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第弐幕前 ― 都守 ―

 

 蒼奘は妖異を鎮めるため、業丸の対になるものを燕倪に探させるのだが、、、


 死人還りの都守蒼奘、業丸を継ぐ武官燕倪、幽身であるがこの世に縛られた伯。それぞれが紡ぐ異国絵巻、第弐幕前編。。。

「主様は、若君共に今し方、お出かけになられたばかりで、、、」

 往来も白く染める雪が深い、朝方のことだった。

 ちらほらと梅も咲き始めたと言うのに、珍しいこともあるものだと、ふと思い立って訪れてみれば、すでに家主は経った後だと言う。

「いつ戻る?」

「さて、、、すぐにとも、晩にとも、明日とも、果たして一月、一年先か、、、」

 言いながら、門前に応対に現れた琲瑠が苦笑した。

「朱央門に鬼火が出たからと出掛けて行って、戻ったのは半年後。思い立ってかつての都跡へ陵墓を見回りに、ふらりと行ってしまうあいつの事だからな。お互い、苦労する」

「はい、、、あ、いえ」

 今度は燕倪が苦笑した。

「また、寄るよ」 

「お待ちいたしております」

 懐手で往来を行く者同様、寒さに背を丸め、歩き出す。

 しばらく行った先の辻で、ふと顔を上げ、

「白梅か、、、まるでいたずらな女童のように、かろやかに風に遊ぶ香りだなぁ、、、」

 見上げた先の古びた屋敷の塀の向こう。

 突き出した梅の枝。

 気が早い春を謳歌する鶯に、思わず足を止め、目を細めたのだった。

 

 燕倪が見上げた梅香るその屋敷の内に、二人は居た。

 咲き乱れる花の繚乱。

 竜胆、鷺草、女郎花 木瓜に芍薬、蓮の花 菖蒲、椿に牡丹に福寿草。

 ありとあらゆる季節の花々が、屋敷を覆いつくさんとばかりに競い咲いた庭。

 しかし庭と呼ぶには、あまりに広大。

 蝶が舞い、小鳥が歌い、鹿が遊び、兎は野を駆けていた。

 彼方には、遠く緑深い山稜さえ仰ぎ見え、屋敷の塀は何処?

 外界の凍える季節は嘘のようで、木漏れ陽が心地良く、空は青く澄んでいる。

 その庭に、立っていた。

「伯、むやみに踏み荒らしてはいけない。この世に在るものには、等しく命があるのだ、、、」

 蒼奘の手から離れ、青い蝶に誘われ、飛び石からその庭へ入り込んでは、くんくんと鼻を鳴らす伯。

 足元で可憐に揺れる蓮華の一つに手を伸ばし、

「伯、、、」

 口へ。

 蒼奘の静止の声も聞かずに、また一つ。

「無邪気なものじゃなぁ、、、」

「天狐、、、」

 忽然と現れたのは、金色の髪を葛で編み長く背に流した、獣の耳と尾を持つ者。

 その長身に纏ったのは、天界で折られた極彩色の綺羅の重ね。

 虹色に変化する羽衣をやんわりと纏い、ふわりふわりと長く広がった尾は九つ。

 紺碧に澄んだ涼しげな双眸が伯を見つめると、秀麗なその容貌が愛おしげにほころんだ。

「我は、構わぬよ。天界の大気と陽光で育てた草花だ。この幼な神には、どれもこれも、約束された彼の地の産物であると同時に、その神器を満たす氣、そのものなのだから、、、」

 長く赤い爪を持つその白い手を、蒼奘の肩に置くと、翡翠色の唇を耳元に近づけて、

「で、、、どうなんだぇ?具合の方は、、、」

 とたんに下世話な顔になる。

「せっかく縛った幼な神。悪食な、その食指が動かぬはずがなかろう?」

「いずれは、天津国に還す約束でな、、、」

「ぬ、、、そなたでも畏れるものがあるのだなぁ」

 少々驚いたのか、柳眉を寄せた天狐。

 その足元に、

「ふぁぁ」

 立った、伯。

「伯、、、天狐の遙絃。花燈籠を私に持たせた者だ」

 伯の目線までしゃがみ込むと、

「そうじゃ。かように近いのに、中々参らぬので、少々世話を焼かせてもらったぞ、伯」

 ぐしぐしとその頬を抓る。

 ― ようげん、、、 ―

 見つめるその菫色の瞳が澄み、

 ― ソウ、、、 −

 その声が、二人の脳に直接流れ込む。

 伯が手を伸ばすから、握ってやると、

 ― ようげん ―

「私は地仙だが、これでも神の端くれでな。なぁ、伯。どうだ、天匠に作らせた菓子がある。中でゆるりともてなしを、させてはもらえぬか?」

 蒼奘の顔を見てからこくりと頷いて、一行は飛び石を渡ってその先へ。

 古びた概観とは無縁の、朱塗りの屋敷。

 両翼に広がるのは、回廊によって繋がれた離宮。

 屋根は、孔雀の羽で葺かれ、梁に渡さているのは薄桃や乳色、浅葱の紗。

 屋敷に足を踏み入れた刹那、

 ビクッ、、、

 伯が硬直。

「何もせんよ、、、」

 蒼奘にしがみついた。

 その視線の先に映ったものは、天空を写す床。

 彼方の雲間から、巨大な龍魚が遊ぶ姿。

 伯を抱き上げた所で先を行く遙絃が、

「こっちだ」

 離宮の一つへ。

 一室には、極彩色の調度品が揃えられていた。

 それらすべてが天匠によって命を与えられ、描き刻まれた月は満ち欠け、柳の枝はそよ風にはらはらとなびき、鳥は時折こちらの世界に姿を現した。

 円卓に腰を下ろせば、茶器と菓子の乗った盆を手にした美丈夫が、雪菊を縫い取った長袍を纏い現れた。

 長い砂色の髪を編んで肩に垂らし、涼しげな眼差しで二人に会釈。

「伯、胡露と言う。私の夫じゃ」

 ― うろう、、、おっと、、、 ―

「共に暮らし、過ごすと決めた伴侶の事だ」

 伯の眼差しに胡露は微笑み、茶器を操つる。

 その芳ばしい香りが満ちると、柔らかな真綿の如き菓子を伯の前へ。

「どうぞ」

 蒼奘が菓子を割ってやると、砂糖漬けになった色取り取りの花弁が金色の糖衣を纏い、こぼれでる。

 指で摘むと、それを伯の口へ。

 しゃくしゃく・・・

 気に入ったのか、伯はひとつぶひとつぶ手に取り、眺めながら自ら頬張り始めた。

 その様子を見つめながら、蒼奘が青磁の茶器から注がれた琥珀色の茶を、薄い翡翠の碗に受け、そっと唇に当てる。

 碗の中で開く花々が、えもいえぬ香りでもって舌を弄い、まろやかな甘露はほろ苦くも甘やかに、口腔に広がった。 

「ほう、、、天香四万七千八百九番、江華香か、、、」

 胡露が、嬉しそうに目元を綻ばせた。

「くく、、、」

 口元を押さえた遙絃だったが、すぐに堪え切れず口を天井に向けて笑い出した。

 豪快なその笑い声に、菫色の瞳を大きくした伯。

 薄っすらと唇に笑みを刷き、傍らにいる伯の髪を撫でる蒼奘に、

「胡露、また、お前の負けだ」

「ええ」

 胡露が眼差しを向けて頷いた。

「いや、私の方こそお前の調香には、恐れ入る、、、」

 しげしげと碗の中を覗きながら、

「時が経てば、移ろいゆくものと同じ、、、碗の中と言うのに、其の庭と同じだ。咲く時期を違えては混ざり合い、新たな天香へと変わる、、、既にこの香り、私も知らぬ香りとなった、、、」

「恐れ入ります」

「待て待て、胡露。蒼奘はそう言っては、お前に花を持たせるが、賭けは私の勝ちだぞ」

 恐縮して拱手した胡露に、遙絃が子供のように頬を膨らませた。

 その肩に、胡露が微笑みながらそっと手を置けば、それで気が済んだのか、遙絃もまた手を重ねた。

「、、、、、」

 もう菓子に飽きたのか、伯は指を咥えたまま、感情を浮かべぬ深い菫色の瞳で二人を見つめている。

 その伯の唇に、茶を含ませながら、

「さて、天狐。胡露の調香の腕を試すために、招いたのではあるまい」

 蒼奘の漆黒の双眸が、深く澄んでいく。

 微笑を浮かべたまま、紺碧の双眸を獣のそれのように細めると、卓の上に付いていた肘を立て、手の上に顎を載せた。

「私がこの地に流れ着いて根を下ろし、百八十年。その頃はここも、人など入らぬ芒生い茂る草原であったな」

 差し伸べた手には、胡露が差し出した煙管。

 昔を懐かしむのか、一息つけると、深緑の煙が舞い上がった。

「そこが切り開かれ、都が作られ、人が集まった。人の中は存外住みやすいものだ。そのまま居を構えてみれば、生まれ、そして終りある者等のなんたる愛しいことよ。地仙にありがちな情が、つい、出てしまってなぁ。数多のこの土地を汚す者どもを祓ってきたわな、、、」

「、、、、、」

 蒼奘は、菓子と茶に飽きて庭に出て行く伯の背中を見送っている。

 その端正な横顔に、細く深い藍の煙を吹きつけると、

「気まぐれに、人の形にて現れたそなたを黙ってこの都に受け入れたのは、私と同じだと、そう、思っていたのだが、、、」

 蒼奘は、眼差しそのまま、

「真に等しいものなど、この世にふたつと存在せぬよ、、、」

「では、まかりなりにも都守の名を持つのなら、早々にこの異変、鎮めぬか?」

 席を立った。

 広いその背が、伯の姿を追って外へ出て行く。

「蒼奘」

 呼びかけに、

「そのうちにな、、、」

 低く、ひどく面倒そうな声音が、風に乗って舞い込んできたのであった。

 

 燕倪の屋敷である。

 無骨な門構は武門の出であるが故だろうが、その門を一歩潜ると、雪が積もった庭の向こうにさすがに名うての貴族らしく、重厚な寝殿造り。

 今は、ひっそりと雪に沈んで、白々としていた。

 屋敷から戻ってすぐ火鉢を引きつけ、昨夜読みかけた書物などを、と手を伸ばしたところであった。

 御簾を押し上げて、雪が舞い込んだ。

 白い、水干の袖が翻ったのだと気付いた時には、うつ伏したその背中に何かが腰を下ろしていた。

「燕倪、寄ったぞ、、、」

 何がなんだか分からず、とにかく声がした方に顔を向けると御簾越しに、白い狩衣に灰薄の絹をゆったりと首に巻き、紫紺の長衣を羽織った長身の男。 

 その腰をゆうに越す、白い髪の主に一見、雪の精でも現れたかと思えば、

「よう冷えるな。上がるぞ」

 ずかずかと上がって来ては、火に当たった。

「蒼奘」

 座ったその膝に、背中に居た伯が入った。

「今し方、お前の屋敷を訪ねたばかりだぞ」

「ああ。近くの屋敷で茶を馳走になっていてな。雪が深くなる前にと出てきてみれば、お前の後ろ姿が遠くに見えた」

「それで、ついてきたのか、、、」

「そんなところだ」

「まったく、一声掛けぬところが、お前らしいよ」

 ようやく身を起こしたところで、

「で、お前はいったい俺の背中で、、、」

 伯が、無言で天井を指差した。

「あぁ?」

 その白い指の先。

 天井の隅に、青白い輪郭を浮かび上がらせた黒き闇が張り付いていた。

「な、何だ、あれはッ」

 思わず刀架に手を伸ばすその手首を、白い手が掴んでいた。

「刺激するな。別に、悪さをするようなものではない、、、」

「だが、あんな化け物、、、」

「伯が、すでに祓った。あれが、お前の首の後ろから、入り込もうとしていたのでな、、、」

「入るって、、、俺の中に?!どうなるというんだ?!」

「酷い風邪を引く」

 鼻で笑ったようだった。

「お、おい、、、」

「それより、この屋敷は客に茶も出さぬのか?」

「案内の者を待たずに屋敷に上がる奴を、客とは呼ばん」

 ぶつぶつ言いつつも、廊下に出ると、

「籐那、居るか?」

 厩に勤める若い奉公人の名を呼べば、少しして軽やかに駆けてくる足音。

「はい。何か、旦那さま」

「茶か、何かあったかな」

「えっと、見てきま、、、」

 踵を返すその背中に、

「茶は、先ほど馳走になってな」

 しれ、と蒼奘の低い美声。

「お酒でしたら、、、」

 奉公人の声。

 溜息をつきつつ、

「お孟どのに言って、燗をつけてくれ。それと、何か肴があればと」

「はい」

 燕倪が火鉢の側に戻ってきた。

「最初からそのつもりだったのだな」

「たまには良いではないか。私がこの屋敷を訪れる事など、そうないのだから」

 そして、降り積もる庭の雪を眺めながら、

「このまま二晩も降り積もれば、さすがのこの都も、埋もれるやもしれぬなぁ、、、」

 先程まで小振りであった粉雪が、今はもう、親指大の羽のように、ゆらゆらと灰色の影を落としながら舞い降り始めていた。

「都守が、不吉な事を言うのだな」

「吉も不吉も本来なら、人の手でどうこうして良いような、理などではないのだがな」

 それきり黙って、膝でうとうとしている伯に長衣を掛け、そのまま眠りに落ちてゆく様を見つめていると、盆を持った奉公人が姿を現した。

 黒目の大きい、利発そうな十二、三の少年。

 主の古い友だと聞いていたが、目近に見る白い髪の都守、蒼奘の姿に少しばかり肩に力が入る。

「お酒、こちらに、、、」

「ああ、置いてくれ」

 早々に籐那が置いていった盆には、杯が二つ、瓶子が二つ。

 そし干して漬けた粕漬けの大根。

 皿の上でひねくれたそれがこんもりと盛られていた。

 それを齧りながら、互いに杯に酒を注ぐと、

「病みには、二種類程あってなぁ。不摂生をして罹る病と、病魔、疫神とも言うが、その名の通り、鬼に巣食われる病だ。その一つが、これさ」

 干された杯で指し示した天井に、今だ張り付いたままの化生のもの。

「祓ってくれ。そんなもの、屋敷の者に憑いては困るぞ。現に俺に入り込もうとしていたんじゃないのか?」

「無防備にうつ伏して、首の後ろを晒したからだ。ここには、五臓六腑に続く孔が空いているからな。姿勢さえ正せば、近づきはせん」

「そんなものなのか?」

 首の後ろを摩りながら、燕倪が首を傾げる。

「何、養生しておればこの手の病魔は問題ない。普段は見えぬだけで、そこここいらに、うようよしておるのだしなぁ、、、」

「ぬぬ、、、一度聞こうと思っていたのだが、お前、そんなものを毎日見て暮らしているのか?」

 蒼奘の長い指先が、空の杯を弄う。

「そこに在ると思えば見え、無いと思えば見えない。人の目は、都合良く創られているものだ」

「答えになってないぞ」

「陽の光の中で暮らし、闇の訪れに眠れば、闇に生きるものを見ずして生きることができる」

「ううむ、、、」

「闇に目が慣れれば、それを容易に見ることができる。月明かりの中であろうと、陽の光の中であろうと、、、」

 燕倪の空になった杯に、酒を注いでやりながら、

「人も動物も、幽鬼も神も、、、等しく皆この世という一つの世界に発生したものに変わりは無い。その存在を認めれば、その目も慣れて、人の世ではない、等しきこの世を、見せてくれるだろう」

「そうゆうものなのか?」

「そうゆうものだ」

 その杯が、干されるのを愉しげに眺めていた。

「それじゃぁ、今日、俺が見たと言うことは、俺もお前と同じように、、、」

「そうとは限らんのだ、これが、、、」

 琥珀色に漬け込まれた大根を摘み、露草の如き青味がかったその端正な口へと放り込むと、小気味良い音が響いた。

 酒と共に喉に流し込むと、

「実はな、この雪も、妖異に変わりが無くてなぁ」

「なんだって?」

「この月にこんな大雪が降る事など、この地ではありえぬことでな。各地で吹き上がった瘴気によって、お前の目にも力を増した鬼達が、見えるのさ、、、」

「起こっている事を、分かるように説明してくれ」

 瓶子をつまみ上げながら、手酌で酒を注ぐと一息に干して、

「この王都の四方には、四神が祀られている、、、」

「都の者なら誰でも知っている話だ。西の白虎。南の朱雀。東の青龍。北の玄武、だろう?」

 その応えに意味深に微笑んだ。

 手には、空になった瓶子がつままれ、振られている。

 

「勿体ぶるなよ」

 燗をつけた酒を、新たに運んでくると、蒼奘は空になった杯を差し出した。

「そんな高尚な神が、人に力を貸すかよ。祀られているのは、人、そのものよ」

「お前、そんな事。人が、神の代わりになると言うのか?」

 差し出されるままに注ぎながら、

「あれは確か、陰陽寮だったか。地下書庫の碑文の間には、真実を語る書があったぞ」

「待てよ、蒼奘。大体お前、陰陽寮とは反りが合わなかったんじゃ、、、」

 ついつい、呆れ顔。

「都守の名はなぁ、宮中では都合が良い。私がまだ、宮勤めで星読みをしていた頃に、大概の碑文には目を通していたがな」

「碑文自体、門外不出。都の大事以外はその門扉固く封じられているというそれを、読んだと言うのか?それも、都守を戴く以前に、、、」

「糸程の隙間あれば、事足りた、、、」

「はぁ、、、で、今からお前は、それを俺に言うつもりか?」

 燕倪の言葉を受けて、蒼奘は唇の端を吊り上げた。

「まぁ、そんなもの読まずとも、おおよそは見当をつけていたが、時の結界師は、神と契約する代償を畏れたのだろう。代わりは手っ取り早く人を選んだのさ。それも、贄にはな、その地にとって罪深い者のほうが、良くてなぁ」

「都にとって罪深い者、、、?まさか、槇廼、、、」

 蒼奘は、唇に刻んだ笑みを深くした。

 槇廼尭元。

 今よりさらに北の地に都があった頃、帝位を争い、朝敵となった男。

 各地の豪族を束ね上げ帝都に乗り込むや、実の兄の首を掲げた男は、その腹心で末の幼い太子を戴いた土師業鴛によって討たれたとされる。

 末裔は、その業を封じるために土師の名を改め、備堂を名乗った。

 燕倪はその直系の四男である。

 燕倪が手にしている業丸も、槇廼尭元を討った際に折れた大太刀を、打ち直したものだと言われている。

「心根が清らかであると、人柱となってもそのまま成仏してしまうのだ」

「大海原に、その屍は流されたと聞いたが」

「刻まれて、首、胴、右手、左手、右足、左足と埋められたのだろう。怨念は、時を経てさらに増長して行くもの。生半な術で封じきれぬものを、あさはかにも試すのが人と言うものか、、、」

 その場所が、正に瘴気を噴いているというのだ。

「このまま進めば、どうなる?」

「瘴気によって人は鬼に巣食われ、両日中に、槇廼尭元は真に鬼となって、復活するであろうな」

「何を悠長に、、、」

「仕方なかろう。この手の結界を張り直すには、復活を果たす不安定な時期を狙うか、より強い人柱で押さえ込むしかないのだ。お前に策があるなら、別だが、、、」

「ない」

「んん、、、」

 ふと、膝で丸くなっていた伯が目を覚まし、ぐずり始めた。

 腕を突っ張って、身を捩る。

 濡れたような深い瞳で蒼奘を見つめると、ふらりと雪の降り止まぬ庭先へ。

「、、、そうか」

 伯が、雪の中で、こちらを見ている。

 少し残った杯の酒。

 それを振ると、酒の滴が天井へと跳ねた。

 燕倪の視線が天井を這うと、化生の姿がない。

 蒼奘が立って、御簾を上げた。

 長衣を纏いながら、庭先へ。

「おい」

「伯が帰ると言って、聞かぬでな。良い酒であった」

「この事で何か、俺に用があったんじゃないのか?!」

 伯を腕に座らせて歩き始めたその背を追って縁側に出ると、彼方に開かれた門前に、忽然と牛車が止まっていた。

「ああ、一つ、、、」

「おう」

「次の満月までに、業丸の対になるものを捜しておけよ」

「業丸の対、、、」

 膝下をゆうに越してしまう雪の中足を取られることもなく、その白い人影は、牛車へ。

 琲瑠が引き戸を閉めると、こちらに向かって一礼し、静々と牛車と共に深い雪の紗幕の中に消えてしまったのだった。

 

「おや、、、」

 屋敷に着く手前、恵堂橋に差し掛かり、目を細めた蒼奘。

「伯、嫌な思いをさせるぞ」

 蒼奘の長衣を羽織って、覗き窓、ぼんやりと浮かぶ白い山々を遠くに眺めている伯の頭を、優しく撫でた。

 

 屋敷の前には、こもり雪の紋を刻んだ牛車が一つ。

 辺りの屋敷の門前の燈籠に火が入れられた、青白く滲む宵闇の頃。

 蒼奘が門を潜ると、牛車の主に仕える女が幾人も出迎えた。

「旦那様、奥方様がお待ちでございます」

 その声に鼻先で笑い、母屋への渡り廊下へ。

「、、、、、」

 伯が、ふいに物陰に隠れた時だった。

 母屋への渡り廊下の途中にある、来客用の離宮。

 平素閑散としたその部屋が、俄かに煌びやか。

 机帳には、縫い取り鮮やかな重ねが掛けられ、焚き込められた香で噎せ返るようだった。

 御簾越しに見えるのは、黒髪を長く流し、脇息に体を預けた華奢な影。

「こんな雪深い日に、どちらへお出掛けに?」

 甘さの欠片も無い、凍てつくような声だった。

「どこでもよかろう」

 無遠慮に、その手が御簾を押し上げた。

 黒瞳深く、目じり吊上がった若い女であった。

「このような雪深い日に、待てど暮らせど訪れぬ男の元へ参ったか?見上げたものだ」

「妻が、夫の下に参るのに、理由などいりましょうや?」

「夫、か、、、私は、そなたに触れた事など、ただの一度も、無いと言うのに、、、」

 侮蔑さえ含んだ眼差しであった。

「あの日交わした誓いに、偽りはありませぬ故、わたくしは妻となりました」

「人の心は、変わるものだと言うたが、、、」

「しばらく、この屋敷におりますので、入用な際はなんなりと、、、」

 艶然と微笑む妻に、蒼奘は背を向けた。

「好きにするがいい、、、」

 廊下に出ると、たっ、とその背に駆け込む小柄な人影。

 脇息に凭れていた女が、身を起こそうとした時には既に二人は、母屋の暗がりに溶けていたのだった。

 

「お前が実家に寄るとは、珍しいこともあるのだな」

 左大臣備堂真次の屋敷である。

 五十を幾つか経て尚、端正な細面そのままに、口髭を蓄えた男は、漆の重ねに沈金の月を施した月呑杯を上機嫌で差し出した。

 頼りない灯明の灯りの元、傍らに座していた男が、瓶子を傾けつつ、

「こんな深い雪の中を訪れるなど、気でもふれたかと思えば、、、」

「父上に、是非とも伺いたいお話があって」

「言ってみよ」

 それまで右側に置いていた宝刀を前に差し出し、揺らめく明かりの中顔を上げたのは、燕倪であった。

 翌日、降り止まぬ雪の中、宮勤めの帰りにそのまま寄った態である。

「業丸。其は、武官の道を歩むお前にこそ相応しい」

「破魔の太刀業丸は、打ち直された土師業鴛が大太刀と聞きました。その際に残った鋼は、、、」

「土師業鴛の妹、愛智姫の輿入れの際、桧扇に打ち変え持たせたと聞いているが、、、どうかしたのか?」

「実は、、、」

 燕倪は、昨日訪れた蒼奘との出来事を語った。

「ふむ、、、」

 顎先を擦って聞いていた真次は、杯を置いて腕を組んだ。

「宮中に寄せられた嘆願に、怪異に関するものが多く混じり始めたとの報があり、帝が気に掛けておられたが、都守が言うのなら、間違いないだろう、、、」

「槇廼尭元が関係しているのであれば、土師業鴛が末裔備堂の責」

「槇廼尭元が怨念で、都に怪異、、、いずれにせよ、都守が必要とするのなら、なんとか探し出さねばなるまい。お前の宮勤めに関しては、わしがどうとでも言っておく。早急に愛智姫に縁あるところを訪ね、其れを都守に渡すのだ」

「はい」

「お前の友の計らいだ。土師業鴛の名に、傷か付くことだけは避けねばならぬ。頼んだぞ」

 低く応じた燕倪は、それではこれにて、と席を立とうとし、

「ところで燕倪、通うておる相手はおるのかな?」

 再び杯を手にした真次に、引き止められた。

「父上、それどころでは」

「良い娘御が、おるのだがなぁ、、、」

 末の燕倪だけが今だ嫁を貰わず、顔を合わせれば父母のこれだ。

 故に、二十を過ぎてすぐに実家を出て、早くに妻を亡くした叔父の屋敷で寝起きしていたのだが、この叔父も翌年に病であっけなく逝き、屋敷を継いだのだ。

 帝の信頼も厚い燕倪には、すぐにでもそれなりの身分の娘を貰って身を固めて貰いたいところなのであろう。

 どうも行く行くは左大臣の座すら上の兄を置いて、この末の燕倪に渡したいと思っているようなのだ。

 気侭な今の生活が性に合っている燕倪にしたら、出来の良い兄達こそふさわしいとまるで取り合わないが、今日ばかりは自分から訪れた故、無碍に席を立つことも出来ず、渋々酒の相手。

― これでは仕様が無い。明日にでも、始めるとするか、、、 ―

 帝都の行く末が掛かっているというのに、父の暢気は相変わらず。

 瓶子を傾けつつ、少し羨ましくも思う燕倪であった。

 

 白々と都を染める雪も、流石に三日も降り積もることは無く、覗いた朝陽に軒先からひたひたと雫となって零れ落ちる。

 昨夜遅くまで酒に付き合ったせいか、足取り重く門を潜った。

 厚手の長衣を纏い、足拵も十分に厩から引き出された連銭葦毛に跨り、

「主様」

「古い縁でな、遠野まで行ってくる。しばらく戻れぬかもしれぬが、心配するな」

 籐那に見送られ肥馬『千草』の腹を蹴った。

 白々と光るまだ人も疎らな往来を、軽やかに駆ける千草の背で、

― 満月と言っていたか、後、五日もない、、、、 ―

 思わず、腰に帯びた業丸の柄頭に手をやった。

― 見つかるのか、、、 ―

 不安に思いながら、頭を振る。

― いや、見つけるさ ―

 都の西門を抜る街道へ向かう道すがら、ふと白梅の香りに首を傾け、

「う」

 ふわり・・・

 白い衣の袖が肩に触れ、見れば小さな手がそこにある。

「な、、、」

 首を巡らせようとして、

「エンゲ」

 その声を聞いた。

 いつか聞いた、その茫洋としてたどたどしい声の主は?

「お前、は、伯か?!」

 こくり、、、

 背中で頷いた気配。

 こんな往来に気配、重さを感じさせず、疾駆する馬に飛び乗れるものなど、化生か摩訶不思議な都守のところの伯しか思い当たらない。

「こんな朝早く、、、い、家出か?」

 まさかとは思いつつ問えば、またしても少しして、

 こくり、、、

 と、頷く気配。

「家出、したのか、、、早熟な、、、」

 屋敷に連れて行こうか、と思えば、

 しゃらり・・・

 見透かしたように肩越し見せられたのは、翡翠と硝子管の首飾りであった。

「それは身代わりの、、、蒼奘が?」

 ふるふる、首が振られた。

「違う?」

「ハイル」

「琲瑠か、、、」

 あの夜、終始その側に居て、穏やかに見守っていた付き人の顔を思い浮かべて、燕倪は千草の脾腹を蹴った。

 どこか、特別な感情すら感じさせる付き人の直向な想いを酌んで、

「もう、俺にあんな事、させてくれるなよ」

 こくり、、、

 童の体が、ふわりと舞い上がると燕倪の腕の中へ。

 まっすぐに前を見つめる伯の黒髪が、鼻先をくすぐる。

 見れば解けかかった青い綾紐。

 それを結び直してやりながら、

「いずれにせよ、頼りにしてるぞ、伯」

 相変わらず反応が無い、伯。

 千草の鬣を弄って一人、遊んでいる。

 

 母屋の裏庭。

 井戸を覆うように、侘助が枝を伸ばしている。

 地を覆う穢れない雪色と同じく、可憐で小振りなその花が、辺りに甘く香っていた。

 その木の枝の下に立ち、塀の向こうを眺めていた若者は、現れた気配に振り向いた。

 白い羽二重の寝着をその長身に纏い、肩に濃紫の長衣を纏った蒼奘が、懐手で縁側に立っていた。

「行ったか、、、」

 低い声で呟き、目を細めて塀の向こうを眺める。

「はい。燕倪様の香りがすると、お出になられました」

「翡翠輪は持たせたのだな?」

「はい。人外の髪と瞳、それだけで人は、何をするか分かりませぬので」

 琲瑠は、瞳を伏せると再び顔を塀の向こうへ。

 翡翠輪。

 翡翠の勾玉と瑠璃色の硝子管で作られた首飾り。

 それは伯の髪と瞳の色を、人が持つ色に変じさせ、時として身代わりをも果たす神器の一つ。

 琲瑠は、手に残った袱紗の包みを畳みながら、

「余計な事、でしたでしょうか、、、」

 ぽつりと、呟いた。

「大海原に生を受けたものなれば、あれは紛れもなくその頂点に君臨すべきものだ。その意志を阻むことなど、できようはずがあるまい」

 うっそりとした、蒼奘の声。

「はい、、、」

「ここで余計な詮索を、我が妻殿にされるよりは、余程燕倪の元におる方が、愉しかろう。これからも、頼むぞ、琲瑠、、、」

「はい」

 琲瑠が跪いて、応じた。  

 すぐに顔を上げた時には、既に蒼奘の姿は忽然と縁側より、消えていたのだった。

 

 茜色に染まる逢魔が刻。

 遠野と呼ばれる山間の盆地は、梅の産地として有名で、白く斑に残った大地一面に、紅白の梅が彩りを誇り、香っていた。

 なだらかな台地の先、見渡すその高台にひっそりと静まり返った屋敷があった。

 庭先にて、籠に入れられた鶯を飽きるでもなく眺めていた娘は、不意に巻いた風に顔を上げた。

「あ」 

 塀の上に、水干の童が立っていた。

 目が合うと、袖を翻して庭先に舞い降りる。

 まるで重さを感じさせない、ゆっくりとしたものだった。

「、、、、、」

 そのまま、漆黒の瞳に見つめられ動けずに居たところ、

「伯っ、おいっ、お前、勝手に入るなっ」

「羽琶姫」

 さすがに慌てているのか肩を怒らせた燕倪と、尼僧が現れた。

 伯の姿を捉え、そして縁側に文机を出している十二単の娘の姿を見て、一瞬、息を呑む。

― こ、これは、、、しかし、、、 ―

 まだ、あどけなささえ感じさせる可憐な容貌と相まって、その髪は、水面に映る月の如く色だった。

― 死人還り、、、 ―

 幽世に渡り、戻った者が持つとされる髪の色。

 それは、見まごうはずなどない、色であった。 

 一方、濡羽玉色の黒目がちな瞳の主は、右手に太刀を持った大男を見つめ、僅かに身を強張らせた。 

「羽琶殿、急な訪問、お許し下され。拙者、備堂燕倪と申します」

 すぐにそれに気付いて、燕倪は、庭先で頭を下げた。

「羽琶姫、燕倪様は左大臣備堂真次様が四男のお生まれで、祖、等しい御方でございます」

「鷹乃杷羽琶でございます。そこでは、お寒いでしょう。ここの夜は冷えます。中へどうぞ」

「かたじけのうございます」

 深々と一礼する様を見つめ、

― なんと実直そうな、お方、、、 ―

 羽琶は微笑んだ。

「そこのお仔は、、、」

「友の許にいる童なのですが、此度の遠出に諸細あって同行しております」

「潮風が、香りました、、、」

「え?」

 目を丸くした燕倪に、

「みずは」

「こちらからお上がりくださいませ」

 心得たもので尼僧が二人を母屋の玄関へと案内する。

 燕倪に手を引かれる伯は茫洋と辺りを眺め、ふわり、またふわりと、欠伸を漏らしている。

 

「驚かれましたでしょう」

 仄の暗い客間にて向き合うと、羽琶の白い髪は燐光を放つかのように、灯火に煌めいた。

 膝に両の拳を置いて、背筋を伸ばして座す燕倪は、頭を振って、

「死人還り、ですので、こうして山里に篭っているのです」

 死人還り。

 幽世に行き、そして無事戻って来た者は皆、髪の色素が抜け落ち、見鬼となって現世に戻ると言われている。

 羽琶は、かつて土師業鴛の妹、愛智姫が尼僧となって亡き夫の菩提を弔う為に、屋敷跡に立てたこの庵で、暮らしていると言う。

「いえ、私の友もあなたと同じ髪の色をしているので、それ程は、、、」

 真直ぐにその黒瞳を見つめるものだから、羽琶の方が鈍色の彫深い双眸から逃れるように俯いた。

 その頬が、ほんのりと染まっている。

「あ、すいませぬ。つい、、、」

 年頃の身分ある娘と、御簾も無しに顔を合わせている事に、今更ながら気付き、非礼を詫びれば、

「いえ、、、」

 気まずい沈黙が辺りを包んだ。

 油皿の中、

 ジジ、、、ジ、、、

 芯が燃える音が微かに聞こえる程、辺りはひっそりとしていた。

「くしゅんっ、、、くしゅっ」

 そんな中、燕倪の傍らでおとなしくしていた伯が体を震わせた。

「伯、おまえ、鼻、、、」

「うぅう」

 とっさに懐紙でその鼻水を拭ってやれば、

「この衣を、、、」

 そっと、纏っていた一枚を伯に掛けるために立ち上がった。

「それでは羽琶殿がお寒いでしょう」

「わたしはここの暮らしが長いですし、寒さには慣れておりますから」

 包み込むように若草色の衣を掛けると、茫洋とした菫色の眸が焦点を結び、その人を見つめる。

「この童を養っている者が、その友でして。耶紫呂蒼奘と言います」

「月色の髪の都守。都守の名は、この遠野でも聞き及んでおります」

「実はこの伯共々、とあるものを探しておりまして」

 燕倪は、傍らに置いてあった太刀を引き付け、手前に置いた。

「見ても、宜しいですか?」

「もちろんです」

 羽琶は、手を差し伸べ、その着物の袂で太刀を持ち上げた。

 柄頭には、白銀に埋め込まれた柘榴石が輝き、白鞘には翡翠と浅葱の綾紐が巻かれ、瑠璃の玉で止められていた。

「この業丸は、破魔の剣。始祖、土師業鴛が怨敵槇廼尭元を討ち滅ぼしたる折り、二つに折れた太刀を打ち直したものだと、備堂に伝わっております」

 羽琶は少し躊躇い、けれどゆっくりとその柄を握り、刀身を引き出した。

「なんと、艶やかな、、、」

 太刀は、血脂の曇無く冴えた月光をも思わす輝きを、羽琶の瞳に焼き付けた。

「その太刀が殺めるは、鬼のみ。人は、斬りませぬ」

「むしゅっ、、、」

 小さなくしゃみに見れば、伯が肩頬を膨らませて見つめている。

 片目を瞑って謝ると、背中を燕倪の肩に預けて黙った。

「燕倪様」

 太刀を鞘に戻すと、そっと燕倪の前に置いた。

「その太刀の片割れは桧扇として、妹御愛智姫の輿入れの際に持たせたと伺いました故、拝借賜りたく、こうして馬を走らせて参った次第です」

「何故、其れをお求めに?」

「実は、私にもよく分からぬ話なのですが、、、」

 燕倪は都守蒼奘が語った帝都の異変と、実際に自分が眼にした化生、そして、父左大臣備堂真次が宮中にて聞き及んでいた妖異について話した。

「都の結界の人柱に、、、」

「無論、時の結界師が施したものではあるのでしょうが、怨念と言うのは、時が経つにつれて膨れ上がると、、、」

「都守は、それをもう一度鎮めるつもりなのですね。最近、この山里にも、疫神が降りてくるので、気になっていたのですが、、、」

「羽琶殿も、お見えに?」

「わたしの場合は、生まれつき鬼が見えていましたので、、、ただ今年に入って、雪に紛れて上方より渡ってくる疫神が多く見受けられましたから」

 羽琶は、短く息を吐くと、

「しかし、困りました。愛智姫の身の回りの物は、亡くなった後、共に葬られたと伺っております、、、」

「それでは、桧扇は、、、」

 再び薄闇の中に沈黙が満ちる。

 夜気の凍える冷気が迫っていた。

 くん、、、

 爪を齧っていた伯が、鼻を鳴らしてしばらく、

「羽琶姫、夕餉の仕度が整いました」

 沈黙を破る凛と響く、みずはの声。

「愛智姫、縁のものでしたら、蔵に何かあるのかもしれません。今宵はもう遅いので、こちらにお泊りになって、明日にでも蔵にご案内致しましょう」

「何から何まで、かたじけない」

「都の一大事に、わたしができることなど微細な事。それに、、、」 

 自ら立って、廊下への御簾を引いた羽琶は、

「こんな雪深い山里に訪ねて来られた縁あるお方を、どうしてお帰しできましょう」

 灯火の明かりの中、ふわりと梔子が香っている。

 

― ん、、、? ―

 夜更けに、ふと目が覚めた。

 月が出たのか、青白く板戸の隙間から差し込む光に目を瞬かせた。

 気になって見れば、夕餉の時も行儀良くしていたはずの伯の寝床が、空。

 肌を刺すような寒さに、寝着の襟を合わせ、長衣を肩に掛けると冷たい床に歩を進めた。 

 板戸に手を掛け、ゆっくりと開き、

「な、、、」

 夜露が凍り、白々とした霜原に、捩じれた青い角を持つ巨大な獣が白い息を吐いていた。

 深い緑柱石を思わせる瞳が捉えているのは、その鼻先を撫でる伯だ。

― 伯は、人外の存在だとは聞いていたが、これは、、、 ―

 全身が泡肌を立てている。

 紛れもなく、凄ざまじい力を秘めた存在だと全神経が、知らせているのだ。

 その存在が、童の前に跪いて、鼻筋を差し出している。

 一瞥だけを寄越して、獣は再び伯に視線を戻すと、その目を細めた。 

 低く喉を鳴らしやがて、恭しく頭を垂れると、塀を越えて一陣の風となって去っていった。

 その後姿を見送って、寝巻き姿の伯が振り返る。

「伯、今のは、、、」

 強張った四肢を気力で動かし、縁側に上がる伯の手を取るが、

「ぁふぁあ、、、」

 涙目に欠伸。

 そのままとことこと寝床に戻り、崩れ落ちるように眠ってしまう。

「何なんだ、一体、、、」

 戸口で突っ立ったまま伯を見つめ、そして外を見た。

 煌々と、中天になだらかな曲線を描く月が、輝いている。

 

 同じ月の下を、錫杖をつきながら紫紺の長衣を纏った長身の男が歩いていた。

 長く、どこまでも続くかと思われる石の階段が、続いている。

 淡々と、休むことなく歩みを続けるのは、月色の髪を長く腰まで流した白皙の美貌の主。

 都守蒼奘であった。

 青い唇に薄く笑みすら浮かべて、月光の元、山頂の社へ向かっていのか、、、?

 ここは、帝都の北に延びる勝間山の中腹にある奥恵大社。

 登りきるに、屈強な者でも一刻は掛かる石段で知られる。

 その為、平素訪れる者も知れており、無論こんな夜更けに社を目指す酔狂な参拝者も居らず、上を見ても、下を見ても、細く延びる影の主は、その人ただ一人。

 細く白い息を吐いている蒼奘が、顔を上げたのは、その耳に聞きなれた水音を捉えたためだった。

 滝の音が、近づいていた。

 青い月明かりの中を脇道へ逸れて、獣道の如き細道を進んでいく。

 やがて、檜や樫、杉の大木が生い茂り、所々雪が残った苔生した大地のその先に、轟々と飛沫を上げて流れ落ちる滝に辿りついた。

 訪れる者と言えば、獣を除けば修験者か、化生か、、、?

 巨岩が連なるその脇に誰に顧みられる事も無い、子供の腰にも満たぬ朽ちた社がぽつねんと立っていた。

 墨色になった社の屋根にも、歳月と共に緑の苔が覆うまさにそこに、蒼奘が立った。

 しゃりる・・・

 大地を、その柄で一突きすれば、社が淡く燐光を放ち、

「こんな夜更けに都守が何用じゃ?」

 幼い女童の声。

 ふわりと舞い上がった燐光は、白い光の粒子となって姿を纏う。

 蒼奘の鼻先に、大きな赤紅の瞳。 

 肩で切りはなたれた黒髪に、臙脂と藤色の衣が映える。

 女童が、宙に浮かんでいた。

「檎葉、久しいな、、、」

「ふん、挨拶じゃなぁ。汝がわらわの元に来るなぞ、ろくな事が無い」

 衣の袂で口元を隠しつつ、流し目だ。

「そう言うな。召喚でなく、こうして足を運んだのには、訳がある」

「人柱が、暴れておるのだろう?」

「話が早い」

「こうしてお山から都を眺めれば、嫌でも見えるわ」

 顎で指した方角を、蒼奘は改めて見つめた。

 流れ落ちる滝の水は、川となって流れ落ちて行く。

 その先彼方、都が茫洋と月明かりの中で眠っていた。

「紅に翠、、、まこと禍々しい瘴気の中で、よく人は生きて行ける」

 二人の目には、噴出す霧に煙る帝都が視える。

「いっそ、この都なんぞ、その人柱なんとかとやらに呉れてやればいい、、、」

 女童檎葉が低く笑った。

「そうしたいところだが、そうはいかぬのだ、、、」

「ふん、、、そろそろ人の皮なんぞ、被るはやめたらどうだ?」

「、、、、、」

 蒼奘はそれには応えず、錫杖を鳴らし、

「手を貸せとは言わぬ、、、」

「では?」

「そこで見守ってくれさえすれば、それで事足りる、、、」

 それだけを言うと、踵を返した。

 来た道を戻るその背に、

「西の森の青角のところより、使いが来たところだ。おかしな気配に出向いてみれば、汝の眷族が出て来て『邪魔をするな』そう言ったそうだ、、、」

「ただ、成せば良い、、、あの仔が、それを知っているのなら、古参の神に名を連ねる者よ、解からぬとは言わせぬ、、、」

 振り返る事無く、歩み去るその背を見送って、檎葉は舞い上がり巨岩に腰を下ろした。

 膝に両肘を付いて、頬を手の平に預けると、

「何をしておるのか、蒼奘よ、、、箏葉もいつまでも待ってはくれぬぞ、、、」

 ほぅ、、、

 白い溜息をついたのだった。

 

 闇の中で頼りなげに揺れている。

 柔らかに、小金色の細い炎。

 その炎の先に、顔が浮かんだ。

「はぁふぅぅ、、、」

「は、伯っ、こらっ、灯りを消すなっ」

 土蔵の奥、煤や埃にまみれて櫃を覗いていた燕倪は、それまでおとなしくしていた伯にほとほと手を焼いていた。

「伯っ、うわわっ、、、」

 慌てて燭台に向かおうとして闇の中、積み上げられていた書物に足を取られてそのまま床に倒れ込む。

 鈴を転がしたような、小さな笑い声が、あちこちから聞こえてくる。

「ぬぬぬ、、、遊びじゃなんだぞ、、、」

 肝心な伯がすぐに手がかりをくれるのでは無いかと思っていたのだが、当人は人の目も無いのを良いことに、土蔵の中を身軽に舞い踊っている。

 闇の中でも、目が利くようだ。

「まったく、蒼奘じゃなきゃ、だめなのかよ、、、」

 蔵にはこれといった物も無く、物置と化し、写経や古い文机などが並び、一通り探したところで日が暮れた。

 もう一日、羽琶の好意で庵に厄介になり、今度は地下の土蔵に居るのだが、かれこれ半日、手掛かりらしきものも見当たらず、伯のこの悪戯である。

 伯は羽琶が気に入ったのか、その傍らから離れようとせず、羽琶もここから遠く離れたかつての都跡に住む末の弟のようだと、可愛がっている。

 どうせならそのまま大人しく羽琶にくっついていて欲しいくらいであったのに。

 様子が気になったのか、気まぐれか、― おそらく後者だろうが ― そんな伯の悪戯に閉口しながら、体を起こそうとしてふと、

「これは、、、」

 細く噎び泣く篠笛の・・・

 

 乳色の空の下、御簾を上げて膝を立て、瞳を閉じていた羽琶は、漆黒の篠笛から唇を離した。

 目を開くと、いつの間にか伯に袖を握られた燕倪が庭先に立っている。

「あ、邪魔を、、、」

「その笛は?」

「わたしがこの庵に隠れ住む事を決めました日に、笛を能くする一つ上の兄が不憫がってくれたのです」

 燕倪が、土足で部屋に上がり込み、煤だらけの顔の中、大きな瞳をさらに大きくして手の中の笛を見つめた。

「あの、燕倪様、、、?」

 鈍色の瞳が、羽琶を見つめると、

「あ」

 そのたおやかな手を取って、腰の太刀の柄に導く。

「ご、業丸が、、、」

 幽かに、鞘の中で震えるその太刀。

「その笛です。この業丸が申しております」

「しかし、燕倪様、この笛はけして古いものではないはずです。細工も近年の螺鈿ですし、確か、兄の気に入りの楽師より買い付けたものだと、、、」

「時として縁とは奇なもの、都守が言っていました。巡り廻って戻っても不思議はありません。しばらくそれを、お借りできませぬか?」

「それは、構いませぬが、、、」

「ありがとうございます、近日中に、必ずっ、、、あ」

 そう言ってから、今だ手を握ったままだと気がついた。

「こ、これは失礼をっ、、、ああっ」

 あたあたと縁側に下がって、更に土足だと気がついた。

 慌てて庭先に飛び出すと、赤くなって深々と頭を下げた。

 なめした鹿の皮袋に篠笛を入れると、赤い綾紐で結わえ、縁側へ。

「燕倪様、どうぞ、頭を上げてくださいませ。これを」

 その手に握らせた。

 顔を上げると、羽琶が微笑んでいた。

「羽琶殿、、、か、かたじけないっ」

 再び頭を下げると、

「戻るぞ、伯」

「う、、、」

 指を咥えて羽琶を見つめる伯。

「この礼は、いずれ日を改めて参ります」

「あの、こんな時分に都に?もう一晩、お泊りになって、明日早く御出立されれば、、、」

 頭を振った燕倪。

「友が、満月までに戻れと、そう言っておりました。おそらく時間はそう無いのでしょう。この陽気なら、雪が深くなることもありますまい。私の馬ならば今夜中には都に着くでしょうから」

「そうですか、、、」

 草履を脱ぐと、客間に置いてあった長衣を纏い、手短に足拵えを整え、少ない荷を背負って戻って来た。

 煤のついた顔もそのまま、頭を下げる精悍な顔立ちの燕倪に、急いでみずはに用意させた包みを手渡しながら、

「これは、遠野で作られた柿餅です。道中、くれぐれもお気をつけて」

「何から何まで、羽琶殿、みずは殿。お気遣い、感謝致します」

 みずはによって衣を重ね着し、足にはこの遠野の童が履く藁の長沓を履かされた伯が、もこもこして大地に膝をついた。

「まぅう」

 呻く伯を、小脇に抱える。

「では」

 馬を預けてある丘の下の富農の屋敷へ向かう背を見送って、

「お戻りになられる日を、愉しみに待っております」

 自然に口をついて出たその言葉。

 驚いて口元を押さえた羽琶の傍らで、みずはは主を優しく見つめている。

 


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