高い時分だと、中天に掛からんとしている太陽を見上げて問えば、
「お前こそ。どこほっつき歩いてやがった?」
燕倪の手が伸びて、肩のあたりに、触れた。
すぐ鼻先で、開いた手には、桃色の花弁。
「こんな季節に、海棠の花なんか、髪につけて、、、」
「一足先に、春の野に、、、」
「そうかい、そうかい」
不可思議なことなど、この男にあっては、なんてことないこと。
深くも聞かず、揃って門を潜った。
大池へと続く、小路を行けば、すっかり葉を落とした楓が出迎えた。
枝に結ばれた、いろとりどりの鳥の羽根が風を捉え、鈴は、軽やかな音色を響かせる。
燕倪の肩で、伯が小さく、手を振ったりしている。
彼には見えないものを、視ているのだろう。
もしかすると、自然の在り様を、自らの方法で学ぼうとしているのかもしれない。
暢気な水鳥らが、嘴で、池を探るのを横目に、
「今朝方、花守に会ったよ」
「、、、、、」
「声を掛けたがな。さすがに、気落ちされている様子だった」
「そうだろうな、、、」
抑揚の無い言葉を、聞いた。
母屋へと上がる、階を上がれば、
「いらせられませ、燕倪様。ただいま、お酒≪ささ≫の支度を、、、」
「これは、燕倪様。すぐに毛氈のご用意を」
花器に、南天、蘇鉄、綿の枝を合わせ、生けていた汪果と、炭桶を手にした琲瑠が、出迎えた。
大池に面した、いつもの部屋。
車座に座れば、
「お待たせ致しま、、、まぁ、若君?」
「ん」
伯が、汪果から、瓶子を受け取った。
「お。珍しいこともあるもんだな」
たどたどしい手振りで、燕倪の杯に酒を満たせば、
「一通りのことは、なんでもこなす、、、」
蒼奘の杯へ。
漆黒の闇の中、螺鈿の鯉が酒を受け、杯の底で、揺らめいた。
「お、あっ」
燕倪が、思わず手を差し伸べる。
勢い余った鯉が、酒を跳ねんとして、溢れ―――、
「あむー」
伯のうめき声と同時に、蒼奘の手が、すんでのところで瓶子を取り上げたところだった。
置かれたままの伯の杯を満たしてやると、ようやく、手が伸びた。
鯉が遊ぶ、楕円の杯。
「揺らいだ、か、、、」
伯が、一息に飲み干す様を、眺めながら問えば、
「、、、、、」
燕倪が、手にした杯を、無言で置いた。
鈍色の眼差しの先で、青い唇に触れた杯が、干される。
燕倪が、瓶子を差し出せば、
「お前ならば、あるいはと、、、」
薄笑みを浮かべれば、杯が満たされた。
「なんだ。お前、期待してたのか?」
むっとした、燕倪。
「どうだろうな、、、」
うそぶきを、聞いた。
武骨な拳で、膝を叩き、
「さらりと言いやがって。そう簡単に、斬るか。夢見が悪い。こちとら事情も知らねぇんだ」
首を、振る。
ぎり、と、噛み締められた奥歯が、耳障りな音をたてた。
「事情を気にするとは、知らなんだな、、、」
冷ややかな物言いに、
「おい」
向かいの蒼奘を、睨む。
変わらぬ、臈たけた横顔が、そこあった。
「茶化して、いいことじゃねぇだろっ!!あんな泣き声を、聞かされりゃ、―――ッ」
ドッ…
床板が、軋み、その拍子に、
カラ…ン…
床に置かれた杯が、ひっくり返った。
片膝を立て、今にも、蒼奘の襟首を掴まんとして、
「んー」
伯に、膝に乗られた。
「うっ、、、」
鼻先に、澄み渡った黎明が、在る。
「ゲ、、、」
「お、おう、、、」
手に、ひやりとした、感触。
伯の杯が、握らされていた。
「ん、、、」
ふわりと潮の香りを残し、伯が、離れた。
同時に、蒼奘から、瓶子が差し向けられる。
「大陸は、広い。様々な一族が、暮らしている、、、」
杯に酒を注がれながらも、燕倪の視線は、階へと向かう伯の背中へ。
袖に入れた翡翠輪を、首に掛けると、今しがた、琲瑠によって揃えられたばかりの草履に、足を突っ込んだ。
「遥か、古の時代。【人】と【人ならざる者】達が、共に肩を並べた時が、あったと言う。互いを身近に感じていた、そんな時代が、な、、、」
大池の湖畔を歩く、華奢な背中が、遠ざかっていく。
「ある者が、言った。【人】は、旺盛だ。大地に根付き、その根を、何千、何万里と、伸ばす、と。【人ならざる者】は、その勢いに押され、淘汰され、あるいは決別するだろう、と、、、」
「伯、、、」
そのまま、木立の向こうへと消えたのを見届け、燕倪は、蒼奘を見つめ、杯を、見た。
満々と酒が、揺れていた。
「史実は、語る。やがて、【人】は、【人】へと、矛先を向けた。いくつもの一族が滅び、また、交わり、今の世がある、、、」
「あの姫も、その一族の礎と、なるって言うのか?」
ぽつりと、言えば、
「その覚悟を、我らが測ることなど、どうしてできよう、、、」
「、、、、、」
もっともな言葉が、降ってきた。
― あの声は確かに、悲観した者の声では、なかった、、、 ―
膝を、戻す。
苦々しく、胸に蟠ったままの苛立ちを、酒と共に、干した。
「、、、、、」
空になった、杯。
言葉を探そうとして―――、見つからなかった。
俯いたままの、燕倪。
その鼓膜を、
「、、、あの時、姫の言葉を待っていたのは、お前だけではない」
「あ、、、」
蒼奘の声音が、打つ。
脳裏を過ったのは、沈んだ表情の、胡露。
突如現れた、青き眸の異形。
寒空の下、いつまでも見送っていた、老いた花守。
そして、もしかすると―――。
「、、、、、」
燕倪は、再び満たされた杯を置くと、
「損な、役回りだな。お前も、、、」
瓶子を取り上げ、ため息交じりに、そう言った。
「、、、、、」
無言で、杯を干した、蒼奘。
彼もまた、その言葉を待っていた一人、だったのかもしれない。
「そういや、伯が戻ってこないが、、、?」
ふと、思い出して庭先を探すが、寒空の中に、姿は、無い。
「伯ならば、約束を、思い出したらしい、、、」
長衣を、肩に羽織り直しながら、闇色の眼差しが、北の山稜を眺めた。
灰鼠の雪雲に、冬化粧の山々が、溶けていた。
「約束?」
「夢見の姫との、約束らしい、、、」
「夢見、、、天羽殿の末姫、あとり、か」
珍しいこともあるものだと、燕倪、何やら顎先を撫でている。
そして、
「なぁ、それって、もしかすると、、、」
何を、思いついたのか、燕倪が、厚い口元に笑みを刷く。
すぐに思い当ったのか、薄く、ため息を吐くと、
「伯の恋路を案じている場合か、燕倪よ。お前こそ、遠野の姫とは、どうなったのだ?」
「うぐっ」
痛いところを突かれたとばかりに、燕倪の顔が、ひきつった。
「こ、恋路などッ、では、なな、、、ぃ、、、」
「ほう、、、」
そのまま、冷ややかな眼差しが向けられると、
「ただ、純粋に、その、、、若い娘御が乳母と二人、深い山に隠棲していれば、気に掛かって、、、と、とにかく、俺のことはいいっ」
耳まで赤くしたその様は、とても、豪腕で知られる左近衛府少将とは、思えない。
鼻息荒く、こちらを睨む燕倪を余所に、蒼奘は、庭に面した欄干へ。
軋む音をさせ、床が鳴れば、辺りが少しだけ、暗くなったような、、、
「む、、、」
庭先に視線をやれば、太陽に、薄雲が掛かったところであった。
杯を片手に、欄干に凭れた、蒼奘。
同じく、空を見上げれば、白々とした長い髪が、肩を滑り落ちていった。
「今夜辺り、雪が深くなりそうだ、、、」
吐息が、白く大気に滲むのを見て、
「ああ、そのようだな」
燕倪が、応じた。
幾らも呑まぬうちに杯を置くと、
「それじゃあ、雪が深くなる前に、あいつを、迎えに行かなきゃな」
高坏に積まれた干柿を、手に取った。
指先にひやりとして、それでいてしっとりとした、感触。
粉を纏ったそれを、口に放り込めば、ぐっと、大きく伸びを、一つ。
そのまま、欄干に凭れる蒼奘の傍らを通り、階を降りると、
「琲瑠、雪吊りの点検か?俺も手伝うぞ」
「あ、、、それは、わたしが致しますから」
寒空の下、腕捲りをしながら、冬囲いを終えた庭木を見回っていた琲瑠の元へ。
「結びが甘いと、雪に負けちまうからな」
「あ、あ、そのように、きつく縛っては、、、」
水鳥が逃げ出し、俄かに賑やかになった、庭。
おろおろと、助けを求めて、こちらに視線を送る琲瑠を余所に、いつもの薄笑みを刷くと、
「汪果。夕刻前までに、鋼雨と浮葉に鞍をつけさせておくよう、琲瑠に、、、」
「畏まりました、主様」
杯を渡し、蒼奘は一人、奥の書院への渡廊へと歩きだした。
「、、、、、」
広い背中を見送って、汪果は、板の間に置かれた杯を、見つめた。
それぞれの、席の前。
置かれたままの杯、二つ。
そっと、先ほど袂で受けた杯を置くと、
「今宵の夕餉には、何を供しましょうなぁ。今夜は冷えるようですし、雉鍋と、、、後は、、、」
あれは、これは、と言いながら、台盤所へ向かって歩き出した。
板の間には、杯、三つ。
主が揃うその時を、ただじっと、待っている、、、
絢爛と咲き誇る、季節を忘れた花々の楽園。
長椅子の背に凭れたまま、客を見送った、遙絃。
その気配が、屋敷の内から消えた後、
「地仙、お人が悪い、、、」
控えていた胡露が、苦笑交じりで、残された茶器に手を伸ばした。
― 気づかれては、いないようだな、、、 ―
遙絃は、胡露を見た。
長き時を生きる者たちも、人の世と同じく、心を砕く。
目には決して見えぬが、確かに在る―――、絆。
長すぎる生に、精神が疲弊する者も多いが、
― 孤独では、なかった、、、 ―
それが垣間見えたことが、何よりも嬉しかった。
一方、胡露は、
「我らの知らぬところで、何か、ございましたか?随分と気前よく、花車を御貸しになられて、、、」
いつになく穏やかな眼差しで、遠くの青く縁どられた山稜を眺める遙絃に、問うた。
「お顔が、緩んでますけど、、、」
螺鈿の細工を施された盆に、残された碗を受ける伴侶へ、
「どうとでも言え。今日は、気分が良い」
大きく伸びをし、長椅子の背に凭れた。
盆を片付けるため、一旦、円卓から離れようとして、
「遙絃、、、」
袖を、掴まれた。
心得て傍らに座れば、その膝に、遙絃が、上半身を投げ出す。
― 少し、お休みになられるか、、、 ―
胡露が手を取れば、軽く握り返す。
そこにいろと、甘えているのかもしれない。
「ん、、、」
あまやかに、包み込むように、眠気が押し寄せる。
長い睫を揺らし、紺碧の眸を閉じるのが、見えた。
薄く開いた唇から、細い吐息が、聞こえてくる。
豊かに流れる、蜂蜜色の髪。
そっと触れれば、
― そういえば、、、 ―
久しく、触れてなかったような気が、した。
胡露の手が、そっと、髪を撫でた。
温もりが、そこから溶け出してくるようだった。
手の下で、大きく、息が、吐き出された。
遙絃が、眠りに落ちる瞬間、
「、、、ュ、、、ㇻ、、、」
胡露には聞き取れなかったが、何かを小さく、呟いた。
かつて、記憶ごと封じてしまおうとした、名であった。
『その時こそ、、、姉さん、ビューラを、殺してくれますか?』
ああ、無論だ…
それが、お前を手にかけた、私の罪
何度でも、何度でも、殺してやろう…
生きていると言う事に、目を背けたくない時期があったりした。。。
今は、パック詰めされ陳列、売られている。。。
それは、すでに処理されたものであって、、、
そこに至る過程は省略されてて、、、
それを知らないことが、妙に引っかかって、、、
俺は、銛や釣竿を使うことをやめてしまった。。。
素手で獲物を獲り、絞める。。。
素のままで生きるその命に、最大限の敬意を。。。
手の中に残る、命の躍動。。。
絞める時は、躊躇わない。。。
感情を殺し、目に焼き付ける。。。
命の蠕動。。。
それすらも、糧にしよう、と。。。
そんなことを、ガキの頃から実践したやつが筆なんつーものを取ると、こんな、ろくでもない話になってしまうんでさ。。。---(o_ _)o